戦後の引揚~シベリア抑留者の帰還

今年は終戦70年の節目の年になります。


戦後まもなく外国に残された日本人は軍人が353万人、一般人が約300万人の合計約660万人いたと言われています。シベリア抑留とは、第二次世界大戦でソ連軍が侵攻、占領した満州で、終戦後に投降した、もしくはソ連軍に捕らえられた、民間人を含む57万5千人の日本人がシベリアやソ連各地に送られて、過酷な強制労働を強いられた長い抑留生活の事で、5万人以上が命を落としたと言われてきました。しかし、近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州・北鮮・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がおり、その内、約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられ、研究書によっては、死亡者は25万人以上と書かれているものもあり、実際の人数は定かではないようです。また、シベリア抑留者約47万人の帰国事業は1947年から1956年にかけて行われました。


カレッジパークの米国国立公文書館には、戦後の引揚関係文書や写真が多数所蔵されています。この中で今回は、シベリア抑留者の帰還と引揚援護局に関係する文書と写真を紹介したいと思います。


下の写真は1946年9月11日に東京のソビエト大使館前で行われた、約3000人が参加したデモの様子です。夫を帰せと書いてある旗を持っている人、家族の無事と帰還を願い泣いている母や夫人が写されています。



Left: Photograph No 279651 A Crowd of Demonstrators who Marched to the Soviet Embassy Record Group111-SC   National Archives at College Park, 

College Park, MD

Right: Photograph No. 258306 Cry for the loved one Record Group111-SC   National Archives at College Park, 

College Park, MD


皇居前広場に集まったデモ参加者達の様子。

Photograph No.279649 Record Group 111-SC A crowd of Demonstrators Gathering before a truck in front of the Imperial Palace Grounds, Tokyo Japan

National Archives at College Park, College Park, MD


下の文書は1947年8月8日に極東軍の参謀長に充てた文書で、1946年12月19日に合意に至った「ソ地区引揚に関する米ソ暫定協定」についても触れています。それによると、1946年12月からすでに47万7000人がすでに帰国しており、1947年4月までで、月平均6万2000人が日本へ帰還しているなどと書かれており、その後の帰国事業の予定も書かれてあります。


RG331 EntryUD1146 Box380 Operational and Occupation Headquarters Subject File Compiled 1945-1950 Increased offer of Shipping to Repatriate Japanese, National Archives at College Park, College Park, MD


下の文書は樺太(真岡)から月に6万人、ナホトカから月に10万人の合計16万人を日本に受け入れる計画についての資料です。

受け入れ先として、函館、小樽、舞鶴、佐世保援護局が書かれており、函館は1回に7500人、最大で月3万人収容可能とあります。舞鶴引揚援護局に関しては、6000人が利用できる住居があり、月に9万人を受け入れ可能であり、シベリアからの引揚者を検問の為2日間留める事が出来ると書かれてあります。舞鶴引揚援護局は1945年から1958年まで13年間に渡り、1950年以降は国内唯一の引揚港として重要な役割を果たしました。



RG331 EntryUD1146 Box380 Operational and Occupation Headquarters Subject File Compiled 1945-1950 Increased offer of Shipping to Repatriate Japanese, National Archives at College Park, College Park, MD


下の写真は1950年1月23日付けの、ナホトカ、シベリアの収容所で約5年にわたる抑留生活を強いられた元日本兵捕虜2500人が舞鶴港へ降り立った写真です。長い抑留生活を終え、日本にやっと戻ってくる事が出来たという安堵の表情が垣間見える気がします。白い服を着ているのは看護婦さんです。

Photograph No. SC- 337419   Arrive of Japanese Repatriation

Record Group111-SC   National Archives at College Park,

College Park, MD


Photograph No.SC-337415   Arrive of Japanese Repatriation

Record Group111-SC   National Archives at College Park,

College Park, MD


Photograph No.SC-337413   Arrive of Japanese Repatriation

Record Group111-SC   National Archives at College Park,

College Park, MD


1950年1月22日(舞鶴引揚援護局内)の写真に写っている女性は1人が満州でソ連軍に捕らえられ、シベリアの捕虜キャンプへ送られました。もう1人は北朝鮮内に8年間拘束されたのち終戦間際に満州で開放され、その後満州、ソビエト連邦国境付近でスパイ容疑としてソ連軍に捕まり、最終的にカザフスタンのカラガンダの捕虜キャンプに移されたと書かれています。おそらく想像を絶するほどの苛酷で長い抑留生活だった事と思います。

Photograph No.337409 Repatriation of Two Japanese Women

Record Group111-SC   National Archives at College Park,

College Park, MD


先日厚生労働省が、戦後旧ソ連が設置した収容所などで死亡した日本人拘留者1万723名の名簿を新たに公表したというニュースがありました。

また、京都、舞鶴市はシベリア抑留や引揚げ資料等に関して「ユネスコ世界記憶遺産」に登録する取り組みを広める活動をしているそうです。


今年で戦後70年目を迎えるにあたり、戦争を再び繰り返さない為、また過去の過ちを二度と起こさない為にも、戦争の悲惨さや歴史を少しでも資料や写真を通して、戦争を知らない世代の子供達に伝えていけるといいなと思います。(SW)