思わぬ発見-反米扇動者

米国国立公文書館には膨大な資料が保管されていますので、よく知られている資料ではない限り、必要な資料にたどり着くことは容易なことではありません。調査は検討をつけた箱を開け、資料をみて一つ一つ確認する地道な作業になります。すぐに探していた資料があった場合は良いのですが、なかなか見つからない場合は、何十箱もの資料をひたすら見ていくことになります。プロジェクトによっては、何百もの箱を開き、確認します。たくさんの資料を見ますので、興味深いものもあれば、気持ちが沈むようなもの、感動的なもの、また今の時代から見ると不思議に思えるようなものなど様々な資料に出会います。

 

最近私が見た資料の中で印象に残っているのは、 1957(昭和32)年の選挙に出馬した一人の日本人についてです。アメリカの資料では過激な反米扇動者とされていて、経歴や選挙活動、所属する組織について詳しく書かれていました。1950年代初めから区長選や衆議院選などに何度も出馬し、日本にあるアメリカの施設の排除、在日アメリカ人、親米日本人殺害を掲げていました。Anti-American Guerrilla Corps という組織を作りましたが、その組織のメンバーとされていた人たちの多くは、自分がメンバーだということを否定していたようです。

 

その中で1957年2月にダグラス・マッカーサー二世(GHQ最高司令官マッカーサーの甥)が東京の国際空港に到着した時に、襲う計画があると報告されていたことに目を引かれました。結果的には計画だけであったのか、それとも偽情報の報告だったのか、それ以上のことは分かりません。選挙では何度も落選し、投票数も一定数を満たさなかったため供託金を没収されたようです。財源は謎に包まれていましたが、彼には十分な資金があり、考えられる一番最悪なシナリオとしては、彼が金持ちの後援者を見つけてこのような活動をしている場合のようでした。(実際のところ、ウィキペディアでは政界の大物から資金の提供を受けていたと書かれています。)

 

彼が自分の信念で出馬したのか、あるいは依頼されて、選挙妨害の為に出馬をしたのかという点についてはこの資料からは分かりませんでしたが、周囲からは真面目な候補者とは思われていなかったようです。彼の主張に同調したのか、あるいは彼と何らかの繋がりがあるからなのか、彼に投票する人は数は少からず存在しました。この時代の彼の過激な主張に驚き、そして殺人のような犯罪行為を掲げて選挙に立候補できたという事実にさらに驚き、私にとって強烈な印象を残した資料でした。(NM)