硫黄島の地を踏んで

米国国立公文書館における米軍資料戦没者関係調査の実績をもとに、硫黄島日米合同慰霊祭及び日本側追悼顕彰式への参加に対するご招待を硫黄島協会から有難くいただくことになり、今年3月13日に上司とともに私は硫黄島に行く事になりました。3月12日夕方の結団式に参加、また其の後の硫黄島協会幹部の方々との夕食交流会に参加し、硫黄島協会の幹部の方々の貴重なお話を通じて、戦後から現在に至るまでの長い間、家族を見つけたい、また一体でも多くのご遺骨を家族のもとに帰してあげたいという切実な思いで、この遺骨収集事業に一生懸命関わってこられたことをあらためて学びました。

翌13日に、羽田空港から出発し、飛行機で2時間というところにある硫黄島を飛行機から見た瞬間、私はそれだけで、ついに硫黄島に来ることができたという感無量の思いでいっぱいで思わず涙してしまいました。米国公文書館にある第2次世界大戦中の米軍の記録はあくまで米軍のためのものですが、それでも其の中には、ささやかながらも日本軍に関する情報はあります。もちろん、そうした記録資料自体は報告書なのできわめて冷静または冷酷とも思える文体で書かれていますが、それでもその戦闘がいかにすさまじく凄惨をきわめたものであったかということを資料から少しでも垣間見るような思いを私達は抱いてきました。資料の中には、その原本自体は残っていませんでしたが、それでも、日本兵が残した手紙や遺書の翻訳文も記載されており、時代が異なっていれば、それらの日本兵は私達の夫や父や祖父、または息子や孫であったかもしれず、そうした彼らが、生きて帰ることはできないと覚悟しつつ、それでも、本当は生きて帰りたい、家族に会いたいと最後の最後まで家族を思いながら、亡くなったという無念の思いを考えながら関係資料を読んできました。私たちの理解はあくまで米国資料からの理解であるという限界であっても、硫黄島を実際に見たときに、自分では抑えられないような感情が一気に込み上がってきました。

飛行機からみた硫黄島

 

 

日米合同慰霊祭は、1945年当時にあった米海兵隊第3、4師団の墓地があったところからもう少し南に下った場所に建立された日米再会記念碑前で行われました。硫黄島協会の西泰徳氏(戦車第26連隊長、西竹一大佐の御子息)による追悼のことばに始まり、衆議院議員で硫黄島問題懇話会会長の逢沢一郎氏のことば、硫黄島協会顧問遺族代表新藤義孝氏(小笠原兵団及び第109師団長、栗林忠道中将のご令孫)のお手紙の、硫黄島協会副会長越後良和氏の代読、そして参議院議員で外務大臣政務官の若林健太氏のことばに続き、米国側からジョンパックストンジュニア海兵隊大将及びローレンススノードン海兵隊退役中将からのことばが続き、日米それぞれの献花が行われ慰霊祭は厳粛に終りました。

“かつての戦地、今や友好の地、昨日の敵は今日の友である”と記した日米再会記念碑

 

戦後68年目にあたるこの慰霊祭には米国側から140名、日本側から130名の参加がありました。日米両国の兵士達が68年前に死闘を繰り広げたこの地で日米両国がともに追悼し二度とあのような戦争を繰り返さないと誓い、平和への努力をしていくことを確認するという、慰霊追悼の機会はとても貴重なものであると思いました。

 

日米合同慰霊祭のあと、あらためて天山慰霊碑前で日本側のみの慰霊追悼式があり、関係者の追悼の言葉とともに参加者全員で献花を行いました。そのあと、かなり時間が限られていましたが、硫黄島協会の西会長と会計部長の原口利昭氏とともに硫黄島を案内していただきました。戦車第26連隊の壕があったところは今は蓋をしてある状態ですが、火傷をしてしまうほどの非常に熱いガスが絶えず吹き出ていました。栗林中将の兵団司令部壕の入り口は、屈まなければとても奥には進めないと思えるほど小さなものでした。海軍医務科壕は比較的大きな壕でしたが、其の中はすでに蒸し暑い状態で、そこにいるだけで汗がどんどん出てくるようなところでした。

戦車第26戦隊壕入り口

 

兵団壕入り口

 

海軍医務科壕周辺から大阪山に向かう辺りは当時かなりの岩場があったところだと思いますが、今でもそれらの岩場は部分的に残っており、私達が見てきた当時の米軍が撮った写真のイメージと重なりました。硫黄島はもちろん68年前とはかなり変わってしまいましたが、それでも所々では当時の面影を残しているところはあるのだと実感しました。また、もう少し南にいったところでは御遺骨収集がいまでも行われているところで、岩場上部に弾痕のあとがあり、その下の土を切り崩したところ、いくつかの壕が発見されたということでした。そこからさらに南へ進み、集団埋葬地跡を見学しました。現在の自衛隊滑走路(戦闘当時は日本軍の第2飛行場)の南の西側の集団埋葬地(米軍の記録では第2敵兵墓地と記載されていた墓地)はすでに発掘がほとんど完了した状態ということでした。その場所から米軍資料の記載どおりの数の御遺骨にはまだ至らなかったようですが、それでも大量のご遺骨が発見されたということで、ささやかながらも私達の調査が貢献に繋がったことは本当によかったと思いました。この埋葬地でご遺骨収集に関わった硫黄島協会の幹部の方から"夥しい数の御遺骨が折り重なっていて、他の御遺骨と交わらないように一つずつ丁寧に取り出す作業となった。“とお伺いしました。其の後、すり鉢山へ向かい、すり鉢山のふもとの埋葬地(米国の資料では第1敵兵墓地とされたところ)は滑走路西の集団埋葬地と比べると小規模なものでしたが、発掘のために其の場所は草を刈り取り平地にしたそうですが、発掘後、再び草が生え、今ではかなり背丈が高いものになっていました。すり鉢山の周辺にもたくさんの壕がありましたが、その多くは天井が崩れかかっており、そうした内部で遺骨収集を進めることは不可能であることもお伺いしました。すり鉢山への登り道は当時米軍がすり鉢山を奪取したあとで米海軍設営隊が建設したものですが、硫黄島が日本に返還され、自衛隊の管轄になっても、硫黄島の地面は熱いガスが噴出し、道路のセメントを崩してしまうということでした。

 

硫黄島北部の岩場

 

新たに土砂を切り崩して見つかった日本軍の壕

 

すり鉢山から見下ろせる硫黄島とその周りを取り囲む青い海を見ていると、一見風光明媚な場所と錯覚してしまうのですが、一方ではいたるところで地表からガスが噴出し、発見された多くの洞窟内部は今も非常に熱いもので、かなり背丈の伸びた草木の合間や岩場には日本軍の戦跡がいたるところにあります。戦闘当時の米軍の絶え間ない空爆や艦砲射撃と、それによる凄まじい爆音や壕内の激しい揺れ、地表や壕内に噴出するガスと熱、水や食料も十分ではなかった絶望的な状況の中で、必死に壮絶な戦闘を担い、亡くなった兵士の方々の思いを考えると、また生き残った兵士の方々や、ご遺族の方々のご苦労とご遺骨収集への取り組みへの思いを考えると、実に胸が痛くなる思いです。

滑走路脇の集団埋葬地跡

 

すり鉢山の集団埋葬地跡

 

すり鉢山の道路

 

今の私達が手にしている平和というものはこうした方々の犠牲に成り立っているのだということを強く感じずにはいられません。戦争を知らない世代の人間ではありますが、私達は、硫黄島の戦闘について、またあの戦争について謙虚に学び続け、平和を守り、二度とあのような戦争を起さないために、真摯な努力を私達一人一人がしていかなければならないと心に刻みました。(YN)

すり鉢山頂上にある硫黄島戦没者顕彰碑