スタッフ日記:米国国立公文書館から

ニチマイ米国事務所スタッフは、米国国立公文書館において資料調査を行なっています。膨大な量の資料と格闘しながら、日米の歴史に触れ、毎日新しいことを学んでいます。私達の日々のささやかな発見や小さな感動をお伝えしたく、スタッフが交代で記事を書いていきます。

沖縄戦の中の子ども達

2024年という新たな年が始まったと思ったら、すでに3月半ばを迎えてしまいました。ワシントンDC周辺の桜も、来週にはピークになると言われています。

 

一方で国際情勢を見ると、ロシアのウクライナへの侵攻は丸2年を経てもいまだに続き、ロシアの反体制活動家のアレクセイ・ナワリスイ氏が北極圏の収監先で亡くなったことも衝撃的でした。また昨年10月のパレスチナのハマスがイスラエルへの大規模な攻撃を行い、それに対してのイスラエル側の報復も現在も続いています。米国に住んでいると、同じコミュニテイーに住んでいる近所の人々、また米国国立公文書館に出入りするリサーチャーの人々、また娘の大学の友人達の中には、こうした紛争国にルーツを持つ人々も少なくないし、彼らの血縁者や友人達も今もその紛争地で生活している場合もあるので、新聞やニュースで報道されている国際情勢も決して遠くの国のことではないことを日々実感させられます。

 

究極の暴力の中で、犠牲となるのは、兵士達だけでなく、一般の市民と子ども達であり、それは、日本がかつて体験した戦争の時代と重なります。そうしたことから、今回は、あらためて沖縄戦に巻き込まれた一般の人々に関する写真の中の、特に子ども達に関する写真をいくつか紹介したいと思いました。以下の写真のいくつかは、すでにいろいろな写真集でも紹介されてきたかと思いますが、あらためて原資料を見ると、大きなインパクトがあり、私達は今後も謙虚にあの沖縄戦について学び続けなければいけないと思いました。

 


Left: Little Japanese girl approaches US lines with white flag, offering to surrender. 6/25/1945. Photo No. 370936. Box 786. RG111SC, Records of Signal Corps WWII and After photograph, National Archives in College Park, MD.  

Right: Lt. Milton B. Sorem, MC USNR, Det 86, attached to 77th Division, leads Japanese children found in cave near Shuri to safety behind American Line, Okinawa. 6/10/1945. Photo No. 208831. 6/10/1945. Album No. 2797. RG111SCA, Records of Signal Corps WWII and After photograph, Albums, National Archives in College Park, MD.  

 


Left: These Jap children were found in a tomb about 50 yards from the front lines on Okinawa. 4/23/1945. Photo No. 207319. Album No. 2796. 

Right: Dr. E.W. Edwards, Gulfport, Miss., treats badly shattered hand of child injured during fighting on Okinawa.6/21/1945. Photo No. 209001. Album No. 2797.

Both from RG111SCA, Records of Signal Corps WWII and After photograph, Albums, National Archives in College Park, MD.  

 

上段の左の写真は、「白旗の少女」としてよく知られているものです。後に、この少女であっ比嘉富子氏がのちに名乗りを上げて、小説を書き、その小説はテレビドラマになったかと思います。その右の写真は、沖縄本島の上陸部隊の一つであった米陸軍第77師団の傘下にあった海軍第86設営隊員が首里城近くの洞窟で発見した子ども達を連れている写真です。また、下段の左の写真は、米軍の戦闘の前線からかなり近くの墓で発見された子ども達、その右の写真は、小さな男の子の左手が砕けてしまい、それを米軍の外科医が手当をしている様子です。これらの写真を見ても、戦闘で親兄弟他家族を亡くし、また自らも負傷し、どれほどの恐怖に直面していたかと思うと、なんとも胸が張り裂けるような思いがこみ上げてきます。

 

1945年3月26日に慶良間諸島に上陸した米軍は、4月1日には沖縄本島の中部の読谷村に上陸し、以後3か月以上にわたって激しい戦闘が続きました。この沖縄戦は、米軍と日本軍だけでなく、沖縄の住民のすべてを巻き込んだものとなり、この戦闘で亡くなった住民は9万4000人、沖縄出身者も含めての日本軍は9万4136人、そして米軍は1万2520人と言われています。(参照:沖縄戦、沖縄県サイトより:https://www.pref.okinawa.jp/kyoiku/kodomo/1002705/1002709.html

 


Left: This small Okinawa boy stands still with a painful expression on his face as his mother washes him at the Military Government hospital for civilians at Koza. 4/15/1945. Photo No. 368365. Box 780. 

Right: Many customs of the Far East are in evidence on Okinawa. A seven year old girl is shown carrying a two month old baby on her back in ancient fashion in the Village of Nodake. 5/10/1945 (Approx). Photo No. 368390. Box 780. 

Both from RG111SC, Records of Signal Corps WWII and After photograph, National Archives in College Park, MD.  

 

左上の写真は、負傷した男の子の顔を水で母親と思われる女性が洗っている様子ですが、その男の顔や痛みをなんとか我慢しているようです。右上の写真は7歳の女の子が2カ月の赤ちゃんを背中に負ぶっています。二人の女の子たちの表情は緊張した面持ちですが、カメラをしっかり見つめており、強い意志が感じられます。

 

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戦後まもなくの水耕栽培

2024年もあっという間に2月の半ばを迎えてしまいました。まだ寒い日もありますが、庭のふきのとうも芽を出し、少しずつ春が近づいているのを感じます。そろそろ裏庭での家庭菜園について何を育てるか、種を買うか、苗を買うかも含めていろいろ考えなくてはいけない時期になってきました。基本的には、私の家の家庭菜園は、土を使う、土耕栽培です。が、近年では、世界的には、土の代わりに、水と養液(液体肥料)を使い、野菜を育てるという、水耕栽培が、広く知られつつあるようです。そうした水耕栽培に適する葉野菜、適さない根菜などの違いもあると思いますが、そうした水耕栽培についても、もっと知りたいと思うようになりました。

 

水耕栽培は、古代のエジプトや、イラン、中国、そして南米でも存在していたようですが、現代の水耕栽培の技術の確立の最初のきっかけとなったのは、19世紀半ばに活躍した、ユリウス・フォン・ザックス(Julius von Sachs: 1832-1897)というドイツの植物生理学者が、植物の成長によって必要な栄養素(窒素(N)、リン酸(P)、カリウム(K)、マグネシウム(Mg)、S(硫黄)、Fe(鉄)など)を特定し、水耕栽培を使っての実験と研究を行ったことでした。(参照: “Plant sulfur nutrition: From Sachs to Big Data”  Stanislav Kopriva, Plant & Signaling Behavior, Vol. 10, Issue 9, 2015:https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/15592324.2015.1055436

 

そして、1930年代には、アメリカ人でカリフォルニア大学の植物生理学の教授であったウイリアム・フレドリック・ゲーリッケ(William Frederick Gericke:1882-1970)が、ギリシャ語で水を意味するハイドロ(hydro)と、働きを意味するポノス(ponos)を組み合わせて、水の働き、つまり、水耕栽培を意味するハイドロポニクス(hydroponics)として、その本格的な研究を行い、できるだけ早く、かつたくさんの植物や野菜を育てることを目指しました。

 

William Frederick Gericke (b. 1882), plant nutritionist, University of California, and pioneer in hydroponic agriculture; he is credited with coining the term "hydroponics." William Frederick Gericke (b. 1882). Smithsonian Institution  

Archives, Accession 90-105, Science Service Records, Image No. SIA2008-1880. https://siarchives.si.edu/collections/siris_arc_383353

 

上の写真は、ウイリアム・フレドリック・ゲーリッケの写真です。彼についてのさらなる情報は、オーストラリアの水耕栽培を行っている会社のサイトに掲載されており、また彼の当時の実験の成果が映されている動画の紹介もしていますので是非ご覧ください。その映像にはたくさんのトマトができていることもよくわかります。(参照: William F. Gericke | the inventor of hydroponics on 8/29/2023: https://gathera.com/blogs/learn/william-f-gericke-the-inventor-of-hydroponics?_pos=1&_sid=734d1b051&_ss=r )

 

ゲーリッケの研究と実績は、その後の社会にも大きな影響を与えることになりました。その後、第2次世界大戦が不幸にも勃発することになりましたが、大西洋を含むヨーロッパ戦線と大平洋戦線の島々においては、野菜の輸送は困難でもあるため、各地に駐屯する部隊にとって、そうした野菜作りが必要になりました。そうした島によっては、火山灰地層のため、土耕では無理なために、水耕栽培体制を整備するところもありました。

 

Hydroponics Garden in the Ascension Islands. Before 6/26/1945. Photo No. 342-FH-3A00570-A57779AC. RG342, Records of U.S. Air Force Commands, Activities, and Organizations 1900-2003, Photographs of Activities, Facilities and Personnel, ca. 1940 – ca. 1983. NAID: 204828768. National Archives in College Park, MD. https://catalog.archives.gov/id/204828768

 

Personnel Pose In Back Of A Display Of Produce Grown In The Hydroponics Garden On Ascension Island. 5/4/1945. 342-FH-3A00588-73742AC. RG342, Records of U.S. Air Force Commands, Activities, and Organizations 1900-2003, Photographs of Activities, Facilities and Personnel, ca. 1940 – ca. 1983. NAID: 204828821. National Archives in College Park, MD. https://catalog.archives.gov/id/204828821

 

上記の2枚の写真は、アフリカ大陸と南米大陸の間の大西洋上にあるアセンション島(Ascension Islandのワイドアウェーク飛行場(Wideawake Airfield)を拠点にしていた、米陸軍航空隊のメンバーが水耕栽培を行っているところとそこからの収穫を前にメンバーがそろって写真を撮っているところのものです。この島での水耕栽培は、米軍が、火山岩を砕いたものを培地として使った、最初の大規模な水耕栽培の1つでした。

 

このアセンション島は、現在イギリス領ですが、そこにある飛行場は、アセンション島補助飛行場(Ascension Island Auxiliary Field)として、イギリス空軍とアメリカ宇宙軍との共同基地になっており、アメリカ軍側には、アメリカ国内で発射されたロケットの地上追跡部隊がいます。現在でもこの島の水耕栽培は続けられていて、コストを抑えるだけでなく、駐屯する兵士達のニーズに応え、栄養価を維持していると言われています。(参照: Ascension Island's hydroponics lab is revitalizing life on the volcanic island:US Air Force Academy News 9/29/2019: https://www.usafa.af.mil/News/Article/1973447/ascension-islands-hydroponics-lab-is-

revitalizing-life-on-the-volcanic-island/

 

第2次世界大戦は終結し、日本は敗戦を迎え、占領軍による間接統治の時代に入りました。占領軍は、戦後まもなくの日本社会の衛生状況からDDT散布を通じて徹底的な消毒対策を行い、またいわゆる下肥(しもごえ)や屎尿(しにょう)を肥料として使っていた日本のそれまでの農業の在り方も批判をしていました。(参考:環境省:し尿処理技術・システムに関するアーカイブズ作成業務報告書、第 1 章 収集・運搬及び前処理技術・システム:https://www.env.go.jp/content/900536248.pdf

 

占領軍が、日本で水耕栽培を行ったのは、上記の理由はもちろんあると思いますが、日本の占領にあたっては大量の占領軍兵士が駐屯することになるので、そうした兵士の食料への早急な対応としても、水耕栽培で、より早く、より大量に野菜を生産する必要があったと思います。この占領軍による水耕栽培は、東京にあった、元日本陸軍の調布飛行場の一部と、滋賀県大津市にあった元日本海軍の大津飛行場の敷地を使って行われることになりました。

 

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アジア美術博物館の1つであるフリーア・ギャラリー

新年早々、能登半島の大地震、そして羽田空港での民間機と海上保安庁の飛行機との衝突事故と

いう大惨事が起こり、犠牲になられた方々には心より深くご冥福をお祈り申し上げます。また、今も大変な困難な状態にある被災者の方々にも心よりお見舞いを申し上げます。

 

ワシントンDCのスミソニアン博物館群には、ホロコースト博物館、航空宇宙博物館、ナショナル・ギャラリー(美術館)、アメリカ歴史博物館、アメリカ自然史博物館、アジア美術博物館、アメリカ・インデアン博物館、アフリカン・アメリカン博物館があり、どの施設も見ごたえのある素晴らしい展示会場になっています。

 

今回は、それらの中の、アジア美術博物館(National Museum of Asian Art)を構成する2つのコレクションである、フリーア・ギャラリー(Fleer Gallery of Art) とサックラー・ギャラリー(Arther M. Sackler Gallery)のうち、昨年、創立100年を迎えた、フリーア・ギャラリーと先日見てきた展示の一部についてご紹介をしたいと思います。


 

チャールズ・ラング・フリーア(Charles Lang Freer: 1854-1919)は、ニューヨーク州のキングストンという町に生まれましたが、中学生のときに母が亡くなり、父は病気がちであったことから、学校をやめて地元のセメント工場で働き始めました。その後鉄道会社での経験を積んだあと、デトロイトに移り、鉄道車両を作る会社を作り、たたき上げの実業家として、巨万の富を築くことになりました。

 

彼は、当時のヨーロッパで活躍していたアメリカの画家のジェームズ・マクニール・ホイッスラー(James McNeill Whistler: 1834-1903)の作品とその本人との出会いを通じて、アジアの美術に対して深い関心を持つようになり、コレクターとして精力的に活動するようになりました。ホイッスラーは、当時のイギリスのジャポニズム(江戸時代末期の開国によって日本の美術品が欧米に出回ることになり、欧米の芸術家たちが、その表現方法を取り入れた。)に早くから影響を受けており、そうしたホイッスラーとの出会いが、フリーアを日本美術を含むアジア芸術に開眼させることになりました。フリーアは自分で収集したコレクションをのちに、スミソニアン協会に寄贈し、そのコレクションをもとに、1923年にフリーア美術館ができました。(参考:フリーア美術館(米国ワシントンDC) 門外不出の日本美術の宝庫:https://archive.asia.si.edu/press/downloads/FactSheet_FreerSackler-JP.pdf)フリーア・ギャラリーとサックラー・ギャラリーを合わせてアジア美術博物館としては、現在46,000以上の美術品があります。(参考:National Museum of Asian Art: https://asia.si.edu/about/#:~:text=We%20hold%20in%20trust%20for,works%20from%20the%20Aesthetic%20Movement.)

 

Top: Tawaraya Sotatsu (act. ca. 1603-1643) Screes with Scattered Fans. Japan, Edo period, early 17th century. Color, gold, and silver over gold on paper. F1902.24.

Bottom: Tawaraya Sotatsu (act. ca. 1603-1643). Mimosa tree, poppies and other summer flowers. Japan, Edo period, 1630s-1670s. Six panel folding screen; ink, color, and gold on paper. F1902.92

 

現在、開催されている日本関係の展示の1つは、「琳派」(りんぱ)の屏風絵です。、「琳派」とは、江戸時代初期の俵屋宗達(1603?-1643?)をはじめ都市、中期には尾形光琳(1658-1716)、後期には、酒井抱一といった画家に受け継がれた、金箔や銀箔を背景に使った大胆な構図、また模様を繰り返していくような作風を特徴としています。上の2つの作品は、俵屋宗達の「扇面散図屏風」と合歓木芥子図屏風」です。展示室内は、照明を抑えており、もちろんフラッシュ撮影はできませんので、写真は暗めになっていますが、それでも豪華絢爛な雰囲気で、これらの屏風図の前に立つと圧倒させられる思いになります。

 


Left: Sutra Container with Cover. Japan, Nara period, 724. Gilt bronze. F1909.253AB. 

Right: Horokaku Mandara. Japan, 12th century. Color and gold on silk panel. F1929. 2a-c. 

 

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戦後の選挙のポスター

東京のある地域に関する資料調査のために、該当地域の地図資料が入っている箱を見ていたときに、たまたま目にしたフォルダーの中に、とても面白い資料を見つけました。なので、今回は、それらの資料を紹介したいと思います。

 

太平洋戦争の敗戦を迎えて、日本は、マッカーサーを最高司令官とする連合国軍が日本に入り、間接統治の時代に入りました。これまでの軍国主義を排除し、政治、経済、社会の民主化が推進されました。そうした中でそれまで制限されていた選挙も、改正され、すべての満20歳以上の男女が、参政権を持てるようになりました。戦後初めての総選挙―衆議院選挙は、1946年4月10日に行われ、翌年の1947年4月20日には最初の参議院選挙が行われました。

 

上の資料は、1950年(昭和50年)の第2回参議院選挙を6月4日に控えて、選挙に投票を呼び掛ける山梨県選挙管理委員会と調査弘報課と呼ばれる部署が作った選挙推進ポスターです。このポスターには、こんなことが書かれています。(この記事に掲載した資料はすべて一つのフォルダーからのものですのでその情報は、最後に述べます。)

 

「あなたの生活面は、ドレもコレも政治という大きな手で支配されている。税金も、住宅も、教育も、賃金も、景気・不景気も、食料も、衣料も、ドレもコレも政治という手で支配されている。あなた方が、この手を支配するのです。新憲法下での民主政治では、あなた方が自分の代表を選んで、あなた方の希望通りの政治を執るのです。あなた方は、諸々の候補者、征討、県ではその業績背景に至るまで注意を怠ってはなりません。真に民衆の利益になるように政治を執る人を選び、自己本位に政治を執ったり、民衆を煽動したりしる人を排撃すべきです。常にあなた方の代表者の行動を監視せねばなりません。」

 

戦前及び戦時中の日本の在り方を反省し、これからは民主主義の世の中を作っていくのだという前向きな、かつ熱意を感じさせるようなポスターだと思います。主権者である国民が、自分たちの意思を政治に反映させるために、行われる選挙は、民主主義社会において、もっとも重要でかつ基本のものであるはずです。

 

それは現在の私達にとっても、選挙を通じて国民の意思を反映させること、よりよい社会にしていく上で、本当に大事なことであり、同時に候補者も、選挙の重みをしっかり認識して、国民のためによりよい政治と社会を目指してすべてに真摯に取り組まなければいけないと思います。そうしたことを、あらためて思い起こさせるようなポスターの1つであると思います。

 

上のこのポスターもとても面白いです。当時の候補者は、該当での立会い演説会や、ラジオ、新聞や選挙公報などを通じて、それぞれの首長や公約を国民に訴えていたかと思います。が、口先やうわべの、または見せかけの印象だけで選ぶと、実はその候補者は、お金の札束でなんでもしようとするような不適格な人物であるかもしれないので、選挙をする国民は、良い候補者を選ぶために、よく調べることが大事であると、全国の選挙管理員会(都道府県市町村選挙管理委員会)が呼び掛けています。

 

こうしたことは、本来至極当たり前のことだと思うのですが、現代に生きる私達にとっては、とても新鮮であり、斬新であると思えてしまいます。

 


上の左側のポスターは、選挙で選ぶ候補者は、「脅迫、買収、馳走、情実(個人的な利益や感情によって公正さを欠かす)、縁故」にとらわれて行動するような人物ではなく、「国民の声を政治に活かす人、公約を忠実に実行する人、識見人格の高い人、正直で信頼できる人、国民の福祉を常に考えている人」であるべきだとしています。

 

下のポスターは、衆議院と参議院の権限と役割、任期や、地方選出と全国選出などについての説明をし、また選挙権や、不在者投票制度などについても質問をしているものです。


 

こんなものもありました。下の資料は、当時の数枚にわたる候補者名簿のうちの1枚です。当時の政党の自由党、緑風会、日本社会党、日本共産党、無所属、国民民主党、労働者農民党、親米博愛勤労党、宮城県開拓者連盟といった政党名が見えます。

 

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フォード・モータースの自動車

1930年代のアメリカの飛行機関係情報の映像資料を追っていたときに、たまたまフォード・モータース関係の映像があることに気づきました。今回は、そうした動画や写真をご紹介したいと思います。

 

フォード・モータースの創始者であるヘンリー・フォード (Henry Ford: 7/30/1863-4/7/1947)は、ミシガン州のデトロイト郊外ので農業を営む両親のもとに生まれました。が、農業を継ぐことになく、機械工としての経験を積み、1891年には エジソン電灯会社で働くようになりました。下の写真は、ヘンリー・フォードが、1893年にガソリンエンジンの自動車を動かしている写真です。

 

 

First Car: Henry Ford in Car First Run in 1893. This was the second gasoline automobile. Original caption: From opp. P. 18. The Romance of the Automobile Industry, by James Rood Dolittle, New York 1916. Photo No. 30-N-48-80. Box 233. Record Group 30, Records of the Bureau of Public Roads 1892 – 1972, Series Historical Photograph Files 1896-1963, Transportation-Motor Vehicles-Historic. National Archives in College Park, MD. NAID:  234118011. https://catalog.archives.gov/id/234118011

 

1896年には、彼が尊敬する, 発明王であったトーマス・エジソン (Thomas Edison: 2/11/1847-10/18/1931)に出会って生涯の友人となりました。エジソンは、すでに電話や蓄音機、また電球や発電機などをすでに発明していましたが、ガソリン自動車の話を熱っぽく語るフォードに歓喜し、フォードとエジソンは年齢差を超えて生涯の友人となったと言われています。

 


Left:Edison and Ford in a friendly chat. Thomas Edison and Henry Ford seated on pier. C1925. No. 2002706619. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2002706619/

Right: Henry Ford and Thomas A. Edison. Ca. 1930. No. 2016818175. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2016818175/ 

 

1903年にはフォード・モーター会社を設立し、分業によって部品を生産し、組み立てていく大量生産を開始しました。その10年後には、ベルトコンベアを導入し、短時間でかつ大量の自動車生産が可能となり、その結果、価格を低下させたので、自動車は、一気に大衆化することになりました。下の写真は、工場内のベルトコンベアの様子です。

 

[Factory workers on assembly line for bearings]

Detroit Publishing Co., publisher. 1924 April 29. No. 2016817039. 

Possibly made for Ford Motor Company automobile industry. Library of Congress, Washington, DC. 

https://www.loc.gov/item/2016817039/

 

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イタリアのカプローニの飛行機

もう10年ほど前の映画になりますが、皆さんは、宮崎駿氏の「風立ちぬ」の映画をご覧になったことがありますか。飛行機に憧れていた主人公の堀越二郎は、自分の夢に出てきた飛行機の設計技術者のイタリア人のカプローニにも励まされて、自分も飛行機の設計技術者になって情熱を注いていく話を中心に、里見菜穂子との出会いと別れ、そして戦争の時代に翻弄されていく姿を描いたもので、とても印象深い映画であったと思います。

 

たまたまある飛行機関係の調査をしていたときに、そのイタリア人のカプローニが設計した飛行機に関する写真を目にしましたので、今回はそれらの写真をご紹介したいと思います。

 

ジャンニ(ジョヴァンニ)・バッティスタ・カプローニ:Gianni (Giovanni) Battista Caproni 、7/3/1886-10/27/1957 は、イタリアの航空技術者及び航空設計者として、また航空機製造会社を作った人物としてよく知られています。

 

下の写真は、議会図書館のサイトから見つけたものです。真ん中のひげをつけた人物がカプローニです。

 

Caproni & his plane: Photograph shows Giovanni Battista Caproni (1886-1957), an Italian aeronautical engineer and founder of the Caproni aircraft manufacturing company with group of people in front of "The Caproni Flight", an enormous triplane bomber N531.7/29/1918. (Source: Flickr Commons project, 2016) Digital ID: ggbain 27306. https://www.loc.gov/resource/ggbain.27306/

 

Caproni and his giant triplane: Signor G. Caproni with British, Italian, and American officers grouped in front of the great triplane. No. 65 WW 435-P1898. Received on 10/8/1918. RG 165 Records of the War Department General and Special Staffs, Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, Personnel - P1800 through P1899, Box 435. National Archives, College Park, MD. https://catalog.archives.gov/id/45534078 

 

上の写真も、最初の写真と同じ日の1918年7月29日に撮影されたものだと思われますが、米国の戦争省が受け取ったのは1918年同年の10月の8日のことでした。こちらの写真には、カプローニと並んでいるのは、イギリス、イタリア、アメリカの将校達であったことが記されています。カプローニは、この第1次世界大戦においてもたくさんの爆撃機や輸送機を生産しました。アメリカ合衆国としても、カプローニの爆撃機を購入したり、いろいろな実験用に使ったりしていました。

 

1914年6月28日に起こったサラエボ事件(オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者夫妻がボスニア系セルビア人青年によって暗殺された。)をきかっけにして、オーストリア側は、セルビアに宣戦布告をしました。セルビアを支援するために参戦したロシアとともに、当時ロシアと三国協商を結んでいたイギリスやフランスも参戦となりました。日本も、日英同盟の関係から、参戦をしました。アメリカ合衆国も当初は中立を保っていましたが、1917年の4月に参戦することになりました。これらは連合国とも呼ばれました。一方オーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を結んでいたドイツは、オーストリア側を支援するために参戦をしました。この三国同盟にはイタリアも入っていましたが、イタリアは、この時は参戦することはなく、1915年4月に密かにイギリス、フランス、ロシアとロンドン秘密条約を結び、その後三国同盟の破棄を宣言してから、連合軍側とともに、ドイツとオーストラリアと戦いました。

 

米国国立公文書館には、当時のカプローニ社が製造した爆撃機や輸送機などの写真がたくさんあります。

 



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戦後まもなくの防犯雑誌と警察

すでに2023年もあと約3か月となってしまいました。あの騒然としたコロナ禍から 米国はかなり落ち着いてきましたが、相変わらず物価高は続き、また、車の部品や車そのものを盗むようなカージャック他の犯罪や、車のスピードや赤信号無視などによる交通事故の多発などを 見聞きをすることが多くなってきました。

 

そんな中で、たまたま戦後の防犯雑誌を目にしましたので、今回は、その防犯雑誌と、関連して当時の日本の警察についての写真を紹介したいと思います。

 

下記は、1948年9月に第1巻2号の防犯雑誌、蜘蛛(1948年7月創刊) というものです。発行所は、警視庁刑事部内の東京部防犯協会連合会となっています。表紙が、美しい女性の顔であり、その背後に蜘蛛の巣が張っているという絵になっていますが、表紙をめくると、表紙のイメージと異なり、いろいろな活動をする、「海上Gメンの先駆、東京水上警察」の写真や、「愛情の花ひらく」として女性警察官の写真があり、そのあとは、「世の母に訴う:青少年の犯罪をいかに防ぐか」というテーマでの座談会の記事が続きます。

 



Above all: Bohan Zasshi Kumo. RG331UD1136 Box 302 RG331, Records of Allied Operational and Occupation Headquarters, World War II, Entry UD1136, Box 302. 

 

この座談会は、警察関係者だけではなく、法律、教育、政治の分野からの専門家や評論家によるもので、青少年の犯罪は、家庭教育の欠如、営利目的だけに出版された有害な出版物、政治の貧困、そしてインフレにおる経済会の混乱などの問題から起きているとしていました。そうしたことも確かにあったと思いますが、あの戦争で、両親を失い、孤児や浮浪児となった子ども達や若者達も多かったし、頼るべき人間がいなかった状況で、生き延びていくために何でもしなければならなかったという追い込まれた現実も非常に厳しかったのではないかとも思いました。

 

中身は楽しいというものではないので、表紙を魅力的またはミステリアスな雰囲気にして、多くの人々に手にとって読んでもらいたいといった出版する側の意図があったのかもしれないと思いました。当時はまだテレビや電話もありませんでしたので、こうした雑誌は、新聞、ニュース映画や、本や漫画などとともに、情報を提供する手段としても、非常に重要であったと思います。

 

たまたまこの雑誌を目にしたことをきっかけに、当時の警察官についての写真も調べたくなりました。都心の交通整理はもちろん、いろいろな犯罪者の逮捕や取り調べ、闇市の調査、いろいろなデモ活動の監視や暴力的行為への取り締まり、拳銃の取り扱い他のトレーニングなど、多岐にわたる写真がありました。ここですべてを紹介することはできませんが、それでもそれらの写真から当時の世相を垣間見ることができると思います。

 



上記の4枚の写真は、東京の写真です。交通事故を最小限に抑え、交通がスムーズになるように日本の警察官と占領軍の陸軍憲兵(MP: Military Police)が協力して活動をしました。興味深いのは、米軍が車を使い、日本の人々は、トラック他の車を使う人々もいましたが、それよりも自転車や牛にひかせたリヤカーも使っていて、彼らも同じ道路を使っていたということです。また当時はガソリンが十分でなかったので、石炭を燃やして車を動かしていましたが、時々ガスを溜めるためにしばらく止まらなければならず、それは時々深刻な交通渋滞を招くことになりました。

 

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米国国立公文書館にある原爆関係の写真資料

広島と長崎への原爆投下から78年目の夏を迎えました。昨年2月24日に起こったロシアによるウクライナ侵攻は、ロシアの核兵器の威嚇とともに、現在も続いており、「ノーモア、ヒロシマ、ノーモア ナガサキ」という言葉に託された、この世界から、核兵器を廃絶するという切実な願いからは、はるかにかけ離れている現実に、私達は絶望的な思いをしてしまうこともしばしばです。それでも、私達は、原爆体験を含めてあの戦争体験を学び続け、いろいろな形で未来に残していく努力をしていかなければならないと思っています。

 

米国国立公文書館には、原爆製造計画であったマンハッタン計画の始まりから関係施設の建設と整備、原爆投下準備までの一連の流れ、原子爆弾投下当日、そして、投下後の人的、物的被害に関するレポート、戦後の原爆及び水爆実験など多岐にわたる内容の、膨大な資料が、存在します。しかも、それらは、たくさんの資料群(レコード・グループ:RG)に分かれており、かつ、それらの資料は、テキスト、マイクロフィルム、写真、そしてフィルムなどのいろいろな媒体資料でもあります。以前、日本の関係資料館のためにも資料調査及び収集をしたことも何度かありましたが、今回は、ほんの一部ですが、写真資料のいくつかをご紹介したいと思います。以下は、米空軍(写真を撮影した当初は、米陸軍空軍部隊でした。)による、カラーの写真です。上段が広島で、下段が長崎です。 

 


Left: General view of Hiroshima Japan as seen from vicinity of “Zero,” above complete devastation as result of atomic bombing. March 1946. Photo No. 3A-49430. Box 201. 

Right: General view of the city of Hiroshima, Japan, showing damage wrought by atomic bombing. March 1946. Photo No. 3A-49431. Box 201. 

 


Left: General view shows atomic bomb damage of a portion of Nagasaki, Japan as seen from a hillside opposite the Nagasaki Hospital. In the far background may be seen the Mitsubishi Steel Works. October 1945. Photo No. 3A-49432. Box 201. 

Right: View of wrecked and rusted Japanese machinery at Nagasaki, Japan. October 1945. Photo No. 3A-49437. Box 201. All of 4 photos from Record Group 342 (Records of U.S. Air Force Commands, Activities, and Organizations) 1900-2003. National Archives in College Park, MD.  

 

以下の写真には、当時長崎医科大学(現、長崎大学医学部)の放射線治療の専門家であった永井隆博士が、映っています。彼は、1945年8月9日の被爆時に、爆心地から、約700メートル離れたところにあった長崎医科大学で仕事をしていました。頭部及び半身に重傷を負いながらも、永井博士は、自他の被爆者の人々の救援活動に従事しました。彼の妻は、自宅の台所で被爆し、骨片しか見つからないような惨い形で亡くなりました。

 

Above: Shown is Dr. Nagai, Medical Instructor and Z-Ray specialist at Nagasaki Medical, a victim of atomic radiation caused by the bomb. A few days after this photo was made the victim passed away. Scene is near hillside which leads to Prison. Nagasaki, Japan. 9/8/1945. Photo No. 3A-49434. Box 201.  Record Group 342 (Records of U.S. Air Force Commands, Activities, and Organizations) 1900-2003.

 

上記の写真のキャプションには、この写真が撮影された数日後に、永井博士は亡くなったとされていますが、それは完全な誤りです。永井博士は、9月に入ってから、体調を崩し、一時は傷口からの出血も止まらず昏睡状態を繰り返し、危篤状態まで行ったので、その情報をもとに、当時の米軍はキャプションに書いたのだと思います。しかしながら、その後、博士はその危機的状況から奇跡的に脱出し、引き続き闘病生活をしながらも、被爆者の救援活動をしたり、研究及び執筆活動を続け、1951年の5月1日に43歳という若さで亡くなりました。(参照:長崎市永井隆記念館サイト:https://nagaitakashi.nagasakipeace.jp/japanese/stories/1.html )

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ワシントンDCの米国国立郵便博物館

ワシントンDC周辺にはもう20年以上住んでいるのですが、米国国立郵便博物館には残念ながら、これまで訪れる機会を持つことができませんでした。先日、米国国立議会図書館での資料調査を終了したあとに、そこに行ってみることにしました。今回は、この博物館のご紹介をしたいと思います。

 

米国国立郵便博物館は、地下鉄レッドラインのユニオン・ステイション駅のすぐ隣にあります。この駅は、アムトラック鉄道の駅でもあるため、いつも多くの人で賑わっています。、コロナ禍で一時的に大きな打撃を受けましたが、現在では、構内の一部も変わり、新しい飲食店も増えました。このユニオン・ステイション駅の外に出て、駅を背にしてすぐ右側にこの郵便博物館があります。

 



右上のポストカードは、1914年に この建物が建設されたときの絵であり、この建物は、同年から1986年まで、ワシントンDCの郵便局として使われていました。その後、スミソニアン博物館と米国郵便公社(United States Postal Service)との協議及び同意をへて1993年に米国国立郵便博物館としてオープンして、現在に至っています。残りの3枚の写真は、現在の博物館の入り口と、その中の様子です。

 

アメリカ合衆国の郵便制度の始まりは、独立戦争(4/19/1775-9/3/1783) が始まった直後の7月26日の第2回大陸会議において決定され、その初代郵政長官に、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)が任命されました。アメリカ合衆国として正式にイギリスから独立をするのは、この1年後の事でした。政治家や外交官また科学者としても知られるベンジャミン・フランクリンは、アメリカ合衆国建国の父の一人としてよく知られていますが、彼はもともと印刷業を担い、新聞を発行していました。発行した新聞を郵便を通じて広く配布することができるという、印刷業と郵便業がすでに密接なつながりを持っており、フィラデルフィアでは、すでに郵便局長としての実績も持っていました。独立戦争がはじまり、イギリスと本格的に戦うことになり、議会と各戦場で戦う部隊との命令や指揮を含めてコミュニケーションが非常に重要になりました。また、それを支えるアメリカ合衆国側の人々の家族や親戚や友人同士のコミュニケーション(戦場にいる兵士と遠く離れたところに住んでいた家族、親戚や友人他)も同時に重要であり、イギリスから何としても独立を勝ち取るためには、アメリカ合衆国内部の通信制度を整備しなければなりませんでした。その後、アメリカ合衆国の郵便制度は、都市の形成や、人々の移動や移住、さらには、海外からの移住、またそれらを支える鉄道や船の発展、そして飛行機の登場など国家としての近代化の過程の中で、飛躍的に拡大し、整備されていきました。

 

1775年から開始されたアメリカ合衆国の郵便事業は、その後改革の必要性に迫られ、1971年に独立行政機関としての米国郵政公社(United States Postal Service: USPS)となり、現在に至っています。

 


左上の写真は、現在の米国郵政公社が出版した、アメリカ合衆国の郵便の歴史をまとめた、“The United States Postal Service: An American History” (https://about.usps.com/publications/pub100.pdf :162pages.) の表紙であり、右上の写真は、この博物館サイトの歴史の、”History of the Smithsonian National Postal Museum” (https://postalmuseum.si.edu/history-of-the-smithsonian-national-postal-museum)という画面ページで、動画を交えて説明されています。

 

この博物館の入り口の階には、まず、ウィリアム・H ・グロス スタンプ コレクション(William H Gross stamp collection)という展示室があります。彼は、著名な投資家ですが、同時に切手収集家としてもよく知られています。ここでは、切手の歴史や印刷技術また切手の種類や世界の切手について知ることができるようになっています。

 



上段の3枚は、その展示の入り口と切手展示や切手の印刷機です。下段の左は、1847年に発行された米国の普通切手で5セント切手はベンジャミン・フランクリンの顔で、10セントは、初代大統領のジョージ・ワシントンの顔になっています。右は、第一次世界大戦期のアメリカ合衆国を代表する航空機のカーチスJN-4という飛行機(愛称:ジェニー)の1918年の切手ですが、100枚ずつ印刷された切手シートのうち、1枚のシートだけなぜか逆さまになってしまい、それが「エラー切手」として非常に価値のあるものとして知られるようになり、「宙返り24セント」("Inverted Jenny")と呼ばれています。

 

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米海兵隊の写真の中の子ども達

ある調査の関係で、戦後まもなくの九州関係の写真を追っていたときに、子ども達にカメラを向けたときの写真とそのキャプションが目に留まりました。子ども達がとても頼もしく見えて、面白い写真だと思いましたので、今回は、そうした写真のいくつかをご紹介したいと思います。

 


Left: This little five-year-old had no fear for Marines occupying the naval base at Sasebo. 

Sasebo, Japan. 10/16/45. No. 137677. Box 102. 

Right: Japanese tots also have dolls as play toys. But this brother, center, and sister team, with their grandmother beside a concreate mixer on a rural road near Yokosuka, play dolls in an entirely different manner than American children. Yokosuka, Japan. 12/10/1945. No. 138831. Box 102. 

From 127GW 1525. RG 127GW (Records of the US Marine Corps Prints: Marine Corps Activities during WWII, 1941-1958). National Archives at College Park, MD.

 

左上の写真の、5歳の男の子が、米軍海兵隊兵士を見ても恐れることなく、ポケットに手を突っ込んでカメラに向かって微笑んでいる姿はなんとも堂々としたもので、海兵隊兵士もちょっと驚いていたようです。右上の写真は、人形を背中におぶっている姉をまねて幼い弟も人形を背中におぶっている姿は、米国の人形の遊び方とかなり異なるとキャプションに書かれていますが、こうしたコメントも日米の文化の差が出ていてとても面白いと思いました。

 


Left:”Japan Today.” Mother and child in squalor of the bombed area. No. 148294. Box 103. 

Right: A Japanese baby in her father’s arms. Sasebo, Japan. September 1945. No. 139147 Box 102. 

1941-1958) Box 102.

From 127GW 1525. RG 127GW (Records of the US Marine Corps Prints: Marine Corps Activities during WWII, 1941-1958). National Archives at College Park, MD. 

 

日本関係の写真の中には、母親が子どもをおんぶしていたり、抱っこをしていたりする写真はたくさんありますが、父親が子どもを抱いている写真というものはこれまで見たことがありませんでした。子どもも父親も笑っている姿は、戦争がようやく本当に終わったのだという安堵感に満ちているようです。

 


Left: Apparently not that war is over, Japanese children in Sasebo stare at an American plane overhead. Marine, assured them that no more bombs would be dropped. Sasebo, Japan. 9/23/1945. No. 139964. Box 102. 

Right: This group of Japanese children depict the contrast of color found in wearing apparel in exotic Japan. The Eastern style of dress—picturesque kimonos with wooden sandals is predominant, however, the more modern style is rapidly gaining. Yokosuka, Japan. 01/05/1946. No. 139267. Box 102. 

From 127GW 1525. RG 127GW (Records of the US Marine Corps Prints: Marine Corps Activities during WWII, 1941-1958). National Archives at College Park, MD. 

 

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アメリカのチョコレート会社の歴史

アメリカのお菓子は、日本の多様で豊富なお菓子と比べると量的にも質的にも限られるかもしれませんが、アメリカのお菓子の中で、一番人気のあるチョコレートに関する資料をご紹介したいと思います。

 

アメリカのチョコレートというとハーシー・チョコレート (Hershey Chocolate) をまず思い浮かべてしまうのですが、一番古いアメリカのチョコレート会社は、ベイカーズ・チョコレート(Baker’s Chocolate)です。もともとジョン・ハノン(John Hannon)と医者であったジェームズ・ベイカー(James Baker)が、マサチューセッツ州のドーチェスター(Dorchester)で、カカオ豆を輸入してチョコレートを1764年に作り始めました。が、このハノンは、1779年に豆を調達に船で出たあと戻らず、未亡人となった彼の妻が、ジェイムズ・ベイカーに会社を売ることになり、その会社は、1780年にベイカーズ・チョコレートとなりました。ジェイムズ・ベイカーの孫のウオルター(Walter)は、会社名をウオルター・ベイカーとして、ビジネスを発展させました。さらに大きく発展することになったのは、この会社に当初クラークとして雇われ、その後マネージャーとなった、ヘンリー L. ピアース(Henry L. Pierce)という人物の功績があったと言われています。彼は、ボストン市長にもなった人物ですが、アメリカ国内だけでなく海外での販売を目指し、この会社の売り上げを飛躍的に伸ばしました。(参照:How a chance encounter created America’s first chocolate mill:Baker Chocolate Company is Lower Mills is home to America's first chocolate mill. David Roster, 1/31/2022 from Very Local: https://www.verylocal.com/how-a-chance-encounter-created-americas-first-chocolate-mill/20906/ )

 

下記は、その会社のトレードマークの画像です。20世紀に入ってから、この会社はシリアル会社に合併されましたが、1995年以降は、クラフト食品(Kraft Foods)に、2015年からは、クラフト・ハインツ会社(Kraft Heinz)に合併されましたが、そのブランドは今も生き続けています。

 


Left: Walter Baker and Company Chocolate trademark. RG36 Records of the US Customs Service 1745-1997 Series Letters Received Transmitting Trademarks, 1890-1899. National Archives, College Park, MD. NAID Number: 4734503. https://catalog.archives.gov/id/4734503

 

Right: Trademark registration by H. L. Pierce for W. Baker & Co's brand French Sweet Chocolate. 6/12/1882. TRADEMARKS, no. 9488 [P&P] Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/resource/trmk.1t09488/

 

現在のベイカーズ・チョコレートの製品は、通常のチョコレートの販売というよりも、下記のようにケーキを作るためのチョコレート材料にフォーカスされていると思います。

 

← ↓ (5/9/2023 スーパーで購入したもの)

 

 

現在のクラフト・ハインツ会社のサイトの中には、ブランドの1つとしてこのベイカーズ・チョコレートの製品も紹介されています。https://www.myfoodandfamily.com/brands/bakers-chocolate


 

次に古いチョコレート会社は、ウィットマンズ(Whitman’s)です。ペンシルバニア州のフィラデルフィア(Philadelphia)で 1842年に、当時19歳であったステファン・ウィットマン(Stephen Whitman)が お菓子とフルーツの店を始めました。チョコレート製品は、1877年にインスタントチョコレートを、そして、1912年に、現在もスーパーでよく見かける、黄色い箱に入ったチョコレート・サンプラーを売り出しました。 下記は、インタ-ネット・アーカイブズ(https://archive.org/)から見つけた当時の宣伝です。

 


Left: Whitman's Chocolates -1901A. 1901. Man and woman choose a candy and settle the question of choice with a "piece offering." Try Instantaneous Chocolate, made instantly with boiling milk. Published in a circa 1901 issue of LIFE, the Humor Magazine. Artist: Source: Mariangela Buch Restoration by: Mariangela Buch. Internet Archives. 

https://archive.org/details/WhitmansChocolates1901A

 

Right: Whitman's Chocolates -1929A. 1929. No class messages in this ad; just beautiful Christmas gifts in beautiful metal boxes. Try these on Antiques Roadshow. Published in a 1929 issue of an unidentified magazine. Artist: Source: eBay seller dhtvl Restoration by: magscanner. Internet Archives. https://archive.org/details/WhitmansChocolates1929A

 

下記の写真は、米国国立公文書館にあったウィットマンズのチョコレート工場内のものです。

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昭和レトロなカラー写真

2023年の1月を迎えたと思ったら、もう4月の半ばに入ってしまいました。時の流れの速さは益々早くなっているような気がします。

 

2018年の4月のブログ記事の「戦後の日本の風景―米軍のカラー写真から」で、戦後まもなくの日本の写真を何枚か紹介したことがありました。最近の日本では昭和や平成のレトロブームがまださかんであることも聞いていましたし、また、戦後まもなくの写真は、私が生まれ育った時代よりももっと前の時代ではあるものの、自分の中の懐かしい記憶と重なるところがありましたので、今回は、そうした昭和の匂いがするような写真をさらにご紹介したいと思います。

 

One of the most attractive events in Kyoto, Japan, is the Gion Festival, dedicated to the Yasaka-Jinjya Shrine. During the festival days, the entire city of Kyoto is richly decorated with colorful flags and lanterns for the cerebration. 7/16/1948. Photo No. C-5663. RG111SC CPF (Records of Signal Corps WWII and After Photograph, CPF-Color Photo Far East Command), Box 11. National Archives in College Park, MD. 

 

上の写真は、京都の祇園祭の時の商店街の様子で、アイスクリーム屋や雑貨屋などの各店も提灯を掲げている風景を映したものです。京都ならではの雰囲気もあるかと思いますが、私には、当時のこうした商店街の雰囲気は、私が生まれ育った昔の東京の町のイメージ(八百屋、肉屋、豆腐屋、米屋、パン屋、雑貨屋、文房具屋、本屋などいろいろな店が個別に存在していた)と重なります。

 

右下の写真は、東京の皇居前広場で行われた米陸軍の日のパレードを見るために集まった子ども達や人々であり、左下の写真は、沖縄の郷土料理の1つである干したウミヘビの一本を手にしている子どもの様子です。戦後まもなくの時代から徐々に復興しつつあった時代でしたが、食料を含めて日常品や衣料品他はまだまだたくさんあったわけではありませんでした。それでもこうした子ども達の笑顔を見るととても微笑ましくこちらも元気をもらったような気になってきます。

 


Left: Japanese families turn out to see troops of Headquarters and Service Group march before them, during an Army Day parade at the Emperor’s Palace Plaza, Tokyo, Japan. 4/6/1948. Photo No. C-4905. 

 

Right. A little Okinawan boy holds one of the dried snakes, a popular food for people on Okinawa which is sold together with vegetables. Okinawa island. 11/7/1950. Photo. No. C-6319. 

Both from RG111SC CPF (Records of Signal Corps WWII and After Photograph, CPF-Color Photo Far East Command), Box 11. National Archives in College Park, MD. 

 

下の写真は、大磯の海岸で魚釣りボートで釣った魚はどんな種類のものなのかと占領軍兵士が、訪ねています。当時は海水着といっても、現代のようなものではなく、男性や男の子たちは ふんどしもまだあたりまえであったようです。女性の場合は、アワビや真珠を取る仕事をする海女の人々は、白い木綿の磯着といったものを着ていたかと思いますが、レジャー用の海水着を身に着けて、海で泳ぐといったことは現代ほど一般化してはいなかったと思われます。

 

さらに下の写真は、横浜近くの海岸で、海藻や貝類を採集している女の子達、そして横浜の砂浜で、釣りに出掛けた父親と兄の帰りを待つ兄弟の様子です。海の様子や子ども達の様子が、生き生きしており、かつその一枚一枚から情緒が感じられる写真になっています。

 

Pfc. Bruce Crane of Denver, Colorado (left0 and Pfc. John Krause of Brookfield, Ill., inquire about the type of fish caught by Japanese fisherman at Oiso Beach, Oiso, Japan. 8/10/1947. Photo No. C-4684. RG111SC CPF (Records of Signal Corps WWII and After Photograph, CPF-Color Photo Far East Command), Box 28. National Archives in College Park, MD. 

 



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戦後まもなくの日本にあった阿片(あへん)

「阿片」(あへん/アヘン)という言葉を聞くと、まず頭に浮かぶのは、1840年のイギリスと中国との戦争であったアヘン戦争です。阿片は、芥子(けし)という植物の実からである乳液を加熱乾燥したもので、英語では、オピウム(opium)と呼ばれます。古代から、強い鎮痛剤、鎮静剤として使われてきた歴史がありますが、一方では、常習性や依存性が高いために、使い方によっては、麻薬として健康を害することになるものです。 

 

1804年に、ドイツの薬剤師によって、この阿片の有効成分を抽出され、それはモルヒネ(Morphine)と呼ばれました。モルヒネは、現在の医療現場でも、がんによる痛みなどに有効に使える薬剤や緩和剤として知られています。また、そのモルヒネの化学構造を変化させたものがヘロインで、1898年にドイツで開発されましたが、強い依存性がありその乱用は、心身をむしばむことになり、1913年には製造が中止されたと言われています。

 

日本関係の写真を追っていたときに、戦後まもなくの日本には、こうした阿片、モルヒネ、ヘロインなどがたくさんあったことを知りました。今回は、こうした写真資料を紹介したいと思います。

 

以下の写真は、当時の主要な製薬会社の1つであった、大日本製薬株式会社(1897年にできた大阪製薬株式会社が、1898年に、東京の大日本製薬会社を吸収して、大日本製薬株式会社となった。)に保管されていた、阿片の写真です。最初の写真には、当時の「内国産阿片」とあり、日本国内はもちろん、当時の満州で生産されたものが木箱に詰められて積まれているものです。その次の写真には、「蒙古産阿片」と張り紙がされています。

 


Left: Photo of stock of Dai Nippon Drug Co., Narcotics consisting of 1,234kg of Opium, 1560 kg of Manchurian Opium, 20kg of Codeine Phosphate, 123pkg of 450gr. Morphine Hydrochloride, 690pkg of 5gr Morphine hydrochloride. 11/9/1945. Photo No. 225773. RG111SC (RG111SC (Records of Signal Corps WWII and After photographs, Box 341. National Archives in College Park, MD. 

Right: Photo of stock of Dai Nippon Drug Co., Narcotics consisting of 1234kg of Opium, 1560 kg of Manchurian Opium, 20kg of Codeine Phosphate, 123pkg of 450gr. Morphine Hydrochloride, 690pkg of 5gr Morphine hydrochloride. 11/9/1945. RG111SC (RG111SC (Records of Signal Corps WWII and After photographs), Box 341 Photo No. 225875. National Archives in College Park, MD. 

 

以下の写真は、当時の東京衛生試験場にあったものです。ここでもモンゴルからの阿片、満州からのモルヒネ、そしてヘロインなどがありました。中国の北京や天津にいた日本軍司令部が隠し持っていたものも含まれていました。この東京衛生試験場は、もともと東京司薬場と呼ばれ、近代化の中で、大量に入ってきた薬品を取り締まる機関として1874年(明治7年)に設立されました。その後、さらに業務を拡大し、製薬学校を作ったり、公衆衛生全般を担ったりするようになり、1887年(明治20年)には、東京衛生試験所となりました。その後、医薬品の製造方法の調査や試験を実施するようになり、戦時体制においては、薬品国産化を担うところまで行ったそうです。1945年3月の東京大空襲でほとんどが焼けてしまいましたが、、戦後には再生し、1949年には国立衛生試験所(現、国立医薬品食品衛生研究所)になりました。

 

In a room at the Tokyo Hygiene Laboratory are stored, 792 kg of crude opium from Mongolia in can in center foreground, 500 kg of crude morphine cans in left hand side from Manchuria, an undetermined amount of heroin, smoking opium, and adulterated narcotics in boxes on background. The latter narcotics were confiscated by Japan Commers in Peking and Tientsin. Tokyo, Japan. 11/6/1945. Photo No. 224545.  RG111SC (RG111SC (Records of Signal Corps WWII and After photographs), Box 336. National Archives in College Park, MD. 

 

阿片やモルヒネ、そしてヘロインを製造していたのは、東京衛生試験所や、大日本製薬会社だけではなく、武田製薬、三共製薬、星製薬など当時の主要な製薬会社はすべて、こうしたもの製造に深く関わっていました。以下は、そうした施設の様子を示す写真です。

 


Left: Photo of Dai Nippon Drug Manufacturing Co., processing plant for heroin, morphine, and codeine at Osaka. 11/9/1945. Photo No. 225832. RG111SC (RG111SC (Records of Signal Corps WWII and After photographs), Box 341. National Archives in College Park, MD. 

Right: Photo of section of Hoshi Drug Manufacturing Plant, Tokyo, showing employees processing opium. 11/6/1945. Photo No. 224485. RG111SC (Records of Signal Corps WWII and After photographs), Box 366. National Archives in College Park, MD.

 

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戦後まもなくの蚕糸業に関する写真

米国国立公文書館の日本関係の写真は、膨大にあります。たまたま横浜関係の写真を見ていたときに、戦後の蚕糸業(養蚕と製糸)に関する写真がまとまってあるのを見つけましたので今回はそれらの一部をご紹介したいと思います。

 

蚕(かいこ)という昆虫を飼って繭(まゆ)を収穫することを養蚕(ようさん)と言い、その繭から生糸を作ることを製糸と言います。この養蚕は、もともとは今から約5000年前に中国で始まり、日本には2000年くらい前に伝わったと言われています。18世紀以降、生糸の生産量が拡大していきました。1853年のペリー来航以後、日本は欧米諸国と本格的な貿易をするようになり、特に、1859年の横浜開港では、生糸が日本の主要な輸出品となり、日本の資本主義の発展において大きな役割を果たしました。明治に入って、1872年には官営工場として富岡製糸場が操業し、1909年には、日本は、生糸輸出量において、それまでの中国を抜いて世界第一となりました。しかしながら、1929年の世界大恐慌によって大きな打撃を受けることになり、また日中戦争後、そして、第2次世界大戦勃発後は、それまでのアメリカ市場を失ったっり、桑畑から食料生産畑への切り替えが必要になったりする中で、生産をさらに縮小していったと言われています。

 

しかしながら、戦後の連合軍により、1945年10月に、それまで減らされていた桑畑を回復させ、蚕糸の生産と向上などを含めた、製糸製造に関する指示が出されました。それをうけて翌年、政府は、蚕糸業復興緊急対策要綱を出して 当時の日本の食糧難に対応するための食料輸入の見返りとして生糸輸出を増大するために、養蚕設備の復興に力を注ぎました。以下の写真は、そうした背景の中で、撮影されたものであったと思います。

 


Left: Close up female silkworm moths laying eggs . Photo No. 307344. Right: Commercial silkworm eggs being placed on paper prior to their hatching. No. 307307. Those photos from ESS Textiles Division Project: Copy from series of Japanese pictures. 5/24/1948. RG111SC (Records of Signal Corps WWII and After photographs), Box 632, National Archives in College Park, MD. 

 

上記の写真は、成長した蚕の蛾が 卵を産んでいるところであり、またそこで働く人々がそれらの卵を蚕卵紙につけているところです。通常、蚕の卵は10日から2週間で孵化して幼虫になります。この幼虫期は1カ月くらいであり、その時期に蚕は、たくさんの桑の葉を食べます。

 

下記の写真は、桑畑から桑の葉を取り、その桑の葉を餌として蚕にあげているところです。幼虫になりたての時には体長や約2ミリ程度ですが、桑をたくさん食べて最終的には約60ミリ(6センチ)前後にまでなり、体重も約15,000倍くらいの重さになると言われます。右下の蚕の写真は、十分大きくなり、これから糸を吐きながら繭を作り、その中で蛹(さなぎ)になっていく過程の直前のものです。

 

 



Upper left: Gathering spring crop of mulberry leaves. Photo No. 307305. Upper right: Feeding silkworms. Photo No. 307314. Bottom left: Silkworms feeding on chopped mulberry leaves during their fifth stage of growth. Photo No. 37313. Bottom right: Fully grown silkworm just prior to spinning its cocoon. Photo No. 307317. Those photos from ESS Textiles Division Project: Copy from series of Japanese pictures. 5/24/1948. RG111SC (Records of Signal Corps WWII and After photographs), Box 632, National Archives in College Park, MD. 

 

成長した蚕の幼虫は、2日間ぐらいにわたって糸を吐き繭を作ります。その糸の長さは、蚕によっては、1500メートルくらいとも言われ、その労力は大変なものであるかと思います。下記の写真は、繭を作ることが可能になるまで成長した蚕の幼虫を、繭が作りやすい空間に移しているところ、またその幼虫が繭を作ったところ、そしてその繭を収穫しているところになります。

 


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ホワイトハウスのファッションショー

新年あけましておめでとうございます。今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

普段の自分は、ファッションという言葉にはとても程遠いような生活をしていますが、それでも本当は、ファッションの歴史や、現在のトレンドの動向といったものには興味をもっています。ある資料調査の過程で、たまたま ホワイトハウスでのファッションショーに関する写真を見つけたので、今回は、それらの写真を紹介したいと思います。

 


Top: 1968 “Discover America” White House Fashion Show. 2/29/1968. 306-SSA-68-8218-CC2-16. 

NAID: 218517817. https://catalog.archives.gov/id/218517817

 

Bottom Left: 1968 “Discover America” White House Fashion Show. 2/29/1968. 306-SSA-68-8218-CC4-5. NAID: 218517829. https://catalog.archives.gov/id/218517829

Bottom Right: 1968 “Discover America” White House Fashion Show. 2/29/1968. 306-SSA-68-8218-CC1-5. NAID: 218517811. 

https://catalog.archives.gov/id/218517811

 

All of them: Record Group 306 (Records of the U.S. Information Agency 1900-2003). Series: Photographs from Staff and Stringer Photographic Assignments Relating to U.S. Political Events and Social, Cultural, and Economic Life 1964-1999. File Unit White House fashion show "Discover America." 

 

これらのの写真を見るまでは、1968年2月29日に開催されたホワイトハウスのファッションショーについては何も知りませんでした。このファッションショーは、当時のリンドン・ベインズ・ジョンソン大統領(Lyndon Bains Johnson:1908-1973)の妻であったレイディ・バード・ジョンソン(Lady Bird Johnson: 1912-2007)によって、「スタイルの中のアメリカを発見する(How to Discover America in Style)」というタイトルで、昼食会とともに開催されたものでした。この時、米国内の各州知事が集まる会議が行われており、各州の知事の妻たちもワシントンDCに来ていたので、そのファッションショーの聴衆は、各州の知事の妻達、そして米国のファッション・デザイナーやジャーナリスト達であり、このイベントの目的は、米国のデザイナーの作品に注目し、かつ米国のツーリズムを促進するものであったと言われています。

 

上記の4人の女性が映っている写真の白いドレスを着ている女性が、レイディ・バード・ジョンソンです。彼女の本名は、クローディア・アルタ・テーラー・ジョンソン(Claudia Alta Taylor Johnson)ですが、幼い時にテントウムシ(Ladybird)というあだ名がつけられてから、大人になってからもそれを通称として使っていたようです。環境に関心を持っていた彼女は、大統領夫人として、ワシントンDCをはじめとして都市の環境改善プロジェクトや高速道路の美化プロジェクトなどを推進し、また、夫が大統領を退いたあとも、テキサス州オースティンの河岸地帯の環境ほど活動に努めました。(参照:Lady Bird Johnson Wild Flower Center The University of Texas Austin: http://www.ladybirdjohnson.org/ ) 

 

彼女の夫であるリンドン・ベインズ・ジョンソン大統領は、1963年11月22日のケネデイ大統領の暗殺事件により、急遽、それまでの副大統領から、大統領に就任し、それまでのケネデイ大統領の政策を引き継ぎました。ジョンソン大統領と聞くと、ベトナム戦争を拡大し、米国内外から激しい批判されたというイメージが強いのですが、一方では彼は、米国内においては、公民権の確立や貧困との戦いを軸にして人権教護、社会福祉、教育や住宅制度の改善などを推進した大統領としても知られています。

 


Top Left: 1968 “Discover America” White House Fashion Show. 2/29/1968. 306-SSA-68-8218-CC4-3. NAID: 218517825. 

https://catalog.archives.gov/id/218517825

Top Right: 1968 “Discover America” White House Fashion Show. 2/29/1968. 306-SSA-8218-68-CC4-2. NAID: 218517901. 

https://catalog.archives.gov/id/218517901

Bottom: 1968 “Discover America” White House Fashion Show. 2/29/1968. 306-SSA-68-8218-33-3. NAID: 218517807. https://catalog.archives.gov/id/218517807

All of them: Record Group 306 (Records of the U.S. Information Agency 1900-2003). Series: Photographs from Staff and Stringer Photographic Assignments Relating to U.S. Political Events and Social, Cultural, and Economic Life 1964-1999. File Unit White House fashion show "Discover America." 

 

この1968年2月29日のホワイトハウスのファッションショーに関する動画をユーチューブ(Youtube)で見ることができます。リンドン・ベインズ・ジョンソン大統領図書館が、“The President: February 1968. MP893”(https://www.youtube.com/watch?v=39Fa6rl9NF8&t=944s)をしてアップをしていますが、その中の、ファッションショーだけにフォーカスした動画が、“The 1968 White House Fashion Show”(https://www.youtube.com/watch?v=YwwLctYdr_8&t=8s)としてアップされています。3分弱の映像ですが、非常に興味深いものですので、ご覧いただけたらと思います。

 

1968年2月29日のホワイトハウスのファッションショーに関する写真の一部は、米国国立公文書館によって1部はデジタル化されていますが、それらは、以下のような箱の中の封筒に入っています。プリントされた写真は、1枚1枚独立したものではなく、ネガをプリントしたものであり、大半はカラーのネガであるために、普段は通常の書庫ではなく、ネガ専用の冷凍書庫に保管されています。そのため、請求そのものはできますが、冷凍書庫から、出して常温に戻さなければいけないため、朝9時に請求しても出てきたのは12時過ぎでした。

 

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米国の炭酸飲料水について

日本でもコカ・コーラ、ぺプシ・コーラ、ジンジャー・エールなどの炭酸飲料水は、よく飲まれているかと思いますが、米国ではこうした炭酸飲料水の歴史はとても長く、今も多くの人々に飲まれています。感謝祭やクリスマスなどのホリデーシーズンになると、ビールやワインなどのアルコール飲料とともに、こうした炭酸飲料水もよく買われています。ボトルで1本ずつ買うこともできますが、やはり1ダース単位の缶を買う人々の方が多いと思います。私個人は、ほとんど飲まないのですが、自宅で友人や親類を呼んで、ハンバーガーやバーベキューなどのパーテイを行うときには、そうした肉料理と炭酸飲料水が合うので、買うこともあります。

 

 米国では、炭酸飲料水は、直訳的には、カーボネイテイッド・ドリンクス(carbonated drinks )または、カーボネイテイッド・ベバリッジズ(carbonated beverages )ですが、通常は、ソーダ(Soda)、ソーダ・ポップ(Soda pop)、またはソフト・ドリンクス(Soft drinks)などと呼ばれています。

 

 米国では、炭酸を作る技術は、すでに1760年代にあり、1789年には スイスで ジェイコブ・シュウェップ(Jacob Schweppe)が、ミネラルウォーターに炭酸を入れた飲み物を販売し始めました。19世紀に入ってから、その炭酸飲料に、甘味料を加えるようになり、1870年代に入って、現在でもお馴染みの、コカ・コーラやペプシ・コーラばども出てきました。(参照:Bellis, Mary. "The Troubled History of Soda Pop and Carbonated Beverages." ThoughtCo, Aug. 26, 2020, https://www.thoughtco.com/introduction-to-soda-pop-1992433 )

 

米国の文化を語るうえで、この炭酸飲料の歴史も重要なものであるかと思います。今回は、そうした炭酸飲料に関わる資料をご紹介したいと思います。

 

下記の写真は、米国が、太平洋戦争に突入する以前の、1940年のカリフォルニア州のオークランド市の高校生たちの昼休み時間の写真です。5セントの豆料理と一緒に、キャンデイとコカ・コーラを買い、そしてタバコを吸うといったものは、当時の米国では典型的なスタイルであったようです。

 

Left: Oakland, California. High School Youth. Typical of the youth of this nation is the tipped-up bottle of pop. Also typical is the school store, situated just across the street from the school, which sells candy, coca-cola, and cigarettes and at lunch time, a five-cent plate of beans. 5/4/1940. Record Group 119, Records of the National Youth Administration 1934 – 1945, Series: Study of Youth Photographs 1940 – 1940. 119-CAL-209. National Archives Identifier, 532259. National Archives in College Park, MD. https://catalog.archives.gov/id/532259

 

また、下記の写真は、太平洋戦争中のもので、左の写真は、軍人として勤務している男性が、休暇で自宅に戻り、彼のガールフレンドと一緒に、炭酸飲料を飲みながら、とても楽しそうにしています。また、右の写真は、日系人の父と娘が、炭酸飲料を飲んでいます。

 

どちらも、いわゆる炭酸飲料だけではなく、それにアイスクリームがのった、クリームソーダであり、その甘さは、誰もがホッとできるような優しい味であったのだと思います。

 


Left:"Sgt. Franklin Williams, home on leave from army duty, with his best girl Ellen Hardin, splitting a soda. They met at Douglas High School." May 1942. Record Group 208, Records of the Office of War Information 1926- 1951, Series: African American Activities in Industry, Government, and the Armed Forces 1941 – 1945. 208-NP-6LL-11. National Archives Identifier, 535838. National Archives in College Park, MD. https://catalog.archives.gov/id/535838

 

Right: Nyssa, Oregon. Japanese-American farm workers have an ice cream soda on weekly trip to town. 1942 July. Lee, Russell, 1903-1986, photographer. 2017819414. Farm Security Administration - Office of War Information Photograph Collection (Library of Congress). Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2017819414/

 

また、戦争中も、こうした炭酸飲料水はどんどん生産され、米国国内はもちろん、米国外にもどんどん輸出され、戦場にいる兵士達をサポートする役割も果たしていました。下記の写真は、ハワイと、インドでの写真です。インドでは、中国―ビルマーインド(CBI地域)で戦っている米軍兵士にもコカ・コーラなどの炭酸飲料水をどんどん送っていました。

 


Left:Cpl. Joseph Petrosky of 8=701 East Mahanoy St., Mahanoy City, PA, buys a bottle of “Soda pop” at the post exchange. 3/9/1944. Heleiwa, Oahu, Hawaii. .342-FH-3A41017-63001AC. Record Group 342, Records of U.S. Air Force Commands, Activities, and Organization 1900 – 2003, Series: Photographs of Activities, Facilities and Personnel ca. 1940 – ca. 1983. National Archives in College Park, MD. National Archives Identifier, 204978393. https://catalog.archives.gov/id/204978393

 

Right: Photograph of Indian Worker Preparing Coca Cola. An Indian worker pours Coca-Cola syrup into bottles before filling them with the proper amount of water. After the bottles are cleaned they are kept covered until ready for use. 3/30/1942. 111-SC-337181. Record Group 111, Records of the Office of the Chief Signal Officer 1860 – 1985, Series: Photographs of American Military Activities ca. 1918 – ca. 1981. National Archives in College Park, MD. National Archives Identifier, 148727472. https://catalog.archives.gov/id/148727472

 


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米国の夏時間と冬時間について

米国には、”スプリング・フォワード、フォール・バック“(Spring forward, Fall back.:春に時間を進めて、秋に時間を戻す)という言葉で表されるように、 季節によって、スタンダード・タイム(Standard time: 冬時間)とデイライト・セイビング・タイム(Daylight Saving Time: DST:夏時間)という2つの時間帯を使い分けます。デイライト・セイビング・タイム(夏時間)は、毎年3月第2日曜日の午前2時に時計の針を1時間進めて午前3時とします。その時から、11月第1日曜日の午前2時前まで続き、その日の午前2時には時計の針を1時間戻して午前1時にします。

 

現代のコンピュータ、スマートフォン、テレビなどは自動的に、この時間帯に適応しますが、デジタルではない時計や機器においては、手動であらためて設定を変えなければなりません。

 

世界を見ると、この夏時間と冬時間のシステムを使っているのは、米国だけではなく、カナダ、イギリス他の北米地域やヨーロッパ諸国他を含む70か国以上になります。(参照:Daylight Saving Time Statistics from Time and Date:https://www.timeanddate.com/time/dst/statistics.html

 

もともとは、に日照時間が冬と夏とでは異なるため、日照時間が長い間はできるだけ人間の活動をできるようにし、エネルギーを節約するという目的がありました。現代では、仕事のあとにも買い物やレストランに出かけるなどのいろいろな消費活動を促進することにもなり、結果として、経済効果を上げることになるといったことになっているかと思います。

 

今回は、このデイライト・セイビング・タイム(夏時間)にちなんだ資料をご紹介したいと思います。

 

 Personnel - P200 through P399 [165-WW-420P-334]. Marcus M. Marks, President of National Daylight Saving Association telephoning to the Metropolitan Tower to move the hands of the clock one hour ahead. 3/31/1918. New York, 165-WW-420P-334, Box 420. File Unit: Personnel - P200 through P399, 1917 - 1918, Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917 - 1918, Record Group 165: Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952. National Archives at College Park, MD. ARC Identifier: 45530926. https://catalog.archives.gov/id/45530926

上記の写真は、1918年の3月にデイライト・セイビング・タイム(夏時間)が使われることになったときの写真です。一番最初の場所は1908年にカナダのオンタリオ州のサンダー・ベイという5大湖のスペリオル湖にある町でした。そのあとカナダの他の地域で使われるようになりました。国家として、このデイライト・セイビング・タイム(夏時間)を最初に採用したのは、1916年、ドイツでした。第1次世界大戦下、戦争遂行のための燃料を節約するためであったと言われています。第1次世界大戦は、イギリス、フランス、ロシアを中心とした協商国(連合国)と、ドイツ、オーストリア=ハンガリーを中心とした同盟国との間で、1914年7月から1918年11月まで続いた最初の世界戦争であり、その戦争遂行への努力の一つが、デイライト・セイビング・タイム(夏時間)の採用でもありました。ドイツに対抗するイギリスでも使われるようになり、ほかのヨーロッパ諸国にも広まり、そうした流れの中で米国も採用をしていきました。(参照:History of Daylight Saving Time (DST):https://www.timeanddate.com/time/dst/history.html

 


Left: Victory! Congress passes daylight saving bill. Poster showing Uncle Sam turning a clock to Daylight Savings time as a clock-headed figure throws his hat in the air. The clock face of the figure reads "One hour of extra daylight." [1918] Library of Congress Control Number: 2002722591. https://www.loc.gov/item/2002722591/

 

Right: "Saving Daylight! "Set the clock ahead one hour and win the war!" uncle sam, your enemies have been up and are at work on the extra hour of daylight- When will you wake up?" ca. 1917 - ca. 1919. 4-P-251. Series: World War I Posters, 1917 - 1919, Record Group 4: Records of the U.S. Food Administration, 1917 - 1920. National Archives at College Park, MD. ARC Identifier: 512689. https://catalog.archives.gov/id/512689

 

 "Saving daylight!" Sign and mail one of these post cards to your congressman at Washington and help make it a national law to set the clock one hour ahead. Poster showing a man writing a postcard, with the U.S. Capitol in the background. To the left are samples of the free postcards that were distributed. [1918] Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. Library of Congress Control Number: 00652855. https://www.loc.gov/item/00652855/ 

 

上記のポスターやポストカードは、デイライト・セイビング・タイム(夏時間)の重要性を訴えるものです。第1次世界大戦には、当初、米国は関わりを持ちませんでしたが、1917年4月に協商国(連合国)側に加わりました。デイライト・セイビング・タイム(夏時間)は、当時においては、まさに戦争時間と言っても過言ではないほど、重要な意味をもっていたのだと思います。


Left: Untitled. Uncle Sam and cartoonist Clifford Berryman's teddy bear get ready to move their clocks forward by one hour, demonstrating the new "daylight savings time" to the general public. 3/30/1918. U-095. Series: Berryman Political Cartoon Collection, 1896 - 1949, Record Group 46: Records of the U.S. Senate, 1789 - 2022. National Archives at Washington, DC. ARC Identifier: 6011373. https://catalog.archives.gov/id/6011373

 

Right: Opposition to Daylight Savings. Washington had initiated its first experiment with daylight saving time. While only in place for a month, there was increasing opposition. A vote taken by the Evening Star newspaper showed a more than 2-1 opposition. Cartoonist Clifford Berryman shows Uncle Sam and teddy bear watching intently as ballots continued to pile up against the new daylight saving system. On Uncle Sam's desk is a note from Congress indicating that they can't endorse daylight saving time for Washington. 5/25/1922. U-027. Series: Berryman Political Cartoon Collection, 1896 - 1949, Record Group 46: Records of the U.S. Senate, 1789 - 2022. National Archives at Washington, DC. ARC: 6011733. https://catalog.archives.gov/id/6011733

 

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エリザベス女王と米国の歴代大統領の写真

エリザベス女王が亡くなってからすでに2カ月以上が経ちました。彼女が、女王に即位した、1952年2月6日から、亡くなった2022年9月8日までの70年間の時代においては、様々な世界のリーダーとの交流があり、米国の歴代大統領との交流も大事なものであったと思います。また、彼女が生まれたのは1926年4月21日であり、この1926年は日本では昭和元年でした。その意味では、彼女が生きた時代の大半は、日本の昭和の時代(1926-1989年)と重なり、第2次世界大戦と太平洋戦争を生きてきた私達の祖父母や父母達が一生懸命生きてきた時代とも重なります。

 

さて、今回は、エリザベス女王と米国の歴代大統領の交流の写真をご紹介したいと思います。生涯を通じてエリザベス女王は、トルーマン大統領から現在のバイデン大統領までの14人のうち、リンドン・ジョンソン大統領を除く13人の米国大統領と会いました。

 

Princess Elizabeth of Great Britain and President Harry S. Truman. President Harry S. Truman (left) and Princess Elizabeth of Great Britain pose for a photograph at the Canadian Embassy in Washington, D.C. during the Princess' visit to the United States. Original Signal Corps photo C-6740. 11/1/1951. Accession Number 2016-1671. Harry S. Truman Library and Museum, Independence, MO. https://www.trumanlibrary.gov/photograph-records/2016-1671

 

上記の写真は、エリザベス女王となる以前のプリンセス時代のものです。彼女の素敵な笑顔とトルーマン大統領の嬉しそうな顔が印象的です。

 

Washington, D.C. The British Royal couple entertained in honor of President and Mrs. Eisenhower at British Embassy with a state dinner 10/19/1957. Here, Queen Elizabeth, radiant in white satin, greets the smiling President Eisenhower, Mrs. Eisenhower, standing between Her Majesty and Price Phillip, wears an American Beauty silk damask. Photo No. 22496, Box 57. RG306PSD (Records of the United States Information Agency). National Archives in College Park, MD. 

 

上記の写真は、エリザベス女王が夫のフィリップ殿下とともに、米国のイギリス大使館にて、アイゼンハワー大統領夫妻を迎えた時の写真です。この時、4日間、エリザベス女王と夫は、ホワイトハウスに4日間泊まりました。

 

Price Philip and Queen Elizabeth II with President John F. Kennedy and Mrs. Jacqueline Kennedy. 6/5/1961. PX96-33:17. (L-R): Prince Phillip, Jacqueline Kennedy, Queen Elizabeth II, and President John F. Kennedy at Buckingham Palace in London, UK. Photograph in the collection at the John F. Kennedy Presidential Library and Museum, Boston, Boston, MA. https://www.jfklibrary.org/asset-viewer/prince-philip-and-queen-elizabeth-ii-with-president-john-f-kennedy-and-mrs-jacqueline-kennedy

 

上記の写真は、ケネデイ大統領夫妻との写真です。ケネデイ大統領の暗殺後、リンドン・ジョンソンが大統領となりましたが、彼の時代においては、ロンドンへ行く計画もあったようですが、結局実現しなかったので、結局エリザベス女王と会う機会はなかったようです。

 

下記はニクソン大統領との写真です。ニクソンが副大統領の時にもイギリスを訪問しており、エリザベス女王ととても楽しそうに歓談しています。また宮殿内の中では、ニクソン大統領とエリザベス女王とともに、フィリップ殿下や、とても若いチャールズ皇太子やアン王女の姿も見えます。

 


Left: Queen Elizabeth II and Vice President Richard Nixon in London, England. 11/1/1958. Photo No. A10-024.188.179.1. Series: Photographic Materials, ca. 1926 - ca. 1994 Collection: Richard Nixon Foundation Collection of Audiovisual Materials, ca. 1926 - ca. 1994. ARC Identifier: 34929675. https://catalog.archives.gov/id/34929675

Right: Richard M. Nixon, Queen Elizabeth II, Prince Phillip, Princess Anne, Prince Charles. Subject: European Trip - 1969. 2/24/1969. Photo No. NLRN-WHPO-0361-11. Series: Nixon White House Photographs, 1/20/1969 - 8/9/1974

Collection: White House Photo Office Collection (Nixon Administration), 1/20/1969 - 8/9/1974.  ARC Identifier :194606. https://catalog.archives.gov/id/194606

Both photos from Richard Nixon Library (LP-RN), Yorba Linda, CA.

 

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米国国立公文書館にある日本兵捕虜関係の写真

今年に入ってから、米国国立公文書館は3月1日から、再開し、アポ制度を前提としながらも現在も安定した開館を続けています。やはり実感することは、そこで原資料を閲覧することがどれほど貴重であり、素晴らしいことであるかということです。これまでの様々なプロジェクトを通じて、テキスト資料、写真資料、動画資料、マイクロ資料、空中写真資料などいろいろな媒体資料を見てきましたが、特に写真資料や動画資料は一目瞭然でわかるので、こうした資料はもっともっと多くの方々に見ていただけたらよいなと思っています。

 

今回は、この米国国立公文書館にあるたくさんの日本兵捕虜関係の写真からいくつかをご紹介したいと思います。写真のキャプションは当時の米軍が作成したものであるため、現在では不適切とされるようなことばが入っていますが、ご了承していただければと思います。

 

下記は、フィリピンのルソン島のカラバロ山周辺で投降した日本兵の写真です。たくさんの米兵達に囲まれながら、彼らから与えられた食べ物を食べています。

 


In the vicinity of Hill 506A in Caraballo Mts, Northern Luzon, P. I., a Jap soldier walked into our lines, waiving a white flag and for the first time in the campaign, a Jap voluntary surrendered. He was barely 19 years old, well dressed in a clean Jap field uniform and talked freely giving us much valuable information. He could talk a little English and one of the first question he asked was whether he would be killed. On being told that, he was very thankful and expressed his desire to help us. He said that he did not like Japanese authority. Has been in Tokyo when it was bombed. He was particularly anxious to know if it were true that Japanese troops had landed on the US. He is shown here being given something to eat. 4/16/1945. Photo No. 266317. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 485. National Archives at College Park, MD.

 

通常、こうした写真資料のキャプションは、第2次世界大戦―太平洋戦争の時代においては、そこに映っている米軍兵士の名前や彼らが何をしているかについての記述が多く、敵兵側、例えば、日本兵捕虜の写真の場合は、その捕虜についての詳細な記述というものはあまりありません。が、この写真のキャプションは、1人の日本兵が 白旗を振り、自ら投降したこと、またフィリピン戦の一環でその地域にいた米軍にとってはそうしたことは初めてであったこと、日本兵捕虜は19歳であり、彼が、米軍に最初に聞いた質問の一つは、自分は殺されるかどうかであったこと、米軍から自分は殺されないと聞かされて、彼は大変感謝をして、米軍側に協力する意志をあらわしたことなど細かな情報が記載されており、この日本兵捕虜に米軍側も強い興味を持ったことがこののキャプションからもよくわかります。もちろん、撮影日が、戦争末期の1945年4月16日となっていますので、そこにいた米軍側もかなり余裕があったということも背景にはあるかとも思います。

 


Left:Soputa, New Guinea. Japanese prisoners captured by the 163rd infantry, 41 Division, at Gona and Sanananda, New Guinea, line up against the stockade wall at Soputa Village. 1/31/1943. Photo No. 172891R. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 152. National Archives at College Park, MD.

 

Right: t. Col. Wellington, CO, Base Depot # 2 stands with Japanese prisoners captured at Lungling, Yunnanyi, China. 8/31/1944. Photo No. 247302. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 418. National Archives at College Park, MD.

 

上記の写真は、ニューギニア戦線と中国戦線で、それぞれ捕虜となった日本兵です。当時の日本兵は、敵の捕虜になることは恥であると教えられていたことはよく知られています。が、米軍を含め連合軍側と各地域で戦いながらも、やむなく敗退となり、捕虜になった場合もありましたし、戦闘を繰り返す中で、武器も食料も底をついた日本兵たちが、単独でまたは集団で投降することもありました。また戦闘を行生き延びても、食料や水がない中で、餓死をしたり、劣悪な環境の中での病気がもとで命を落とすことも多く、また自ら命を絶つ場合も少なくありませんでした。

 

そうした壮絶かつ凄惨な状況の中で、米軍に殺されるかもしれないという底知れない恐怖と不安をいただきながらも、捕虜となり、米軍の尋問を受けながらも、食料と寝る場所をとりあえず与えられ、また負傷や病気の手当などを受けた日本兵たちの安堵も想像を絶するほど大きなものであったかと思います。また捕虜になって命が助かったにも関わらず、捕虜になったという事実を受け入れることができずに、自決を試みた兵士もいました。

 


Left:Mercy is shown the enemy by this interned US Army nurse, 2nd Lt. Frankie Delhart, Texas. She was taken prisoner by the Japs on Corregidor and until her liberation has lived on scanty rations, but still renders medical aid to her former captors. Manila, Luzon Island. 2/4/1945. Photo No. 262443. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 472. National Archives at College Park, MD.

 

Right: Lt. Bachman and Maj. Royster at Seagrave Hospital Unit, give a Japanese prisoner who was captured in the Taipha, Ga., sector by the American trained Chinese troops, an injection of water and glucose after he has been without food or water for 5 days. Burma. 2/8/1944. Photo No. 187560. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 204. National Archives at College Park, MD.

 

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戦争と図書2

前回の第1次世界大戦中の戦争と図書に関する記事に引き続き、今回は、第2次世界大戦及びその後の時代に焦点を当ててみたいと思います。

 

下記のポスターは、第2次世界大戦中のポスターの一つで、ドイツ・ナチスによる、大量の本の焚書(ふんしょ)―当時のナチズムの思想に合わないとされた書物が焼き払われたことを題材にして、「本は、戦争において武器である。」として、徹底的に戦うことを決意した、フランクリン・ルーズベルト大統領の言葉を引用しています。

 

 

 

"Books are weapons in the war of ideas" 44-PA-127. Series: World War II Posters, 1942 - 1945. Record Group 44: Records of the Office of Government Reports, 1932 - 1947. ARC Identifier: 513575: https://catalog.archives.gov/id/513575

このポスターの中の言葉は、以下のような意味です。「本を火で殺すことはでない。 人々は死ぬが、本は決して死ぬことはない。 どんな人間も力も、強制収容所という中に永遠に入れておくようなことはできない。人間の、専制政治に対する人間の永遠の戦いを具体化する本を世界から奪うことはでない。 この戦争において、本は武器である。」

 

世界史をみれば、古代から現在まで、書物(現在ではデジタル本などの形態を含む出版物も含むことになりますが)が、いろいろな国や地域で、問題視されて、焼かれたり、抹殺されてきた例は少なくありません。書物というものは、時として思想的弾圧の対象になってしまうからこそ、そうしたものの自由な出版や読み手の自由な選択が常に保障されていなければいけないと思います。その意味では、出版の自由、思想の自由の保障は、決して過去の問題ではなく、常に現在の問題であるとも思います。

 

下記のポスターも、第2次世界大戦中の本に関するポスターです。


Left: “Ten years ago: The Nazis Burned the Books... But Free Americans Can Still Read Them” 208-AOP-24-26. Series: Original Artwork for World War II Posters, 1942 - 1945. Record Group 208: Records of the Office of War Information, 1926 - 1951. ARC Identifier:7387450: https://catalog.archives.gov/id/7387450

 

Right: "In a War-Torn World, Let Good Books Help You" 44-PA-1087. Series: World War II Posters, 1942 - 1945. Record Group 44: Records of the Office of Government Reports, 1932 - 1947. ARC Identifier: 514614: https://catalog.archives.gov/id/514614

 

下記のポスターには、”1943 Victory Book Campaign” (1943年、戦勝図書運動)という文字が見えます。このキャンペーンは、もともと全米図書館協会(American Library Association)、米国赤十字(American Red Cross)、そして米国慰問協会(United Service Organizations:USO)の3つの機関によって1941年11月に作られたものでした。このキャンペーンの目的は、戦場に向かう米兵達に読んでもらう本を公共によって寄付し、米陸軍と海軍の図書サービスをサポートするものでした。

 

このキャンペーンについては、ニューヨーク公共図書館他のサイトで紹介されていますので、それらをご参照していただければと思います。

 

*The Victory Book Campaign and The New York Public Library:https://www.nypl.org/blog/2012/07/25/victory-book-campaign-and-nypl

 

*The Victory Book Campaign, 1942–1943:

http://www.booksforvictory.com/2012/06/victory-book-campaign-19421943.html

 


Left: "Give More Good Books to our Men in the Service" 44-PA-881 Series: World War II Posters, 1942 - 1945 Record Group 44: Records of the Office of Government Reports, 1932 - 1947. ARC Identifier: 514386. https://catalog.archives.gov/id/514386

 

Right: "Give your Good Books to our Fighting Men." 44-PA-899 

Series: World War II Posters, 1942 - 1945 Record Group 44: Records of the Office of Government Reports, 1932 - 1947. ARC Identifier: 514404. https://catalog.archives.gov/id/514404

 

上記のキャンペーンによって、2000万以上のハードカバーの本が集められ兵士のもとへ送られたといわれています。1943年に入って、米国陸軍省(War Department)と出版社業界が協力して、1億2千万以上の小さくて、軽くて、兵士のポケットやリュックサックに入るような、より実用的なペーパーバックの本を出版して、各戦線に送るようになりました。これは兵隊文庫(Armed Services Editions)と呼ばれました。ナチス・ドイツによる焚書に抵抗する思想においての重要な武器であり、かつ戦場に送られた兵士たちの娯楽やストレス解消、また教育的目的もあり、1947年まで発行されていました。

 

この兵隊文庫(Armed Services Editions)については、米国議会図書館(Library of Congress)にコレクションとしても収蔵されていますが、そのブログでも紹介されています。(Books in Action: The Armed Services Editions:https://blogs.loc.gov/loc/2015/09/books-in-action-the-armed-services-editions/

 

また、全米のいくつかの大学の図書館にも収蔵されていますが、特にバージニア大学図書館(University of Virginia Library)の中のコレクションはよく知られています。(Books Enlist:https://explore.lib.virginia.edu/exhibits/show/booksgotowar/walk

 この兵隊文庫(Armed Services Editions)についての研究はすでにいくつかあるようですが、最近読んだこの本―When Books Went to War: The stories that helped US win World War II (図書が戦場に行った時:米国が第2次世界大戦での勝利をもたらした物語)という本は、この兵隊文庫を通じていかに戦場の兵士達を勇気づけるものであったかについて研究したもので非常に興味深い本でした。

 

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戦争と図書 

皆さんは、下記のポスターを見たことがありますか。これは、第1次世界大戦中に作成されたものです。数年前に、ある資料調査で、ペンシルバニア州の カーライル(Carlisle)にある米国陸軍の歴史研究施設である、米国陸軍遺産教育センター(U.S. Army Heritage and Education Center:USAHEC)に行きました。その日の調査を終えて、館内の博物館の展示を見て米陸軍の歴史を学び、その展示の出口にあった土産店も見て回りました。その時に、このポスターも売られているのが、目に留まり、早速買ってしまいました。このポスターの絵の様子から、第1次世界大戦中のものであることはすぐわかりましたが、「戦場に赴く、または戦場にいる兵士」と 「たくさんの本」とが結ぶつくイメージは、当時の私の頭の中にはなかったので、その意外性がとても印象的でした。しかしながら、実は、戦争の時代と図書は、密接な関わりがありました。今回は、第1次世界大戦の時代に焦点を当てて、関連する写真資料をご紹介したいと思います。

 

この上記のポスターの写真画像(白黒)は、米国国立公文書館(NARA)のサイトにも見えますし、またオリジナルのカラーは、議会図書館(LC)のサイトに見えます。

 

1)NARAサイト:“American Library Association - Posters - Poster used in A.L.A. (American Library Association) Campaign for books. Camp Meade” 1919. Photo No. 165-WW-33D-5, File Unit Library Association-Posters, 1917-1918, Series American Unofficial Collection of WWI Photographs, 1917-1918, Record Group 165: Records of the War Department General and Special staffs, 1860-1952. National Archives at College Park, MD. NARA Identifier 20801784. https://catalog.archives.gov/id/20801784

 

2)LCサイト:“Books wanted for our men in camp and over there; take your gifts to the public library / F.“  https://www.loc.gov/item/94514639/

 


米国図書館協会(American Library Association:ALA)は、図書館と図書館教育を国際的に振興する組織であり、1876年に設立されて以来、世界で最も古くかつ最大の図書館協会であり、現在も図書館教育や図書館サービスの向上などを推進しています。

 

1914年、ドイツやオーストリアを中心とした同盟国側と、イギリスやフランス及びロシアの連合国(協商国)側で始まった第1次世界大戦に対し、米国は1917年4月に参戦することになりました。当時の米国図書館協会(American Library Association:ALA)は、図書館戦争サービス(Library War Service)という部署を設立し、国内及び国外にいる兵士の訓練場であるキャンプ、兵士の病院などを含めて500か所以上の場所に、約700万から1000万冊の本や雑誌を提供し、戦争遂行のキャンペーンを大々的に担いました。(参照:American Library Association:ALA History: https://www.ala.org/aboutala/1917

 

また、アメリカの各地域の公共図書館も、本の収集と発送の準備などをしながら、このキャンペーンをサポートしました。(参照:Turning the Pages of Patriotism with the American Library Association:https://www.nyhistory.org/blogs/turning-the-pages-of-patriotism-with-the-american-library-association )

 

Drive books for Fighters. Photo shows a number of girls each with pile of books wending her way in to the Public Library Building, New York where they left the books to be sent to camps. This campaign for books was started by the American Library Association. 3/18/1918. Photo No. 165WW-26A-1.

 


American Library Association. A.L.A. Campaign for book. Front of Public Library, NY City, NY. 1918. Photo No. 165WW-26A-2. 

 

 

 

Both from Series American Unofficial Collection of WWI Photographs, 1917-1918, Record Group 165: Records of the War Department General and Special Staffs, 1860-1952. National Archives at College Park, MD. 

 

 


 

上記の2枚の写真は、アメリカ図書館協会による、兵士のための本の寄付に呼びかけの様子と、その呼びかけに対して、町の人々が自宅から本をたくさん持ち寄って寄付をしようとしている姿です。その背景には、おなじみのポスターが掲げられていることがわかります。

 

下記の写真は、集まった本の整理をしているところ、集められた本を海外へ送る準備をしているところ、そしてそれらの本を戦地の基地周辺で兵士たちが読んでいるところです。

 

American Library Association. Scene in A. L. A. Dispatch Office, Newport News, Virginia. 1918. Photo No. 165-WW 26B-22. 

 

 

 


Middle: American Library Association.200 books for overseas with 1st and 2nd Battalions. 1918. Photo No. 165-WW 26B-28. 

 

 

 


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戦後まもなくの子ども達

米国国立公文書館では、これまでいろいろなテーマで資料調査を行ってきましたが、そうした過程の中で、戦後の子ども達に関する写真を目にする機会がたくさんありました。今回は、そうした子ども達に関する写真についていくつかご紹介したいと思います。

 


Left: Japanese mother and her child aboard a Japanese destroyer which evacuated them from Manila to Japan (P.I.) 10/23/1945. Photo No. 216359, Box 307. Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD. 

 

Right: Japanese civilians arriving at Hakata, Kyushu, Japan by fishing craft from Korea. 1/14/1946. Photo No. 218545, Box 317.  Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD. 

 

太平洋戦争中またはその前から、海外に住んでいた日本人が、戦後まもなく、引き揚げ者として日本に帰ってきました。元日本兵や一般市民の引き揚げ関係に関する写真はたくさんあり、上の写真はそれらのほんの一部です。戦争中も、また引き揚げの過程も、子ども達にとっては、大変な体験であったかと思います。写真にみる子ども達の表情はとても緊張した面持ちであることが伺われます。

 


Left: Japanese police endeavor to halt black market: Vagrants such as these at Ueno Station, Tokyo, Japan. Area consultant source to the Japanese police. Picked up for vagrancy constantly, they are suspects in intense campaign to halt the black market throughout the greater Tokyo area. 12/27/1948. Photo No. 316741, Box 658. Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD. 

 

Right: A Japanese orphan boy sleeps at entrance of Ueno Park, Tokyo, Japan. 10/13/1947. Photo No. 293123, Box 581.  Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD. 

 

上記の写真は、戦災孤児の中でも特に浮浪児と呼ばれた子どもたちであり、彼らが非常に厳しい状況に置かれていたかを垣間見るような写真です。東京をはじめ、日本の大都市では、たくさんの空襲により家はもちろん、両親やそのほかの家族を失ったという子ども達がいました。その子どもたちの父親はすでに戦場に駆り出され、残る母親やほかの家族のメンバーは空襲や原爆で亡くなったということも少なくなかったと思います。

 

これらの写真に見る子ども達は、当時の私の両親の年齢とほとんど変わりありません。戦争中、東京都の文京区に住んでいた私の母は小学校低学年であり、弟とともに学童疎開で、栃木県に行きました。同じく東京都北区に住んでいた私の父は、中学生で、動員の一環として、軍事工場で働いていました。東京大空襲を体験した、私の母の実家も、父の実家も、家族のメンバーは皆生き残ることができ、それぞれの家もなんとか無事でした。が、同じ世代の子ども達の中には、頼るべき親兄弟や親類もなく、孤児として、たった一人で戦後を生き延びなければならなかった子ども達がいました。その現実は、あまりにも重く、本当に想像を絶する状況であったと思います。

 


Both: List of Figure-work on the Nation-Wide Simultaneous Investigation of Orphans, File 7 Orphans 1946-1948, Box 9376 Entry 1853 Public Health & Welfare Section Public Assistance & Child Care Subject File 1946-52, Records of Allied Operational and Occupation Headquarters, World War II (RG331). National Archives, College Park, MD. 

 

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米国国立公文書館のと特許関係の資料から

私は昔、米国の特許やトレードマークの申請を扱う弁護士事務所で働いていたことがありました。特許の申請から特許を得るまでに米国では20か月から25か月くらいかかります。申請対象となる製品やトレードマークには、実に多様なものがありました。毎日、米国内はもちろん、日本や韓国他の国々からのたくさんの申請書類があり、それぞれの分野の専門家でもある弁護士達を事務的業務をサポートするというリーガルアシスタントの仕事は、毎日、昼食時間をまともに取れないほどのすさまじく忙しいものでしたが、特許やトレードマークに関していろいろなことを学ぶことができたと思っています。

 

さて、米国国立公文書館の資料の中には、特許及びトレードマーク関係の資料群(RG241:Records of the Patent and Trademark Office, 1836 – 1978)があります。これらの中には、とても楽しい資料がありますので、今回はそれらをいくつかご紹介したいと思います。

 

 下記は、1920年4月にイリノイ州のシカゴ市にあったキャンデイ会社による特許の申請を行ったときの資料の1部です。この会社のキャンデイのラベルは、おとぎ話に出てくるキャラクターがパレードをしている素敵なデザインになっていると思います。このキャンデイ会社の申請書が、1920年4月15日に米国特許オフィスによって受理されてから、4か月後の8月16日には、すでに承認されたことがわかります。

 


Both: 22046-Candy Craft Candies for Kiddies- The Candy Craft Shops Inc. 4/15/1920 - 8/31/1920. Series: Case Files for Registered Product Labels, 1874 - 1940, Record Group 241: Records of the Patent and Trademark Office, 1836 - 1978. National Archives in College Park, MD. ARC Identifier:76048643. https://catalog.archives.gov/id/76048643

 

こんな資料もありました。下記は、1901年1月のミズーリ州のセントルイスにあった飲み物製造会社の特許の申請関係資料の一部です。ジンセン(ginseng)というアルコール飲料のラベルが、アルコール飲料であるという叙述をしていないという理由で、その申請が2回拒否されましたが、ラベルにリキュールという文字を入れることで、同年5月19日にはようやく承認を得たことがわかります。

 

英語のジンセン(ginseng)は、日本語では、朝鮮人参と訳されるかと思いますが、ジンセンは、実際には11種類にわたるものがあり、大きく分けると、朝鮮半島や中国由来のものと、アメリカ国内のものがあるようです。現代では、滋養強壮を促進したり、炎症を低下させたり、血糖値を低下させたりするなど、健康の維持には、重要な植物として位置づけられているかと思います。(参照:What are the health benefits of ginseng?:https://www.medicalnewstoday.com/articles/262982

 

しかしながら、下記のアルコール飲料のラベルは、おそらくそうしたものとは関係なく、当時の米国では、アジア地域はまだとてもエキゾチックなイメージがあり、それを使ったのではないかと思います。このラベルは、まん中に着物を来た日本人女性らしき人物が扇を持って立っており、周りの4つの絵は、おそらく酒造りに関したものなのではなかったのかとも思います。今から100年以上前のものなので、当時のアジア観が垣間見れるような気がしてとても興味深いと思いました。

 


Both: 8471 - Ginseng, For a Beverage - Daniel J. Kennedy.

1/14/1901 - 6/18/1901. Series: Case Files for Registered Product Labels, 1874 - 1940, Record Group 241: Records of the Patent and Trademark Office, 1836 - 1978. National Archives in College Park, MD. ARC Identifier: 74227571: https://catalog.archives.gov/id/74227571

 

下記は オレゴン州のポートランド市の会社によるハイハイ・チューインガムというガムの申請書類の1部です。100年以上前のものですが、「たばこの唯一の代替用品」、「喫煙習慣を止める確実な方法」、「喫煙習慣を打ち負かす」といった文言が書かれています。当時は、喫煙も当たり前のような時代であり、社会的にも、現代のような健康志向というものはなかったはずですが、あえて、こうした言葉を宣伝にしてチューインガムを売ろうとしたところが とても面白いと思いました。

 


Both: 8667 - Hi-Hi Chewing Gum - Robert Arthur Wilson.

8/15/1901 - 9/10/1901. Series: Case Files for Registered Product Labels, 1874 - 1940, Record Group 241: Records of the Patent and Trademark Office, 1836 - 1978. National Archives in College Park, MD. ARC Identifier: 74617706: https://catalog.archives.gov/id/74617706

 

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米国国立公文書館にある漫画資料から

2022年もあっという間に4月を迎えてしまいました。2020年の3月からの米国公文書館の閉館は、1年と半年続くことになりました。2021年の8月から限定再開をしましたが、デルタ株の感染者が上昇したため、その月末には閉館しました。3か月後の11月半ばから再び再開しましたが、クリスマス前にまたもや閉館してしまいました。2022年は、より安定した再開が強く望まれています。(2022年3月より限定的開館となりました。)

 

さて、今回は、米国国立公文書館にある漫画資料をいくつかご紹介したいと思います。下記は、チャールズ・アーネスト・グラスリー(Charles Ernest Grassley)というアイオワ州の上院議員を題材にした風刺漫画です。彼は1981年から現在まで上院議員を務めています。 2016年、オバマ大統領は、メリック・ブライアン・ガーランド(Merrick Brian Garland)を 連邦最高裁判所判事に指名しましたが、上院で共和党議員達が承認投票を行うことを拒んだだめに、ガーランドは就任できなかったという経過がありました。その時の風刺を描いた漫画が、下の漫画です。自分の仕事をしないことが、一番の仕事であるとして、かなり笑える漫画だと思います。また、それに関連して、オバマ大統領がりっぱで穏健で中道派であるガーランドを連邦最高裁判所判事を指名したことに対して、共和党側が、それは認められないとしている漫画です。

 

当時はいろいろありましたが、2021年3月、ガーランドは、バイデン大統領の指名を受けて、米国司法長官に就任しました。

 


Left: Editorial Cartoon About Senator Grassley. 3/7/2016. 

Series: Brandi Hoffine's Twitter Posts, 2013 - 2016, Collection: Electronic Records of the Office of the President (Obama Administration) 1/20/2009 - 1/20/2017. Barack Obama Presidential Library (LP-BHO), Hoffman Estates Hoffman Estates, IL. ARC Number: 231363558. https://catalog.archives.gov/id/231363558

 

Right: Editorial cartoon in the Pittsburgh Tribune Review. 6/5/2016. Series: Eric Schultz' Twitter Posts, 2010 - 2017, Collection: Electronic Records of the Office of the President (Obama Administration), 1/20/2009 - 1/20/2017. Barack Obama Presidential Library (LP-BHO), Hoffman Estates Hoffman Estates, IL. ARC Number: 234096499. https://catalog.archives.gov/id/234096499

 

1973年の10月に第4次中東戦争が勃発したことをきっかけに、原油価格が上昇し、第1次オイルショックが起こりました。そうしたことを背景として、1974年、米国の提唱によって石油消費国間の協力組織である、国際エネルギー機関(IEA)も設立されました。同時に米国内では、省エネルギー政策が展開され、展示会も行われました。下記の2つの漫画は当時の展示会で使われた漫画です。ハロウィンでおなじみの魔女たちも、一本の箒で相乗りをしているように、自分達も車を相乗りにしてタイヤもガソリンも節約するというアイディアもいかにもアメリカらしいものです。また、家の中で、服を着こんでいれば、つららが天井からぶらさがるような極寒の部屋でも大丈夫といったような発想もとても面白いと思いました。

 

当時はまだ環境問題への関心は、地球規模ではありませんでしたが、現在では、環境をいかに守るか、気候変動にどう対処するかといったところから、ガソリン車を徐々に減らしていき、持続可能なエネルギーをどう作り、どう利用するかといった方向に世界は動きつつあります。

 


Left: Photograph of Cartoon from Exhibit on U.S. Energy Conservation. 1974. 64-NA-5495. 

Series: Historic Photograph File of National Archives Events and Personnel, 1935 - 1975, Record Group 64: Records of the National Archives and Records Administration, 1789 - ca. 2007. 

National Archives at College Park, MD. ARC Identifier: 35810427. https://catalog.archives.gov/id/35810427

 

Right: Photograph of Cartoon from Exhibit on U.S. Energy Conservation. 1974. 64-NA-5500. 

Series: Historic Photograph File of National Archives Events and Personnel, 1935 - 1975, Record Group 64: Records of the National Archives and Records Administration, 1789 - ca. 2007. 

National Archives at College Park, MD. ARC Identifier: 35810439. https://catalog.archives.gov/id/35810439

 

下の4つの米空軍兵士であったジョンH. ジェイク シューファート(John H. "Jake" Schuffert: 1919-1998)が描いたものです。ペンシルバニア州のニューキャッスル出身の彼は、1941年に当時の米陸軍航空隊に入り、通信士及び機銃士としてヨーロッパ戦線に従事しました。もともと彼は絵が得意であったようで、ボランティアで航空隊の機関紙にも漫画を描いていました。1960年代後半からは本格的に米国空軍のグラフィックアーチストとして活躍していたようです。(参照:AF Public Affairs Alumni Association: News and Notes, Spring 1999, page 6: https://afpaaa.org/resources/newsletters/1999/4-1999-news.pdf) 

 

空軍機にサメの歯を描いたパイロットが、昨日、海岸線を低飛行したときに周辺の人々を サメが 空から襲ってきたと人々をパニックに陥れそうになったと、上官に怒られているシーン、また、宇宙からの訪問者がやってきたという情報に対して、そんな訪問者と会うなんて約束は自分のスケジュールにはないと怒っている上官の様子など、こうした感覚もとても面白いと思いました。

 


Left: Artwork: "USAF Cartoon" Artist: Jake Schuffert. 5/10/1982. 330-CFD-DF-SC-82-05763.jpeg. Series: Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 - 2007, Record Group 330: Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921 - 2008. National Archives at College Park, MD. ARC Identifier: 6343293. https://catalog.archives.gov/id/6343293

 

Right: Artwork: "USAF Cartoon" Artist: Jake Schuffert. 1/1/1995. 330-CFD-DF-SC-85-08434.jpeg. Series: Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 - 2007, Record Group 330: Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921 - 2008. National Archives at College Park, MD. ARC Identifier: 6387215. https://catalog.archives.gov/id/6387215

 

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ドーナッツの歴史―1

ドーナッツは 日本でも、手軽なスナックとして多くの人々にお馴染みなものであると思いますが、アメリカ合衆国でもドーナッツは、昔から朝食や小腹を満足させるスナックとして、とても人気があります。

 

ドーナッツの起源は、もともとは、オランダ語のオリークック (olykoeks) というもので、英語では”oily cakes”となり、油でできたケーキを意味したそうです。現在でもオランダでは、オリーボーレン(oliebollen:油で揚げたボール)と呼ばれる、卵と小麦粉と牛乳と酵母で混ぜたものを油で揚げたものがありますが、それは オリークックという名前から次第に変化したようです。(参照:The History of the Doughnut:A look back at the men, women and machines that made America’s favorite treat possible:https://www.smithsonianmag.com/history/the-history-of-the-doughnut-150405177/

 

米国で、ドーナッツが、本格的に普及したのは、第1次世界大戦中のことでした。それは、ザ・サルベーション・アーミー(The Salvation Army:救世軍)や赤十字などの組織の女性メンバーによる、兵士達への慰問の際にドーナッツとコーヒーを届ける支援活動がきっかけでした。

 

ザ・サルベーション・アーミー(救世軍)という組織の始まりは、1865年に、イギリスのウィリアムブースという、キリスト教プロテスタントのメソジストの牧師と妻の、○○が、犯罪やアルコール中毒、貧困や失業など当時地域に蔓延していた社会問題の改善に取り組む運動を始めたことに由来します。この運動が、のち、ザ・サルベーション・アーミー(救世軍)と呼ばれるようになり、米国や日本他、様々な国でもその運動が展開されるようになりました。それは、現在でも続いています。

(参照:The Salvation Army USA: https://www.salvationarmyusa.org/usn/, 救世軍:https://www.salvationarmy.or.jp/about/history )

 

米国国立公文書館には、ドーナッツに関する写真資料が いくつかあります。以下にご紹介するのは、今から100年以上前の写真です。第1次世界大戦中は、ドーナッツを大量生産できるような機械はまだなく、めん棒を使って、生地を平らにして、とドーナッツ型で型を取って、油で揚げていました。

 

Salvation Army activities. “Shoulder arms.” Captain Stella Young with doughnut implements in hand, posting for a photograph in the midst of her work at Salvation Army hut. 165-WW-569A-80. ARC Identifier: 45562191. https://catalog.archives.gov/id/45562191

Salvation Army activities. Captain Louise Young, with the First Division through most of its hardest fighting. 165-WW- 569A-85. ARC Identifier: 45562201. https://catalog.archives.gov/id/45562201

Both from File Unit: War Relief - Salvation Army - Personnel, 1917 – 1918, Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917 - 1918, Record Group 165: Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952. National Archives, College Park, MD.

 

Salvation Army girl making doughnuts for the soldiers. 2/13/1919. File Unit: War Relief - Salvation Army - Theater of Operations, 1917 - 1918. 165-WW- 566B-21.  ARC Identifier: 45561661. . https://catalog.archives.gov/id/45561661

Salvation Army activities. Lieutenant Myrtle Turkington presiding at doughnut counter. File Unit: War Relief - Salvation Army - Personnel, 1917 – 1918. 165-WW- 569A-84. ARC Identifier: 45562199.https://catalog.archives.gov/id/45562199

Both from Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917 - 1918, Record Group 165: Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952. National Archives, College Park, MD.

 

左下の写真は、兵士の束の間の休息で目の前のドーナッツを待つ兵士達の姿です。右下の写真は、フランスのアラゴンという地域に敵のドイツ兵が作った塹壕に沿った道で、米軍兵士たちがドーナッツの支給を待って列を作っている光景です。ドーナッツやその他の食べ物を提供する、救世軍側も、兵士達が戦っていた前線近くまで行っていたことがわかります。

 

Salvation Army activities. Doughnuts for dough boys who are anxiously awaiting their turn to get a chance at counter. 165-WW-566B-55. ARC Identifier: 45561729. https://catalog.archives.gov/id/45561729

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アメリカンインディアン

アメリカンインディアンは、1492年にクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)がアメリカ大陸周辺の島であるサン・サルバドル島に到達するよりも以前にアメリカ大陸に住んでいた先住民を示し、アメリカ合衆国の先住民の大半を占めます。ワシントンDCにもアメリカンインディアンの博物館 (National Museum of the American Indian) があり、沢山の写真や資料を見る事ができます。(参照:https://americanindian.si.edu/

 

*「アメリカンインディアン」ということばについては、ここでは、この博物館のサイトで提示されている用語の定義に従いました。(参照:What is the correct terminology: American Indian, Indian, Native American, or Native?

: https://americanindian.si.edu/nk360/didyouknow#topq2

 

アメリカンインディアン歴史はとても長く、米国国立公文書館をはじめ、他の歴史資料館でも沢山の資料を保管しており、現在でも多くの研究者によって研究は続けられています。

このブログでは1900年以降の写真を時系列でいくつか紹介します。(参照:https://www.history.com/topics/native-american-history/native-american-timeline

 

 

Photograph of Indian Warriors, Series: Photographs of American Military Activities, ca. 1918 - ca. 1981 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:530707) at https://catalog.archives.gov/id/530707 on 4/24/2020]

 

1907年1月29日、チャールズ・カーティス (Charles Curtis) 氏がアメリカンインディアンでは初の上院議員となりました。彼は政治家として何年も活躍した後に1929年には第31代米国大統領のハーバート・フーヴァー (Herbert Hoover) の副大統領となり4年間貢献しました。1900年代以前にアメリカ政府と長きに渡って戦ってきたアメリカンインディアン社会の人々にとって彼の活躍は誇りであった事でしょう。

 

 

Charles Curtis from Smithsonian Magazine: https://www.smithsonianmag.com/smart-news/The-First-Person-of-Native-American-Descent-Was-Elected-to-the-US-Senate-109-Years-Ago-Today-180957893/

1924年6月2日、インディアン市民権法により、アメリカ議会は全てのアメリカンインディアンの米国市民権を保障する事を約束します。それ以前の米国市民権の付与は限られた人々にしか与えられていませんでした。これによって、第二次世界大戦では沢山のアメリカンインディアンの人々が米国軍に入隊し戦争に行くことになりました。次の二枚の写真は第145歩兵師団のアメリカンインディアンの写真です。

 


写真(左)Native American Soldiers of 45th Division, Series: Photographic Albums of Prints of Hampton Roads Port of Embarkation, 9/1942-12/1945 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:138925960) at https://catalog.archives.gov/id/138925960 on 4/24/2020] Original Captions: "Indians on the Warpath: Indian soldiers of 157th Infantry, 45th Division, on Pier X, Newport News, before sailing for service overseas. Left to right: Commanding Officer (not an Indian), Capt. William A. Speight, 0-40378, home, 209 Mathews St., Fort Collins, Colorado; Pfc. Joe C. Thomas (Pima tribe) 20845039, home address, Box 188, Route 1, Scottsdale, Arizona; Pfc. Asa Swift, 20845919 (Apache), address c/o Indian Agent, San Carlos, Arizona, age 21; Pvt. Dieu Little Warrior, 38323398 (Ponca), home address, Route 4, Ponca City, Oklahoma; Pvt. Patrick F. Morgan, 38000452 (Apache), home address San Carlos, Arizona; Cpl. Ebenezer Wesley, 20835955 (Choctaw), home address Antlers, Oklahoma. The 45th Division included about 1,500 Indians, representing 46 tribes. The 179th and 180th Infantry Regiments and the 4th Engineers had a large number of Indian soldiers. Official Photograph U.S. Army Signal Corps, Hampton Roads Port of Embarkation, Newport News Virginia."

 

写真(右)Native American Soldiers of 45th Division, Series: Photographic Albums of Prints of Hampton Roads Port of Embarkation, 9/1942-12/1945 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier: 138925958) at https://catalog.archives.gov/id/138925958 on 4/24/2020] Original Captions: Indian soldiers of 45th Division on Pier X, Newport News, before embarkation for overseas service. Left to right: Pfc. Harry Guy, 20830737 (Caddo tribe), home address Fort Cobb, Oklahoma; Pvt. Leslie Howling Wolf, 38062851 (Cheyenne), home address, R.I.B. 69, Thomas, Oklahoma. The 45th Division included about 1,500 Indians, representing 46 tribes. The 179th and 180th Infantry Regiments and the 4th Engineers had a large number of Indian soldiers. Official Photograph U.S. Army Signal Corps, Hampton Roads Port of Embarkation, Newport News Virginia."

 


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戦争中の日系収容所の子ども達

今年2022年は、戦後から77年目を迎えます。今は新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)の問題で日常生活の維持もままならないほどですが、こうした未曽有の現在の状況も、形はもちろん異なっても、非日常的な毎日に必死に対応しなければならないというところでは、戦争の時代と重なるところがあるのではないかと感じています。

 

1941年の12月に太平洋戦争が勃発し、翌年の1942年の春以降、当時米国に住んでいた多くの日本人や日系米国人のうちの約12万人が戦争が終結するまで、アイダホ州、アリゾナ州、アーカンソー州、カリフォルニア州、コロラド州、テキサス州、ユタ州、そしてワイオミング州の合計8州 (ハワイを除く)において、全11カ所にわたって設置された日系人収容所に強制的に収容されることになりました。(参照:日系アメリカ人強制収容所の概要:全米日系人博物館:http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/accmass_jp.html)

 

今回はそうした収容所で生活を余儀なくされた人々のうち、特に子ども達の様子に関する写真をご紹介したいと思います。

 


Left: A young evacuee of Japanese ancestry waits with the family baggage before leaving by bus for an assembly center in the spring of 1942. 210-G-2A-6: Series: Central Photographic File of the War Relocation Authority, 1942-1945, Record Group 210: Records of the War Relocation Authority, 1941-1989:National Archives, College Park, MD:  https://catalog.archives.gov/id/539959

 

Right: Hayward, California. A young member of an evacuee family awaiting evacuation bus. Evacuees of Japanese ancestry will be housed in War Relocation Authority centers for the duration. 210-G-C159: Series: Central Photographic File of the War Relocation Authority, 1942-1945, Record Group 210: Records of the War Relocation Authority, 1941-1989:National Archives, College Park, MD:  https://catalog.archives.gov/id/537510

 

上記の左の写真は、当時、住んでいた場所から日系人収容所に向かうバスを待っているときの少女の写真です。2019年10月4日付けの弊社のFB記事上でも紹介させていただきました。リンゴをかじりながらも不安げな表情が、当時の日系人全体の心情を表しているようです。この写真は、米国国立公文書館の5階の写真リサーチルームの壁にも飾られている写真の1枚でもあり、おかっぱの髪型とその雰囲気は、私の娘の小さい頃を彷彿させるので、以前からとても気になっていました。右の写真の少女はおそらく小学校1-2年生くらでしょうか、彼女なりにいろいろな不安があったと思うのですが、カメラに向かって微笑んでいます。

 

こうした子ども達を含めたくさんの日系人が、バスや列車に乗って、まずは14カ所の集合センターに収容され、そこから11カ所の収容所へと連れていかれることになりました。移民として必死に米国で働き積み上げてきた財産や土地を取り上げられることになり、ほとんど着の身着のままの状態で、砂漠のような場所に作られたバラックのような収容所に強制的に連れてこられた人々の屈辱と怒りと絶望はどんなに大きなものであったかと考えると本当に胸が痛みます。下記の写真はそうした収容所の様子です。

 


Left: Poston, Arizona. Living quarters of evacuees of Japanese ancestry at this War Relocation Authority center as seen from the top of water tower facing south west.  210-G-A190: Series: Central Photographic File of the War Relocation Authority, 1942-1945, Record Group 210: Records of the War Relocation Authority, 1941-1989: National Archives, College Park, MD:  https://catalog.archives.gov/id/536152

 

Right: Manzanar Relocation Center, Manzanar, California. Street scene of barrack homes at this War Relocation Authority center for evacuees of Japanese ancestry. 210-G-C835: Series: Central Photographic File of the War Relocation Authority, 1942-1945, Record Group 210: Records of the War Relocation Authority, 1941-1989: National Archives, College Park, MD:  https://catalog.archives.gov/id/538126

 

そうした厳しい状況の中でも、現実を受け入れて、日系人の人々は収容所周辺に新しく水を引いて農地を開墾して野菜を育てたり、庭園を作ったり、家具を作ったりするなど、主体的に生活を切り開こうとしました。(参照:語り継がれる、戦時中の収容所での暮らし~アイリーン・マノさん:North American Post, 6/11/2018: https://www.napost.com/ja/the-story-of-life-in-japanese-american-concentration-camp/)

 

下記の6枚の写真は、収容所での子ども達の様子です。これまで慣れ親しんできた自宅から、遠く離れて、プライバシーもなく、米兵の見張りもいるような収容所では、子どもながらにいろいろな不安や不満、そして怖さもあったかと思います。しかしながら、それでも無邪気に見せる子ども達の笑顔は、親を含むすべての大人達にとってもかけがえのないものであったと思います。

 


Left: Manzanar Relocation Center, Manzanar, California. These youngsters are playing in the field of a nursery school at Manzanar, a War Relocation Authority center where evacuees of Japanese descent will spend the duration. 210-G-D518: Series: Central Photographic File of the War Relocation Authority, 1942-1945, Record Group 210: Records of the War Relocation Authority, 1941-1989: National Archives, College Park, MD:  https://catalog.archives.gov/id/538487

 

Right: Poston, Arizona. These two little evacuees of Japanese ancestry are getting acquainted at this War Relocation Authority center. 210-G-D566 Series: Central Photographic File of the War Relocation Authority, 1942-1945, Record Group 210: Records of the War Relocation Authority, 1941-1989: National Archives, College Park, MD:  https://catalog.archives.gov/id/538531

 

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ペリー来航と下田の黒船祭

米国の東インド艦隊司令長官兼米使提督のマシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry)は軍艦4隻を率いて、1853年(嘉永6年)の6月に浦賀沖(神奈川県)に来航しました。その翌年、ペリーは再び来航し、幕府との間で日米和親条約を結ぶことになります。こうして日本は200年以上続いた鎖国政策が解かれました。その後、ペルー艦隊は1854年3月に静岡県の下田に来航することになります。(参照: https://www.city.shimoda.shizuoka.jp/category/100400shimodanorekishi/110778.html

 

 

Commodore. Matthew C. Perry

 

Series: 19th Century Prints Brady and Quartermaster Photographic Prints, and Other Civil War Views, ca. 1860 – ca. 1941; Record Group 165: Records of the War department General and Special Staffs, 1860 – 1952; National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC Identifier 167250856) at www.archives.gov; April 22, 2020]

 

下は、1854年3月付の下田湾の調査地図です。注釈には『アメリカ人が制限なしに移動できる周辺を表す』また『この表は日米間の条約に付随するものである』と記されています。

 

 

Map of Shimoda Harbor, Japan.

 

Record Group 11: General Records of the United States Government, 1778 – 2006. Series: Maps Relating to Treaty Negotiations and Executive Agreements, 1819 – 1978; National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC Identifier 2619342) at www.archives.gov; April 22, 2020]

その後、下田市では1934年(昭和9年)から下田開港に偉業を遂げた内外の先賢と世界平和、国際親善に寄与するために『黒船祭』が始まったそうです。(参照:https://www.shimoda-city.info/event/kurofune.html

 

 戦後の1947年(昭和22年)には下田市でペリー提督上陸から第93周年の式典が行われました。その様子を米国国立公文書館の写真資料からご紹介します。

 

会場は多くの人々で賑わい、地元の女子高校生合唱団も参加しています。山車には黒船の模型などが飾られ当時を再現しています。

 


Left side: Photograph No. 111-SC 288794; Black Ship Festival Day in Shimoda, Japan, July 7, 1947. Crowds of spectators pass through the bamboo entrance to the grounds where the Black Ship Festival is held at Shimoda, Japan, July 7th, commemorating the 93rd Anniversary of Commodore Perry’s landing in Japan in 1854. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.

 

Right side: Photograph No. 111-SC 288796; Black Ship Festival celebrated at Shimoda, Japan: Members of the Shimoda High School girls’ choir join in the ceremonies celebrating the Black Ship Festival Commemorating Commodore Perry’s entry into Japan in 1854. July 7, 1947. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.

 


Left side: Photograph No. 111-SC 288798; Colorful Black Ship Festival Day in Shimoda, Japan, July 7, 1947. Commodore Perry’s flag ship is used as the theme for a float, during the Black Ship Festival in Shimoda, Japan. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.

 

Right side: Photograph No. 111-SC 288800; Black Ship Festival revived in Japan:  July 7, 1947. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.

 

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テディベアと漫画家のクリフォード・ベリーマン

おもちゃとしてのぬいぐるみは自分の子どものころの記憶の中にあります。米国で、娘が生まれたときにも自宅にもたくさんのぬいぐるみを家族や友人からもらい、また自分でもよく買っていたかと思います。米国にもいろいろなぬいぐるみがありますが、やはり人気があるのは熊のテディベアです。

 

下記の写真の上は、ニューヨーク州のオイスターベイ市のサガモア・ヒルに今もある、米国の第26代のセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt) 大統領の邸宅内のテディベアの写真です。下は、私の自宅にあるものの写真です。今回は、こうしたテディベアに関係する資料について、ご紹介したいと思います。

 

Teddy bear collection on site at Sagamore Hill; home of President Theodore Roosevelt.

New York: 022-DP-10960.JPG: Series: Photographs from the National Digital Library, ca. 1998-2011: RG22: Records of the U.S. Fish and Wildlife Service, 1868-2008. National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/166711650

 

 

 

Teddy bears at my house on 4/10/2020

 


 

米国第26代大統領であったセオドア・ルーズベルトは、1902年11月に、当時ミシシッピ州とルイジアナ州との州堺の問題を解決するためにミシシッピ州へ出向きました。そこで自分の趣味であった狩猟も行いましたが、熊を仕留めることができず、見かねたガイドが、自分で生け捕りにした熊をを鎖に繋いでセオドア・ルーズベルト大統領に撃たせようとしました。が、彼はそれを拒否しました。その話を当時のワシントンDCの新聞のワシントンポストで風刺画担当のクリフォード・ベリーマン(Clifford Berryman) が、漫画にしました。

 

その漫画は、米国国立議会図書館に所蔵されており、ウェッブサイトで以下のように見ることができます。

 

Drawing the line in Mississippi: 11/16/1902 by Berryman, Clifford Kennedy, 1869-1949, artist: Summary: Photograph reproduces a newspaper cartoon in the Washington Post. The cartoon is a detail from a series called "The Passing Show" about President Theodore Roosevelt's purported refusal to shoot a chained bear while on a hunting trip in Mississippi. The little bear, Bruin, became so popular that Berryman used him frequently in later cartoons on many different topics. Although Berryman helped popularize the association of Teddy Roosevelt with bears, he did not invent the toy teddy bear. (Source: Teddy Bear Men: Theodore Roosevelt and Clifford Berryman, by Linda Mullins, 1987, p. 32-3.): Library of Congress: https://www.loc.gov/item/2008678324/

 

この漫画を見て、ニューヨーク市内で菓子屋を営んでいた、モリス・ミットム(Morris Michtom)が彼の妻とともに、熊のぬいぐるみを作ってセオドア・ルーズベルト大統領の愛称であるテディにちなんでテディベアとして売り始めました。また、それ以前からすでにぬいぐるみを作っていたドイツのシュタイフ社(Steiff)もテディベアを作ることになり、さらにテディベアは人気を博していきました。(参考:テディベアの歴史:一般財団法人日本玩具文化財団:http://toyculture.org/%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F/%E3%83%86%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%99%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

 

ワシントンDCの新聞であるワシントンポストの漫画家であったクリフォード・ベリーマン(Clifford Berryman)は、1869年にケンタッキー州で生まれました。すでに17歳でワシントンDCの米国の特許事務所で製図者となり、その2年後の1891年にはワシントンポストの漫画家の代わりに漫画を描くようになり、さらに5年後には、その新聞社のトップの政治風刺画担当者になるという活躍ぶりでした。そ1896年から亡くなる1949年までの50年間、彼の漫画はワシントンポストや、ワシントンイブニングスターにほとんど毎日のように掲載されました。(参照:Candidates, Campaigns, and the Cartoons of Clifford Berryman:US Senate: https://www.senate.gov/artandhistory/art/Art_Spotlights/Berryman_Cartoons.htm

 

下記の漫画は、クリフォード・ベリーマンの自画像です。彼が、セオドア・ルーズベルト大統領の狩猟時に鎖で繋がれた熊の射殺を拒否した話を漫画にしてから、テディベアはアメリカ合衆国の象徴的なものになりました。クリフォード ベリーマンは自分の漫画の中でその熊をかわいい、抱きしめたいようなテディベアに変えることにして、それが彼の漫画の中でのシンボルとなりました。

 

Self-Portrait of Clifford Berryman: Clifford Berryman is credited with introducing the teddy bear into the American vernacular after President Theodore Roosevelt famously refused to shoot an old, haggard bear during a hunting trip. Berryman changed the old bear into a cute, cuddly "teddy bear" -- named for the President -- and it became a common symbol in Berryman's cartoon. This cartoon shows a self-portrait of Berryman drawing his famous teddy bear. 1904: Series: Berryman Political Cartoon Collection, 1896-1949: Record Group 46: Records of the US Senate, 1789-2015: National Archives in College Park, MD. 2979338: https://catalog.archives.gov/id/2979338

 

米国国立公文書館には、上記のクリフォード・ベリーマンの自画像を含め合計2359枚の漫画が保管されています。それらのすべてを、オンラインで見ることができます。 それらの漫画の中には、テディベアそのものが宣伝として、中心となるようなものも1部ありますが、ほどんどは、漫画の中で、テディベアは脇役としてさりげなく、描かれています。それらの中からいくつかをご紹介したいと思います。

 

To the woods! 11/1/1906: This cartoon features President Theodore Roosevelt and the Teddy Bear character.: Series: Berryman Political Cartoon Collection, 1896-1949: Record Group 46: Records of the US Senate, 1789-2015: National Archives in College Park, MD: ARC No. 306110: https://catalog.archives.gov/id/306110

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Untitled 4/15/1905: This untitled illustration by cartoonist Clifford Berryman, which appeared in the Washington Post on April 15, 1905, Berryman uses his famous teddy bear as advertising the Washington Post as "Washington's Favorite Newspaper.": Series: Berryman Political Cartoon Collection, 1896-1949: Record Group 46: Records of the US Senate, 1789-2015: National Archives in College Park, MD: ARC No. 6010566: https://catalog.archives.gov/id/6010566

 

 


上記の上の漫画については、米国国立公文書館のサイト上には、特にキャプションは掲載されていませんが、ホワイトハウスを後にして、パインノット(Pine Knot)へ向かう様子が、描かれています。これは、当時のセオドア・ルーズベルト大統領が、就任時代の休みに、時々バージニア州のシャーロッツ市にあったパインノット(Pine Knot)という山小屋に行っていたことを示すものだと思います。本来は休みのはずですが、彼は手にインクと紙を持っているので、おそらくその山小屋に仕事を持ち込まければならなかったほど忙しかったのではないかと思われます。ホワイトハウスにはすでにいろいろな懸案事項が山積して、テディベアがそれを不安げな顔で見守りながら、大統領の後をついていく姿が印象的です。

 

上記の下の写真は、当時のワシントンポスト日曜版の宣伝のために使われたテディベアの漫画です。

 

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デコレーションケーキ

新型コロナウィルス (COVID-19)のため、国家非常事態宣言が出た時に、食料品の買い物や少しの運動時間以外、外出もままならない毎日が続いていました。家にいる時間が長いため、お菓子やパンを自宅で作る人たちが多くなり、お店に行っても小麦粉、イースト、砂糖や他の材料が売り切れてしまいました。

そこでケーキに関する資料を探してみました。色々なデコレーションケーキの写真を米国公文書館のオンラインカタログから見つけました。

 

最初はウェディングケーキです。

Ronald Reagan and Nancy Reagan Cutting Cake at William Holden's House after their Wedding in Toluca Lake, California,3/4/1952; Reagan White House Photographs, 1/20/1981 - 1/20/1989; Collection RR-WHPO White House Photographic Collection, 1/20/1981 - 1/20/1989; Ronald Reagan Library [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 6728664) at www.archives.gov; April 13, 2020]

ケーキにナイフを入れようとしているのは、ドナルド・レーガンとナンシー夫人です。この写真は結婚式の後、「戦場に架ける橋」や「愛しのサブリナ」その他多くの人気映画に出演し、世界的俳優となったウィリアム・ホールデンの家で撮影されました。

 

GERMAN IMMIGRANT HANS STRZYSO IS THE CHIEF BAKER AT MADSENS SUPERMARKET. HE SPECIALIZES IN ALL TYPES OF DECORATED CAKES AND ETHNIC GERMAN BAKED GOODS WHICH ARE MADE FRESH DAILY. NEW ULM IS A COUNTY SEAT TRADING CENTER OF 13,000 IN A FARMING AREA OF SOUTH CENTRAL MINNESOTA. IT WAS FOUNDED BY A GERMAN IMMIGRANT LAND COMPANY IN 1854 THAT ENCOURAGED ITS KINSMEN TO EMIGRATE FROM EUROPE. THE TOWN CONTINUES TO GROW WITH ARRIVAL OF MANUFACTURING FIRMS 7/1974; DOCUMERICA: The Environmental Protection Agency's Program to Photographically Document Subjects of Environmental Concern, 1972 – 1977; RG 412 Records of the Environmental Protection Agency, 1944 – 2006; National Archives at College Park, MD and others[online version available through the Archival Research Catalog (ARC 558347) at www.archives.gov; April 13, 2020]

ミネソタ州のスーパーマーケットでケーキシェフのハンスさんが、毎日手作りしているデコレーションケーキです。ハンスさんはドイツからの移民で、あらゆる種類のデコレーションケーキとドイツ菓子を得意としています。少し昔ではありますが、スーパーマーケットでこんなヨーロッパ風の手作りのケーキが買えたなんていいですね。

 

Chef René Verdon Holds a Cake Prepared for President John F. Kennedy's Birthday, 5/29/1963; Cecil Stoughton's White House Photographs, 1/29/1961 - 12/31/1963; Collection JFK-WHP White House Photographs, 12/19/1960 - 3/11/1964; John F. Kennedy Library [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 6816414) at www.archives.gov; April 13, 2020]

ケネディー大統領のバースデーケーキを披露する、ホワイトハウスのフランス人シェフのルネ・バードンさんです。シンプルなケーキです。

 

A cake in the form of the Pentagon during the 50th Anniversary celebration of the Pentagon, in Washington, D.C., on May 12, 1993. OSD Package No. A07D-00209 (DOD PHOTO by Robert D. Ward) (Released) 5/12/1993; Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 – 2007; RG330 Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921 – 2008; National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC 6681477) at www.archives.gov; April 13, 2020]

 

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アメリカ同時多発テロ事件

2001年9月11日の朝、米国ニューヨーク、マンハッタンにあったワールドトレードセンターにハイジャックされた旅客機が衝突しました。当時、日本でテレビ番組を見ていた私は、次の瞬間、民放全てのチャンネルが次々と、まるで映画のワンシーンを映し出しているかのような光景の画面に変わっている事に気づいたのを今でも鮮明に覚えています。その映像はワールドトレードセンター・ツインタワーの北棟に旅客機が衝突した事によって、そこから黒煙が上がっている様子でした。この映像に世界中の人々の目が釘付けになっていた時、2機目の旅客機がワールドトレードセンター・ツインタワーの南棟に衝突し炎上しました。この時点でアメリカ国民の大半、少なくともアメリカ政府はテロ攻撃だと理解をしたといわれています。

 

標的となったのはワールドトレードセンター・ツインタワーの他にも米国国防総省本庁舎(ペンタゴン)ですが、これら以外にも、もう1機、ハイジャックに成功しワシントンD.C.へ向かっていた旅客機もありますが、成功したのはハイジャックまでで乗客・搭乗員がテロ攻撃を阻止した事で失敗へと終わっています。このUnited 93(またはFlight93)の物語もテロ攻撃後からとても広く知られています。

 

(The National Commission on Terrorist Attacks Upon the United Statesによって作成されたハイジャックされた旅客機のポスター。この資料と同時にテロ攻撃の詳細なタイムラインも閲覧する事ができます。)

 

Map of Four Flights and Timeline of Events on September 11, 2001, Series: Records of the Commission's General Services Administration Building Office, 3/2003 - 8/2004 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:5899988) at https://catalog.archives.gov/id/5899988 on 5/4/2020] These poster size graphics were made by the staff of the National Commission on Terrorist Attacks Upon the United States, more popularly known as the 9/11 Commission, for display during the Commission's public hearings. They depict the movements and timeline of events related to the four planes hijacked by terrorists on the morning of September 11, 2001, as well as the U.S. Air Force fighters that were scrambled to intercept them.

 

米国国立公文書館にはこの事件に関連する膨大な量の資料が保管されています。その一部はセキュリティー上、いまだ見る事ができないものもあるという事です。このブログでは被害にあったワールドトレードセンターと米国国防総省本庁舎(ペンタゴン)の被害状況から復興へと向かった現場を記録した写真をいくつか紹介します。

 


写真(左)ワールドトレードセンターの被害を上空から撮影した写真[9/15/2001]An aerial view, days after the terrorist attacks on American soil, the towers of the World Trade Center (WTC) sit as a pile of rubble in the streets of New York City. The rescue and recovery efforts continue with tons of debris slowly removed from the site. The view is toward the northwest, with an American flag draped on World Financial Center (WFC) tower two, and the Verizon Building on the right , Series: Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 - 2007[Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:6604923) at https://catalog.archives.gov/id/6604923 on 5/4/2020]

 

写真(右)ペンタゴンの被害を上空から撮影した写真[9/14/2001]An aerial view, two days later, of the impact point on the Pentagon where the hijacked American Airlines Flight 77, a Boeing 757-200 entered, breaking up in the process. Shortly after 8 AM on September 11, 2001 in an attempt to frighten the American people, five members of Al-Qaida, a group of fundamentalist Islamic Muslims, hijacked Flight 77 from Dulles International Airport just outside Washington DC. About 9:30 AM they flew the aircraft and 64 passengers into the side of the Pentagon. The impact destroyed or damaged four of the five "rings," in that section, that circle the building. That section of the Pentagon was in the finishing stages of a renovation program to re-enforce and ... , Series: Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 - 2007[Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:6523868) at https://catalog.archives.gov/id/6523868 on 5/4/2020]

 


写真(左)ペンタゴン建物内部の被害 View of a damaged office on the fifth floor of the Pentagon. Shortly after 8 AM on September 11, 2001 in an attempt to frighten the American people, five members of Al-Qaida, a group of fundamentalist Islamic Muslims, hijacked American Airlines Flight 77, a Boeing 757-200, from Dulles International Airport just outside Washington DC. About 9:30 AM they flew the aircraft and 64 passengers into the side of the Pentagon. The impact destroyed or damaged four of the five "rings" in that section that circle the building. That section of the Pentagon was in the finishing stages of a renovation program to re-enforce and update the building. Fire fighters fought the fire through the night. The ... , Series: Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 - 2007[Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:6523865) at https://catalog.archives.gov/id/6523865 on 5/5/2020]

 

写真(右)ペンタゴン建物内部の被害(旅客機が衝突した衝撃で止まった時計)A clock, frozen at the time of impact, inside the Pentagon. Shortly after 8 AM on September 11, 2001 in an attempt to frighten the American people, five members of Al-Qaida, a group of fundamentalist Islamic Muslims, hijacked American Airlines Flight 77, a Boeing 757-200, from Dulles International Airport just outside Washington DC. About 9:30 AM they flew the aircraft and 64 passengers into the side of the Pentagon. The impact destroyed or damaged four of the five "rings" in that section that circle the building. That section of the Pentagon was in the finishing stages of a renovation program to re-enforce and update the building. Fire fighters fought the fire through the night. The ..., Series: Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 - 2007[Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:6523866) at https://catalog.archives.gov/id/6523866 on 5/5/2020] 

 

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戦後の女性パイオニアたち

米国国立公文書館に保存されている写真の中に、戦後の日本で女性が社会進出をし、活躍している姿を撮影したものがあります。それらを見ていると、戦争で混乱していた社会から新しい時代へと向かって行っている時代の流れと人々の力強さを感じます。今回は、そんな女性パイオニアたちが映っている写真をいくつかご紹介したいと思います。

 

戦前の法曹関係では、1933年の弁護士法の改正と1936年の施行により、女性にもすでに弁護士への道が開けていました。1938年には女性3名が高等文官司法科試験に合格し、そして、1940年には正式に女性弁護士が誕生していました。しかし、女性裁判官と女性検察官が誕生したのは戦後の1949年のことでした。下の写真は、女性初の裁判官となった石渡満子さんです。1949年5月17日に司法修習生の修習を終え、証書を受け取っている様子です。

 

 

FIRST JAPANESE WOMAN JUDGE: Miss Mitsuko Ishiwata receives her judicial research and training institute diploma from Deputy Chief Justice of the Supreme Court of Japan. This qualified her as a legal counsellor at law and she will be appointed a full fledged judge next week by the attorney general. She will be the first woman in Japan to achieve this position. 17 May 1949.

Photograph No. SC-321725: Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, College Park, MD. 

民主化の第一歩となる婦人参政権ですが、1945年の11月に、女性の参政権を含む衆議院選挙法が改正され、1946年4月10日に行われた衆議院総選挙では、女性が初めて選挙に参加することができました。女性参政権行使を促すためにポスターや新聞など様々なものが使用され、さらに講演なども行われたそうです。

 

下の写真は、説明書きにはJapanese Voting, 1946, Tokyoとしか書かれていないので、詳細はわかりませんが、1946年に女性が投票している様子を撮影したものです。

 

 

Photograph No. 20505: RG208 Box14 Folder:208-PR-QR Foreign countries -Japan; National Archives at College Park, College Park, MD.

1946年の衆議院総選挙では39人の女性議員が当選し、衆議院での女性議員の割合は8.4%を占めたようです。下の写真は、1946年4月25日に開かれた婦人議員クラブ結成を目的とした会合の様子です。中央に立って話をしているのは当選した女性議員の一人である加藤シヅエ議員です。

 

With the aim of organizing the Women Diet Members’ Club, Mrs. Shizue Kato, Social democrat, is shown speaking to twenty-one of thirty-nine women members of Japanese Diet, at first meeting since election, in the Diet Building, Tokyo, Japan. 25 April 46.

Photograph No. SC-244450: Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, College Park, MD. 

現在では、警察内の様々な分野で活躍をしている女性の警察官が多く存在しますが、婦人警察官(現在では女性警察官に改称。)が誕生したのは1946年のことでした。1946年4月27日、東京で初の婦人警察官たちの警察訓練学校の卒業式が行われました。下の写真は警視総監のバレンタイ氏と通訳の女性、そして卒業生の婦人警察官です。

 

もう一枚の写真は、笛を口にくわえ、東京の街中の交通量が多い交差点で、歩行者が安全に横断できるよう交通整理をしている婦人警官の姿です。

 

 

Commissioner Lewis J. Valentines (second from left) accompanied by Japanese Police Chief (left) and Valentine’s female interpreter (second from right) interviews one of the girls graduating in the First women’s Police Corps. Tokyo, Japan. The exercise took place at the Police Training School, Tokyo, Japan. 4/27/46.

Photograph No. SC-244453: Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, College Park, MD. 

 

Japanese Woman Policeman keeps pedestrians in safety walk at busy intersection in downtown Tokyo Japan. This new addition to the Japanese Police has helped to promote safety and prevent accidents in conjected traffic areas throughout the city. 11 June

Photograph No. SC-249690: Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, College Park, MD.

 

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通信装置

世代を超えて人々は常に情報を共有し合いながら生活しています。

今では当たり前に使用し社会生活に不可欠となっているインターネットも1960年代からの急速な普及や研究、開発の進化により、より速く簡単に詳細な情報が世界中から入手出来るようになりました。(参考:インターネット歴史年表:JPNIC 日本ネットワークインフォメーションセンター:https://www.nic.ad.jp/timeline/

 

米国国立公文書館が所蔵している日本関係写真の中には、戦時中又は戦後に使用されていた通信機器やそれに関する写真が保存されています。これらの写真は、通信装置の専門家ではなくとも設置されていた場所や環境などからも興味深く見ることが出来ます。特に、電話交換機を手動で操作していた電話交換手や圧縮空気圧を利用して電報を送る気送管(エアーシューター)を使っての作業風景は今の21世紀には存在しない仕事でもあり、とても新鮮に見えます。今回はそのいくつかをご紹介します。

北海道室蘭市、日本製鋼所の防空壕内の交換台で働く女性達。

 

Photograph No. 111-SC 221142; Switchboard operated in air-raid shelter at Muroran works, Japanese steel works, Ltd. (Muroran, Hokkaido, Japan) Oct 25, 1945. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.

 

鹿児島県名瀬市(現在は奄美市)の電話、ラジオセンター。


Left side: Photograph No. 111-SC 249542; At Naze, Amami O Shima, A Party of personnel with Major Heck found a civilian telephone and radio center. This shows the radio part or section of the center. Oct 6, 1945. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.

 

Right side: Photograph No. 111-SC 249543; The telephone section of the center. Oct 6, 1945. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.

 

 

九州の海軍基地の洞窟内に作られていたラジオの送受信センター。

 

Photograph No. 111-SC 218689; Japanese radio sending and receiving station, built in caves at Sasebo Naval Station, Kyushu, Japan. Out 21, 1945. . Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.

 

木箱に収められていた送信機。

 

Photograph No. 111-SC 248923; Japanese Range Transmitter azimuth model 98. Dec 20, 1945. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.

 

下の2枚は中央通信局内の写真です。右は交換機が置かれているコントロール室。左は気送管が印象的な配信室です。チューブの根本にはそれぞれ地区の名前が書かれており、ここでは「深川管」、「築地管」の文字が読み取れます。


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星条旗を謳った国歌

 

国歌斉唱時に愛国心を示すアーカンソー州地元住民、アーカンソー州リトルロック空軍基地、314部隊空輸航空団、2004年ハートランドの英雄たちによる航空ショーにて

 

Patriotism on display by local residents of Arkansas during the singing of the National Anthem at the 314th Airlift Wing (AW) sponsored 2004 Heroes of the Heartland Air Show at Little Rock Air Force Base (AFB), AR

 

RG 330; Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921-2008; Combined Military Service Digital Photographic FIles, 1982-2007; National Archives at College Park, MD; [online version available through the National Archives Catalog (National Archives Identifier 6664005) at www.archives.gov; April 28, 2020]

アメリカにいらっしゃると、星条旗を至る所で目にされることと思います。公共機関の建物だけでなく、事務所ビルや商業施設、家の軒先に国旗を掲揚する家庭もあります。超特大サイズのものがはためき目を引く車の販売店もあります。

 

アメリカの国旗は、独立戦争最中の1777年6月14日、第2回大陸会議内で合衆国旗のデザインを決議したことに基づき、今ではこの日が国旗記念日となりました。https://www.military.com/flag-day

その後再びイギリスとの戦争時、1814年9月の戦下で旗を詠んだ詩が人々に親しまれ、のちに国歌として制定されていきました。

 

そんな背景を、米国国立公文書館と連邦議会図書館の資料から辿ってみたいと思います。

 

 

独立戦争後19世紀初頭のアメリカは、フランスからのルイジアナ買収やルイス・クラーク探検隊の西部への道のり開拓など、国として領土拡大を模索しているような時期です。

英国は、大西洋の覇権を握り、米仏の貿易を妨害し、アメリカ船を拿捕し船員を拉致して英軍に引き込んだり、一方アメリカ大陸では影響力保持のため、カナダを掌握したいアメリカに対抗し、カナダ先住民へ戦力支援し、と両国の関係は友好的とは言えない関係にありました。

参照サイト:https://www.britannica.com/event/War-of-1812

      https://amhistory.si.edu/militaryhistory/printable/section.asp?id=2

 

結果1812年には米英戦争となり、北部カナダとの争いから始まり、ナポレオンとの戦争も終結したイギリスは戦力を東海岸に向け、主要な港が狙われ、首都ワシントンDCも戦場となりました。首都も陥落し、戦いはボルチモア港へ移ります。1814年9月のことです。

 

 

 

マクヘンリー要塞の空撮写真

 

An aerial view of historic Fort McHenry guarding the harbor entrance. It was here, in August 1814, that Francis Scott Key wrote the National 'Anthem at dawn's early light after he had watched British naval forces bombard the fort all night long without forcing its surrender. The American defends unfurled a large American flag and the British Admiral in charge gave up and sailed home; 

 

RG 330; Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921-2008; Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982-2008; National Archives at College Park, MD; [online version available through the National Archives Catalog (National Archives Identifier 6490435) at www.archives.gov; April 28, 2020] 

 

 

マクヘンリー要塞(Fort McHenry)は、この地図の左上、ボルチモア(BALTIMORE)市街の手前、パタプスコ川(PATAPSCO RIVER)の河口にあります。

 

Fort McHenry National Monument Battle Map, Project Years 2004-2012; 

 

RG 79; Records of the National Park Service, 1785-2006; National Archives at College Park, MD; [online version available through the National Archives Catalog (National Archives Identifier 33753902) at www.archives.gov; April 28, 2020]

 

ワシントンDCの弁護士、フランシス・スコット・キー(Francis Scott Key)氏は、第4代ジェームス・マディソン大統領の任で、英軍との捕虜交渉にあたります。

 

要塞沖の英軍船内で交渉は行われ円満に進みながらも、そのまま戦火に巻き込まれてしまいます。

アメリカ軍は要塞で防衛、イギリス軍は海上から攻撃、1814年9月13日からはじまり、翌14日まで25時間にも及んだそうです。

 

参照サイト:https://www.battlefields.org/learn/war-1812/battles/fort-mchenry

 

戦火の中、明け方の日のなかで星条旗がみられた喜びを詩によみ綴り、後日受け取った兄の働きでそのまま地元新聞に掲載されます。

 

 

フランシス・スコット・キー氏直筆 米国国歌 歌詞

 

KEY, FRANCIS SCOTT. ORIGINAL MANUSCRIPT OF 'STAR SPANGLED BANNER’;

Harris & Ewing, photographer. KEY, FRANCIS SCOTT. ORIGINAL MANUSCRIPT OF 'STAR SPANGLED BANNER'. , 1914. Photograph. https://www.loc.gov/item/2016865604/.

 

原典タイトルは「マクヘンリー要塞の防衛、The Defence of Fort McHenry」とつけられました。こちらのリンクは、書かれた当時のままの詩を載せています。

https://amhistory.si.edu/starspangledbanner/pdf/ssb_lyrics.pdf

 

メロディーの方は、1760年代にイギリスの社交クラブの曲として作られていたもので、英米で流行り、変え歌にしたりしながら親しまれていたものです。兄も、この曲に合わせて歌うのを思い描いていたようです。

 

■スーザ吹奏楽団よる演奏音源: Anacreontic Song Audio Recording, 1898;

Sousa'S Band. Star Spangled Banner. Berliner, New York, NY, 1898. Audio. https://www.loc.gov/item/ihas.100000221/.

 

 

The Anacreontic song; Smith, John Stafford, and Ralph Tomlinson. The Anacreontic song. [A. Bland's Music Warehouse, London, England, ?, ca. 1790] Notated Music. 

 

https://www.loc.gov/item/ihas.100010458

 

 

参照サイト:https://loc.gov/item/ihas.200000017

 

私的な集まり等で歌い継がれながら、19世器後半、海軍の旗掲揚時に演奏されたことが公の場での始まりだそうです。

野球の試合にも受け継がれ、第一次世界大戦中1918年のワールドシリーズの場に由来するそうです。ベイ・ブルースが所属したボストン・レッドソックスとシカゴ・カブスの試合でした。

 

参照サイト:https://www.mlb.com/cut4/the-1918-world-series-and-the-debut-of-the-national-anthem-in-american-sports-c2

https://www.history.com/news/why-the-star-spangled-banner-is-played-at-sporting-events

 

民衆の議会への働きかけもあり、1931年ウィルソン大統領のもとで国歌として制定されました。

日本では雛祭りにあたる、3月3日が国歌認定記念日となっています。

https://nationaldaycalendar.com/national-anthem-day-march-3/

 

国歌に謳われた当時の旗は、現在スミソニアンの国立アメリカ歴史博物館(National Museum of American History)でご覧いただけます。

https://amhistory.si.edu/starspangledbanner/visit.aspx

 

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アメリカ合衆国での日本食

日本の食べ物は、アメリカ国内でとても人気があります。お菓子ではハイチュウとポッキーは誰もが知っています。日本料理というと、やはり寿司が一番認識されていますが若い世代ではラーメンやうどんといった麺類も人気です。照り焼きチキン、天ぷらもこちらの日本食レストランの定番です。

 

米国での日本食をさかのぼると、日本との距離が近く日本からの移民も多かった西海岸、特にカリフォルニア州から始まりましたが、全米として見るとそこまで普及はされていなかったように思います。しかし1970年代後半から1980年代に健康食としてのスシブームが起こり、そこから進化していったようです。スシブームの頃はカリフォルニアロールに代表される、生ものの魚を使わなく創作的で、日本人からすると「これがお寿司?」というものでしたが、今は普通に生ものを使った握り寿司や巻きずしを食べることができます。

 

「和食」が2013年にユネスコ無形文化遺産に登録されたのもあるかと思いますが、日本料理は今や一つの地位を確立しています。

(参考出典:平成 30 年度 米国における日本食レストラン動向調査-ジェトロhttps://www.jetro.go.jp/ext_images/_Reports/02/2018/c928ae49736af7f3/us-report-201812r2.pdf )

 

米国国立公文書館のオンライン資料の中で以下のような写真を見つけました。

 

Sushi being Prepared in Grocery Store, 6/15/2000; Photographs of Agency Activities, ca. 1969 - ca. 2005; RG 16 Records of the Office of the Secretary of Agriculture, 1794 - ca. 2003; National Archives at College Park, MD and other locations [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 83228767) at www.archives.gov; April 3, 2020]

 

スーパーでお寿司を作っています。巻物はカリフォルニアロールっぽいですね。ごく普通のにぎり寿司も作られています。今はほとんどのスーパーでこういったパックに入ったお寿司が売られています。

 

Sushi dishes on display in a restaurant; Combined Military Digital Service Photographic Files 1982-2007; RG330 Records of the Office of the Secretary of Defense, 1982 – 2008; National Archives at College Park, MD  [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 6433030) at www.archives.gov; April 3, 2020]

 

上記は日本の食堂でのお寿司の見本です。こんな写真が米国公文書館にあるのが面白いですね。

 

ラーメンの写真は探すことができませんでしたが、意外にもうどんを扱った写真がありました。

 

US Marine Corps (USMC) STAFF Sergeant (SSGT) Robert Thomas (left) Legal Services CHIEF, from Marine Corps Air Station (MCAS) Iwakuni, Japan, eats "Udon" noodles with Japanese Maritime Self Defense Force (JMSDF) Sailors, during his visit aboard Camp Otsu, Japan, 5/28/2004; Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 – 2007; RG330 Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921 – 2008; National Archives at College Park, MD  [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 6666197) at www.archives.gov; April 3, 2020]

 

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レイチェル・カーソン(Rachel Carson)

朝目覚めるころには、いつもいろいろな鳥の美しいさえずりが聞こえます。コロナ禍の前までは朝も非常に忙しかったのでそうしたさえずりを楽しむ余裕もありませんでしたが、現在はテレワークのために、そうしたものにも自ずと意識して耳を傾けるようになりました。そこから、ふと、レイチェル・カーソン(Rachel Carson)が書いた有名な『沈黙の春』(Silent Spring)を思い出しました。

 

アメリカ合衆国の海洋生物学者であったレイチェル・カーソンが1962年に出版した『沈黙の春』は、人間が化学物質を乱用し続けていくと生態系が破壊され、やがては春がきても鳥たちは鳴くことなくミツバチも飛ばないような沈黙した春を迎えるようになるかもしれないといった話から始まる、化学物質による環境汚染への警告を提示した本でした。

 

今回は、このレイチェル・カーソンに関する米国国立公文書館の資料や関連サイトなどをご紹介したいと思います。

 


Left: Rachel Carson, 1944 - Author, editor and aquatic biologist with the U.S. Fish and Wildlife Service.  022-DP-10780.jpg: Series: Photographs from the National Digital Library, ca. 1998 - 2011

Record Group 22: Records of the U.S. Fish and Wildlife Service, 1868 - 2008: National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/166711290

 

Right: National wildlife artist Bob Hines (1912 - 1994) and agency writer and editor Rachel Carson (1907 -1964) spent many hours along the Atlantic coast visiting national wildlife refuges and gathering material for many of the agency's pamphlets and technical. 022-DP-03215.jpg : Series: Photographs from the National Digital Library, ca. 1998 - 2011 Record Group 22: Records of the U.S. Fish and Wildlife Service, 1868 - 2008:Record Group 22: Records of the U.S. Fish and Wildlife Service, 1868 - 2008: National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/166696164

 

レイチェル・カーソンは、1907年5月27日にペンシルバニア州のスプリングデール(Springdale, PA)で生まれました。そこは、大きな森林や小川に恵まれ、野生生物がたくさん存在していたところで彼女はそうした環境に小さいころから慣れ親しんでいました。やがて、彼女は、ピッツバーグ市内のペンシルバニア女子大学(Pennsylvania College for Women: 現在のチャタム大学: Chatham University)に入学しました。もともと小さい頃から物語を書くのが得意で、大学では当初英文学が専攻でしたが、そのあと海洋生物学を専攻するようになりました。1932年にはジョンホプキンス大学(John Hopkins University)で動物学の修士課程を修了し、その後は、米国漁業局(United States Bureau of Fisheries: その後は米国魚類野生生物局、United States Fish and Wildlife Service となる。)に科学者かつ編集者として勤務するようになりました。(参照:Rachel Carson’s Biography: https://www.rachelcarson.org/Bio.aspx 及びRachel Carson’s Biography: https://www.fws.gov/refuge/Rachel_Carson/about/rachelcarson.html

 

上記の写真は、そのころのもので、左は、1944年のレイチェル・カーソンの写真で広く知られているもので、右は、当時の同僚でもあり、かつ野生生物を描く画家でもあったロバート・ハインツ(Robert Hines)と一緒に海洋生物の研究のために収集活動をしていたときのものです。

 

レイチェル・カーソンは、米国魚類野生生物局(United States Fish and Wildlife Service)の出版物に関する編集長になり、個人としても、出版活動を始めていきました。 最初の本格的な出版は、海辺の魚類、鳥類、哺乳類の生態を描いた1941年の『潮風の下で』(Under the Sea-Wind)という本でした。1951年には、『われらをめぐる海』(The Sea Around Us)という本を出版し、ありとあらゆる生命体の母体である海の歴史について書かれたものでベストセラーになりました。その後、米国魚類野生生物局を退職して執筆活動に専念するようになりました。1956年の『海辺』(The Edge of the Sea)という本は、海辺に棲む様々な生き物の生態をとらえたもので、上記の写真にある、元同僚かつ画家であったロバート・ハインツが生物の絵を書きました。海を中心とした環境への関心は、環境保護学としての考察を深めることになりました。(参照:https://www.rachelcarson.org/Books.aspx 及び、https://www.fws.gov/refuge/Rachel_Carson/about/rachelcarson.html )

 

こうした実績をもとに、レイチェル・カーソンは、1962年、『沈黙の春』を出版しました。農薬をはじめとする化学物質が、いかに生態系に有害であり、地球環境への脅威をもたらすのかについて論じました。彼女は、米国魚類野生生物局に勤務していたときから、農薬や殺虫剤には興味を持っており、特にDDT(ディー・ディー・ティー: ジクロロジフェニルトリクロロエタ: dichlorodiphenyltrichloroethane)という有機塩素系物質の危険性を認識していました。

 

DTTといえば、例えば、太平洋戦争中に米軍が戦場でハエやマラリアからの伝染病を防ぐために、DDTを散布したり、戦後直後の日本で虱(しらみ)を通じての伝染病発生を防ぐために、人々に散布されたという写真資料が米国公文書館にもあり、1940年代半ば以降は主力な殺虫剤や農薬として使われていました。下記の写真はそうした状況を示すものです。

 


Left: DDT Spray---Insect Repellent and "DDT" are sprayed and dusted on dungarees which Marines will wear during the assault on Iwo Jima.2/16/1945: File Unit: U.S. Marine Corps Iwo Jima Operation, Volume 1, 1945 - 1945 Series: World War II Navy Command Files , 1942 - 1967

Record Group 38: Records of the Office of the Chief of Naval Operations, 1875 - 2006: National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/32606999

 

Right:  "View of thousands of ants (paratrechine longicornis) killed by D.D.T. (dichloro-diphenyo-trichloroethane) a most effective formula secured in Switzerland early in the present war. Capt. Phillip C. Stone, 0-509556, HRPE entomologist, is shown explaining the problem involved. Photograph taken in basement of Kecoughtan Station Hospital Mess Hall. Official photograph U.S. Army Signal Corps, Hampton Roads Port of Embarkation, Newport News, Virginia. 2/8/1944. 336-H-11-F6322: Series: Photographic Albums of Prints of Hampton Roads Port of Embarkation, 9/1942 - 12/1945 Record Group 336: Records of the Office of the Chief of Transportation, 1917 - 1966: National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/138926244

 


Left: Sasebo Reception Center. Hario Barracks. DDT Dusting. 6/7/1946. Box 599 Photo No. 298335. Record Group 111: Records of the Office of the Chief Signal Officer Photographs: Signal Corps Photographs of American Activity, 1900-1981:  National Archives, College Park, MD

 

Right: Hakata Reception Center, Fukuoka. DDT on baby. 6/10/1946. Box 599 Photo No. 298233. Record Group 111: Records of the Office of the Chief Signal Officer Photographs: Signal Corps Photographs of American Activity, 1900-1981:  National Archives, College Park, MD

 

このように、戦争中や戦後もDDTは世界的に使われていたために、レイチェル・カーソンによる『沈黙の春』という本は、当時の社会にとっては、非常に衝撃的でありました。また1960年代はベトナム戦争が激化し、枯葉剤(defoliant/Agent Orange)が、米軍によってベトナムに大量に散布されつつありました。この本は、瞬く間にベストセラーになり、農薬や殺虫剤の環境へのインパクトがいかに大きなものであるかを世に知らしめることになりました。彼女は、この本を通じて、農薬の完全な禁止を訴えたのではなく、農薬を安全に使うことの必要性や、DDTなどの危険な化学物質の代用品が見つけるための調査も行うことの必要性を説いたにも関わらず、農薬業界側や保守派の政治家は、彼女への誹謗中傷を行う大きなキャンペーンを行いました。こうした動きに対して、この本を読んだ当時のジョン・F・ケネディ大統領(John Fitzgerald Kennedy)は、早速、大統領の科学諮問委員会(President’s Science Advisory Committee: PSAC)にこの本の内容を調査させ、翌年1963年5月に正式な報告書を出すことになり、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』の内容には正当性があることを認め、そこで、レイチェル・カーソンに対する非難を抑えることになりました。

 

こうしたことをきかっけにして、米国では環境問題への関心が強まり1970年の4月22日は地球環境を考える日として最初のアースデー(Earth Day)のイベントが開かれるようになり、また同年には、ニクソン大統領(Richard Milhous Nixon)は環境保護庁(Environmental Protection Agency: EPA)を設立し、化学物質の残留物の許容範囲を設定する権限を与え、1972年にはその環境保護庁が農薬規制を担当することになり、DDTは使用禁止としました。また1976年に成立した有毒物質規制法(Toxic Substances Control Act of 1976)は、環境保護庁は健康または環境への害から国民を守るという役割を持ち、その権限のもとで、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』で問題視されていた、6つの化合物(DDT、クロルデン、ヘプタクロル、ディルドリン、アルドリン、エンドリン)をすべて禁止または厳しく制限するよう行動し、新しい化学物質の試験に対する責任を負うことになりました。

(参照:The US Federal Government Responds: http://www.environmentandsociety.org/exhibitions/rachel-carsons-silent-spring/us-federal-government-responds from Stoll, Mark. “Rachel Carson’s Silent Spring, a Book That changed the World.” Environment & Society Portal, Virtual Exhibitions 2012, no. 1. [updated 6 February 2020]. Version 2.0. Rachel Carson Center for Environment and Society. http://www.environmentandsociety.org/exhibitions/rachel-carsons-silent-spring/introduction

 

レイチェル・カーソンによる『沈黙の春』は、その後の環境問題を考えていく上でバイブル的なものになり、現在まで続く環境問題への取り組みの原点となったと思います。1966年には、メイン州に、渡り鳥にとって貴重な塩湿地や河口を保護する、レイチェル・カーソン国立野生保護区(Rachel Carson National Wildlife Refuge: NWR)が作られました。(Rachel Carson, about Refuge: https://www.fws.gov/refuge/rachel_carson/about.html )米国国立公文書館にはその保護区に関する写真も下記のようにあります。

 

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ワシントンDC、ナショナル・モール: 整備の移り変わり

National Mall and Memorial Park Map 1, Project Years 2004-2012; RG 79, Records of the National Park Service, 1785-2006; Maps of the National Parks, 2004-2012; ; (ARC Identifier: 33754424)  at www. archives. gov; [April 16, 2020] 

 

アメリカ合衆国首都のワシントンDCは、独立戦争後の1790年の首都立地法(Residence Act )の成立を機に、連邦政府と連邦議会の町として整備が始まりました。メリーランド州とバージニア州から領土を得て、ポトマック川とアナコスタ川が中央を通る10マイル(1.6km)四方の土地に連邦機能を持たせる都市整備を謳った法律でした。初代大統領ジョージ・ワシントン (George Washington) は、場所の最終決定権を持ち、街整備の計画者、議会から監督者3名、そして土地測量技師などを任命し遂行させる責任者でもありました。

 

ワシントンDC特有の連邦議会と政府機関の集まる都市作りを、ナショナルモール周辺から追ってみることにいたします。

 

最初の素案を考え出したのは、フランスのパリ生まれのピエール・シャルル・ランファン氏(Pierre Charles L’Enfant)。彼は フランス軍人としてアメリカに渡り、ジョージ・ワシントンのもとアメリカ独立戦争に参戦しました。その後、アメリカでエンジニアとして広く成功した彼は、自ら志願もして、首都の都市計画に携わります。

 

ランファン氏の案:

 

ランファン案ナショナル・モール

United States Office Of Public Buildings And Grounds, Pierre Charles L'Enfant, F. D Owen, Theo. A Bingham, and United States Army. Corps Of Engineers. The Mall as proposed by Pierre L'Enfant: from the original: Washington D.C. [Washington?: Corps of Engineers, U.S. Army, Office of Public Buildings and Grounds, 1791] Map. https://www.loc.gov/item/88690916/

  • 南東に流れるポトマック川が望める丘『Jenkins Hill /現名称:キャピトル・ヒル、Capitol Hill』に連邦議会 <Congress House>を構える。
  • 川岸から議会までの道のり1マイル(1,6km)、幅400フィート(122m)に渡る大通りを設け、公園化する。<現名称:ナショナル・モール/ National Mall>
  • 運河の設置。
  • 大統領の家<President House/ 現名称:ホワイトハウス・White House>はポトマック川を南にのぞみ、連邦議会とは斜めに伸びる道路で連絡。<現名称:ペンシルベニア通り・Pennsylvania Avenue>
  • 周辺市街の通りは格子状に設け、斜めには広めの通りを渡し、交差点に円状や四角い広場を作って公園などを設け、往来を緩和する。

 参照サイト:https://founders.archives.gov/documents/Washington/05-07-02-0090-0001

 

ヨーロッパの都市に倣ったこの計画案は賛同されたものの、議会監督者たちと関係がこじれたランファン氏は更迭され、測量技師のアンドリュー・エリコット氏 (Andrew Ellicott) が受け継ぎます。

 

ランファン氏発案、エリコット氏改定による連邦都市の地図

 

Partridge, William T, Pierre Charles L'Enfant, Andrew Ellicott, and United States National Capital Park And Planning Commission. Design of the federal city, comparative plans of L'Enfant and Ellicott: Washington D.C. [Washington: National Capital Park and Planning Commission, 190-?, 1791] Map. https://www.loc.gov/item/88694210/.

アンドリュー・エリコット氏 一行は、1791年3月30日よりポトマック川支流のハンティング川ジョーンズ・ポイント(バージニア州)を基点として測量の任務にあたります。およそ2年間を費し1マイルごとに設けていった測量標は、今日にも残され保存されています。

 

https://en.wikipedia.org/wiki/Boundary_markers_of_the_original_District_of_Columbia

(参考:Andrew Ellicott from National Park Service:https://www.nps.gov/articles/andrew-ellicott.htm ) 

 

 

測量標 地図

 

Woodward, Fred E. Chart showing the original boundary milestones of the District of Columbia. [?, 1906] Map. https://www.loc.gov/item/87694134/

 

『テリトリー・オブ・コロンビア』

 

Ellicott, Andrew. Territory of Columbia. [Philadelphia?: s.n, 1794] Map. https://www.loc.gov/item/89690420/

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マウントバーノン

マウントバーノンは、ジョージ・ワシントン夫妻が住んでいた邸宅とプランテーションがあった場所です。アメリカの首都、ワシントンD.C.から約15マイル(24㎞)ほど離れたポトマック川に臨んだバージニア州に位置しています。

 

 

アメリカ建国の父として知られるジョージ・ワシントンは、1732年、バージニアのプランテーション経営者の息子として生まれました。ワシントンが生まれて2年後、父親がこのマウントバーノンに家を建てました。父から兄へと所有権が移り、1754年にワシントンがここを借り(のちに所有権を譲り受けます)、21室の部屋に増築して大きな邸宅にしました。左の写真がその邸宅です。白い石の壁で作られたように見える家ですが、木材を使用しており、塗装した後、砂を吹き付け、石のような風合いを出しています。ニューホールと呼ばれる多目的に使用された部屋やダイニング、寝室、書斎の部屋などがあり、ワシントンが使用していた家具なども残されています。以下のサイトでは室内の一部を見ることができます。(参照:Mount Vernon Virtual Tour: https://virtualtour.mountvernon.org/ )このワシントン邸には訪問者が多く、1798年には677人ものゲストを迎え、その邸宅に宿泊させたそうです。

 

マウントバーノンには、この邸宅だけではなく、庭師の家、奴隷が住む建物、燻製小屋、製氷室、洗濯小屋、革職人工房、鍛冶屋、果樹園、農地などがあり、当時の労働のほとんどは奴隷によって賄われており、18世紀のプランテーションの様子を知ることができます。

 

A map of General Washington's farm of Mount Vernon from a drawing transmitted by the General. Library of Congress Geography and Map Division Washington, D.C http://hdl.loc.gov/loc.gmd/g3882m.ct000367

 

上記の資料は、ジョージ・ワシントンによって送られた図面から作成されたマウントバーノンの農場の地図です。この地図からその農場は、5つに分けられていたことがわかります。陸軍司令官や政治家、そして大統領であったワシントンですが、若いころは測量を学び、測量士としての職に就いていました。戦争や2期にわたる大統領の任務でマウントバーノンに長期間いないこともありましたが、業務を円滑にするために監督官を立てるなどプランテーション経営にも力を注ぎました。そして晩年は、蒸留酒製造所を建設し、ウイスキーの製造も始めました。また、マウントバーノンの美しい景観はワシントンが設計したのだそうです。ワシントンは、1799年、67歳で生涯を終え、遺体はこの地に埋葬されました。

 

マウントバーノンには歴代大統領や世界の要人たちもたくさん訪れています。

 

 

President Truman places a wreath at the tomb of George Washington at Mt. Vernon., 2/22/1947

Collection HST-AVC: Audiovisual Collection 1957-2006: Harry S. Truman Library, Independence, MO TX [online version available through the National Archives Catalog (National Archives Identifier:199622) at www.archives.gov; April 2, 2020]

 

これは1947年2月22日、ワシントンの墓所に花輪を手向たトルーマン大統領です。2月22日はワシントンの誕生日です。

 

Commissions - Japan - Japanese Mission at Mount Vernon, Virginia 165-WW-131A-21; Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952, Record Group 165; National Archives at College Park, MD[online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 26432300) at www.archives.gov; April 5, 2020]

上記の写真のキャプションには撮影日が記載されていませんが、ほかの写真からおそらく1917年8月に撮影したものだと思われます。前列の左から2人目は特命全権大使として米国に派遣され、当時の中国に関する特殊権益に関する日米間の石井・ランシング協定を締結した石井菊次郎です。

 

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米国の歴代大統領と日本の交流

米国国立公文書館に所蔵されているテキストや写真等の資料のデジタル化は、現在もどんどん進められています。これら全ての資料をサイト上で閲覧する事は不可能ですが、一部を公文書館のサイトで閲覧する事ができます。(https://www.archives.gov/

今回は、歴代大統領が、日本との関係において仕事をしていたり、日本への訪問や日本の首相達と交流していたりといった写真資料の一部を紹介します。

 

最初は米国32代目大統領のフランクリン・D・ルーズベルト氏が1941年12月、日本に対しての宣戦布告を署名をしている写真です。

 

 

Photograph of President Franklin D.Roosevelt Signing the Declaration of War Against Japan: Series: Photographs of Notable Personalities,1942-1945[Online version available through the Archives Research Catalog(ARC identifier: 12009102) at https://catalog.archives.gov/id/12009102 on 3/25/2020] Original caption: President Franklin D. Roosevelt signing the declaration of war against Japan.

上記の原物写真は米国国立公文書館の5階で閲覧することができます。この写真自体は有名で広く出回っている印象がありますが、それでも原物を公文書館で閲覧する事とネット検索等とはまた違った感覚を味わう事ができます。音声・映像も同様に原物は公文書館にあるとの事です。

 

次の写真は現職の大統領で初めて公式に日本を訪問した第38代目のジェラルド・R・フォード氏です。下の写真はフォード氏が1974年11月の訪日の際、金閣寺に立ち寄られた時のものになります。写真と共に閲覧できる内容には『フォード大統領は、住職の村上慈海と、キッシンジャー国務長官を含む大統領一行と共に金閣寺の池を眺めている。』と記載されています。

 

 

President Gerald R. Ford Visiting the Gold Pavilion in Kyoto, Japan: Series: Gerald R Ford Whitehouse Photographs, 8/9/1974-1/20/1977[Online version available through the Archives Research Catalog(ARC identifier: 23869129) at  https://catalog.archives.gov/id/23869129 on 3/25/2020]  This photograph depicts President Gerald R. Ford seated with Zen Buddhist Abbot Jikai Murakami as they look out over the Kyoko Chi Pond at the Gold Pavilion (Kinkakuji Castle). Standing around them are members of the President's traveling party, including Secretary of State Henry Kissinger, General Brent Scowcroft, Donald Rumsfeld, and Robert Hartmann.

大統領として公式に訪日されたという事は有名な話ですが、日本人が慣れ親しむ金閣寺にも立ち寄られていた時の様子が、このように写真として残されている事に感動しました。金閣寺の池を眺めながら何を思われたのでしょうか。

 

 

フォード大統領と日本に関連する写真は他にもいくつかありましたが、その中でも写真の昭和天皇をホワイトハウスへエスコートしている写真が目に留まりました。戦後、彼の時代から米国と日本の交流が深くなっていきます。

 

Photograph of President Gerald R Ford and First Lady Betty Ford Welcoming Emperor Hirohito and Empress Nagako of Japan upon Their Arrival at the White House: Series: Gerald R Ford Whitehouse Photographs, 8/9/1974-1/20/1977[Online version available through the Archives Research Catalog(ARC identifier:7839956) at https://catalog.archives.gov/id/7839956 on 3/26/2020]

下の2枚の写真は、米国42代目大統領、ウィリアム・J・クリントン氏と当時の首相、宮沢喜一氏が迎賓館赤坂離宮にて握手をする写真と、米国43代目大統領、ジョージ・W・ブッシュ氏と当時の首相、小泉純一郎氏がホワイトハウスのローズガーデンにて握手を交わす写真です。クリントン氏の訪日時の写真には、政治家達との写真だけでなく、日本の学校やその地域の商店を訪問している写真もあり、日本の子供たちとの交流や地域との交流を通して日本文化への理解を深められているような印象を受けました。一方、ブッシュ氏に関しては公務に重きを置いた滞在であったようです。

 


Left: Photograph of President William J. Clinton Greeting Japanese Prime Minister Kiichi Miyazawa at Akasaka Palace in Tokyo, Japan. Series: Photographs Relating to the Clinton Administration, 1/20/1993-1/20/2001[Online version available through the Archives Research Catalog(ARC identifier: 2681793) at https://catalog.archives.gov/id/2681793 on 3/26/2020] This item is a photograph of President William J. Clinton greeting Japanese Prime Minister Kiichi Miyazawa at Akasaka Palace in Tokyo, Japan. The image was photographed by Robert McNeely.

 

Right: President George W. Bush and Prime Minister Junichiro Koizumi of Japan Shake Hands. Series: Photographs Relating to the Georg W. Bush Administration, 1/20/2001-1/20/2009[Online version available through the Archives Research Catalog(ARC identifier:5997350) at https://catalog.archives.gov/id/5997350 on 3/26/2020] Original caption: President George W. Bush shakes hands with Prime Minister Junichiro Koizumi of Japan in the Rose Garden of the White House.

 

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日本 ~NARAのオンライン検索から~

米国国立公文書館(NARA)のウェブサイト検索では、キーワードや年代、記録群の番号から大まかに対象資料の検索をすることが出来ます。その中には、既にオンライン化されている資料や映像、写真などが含まれています。このオンライン検索を使って“Japan”とだけ入力して検索をしてみたところ、147,696(5/7/2020現在)もの結果表示がされました。今回は、その中からオンライン化されている日本に関してのカテゴリーや年代の異なる様々な写真資料をいくつか選んでみましたのでご紹介します。

 

カリフォルニア州パサデナ市では1890年(明治23年)から毎年元日にローズパレードと言って、思い思いに花々で装飾した山車が行進する華やかなパレードが開催されているそうです。こちらは1917年(大正6年)に出場した時の模様です。山車には花や植物が飾られ、着物を着た女性達が乗っているのが分かります。(参照:https://tournamentofroses.com/events/rose-parade-history/

 

Japan: Record Group 75: Records of the Bureau of Indian Affairs, 1793 - 1999. Series: Correspondence, 1907 - 1920. File Unit; Rose Bowl Parade, 1917 – 1918. Scope& Content: This photograph, taken by Harold A. Parker of Pasadena, California, depicts the Japan float in the 1917 ca. Rose Parade. National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC Identifier 44276882) at www.archives.gov; May 5, 2020]

 

下の2枚は、明治又は大正期の写真と思われます。藤の花越しに写る歩道橋の下で三度笠をかぶった人達が池を眺めています。また、山道を行き交う人達の中には天秤棒を担いで荷物を運んでいる様子が伺えます。

 


Left side: Pedestrian Bridge in Japan: Record Group 30: Records of the Bureau of Public Roads, 1892 - 1972. Series: Historical Photograph Files, 1896 - 1963. File Unit: Foreign - Japan.  National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC Identifier 169140266) at www.archives.gov; May 5, 2020]

 

Right side: Hill Near Mogi, Japan: Record Group 30: Records of the Bureau of Public Roads, 1892 - 1972. Series: Historical Photograph Files, 1896 - 1963. File Unit: Foreign - Japan.  National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC Identifier 169140150) at www.archives.gov; May 5, 2020]

 

歴代の米国大統領夫人が訪日された時の写真も載っています。

 


Left side: Photograph of First Lady Hillary Rodham Clinton Visiting the Meguro Incineration Plant in Tokyo, Japan. 7/8/1993. Series: Photographs Relating to the Clinton Administration, 1/20/1993 – 1/20/2001. Collection: Photographs of the White House photograph Office (Clinton Administration), 1/20/1993 -1/20/2001. Scope & Content: This item is a photograph of First Lady Hillary Rodham Clinton visiting the Meguro Incineration Plant with G-7 Tokyo Economic Summit spouses in Tokyo, Japan. The First Lady is presented with flowers from school children. The image was photographed by Barbara Kinney.  National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC Identifier 2637239) at www.archives.gov; May 5, 2020]

 

Right side: First Lady Michelle Obama Speaks with Taiko Drummers in Japan, 3/20/2015. Series: Presidential Photographs, 1/20/2009 – 1/20/2017. Collection: Records of the White house Photo Office (Obama Administration), 1/20/2009 – 1/20/2017. Scope & Content: Original caption: First Lady Michelle Obama joins Taiko drummers at center drum prior to a tour of the Fushimi Inari Shinto Shrine in Kyoto, Japan. National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC Identifier 138925766) at www.archives.gov; May 5, 2020]

 

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クリントン大統領家の猫

1993年、第42代目の米国大統領のビル・クリントン一家はペットの猫と一緒にホワイトハウスに引っ越して来ました。 その猫の名前はソックス(Socks the cat)といいます。ビル・クリントンがアーカンソー州の州知事だった時に飼い始めました。一流政治家の猫というと、血統付きの猫かと思いますが、このソックスは白黒の短毛のぶち猫で拾われた猫でした。

 

ソックスに関する資料はアーカンソー州のクリントン大統領図書館にありますが、NARAのオンラインでも見ることができますのでいくつか紹介していきます。

 

これはクリントン大統領の肩に乗るソックスです。

 

Photograph of Socks the cat on President William J. Clinton’s Shoulder (Photographer Barbara Kinney), 3/25/1993; Photographs Relating to the Clinton Administration; Collection WJC-WHPO; William J. Clinton Library [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 2131121) at www.archives.gov; March 30, 2020]

 

 

ワゴン車で移動中のソックス。よくこういう写真が撮れたものだと、感心します。

 

Photograph of Socks the Cat Perched on the Backseat of a Van (Photographer Barbara Kinney ) 9/16/1993; Photographs Relating to the Clinton Administration; Collection WJC-WHPO; William J. Clinton Library [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 6036906) at www.archives.gov; March 30, 2020]

 

 

大統領のデスクで仕事中のソックスです。電話を取ろうとしているのでしょうか?

 

Photograph of Socks the Cat Sitting Behind the President's Desk in the Oval Office (Photographer Barbara Kinney ) 1/7/1994 ; Photographs Relating to the Clinton Administration; Collection WJC-WHPO; William J. Clinton Library [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 6036916) at www.archives.gov; March 30, 2020]

 

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アメリカ合衆国のイメージ

情報局(USIA: United States Information Agency)のポスターから

アメリカ合衆国情報局(USIA: United States Information Agency)とは、アイゼンハワー大統領のもとで1953年に設置された組織で、海外への広報を通じて、米国の宣伝を担った組織で1999年まで積極的な活動を展開していました。日本語では、アメリカ合衆国広報文化交流局や海外広報庁や情報局などとも呼ばれてきたかと思います。

 

第2次世界大戦中に発足した諜報機関の、米国戦略局(Office of Strategic Service:OSS)や米国戦争情報局(Office of War Information: OWI)といった組織が、戦後になって、前者は、米国中央情報局(Central Information Agency: CIA)となり、後者はいったん国務省(Department of State)に吸収され、その後1953年に米国情報局(USIA: United States Information Agency)として、独立した組織となりました。(参照:Records of the United States Information Agency (RG 306): https://www.archives.gov/research/foreign-policy/related-records/rg-306 , An End and a Beginning : CIA history: https://www.cia.gov/library/publications/intelligence-history/oss/art10.htm )

 

今回は、このアメリカ合衆国情報局(USIA: United States Information Agency)の資料の中の、「1960年から1994年の間に作成された、または入手したポスター」(Posters Created or Acquired for Outpost Use, ca. 1960 - ca. 1994: https://catalog.archives.gov/id/7284637)というシリーズの中のポスターをいくつかご紹介したいと思います。

 


Left: Read. American Library Association. 306-PAR-9-104:Series: Posters Created or Acquired for Outpost Use ca. 1964-ca. 1994: Record Group 306: Records of the United States Information Agency, National Archives at College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/88693902

Right: July. Four Very American Days. An American Portfolio. 306-PAR-9-23 Series: Posters Created or Acquired for Outpost Use ca. 1964-ca. 1994: Record Group 306: Records of the United States Information Agency, National Archives at College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/88693784

 

上の左のポスターは、米国図書館協会(American Library Association)による読書推進を目的とするもので、ディズニーの許可を経てミッキーマウスとプルートのキャラクターが使われています。このポスターの左下には1978年にディズニーが制作したことが記載されています。アメリカを代表するキャラクターとしてはアメリカ国内はもちろん世界に大きなインパクトを持ち続けてきたので、こうしたポスターは大変有効であったと思われます。左のものは、アメリカの独立記念日である7月4日花火の打ち上げの光景ですが、それとともに、4つの、非常にアメリカ的な日として、その独立記念日の他に、1月のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King, Jr.)記念日、10月のハロウィン(Halloween)の日、そして11月の感謝祭(Thanksgiving)の日も掲げられています。

 


Left: USA: Text Art 306-PAR-1-9b: Series: Posters Created or Acquired for Outpost Use ca. 1964-ca. 1994: Record Group 306: Records of the United States Information Agency, National Archives at College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/88693239

Right: USA: Text Art (Cities, US Department of Commerce): 306-PAR-1-9c: Series: Posters Created or Acquired for Outpost Use ca. 1964-ca. 1994: Record Group 306: Records of the United States Information Agency, National Archives at College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/88693241

 

上記の左のポスターは、アメリカ合衆国のイメージを文字にすると、カウボーイ、ロデオ、ジープ、コカ・コーラ、ホットドッグ、チューインガム、バーベキューなどが挙げられ、私自身も日本に住んでいたときは、アメリカと言えば、そうしたイメージが最初に出てきたものでした。右は、アメリカ国内代表的な都市名のうち、ホノルル、シカゴ、マイアミ、フィラデルフィア、ニューヨーク、ボストン、サンフランシスコ、そしてワシントンDCの8つが挙げられています。デザインとしてもとても面白いものであると思います。

 

アメリカ合衆国情報局(USIA: United States Information Agency)は、海外への米国の文化の広報を通じて、アメリカの外交政策をサポートしたり、そうした政策についての各国の世論についての情報も収集していました。特にアメリカ合衆国とソビエト連邦との冷戦時代においては、その役割は大きなものであったと思います。各国に存在するアメリカ大使館の監督下に、アメリカが以外広報局(United States Information Service)があり、図書館や出版物、そして報道のサービスや、展示会の開催や英語教育など様々な活動をしていました。この機関が作成または収集したポスターのシリーズの多くは、当時のいろいろな雑誌の表紙になっていたようですが、その内容は、文学、ジャズやブルーズやカントリーミュージックなどの音楽、ダンスや演劇などを含む芸術分野、地理や地図学分野、宇宙開発、そして英語教育といったものまで多岐にわたります。特に地図については、ネイティブアメリカン関係や、有名な探検家がたどった経路も含み米国の歴史的な成長過程を含むものもあります。また、この国のシンボル的な場所を撮影した写真もあります。さらに、ボイスオブアメリカ(Voice of America)という海外向けのラジオ放送やテレビや映画といった部門をもち宣伝活動を展開してきたので、その関係のポスターもあります。(参照:NARA, Posters Created or Acquired for Outpost Use, ca. 1960 - ca. 1994: https://catalog.archives.gov/id/7284637  , NARA Foreign Affairs Records of the United States Information Agency (RG 306): https://www.archives.gov/research/foreign-policy/related-records/rg-306

 


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アンセル・アダムス氏 と米内務省壁画プロジェクト

(米国国立公文書館の資料より)

“The Tetons and Snake River,” Grand Teton National Park, Wyoming; RG 79: Records of the National Park Service, 1785 - 2006; Ansel Adams Photographs of National Parks and Monuments, 1941 - 1942; (ARC identifier 519904) at www. archives. gov; [March 26, 2020] 

 

ワイオミング州グランド・ティトン 国立公園(Grand Teton National Park) 

 


大恐慌からの復興期、ルーズベルト大統領政権の下、失業救済ニューディール政策が推し進められていた1941年のことです。

 

米内務省(The Department of the Interior) ではその一環として、省の建物を一新し、内壁にはアメリカ人アーティストによる時代を反映した画像を施す事業を導入していました。

 

当時の内務省ハロルド・イケス長官(Harold Ickes) は、カルフォルニア 州ヨセミテ国立公園を主に活動拠点としていた写真家アンセル・アダムス氏(Ansel Adams)に壁画用写真撮影の依頼し、契約を結びます。

 

Photo No. 208-PU-1A; RG208; Photographs of Notable Personalities, 1942 - 1945; National Archives in College Park, MD.


Letter from First Assistant Secretary of the Interior E. K. Burlew to Ansel Adams, 10/21/1941; RG 146: Records of the U.S. Civil Service Commission, 1871 - 2001; Official Personnel File of Ansel E. Adams, 6/10/1941 - 12/10/1943; Adams, Ansel; ( ARC identifier 7582640) at www. archives. gov; [March 31, 2020]

 

1941年10月14日から、1年間の中で実働日数180日とする契約を結びました。

 

報酬として、日給22ドル22セント。出張手当は日当5ドル(中途から6ドル)。

 

 


Memorandum from Secretary of the Interior Harold Ickes, 2/12/1942; RG 146: Records of the U.S. Civil Service Commission, 1871 - 2001; Official Personnel File of Ansel E. Adams, 6/10/1941 - 12/10/1943; Adams, Ansel; ( ARC identifier 7582623) at www. archives. gov; [March 26, 2020] 

  

 


1941年11月29日付け、アンセル・アダムスからの活動報告書

 

(1941年10月14日から11月29日まで、実働8½日分) 

 

 

Letter from Ansel Adams to E. K. Burlew, 12/2/1941; RG 146: Records of the U.S. Civil Service Commission, 1871 - 2001; Official Personnel File of Ansel E. Adams, 6/10/1941 - 12/10/1943; Adams, Ansel; (ARC identifier 7582633) at www. archives. gov; [March 26, 2020] 

  

 


10月には、アリゾナ州(ザイオン国立公園、グランドキャニオン国立公園、ワルピ村・ホピ族の住居跡、キャニオン・デ・チェリー国立公園)、コロラド州(メサ・ヴェルデ国立公園)で撮影を行い、5日分の作業として計上しています。

 

11月には、ニューメキシコ州(カールズバッド洞窟群国立公園)、アリゾナ州(サガロ国立公園)などでの撮影と現像作業などで、3日と半日分の活動と報告しています。

 

アリゾナ州 キャニオン・デ・シェリー国立公園 

 

View of Valley from Mountain, "Canyon de Chelly" National Monument, Arizona; RG 79: Records of the National Park Service, 1785 - 2006; Ansel Adams Photographs of National Parks and Monuments, 1941 - 1942; (ARC identifier 519852) at www. archives. gov; [March 26, 2020] 


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第一次世界大戦中のアメリカ合衆国の食料政策

1914年に勃発した第一次世界大戦により、ヨーロッパでは深刻な食料不足に陥りました。1917年にアメリカ合衆国は参戦し、政府の食品局(United States Food Administration)の責任者に任命されたハーバート・フーヴァー(Herbert Hoover)は、ヨーロッパの同盟国や派遣したアメリカ兵に食料を供給するため、アメリカ国民に愛国心による自発的な協力を促すキャンペーンを始めていきました。(参照:https://www.history.com/news/food-rationing-in-wartime-america)

 

左にあるのは1917年8月に作られたホームカード(Home Card)というもので戦争に勝つために各自が家でできることが書かれてあります。少ない輸送スペースで栄養価の高い食べ物を同盟国にたくさん送るため、アメリカ人には小麦や牛肉、豚肉、乳製品、砂糖を食べる回数を減らし、それらに代替する食材を食べ、すべての食料を無駄にしないように細かく書かれてあります。例えば、肉では鶏肉やウサギ、魚や魚介類を使用し、牛肉や豚肉は1日に1回だけにすること、食べ残した肉も食べること、豆を使用することなど、賢く食材を使い、食料を無駄にすることなく、そして十分な栄養が取れるように書かれてあります。また、火曜日は肉、水曜日は小麦のパンを控えようとあります。

 

Home Card: What You Can Do to Help Win This War, 8/1917: Records of the U.S. Food Administration, 1917 – 1920; Record Group 4; National Archives at Chicago, IL [online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 20762195) at www.archives.gov; April 17, 2020]

 


1918年に作られたホームカード(Home Card)には、前年は12,000,000トンの食糧を送ったこと、今年は同盟国や自国の兵士のために17,500,000トンの食料送らなければならないとあり、アメリカ国民にさらなる協力を求めています。月曜日と水曜日は小麦を使った食品を食べない日、火曜日は肉を食べない日、火曜日と土曜日は豚肉やハム、ベーコンなどの豚肉製品を食べない日としています。

 

また、様々なポスターも作られ、「食料は戦争に勝つ。」(Food Will Win the War)というスローガンの看板も立てられました。

 


同盟国に小麦が必要なことが書かれてあるポスターと、小麦粉の代わりにコーンで作られたコーンミール、グリッツなどの利用を薦めているポスターです。

 

Food will win the war. You came here seeking Freedom. You must now help to preserve it. WHEAT is needed for the allies . Waste nothing. 4-P-60: Records of the U.S. Food Administration, 1917 – 1920; Record Group 4; National Archives at College Park, MD. [online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 512499) at www.archives.gov; April 17, 2020]

Corn. The Food of the Nation Serve some way every meal. Appetizing, nourishing, economical. 4-P-93: Records of the U.S. Food Administration, 1917 – 1920; Record Group 4; National Archives at College Park, MD. [online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 512532) at www.archives.gov; April 17, 2020]

 

ワシントンDCの建物の上に掲げられた「食料は戦争に勝つ。」(Food Will Win the War)のサインです。写真では見づらいですが、おそらく夜になると電気がつき、文字がはっきりと見えたのではないでしょうか。

 

Photo No. 4-G-29-110B Photograph of Food Will Win The War - Don't Waste It Sign;  Records of the U.S. Food Administration, 1917 - 1920; Record Group4 ; National Archives at College Park, MD. [online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 34929558) at www.archives.gov; April 17, 2020]

 


多くの女性や子供たちが食料を保存することを誓う誓約書にサインをしました。600,000枚もの誓約書が届いたニューヨークの食料保存委員会の事務所です。

 

Food Administration - Anti-Waste Campaign - Women and children aid in getting food conservation pledges signed. View of the Food Conservation Commission office in New York where the 600,000 food pledges are being filed. Hundreds of women and children aided in getting signatures. The office was at 124 West 42nd Street . Photo No. 165-WW-170C-42;  Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952; Record Group165 ; National Archives at College Park, MD. [online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 31481447) at www.archives.gov; April 17, 2020] 

 



右上の資料は、勝利の種をまくアメリカ国旗の柄の服を着た女性が描かれた宣伝ポスターです。戦時農園委員会(National War Garden Commission)によりアメリカ市民に野菜を作ることが奨励され、公園や学校などの敷地でも野菜が作られました。左上は公立学校の戦時農園で作業をする子供たちの写真です。食卓に野菜を多く出し、新鮮な間に消費できないものは缶詰(瓶詰)にしたり、乾燥して保存することを奨励しました。

 

Sow the Seeds of Victory! Plant and raise your own vegetables. 4-P-59 : Records of the U.S. Food Administration, 1917 – 1920; Record Group 4; National Archives at College Park, MD. [online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 512498) at www.archives.gov; April 17, 2020]

Food Administration - Anti-Waste Campaign - Public school war garden. Photo No. 165-WW-173A-2;  Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952; Record Group165 ; National Archives at College Park, MD. [online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 31482054) at www.archives.gov; April 17, 2020]

 

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発疹チフスの流行と予防対策

戦後1946年頃の日本では、国内の衛生状態が悪化した事に加えて、海外からの引揚げに伴う結核やコレラ、マラリア、発疹チフスなどの感染症が流行していました。この中でも、発疹チフスの患者数は3万2300人強と急増していたそうです。(参照:発疹チフスとは:NIID国立感染症研究所:https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/517-typhus.html

 

今回は、全国各地で発疹チフスの蔓延を防ぐために予防に取り組んでいた当時の様子を米国国立公文書館の写真資料からご紹介します。

 

下の写真は東京のデパートで予防注射を受ける為に並んでいる人々の様子です。壁には「定期乗車券所持の方には発疹チフス豫防注射を行ひます。東京都衛生局防疫課」「ご希望の方にはDDTを撒布致します。 東京都衛生局防疫課」との張り紙が貼られています。

 

※DDT(Dichloro Diphenyl Trichloethane: 有機塩素系殺虫剤)は、日本では1971年に販売が禁止されました。

 

 

Photograph No. 111-SC 285177; Typhus Commission: Typhus vaccination at Mitsukoshi Dept. Store, Tokyo, Japan. Commuters are lined up to get their shots. March 13, 1947. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.

 

東京有楽町駅と東京駅でも予防接種が行われていました。

 


Left side: Photograph No. 111-SC 285190; Typhus Commission: Typhus vaccination at Yurakucho Station. The group is kept very busy. Tokyo, Japan. March 17, 1947. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.

Right side: Photograph No. 111-SC 285544; Japanese Receive Typhus Inoculations in Tokyo, March 24, 1947. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.

 

 

デパートに展示された小中学生による発疹チフスの予防ポスターです。それぞれの作品には思い思いの視点から予防対策について描かれています。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

Photograph No. 111-SC 285183; Typhus Commission: A poster exhibition is held at Mitsukoshi Department Store, Tokyo, Japan. Posters are done by grammar school pupils. March 15, 1947. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.

 

左は青森県衛生課による公衆衛生普及を呼びかける看板です。「新日本建設は先ず健康から、防疫」と言ったキャッチフレーズが書かれており、イラストを交えながら分かりやすく生活習慣の注意事項が示されています。また、各感染症の発生数なども示されており、県民の意識向上 に繋がっていたと思われます。 

  

 

 

 

Photograph No. 111-SC 287267; Sanitation in Aomori: Sanitation poster. Nov 10, 1946. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.

 

 

 

下は名古屋と熊本で開かれた発疹チフスの対策会議の模様です。 


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米国の病院船の活躍

米国では2020年現在、米国海軍船(USNS: United States Naval Ship)の中の、マーシー(Mercy:T-AH19)とコンフォート (Comfort:T-AH20)という二隻の病院船が米海軍の指令のもとで運用されています。この巨大な二隻の船には地上にある病院よりは規模は小さいながらも同様の設備が整っており、その名の通り運航を続けながら患者を治療できる動く病院であります。設備だけではなく、常に様々な科のスペシャリストも米軍関係者と共に乗船しており、負傷者の治療は勿論ですが、必要に応じて手術を行う事も可能とされています。

 


Left:  A port bow view of the US Navy (USN) Military Sealift Command (MSC), Hospital Ship, USNS MERCY (T-AH 19), being assisted by a tugboat, as the ship conducts mooring operations after arriving at Navy Base Pearl Harbor, Hawaii (HI). The USNS MERCY is starting a scheduled five-month deployment to deliver aid and humanitarian assistance to the Pacific Islands, and Southeast Asia, Series: Combined Military Service Digital Photographic Files,1982-2007 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:6697644) at https://catalog.archives.gov/id/6697644 on 4/7/2020]

 

Right:  The US Navy (USN) Military Sealift Command (MSC) hospital ship USNS COMFORT (T-AH 20) steams towards her first port-of-call as Naval Station (NS) Rota, Spain, which is the end of her transit across the Atlantic Ocean from her homeport of Baltimore, Maryland (MD). The COMFORT is making a logistics stop to take on supplies and fuel en route to the east in support of Operation ENDURING FREEDOM. (SUBSTANDARD), Series: Combined Military Service Digital Photographic Files,1982-2007 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:6668317) at https://catalog.archives.gov/id/6668317 on 4/8/2020]

 

最近の当初の活動といえば、新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)に感染した患者が増え続けていた医療崩壊寸前のロスアンゼルスやニューヨークへ向かい、地上の病院をサポートする為、COVID-19ウイルスに感染していない通常患者への健康診断や治療を病院船内で行うというものでした。

 

現在、最中注目されており、必要に応じてどこへでも向かう病院船について、米国国立公文書館にある、オンライン上の歴史資料を通じてまずは船内をのぞいてみたいと思います。

 

船内には、手術室を始め、無菌室、レントゲン室、耳鼻咽喉科、歯科に研究室とまさに地上にある大学病院規模の病院と同じ構造となっています。写真は1900年代初期の病院船内になります。1900年代初期でここまで船内が充実していたのかと思うと、100年以上経った今はテクノロジーの変化もあり、様々な治療をより早く安全に受ける事ができるでしょう。

 

 

Navy - Medicine - Hospital Ships - USS Mercy - U.S.S. Mercy, first completely equipped hospital ship. The operating room of the "Mercy." Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917-1918 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:45511135) at https://catalog.archives.gov/id/45511135 on 4/8/2020] Photographer: Paul Thompson

 

Navy - Medicine - Hospital Ships - USS Mercy - Sterilizing room, U.S. Hospital Ship Mercy, Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917-1918 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:45511157) at https://catalog.archives.gov/id/45511157 on 4/8/2020]

Navy - Medicine - Hospital Ships - USS Mercy - U.S.S. Mercy, first completely equipped hospital ship. The X-Ray room is most completely equipped with the latest mechanical devices, Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917-1918 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:45511143) at https://catalog.archives.gov/id/45511143 on 4/8/2020] Photographer: Paul Thompson

 

 

 

Navy - Medicine - Hospital Ships - USS Mercy - U.S.S. Mercy, first completely equipped hospital ship. An enlisted specialist in disease of the eye, ear, nose and throat, treating a patient, Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917-1918 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:45511147) at https://catalog.archives.gov/id/45511147 on 4/8/2020] Photographer: Paul Thompson

 

Navy - Medicine - Hospital Ships - USS Mercy - Dental Room, U.S.S. Hospital Ship Mercy Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917-1918 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:45511191) at https://catalog.archives.gov/id/45511191 on 4/8/2020] Photographer: Committee on Public Information

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コメディアン

新型コロナウィルス(COVID-19)が全世界的に猛威を振るう中、日本を代表するコメディアンの志村けんさんが闘病の末に逝去されました。 昭和、平成と多くの自分のテレビ番組を持っていた第一人者を失ったのは大変残念で惜しまれます。

 

志村さんのような有名なアメリカのコメディアンの資料(写真)も米国国立公文書館のオンラインカタログで見ることができます。

軍と関係する組織で米国慰問協会(USO-United Service Organizations)というのがあり、この組織を通じて、多くのコメディアンを含む芸能人は海外の米軍基地に慰問に行きます。

普段、米国国立公文書館で資料に接していて、よく目にするのがボブ・ホープ(Bob Hope)です。少し昔の人なので若い世代の人はご存知ないかもしれませんが、アメリカでは大変有名なコメディアンでした。ボブ・ホープは米国慰問協会の活動にとても熱心で第二次世界大戦時の1941年からペルシャ湾戦争の1991年までの約半世紀、そしてその公演数は57回に及びました。

 

これはベトナム戦争中の1966年12月19日のクリスマス公演でベトナムを訪れた時の写真です。

Christmas Special -- Bob Hope and his star-studded cast touched down at Pleiku Air Base, Vietnam, December 19, 1966, enroute to Dragon Mountain, home of the 2nd Brigade, 4th Infantry Division for his first Christmas show for servicemen in Vietnam, 12/19/1966 ; Black and White Photographs of U.S. Air Force and Predecessors' Activities, Facilities, and Personnel, Domestic and Foreign, 1930 – 1975 ; RG342 Records of U.S. Air Force Commands, Activities, and Organizations, 1900 – 2003 ; National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 542299) at www.archives.gov; March 31, 2020]

 

若き日のブルック・シールズとも米国慰問協会のイベントで共演しています。

Entertainers Brooke Shields and Bob Hope perform in a United Service Organizations (USO) show in the Pensacola Civic Center during the celebration of the 75th anniversary of naval aviation. Exact Date Shot Unknown; Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 – 2007; RG330 Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921 – 2008; ; National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 6421994) at www.archives.gov; March 31, 2020]

「サボテンブラザーズ」や「愛しのロクサーヌ」その他多くの映画に出演しバンジョーの演奏者でも知られる、スティーブ・マーティン(Steve Martin)も兵士の慰問に来ています。

 

イラク戦争に参戦している兵士にサインをするスティーブ・マーティンです。

Comedian Steve Martin signs autographs while visiting troops participating in Operation Desert Shield,  2/24/1992; Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 – 2007; RG330 Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921 – 2008;  National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 6472609) at www.archives.gov; March 31, 2020]

 

 

自分の名前が書いてある軍服を着て、他の兵士たちと歓談しています。

Comedian Steve Martin talks with a group of Marines from the 1ST Light Armored Infantry (LAI) Battalion while on a United Service Organizations (USO) tour during Operation Desert Shield.10/1/1990; Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 – 2007; RG330 Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921 – 2008;  National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 6474333) at www.archives.gov; March 31, 2020]

 

スタンドアップコメディアンとしてスタートして、押しも押されぬ大スターとなったロビン・ウィリアムスの写真も多くありました。

米国慰問協会が催したホリデースペシャルでの公演です。

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1918年のインフルエンザとの戦い

2019年末から始まった新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) は、現在では世界中に広がり、経済的にも社会的にも非常に深刻な打撃を与えつつあります。自分自身もいろいろな不安を抱えながら毎日を生きていますが、今の状況をなんとか冷静に客観的に考えなければと思っています。

 

米国国立疾病管理予防センター(Centers for Disease Control and Prevention: CDC)は米国の感染症対策の総合研究所であり、現在の新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)においても、米国内外問わず、絶えずいろいろな情報の収集や研究をし、対策を提示し、世界的にも主導的な役割を果たしている機関です。(参照:https://www.cdc.gov/

 

この米国国立疾病管理予防センター(Centers for Disease Control and Prevention: CDC)には、米国の歴史の中で深刻な影響を及ぼした感染症についての歴史的記録や医療関係や一般の人々の取り組みに関するサイトもあります。今回は、その中から、今から102年前の1918年に米国で爆発的な感染を起こしたインフルエンザ問題についてのサイト、そして関連して米国国立公文書館にある写真についてご紹介をしたいと思います。

 

上記のサイトは、上記の機関のサイトの、「過去における大流行」(Past Pandemic)という項目の中の、「1918年の大流行」(1918 Pandemic)という小項目の中にあります。(1918 Pandemic (H1N1 virus):https://www.cdc.gov/flu/pandemic-resources/1918-pandemic-h1n1.html

 

現在の新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)問題を除けば、これまでの米国の歴史では、この1918年のインフルエンザの大流行がもっとも深刻なものでした。このサイトによれば、世界的には1918年から1919年の間に、当時の世界人口の3分の1にあたる5億人が感染し、また、米国内では、1918年の春に米軍兵士が最初に感染から始まり、結果としては、この時のインフルエンザは米国内での67万5千人の死者を含み、世界では少なくとも5千万人にも上る死者を出したと書かれています。

 

1914年7月から1918年11月まで続いた第一次世界大戦の死傷者は約4千万人と言われているので(参照:Casualties of World War I: https://www.facinghistory.org/weimar-republic-fragility-democracy/politics/casualties-world-war-i-country-politics-world-war-i )で、この戦争の死傷者数よりもはるかに当時のインフルエンザの死者数は上回っていたという事実は、当時のインフルエンザの猛威がいかにすさまじいものであったかを物語っているかと思います。

 

下記のサイトは、この1918年のインフルエンザ大流行について、「1918年の大流行:3つの波」( 1918 Pandemic Influenza: Three Waves)としてその流れを説明しています。(https://www.cdc.gov/flu/pandemic-resources/1918-commemoration/three-waves.htm

第1次世界大戦が続く中、米国は1917年4月に参戦を決めてから、米軍兵士が続々とヨーロッパに送られることになりました。こうした大量の兵士の移動も、インフルエンザの大流行の一因となりました。米国では、1918年3月から第1波が、そのあと秋に最も大きな第2波が起こり、さらに翌1919年春には第3波も起こり、ようやく夏になって収拾していったことも書かれています。

 

上記のサイトには、「私達は記憶する。そして私達は備える。」(We remember. We prepare. )と書かれているのですが、これは2018年に、1918年のインフルエンザから100年目という節目の意味でもまた当時の歴史的体験と格闘を忘れないし、そのことが将来的なインフルエンザにも備えることにもなるという意味を持っていたかと思います。が、2018年から2年後の今、皮肉にも、新たな感染症であるコロナウィルスが猛威を振り始めている現在、本当に私達人間とこうした感染症との戦いは昔も今も、続いていくのだということをあらためて実感せずにはいられません。その意味では、常に挑戦に絶えず立ち向かっていかなければなりませんが、同時に、時間をかけながらも、そうした感染症を一つ一つ克服してきた歴史も忘れてはいけないと思います。

 

米国国立公文書館のサイトからも、この1918年のインフルエンザに関する写真資料があります。

 


Left: Fighting Influenza in the United States. To successfully combat the influenza which was stricken a number of our army and navy boys, a special camp has been fitted up on the grounds of Correy Hospital Brookline, MA. Nurse wearing a mask as a protection against the disease which is contagious filling a pitcher water hydrant. 9/13/1918. 165-WW-269B-5: https://catalog.archives.gov/id/45499297 

 

Right: Mask for Protection against Influenza. Typist wearing her influenza mask. Aroused by hold that the disease has taken in New York City, N.Y., practically every worker has muffled their faces in gauze masks as a protection against the disease. 10/16/1918. 165-WW-269B-16:

https://catalog.archives.gov/id/45499321

 

Both are from File Unit Medical Department-Influenza Epidemic 1918, 1917-1918 Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917-1918, Record Group 165 (Records of the War Department General and Special Staffs, 1869-1952). 

 

上記の左の写真は、マサチューセッツ州内の特設病院ですでにたくさんの米陸軍及び海軍の兵士達の看病をしている看護師が水を汲んでいるところであり、右の写真はタイプ仕事をしている職員の様子ですが、どちらもガーゼのマスクをしています。

 

下記の写真は、ニューヨーク市内の道路の清掃職員と交通整理をしている警察官の様子です。顔のほとんど全面を覆うような大きなガーゼのマスクをしながらも仕事に従事しています。

 


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米国の女性参政権運動とそれを根底から支えた女性達

2020年もあっという間に3月を迎えてしまいました。コロナウイルス感染問題は今は、世界全体に深刻な影響を与えておりますが、時間がかかっても関係各国が協力してなんとか改善に向かうようにと切に願っております。

 

米国国立公文書館でのある資料調査の過程で、たまたま米国の女性参政権運動やそれを根底から支えた女性達に関する写真資料を見つけることになりました。今回はそれについていくつかご紹介をしたいと思います。

 

米国の女性参政権が正式に成立したのは、アメリカ合衆国憲法の修正第19条として、1919年6月4日の議会での可決、そして、正式に批准されたのは1920年8月18日のことでした。今年は、ちょうどその100年目に当たります。しかしながら、女性の参政権を獲得するまでには実に長い道のりがありました。米国の女性参政権の歴史に関するサイトはたくさんあると思いますが、特に米国議会の下院に歴史資料サイトの中の、女性の権利の歴史がとても参考になります。(参照:The Women’s Rights Movements, 1848-1920: https://history.house.gov/Exhibitions-and-Publications/WIC/Historical-Essays/No-Lady/Womens-Rights/

 

下記の写真は、1871年1月11日に当時の女性参政権獲得に向けて積極的に活動していたオハイオ州出身のヴィクトリア・ウッドハル (Victoria Woodhull)という女性が、初めて米国議会の下院の司法員会で女性の参政権の必要性を訴えた時の様子を描いた資料です。

 

Photo No. 208-PR 14M-4: Congress, US-Committee Hearings: Washington, DC-The Judiciary Committee of the House Representatives receiving deputation of female suffragists January 11th Victoria Woodhull, famous feminist reading her argument in favor of women’s voting on the basis of the fourteenth and fifteenth constitutional amendments. RG 208 (Records of War Information) Entry PR, Box 21, National Archives in College Park, MD. 

 

” The First Woman to Address a House Committee“(https://history.house.gov/Historical-Highlights/1851-1900/The-first-woman-to-address-a-congressional-committee/)のサイトにおいてもこのヴィクトリア・ウッドハル (Victoria Woodhull)について紹介されています。

 

翌1872年に彼女は、最初の女性大統領候補者となり、副大統領候補は、メリーランド州出身で当時の奴隷廃止運動家であったフレデリック・ダグラス(Frederick Douglass)でした。(参照:Victoria C. Woodhull : https://ohiohistorycentral.org/w/Victoria_C._Woodhull

 

私達の米国での活動拠点はカレッジパークの米国国立公文書館での様々な資料調査及び収集事業ととともに、もう一つは、そこに隣接しているメリーランド大学のホーンベイク図書館内のプランゲ文庫コレクションでの資料収集事業です。そのホーンベイク図書館の前には、そのフレデリック・ダグラスの像があります。(参照:University of Maryland Dedicates Fredrick Douglass Square to Honor Maryland’s Native Son: https://umdrightnow.umd.edu/news/university-maryland-dedicates-frederick-douglass-square-honor-marylands-native-son

 

このヴィクトリア・ウッドハルの女性参政権運動も、フレデリック・ダグラスの奴隷制度廃止運動も、その根底にはすべての人間の平等な権利が保障されるべきとするところでは共通しており、それらの運動の意義と重要性をあらためて知るところとなりました。

 


Left: Photo No. 208-PR-14M-1: Suffragette Parade on Fifth Avenue, New York in 1912: RG208 Records of the Office of War Information, Entry PR, Box 21 at National Archives in College Park, MD. Right: Photo No. 208-PR-14M-3: Hay Wagon in Suffrage Parade in 1913: RG208 Records of the Office of War Information, Entry PR, Box 21 at National Archives in College Park, MD. 

 

上記の写真は1912年から1913年の女性参政権運動に関する写真です。19世紀後半からかなり発展してきた運動は20世紀に入ってさらなる高まりを見せていたことが伺われます。さらに1914年7月から1918年11月まで続いた第1次世界大戦において、米国が参戦を決めた1917年の4月以降においてはさらなる運動が強まりました。下記の写真はワシントンDCの写真で、ホワイトハウス前でデモを行いそのあと逮捕された女性たちもいました。

 

Photo No. 165-WW-600A-2: Bastille Day spells prison for sixteen suffragists who picketed White House in Washington, DC in July 14, 1917: File Unit: Women's Activities-Suffrage-Washington DC 1917-1918. Series: American Unofficial Collection of WWI Photographs, 1917-1918, RG165 Records of the War Department General and Special Staffs, 1860-1952: https://catalog.archives.gov/id/45568320

Photo No. 165-WW-600A-7: Suffragists picket White House in Washington, DC in 1917: File Unit: Women's Activities-Suffrage-Washington DC 1917-1918. Series: American Unofficial Collection of WWI Photographs, 1917-1918, RG165 Records of the War Department General and Special Staffs, 1860-1952: https://catalog.archives.gov/id/45568330

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東京オリンピック – 1964 -

今年は、日本で史上第2回目となる、『東京2020オリンピック競技大会』が開催される年です。

 

日本では、この第32回目の夏季オリンピック大会に向けて着々と準備も進み、盛り上がりが膨らんで来ている事と思いますが、ここアメリカでも『今年のオリンピックは東京で開催されるね!』と言った会話の話題に上るほど、人々のオリンピックへの関心が強いことが感じ取れます。それだけに、この4年に一度の競技の祭典は、世界中の人々が注目するイベントであり続けているのだと思います。

 

1964年に日本初またアジア地域初の夏季オリンピックが東京で開催されました。今回は、ここ米国国立公文書館に保存されているUSAオリンピックチームを中心に記録した第18回東京夏季オリンピック大会の写真、動画、テキスト資料をご紹介したいと思います。

 

1964年の東京オリンピックでは当時の最新の放送技術が使われました。開会式では、史上初めて静止衛星を利用して、米国にテレビ生中継が行われたそうです。こんな背景を物語る国務省の資料がありました。下の資料は当時のアメリカ合衆国国務次官であったウィリアム・アヴェレル・ハリマン氏(William Averell Harriman)に宛てた『オリンピック競技大会のテレビ報道』に関しての覚書です。東京オリンピックに向けて、独占放映権を持つ米国NBCニュース関係者や議会議員とのやり取りが記されています。その中で通信放送衛星シンコム打ち上げに関連する事柄、その打ち上げに大きく携わったジョセフ・ビンセント・チャリク氏(Joseph Vincent Charyk )の名前も度々記されており、EBU(欧州放送連合)関連や日本側の対応などの記載がされています。

 

ほんの一部ではありますが、この資料の合間から読み取れる経過を経て、東京オリンピックが多くの人々に観戦された事はとても興味深く思いました。

 

参照:在日米国大使館・領事館サイトよりhttps://jp.usembassy.gov/ja/how-the-1964-tokyo-olympics-used-technology-like-never-before-ja/

参照:Joseph Vincent Charyk :https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_V._Charyk

参考:JAXA宇宙情報センター

http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/syncom_3.html

 

 

 

TV Coverage of Olympic – Information Memorandum: RG59 General Records of the Department of State. Central Foreign Policy Files. 1964-66. Culture & Information Box341: National Archives at College Park, MD.

下記は動画からの一コマです。日本選手団とアメリカ選手団が会場入場前の道路を行進していると思われる風景です。この動画には、さらにインド、カナダ、カメルーン、キューバ、ソビエト、フランスの選手団の行進風景が映されており、選手たちの笑顔の中にも期待と緊張感が伝わってくるようにも見えました。また、90ヵ国以上が参加したと言われているこの大会の入場行進を一目見ようと沿道に多くの人々が詰掛けており、各国選手団に温かい声援を投げかけている様子が伺えます。

 

その他にも、オリンピック選手にサインを求めるたくさんの日本の子供達の様子や獲得したメダルを披露する米国選手たちの姿、柔道やボクシング、飛び込みなどの練習風景、この大会に備えて建設された国立代々木競技場及び柔道の競技会場となった日本武道館などの各競技会場や選手村と思われる建物を空中から撮影した画像が写されています。

 



1964 Olympic Games, Tokyo, Japan: Record Group 342, Series: Moving Images Relating to Military Aviation Activities 1947 – 1984. Local Identifier: 342-USAF-38473. National Archives at College Park, MD.

 

下の写真は、女子カヤックペア500mで銀メダルを獲得したアメリカチームの選手です。カヤックの競技会場となった神奈川県の相模湖湖畔に設置された表彰台での表彰式は日本らしさが際立っています。

 

※写真の説明文にはカヤックと記されている為、ここではカヤックと表現しています。

 


Records of the Office of the Chief Signal Office. Photographs: Signal Corps, Photographs of American Activity, 1900 – 1981. Contact Prints: 612241 – 612520, Box1428, Photograph Numbers (Left) 612256, (Right) 612258. National Archives at College Park, MD.

 

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ハリエット・タブマン

昨年からハリエット・タブマン(Harriet Tubman)という黒人女性の実話をもとにした映画「ハリエット(Harriet)」が上映されています。先月この映画を見に行ってきましたが、主人公ハリエットの強い意志と行動力に感銘を受け、彼女の軌跡をたどることのできるハリエット・タブマン地下鉄道ビジターセンターや博物館などを訪れてみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Great Lakes Seaway Trail - Harriet Tubman. 406-NSB-052-395px-Harriet_Tubman.jpg; Records of the Federal Highway Administration, 1956-2008, Record Group 406; National Archives at College Park [online version available through the National Archives Catalog (National Archives Catalog identifier 7718799) at www.archives.gov; Jan.3, 2020]

ハリエット・タブマン(写真上)は奴隷解放運動家で地下鉄道(Underground Railroad)でコンダクター(車掌)だったことで名を知られた人物です。地下鉄道とは奴隷の逃亡を手助けするネットワークや逃亡経路のことで、奴隷逃亡者のことをパッセンジャー(乗客)、奴隷の逃亡を誘導する人をコンダクター(車掌)、隠れ家のことをステーション(駅)などという鉄道の用語が使われました。

 

ハリエットは1822年に奴隷の子としてメリーランド州ドーチェスター郡で生まれました。当時は母親の身分が、子供の身分を決定づけ、たとえ父親が奴隷でなくとも、母親が奴隷であれば、子供は奴隷となりました。ちなみに、1840年、ドーチェスター郡にいた黒人の半分は奴隷であり、半分は自由人でした。ハリエットは自由人である黒人男性と結婚をしますが、奴隷の結婚は法律的に定められたものではなく、非公式なものでした。ハリエットを所有していた人が亡くなり、奴隷が売りに出されると聞き、ハリエットは1849年に夫を残して逃亡をしました。奴隷州であるメリーランド州に対して、隣接しているペンシルバニア州は奴隷制度を禁止していた自由州であり、様々な人の助けを借り、ペンシルバニア州のフィラデルフィアに行き、そこで仕事に就きました。そして、1850年の奴隷逃亡法により自身にも危険が及ぶ可能性があるにも関わらず、ハリエットは何度も南部に行き、家族や友人などを無事に逃亡させることに成功しました。彼女はモーゼともよばれ、彼女の捕獲には報酬金がかけられたといわれていますが、一度も捕まることはありませんでした。

 

1861年に南北戦争がはじまると、ハリエットは看護婦や病院の料理人、またスパイとして軍に参加しました。ここでもハリエットはコンダクターとして培われた能力を発揮したようです。

戦後、再婚し、のちに未亡人として恩給をもらいます。しかし、生活をするには十分ではなく、自分自身が陸軍で従軍した時の恩給がもらえるよういくつもの書類や手紙が議会に送られました。米国国立公文書館には、この恩給に関しての資料が残されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“Letter from Sereno E. Payne, Chairman of the Committee on Merchant Marine and Fisheries, to George Ray, Chairman of the Committee on Invalid Pensions, on Behalf of the Claim of Harriet Tubman that She was Employed as a Nurse, Cook, and a Spy, 2/5/1898” Record Group 233; National Archives at Washington, DC [online version available through the National Archives Catalog (National Archives Catalog identifier 306574) at www.archives.gov; Dec.30,  2019]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“H.R. 4982, A Bill Granting a Pension to Harriet Tubman Davis, Late a Nurse in the U.S. Army, 1/19/1899” Records of the U.S. House of Representatives, 1789 – 2015;Record Group 233; National Archives at Washington, DC [online version available through the National Archives Catalog (National Archives Catalog identifier 306578) at www.archives.gov; Dec.30,  2019]

上の画像は送られた手紙の一部とハリエット・タブマンに年金を付与する法案です。手紙には未亡人として恩給を8ドル支給されているが、戦争に彼女自身も従軍しているので恩給の増加を要求していること、南北戦争中に軍から受け取ったお金は全部で200ドルだけだったことなどが書かれてあります。最終的には彼女の主張が認められ、彼女自身の恩給を受け取ることができました。一番最初に恩給の申請をしてから30年以上がたっていたそうです。

 

彼女は女性の権利を求める集会などで講演をしました。また、ニューヨーク州に購入していた場所に、高齢の元奴隷たちを住まわせ、援助を続けました。1913年、肺炎でその生涯を終えましたが、彼女の活動は、その後の女性参政権など、女性の地位向上へとつながっていったのだと感じました。

下の写真はハリエット・タブマン地下鉄道ビジターセンターの写真です。ここは2017年にドーチェスター郡のチャーチクリークという町に作られました。ここでは16分ほどの映画が上映され、また展示物からハリエットの人生を学ぶことができます。

 


メリーランド州にはこのハリエット・タブマンや地下鉄道に関する場所がたくさんあります。Maryland’s Underground Railroad Network to Freedomという冊子(https://www.visitmaryland.org/sites/default/files/19-OTD-NTF-Guide_Final.pdf)によるとメリーランド州には49ものサイトやツアー、プログラムがあります。当時の様子や逃亡経路などを垣間見れ、興味深そうなので、これらの場所を順番に回って見れたらなあと思っています。(NM)

 

引用・参考サイト

Harriet Tubman Historical Society: http://www.harriet-tubman.org/

 

米国国立暗号博物館 (National Cryptologic Museum)

メリーランド州にある「米国国立暗号博物館」についてご紹介いたします。この博物館は、米国国立公文書館から車で30分程行ったところに位置する米国国家安全保障局本部NSA(National Security Agency Headquarters)と隣接しています。当初は、この組織が使ってきたものを歴史的遺物として収集し、内部の職員がこの組織の活動の過去の成功と失敗を振り返る場所とすることを目的とした施設でした。その後、1993年12月に米国国家安全保障局が運営する「国立暗号博物館」として一般公開されました。ワシントンDC周辺にある国立博物館の建物としては規模が小さく静かな佇まいですが、館内の展示物とその内容には驚かされると同時に、アメリカ史、世界史を通して暗号の歴史を垣間見ることができ、その秘密めいた世界への興味を一気に掻き立てられます。

(参照: https://www.nsa.gov/about/cryptologic-heritage/museum/   ) 

 


写真右上は米国国立暗号博物館のロゴで、暗号学財団と同じシンボルが使われており、赤い短点(ドット)と長点(ダッシュ)のモールス符号で模った部分はCRIPTOLOGIC(暗号)と読み解くことができます。

(参照: https://cryptologicfoundation.org/about/logo.html   )

 


英国政府通信本部の設立百周年を記念した特別展示パネル

タイペックス暗号機(TYPEX)


写真上は、今年の8月から“暗号の遺産コーナー”に設けられた英国の政府通信本部GCHQ(Government Communications Headquarters)の創設100周年を記念したものです。GCHQは英国の諜報機関で1919年ブレッチリ―パーク(Bletchley Park)に政府暗号学校として創設され、1946年に現在の政府通信本部に改編されました。1940年ドイツ軍潜水艦のエニグマ暗号通信を解読したことで知られています。アメリカ国家安全保障局の提携機関とされています。

 


エニグマの展示ブース

実際に操作ができるエニグマ


エニグマの展示ブースは暗号博物館で最も人気がある展示の一つで、世界中から多くの人々がここに展示されているエニグマを見に訪れるとのことです。見るだけでなく実際にメッセージを暗号化したり解読したりする操作を体験できるようにエニグマの実機が提供されているのも魅力の一つです。

 

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アメリカ西部・北緯40度線沿い地質調査・キング調査団

(Geological Exploration Of The Fortieth Parallel)

団長・クラランス・キング氏(のちのアメリカ地質調査所 初代所長)

前回に続き、アメリカ西部における地質探検調査団を取り上げ、米国国立公文書館(アメリカ国立公文書館)等の関連資料をご紹介いたします。

 

南北戦争後の1870 年代前後にかけて、連邦議会の承認を受けた地質調査団が4つ、それぞれ異なる地域を担ってアメリカ西部に派遣されています。

前回と今回ご紹介のものも、その中に含まれるものです。

 

このキング調査団は、北緯40度線を基準に、 経度120度から東方に経度105度まで 、(シエラネバダ山脈からロッキー山脈まで)、 セントラル・パシフィック鉄道とユニオン・パシフィック鉄道線路沿いも含めた地域を対象に、1年に5度を目安に調査を進めていく計画で結成されました。

その地域は、現在のカリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州、ワイオミング州にかかります。

 

北緯40度線は、日本では秋田県や岩手県上にあります。

具体的な任務内容は、山脈や平原、河口の検分、また鉱石鉱物、土壌や岩石、塩類堆積物やアルカリ性堆積物の分析などを行うこと、さらに、主要な鉱物の物品採集と埋蔵地域地図作成、地形地図の作成や、気候に関する総合的な情報収集と記されています。

 

RG57, Records of the Geological Survey, King Survey; 1. LR, Chief Engineers & Treasury 1867-1870, 2. Records redd. from Treasury Dept, 1807-78 & from Public Printer 1871-1879, M-622, roll 1, No.3, 4

 

 

クラランス・キング氏(Clarence King )

 

RG 57-GP; Records of the U.S. Geological Survey, Portraits of Agency Personnel, ca. 1980 - ca. 2004, Box 1, Folder 1, No. 1

 

調査団は、Department of War (現Department of Defense; 国防総省)、米陸軍工兵隊(US Army Corps of Engineers)の責任者・ハンフリーズ将軍(General Andrew Atkinson Humphreys) 指揮下におかれました。

 

前回ご紹介のヘイデン調査団は、 内務省(Department of the Interior)の管轄下にありました。

 

カルフォルニア地質調査の経験のあるキング氏がこの任命を受けたのは、25歳のことでした。

 

RG57, Records of the Geological Survey, King Survey; Copies of letters & reports sent to Chief Engineers, March 1867 to January 1879; M-622, roll 3, No.1

 

初年度の調査団は、16人のメンバーでした。地質学者、地誌学者、植物学者、鳥類学者、古生物学者、カメラマンなどで構成され、軍の護衛も受けていました。

 

現地調査は 1868年度から1872年度の5年間(会計年度は7月〜翌年6月終了)。1年のうち、6月あたりから10月くらいまでを現場で調査活動を行う期間とし、その後は事務所を中継基地として構え、団員各自で、フィールド調査の続行、報告書作成に向けて分析や資料作成、次期調査計画をたて、事務処理などにもあてていました。

 

初年度には体調を崩す人が多かったそうです。

この年は、11月中旬から当時銀採掘で発展していたネバダ州バージニアシティを拠点として、当地の銀山(コムストック鉱床・Comestock Lode)を調査しました。 

 

 

(左)バージニアシティ 

 

77-KN-93 ½, American West Select List #152

View of Virginia City, Nev., from a nearby hillside, 1867-68.

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「1871年へイデン博士 地質学調査団」Hayden Geological Survey of 1871

- イエローストーン国立公園 制定への道のり -

The Geological Survey en route 移動中の調査団一行

The U.S. Geological and Geographical Survey of the Territories, conducted by Hayden, en route with pack train upon the trail between the Yellowstone and East Fork Rivers "showing the manner in which all parties traverse these wilds," Wyo. Terr., By Jackson, 1871. 57-HS-114, National Archives at College Park, College Park, MD., Online version available through the Archives Research Catalog (ARC identifier:516722) at www.archives.gov; 

National Archives at College Park, MD

 

「米国準州における地質ならびに地理に関する調査団」は、ヘイデン氏によって指揮された。この写真は、イエローストーン川とイーストフォーク川の間の小道を一列に並んで移動している様子で、未開地に対する調査団の在り方が伺われる。

https://catalog.archives.gov/id/516722

Photograph; 57-HS-114

 

RG 57; Records of the U.S. Geological Survey, 1839 - 2008,  National Archives at College Park, MD

 

南北戦争が終わり、大陸横断鉄道も開通し、アメリカ大陸西部の開発に活気づいている頃の1871年の夏に行われた地質環境調査についてご紹介します。

 

日本では、岩倉使節団がアメリカを訪れた、明治4年にあたります。

 

それまでにも西部地域地質調査隊に参加していた ペンシルベニア大学のヘイデン博士を隊長とし、この調査は1867年3 月2 日に議会で承認され、連邦政府からの 援助資金(4万ドル)を得て実現しました。ロッキー山脈沿いに広がる、まだ州となっていなかった準州(The Territories) への調査探検でした。

 

RG 57. 2.3; Miscellaneous Records Relating to The Hayden Survey, 1867-79; Microfilm 623, Roll 21

 

 

隊長 

フェルディナンド V.  へイデン博士

 

RG 57-GP; Records of the U.S. Geological Survey, Portraits of Agency Personnel, ca. 1980 - ca. 2004, Box 1, Folder 1, No. 9

 

同行の隊員は、以前の調査団からの友人達をはじめ、知人や友人から紹介されたメンバー、さらには、連邦議員の息子も加わり、皆それぞれに専門知識を持ち、役割を担った、総勢34名の一団となりました。

The U.S. Geological Survey in camp at Red Buttes. 

Figures are 1. F.V. Hayden, U.S. Geologist in Charge, 2. James Stevenson, 3. H.W. Elliot, 4. S.R. Gifford, guest, 5. J.H. Beaman, 6. C.S. Turnbull, 7 and 8. cooks, 9. Cyrus Thomas, 10. H.D. Schmidt, 11. C.P. Carrington, 12. L.A. Bartlett, 13. Raphael, hunter, 14. A.L. Ford, 15. W.H. Jackson. Natrona County, Wyoming

ワイオミング・レッド・ビュッツ でのキャンプ風景。

左手前から 1)フェルディナンド V.  ヘイデン博士(この隊の責任者で地質学者)、

2)ジェームス スティーブン氏(隊のまとめ役) 3)H.W. エリオット氏(画家)、 

4)S.R. ギフォード氏、5)J.H. ビーマン氏(気象学者)、6)C.S.ターンブル氏(医師)、7&8)調理・給仕担当、9)サイラス トーマス氏 (昆虫学者)、10)H.D. シュミット氏、11)C.P. カリガン氏(動物学者)、12)L.A. バーレット氏、13)ラファエル氏(猟師)、14)A.L. フォード氏、15)W.H.ジャクソン氏(写真撮影担当) ワイオミング・テリトリー ナトロナ郡

https://catalog.archives.gov/id/516891; Photograph; 57-HS-282 

RG 57; Records of the U.S. Geological Survey, 1839 - 2008, National Archives at College Park, MD

 

 

この隊には、カメラマンと画家が同行しました。

 

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空中写真

メリーランド州のカッレジパークにある米国国立公文書館(以下NARA)の3階には、地図・設計図閲覧室(Cartographic and Architectural Research Room)があります。ここには、第二次世界大戦中に米軍が日本上空で撮影した空中写真や主要な地図も含まれています。

今回は、3階閲覧室内で撮影許可された箇所とほんの一部ですが資料のご紹介をします。

 

3階閲覧室は、大きな地図や資料を扱う為、テーブルは比較的広々としています。

 


 

左下は、NARAに設置されている専用の電光板です。この専用機材を使って空中写真のネガフィルムを閲覧します。サイズは9x9が基本ですが、右下のように9×18インチの大きなサイズのものもあります。

 


 

ネガフィルムは左下の様な缶に入ってカンザス州レネックサにある保管庫から送られてくるため、それらを請求してから閲覧できるまでに数日から1週間かかかります。右下は、スキャンニング用スキャナーですが、ロールになっているネガフィルムをスキャンするために、特殊な加工がされています。こちらもNARA常設機材です。

 


 

下の写真資料は、米海軍インテリジェンス関係写真資料群によるレポート資料です。

こちらは、現在、宮城県(資料には福島県になっている。)の松島基地の飛行場となっていますが、当時は、日本海軍の松島海軍航空隊矢本飛行場でした。(参照:松島基地:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E5%9F%BA%E5%9C%B0 )

 


Photographic Intelligence Report No.687. Matsushima Airfield, Fukushima, Honshu, Jun 26, 1945. NIPI #105221 RG 289. National Archives at College Park, MD

 

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アポロ11号

アポロ11号が月に着陸し、そして人類が初めて月面を歩いてから50年が経ちました。この50周年を記念して各場所で様々なイベントや展示などが開催されました。ワシントンDCのスミソニアン博物館が立ち並ぶナショナルモールでは、ワシントンモニュメントをスクリーンとして映像を映し出し、設置されたスクリーンとともに17分間の映像が流れました。

 

上の写真はそのイベントの様子の一部を撮影したものです。約555フィート(169メートル) の高さのワシントンモニュメントにサターンVロケットが映し出されています。

 

この”Apollo 50: Go for the Moon"のショーの様子はスミソニアンNational Air and Space Museumのサイトで閲覧ができます。https://airandspace.si.edu/go-for-the-moon

 

冷戦状態であった1961年、宇宙開発においてソビエトがアメリカを一歩リードしているさなか、大統領であったジョン・F・ケネディーがこの60年代が終わる前には人を月に着陸させ、地球に安全に帰還させると演説をしました。ケネディ大統領は1963年に暗殺されてしまい、彼はその後の宇宙開発の発展を見ることはできませんでしたが、その演説の通り、アメリカは1969年に人を月に着陸させ、無事帰還を果たしました。

 

米国国立公文書館に保存されていたフィルム映像とオーディオレコーディング(音声記録)がアポロ11号のドキュメンタリー映画に使用されたことを知り、米国国立公文書館にどういった資料があるのか興味がありましたので少し調べてみました。米国国立公文書館にはRG255(National Aeronautics and Space Administration:航空宇宙局、NASA)の資料群があり、アポロ関係の資料も存在します。オンラインカタログで検索すると映像や写真などの資料がオンラインで閲覧可能なものもあります。

 

1969年7月16日、フロリダ州のケネディ宇宙センターから3名の宇宙飛行士、ニール・アームストロング、マイケル・コリンズ、バズ・オルドリンをのせ、サターンV ロケットが打ち上げられました。

 

 

Photograph of the Apollo 11 Crew: NRF-255-195C5;  Records of the National Aeronautics and Space Administration,1903-2006; Record Group 255; National Archives at Fort Worth[online version available through the National Archives Catalog (National Archives Catalog identifier 4957611 ) at www.archives.gov; July 30, 2019]

 

7月20日にアームストロングとオルドリンは着陸船イーグルに乗り込み、司令船コロンビアから離れ、月に着陸しました。着陸から約6時間半後の、アームストロングが月を歩く瞬間をアメリカ合衆国だけでなく世界中の6億人近くの人々が息をのみ見守っていました。この貴重な歴史的瞬間に立ち会った人々は新しい時代の幕開けを感じたのではないのでしょうか。

 

下の写真は当時の大統領ニクソンの執務室です。テレビが置かれ、大領領が、月にいるアームストロングとオルドリンと電話で話しています。また、その下の写真は、その日のニクソンの日報です。“11:45-11:50 The President held an interplanetary conversation with Apollo 11 Astronauts, Neil Armstrong and Edwin Aldrin on the Moon.” と会話をしたことが書かれてあります。

 

 

President Richard Nixon Speaking by Telephone to the Apollo11 Astronauts on The Moon:WHPO-1577-12 ;White House Photo Office Collection (Nixon Administration);Richard Nixon Library [online version available through the National Archives Catalog (National Archives Catalog identifier 66394155 ) at www.archives.gov; July 30, 2019]

 

President Daily Diary :Records of the Office of Presidential Papers, 1969-1974; Richard Nixon Library[online version available through the National Archives Catalog (National Archives Catalog identifier 595079 ) at www.archives.gov; Aug. 5, 2019]

 

7月24日に帰還した時、ニクソン大統領は回収船のアメリカ合衆国海軍航空母艦ホーネットに駆けつけました。このホーネットですが、硫黄島、沖縄戦などにおいて戦闘を担っており、第二次世界大戦の資料を見る機会が多かった私たちにとってしばしば目にしてきた船の名前です。下の写真はそのホーネットにて撮影されたものです。月から病原体を持って帰ることが予想されたため、3名の宇宙飛行士は写真にあるMobile Quarantine Facility (移動隔離施設)に入っています。

 

 

Photograph of President Richard Nixon Greeting the Apollo 11 Astronauts on the USS Hornet: 255-CC-67HC-802; Records of the National Aeronautics and Space Administration,1903-2006; Record Group 255; National Archives at College Park [online version available through the National Archives Catalog (National Archives Catalog identifier 17409727 ) at www.archives.gov; July 30, 2019]

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戦争中の米国のポスター

1939年9月に第2次世界大戦は勃発し、ドイツが各戦闘で勝利をし、日本の動きもさらに活発になっていくなかで、1941年1月に、米国のフランクリン ルーズベルト大統領は、年頭教書の中で、言論および表現の自由、信仰の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由という4つの自由を提唱し、これは連合国側の戦争の目標ともなりました。(FDR and Freedom Speech at Franklin Roosevelt Museum and Library: https://www.fdrlibrary.org/four-freedoms

 

この教書の11カ月後、真珠湾攻撃をきっかけとして太平洋戦争が始まることになりました。国を挙げての戦争遂行は、国民の軍隊への加入はもちろん、兵器増産をはじめとしてありとあらゆる産業での増産と節約や女性の社会参加などをさらに一層推進することになりました。こうした国民を総動員しての戦争遂行の努力は、当時の新聞やラジオはもちろん、ポスターやリーフレットの作成にも表れることになりました。

 

そうした時代のポスターやリーフレットが米国国立公文書館にはたくさんあります。米国国立公文書館の検索サイトで、「戦争ポスター (War Posters)」という言葉で検索するといくつかのシリーズが出てきます。それらのうち、「第2次世界大戦ポスター」(WWII Posters 1942-1945: https://catalog.archives.gov/id/513498 )というシリーズでは、全部で2829という総数がでてきます。これらはこのサイト上で見ることができ、そのサイト上で、著作権情報が特に記載されていない限り、自由にダウンロードができるようになっています。これらの中で、特に私は、情報管理に関わるスローガンに興味を持ちました。

 


Left: Poster No. 44-PA-82. https://catalog.archives.gov/id/513543 

Right: Poster No. 44-PA-160. https://catalog.archives.gov/id/513607

Records of the Office of Government Reports, RG44, National Archives at College Park, MD

 


Left: Poster No. 44-PA-151. https://catalog.archives.gov/id/513597

Right: Poster No. 44-PA-158. https://catalog.archives.gov/id/513604

Records of the Office of Government Reports, RG44, National Archives at College Park, MD

 

上記の4枚のポスターは、「情報を漏らすと自国の船が沈む、つまり口は災いの元である。」「よけいなおしゃべりをすることで、この兵士は死ぬかもしれない。」、「沈黙は安全である。」、「米軍部隊の動き、艦船の動き、及び軍需機器について話すな。」といった意味になります。

 

米軍部隊内ではもちろん、市民の間でも、自分の家族や友人、または知り合いが兵士として戦地に赴くときに、関係情報を軽々しく他人に話してはいけないというものです。さもなければ、戦場に赴いた兵士が、むやみに死ぬかもしれないという懸念を前提としていました。何気ない会話が、身の回りにいるかもしれない敵国スパイまたは関係者を通じて敵国側に漏れるかもしれないという懸念を前提としていました。またこうした懸念は、米国内の軍事工場を含めて様々な米国の生産を担う工場や関係機関において、サボタージュ(労働争議の一つ)により工場生産率が下がるような事態の発生の可能性も前提としていました。

 


Left: Poster No. 44-PA-159. https://catalog.archives.gov/id/513606

Right: Poster No. 44-PA-154. https://catalog.archives.gov/id/513600

Records of the Office of Government Reports, RG44, National Archives at College Park, MD

 


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米国雇用促進局(Work Projects Administration: WPA)の連邦音楽計画と美術計画

1930年代から1940年代の米国では、失業者の雇用を促進する目的で発足された政府機関であった米国雇用促進局(Work Projects Administration:以下WPA)が失業者を様々な公共事業を通じて雇用しました。WPAが企画・実行するプロジェクトはWPAプロジェクトと名付けられ、ここ米国国立公文書館でもたくさんの資料が保管されています。1935年から1943年に解散するまで、WPAはたくさんの公共施設や森林公園などの建設や整備等を積極的に担っていました。米国国立公文書館があり、ニチマイ米国事務所が拠点とするメリーランド州にもカトクティン・マウンテン・パーク(Catoctin Mountain Park)も、WPAプロジェクトによって建設されたもので、有名な建設物の1つです。

 

今回はWPAの一番最初のプロジェクトである連邦計第一号(Federal One)の中の連邦音楽計画(Federal Music Project:FMP)と連邦美術計画(Federal Art Project: FAP)という二つに重きを置いて資料を紹介していきます。

 

連邦音楽計画は失業者の中でも音楽家のみを雇用し支援する目的を持った芸術家支援計画の中の一部で、多くの音楽家の窮地を救ったと言われています。このプロジェクトで救われたのは雇用された人々ばかりではなく、コンサートや音楽教育を行ったことによって当時、不景気により不安定であった市民の生活にも良い影響を残したプロジェクトであった事でよく知られたプロジェクトでした。このプロジェクトに関連する資料はほとんどが新聞の切り抜きですが、たくさんの切り抜きが丁寧に保存されているため当時WPAの音楽計画が世間を賑わせていたことは明白です。

 

次の写真の新聞の切り抜きはどれも無料コンサートを開催する告知です。WPAが開催したコンサートは殆どが無料または低料金であったために市民も鑑賞しやすかった事でしょう。

 

NORTHERN CALIFORNIA MUSIC PROJECT No. CACIF

RG 69 Records of the Office of Work Projects Administration Federal Music Project Newspaper Clippings, Programs, and Press Releases. 1941-1942 Alabama – California, Box 83   National Archives at College Park, MD

 

左の資料は盲目のピアニストについて書かれた記事です。7歳の頃から視力を失った彼ですが、彼の音楽家としてのキャリアと共に64歳になってもWPAの音楽プロジェクトを通して活動を続けているという個人の音楽家を紹介するような記事も目立ちました。

 

“Blacked Out 57 Years But Still Working”  PRESS CLIPPINGS January – February 1942 WPA Music Project of So, Calif RG 69 Records of the Office of Work Projects Administration Federal Music Project Newspaper Clippings, Programs, and Press Releases. 1941-1942 Alabama – California, Box 83   National Archives at College Park, MD

連邦美術計画も音楽計画同様、芸術家支援計画の中の一部で、積極的に美術家のみを雇用し、大学や公共機関等に飾る絵や彫刻、外壁等を手掛けたとの事です。音楽計画とはまた違いますが、国民にも美術に触れる機会を多く与える事ができた計画であったことと思います。美術計画の資料は二階のテキスト資料の中でもたくさんの写真として残されており、新聞の切り抜きと一緒に閲覧する事ができます。

 


“SKETCHING MOST PAINTABLE GIRL”  National Art Week November 17 –November 23, 1941  RG 69 Records of the Work Projects Administration Federal Art Project Scrapbook Kept by National Art Week of Chicago, Inc., Box 59   National Archives at College Park, MD

 

左上の資料はシカゴの美術週間の新聞の切り抜きをスクラップしてあるフォルダーです。中にはいくつもの新聞の切り抜きがありましたが、個人的に右上の資料が一際目を引いているように思えました。美術週間にちなんで、複数の海軍兵達がきれいな女性の絵を書いているという写真です。この女性はシカゴの“最も描きたい女性”というコンテストで選ばれたモデルだという事です。

 

Artist: William Boelchoff  Massachusetts WPA Art Project RG 69 Records of the Work Projects Administration Federal Art Project  Massachusetts Photographs of Finished Works by Woodcarvers, Book II , n.d. Box 60   National Archives at College Park, MD

上記の写真はWPAの彫刻家、ウィリアム氏が作業をしているところです。キャプションには“東ボストン高校のために”(For East Boston High School)としか記載がないのでプロジェクトの内容等まではわかりませんが、高校に寄贈したような形なのでしょう。当時としては、著名な彫刻家ではなかったかもしれませんが、このような作業中の写真が印象的でブログで紹介することにしました。

 

1930年代に発足した政府機関であるWPAについて今回のブログを書き始めるまであまりよく知りませんでした。州や郡(カウンティ)レベルの建設業が主な活動でしたが、連邦計第一号(Federal One)のような芸術家を支援したプロジェクトがあった事も、米国国立公文書館の資料を通じて知る事ができました。やはり世代から世代へと過去に起こった出来事を伝えていく為にも資料保存はとても価値のあるものだと改めて実感しました。 (MJ)

 

U-234

U-234とは第二次世界大戦時のドイツ海軍の潜水艦です。そのU-234に日本海軍の2人が乗っていたのはご存知でしょうか。

 

この日本海軍の2人のうち1人は当時の日本の潜水艦技術の専門家であり、ドイツに赴任して日本の潜水艦技術をドイツに伝えるとともに、ドイツの潜水艦技術も学んでいた、友永英夫技術中佐で、もう1人は、日本にジェットエンジンやロケットエンジンを導入するためにイタリアや、ドイツでその技術を学んでいた庄司元三技術中佐です。この2人は日本海軍からの特命により帰国を命じられ帰国の手段としてこのU-234に便乗したほかに、ドイツから日本にウランを持ち運ぶという役割もありました。

 

U-234は1945年3月24日にドイツのキール軍港を出て日本へ向けて出航しました。途中、ノルウェー沿岸を北上中に接触事故を起こし修理のためノルウェーに停泊し、4月16日にノルウェーを再出発しました。大西洋上を浮上して航海していた5月1日に、艦長のヨハン・ハインリヒ・フェーラー(Johann-Heinrich Fehler )海軍大尉はヒットラー総統がすでに死去という無線を受信しました。5月7日には、ドイツ国防軍が連合国側に無条件降伏しましたが艦内の混乱を避けるため、この降服については艦長と一部の士官にしか伝えてなかったようです。翌5月8日、デーニッツ海軍総司令官から「武装を解除し連合軍の指示に従うように」と艦内に正式な入電があり乗組員にも伝えられ艦内でも今後の進路について議論が交わされました。

 

友永と庄司はこのまま日本へ向かってほしいと請願し、一時は中立国であるアルゼンチンに友永と庄司を送り届けることも検討されましたが、最終的には命令通り連合国に降服することになりました。それを知った友永と庄司は携行していた機密書類や設計書などは破棄しましたが、ウランの処分は出来ずそのまま残し彼らは大量のルミナール(睡眠薬)を服用し自決しました。

 

米国国立公文書館にはこのドイツ海軍の潜水艦に関する資料がたくさんあります。今回は、それらの資料のほんの一部を紹介したいと思います。

 

資料の中には、両中佐が知人から託されたとみられる手紙があり、その中には写真と手紙2通が含まれていました。この時代背景として、第二次大戦直後は、シベリア鉄道による陸路での日独の人的・物的交流が可能でしたが、独ソ戦が開始されると陸路は使えなくなったこと、また、連合国側の海上封鎖によって通常の船舶が使用できなくなったことにより、日本とドイツ双方の輸送手段として戦艦が使用されるようになっていました。

 

日本在住のテオドール・エッケル牧師へ宛てた家族からの手紙(1994年12月)

Letter JAPAN PASTOR THEODOR HAECKEL OSTASHEN MISSION

U 234 (JAPANESE) RG 38 Records of the Office of the Chief of Naval Operations Office of Naval Intelligence Foreign Intelligence Branch Technical Section (Op 23F2), 1945-6 Record Re U-234-Aircrraft Drawings to Drawing Lists Box 3 National Archives at College Park, MD

 

当時陸軍兵器行政本部ベルリンの陸軍武官室に勤務中していた人物から日本の岩手県に住んでいた夫人へ宛てた手紙

(1944年11月13日付)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左下の2名が写っている写真の1人はその手紙を書いた人物であり、その隣にいるのは、ベルリンの陸軍武官室の責任者であった責任者大谷修少将でした。

U 234 (JAPANESE) RG 38 Records of the Office of the Chief of Naval Operations Office of Naval Intelligence Foreign Intelligence Branch Technical Section (Op 23F2), 1945-6 Record Re U-234-Aircrraft Drawings to Drawing Lists Box 3 National Archives at College Park, MD

 

また、友永と庄司の連名のドイツ語で書かれた艦長宛ての遺書もありました。

 

庄司元三技術中佐と友永英夫技術中佐、両名の連名で書かれた艦長へ宛てた遺書の英訳文(原文はドイツ語)

 

艦長へ宛てた遺書には、「自分たちの遺体を水葬にしてほしい」「自分たちの私物を艦長を含む乗組員で分けてほしい」「出来るだけ速く日本に知らせてほしい」と綴られています。

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コロラド州デンバーでの滞在

2008年のジョージア州アトランタで行われたアジア学会から、ニチマイ米国事務所として参加を開始し、今年で参加11年目を迎えました。参加開始当時から数年間はニチマイ米国事務所としてブースを出していましたが、その後は、私達米国スタッフが、アジア学会の研究動向を私達の日々の仕事により役立てていくためにセッションに参加することになっていきました。私達は、いわゆるアカデミック分野の立場ではなく、あくまで歴史資料の資料調査や収集を扱う民間会社の立場ですが、毎日、メリーランド州の米国国立資料館(National Archives Records and Administration: NARA) で原資料を見ておりますので、そうした歴史資料がどのようなテーマで使われているのか、分析されているのかといった動向をきちんと把握することは非常に重要なことであると思っています。

 

アジア学会会議のサイトはこちらになります。https://www.eventscribe.com/2019/AAS/ そのサイトからどのようなセッションや個別発表が行われたかの情報を見ることができます。歴史学、政治学、文学、国際関係学、語学、文化比較学他いろいろな分野の研究者や専門家または活動家によるセッションは数にして約400あり、地域別でみるなら、中国及びアジア内部、日本、韓国、南アジア、東南アジアの括りがあり、多彩な各セッションの概要がわかるようになっています。私は、日本の政治や国際関係、北海道の歴史、戦前の日露関係、戦中の子どもたちなどをテーマにしたセッションに出てみましたが非常に興味深い内容でとても勉強になりました。ご参考までに昨年2018年までの会議内容はこちらのサイトをご参考ください。http://www.asian-studies.org/Conferences/AAS-Annual-Conference/Conference-Menu/-Home/Past-Conferences

 


上記の写真はアジア研究における各出版社によるブース会場であり、また会場となったデンバーのダウンタウンのシェラトンホテルです。

 

今回は、あくまでアジア学会のセッションに参加して、最新のアジア研究の動向をできるだけ吸収することが目的でしたので、デンバー市内をゆっくり見学できるような時間はほとんどありませんでしたが、それでも早朝や夕方を使って、多少なりとも市内の様子を見てきました。

 


上の写真はデンバー空港から約40分ほど電車に乗って到着したユニオンステーションという駅です。デンバー市内のダウンタウンの入り口に位置します。ここから私が宿泊したホテルまでは歩いて20-25分くらいでしたが、この駅周辺から繁華街までは下の写真にある、無料のシャトルが出ており、交差点毎に停止するので、こうしたシャトルを利用するのもよいと思いました。帰りのときは会議の会場ホテル前からユニオンステーション駅まで乗りました。

 


左下の写真は、私が宿泊したホテルの近くにあったコンベンションセンターの入り口で、そこには大きな青い熊がセンター内を除いているような像がありました。デンバー市内のトレードマークのようなものになっているそうです。また、右下の写真は対テロリズム教育ラボ(CounterTerrorism Education Learning Lab、CELL)という、テロリズムを防ぐにはどうするべきかについて体験的に学ぶことができるような博物館です。ワシントンDCにおいても、テロリズムに関する展示は、新聞博物館(Newsium)やスパイ博物館の中にも一部あったと思いますが、このデンバーの博物館は、テロリズムとは何か、テロリズムを防ぐには何が必要なのかを考える教育的なプログラムを提示しているので非常に興味深いと思いました。サイト情報はこちらです。https://www.thecell.org/exhibit/

 


デンバー市内にはたくさんの美術館や博物館がありますが、中でもデンバー美術館は先住民族の芸術品は世界でも最大級レベルと言われているようです。が、現在は旧館は改装中のため閉鎖されており、新館では、近現代の様々な展示が行われています。デンバー生まれで現在はニューヨークのハーレムで活躍しているジョーダン カステール(JORDAN CASTEEL)の展示はとても印象的でした。https://denverartmuseum.org/exhibitions 下記の写真はその美術館とカステールの展示の1枚です。

 

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川島芳子-生存していたのか?

先月に川島芳子について書きましたが、米国国立公文書館には川島芳子についての調書の書類が個人にしてはかなりあるのに驚きました。

 

 

 

Inclosure IV; XA510659 Yoshiko Kawashima Vol II of II (Folder 1 of 2); Intelligence And Investigative Dossiers—Personal Name File 1939-1976 Box 389; Records of the Investigative Records Repository Entry # A1 134-B; Office of the Assistant Chief of Stuff for Intelligence, G-2  RG319; National Archives at College Park, MD

その調査目的が記された書類がありました。 川島芳子は数奇な人生を送りましたが、戦後間もなくの1945年の10月に北平(北京)で逮捕され1947年10月に国賊として死刑宣告を受け1948年3月25日に銃殺刑に処されています。

 

しかし処刑後から誰か他の人物が代わりに処刑されたとの噂が出回りました。古川大航という臨済宗の僧侶が芳子が処刑された頃にたまたま北平の日本臨済宗妙心寺にいて、芳子の遺体を荼毘に付すために遺体を引き取りに来ました。 古川大航は芳子とは面識がなく、後頭部から撃たれたため顔の認識が全くできませんでしたが、「家あれども帰り得ず、涙あれども語り得ず、法あれども正しきを得ず、冤(えん)あれども誰にか訴えん」と書いた紙を遺体から見つけ、髪の毛は長いようだがこれを書けるのは芳子以外の誰にもいないので、処刑されたのは芳子本人である、と言っていました。

 

GHQは身代わり処刑は当時の中国では珍しいことではないし、芳子の高貴な生まれと日中戦争でのスパイ活動で、もし処刑されていなくて生きているとすると極東でやっかいなことが起こる可能性が多い、として芳子と接触があった人たちから色々話を聞いたようです。

 


G2, GHQ Inter-Office Memorandum, Subject: Kawashima Yoshiko, Date: 5 Jan 49; XA510659 Yoshiko Kawashima Vol II of II (Folder 1 of 2); Intelligence And Investigative Dossiers—Personal Name File 1939-1976 Box 389; Records of the Investigative Records Repository Entry # A1 134-B; Office of the Assistant Chief of Stuff for Intelligence, G-2  RG319; National Archives at College Park, MD

 

誰かが芳子の身代わりになって処刑された、というのはこういう話です。1948年7月15日に発行された「世界の動き」に掲載された「川島芳子はまだ生きている?」という文章です。LIU Huang-chenという女性が北平の監察院に1通の手紙を出したことから始まりました。川島芳子の身代わりになったのは、芳子とそっくりだった彼女の姉LIU Huang-lingだと言うのです。彼女の義理の兄、Liu Chung-chiが彼女のお母さんに金10本で芳子の代わりにHuang-lingが処刑されるのはどうか、とそそのかします。処刑前日の3月24日に彼女とお母さんがお姉さんを引き渡しに刑務所を訪れました。その時刑務所長のWuは金を4本しかくれず口論になりましたが、脅されて女性2人はとりあえずその場を立ち去ります。刑務所に務める義理の兄によるとお姉さんは芳子の代わりに処刑され、芳子はというと満州に逃亡したと言います。満州のCHOU Pao-chung将軍はそのために金100本を支払ったそうです。しかしながら彼女たちは金4本しかもらえず、後日残りを回収に行ったお母さんは戻ってきません、この件に関しての徹底的な調査をお願いします、というこの苦情の手紙から芳子は生きているのでないか、という噂が飛び交いました。

 

 

 

Name of Magazine: Movement of the World (Sekai no Ugoki); XA 510659 Yoshiko Kawashima Vol. I of II (Folder 2 of 2); Intelligence And Investigative Dossiers—Personal Name File 1939-1976 Box 389; Records of the Investigative Records Repository Entry # A1 134-B; Office of the Assistant Chief of Stuff for Intelligence, G-2  RG319; National Archives at College Park, MD

この噂を信じていた人は少なからずいたようで、芳子と過去に親密な関係にあった相場師の伊藤ハンニや笹川良一は芳子が処刑されたということに疑問を持っていたようでした。

 

 

 

伊藤ハンニの調書 

 

Agent Report, Kawashima Yoshiko, 23 March 1949; XA 510659 Yoshiko Kawashima Vol. I of II (Folder 2 of 2); Intelligence And Investigative Dossiers—Personal Name File 1939-1976 Box 389; Records of the Investigative Records Repository Entry # A1 134-B; Office of the Assistant Chief of Stuff for Intelligence, G-2  RG319; National Archives at College Park, MD

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川島芳子

清王朝が消滅し、中国が内乱で荒れていた時に、中国に置かれていた関東軍が勢力を拡大し満州国を設立しました。その時に川島芳子という女性がスパイとして活躍し「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ話題になりました。 1932年に発表された村松梢風の「男装の麗人」という小説のモデルとしても有名になりました。

 

米国公文書館で川島芳子の資料がありました。

 

Yoshiko Kawashimaというフォルダーがあります。

 

XA510659, Yoshiko Kawashima Vol II of II (Folder 2 of 2); Intelligence And Investigative Dossiers—Personal Name File 1939-1976 Box 389; Records of the Investigative Records Repository Entry # A1 134-B; Office of the Assistant Chief of Stuff for Intelligence, G-2  RG319; National Archives at College Park, MD

 

川島芳子の生い立ちが書かれた書類があります。それに言葉を加えながら少し紹介していきたいと思います。

 


Exhibit III,  Report of Yoshiko Kawashima; XA510659 Yoshiko Kawashima Vol II of II (Folder 1 of 2); Intelligence And Investigative Dossiers—Personal Name File 1939-1976 Box 389; Records of the Investigative Records Repository Entry # A1 134-B; Office of the Assistant Chief of Stuff for Intelligence, G-2  RG319; National Archives at College Park, MD

 

川島芳子が注目されたのはまずその出自にあります。1907年に清朝の皇族の粛親王の第14王女として北京に生まれました。1915年に来日し川島浪速の養女となります。この川島浪速という人は中国語を学び義和団の乱の頃には日本国陸軍の通訳をしていました。その頃に芳子の父の粛親王と親しくなり、粛親王が北京で警察学校を開設した時に総監督として選ばれました。1911年に辛亥革命が起こった時に粛親王とその家族は北京から旅順に逃げ、そこで住居を構えました。川島浪速はその時も手伝ったようです。

 

芳子は日本に来た当時は東京の学校に通っていました。養父の川島浪速が郷里の長野県松本市に転居したので松本高等女学校に聴講生として通学していました。髪を短くして男装を始めたのは17歳の時でした。1927年に日本で勉強していた蒙古族の王子と結婚しますが、3年ほどで離婚したようです。

 

もともと奔放な性格でしたが、離婚後上海に渡りそれから諜報に関わるようになりました。1930年頃に上海に駐在していた武官の田中隆吉少佐に情報を提供していたようです。1931年に満州事変が起こった時に関東軍に協力して皇帝溥儀の夫人の皇后椀容を天津から旅順に連れ出しました。1932年には中国人を武装させて関東軍の進軍に一役買いました。

 

満州国が樹立し軌道にのり東京に大使館を置くようになると、芳子も東京に戻り社交界で活躍するようになりました。1936年には中国の天津で「東興楼」という中華料理レストランをオープンします。

 

芳子の印象について書かれている資料がありました。

 


Hq., CIC Metropolitan Unit No.80 APO 500 File 80-K-78; 441-700272 18 May 1945 Subject: Miss KAWASHIMA Yoshiko; XA 510659 Yoshiko Kawashima Vol. I of II (Folder 2 of 2); Intelligence And Investigative Dossiers—Personal Name File 1939-1976 Box 389; Records of the Investigative Records Repository Entry # A1 134-B; Office of the Assistant Chief of Stuff for Intelligence, G-2  RG319; National Archives at College Park, MD

 

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米国飛行史黎明期の3人

平成が終わり、新元号をお迎えする年となりました。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

今年への羽ばたく思いを大きく込めまして、今回は米国飛行史黎明期に活躍した3組の挑戦者たちを、米国国立公文書館の史料を基にご紹介致します。

 

まず1組目、有人動力初飛行に成功したライト兄弟の写真(4点)をご覧ください。

 

1903年、初飛行の写真

 

ライト兄弟製造1903年式飛行機(”キティ・ホーク”)初飛行

1903年12月17日、ノースカロライナ州・キティ・ホークにて。

 

飛行機を操縦しているのが、弟オーヴィルOrville氏。右手に立っているのは、兄ウィルバーWilbur 氏です。

RG165-WW-7B-6, Original Wright Brothers’ 1903 Aeroplane (“Kitty Hawk”) in the first flight, December 17, 1903 at Kitty Hawk, N. C., Orville Wright at control. Wilbur Wright standing at right. ( first flight was 12 seconds.), National Archives at College Park, College Park, MD., Online version available through the Archives Research Catalog (ARC identifier: 17338962) at www.archives.gov; January 2, 2019

 

兄弟2人連れ

ライト兄弟 オーヴィル氏(弟)とウィルバー氏(兄)、飛行機開発の先駆者、

1910年撮影

 

RG 111-SC- 93510, Orville and Wilbur Wright, Pioneer Airplane Builders, Taken in 1910, National Archives at College Park, College Park, MD.

 

 

オ-ヴィル・ライト氏の飛行 1908年バージニア州フォートメイヤーにて

米陸軍向けに実演

写真の飛行機は、

Pusher Type(推進式)

"ライトフライヤー・A型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

RG111-SC-4498, Orville Wright at Fort Myer, VA,, During military demonstrations for U.S. Army., Notice that the elevator controls are out in front on this, a plane known as the "Pusher Type". Identified also as a "Wright Flyer, Type A". National Archives at College Park, College Park, MD., Online version available through the Archives Research Catalog (ARC identifier: 55170262) at www.archives.gov; January 2, 2019

 

死傷事故を起こしながらも、ライト兄弟は飛行機の開発を重ね、設立間もない米航空隊 (US Army Air Corps)の協力のもと 飛行機は実用化されていきました。

RG165-WW-7B-9, Historical Dayton- Wright Airplane Co., The Wright Brothers’ Aeroplane, Dayton-Wright Airplane Co. Plant, Dayton, Ohio., The Dayton-Wright Company, South Field, May 14, 1918., The Wright Company manufactured aeroplanes under their own name until about 1916, then a merger was made with Glenn Martin to form the Wright Martin Company. Glenn Martin reformed that company under his name alone and the next appearance of the name Wright came soon after the opening of World War I when the Dayton Wright Co. was formed. Their principal product was De Havilland airplanes (English design general purpose type). The aeroplane shown had been retained by Orville Wright as his personal plane, but was not the property of the D. W. Co., In this photo Orville is at the controls; the plane is fitted with his automatic stabilizer. 

National Archives at College Park, College Park, MD. Online version available through the Archives Research Catalog (ARC identifier: 17338968) at www.archives.gov; January 2, 2019

 

ライト兄弟製飛行機、デイトン-ライト飛行機会社工場、オハイオ州デイトン

デイトンーライト社、South Field, 1918年5月14日

 

ライト兄弟は、1916年ころまでライト飛行機会社で飛行機を製造。

その後、グレン・マーティン氏の会社と合併し、ライト・マーティン社となる。

その後、グレン・マーティン氏は、この飛行機会社に自分の名を冠して刷新を図る。

ライト兄弟は、第一次世界大戦開戦時にデイトンーライト社に参画。

社の主な生産モデルは、イギリスの飛行機会社デ・ハヴィラント社デザインの一般仕様のタイプ。

写真の飛行機は、弟のオーヴィル氏個人所有のもの。デイトンーライト社所有のものではない。

 

写真内 操縦席には、弟オービル氏。この飛行機には、オーヴィル氏の自動安定装置が取り付けてある。

 

 

続いて2人目、グレン・カーティス氏 Glenn Curtissに関する写真をご紹介致します。

(写真 5枚) 

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オーストラリアの戦争記念館

オーストラリアの首都キャンベラにある戦争記念館についてご紹介したいと思います。オーストラリアの戦争との関わりは、1901年の建国以前の18世紀の入植の時代から近年の湾岸戦争への参加や現在の国連の平和維持軍の活動まで長くかつ広いものですが、この記念館の展示の主なものは、第1次世界大戦と第2次世界大戦に関するものであり、さらに現在も続いている中東地域の戦争に関するものも入っていました。

 

戦争記念館の入口

メモリーホールに続く中庭


1914年7月に第1次世界大戦が勃発し、翌8月には連合国側のイギリスは同盟国側のドイツに宣戦布告をしたことにより、当時のイギリス帝国の自治領の1つであったオーストラリアも戦闘に参加することになりました。オーストラリアにとって第1次世界大戦とはどのようなものであったのかについて、当時ドイツの統括下にあった太平洋上の島々から、当時のオスマン帝国(トルコ)やエジプト他中東、さらにフランスなどのヨーロッパまでの各戦場の様子や当時の武器や戦闘技術、また兵士の動員などについての詳細な展示がありました。

 

当時の兵士と馬

当時の小型大砲


フランス北部での戦闘の様子

看護婦の制服とメダル



4枚とも兵士募集のポスター

 

 

上記の4枚は兵士募集のポスターや関連資料です。1916年になると戦場へ行く志願兵が減ってしまったために、当時のヒューズ首相はそれまでの国内に限られていた兵役を海外兵役を含めた形で法制化しようとしましたが、2回にわたる国民投票でも否決されて、あくまで志願兵によるものに頼らざるを得ませんでした。

 

第1次世界大戦における戦闘参加をしたオーストラリア兵士は41万6809名、そのうちの6万名以上が戦死、15万6千名以上が負傷者や捕虜となったと戦争記念館のサイトにはありました。(First World War 1914-1918: https://www.awm.gov.au/articles/atwar/first-world-war

 

その第1次世界大戦が1918年11月に終結し、翌1919年6月にはにはベルサイユ講和条約が締結されましたが、それから20年後、不幸にも第2次世界大戦が始まってしまいました。 1939年9月1日にドイツはポーランドへの侵攻を開始し、3日にイギリスとフランスはドイツに宣戦布告をしたことにより、オーストラリアも連合国の一員として戦争に参加することになりました。1941年12月の日本による真珠湾攻撃後の、1942年から1943年にはオーストラリアのダーウィンやブルーム他の地域で日本軍による空襲が何度もあり、大きな被害を被ることになりました。オーストラリアへの脅威が迫る中で、オーストラリア国内では女性の動員や先住民族のアボリジニーの動員も積極的に行われました。

 

オーストラリアに

日本軍が迫るという意味のポスター

アボリジニーの戦争への動員を示す


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米国議会図書館

米国国立公文書館でワシントンDCにある1900年前後の米国議会図書館- Library of Congress(通称:LC)の写真資料を見つけたので一部ですがご紹介したいと思います。

 

先に、米国議会図書館-Library of Congressは、1800年に創立されたアメリカ合衆国の国立図書館です。書籍、印刷物、音声資料、写真、地図、楽譜、映画、原稿など、現在もなお増え続ける膨大なコレクションと世界でも最大規模の蔵書数を誇るこの図書館には全米を初めとして世界各国から多くの人々が訪れています。(参照:Thomas Jefferson Building – Library of Congress) https://www.loc.gov/portals/static/visit/documents/QuickGuide-Japanese.pdf

 

こちらは米国国立公文書館が所蔵しているトーマス・ジェファーソン館の写真です。米連邦議事堂 (United State Capitol) から撮影されたと思われます。写真が布に貼られていてとても年代を感じますが建物の趣は変わりません。

 

Photograph No.79-PB-14: Library of Congress, First and East Capitol Sts., SE. Records of the National Park Service, Prints: Federal Building in Washington D.C., 1900-1917. RG 79-PB (Box1): National Archives at College Park, College Park, MD.

 

下の写真は米国国立公文書館のウェブサイトからです。1918年に撮影された第一次世界大戦の戦争関係部署で、米国議会図書館内の写真です。

 

American Library Association - Library Personnel - Library War Service, Headquarters at Library of Congress, Washington, D.C. Photograph No. 20801734. RG: 165-WW-33C-1B, National Archives at College Park, College Park, MD.

 

下の写真は、デッサンの様にも見えますが、米国国立公文書館の職員の方が写真に間違いないと断言してくれました。

 

Photograph No. 11-49: Library of Congress. Records of the U.S Geological Survey. Historical Reference Collection of Topographic and Geologic Images, Album 10&11; RG57-HRC (Box12). This appears to be Book No.2 of Snap Shots – Negatives by Harry Shuster, Elliott Hough, R. C. McKinney, W. M. Morrill, and Hersey Munroe: orints on “Dekko” paper by Hersey Munroe 1898. Topog. Div., U.S.G.S. – Historical Picture Files, Feb 17, 1966: National Archives at College Park, College Park, MD.

 

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テニス選手~リチャード・ノリス・ウィリアムズ~

先月、テニスの4大国際大会の一つである全米オープンで大坂なおみ選手が優勝し、日本人初のシングルスでの優勝という快挙を成し遂げました。その報道を見ていて、ふっとNARAにテニス関係の資料がないのかなと思い立ち、調べてみることにしました。

 

今回は見つけた資料の中で、タイタニック号沈没事故の生存者であり、全米選手権やウィンブルドン、オリンピックでも活躍をしたリチャード・ノリス・ウィリアムズというテニス選手に関する資料をご紹介したいと思います。

 

リチャード・ノリス・ウィリアムズはアメリカ人の両親のもと、1891年にスイスのジュネーブで生まれました。彼が21歳の時に父親と一緒にタイタニックに乗船し沈没事故にあい、父親は残念ながら亡くなってしまいますが、彼はカルパチア号に救助されました。

 

下の資料は、カルパチア号に救助されたタイタニック号生存者のリストの一部です。一番上にウィリアムズの名前があります。

 

List or Manifest of Alien Passengers for the United States Immigration Officer at Port of Arrival, R.M.S. CARPATHIA. Records of the Immigration and Naturalization Service, Record Group 85; National Archives at College Park at College Park, MD[online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 300348) at www.archives.gov; Oct.1, 2018]

救助後、カルパチア号の医師に両足を切断するよう勧められましたが、彼はそれを拒否し、毎日エクササイズを行ったそうです。結果的には、その年にテニスの試合に参加することができ、好成績を残しました。

 

第1次世界大戦のときにはアメリカ陸軍に志願し、フランスで任務を遂行しました。そして、この時の英雄的な行いに対してフランスから勲章が授与されています。下の写真がCroix de Guerreという勲章の授与の様子です。右側がウィリアムズです。

 

 

 

France honors the valor of Belleau Woods. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111; National Archives at College Park at College Park, MD[online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 86707208) at www.archives.gov; Oct.1, 2018]

 

1919年2月19日からフランスのカンヌでアメリカ外征軍(American Expeditionary Forces)将校のテニストーナメントが開かれました。アメリカ外征軍は、第一次世界大戦のためヨーロッパに派遣されたアメリカ軍のことです。NARAにはこのトーナメントに関する写真と映像が残っており、ウィリアムズが写っている写真があります。

 

 

GROUP OF NOTED WORLD FAMOUS tennis players, all former champions in their day, and one who is the present world's champion: Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111; National Archives at College Park at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 86711584) at www.archives.gov; Oct.1, 2018]

この写真に写っているのはすべて元チャンピオンで当時名の知れたテニス選手たちだそうです。左から5番目番目にいるのがウィリアムズです。アメリカ外征軍の中に強いテニス選手がこれだけいたことに驚きました。参加人数はわかりませんが、このトーナメントはとても見ごたえのあるものだったのではないでしょうか。

 

Capt. R. Norris Williams, National Champion, and Capt. Watson M. Washburn, also a champion. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111; National Archives at College Park at College Park, MD[online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 86711588) at www.archives.gov; Oct.1, 2018]

上の写真の左側がウィリアムズで、一緒に写っているワトソン・ウォッシュバーンとペアを組みダブルスで優勝しました。下の写真がダブルス決勝戦での試合の様子です。

 

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花嫁学校

1945年に日本が降伏し第二次世界大戦が終わると、日本は連合軍占領下となりました。そういう中で日本に駐留していた米軍兵士と仲良くなり結婚する日本人女性も少なからずいました。そういう女性たちのために「花嫁学校」(Brides School)というのがあったようです。

 

米国赤十字社が1951年から「花嫁学校」を始めました。この資料によると1957年まで続いたようです。

 

Minutes of Meeting on Brides Schools, 19 August 1957, Washington Heights Civilian Club; War Brides, Japan and Korea, Japanese War Bride School; Central Decimal Files, 1947-1964 (Group 4); RG ANRC-Records of the American National Red Cross (Entry UD-UP 4, Box 1280); National Archives at College Park, MD

 

参加を呼びかけるこんなポスターもありました。

 

Brides’ School; War Brides, Japan and Korea, Japanese War Bride School; Central Decimal Files, 1947-1964 (Group 4); RG ANRC- Records of the American National Red Cross (Entry UD-UP 4, Box 1280); National Archives at College Park, MD

 

参加希望者も多かったようで、多くのカップルが受講申し込みに来ました。

この写真は東京での受講申し込みの様子です。

 

Photograph No.111-SC-527670 ; The reception room of the Tokyo Chapel Center, Tokyo, Japan, during registration for the fall 1955 Tokyo Brides School; Photographs of American Military Activities, ca.1918 - ca.1981; Records of the Office of the Chief Signal Officer, 1860-1985 ; RG111-SC (Box 1179); National Archives at College Park, MD

 

この写真は最初の花嫁学校開始の時の写真で300人以上もの日本人女性が集まったということです。

 

Photograph No.111-SC-361328 ; School for Brides, Japanese brides of American soldiers attend a school at the Masonic Temple, Tokyo Japan, to learn Western living conditions as they exist in the United States.  This meeting marks the beginning of a “School for Brides” in which over 300 Japanese girls attended. 16 Mar. 51; Photographs of American Military Activities, ca.1918 -ca.1981; Records of the Office of the Chief Signal Officer, 1860-1985 ; RG111-SC (Box 764); National Archives at College Park, MD

 

授業内容はアメリカの生活に基づいた料理や美容教室・育児教室の他にアメリカの歴史や文化、宗教や政治形態と多岐にわたっています。時間割の一例がこの書類に示されています。

 

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ハワイの日系移民

今年は、ハワイ日系移民150周年、ブラジル日系移民110周年を迎える年であることを報道で知りました。日本人は世界各国に移民していますが、その中でもハワイが最初の集団移民の土地であり、一番歴史が長いことになります。

 

はじまりは、150年前の1868年に約150名の日系移民が日本からハワイに渡りました。当時、商人であり、また在日ハワイ領事でもあったユージン・ヴァン・リード(Eugene Van Reed)が江戸幕府との間の友好交渉で約300人分の渡航許可を受けていました。しかしながら、日本は幕末維新期の激動期にあり対応できず、また明治新政府は旧幕府と交わした交渉を認めませんでした。その為、既に渡航準備を整えていたヴァン・リードは明治政府に無許可で最初の日系移民をハワイに送り出したそうです。この年は、明治元年にあたり最初の移民者を『元年者』と呼ぶそうです。(参照:ハワイ日本人移民到着150周年記念を祝して:https://kizunahawaii.org/

 この節目の年に、ここ米国国立公文書館に当時の関連資料はあるのだろうかと興味がわきました。ハワイ日系移民の関連資料の多くはサンフランシスコの分館に所蔵されているようなのですが、今回は米国国立公文書館のサイト上やここに保存されている一部の資料をご紹介したいと思います。

 

こちらは、日系移民が最初にハワイに渡った年と同じ1868年に記録され米国国務省が保管したハワイ政府の覚書です。この中の一面に、議会でのハワイ国王(ロト・カメハメハ - カメハメハ5世)の声明文がありました。そこでは、日系移民や貿易について次のように触れており、『Our negotiations with Japan have, so far been successful. Important and favorable results may be expected from the opening of trade with, and immigration from, that kingdom. 』(日本との交渉はこれまで成功しており、ハワイ王国との貿易開始や日本からの移民が重要かつ有効な効果が期待されるであろう。)としています。

 


RG 84 Records of Foreign Service posts, Diplomatic Posts Hawaii, Volume 026. Notes from Hawaiian Government (Entry: UD29) No.4 Hawaii – U.S. Legation Archives Notes from Hawaiian GOVT. January 17, 1861 – March 9, 1869. Department of State; National Archives at College Park, College Park, MD.

 

こちらは、在ハワイ王国米国弁理公使のジョージ・W・メリル(George W. Merrill)に宛てた1886年3月29日付の手紙です。ハワイ王国と日本間で締結された移民条約(日布渡航条約)に関して触れています。

RG 84 Records of Foreign Service posts, Diplomatic Posts Hawaii, Volume 029. Notes from Hawaiian Government (Entry: UD29) No.7 Hawaii – U.S. Legation Archives Notes from Hawaiian GOVT. August 21, 1882 – November 21, 1890. Department of State; National Archives at College Park, College Park, MD.

下記は、米国国立公文書館のサイトからです。1908年6月9日に誕生された日系人(Kaoru Shiibashi )の方の出生証明書です。この頃にはアメリカ合衆国の併合により、証明書にはハワイ準州(Territory of Hawaii)の印がされています。

 

National Archives Identifier: 6587579. Certificate of Birth of Kaoru Shiibashi; Immigration Arrival Investigation Case File for Kaoru Shiibashi (30309/27-5), 1908-1931; Immigration Arrival Investigation Files, 1884 – 1944, Record Group 85: Record of the Immigration and Naturalization Service, 1787 – 2004. National Archives at San Francisco (RW-SB) San Bruno, CA. https://catalog.archives.gov/id/6587579

 

また、上記の出生証明書のご本人、椎橋馨さんに関する日本語の証明書も写真と共に載っていました。

 

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義和団の乱の写真

米国国立公文書館の写真資料室の壁際にはキャビネットが並んであり、資料請求のための手助けとなる各レコードグループのフォルダーが入っています。たまたま開けた引き出しの中に、Boxer Rebellionとタイトルのついたフォルダーがあり、写真が入っていました。これらの写真がとても興味深く、今回はそこにあったいくつかの写真をご紹介をしたいと思います。

 

Boxer Rebellionとは中国の義和団の乱のことです。1900年6月、義和団が北京にある公使館区域を包囲攻撃しました。その義和団を清の西太后が支持し、欧米列強に宣戦布告をしました。これに対し、日本、アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア=ハンガリーの8カ国の連合軍で、出動し、約2か月後に北京を制圧し、他の地域も含めてこの乱を鎮圧しました。

 

ここにある写真に目を通してみると、1900年から1901年までの中国の風景や建物、アメリカ軍だけでなく、日本やインド兵を含むイギリスなど各国の軍服や装備なども撮影されています。

 

近年、中国は経済的発展が目覚ましく、新しい建物が立ち並び、昔と様子がかわってきていますが、中国と言えば広大な土地と歴史的建造物を連想します。

 

Photograph No. 74992; “Scene within the Summer Palace, near Pekin. 1901.”;  Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, College Park, MD.

 

上の写真は、1901年に撮影されたSummer Palace (頤和園:いわえん) です。中国北京の北西にあり、北京最大の庭園です。連合軍により建物の一部が壊され、その後修復されたそうです。1998年にはユネスコ世界遺産に登録されているので、この場所のことをご存知の方もいらっしゃると思います。頤和園の写真がいくつかあり、どれを見ても建物のすばらしさや自然の美しさが感じられ、機会があれば一度は訪れてみたいです。

 

Photograph No. 88833; “Catholic Mission in French Legation District, Pekin.”;  Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, College Park, MD.

 

上の写真はカトリック教会です。瓦屋根の中国独特な建物の真ん中にゴッシック様式の建物が写っており、洋風と中国建築の組合わせに目を引かれました。教会に掲げられているのはフランスの国旗のようです。教会の前にあるのは塹壕です。

 

 

軍服や装備は、国によって違いもありますが、同じ国でも歩兵、騎兵、工兵など部隊によって違います。軍服についてあまり気に留めたことがなかったのですが、各国の軍服をじっくりと見てみると特色があり面白いです。

 

 

日本軍の砲兵です。一番左は下士官です。

 

Photograph No. 74924; “Japanese Artillerymen. First man on left is N.O.C. Pekin. 1900”;  Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, College Park, MD.

 

ドイツ軍の砲兵です。ヘルメットが特徴的です。

 

Photograph No. 74930; “German Regular Artillerymen, Pekin. 1900.”;  Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, College Park, MD.

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GHQ資料で見つけた引揚者たち

米国国立公文書館ではRG(レコードグループ)331にSCAP(Supreme Commander For the Allied Powers)の資料があります。SCAPは通称GHQもしくは進駐軍と呼ばれています。

その資料の中に引揚者に関するものを見つけました。この資料は共同写真通信からの写真のコレクションです。

弊社ブログ2015年5月12日付の「戦後の引揚~シベリア抑留者の帰還」がありますが、それも合わせてお読み下さい。

 

 

我が子より寿司を口に入れてもらう引揚者。(品川駅前にて) 7月2日

 

お父さんの今にも泣きそうな表情から今までの苦労が偲ばれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「シベリア引揚佳話」の主、市東光男君帰る 8月2日

 

この青年は何かに寄稿していたのでしょうか? お母さんと妹さんに迎えられています。お母さんによく似ていますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「頭を刈ってサッパリと」引揚者を待つ品川駅       24年6月27日

 

これは面白い写真で、数日後のソ連からの引揚者の到着に備えて歓迎準備に忙しい品川駅ではプラットホームに臨時理容店が開設されたようです。列車到着後はお客さんをさばくのに大わらわだったことと想像できます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

引揚第二列車東京到着

 

この写真は「早くも背広姿の引揚者」とあり、右側の帽子をかぶっていない男性が引揚者の大野正さんです。 社会復帰に意欲的だったのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社会復帰といえば、こういう写真もありました。 

函館の写真で「故国へ第一歩を印する埠頭上陸所と大看板」             6月26日

 

外地から帰国した兵隊さんの中には「戦争ボケ」と呼ばれる虚脱状態に陥った人も少なからずいたかと思いますが、求職活動は現実に戻るのに良いセラピーだったのかもしれませんね。

 

 

最後に「喜びの坂野さん一家」という写真をご紹介します。             6月28日

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Amelia Earhart (アメリア イアハート)

日本でも一度はこの名前を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか?米国のカンザス州出身の女性飛行士で1932年に女性としては初めて、大西洋単独横断飛行を達成したことで広く知られています。米国では女性飛行士という肩書きや彼女が成し遂げた異例の飛行経験以外にも彼女の人柄を好む人が多くいたようで、彼女は米国でヒーローのように扱われたということです。しかし、着実に飛行士としてのキャリアを積み上げていた真っ最中、1937年、39歳の時に飛行機遭難事故により失踪し、2年後には死亡声明が発表されました。このアメリア メアリー イアハートの最後のフライトとなった飛行機遭難事故が彼女を最も有名にした事柄といっても過言ではありません。今回は米国国立公文書館にある、アメリアに関連した資料の紹介をしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photograph No. 26-XC-401403 Box 1: Photographs of aviatrix, Amelia Earhart, ca, 1930s, Records of the U.S. Coast Guard, Record Group 26-XC; National Archives at College Park, College Park, MD.

左下の写真のキャプションには『飛行訓練が整った、アメリア』とあります。残念ながら撮影した日付の記載がないので、この訓練が失踪をした最後のフライトへ向けてのものだったのかどうかは定かではありません。

 


Photograph No. 26-XC-357096, 872144 Box 1: Photographs of aviatrix, Amelia Earhart, ca, 1930s, Records of the U.S. Coast Guard, Record Group 26-XC; National Archives at College Park, College Park, MD.

 

他にもランチをとっている写真や、アメリアと彼女の夫、ジョージ・パットナム氏とのショットであったり色々なシーンが納められているのですが、やはりアメリアが飛行機と写っているものがほとんどでした。

 


Photograph No. 26-XC-401704, 64999 Box 1: Photographs of aviatrix, Amelia Earhart, ca, 1930s, Records of the U.S. Coast Guard, Record Group 26-XC; National Archives at College Park, College Park, MD.

 

彼女の飛行機が失踪後、主に米海軍と沿岸警備隊が彼女の捜索をしました。失踪日の1937年7月2日の午後から7月18日の捜索記録は公文書館のオンラインサイトでも見る事ができます。(https://catalog.archives.gov/id/305240)日付や時間、捜索場所などを丁寧に記録しているのがわかります。

 

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戦後の日本の風景―米軍のカラー写真から

4月半ばに入り、ようやくワシントンDC周辺も暖かくなり、桜も先週末から満開となりました。米国で桜を見るのもよいものですが、やはり日本の桜が懐かしく、恋しいと思いました。そんな気持ちもあって、今回は、米国公文書館にあります、戦後占領期の日本の風景や人々の様子をカラーで撮影した写真をご紹介したいと思います。これらのカラーの写真はすべてRG111 (Records of the Office of the Chief Signal Officer: 陸軍通信局長室資料)の中にあるもので、日本の様々な地域の風景、人々の暮らし、産業の様子などを含んでいます。

 


Left: No. C-FEC-4617 “Cherry Blossoms the walk approaching the General Grant Monument in Ueno Park, Tokyo, Japan. April 22, 1947.” RG111CPF Records of the Chief Signal Officer General Photographic File Color Print File 1944-1954, Box28, National Archives at College Park, MD. 

 

Right: No. C-FEC-4615 “Japanese children present cherry blossoms to American enlisted men in Ueno Park, Tokyo, Japan. April 22, 1947.” RG111CPF Records of the Chief Signal Officer General Photographic File Color Print File 1944-1954, Box28, National Archives at College Park, MD. 

 

上記の東京の上野公園内の写真だけ見ていると現在も残っている風景でもあり、とても懐かしいです。が、この上野公園も1945年の3月10日の東京大空襲では多くの犠牲者の方々のうちの8400体の仮埋葬地となった(レファレンス共同データベース:Collaborative Reference Database: http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000020257より)という歴史があります。そうした歴史を知ることで上野公園の桜を見る目もまた変わってくると思いました。

 


Left: No. C-FEC-4901 “Japanese using “Popeye” and “Betty Boop” American cartoon characters to advertise their merchandise, parades through the streets during a sign parade in Tokyo, Japan. April 5 1948.“  RG111CPF Records of the Chief Signal Officer General Photographic File Color Print File 1944-1954, Box24, National Archives at College Park, MD. 

 

Right: No. C-FEC-4874 “A Japanese man holds the Stars and Stripes of the United States as he leads the parade during an advertisement sign pageant, Ueno Park parade grounds, Tokyo, Japan. April 5 1948.” RG111CPF Records of the Chief Signal Officer General Photographic File Color Print File 1944-1954, Box24, National Archives at College Park, MD. 

 

上記の写真も上野なのですが、パレードの様子の写真です。「タバコのみの歯磨スモカ」や、「美と健康!天然女性ホルモン、オバホルモン」「アメリカ映画アニバーサリー」といった看板が見えて、戦後から3年近く経って少しずつ日本が復興していたことがうかがわれます。

 


Left: No. C-FEC-4762 “A Japanese artist makes a miniature life mask of a member of 5th Calvary stationed in Japan, as his buddies look on in front of the Nippon Theater on “Ginza,” the Broadway of Tokyo, Japan. The “Ginza” is one of the attractions for visitors coming to Tokyo. March 25, 1948.“ RG111CPF Records of the Chief Signal Officer General Photographic File Color Print File 1944-1954, Box28, National Archives at College Park, MD. 

 

Right: No. C-FEC-5755 “Pfc. Billie Davidson, Trenton, MO (left), and Pvt. Gulton G. Porks Jr. Oxford, MN, both of Honored Guard Co, HQ and SV GP, GHQ , FEC, contribute to the Community Chest in Tokyo, Japan. November 5, 1948.” RG111CPF Records of the Chief Signal Officer General Photographic File Color Print File 1944-1954, Box22, National Archives at College Park, MD. 

 

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タイタニック号(TITANIC)

日本でもよく知られているタイタニック号は、完成した当時は、世界最大の豪華客船として脚光を浴び、『絶対に沈まない船』とも言われていましたが、1912年4月15日に沈没してしまいました。当時、最も死者数の多い悲劇的な海難事故として100年以上経った今現在でも長く語り継がれています。

 

来月、タイタニック号沈没事故から106年目を迎えます。米国公文書館にある、タイタニック号の沈没事故に関連する資料の一部をご紹介します。

 

当時の新聞に『どのようにタイタニック号が沈んだか』という見出しで生存者の体験談が載せられていました。船が沈没し、救助船でニューヨークにたどり着いた際の生存者の方の証言を載せた新聞記事です。 

 

この記事には、その生存者が救命ボートから見た状況を語っており、どのようにタイタニック号が沈んでいき、船に残された人々の最期の時までも、楽器の演奏は続いていたが、同時に残された人々のうめき声や泣き声も聞こえたと証言してあります。また、大抵の子供と女性は助かったが、夫と離れるのを拒んだ人々は助からなかったとあります。

 

 

 

How the Titanic Sank: Story of the Survivor of the Greatest Sea Tragedy of the World as Told by Those Reaching New York; 809.1 Titanic Relief Fund; Central Decimal Files,1881-1892; Box 53, Records of the American National Red Cross Collection ANRC; National Archives at College Park, MD

 

 

“Photograph of a Lifeboat Carrying Titanic Survivors 5/14/1912” US District Courts for the Southern District of New York. In the Matter of the Petition of the Oceanic Steam Navigation Company, Limited, for Limitation of its Liability as owner of the steamship TITANIC Admiralty Case Files, 1790 – 1966, RG21, Records of District Courts of the United States, 1685 – 2009 ARC Identifier 278337: https://catalog.archives.gov/id/278337

 

上の写真はタイタニック沈没後に救命ボートに乗っている生存者を救助船カルパチア号から撮影したものです。救命ボートはタイタニック沈没後、3日から4日ほどかけてこの救助船までたどり着いたという事です。100年以上前の写真なのでピンボケをしているように見えますが、生存者の証言と合わせて見ると当時に引き戻されるような気分です。この写真の中の生存者達も新聞記事にあるような経験をしたことでしょう。米国公文書館の5階の写真資料のアーキビストによれば、この写真も含め、タイタニック号に関連する写真は主にニューヨークの公文書館で保管されているということです。

 

船員と乗客を合わせて2000人以上のうち、死者数は1500人以上を超え大惨事となったこの沈没事故の数日後から、米国と英国では、直接的な要因である氷山への衝突は避けられなかったのか、救命ボートの数は十分ではなかったのではないか、この船の所有者であたったホワイトスターライナー社(White Star Liner)には責任があったのかなどについて調査が行われました。

 

しかしながら、それらの調査では残念ながらこの会社側に責任があったという結論は出されませんでした。が、被害者への補償問題に関する裁判は行われていたようで、関係資料の中には、「直接かつ意図的な殺人」を行ったこのホワイトスターライナー社の航海免許を剥奪するべきであるといった事を強く主張する資料もありました。

 

 

 

 

 

 

Gentleman: RE, S.S. “Titanic” Disaster, Sunday, April 14 1912; Department of Justice Mail and Files Division File No. 16175 ; D.J. Central Files, straight Numerical Files 16137-161683 (Box 1391, Entry # A1-112B) RG60 Department of Justice, National Archives at College Park, MD

 

タイタニック号の所有者であるホワイトスターライナー社は、英国の企業であるため、米国公文書館ではあまり資料がないのかと思っていましたが、テキスト資料を含め、オンラインでもいくつかの資料が公開されていました。また、米国公文書館のサイトには職員が書いた記事も紹介されていますので最後にその情報も掲載しておきます。

 

They Said It Couldn’t Sink:  https://www.archives.gov/publications/prologue/2012/spring/titanic.html 

 

(MJ)

WAR DOGS

2018年(平成30年)が幕を開けて早くも1ヶ月が経ちました。今年の干支は戌ですね。そこで、犬に因んだ関係資料を調べてみました。

 

最近でも、その優れた嗅覚からがんの有無の判定ができる『がん探知犬』としての医療の最先端に貢献する犬の話題や、2012年には犬好きで知られるロシアのプーチン大統領に東日本大震災の復興支援への返礼として日本から秋田犬が贈られるなどの外交としても活躍してくれている話題など、犬に関してのニュースも見聞きします。

 

さて、ここアメリカ国立公文書館には、アメリカ海兵隊資料の中に『Dog Service Record Books』という資料があります。これは、戦争で使用されたWar Dog(軍犬又は軍用犬)について纏めた資料です。このシリーズは1942年から1945年までの記録で、全11箱あります。各々の犬のデータが通し番号付きの一冊の手帳になっており、892頭のWar Dogが登録されています。War Dogと言うとドーベルマン種の様な犬を想像しますし、確かに殆どがその種類になるのですが、今回は、それ以外で目に留まった2頭の手帳をご紹介したいと思います。

 

こちらは「BUTCH」の手帳です。ジャーマンシェパードのオス犬で当時3歳でした。1944年3月31日から1947年3月17日の除隊までの記録がされています。その内容は、飼い主との誓約書やトレーニング内容、配属場所などが記載されています。

 



RG127 Record of the U.S.M.C. (Entry: UD-WW 100) Dog Service record Books, 1942-45. Marine Corps Dogs Serial Number 327 through 407 Box5 Serial No. 396 National Archives College Park, College Park, MD

 

下のProfessional Historyでは、あの激しい硫黄島の戦いのあった1945年2月から3月の時期にグアムから硫黄島に上陸していたことが記されています。また、1946年5月から10月にかけては、アメリカ大統領の警備犬のメンバーとしての任務も果たしていたようです。とても優れた犬であったことが分かります。

 

RG127 Record of the U.S.M.C. (Entry: UD-WW 100) Dog Service record Books, 1942-45. Marine Corps Dogs Serial Number 327 through 407 Box5 Serial No. 396 National Archives College Park, College Park, MD

 

任期を終えたBUTCHは、持ち主の希望通り、オーナーに戻された事、とても優秀で名犬であったことが記載されています。

 

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アイヌ民族

今から約4年前の2014年、ペンシルバニア州フィラデルフィアで開催されたアジア学会でAinu Pathways to memoryというドキュメンタリー映画のExpoに参加したことがありました。

 

ドキュメンタリー映画監督は Marcos P. Centeno氏で日本人ではない事にも驚きましたが、映画はアイヌ民族の歴史や文化、アイヌ語を保存する活動について丁寧に掘り下げて作られており、とても見ごたえのある約80分の作品でした。アイヌ民族が北海道、樺太、千島列島の先住民族であり、日本政府(和人)やロシア政府によって土地を奪われ、民族としての権利を剥奪された事や差別に苦しんだ過去なども映画を通して知りました。また、このドキュメンタリー映画を見た後、アイヌ民族についてあらためて自分なりに調べてみました。

 

アメリカ国立公文書館にはアイヌ関係の資料や写真も保管されているので一部を紹介しようと思います。1949年の新聞記事の切り抜きの為、見えにくいとおもいます。

 

RG331 Allied Operational & Occupation Headquarters, WWII Supreme Commander for the Allied Powers Civil Information & Education Section Religion & Cultural Resources Division Special Projects Branch Religious Research Date 1945-51 Box5791 National Archives at College Park, College Park, MD

 

上記は1949年10月9日のサン写真新聞の切り抜きで後楽園球場で開催されたアイヌの祭りである熊祭りの切り抜きと記事の英訳文です。熊祭りとはアイヌの代表的な祭りでアイヌ語でKamuiomsnte(神送り)と言われています。22名のアイヌ人(男性10名、女性12名)が参加し、祭壇の前に置かれた18本のろうそくと直径約30cmの(偽の)お餅の前でお祈りをささげた後に熊を連れてきて、何周かぐるぐる回った後、熊に矢が放たれたと書かれてあります。アイヌ民族では神(カムイ)の国は山奥にあり、神の姿をしたクマが贈り物をもって人間の世界を訪問し、歓迎され、盛大な見送りを受けた後、神の国に帰っていくと考えられていたそうで、熊祭りはアイヌの伝統的な見送りの儀式になるようです。

 

下の写真は1948年9月に撮影されたアイヌの宮本エカシマトク村長です。熊祭りの為に捕獲した熊を大事に約3年間飼育した後、熊祭りに捧げると書かれてあります。後ろはすべて熊の頭蓋骨だそうです。

 

Photograph No.5706 RG111-Records of the office of the Chief Signal Officer Contact Prints: Color Photographs of Signal Corps Activities, ca 1944-1981 Box10 National Archives at College Park, College Park, MD

 

次の写真は伝統的なアイヌの衣装を着ている村長と奥さんで村で唯一の夫婦(Only Couple in the Ainu Village)と書かれています。民族衣装はルウンぺと言い、一針一針心を込めて縫われた渦巻き文様、括弧文様は地域ごとに違い、地域によっては魔物を寄せ付けないともいわれているそうです。首飾りはタマサイといい中国大陸や和人社会から入手したガラス玉で作られているそうです。1番特徴的なのは女性の口の周りや腕に入れた独特な入れ墨でしょうか。理由はいろいろな説があり、はっきりしないようです。

 

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米軍の商品開発

米軍で行なわれている技術的研究や開発というと、兵器や戦車、航空機などを思い浮かべますが、先日見た資料の中に私たちの周りのものも対象となっているのを見つけました。

そのうちのいくつかをご紹介したいと思います。

 

Device, Writing Night; Research and Development Status Report, September 1947; U.S. Natick Laboratories Office of the Comptroller Review and Analysis Division; Status and Progress Reports of Research and Development Projects 1944-74(Box 3, Entry# UD-6); Records of the United States Army Materiel Command, Record Group 544; National Archives at College Park, MD

 

このページの一番上のものですが、夜間に光を照らすことなしにメッセージが読めるようなものを書く道具の開発だそうです。そんなものが発明できるのか思ったのですが、既にいくつかの大学や研究所にコンタクトをして契約を取るようにしていたようです。

 

Behavior of Flies, Behavior of Mosquitoes ; Research and Development Status Report, September 1947; U.S. Natick Laboratories Office of the Comptroller Review and Analysis Division; Status and Progress Reports of Research and Development Projects 1944-74(Box 3, Entry# UD-6); Records of the United States Army Materiel Command, Record Group 544; National Archives at College Park, MD

 

これは「ハエと蚊の行動研究」というものです。それを知ることによって駆除や虫除けの良い方法を見つけることができるということです。現在市販されている虫除けや害虫駆除の商品もこういう研究を重ねた上で商品化されているのでしょう。

 

Knife, Fork, and Spoon, Nesting; Quarterly Technical Progress Report of Quartermaster Research and Development 30 Sep 1948; U.S. Natick Laboratories Office of the Comptroller Review and Analysis Division; Status and Progress Reports of Research and Development Projects 1944-74(Box 3, Entry# UD-6); Records of the United States Army Materiel Command, Record Group 544; National Archives at College Park, MD

 

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主婦の友の付録と新聞広告

今回は、ここ最近私が見た米国国立公文書館の資料の中で面白いと感じた日本の資料をご紹介したいと思います。


(左)主婦之友六月号付録 (右)主婦之友十一月号付録Records of the Military Government of the Territory of Hawaii, Alien Processing Center(Entry A1 33); Records of United States Army Forces in the Middle Pacific, Record Group 494; National Archives at College Park, College Park, MD. 

 

これらの画像は主婦之友、昭和13年(1938年)の6月号と11月号の付録の表紙です。主婦の友は1917年に創刊され、今もなお主婦向けの雑誌として発刊されています。主婦の友が歌詞を公募し、その懸賞に当選した歌が載っています。6月号では「婦人愛國の歌-すめらみくにの‐」と「婦人愛國の歌-抱いた坊やの」、11月号では「少年少女愛國の歌」と「ぼくらのへいたいさん」のそれぞれ2曲が選ばれています。婦人愛國の歌の歌詞を読んでみると妻として母として戦時中の理想的な女性の姿が描かれているような気がします。楽譜もついており、国民的作曲家であった古関裕而が「婦人愛國の歌-抱いた坊やの」の作曲を手掛け、「赤とんぼ」の歌で知られる山田耕筰が「少年少女愛國の歌」を作曲しています。

 

主婦之友十月号特別付録Records of the Military Government of the Territory of Hawaii, Alien Processing Center(Entry A1 33); Records of United States Army Forces in the Middle Pacific, Record Group 494; National Archives at College Park, College Park, MD. 

 

上2枚の画像は同じく昭和13年の主婦の友の付録です。陸軍省新聞班が特別に作成をした地図で、昭和13年8月13日までの日本軍の動きも記入されています。地図の裏側にはその地図の見方、兵語や武漢攻略戦の主要地名など読者にわかりやすく解説がされています。主婦の雑誌内容で真っ先に思いつくのは生活の知恵やアイデア記事だったので、こうした地図が付録であったことはとても意外でした。しかし、よくよく地図を見ると陸海軍当局からの希望と武漢攻略戦の重要性を考慮して付録としたことが書かれてあります。そして、武漢攻略戦が進むとラジオでの戦況報告はこの地図によって説明されることになっていたそうです。昭和13年と言えば国家総動員法が発令された年で、その前年に起きた盧溝橋事件で日中戦争が泥沼化してきています。日本が第2次世界大戦に参戦するのはまだ先のことですが、すでに日中戦争もあり、国全体が戦争色濃くなっているのを感じさせます。

 

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ケネディ大統領暗殺関連記録の一般公開

今月は、先日ニチマイ米国事務所のFacebookページ(https://www.facebook.com/pg/NichimyUS/)で反響の大きかった投稿記事、7月に米国国立公文書館により公開されたジョン・F・ケネディの暗殺関連記録についてご紹介します。

 

アメリカ歴代大統領の中で最も知られている大統領の一人、ジョン・F・ケネディ。1963年11月22日にテキサス州で行われたパレードに参加中、大勢の市民の目の前で暗殺されました。事件直後、犯人はすぐに逮捕されましたが、その犯人も逮捕から2日後拘置所に移送中に殺害されてしまいました。他にも事件に関わる人物が立て続けに死亡するなど奇妙な点が多いことから「陰謀説」を信じる人も多く、半世紀以上経った今でも、アメリカで起こった事件史上最大の謎の一つとして多くの人々に注目されています。

 

事件後に組織された調査員会の調査報告書は500万ページもの記録にのぼり、米国国立公文書館に所蔵されています。1992年に制定された特例法「President John F. Kennedy Assassination Records Collection Act of 1992」により、1990年代後半までにその88%の記録は一般公開済みとなり、今年の10月26日までにすべての記録が一般公開されることになっています。

 

今年7月に公開された約3,810点は、これまで非公開だった441点と一部公開だった3,369点のFBI、CIAの記録を含み、同館公式サイトより閲覧、ダウンロードすることが可能です。

https://www.archives.gov/research/jfk/2017-release

 

犯人オズワルドが殺害された時に着用していた衣服

“Tee Shirt Lee Harvey Oswald was Wearing when Shot by Jack Ruby.", Records of the President's Commission on the Assassination of President Kennedy, 1954 - 1965, Record Group 272; National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archives Research Catalog (ARC identifier 305168) at www.archives.gov; October 9, 2017.

 

ケネディ大統領暗殺に使用されたライフル

“Mannlicher-Carcano Rifle Owned by Lee Harvey Oswald and Allegedly Used to Assassinate President John F. Kennedy.", Records of the President's Commission on the Assassination of President Kennedy, 1954 - 1965, Record Group 272; National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archives Research Catalog (ARC identifier 305134) at www.archives.gov; October 9, 2017.

 

こちらは当時暗殺事件の捜査に加わったアメリカ合衆国の検事、ジム・ギャリソンの「ケネディ殺害の陰謀」に関するファイルの一部です。(ファイル内全159枚)

この中で充分な陰謀筋の調査を行わず、さらに不明な点が多数あるにも関わらず、調査委員会がオズワルドの単独犯だと早々に決断を下したことについて指摘し、追跡調査を行うべきだと記されています。

 


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9月17日:アメリカ合衆国の憲法記念日

米国では、地域によって多少異なりますが、DC周辺では、 9 月の第1 月曜日のLabor Day (労働者の日) の祝日の翌日から新学期が始まりました。10月はHalloween(ハロウィン)で子ども達が盛り上がり、11月はThanksgiving (感謝祭)の祝日があり、12月はChristmas (クリスマス)の祝日がありと、街全体が華やいだ雰囲気に包まれていくので、米国の秋から冬にかけては一番楽しみな季節となります。

 

さて今回は9月にちなんで、米国公文書館のサイトから、アメリカ合衆国憲法についてご紹介したいと思います。アメリカ合衆国の憲法は、1787年9月17日に作成され、翌年1788年に発効されました。現在おいても、アメリカの法律の基本となっています。日本では、太平洋戦争終結から約2年後の、1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法が施行されたことを記念して、5月3日は憲法記念日となり、祝日の一つとなっています。しかしながら、米国では、憲法記念日は祝日ではありませんし、多くの米国人もそうした憲法が作成された日については知らないようです。米国人に聞くと、一番大事な記念日は、やはり7月4日の独立記念日だそうです。

 

Constitution of the United States; 9/17/1787; The Constitution of the United States, 9/17/1787 - 9/17/1787; General Records of the United States Government, Record Group 11; National Archives Building,Washington, DC. National Archives Identifier: 1667751 https://catalog.archives.gov/id/1667751

 

上記の資料は、

 

“We the People of the United States, in Order to form a more perfect Union, establish Justice, insure domestic Tranquility, provide for the common defence, promote the general Welfare, and secure the Blessings of Liberty to ourselves and our Posterity, do ordain and establish this Constitution for the United States of America.”

(われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保証し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらをわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここにアメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。)

 

という前文から始まる合衆国憲法です。

 

この前文のあとに、本文の7条(1. 議会、2. 大統領、3.司法、4.州と連邦政府、5.憲法の修正、6.最高法規としての憲法、7.憲法の批准)が続き、さらに1から27条までの修正条項が続きます。

 

Bill of Rights 1789; Enrolled Acts and Resolutions of Congress, 1789 - 2011; General Records of the United States Government, Record Group 11; National Archives Building,Washington, DC. National Archives Identifier: 1408042 

https://catalog.archives.gov/id/1408042

 

上記の資料は、憲法の修正事項の最初の10カ条を権利章典として国民の基本的人権に関するものをまとめたものです。1789年に連邦議会から提案された修正事項は当初は12の修正条項がありましたが、1791年にそのうちの10カ条が批准されて憲法に追加された形となりました。

米国公文書館のサイトには、”Celebrating Constitution Day”というタイトルで、アメリカ合衆国憲法記念日として特集が組まれています。https://www.archives.gov/news/topics/constitution-day

また、関連して、”America’s Founding Documents” というタイトルで、アメリカ合衆国建国の基本理念である、合衆国独立宣言(Declaration of Independence)、合衆国憲法(Constitution) 、そして権利章典(Bill of Rights: 憲法の最初の修正十カ条条で人権保護規定であるもの)についてそれぞれの資料の画像と資料内容について掲載されています。https://www.archives.gov/founding-docs

さらには、米国公文書館の資料を教育現場で使ってほしいという目的で、“DocTeach”というサイトもあり、憲法をもっと生活に生かそうとする試みのサイトもあります。

Bring the Constitution to Life!: https://www.docsteach.org/topics/constitution

そこから憲法に関する言葉で検索をかけると、350の資料情報が出てきます。それらの中からいくつかをご紹介します。

 

National Archives Identifier: 24520428

Full Citation: Poster 220-BCP-18; The Bill of Rights and Beyond; 1991; Posters Collected by the Commission on the Bicentennial of the United States Constitution, 1986 - 1991; Records of Temporary Committees, Commissions, and Boards, Record Group 220; National Archives at College Park, College Park, MD. [Online Version, https://www.docsteach.org/documents/document/bill-of-rights-and-beyond September 14, 2017]

 

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Martin Luther King Jr

アメリカでは毎年1月の第3週目の月曜日をマーティン・ルーサーキング・ジュニアの日として祝日としています。日本では彼のフルネームよりも『キング牧師』という名称の方がより広く知られているかもしれません。時期外れではありますが、National Archivesのオンラインサービスで彼の写真やテキスト資料を見つけたのでそれらと共に彼にまつわる資料紹介をしたいと思います。

 

【”Civil Rights March on Washington, D.C. [Dr. Martin Luther King, Jr. speaking.” ; Miscellaneous Subjects, Staff and Stringer Photographs, 1961 – 1974, Record Group306, National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archives Research Catalog (ARC identifier 542068) at https://www.archives.gov/ July 22,2017】

 

彼はアフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者としてこの世に名を遺したのですが、当時彼以外にも前線で活躍している有名な指導者はいました。が、彼が指導者として指揮する運動の特徴には他とははっきりと異なる部分がありました。一切抵抗しない「非暴力主義」運動を彼は徹底して貫いた事で有名となりました。

 

他にも1963年8月28日に行われたワシントン大行進(大規模なデモ)では有名な『I have a dream』で知られる演説を行いました。この演説はアメリカ歴史の中でも代表的な演説であり、未だに アメリカの学校教育の中では演説の例として使用されることもあります。私自身、こちらの大学で演説のクラスをとっていた際に一部を覚えなければならず苦労しました。この『I have a dream(私には夢がある)』という文言は元々人種差別撤廃を目的に使用されているのですが、個人的にはこの文言があることで人種差別撤廃という状況に特定せずとも、どのような状況下でも希望をもらえる演説に仕上がっているような気がします。また『Dream』という単語は国、人種を問わず希望に満ちた単語なので、英語での演説を習い始めだった私もより親しみやすく習うことができました。この文言はいくつもの段落の冒頭部分に使用されており、当時彼の演説を聞いていたアメリカ市民の胸に響く一節だったのではと思いながら習っていたのを思い出します。

 

次の写真はこの有名な演説が行われたワシントン大行進の時のものです。リンカーン記念堂の前で観衆に向かって演説を行っているマーティン・ルーサー・キング・ジュニア氏がおさめられています。

 

【”Photograph of Dr. Martin Luther King Jr. addressing the crowd during the 1957 Prayer Pilgrimage for Freedom in Washington, D.C.”; Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 – 2007, Record Group330, National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archives Research Catalog (ARC identifier 6641456) at https://www.archives.gov/ July 22,2017】

 

この歴史的な大行進は彼を含む当時の指導者達やスポンサーによって何度も話し合いが行われ、企画された事がNational Archivesの資料に残っています。次の写真は当時最終的なパンフレットとして配布されたものでオンラインサービスで閲覧する事ができます。

 

【”Final Plans for the March on Washington for Jobs and Freedom”,; Records of the U.S. House of Representatives, 1789 – 2015, Record Group233, National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archives Research Catalog (ARC identifier 560) at https://www.archives.gov/ July 22,2017】

 

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戦後の静岡

資料調査をしていた時、一冊のアルバム資料が目に留まりました。それは、私の故郷に近い静岡県の写真資料でした。子供の頃から身近な存在として見て育った壮大な富士山、馴染みのある地名や風景がとても懐かしく感じました。今回は、そんな地元の写真資料の幾つかをご紹介しながら当時を振り返ってみたいと思います。

 

このアルバムは、戦後間もない1945年から1946年にGHQ下のC.I.C. (Counter Intelligence Corps) Area No.21 Shizuokaで民間情報部静岡支隊に所属していた一人のアメリカ軍人と日系アメリカ軍人によって撮影されています。地図や静岡県に住む人々の生活の様子や富士山を含む地元の風景写真があり、当時の様子を垣間見ることが出来ます。

 

下の地図はアルバムと一緒に保存されていた静岡市街の地図です。駿府城周辺に構えたC.I.C.の事務所や静岡県庁など主要箇所が記入されています。

 

RG 200(S) CIC Records of the National Archives Gift Collection  Album/Prints: Pictorial and Historical Record of CIC Area 21, Shizuoka, Japan 1945-1946 Box 1: National Archives at College Park, College Park, MD

静岡県と言えば富士山を思い浮かべる方も多いことでしょう。言うまでもなく富士山は静岡県と山梨県を跨る国内最高峰の名山ですね。2013年にはユネスコの世界文化遺産にも登録されています。その優美な風貌も下の写真の様に残されています。

 

RG 200(S) CIC Records of the National Archives Gift Collection  Album/Prints: Pictorial and Historical Record of CIC Area 21, Shizuoka, Japan 1945-1946 Box 1: National Archives at College Park, College Park, MD

 


RG 200(S) CIC Records of the National Archives Gift Collection  Album/Prints: Pictorial and Historical Record of CIC Area 21, Shizuoka, Japan 1945-1946 Box 3(Left)  Box2(Right) : National Archives at College Park, College Park, MD

 

左上の写真は静岡浅間神社が麓にある賤機山(しずはたやま)から見た富士山でしょうか。田畑が多く、のどかな風景が広がる奥に雪を頂いた富士山が見えます。右上の写真は、静岡警察署の屋上から東北方面に見た写真です。温暖な静岡の気候がカリフォルニアの様だとの印象が書かれています。

 

こちらは、東海道です。

 

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Righting a Wrong: Japanese Americans and WWII展

毎年5月はアジア・太平洋諸島系米国人の文化遺産継承月間となっている為、スミソニアン博物館を始め、色々なところで展示やイベントが開催されています。

 

アジア・太平洋諸島系米国人の文化遺産継承月間の歴史は、アメリカンセンターJapanのサイトによれば、上下両院で可決した法案を1978年10月5日にジミー カーター大統領がアジア・太平洋諸島系米国人の文化遺産週間として承認したことが始まりとなっています。1990年にはブッシュ大統領が月間に延長し、現在まで続いています。なぜ5月なのかというと、1843年5月7日に初めて日本人移民が米国に到着した事と1869年5月10日に大陸横断鉄道が完成した事を記念して選ばれたからのようです。(参照:https://americancenterjapan.com/aboutusa/monthly-topics/1949/

 

今回はスミソニアン博物館の内の一つ、国立アメリカ歴史博物館で開催中の”Righting a Wrong: Japanese Americans and World War II”展を見学に行く機会があったので、一部を紹介しようと思います。

 

このガラスケースに入っている小さなスーツケースはワタナベ一家がアイダホの収容所に持っていった持ち物の1つです。下の写真は収容所へ向かうバスを待っているモチダ一家の写真です。ここが展示の入り口になります。

まず、移民の歴史から始まり、真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦と続きます。

 


(左)1941年12月7日の真珠湾への奇襲攻撃を伝えるホノルルスターブルテン新聞と真珠湾攻撃当日に書かれたハワイ在住日系人下村とくさんの日記です。

(右)大統領令9066号の発令後、ハワイや西海岸に住む日系人に対する強制立ち退きや強制収容所への収容が始まった様子です。

 

強制収容所内での生活の様子や写真なども展示してあります。収容所の敷地内では野球が一番人気のスポーツだったようです。他にも手作りのコサージュや木を彫って作ったブローチ、ニットなども展示してありました。

 

太平洋戦争では3万人以上の日系アメリカ人が軍に従軍、第442連隊戦闘団、第100歩兵大隊、陸軍情報部のいずれかに配属されたそうです。この他にも第442連隊が当時着用していた制服や無事を祈って縫った千人針なども展示してありました。この展示を回って、改めて日系移民や日系アメリカ人がいかに差別や偏見の中、耐えて生き抜いてきたのか、また、根本にある日本人の芯の強さ、また太平洋戦争中の収容所内での生活の様子やアメリカ人として祖国に従事する歴史なども垣間見ることができてよかったと思います。

 

この他にも写真や大統領令9066号の文書、手紙、日記などが展示してありましたが、その中には国立公文書記録管理局(NARA)から貸し出された物もたくさんありました。

 

もっとこの展示に興味が湧いた方は国立アメリカ歴史博物館のウェブサイトを訪問してみて下さい。 

http://americanhistory.si.edu/righting-wrong-japanese-americans-and-world-war-ii 

 

Right a Wrong: Japanese Americans and World War II展はこの博物館で来年の2月まで開催となっているようです。 5月のアジア・太平洋諸島系米国人の文化遺産継承月間以外にも、2月の黒人歴史月間や3月の女性史月間などもあるので、この期間はスミソニアン博物館や議会図書館他色々な所でイベントや展示などが開催されていると思います。ワシントンDCに滞在する機会のある方はぜひ参加、訪問してみてはいかがでしょか?(SW)

 

フォークダンスと娯楽

自分が小さかった頃と比べると、今は本当に娯楽の種類が多くなりました。子供たちは電子機器に釘付けですし、本場アメリカに負けないような大規模な遊園地ができたり色々な種類のスポーツも楽しめるようになりました。

 

偶然、戦後間もなくの娯楽についての資料を米国国立公文書館で見つけました。

長崎軍政府(Nagasaki Military Government Team)の書類で、ウィンフィールド・ニブロ(Winfield P Niblo)という民間情報教育局(Civil Education Officer)の教官の表彰、という内容のものでした。

ニブロ氏が表彰された理由は娯楽としてスクエアダンス(フォークダンス)を日本で広めたことでした。Wikipediaによると「日本のフォークダンスの父」とも称されたようです。

この書類がニブロ氏を推薦しているものです。

 


Recommendation for Exceptional or Meritorious Award; 230(0331) DAC’s 1947-1948 (Box 3110), Civil Affairs section: Kyushu Civil Affairs Region; Decimal File, 1947-48 (Entry# UD1559), Allied Operational and Occupation HQ, Record Group 331; National Archives at College Park, College Park MD

 

ニブロ氏はコロラド州デンバー出身で元フットボールコーチでした。長崎には1946年6月に赴任しました。彼は、ここで日本の人たちには男女関係なく一緒に手軽に出来るレクリエーションが必要であると感じ、スクエアダンスを長崎の人たちに広めようと思いました。平日のうち3日から5日は勤務後の夜、そして週末と自分の時間を割いて長崎県内のいたるところでスクエアダンスの指導にあたり普及につとめました。スクエアダンスを通じて、自己表現が苦手で恥ずかしがり屋の日本人の傾向を変えるのに大きく貢献しました。

 

学校の体育の時間にもスクエアダンスが採用されました。先生も生徒も踊るのは最初はとても恥ずかしかったようですが、ニブロ先生の指導の下、楽しく踊れるようになったようです。九州の他県からも教育関係者がスクエアダンスの講習に長崎を訪れたようで、スクエアダンス熱は長崎にとどまらなかったようです。

体験者の声が添付書類としてありましたが、多くの警察関係者もスクエアダンスを習っていたようで面白いです。

 

長崎県佐世保市ハウステンボスにはニブロ氏の記念碑があり、「ウィンフィールド・P・ニブロ記念/佐世保ハウステンボス・フォークダンスフェスティバル」が開催されたこともありました。

 

当時の人々がスクエアダンスに興じている写真があれば良かったのですが、残念ながら見つかりませんでした。しかし、戦後の人々の娯楽関係で面白い写真がありましたのでご紹介いたします。

 

RG 306-NT

Records of the U.S. Information Agency

Prints and Negatives: Photographic Files of the Paris Bureau of the New York Times

Ca 1900-1950

Prints: Japan

1149-H-13  At American Fair in Japan

Osaka, Japan, March 20: The American occupation forces in Japan have arranged an American Fair featuring miniature scenes of the United States to acquaint Japanese people with America’s outstanding landmarks.  This is a Japanese family at one of the displays at the Fair with a reproduction of Mt. Rushmore in the background.

 

この写真は1950年(昭和25年)兵庫県西宮市の阪急西宮球場を中心に開催された「アメリカ博覧会」に来ている家族連れです。まだ占領下であった時期です。

 

RG 306-NT

Records of the U.S. Information Agency

Prints and Negatives: Photographic Files of the Paris Bureau of the New York Times 

Ca 1900-1950

Prints: Japan

1152-F-3

Myoko, Japan—During the New Year holiday celebration, school was closed to allow the children to join in the celebration.  These children, from this rugged west coast town of Japan, were required to make a sketch of Mt. Myoko(background).  They are racing home, carrying drawing materials under their arms.  

 

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100年前の日本:米国国立公文書館のデジタル写真画像から

米国国立公文書館のサイトで資料の検索をすると、以前と比べてオンラインで閲覧できる資料が増えてきたと資料のデジタル化が進んでいるように感じます。つい先日知ったのですが、RG165WWの写真資料はデジタル化され、リサーチルーム内にあるコンピューターに入っていて、デジタルでの閲覧が可能になっていました。165WWというのはRecords of the War DepartmentのAmerican Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917 -1918のシリーズです。第一次世界大戦期の頃の写真なので100年ほど前のものです。調べてみると日本関係の写真もあります。これらの写真はオンラインでも閲覧でき、今回は、その中の幾つかをご紹介したいと思います。

 

 

Ceremonies - Japan - Victory Arch erected in Hibiya Park. 165-WW-79F-1; Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952, Record Group 165; National Archives at College Park at College Park, MD[online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 23922399) at www.archives.gov; April 5, 2017]

 

上の写真は東京の日比谷公園です。1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発し、日英同盟を結んでいた日本も参戦、そして、1918年(大正7年)11月11日には休戦協定が結ばれます。これはその休戦記念日を祝っているアーチのようです。祝賀と書かれ日本、イギリス、アメリカ、イタリアなど連合国の旗が並んでいます。当時の服装も興味深く、男性は皆帽子をかぶっており、とんび(男性用コート)らしき外套を着ている人もいます。白黒写真なので色がわからないのが残念です。

 

Ceremonies - Japan - View of the parade and mass meeting held by several thousand persons in Tokyo, Japan in an effort to obtain manhood suffrage. 165-WW-79F-2; Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952, Record Group 165; National Archives at College Park at College Park, MD[online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 23922401) at www.archives.gov; April 5, 2017]

 

上の写真は東京での成年男子の普通選挙権のための集会の様子です。幟があり(文字は一番上の「普」しか判読できませんでした)、日本の旗を持っている人もいます。数千人が集まったとのことなので、とても大きな集会だったと思います。大正期は民主主義や自由主義の風潮が高まり、様々な運動が起こりました。1925年(大正14年)に普通選挙法が成立しますが、この写真が撮影された1919年(大正8年)頃は普選運動が盛り上がりを見せ、普通選挙を求めた集会やデモが多かったそうです。

 

American Red Cross - Refugees - Temporary Red Cross Hospital for Relief of the Flood Victims. 165-WW-48A-40; Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952, Record Group 165; National Archives at College Park at College Park, MD[online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 20804804) at www.archives.gov; April 5, 2017]

 

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U.F.O

~Unidentified Flying Object ~

私が子供のころはUFO特集の番組などが流行っていて、よく家族で見ていた気がします。アメリカの「Xファイル(SFテレビドラマ)」が日本で放送されていた時も、食い入るように見ていました。日本では若干オカルト的に扱われることの多いUFOですが、UFO研究はプロ、アマチュア問わず様々な国で行われています。アメリカ政府によるUFO調査はとても有名な話ですね。2016年アメリカ政府機関CIAは約20年間に渡り独自に情報収集、調査分析してきた機密資料を一般に公開しました。これらのCIA元機密資料は現在オンライン(Project Blue Book Archives http://bluebookarchive.org/)で見ることができますが、デジタル化が間に合っておらず現在も作業が続いています。

 

今回はアメリカ国立公文書館でも閲覧することのできる資料の一部をご紹介します。

 

アメリカ政府による公式なUFO調査は1947~1969年の間に行われました。米空軍により発足されたUFO調査プログラム「プロジェクトブルーブック」は、当初UFOの存在を証明する充分な証拠がないなどの理由で、閉鎖、再開を繰り返しました。報告書によるとこの約20年間で目撃件数は12618件、その内701件は「未解決、説明不可能」とされています。

 

Photograph No. 179306; Record Group 342-B Box1; National Archives at College Park, College Park MD.

 

 

Photograph No. 179292; Record Group 342-B Box1; National Archives at College Park, College Park MD

 

Photograph No. 179270; Record Group 342-B Box1; National Archives at College Park, College Park MD.

 

1948年以降の目撃報告書には目撃者による証言に加え、米空軍及び大学などの研究機関による目撃者の心理分析や、彼らを知る周りの住民や家族などからの証言が多く残っていました。「彼(目撃者)は頭のおかしい人ではない」「信じられない物体を目撃した」「頭がおかしくなったと思われたくないからこれ以上は口外しない」などといった証言も記録されていて、目撃者と周囲の困惑した心情などを伺い知ることができます。

 

下の資料は、1949年アイダホ州で8機のUFOが目撃された時の証言情報です。

目撃者(パイロット)が飛行中、突如8機のUFOが出現しました。全機体のフォーメーションは乱れることなく完璧だったそうです。彼がUFOの飛行経路を通過した際、突然彼の飛行機のエンジンが大きな音を立て出したそうです。着陸後エンジンを点検したところ、その飛行機は新品だったにも関わらず、プラグはショートし焦げていたそうです。

 

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米国のシベリア派遣軍に関する写真資料

今年2017年はロシア革命から100周年目になります。1914年7月に勃発した当時のドイツ帝国やオーストリア―ハンガリー帝国などの同盟国側と、フランス、イギリス、ロシア帝国、米国(1917年4月から参戦)など連合国側との間で起こった第1次世界大戦は、1917年の2月そして10月の2度にわたる革命がロシアで起こったときもまだ続いていました。

 

この革命により、ロシア中央部ではそれまで続いていたロマノフ王朝の絶対君主制(ツァーリズム)は倒され、世界で初めての社会主義政権であるソビエト政権が樹立されました。しかしながら、旧ロシア帝国の地方の地域では、反革命勢力が巻き返しを図り、革命軍と反革命軍の内戦が展開されることになりました。この内戦が全面的に拡大することになったのは翌1918年5月にシベリアで起きたチェコスロバキア軍の反乱がきっかけでした。もともとこの軍隊は、第1次世界大戦中に、ロシア帝国が、敵国のオーストリア―ハンガリー帝国軍のチェコ人捕虜とスロバキア人捕虜から編成したものでした。ロシア革命後はヨーロッパ戦線に送られることを前提として、シベリア鉄道沿いに留められていた軍隊でした。反乱をきかっけとしてこの軍隊は、ロシアの中央部のソビエト政権側には脅威を与えるものとなり、同時にシベリア各地に反ソビエト勢力を増大させることにもなりました。

 

同年8月には、チェコスロバキア軍団をロシア革命勢力から救出するという名目のもと、連合国側である、アメリカ、日本、イギリス、フランス、カナダ、イタリア、中華民国といった国々から、軍隊が派遣されることになりました。実際にはこの軍隊派遣は、それぞれの国の利権(シベリア鉄道に関わる利権や外資など)を保守するという目的があったものと言われています。

 

米国公文書館の中には、米軍のシベリア派遣に関する資料がたくさんありますが、今回は、American Expeditionary Forces in Siberia 1918-1919(米国シベリア遠征軍)の写真資料をご紹介したいと思います。場所は、シベリア、オムスク、スーチャン(現パルチザンスク)、ウラジオストク、バイカル湖周辺などであり、その内容は、アメリカ、イギリス、フランス、日本、ロシア(反革命勢力―白色)、チェコスロバキアなどの将校や兵士、捕虜となったロシア革命勢力(赤色)の兵士、ロシア難民、コリアンの人々、ぞれぞれの町や建物、市場、軍事活動や宗教的儀式、兵士の娯楽などといった多岐にわたるものになっており、当時の様子を理解するうえで非常に貴重な資料であると思います。

以下の2枚の写真は、1918年11月15日にウラジオストクで、アメリカの主導による連合国側で行われた平和行進であり、日本の軍隊も見えます。

 


Left: Photograph No. 7005.  “Peace Parade, Allied nations, Vlad. Sib. Lead by US Troops 31st Inf. Nov. 15, 18.” Right: Photograph No. 7017. “Peace Parade, Vladivostok, Sib. Nov. 15, 18.” Japanese soldiers.”  Record Group 395: Records of US Army Overseas Operations and Commands, 1898-1942, Entry SE, Box 2, American Expeditionary Forces in Siberia, National Archives at College Park, MD. 

 

1918年当時は、シベリアにおいて、米国と日本は足並みをそろえていたことがわかります。下記の写真は同年11月16日のものでハバロスクにおける米軍第27師団司令官のステイヤーとその部下と日本軍第12師団司令官の大井成元 とその部下達が並んでいます。この第12師団は当時の日本では、小倉(現北九州市)が本拠地であったかと思います。

 


Left: Photograph No. 18. “Col. H.D. Styer, 27th Infantry, Capt. C.A. Shamotulaki, Adjutant. Lt. General Oi, 12th Japanese Division, Major Yoriguchi, Col. Matsuyama, Chief of Staff at Japanese Hdqrs, Khabarovsk, Siberia, Nov. 16, 18.” Right: Photograph No. 19. “Col. H.D. Styer, Commanding 27th Inf., Lt. Gen. Oi and staff officers of 12th Div. Japanese Army in front of Japanese headquarters, Khabarovsk, Sib. Nov. 16, 18.”  Record Group 395: Records of US Army Overseas Operations and Commands, 1898-1942, Entry SE, Box 2, American Expeditionary Forces in Siberia, National Archives at College Park, MD.

 

シベリアは極寒地域であるために、兵士も一般の人々もその寒さをしのぐために大変な努力をしなければならなかったのではないかと思われます。下記の写真は、華氏でマイナス49度(摂氏マイナス45度)という気候の中で、任務遂行に励む兵士や日常の生活をする人々の様子が伺われます。

 



Left above: Photograph No. 236. “Russian soldiers grouped around a fire. These fires are essential for very often the temperature reaches 49 degrees below.” Right above: Photograph No. 237. “Merchants in the streets of Ekaterinburg also build fires to combat the cold.” Left below: Photograph No. 88. “Merchants in the streets of Ekaterinburg also build fires to combat the cold. “ Right below: Photograph No. 230. “Washing clothes in a hole cut in the ice. Scenes of these refugees doing the family wash are quite common throughout Russia and Siberia.” Record Group 395: Records of US Army Overseas Operations and Commands, 1898-1942, Entry SE, Box 1, American Expeditionary Forces in Siberia, National Archives at College Park, MD.

 

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琉球切手(沖縄切手)

皆さんは琉球切手という切手をご存知でしょうか?昔の沖縄の切手…と、私は単純に思いましたが、実は、沖縄切手と呼ばれることもあるこの切手は、1945年(昭和20年)から1972年(昭和47年)の本土復帰までの27年間、アメリカ軍統治下にあった沖縄でのみ使用されていた郵便切手なのです。

 

琉球切手の特徴として、日本語で『琉球郵便』と印刷されているのですが、額面はアメリカ通貨である$(ドル)や¢(セント)が使われています。他に、漢字やカタカナ、アルファベットで切手の説明書きがされている種類の切手もあります。また、題材には沖縄の伝統芸能や民族行事、工芸品、亜熱帯の動植物など沖縄の自然、歴史、文化などを表現した絵柄が幅広く取り上げられた色鮮やかな切手なのです。

 

今回は、ここ米国公文書館2階にある資料の中から琉球切手の展示風景、はがき、綺麗な絵柄が印象に残る切手のほんの一部をご紹介したいと思います。

 


RG550 Entry : UD-WW 401-373 Box5 General Records Relating to Medical, personnel and Publication Activities [Department of the Army USARYIS 69-73, Acc #75-1575 Headquarters, US Army, Ryukyu Islands, US Army Base Command, Okinawa US Army Medical Center, Okinawa] 1969-1973  227-04 Letter to the editor (72) ;National Archives at College Park, MD.

 

上の切手は、1971,72年に使用され、封筒に貼られ残されていた一部です。資料集にあった多くの切手は使用されたもので、切手部分だけ切り取られています。不思議に思い調べてみると、1970年代前後の日本では切手収集ブームに沸いており、琉球切手もその例外ではなかったようです。ある出版社の編集部宛てには、読者から琉球切手の使用済み切手を譲り受けたい旨のハガキもあり、当時の過熱ぶりが少し垣間見られたように思いました。

 

下の冊子は、45年に設立した国際連合の設立20周年記念切手を紹介しています。

 


RG319 Entry: A1-1678 Box1 Records of the Army Staff Civil Affairs General Administration & Planning files Relating to the Ryukyu Islands, 1959-1968   Ryukyuan Philately, 1965-1966  ; National Archives at College Park, MD.

 

 

 

 

左の年賀はがきは1966年、丙午の年のものです。ホチキスの跡はあるものの未使用で状態も良く保存されていました。

 

 

 

 

RG319 Entry: A1-1678 Box1 Records of the Army Staff Civil Affairs General Administration & Planning files Relating to the Ryukyu Islands, 1959-1968   Ryukyuan Philately, 1965-1966  ; National Archives at College Park, MD.

 

こちらは、琉球政府の第4代行政主席であった松岡政保宛に送られた、切手展示会企画団体からの招待状と、1966年にアメリカのワシントンDCで開催されたインターナショナル切手展示会の様子です。琉球切手と沖縄の写真も含めて紹介してる様子が分かります。また、琉球切手の事は載っていませんが、参考までにこの時の事が載ったサイトを見つけましたのでご覧ください。

→  http://www.ny2016.org/images/history/06_1966sipex.pdf

 


RG319 Entry: A1-1678 Box1 Records of the Army Staff Civil Affairs General Administration & Planning files Relating to the Ryukyu Islands, 1959-1968   Ryukyuan Philately, 1965-1966  ; National Archives at College Park, MD.

 

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Waddy Youngの生涯

今回は、戦争で短い生涯を終えた1人のアメリカ青年について、カレッジパークにある米国公文書館に保存してある写真、資料を通して紹介したいと思います。

 

彼の名前はWalter R. ”Waddy” Young(ウォルター ワディ ヤング)通称ワディといいます。1916年9月4日にオクラホマで生まれたワディはオクラホマ大学時代にオールアメリカンフットボール選手に選ばれるほど、才能あるとても優秀な選手だったようです。その後1939年にNFLブルックリンドジャースの選手となったワディですが、プロフットボール選手になって2年目にArmy Air Forceに志願します。パイロットになったワディは爆撃機B-24のヨーロッパ任務に従事し、数年後大型爆撃機B-29プログラムに志願しサイパン島へ配属されます。

 

1944年6月以降、マリアナ諸島を制圧、占拠したアメリカ軍はグアム、テニアン、サイパンの各島に飛行場を建設し、同年11月からマリアナを拠点に日本本土空襲を始めます。この空襲任務にワディはWaddy’s  Wagon(B-29 A-5)機のキャプテンとして従事することになります。

 

5Fの写真資料室で見つけた、1944年11月にサイパンで撮影された”ワディ”ヤングの写真です。

 

Photograph No. A39059 Record Group342-FH Box159; Saipan: Capt. Walter R.” Waddy” Young Ponca city, Okla. Airplane Commander of Boeing B-29 “Waddy’s Wagon” National Archives at College Park, College Park, MD

 

キャプテン ワディヤング率いるWaddy’s Wagon(B-29 A-5)機は1944年11月24日、28機中のリードグループの1機として午前5時15分にサイパンを離陸し、攻撃目標だった中島飛行機武蔵野製作所へ向かいます。中島飛行機は、当時日本最大を誇る航空機生産企業で、武蔵野製作所では約5万人が、日夜、発動機(エンジン)生産に励んでいたそうです。

 

下の写真は1944年11月、東京空襲任務へ向かう、マリアナ上空を飛行するWaddy’s Wagonの機体(手前から3機目、真ん中A-5)

 

Photograph No. A38422 Record Group342-FH Box156; War Theater#22(Marianas Is) Airplanes(over). National Archives at College Park, College Park, MD

 

武蔵野製作所への最初の爆撃任務を終えたWaddy’s Wagon機はサイパンのIsley Fieldに午前9時に1番に帰還しました。その後、撮影された写真が下の写真のようです。キャプションには1944年11月に撮影、東京への爆撃任務を終え1番にサイパン島へ戻ったWaddy’s Wagon乗組員と記載されてある。

 

Photograph No. A38954 Record Group342-FH Box159; B-29 Men who bombed Tokyo. National Archives at College Park, College Park, MD

 

2Fのテキスト資料、RG18のWWII Combat Operations Report(戦闘報告書)にはワディ他Waddy’s Wagon 乗組員11名の最後となった1945年1月9日の任務について記載があるので紹介したいと思います。

 

Waddy’s Wagonを含む合計17機の爆撃機はサイパンのIsley Fieldを午前8時22分から9時12分にかけて次々飛び立ち、攻撃目標の中島飛行機 武蔵野製作所へ24.25トンの爆弾を落としました。 爆弾投下のすぐあと、前方上の方からキ44二式戦闘機他15機に攻撃され交戦、破損を受けた仲間のA-46機 をサポートする為、後退したA-5(Waddy’s Wagon機)は(記録上では)午前9時5分に目撃されたのを最後にA-46機と共に東京湾南西沖で消息を絶ちました。この交戦でWaddy’s Wagonの乗組員全員を含む3機、33名が行方不明になったと記載されています。資料には2機は敵機からの攻撃とありましたが、1機はUnknown(不明)と記載されてあります。奇しくもキ44二式戦闘機は中島飛行機で製造された戦闘機のようです。

 

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A級戦犯・大島浩(元駐独日本大使)の真相を求めて

米国大統領選挙が衝撃の結末を迎え世界中が共振している最中、早くも米国では新政権の大統領補佐官や各省庁の閣僚クラスの人事に対して関心がにわかに高まっている。米国では大統領が変わると政府機関人事の入れ替えが行われ、メディアの注目の的となる。

 

米国大統領の政権交代によって世界各地においては、各国におかれた米国大使館や領事館でも人事異動も行われる。現在の駐日米国大使は、JFKことケネディ大統領の実娘であるキャロライン・ブーヴィエ・ケネディ氏が務めていることはよく知られている。様々な面から注目を集める新大統領によって選ばれる新大使は一体誰になるのであろうか。近日中には公表されるものと思われるが、どのような方が選ばれるのか楽しみに待ちたい。

 

今月のブログは、第二次世界大戦中に日本の同盟国であったドイツに駐在し、ヒトラーとも親しかった日本国大使の大島浩(1886-1976)を取り上げ、彼が辿った数奇な運命の一部を、米国公文書館の史料を手立てにして紹介していく。

 

1. 駐独大使・大島浩

「大島浩」という人物をご存知だろうか。

 

General Oshima (Hiroshi), Ambassador to Germany, Japan 1941; 

14 Nov 1953, OSHIMA HIROSHI XA 518988 (Folder No. 1 Box No.588), Office of the Assistant Chief of Staff for Intelligence, G-2 Records Of The Investigative Records Repository (IRR); Intelligence and Investigative Dossiers -- personal File 1939 1976 (Entry No. A1 134-B), Record Group 319; National Archives at College Park, College Park MD

 

大島は、軍人でもあり、かつまた外交官でもあった。

 

大島を知る人の多くは、第二次大戦中ヒトラーおよびナチズムに最も傾倒した日本人として、日本を枢軸国の戦争へと誘った罪を問われ連合軍によって極東軍事裁判(「東京裁判」)にかけられ、A級戦争犯罪人(A級戦犯)となった人物として記憶していると思われる。

 

また大島にはもう一面、悲劇の外交官という側面があった。駐独大使として赴任したドイツから、ヨーロッパ東部戦線の状況などを伝えた大島の日本政府宛の電信は、「マジック(Magic)」と呼ばれた暗号グループで区分けされ、米軍暗号解読部隊によって戦争中常に傍受され、連合国側に有利に利用されていた。大島が懸命に収集した情報が、皮肉にも敵国に伝わり、枢軸国の戦況を不利な方向へ導いたことは、まさに悲劇的であったといえよう。

 

私が、大島や「マジック」について興味をもつきっかけとなったのは、近年幾つか大島について取り上げられた書籍を読みその事実に触れたことに始まる。読者の中には、昨年末に公開された映画『杉原千畝 スギハラチウネ』(2015年、東宝)を観賞し、在ベルリン日本大使として常に顔を強ばらせ軍服に身をまとって登場した大島役の俳優・小日向文世の顔を思い浮かべる方もいるであろう。

 

「ドイツ人よりもドイツ人的」、「ナチス以上の国家社会主義者」、「駐独ドイツ大使」などと当時の大島のドイツへの傾倒ぶりを表したフレーズが残っているが、一体どのようにして大島はナチスに傾倒し、なぜ「国家をミスリード」するような判断をしてしまったのか。日本近代史において、「大島浩」という一つの物語がもたらした悲劇は、日本人にとって今後も語り継ぐべきテーマの一つであることに違いない。

 

大島の略歴を年表にしてまとめてみると次のようになる。

 

1886年   岐阜県に生まれる(父は元陸相の大島健一)

1921年   駐在武官補としてドイツに赴任

1934年   駐在ドイツ武官に着任

1938年   駐独日本大使任命

1940年   駐独日本大使再任(1941年着任)

1945年   駐独日本大使辞任(連合軍に囚えられる)

1946年   極東軍事裁判でA級戦犯(無期刑)の判決をうける

1955年   減刑(釈放)

1975年   逝去(享年89歳)

 

父・健一は軍を退いた後に貴族院議員となる。その健一の下で育てられた大島は、幼年時からドイツ語の英才教育を受けた。陸軍幼年学校入学後、陸軍士官学校、陸軍大学を経て海外赴任し、そのまま駐独大使まで駆け上がり、最終的には軍人として中将の位まで昇りつめた。ちなみに、大島と生涯を共にした妻・豊子は14歳年下の子爵令嬢であり、当時の日本において大島は、恵まれた、華々しい日本帝国軍人のエリートコースを上がっていった人物といえる。

 

Mrs. Oshima, Wife of General Oshima, Ambassador to Germany, Japan 1943; 

14 Nov 1953, OSHIMA HIROSHI XA 518988 (Folder No. 1 Box No.588), Office of the Assistant Chief of Staff for Intelligence, G-2 Records Of The Investigative Records Repository (IRR); Intelligence and Investigative Dossiers -- personal File 1939 1976 (Entry No. A1 134-B), Record Group 319; National Archives at College Park, College Park MD

 

ここ、米国公文書館には大島をはじめ、大使や公使、武官や外交官の活動を伝える資料が多く保管されている。大島に関する資料は国務省資料群(RG59)、陸軍資料群(RG319)、国家安全保障局資料群(RG457)など多岐に及んでいるが、米軍をはじめ連合軍が大島をどのように観察していたのか、端的に示された資料が次のものになる。資料の分類から、終戦直後に連合軍が大島について記したものと推定される。

 

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沖縄に戻った文化財

1945年の3月の終わり頃から始まった沖縄戦で、沖縄には甚大な被害がもたらされました。その後もアメリカの占領下となり、人々は古くから受け継いできた土地を奪われ、軍の施設での低賃金労働や危険な仕事に従事させられてきました。

しかし、このような占領下にあって「沖縄の文化財の返還」に尽くしたアメリカ兵もいました。今回はその人を紹介したいと思います。

 

彼の名前はウィリアム・T・デービスといいます。1948年(昭和23年)より陸軍広報官として沖縄に赴任しました。赴任中のデービス氏は学校で英語を教えたり、沖縄のボーイスカウト創立に関わったりしました。彼の行為に周囲の人々は親しみを抱いていきました。

1951年11月に任期を終えて米国に帰る時、北谷村桃原(とうばる、原本にはTobaruと記載。)の人々から沖縄三味線を餞別としてもらいました。

 

米国に戻ったデービス氏はその三味線を以前から懇意にしていたTVスターでウクレレ収集家のゴッドフリー氏に見せました。また、ゴッドフリー氏は誰かそれを演奏できる人がいないかということをデービス氏に尋ねていました。デービス氏は3カ月間必死で探し、日系二世でシカゴ在住の吉里弘氏に出会いました。そして吉里氏から戦争で奪われた沖縄の文化財のことを聞きました。

 

これをきっかけにデービス氏は米国に持ち帰られた沖縄の文化財を探し、それを沖縄に返すことを決意しました。この時の彼の決意を示す文書が公文書館にありました。

下の文書です。

 

SFC William Davis will study history of Okinawa after discharge from Army.(Ryukyu Shimbun); Ryukyu Islands-Art Treasures Returned (Box No.15), Correspondence 1951-64, Records of the Public Affairs Division (Entry No.A1-61) , Records of the Army Staff, Record Group 319; National Archives at College Park, College Park MD 

 

その後、自らの時間と費用を投じてデービス氏の調査が始まりました。デービス氏は吉里氏からの情報、国務省や税関にコンタクトして、かつて沖縄戦に従軍したマサチューセッツ州に住むスタンフェルト氏が、沖縄からかなりの数の文化財を米国に持ち込んだということを知りました。ボストンの税関はかなり詳しくスタンフェルト氏とその文化財に関わった人たちの調査をしています。その報告書もここ米国公文書館にありました。

 

これはボストンの税関の調査報告書です。

 

Treasury Department Bureau of Customs Boston 9 Mass. May 7, 1953; Ryukyu Islands-Art Treasures Returned (Box No.15), Correspondence 1951-64, Records of the Public Affairs Division (Entry No.A1-61) , Records of the Army Staff, Record Group 319; National Archives at College Park, College Park MD 

 

調査の後、スタンフェルト氏は税関で申告していて密輸ではないこと、そして自分が所有しているものが沖縄に返されるべき文化的価値があるものならそれは沖縄に返すということに同意しました。そのため特にお咎めはなかったようです。

 

1951年にデービス氏が米国に戻ってきてから、1953年までの2年の年月をかけて見つけられた数ある文化財の中でも、とりたてて重要なものは『おもろそうし』(全22巻)です。『おもろそうし(おもろさうし)』は琉球王国第4代尚清王代の1531年から1623年にかけて首里王府によって編纂された歌謡集で、文学としての価値はもちろん、歴史を解明する上でも貴重な資料です。

 

この写真は『おもろそうし』ではないですが、返された宝物のうちの一つです。

眼鏡をかけて宝物を見ている左手の男性がデービス氏です。

 

Dedication of Shuri Museum 29 May 53; Ryukyu Islands-Art Treasures Returned (Box No.15), Correspondence 1951-64, Records of the Public Affairs Division (Entry No.A1-61) , Records of the Army Staff, Record Group 319; National Archives at College Park, College Park MD

 

1853年のペリー提督来沖から100周年にあたる1953年に、米国国務省から『おもろそうし』(全22巻)を含む文化財が沖縄に返されました。デービス氏はこの時に米国政府の代表として沖縄を訪れ文化財返還の式典に参加しました。

 

この写真は宝物返還のセレモニーの写真です。中央がデービス氏です。

 

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米国国立公文書館にある小野寺信に関する資料

今年の夏で日本は戦後71年を迎えました。戦争特集の新聞記事やテレビ番組は以前と比べると少なくなったような印象がありますが、それでも意識してそうしたものを読んだり、見たりしなければと思っています。先日、NHKで戦争当時スウェーデンのストックホルムに駐在していた、日本陸軍武官の小野寺信及び百合子夫妻の物語についてのドラマが放映されていたかと思いますが、小野寺信と聞いて思い出したことがありました。そこで、今回は、カレッジパークの米国公文書館にある小野寺信に関する資料をご紹介したいと思います。

 

 下記の写真は、1943年のものであり、彼は1941年1月にはすでにストックホルムに着任していたかと思いますので、ドイツまたはヨーロッパのドイツ支配になっていた地域で撮影されたものかと思います。

 

Major General Makoto Onodera, 1943: Record Group 153 Entry A1-144, Box 118, National Archives at College Park, MD

 

ドイツの陥落前後に米軍によって捕獲された彼らやドイツ軍人や関係者に対する尋問調書資料の中に、1943年12月から1944年11月までストックホルムでハンガリーの武官かつ外交官であった、Ladislas Voeczloendyという人物の尋問調書がありました。その調書の内容はLadislas Voeczloendy本人のことではなく、当時の彼の良き友人であり、ストックホルムの駐在陸軍武官として活躍していた小野寺信に関するものでした。このハンガリーの武官・外交官を通じて、小野寺信に関する情報を米軍がいろいろ聞き出していたという事実がとても興味深いと思いました。

 


Brig. Gen. Makoto Onodera Imperial Japanese Military Attache, Stockholm on 5/28/1945, Record Group 498 Entry UD-250 Box 1296, National Archives at College Park, MD

 

小野寺信は、他のヨーロッパ言語は得意ではなかったが、ロシア語が得意であったこと、穏健で勤勉であり、精力的な人物であったこと。家族と仲が良かったことなどから始まり、彼のオフィスはストックホルムの公使館であるが、いろいろな軍情報を収集して、日本政府へ送っていたこと。小野寺夫妻は、その公使館とつながる住宅内で、情報のコード化作業を行っていて、そこには誰もアクセスできなかったこと。また1944年までの段階では、ソ連は日本とは戦争をしないと判断していたことなど、彼に関する色々な情報が語られており、小野寺との交流を通じてこの人物が知っていたことはすべて米軍に正直に語っていたようです。

 

第2次世界大戦の戦争当時、スウェーデンは、スイス、スペイン、ポルトガルなどのように中立国でありましたので、小野寺信はスウェーデンでいったん捕らわれの身になるようなことはありませんでした。しかし、日本の敗戦後、スウェーデンの警察からの尋問をそこで受けたようで、その後1946年に日本に帰国しました。当時の占領軍によって一時的に巣鴨プリズンに収容され、元ヨーロッパの日本陸軍武官の一人としての諜報活動について尋問を受けることになりました。

 

小野寺信に関する情報は、NARAのRG263のCIA(米国諜報局)の資料の中にいくつかまとまって存在しています。本来の原本ではなくすでに原本のコピーとなっているものですが、閲覧ができます。小野寺信を始めとするヨーロッパの日本軍の諜報機関で活躍していた人々への尋問やそれ以前に米軍側で入手していた情報をもとにしたもので、「戦時中の日本とポーランドの協力」、「戦時中の日本とドイツの諜報機関との協力」「スカンジナビア半島における日本の諜報活動」、「戦時中の北ヨーロッパにおける日本の諜報活動」「小野寺信への尋問」などのタイトルでとても興味深い資料です。

 


Left: Japanese Wartime Intelligence Activities in Northern Europe 9/30/1946: Record Group 263 Entry ZZ-17 Box 4:  National Archives at College Park, MD Right: Interrogation Report of General Makoto Onodera 9/10/46: Record Group 263 Entry ZZ-17 Box 4:  National Archives at College Park, MD

 

上記の左の資料は、下記のCIAのサイト上のPDFからも読むことができます。

 

Makoto Onodera Vol.2: https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/ONODERA,%20MAKOTO%20201-0000047%20%20%20VOL.%202_0022.pdf

 

また、同じCIAには、Makoto Onodera Vol. 1としての資料も掲載されています。

 

https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/ONODERA,%20MAKOTO%20201-0000047%20%20%20VOL.%201_0008.pdf

 

米国公文書館にはこれらの資料ももちろんあり、公文書館のサイトからデジタルで読むことができますが、CIAのサイトの方が読みやすいと思います。

 

小野寺信に関連して、他の資料も調べてみたところ、米国公文書館には、太平洋戦争前後から日本が敗戦を迎えるまでの時代における、世界各地の日本軍武官と中央の日本軍との交信記録を翻訳した資料もありました。戦争末期の時点では、中立国のスウェーデンのストックホルム、スイスのベルン、スペインのマドリッド、ポルトガルのリスボンといった場所にあった武官同士または、それらの武官と日本中央との交信記録に限られてきます。

 

その中で最後に1945年2月19日付けのストックホルムの武官から日本への送信内容についてご紹介します。

 

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1972年日本語印刷物

今回は米国国立公文書館の2階のテキスト資料の中から1972年の米軍による日本語印刷物をご紹介したいと思います。

 

これは在日米軍従業員のための雑誌「交流」の1972年6月号です。

 


“KORYU June 1972”; Organizational History Files, Psychological Operations Files, and General Records, 1971 – 1974(Entry UD-WW 63); Records of United States Army, Pacific, Record Group 550; National Archives at College Park, College Park, MD. 

 

「交流」は1957年の6月に創刊され、「在日米軍従業員とその家族に教養と娯楽を提供することを目的とする在日米軍の出版物」と目次のページに書かれてあります。左側が日本語のカラー冊子、右側が白黒の文字中心の英語の冊子で写真は日本語版と比べるとずいぶんと少なくなっています。この号の交流の表紙には日本とアメリカの国旗、そして守礼門の絵が描かれてあります。というのもこの年の5月15日に沖縄が日本へ返還され、この号からページ数も増え沖縄の米軍従業員にも配布されるようになりました。そのためか内容を見てみると、沖縄に関する記事も多いようです。雇用に関する内容を分かりやすく解説をしているページもあります。日本の米軍基地の特集、従業員の紹介や活躍ぶりの記事、アメリカについてのQ &A、日本の地方行事、世界の特集などの記事があります。何冊かこれらの雑誌に目を通してみますと、実に様々な分野で日本人が働いていたことがわかります。

 

下の雑誌は1972年1月号の「守礼の光」の日本語版と英語版です。

 


“SHUREI NO HIKARI   January 1972”; Organizational History Files, Psychological Operations Files, and General Records, 1971 – 1974 (Entry UD-WW 63); Records of United States Army, Pacific, Record Group 550; National Archives at College Park, College Park, MD. 

 

「守礼の光」は沖縄の人々に無料で配布された琉球列島米国高等弁務官府の出版物です。沖縄本島内の役所、軍施設、学校などにはトラック便で一括配布、個人や本島以外の場所には郵送で配布され、本土やハワイ、北米、南米、ヨーロッパにいる読者にも送られていたようです。公文書館に所蔵されていた資料の中には読者からの「守礼の光」編集部に宛てた1972年の年賀状や手紙、また本土に住む人から雑誌を送ってほしいという依頼文があり、当時毎月の雑誌を楽しみにしていた人が多かったのではないかと感じました。1959年1月より刊行された「守礼の光」は、沖縄本土返還の5月にこの特別号を最後に廃刊となりました。

 

 

 

 

 

 

 

“SHUREI NO HIKARI REVERSION ISUUE”; Organizational History Files, Psychological Operations Files, and General Records, 1971 – 1974(Entry UD-WW 63); Records of United States Army, Pacific, Record Group 550; National Archives at College Park, College Park, MD. 

1972年のカレンダーも所蔵されていましたのでご紹介したいと思います。

 

“1972 USFJ Calendar”; Organizational History Files, Psychological Operations Files, and General Records, 1971 – 1974 (Entry UD-WW 63); Records of United States Army, Pacific, Record Group 550; National Archives at College Park, College Park, MD. 


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昭和天皇のご訪米

今から41年前の1975年、昭和天皇と香淳皇后が公務としてはじめてアメリカを訪れました。終戦30年後の出来事です。当時のアメリカ大統領はフォード元大統領で、その時の資料はミシガン州にあるジェラルドRフォード大統領図書館に所蔵されていますが、資料の一部は米国国立公文書館でも閲覧することができます。

 

昭和天皇と皇后両陛下ご訪米は2週間もの長旅で、この間全米各地をご覧になられたようです。ワシントンDCを訪れた際でのパーティでは、約250~300もの日本人報道関係者が取材にきたそうで、その様子はライブ中継で日本でも放送されるほど、当時の日本にとっては大きなイベントだったようです。そして迎える側のアメリカでもかなりの準備が成されたことが資料からうかがい知ることができます。

 

資料の中にこんな文章がありました。「日本天皇の役割は純粋に儀礼的である。しかし戦前の天皇の存在は、半神半人として国家の主権を具体的に示すと考えられ、すべての政治的な権限は天皇の名において決定されていた。戦後それらの権限が剥奪された後もなお天皇の地位は守られたことに、昭和天皇と日本国民は感謝するとともに少し驚きもあったことだろう。」

 


State Visit of Emperor Hirohito of Japan, 2-3 Oct. 1975, Record Group 59 Entry A1-5037 Box222, General Record of the Department of State, Briefing Books 1958-1976 Lot75D447, National Archives at College Park, MD

 

また「日本国民にとって天皇陛下はとても尊い存在であることを念頭におき、礼儀を欠いた態度を取らないこと」など言動を慎むよう示唆する文章もありました。アメリカと日本ではこうした礼儀作法は大きく異なるので、この行事に関わるアメリカ側の関係者たちはさぞ気苦労をしたことと思います。

 

興味深かったのが、昭和天皇の人となりを綴った文章です。ここでは、昭和天皇はとても無口な方で気軽な会話や世間話というのがなかなか難しいお人柄と記しています。そして会話が弾むように、いくつか昭和天皇がご興味を持ちそうな質問や話題が、場面ごとで準備されていました。例えば「ご到着セレモニーでの陛下との会話」「ホワイトハウスでの会食の前と最中の陛下との会話」などです。

 


State Visit of Emperor Hirohito of Japan, 2-3 Oct. 1975, Record Group 59 Entry A1-5037 Box222, General Record of the Department of State, Briefing Books 1958-1976 Lot75D447, National Archives at College Park, MD

 

またこのご訪米でのスケジュールも細かく記録が残っていました。テレビでしか見たことのないご公務の様子はとてもゆったりとして見えるのに、実際の日程は分刻みで実際はとても大変なお勤めだということを感じました。

 


State Visit of Emperor Hirohito of Japan, 2-3 Oct. 1975, Record Group 59 Entry A1-5037 Box222, General Record of the Department of State, Briefing Books 1958-1976 Lot75D447, National Archives at College Park, MD

 

ご帰国後、昭和天皇からフォード元大統領に送られた御礼状です。

 

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占領下の接収建物

日本の占領期、国内の主要な建物や個人邸宅は進駐軍によって接収され使用されていました。ここ米国国立公文書館 (National Archives and Records Administration) 5階に保管されている写真資料の中でもそれらの建物の写真を見ることが出来ます。その中でも、新古典主義的と言われるデザインや西洋建築デザインのビルディング、また洋館と呼ばれるモダンな邸宅など、当時の日本建築様式が垣間見られる建物が印象に残りました。今回はその一部をご紹介したいと思います。

 

第一生命館は、連合軍最高司令官総司令部(GHQ) 本部となっていた事で有名で、司令官のダグラス・マッカーサーと共に撮影された写真も見ることが出来ます。その設計を調べてみると1932年に設計図案を一般公募した後に建築家によって実施設計されており、外観はギリシャ風の円柱が立案されたものの、結局角柱が立ち並ぶものとなったとされています。もし、円柱の建物になっていたら皇居周辺の景観も随分変わっていた事でしょう。

 

Photograph No.287063 Air Forces Over Tokyo 8/1/1947, Box#559, Record Group 111-SC, National Archives at College Park, MD

 

左は明治生命館、説明書きには MEIJI Insurance Building Now Occupied By the U.S. Armyと書かれています。右は三井本館です。当時、館内の一部は国防省によって使用されていたことが書かれています。

二館とも現在は、重要文化財に指定されており重厚な佇まいは今も変わりません。

 


Left: Photograph No.290342 Meiji Insurance Building 10/12/1945, Box#571, Record Group 111-SC, National Archives at College Park, MD

Right: Photograph No.291018 Mitsui Building 12/20/1945, Box#573, Record Group 111-SC, National Archives at College Park, MD

 

左下の銀行倶楽部は、GHQ下のAmerican Red Cross Clubに割り当てられていました。右下の服部ビルディング(銀座和光)は、進駐軍向けの売店となっていました。

 


Left: Photograph No.291025 Bankers Club 12/18/1945, Box#574, Record Group 111-SC, National Archives at College Park, MD

Right: Photograph No.291017 The Hattori Building 12/19/1945, Box#573, Record Group 111-SC, National Archives at College Park, MD 

 

現在は愛知県の博物館明治村に移築されたフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルも兵士用宿舎として接収されていました。

 

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U.S Military’s Uniforms ~ユニフォームが出来上がるまで~

世界中のあらゆる分野で使用されている制服には色々な意味が込められています。例えば会社で使用する制服は、その会社やお店のコンセプトに合ったスタイルを選んだり、ロゴを刺繍したりします。学生服であればその学校の象徴であるカラーを取り入れる学校も多くあるかと思います。制服を着用するという事は、学校でも会社でもその組織に所属しているという事が一目瞭然で外部の人達に分かるという意味でとても大切であり、特に小さい頃から制服を着用する習慣のある日本人にはとてもなじみのあるものなのではないでしょうか。

 

制服といえば軍服もその一種で、アメリカ軍は大きく分けて4つのブランチ(Army, Navy, Air Force, Marine Corps)に別れており、各ブランチ事に着用されている軍服は異なります。彼らが着用する軍服とは正装服だけではなく、カモフラージュ柄の迷彩服やトレーニング時に着用するものなどいくつかのものを様々な状況に応じて使い分けています。軍服に関連するブログを書きたいと思い、アメリカ軍のユニフォーム事情についてナショナルアーカイブスでいくつかの資料を閲覧しました。今回Armyの軍服が出来上がるまでの過程が分かる資料が出てきましたので紹介したいと思います。

 

「Army Field Forces」は主に各地のキャンプ地の気候やその地の特性に合わせて制服を定めていく任務を担っている部署です。彼らが認定するのは単に制服だけに限っておらずヘルメット、ブーツや手袋などもEquipmentとして丹念に認定していきます。彼らが最終的に制服を認定するまでには、5段階のテストと会議が重ねられて慎重に制服の選定・認定を行っていきます。寒い気候の地や雪が多い地で着用するものには兵士が外で凍えて任務を正確に果たせないような事が起こらないように、またジャングル地帯や暑い気候の地域で任務を行う兵士たちには、彼らが暑さでバテテしまう事がないようになど、色々な想定を考えた上で1段階目のテスト「Early Test」を始めます。このテストを行うのは特定の部隊ではなく、テストの気候条件に合ったCamp地の部隊に「Army Field Forces

からランダムに申請され行われます。ここで着用した制服に問題がないという結果であっても二段階目の「Service Test」が行われた上で「Final Report」が作成されます。

 


Service Test of Covers, Helmet, Camouflage OFFICE, CHIEF OF ARMY FIELD FORCES, Adjutant General’s Section, Communications & Records Div. Decimal File 1954, RG 337 Entry NM5 56 Box 829; National Archives at College Park 上の2枚

 

ファイナルリポートという名称だけを聞くとこれが最終段階と思ってしまうのですが、このファイナルリポートを元に次の段階の「Check Test

が行われ、そこで問題なく全てのチェックリストをクリアできれば「Army Final Approval」という名称の正式な文書が作成され、その地にあった制服が認定されるという流れです。

 

Army Field Forces Board Nr 3, Report of Project Nr 2630, Check Test of Intermediate Layer (Cold-Dry Uniform)(DA Project7-79-02-007) [2 of 3], OFFICE, CHIEF OF ARMY FIELD FORCES, Adjutant General’s Section, Communications & Records Div. Decimal File 1954, RG 337 Entry NM5 56 Box 829; National Archives at College Park 

 

トレーニング時に着用する制服の選定・認定は最も慎重に行われるという事です。

 

一つの制服が認定されるまでには、着用する兵士一人ひとりが安心して任務を行なえる事を考えながら、いくつもの過程を経て正式な制服として認定される事を知りました。

また、メインの軍服には各ブランチによって色々なコンセプトが盛り込まれ、「軍服」といった花形のような印象もありますが、今回紹介した資料に出てくるような細かい部分にまで気を使う部署があるという事を知れたのはとても良い機会であり、改めて資料の貴重さを思い知らされました。(MJ)

戦後の消防

米国国立公文書館Ⅱカレッジパークの2階に保管されている文書の中に米国戦略爆撃調査団(The United States Strategic Bombing Survey)関係文書があります。

 

この米国戦略爆撃調査団というのはウィキィぺディアによるとヨーロッパ戦線における戦略爆撃の効果や影響について調査、分析し軍事力設備に役立てる事を目的とした陸海軍合同機関とあります。1945年8月の日本の降伏後には太平洋戦域での調査が追加され1945年9月から12月にわたり長崎、広島、東京、大阪、神戸などで調査が実施されたようです。長崎と広島で原爆投下後に実施された現地調査を元に書かれた報告書はご存知の方も多いのではないかと思います。

 

今回は東京地区のField Report Covering Air Raid Protection and Allied Subjects, Tokyo Japan(東京地区の空襲保護と連合軍科目を対象とした現地報告書)の中の消防活動について幾つか紹介したいと思います。

 

RG243 (Records of the U.S. Strategic Bombing Survey 1928-1947) Box93 National Archives at College Park, College Park, MD

 

この報告書によれば日本の消防の歴史としては、1640年頃に武家火消と呼ばれる大小250の組が江戸の町の消火活動を幕府-奉行所の下行っていた事が始まりとあります。約178年間続く民間の私設消防組は1918年に始めて東京、大阪、京都、名古屋、横浜、神戸に政府下、消防団として設立されたそうです。

東京地区の消防署は1945年3月10日の東京大空襲以前は12地区に44管轄区域、287出張所あったようですが、100以上の出張所が3月10日と5月25日の空襲による火事で焼けてしまったと書かれてあります。

 

右下の写真は当時の消防隊の様子です。右上の写真ははしご車です。当時、東京にはしご車は3台しかなかったそうです。(1台はドイツ製2台は日本製)

 

RG 243 (Record of the U.S. Strategic Bombing Survey 1928-1947) Box 130 National Archives at College Park, College Park, MD

 

下の写真は木製の手動式消火ポンプで4人用と書かれています。このポンプに約3メートルと約19メートルのホースを繋いで使用、放水は15メートル程だそうです。

 

RG243 (Records of the U.S. Strategic Bombing Survey 1928-1947) Box93 National Archives at College Park, College Park, MD

 

次の写真はガソリンエンジンの手動式消火ポンプです。毎分454リットルの放水可能、ノズルが2つあり約3メートルと19メートルのホースを繋ぎ放水できるタイプで、このポンプは使用に4人から8人必要と書かれています。

 

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米国国立公文書館で見つけた3D立体写真

米国国立公文書館所蔵のテキスト資料の中には、色々な形態の参考資料が含まれていることがあります。写真や地図資料はよくあるのですが、「米国戦略爆撃調査団」資料の中に3D写真(立体写真)とそれを見る3D用のメガネが含まれていました。

とても珍しいことです。

 

 

こんな感じです。

 

 

これは何の写真かというと雲龍型航空母艦の「天城」です。破損の状態を3D写真で記録しています。

 

メガネをかけて見るとこのように見えます。

 

Evaluation of Photographic Intelligence in the Japanese Homeland Part Six Shipping, 103[2 of 3], 101 to 104 Pacific Survey, Published Reports of the European and Pacific Surveys 1945-47, Office of the Chairman, Records of the U.S. Strategic Bombing Survey, RG 243 Entry I-10 2 Box 133; National Archives at College Park MD 上の4枚全て。

 

上手に撮影できませんでしたが、肉眼でメガネを使って見た時は立体感がもっとはっきりしています。

今でこそ3Dは映画やゲーム機など日常生活で接する機会が多いのですが、この冊子は1946年6月付のもので、3Dがそんな時からあったことに驚きました。

 

3Dのアイデアというのは古くからあったようですが、1840年頃にイギリスの物理学者であるチャールズ・ホイーストン(Charles Wheatstone)がステレオスコープという立体感を生じさせる装置を作りました。その後万華鏡を発明したディビッド・ブリュースター(David Brewster)が1849年にステレオスコープの実用化に成功しました。 それは双眼鏡のような形をしていましたが、1851年のロンドン万国博覧会で公開され当時のヴィクトリア女王が大変興味を示されました。

 

今の3Dメガネの原型となっている赤青メガネ(アナグラフィック)を使っての3Dはドイツ人のウィルヘルム・ロールマン(Wilhelm Rollman)によって考えられました。1858年にはフランス人のジョセフ・ドール・アルメイダ(Joseph d’Almeida)が観客に赤青メガネをかけさせて幻灯機でスライドを見せる実験をしたのが最初の赤青メガネの使用とされるようです。1889年にイギリス人の写真家であるウィリアム・フリーゼ-グリーン(William Friese-Greene)が3Dアナグラフィック映画を作りました。それから1920年代くらいまでは3D映画は人気があったようです。3Dという言葉は当時はなくて1950年代に作られたもののようです。

 

日本では江戸時代末期に立体写真が伝わってきたようです。写真家/洋画家の横山松三郎が国内で初めて立体写真を撮り始めたのが1869年です。薩摩藩の最後の藩主、島津忠義は写真好きでかなりの数の立体写真を撮りました。その作品の一部は鹿児島市にある尚古集成館に所蔵されています。徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜は多趣味かつ新しいものが好きで写真撮影がその趣味の一つで立体写真も多く撮影したようです。

3D写真が西洋とさほど時期も変わらずに日本にも入ってきていたようで意外でした。江戸末期は時間の流れが速く、新しいうねりをこういうことからも感じます。

また、文学者の正岡子規は病床についていた時、ステレオスコープを入手して立体写真をたくさん見ていたそうです。

 

現在、3Dの画像や映像は軍事では不可欠なものとなっています。この資料はその先駆けだったのでしょうか? 今まで3Dのことは何も知らなかったのですが、この機会に色々調べることができて知識の幅が広がったような気がします。(M.U.)

 

※参考にしたサイト:

■3D写真は幕末からあった

http://www.asahi.com/kansaisq/kaihou/no130/kaiin/

■3D Photography-The Ultimate History Project

http://www.ultimatehistoryproject.com/3d-photography.html

■The History of Stereo Photography

http://www.arts.rpi.edu/~ruiz/stereo_history/text/historystereog.html

■Anaglyph 3D

https://en.wikipedia.org/wiki/Anaglyph_3D

 

1920年代の米国は日本をどのようにみていたのか

今年は1776年のアメリカ合衆国(以下米国)建国から240年目にあたります。米国と日本との関わりを考えれば、1853年のペリー来航以前にも例えば1837年のモリソン号事件を含め、両国の接触はいろいろありましたが、正式には 日米の外交の始まりは、1854年に締結された日米和親条約までさかのぼります。その後は1858年の日米修好通商条約締結、その条約の批准のための1860年(万延元年)の遣米使節がありました。

 

その後、近代化を迎えた日本は米国とはどのような関係を保ち、またどのような形でそれが崩れて太平洋戦争に突入してしまったのでしょうか。また当時の米国は、日本をどのようにみていたのでしょうか。こうした質問に答えるための資料も米国公文書館には膨大にあります。

 

今回は、1920年代の国務省の資料及びその他の関連資料をご紹介したいと思います。1910年から1929年の国務省の資料の中に、非常に興味深い資料がありました。1921年9月21日付けの冊子で、Paul Page Whitham とCapt. W. I. Eisler という2人の人物によって書かれた、 ”American Commercial Interests and the Pacific Conference” というものでした。この資料にはこれらの人物の詳細はまったく書かれていませんでしたが、Paul Page Whithamという人物は、1918年に“US Department of Commerce Bureau of Foreign and Domestic Commerce Preliminary Report on Shanghai Port Development “(Preliminary Report on Shanghai Port Development / by Paul Page Whitham from Hathi Trust Digital Library: http://catalog.hathitrust.org/Record/002707044)というレポートを書いていたことがわかりました。その時の肩書は、顧問技師兼貿易官(Consulting Engineer Trade Commissioner)となっており、米国の商業省の役人で上海にいたことがわかりました。おそらくもう一人のCapt. W. I. Eislerは米海軍の幹部であり、彼もまた上海にいた人物であったかと思われます。

 


RG59 (General Records of the Department of State Central Decimal File 1910-1929), Box 5246, National Archives at College Park, College Park, MD. 

 

この二人が記した冊子は、1921年の9月とあるので、その年の11月から翌1922年の2月までワシントンDCで行われたワシントン会議に米国が臨むにあたっての準備資料となったようです。この資料の最初のページには、太平洋地域の地図を表現した地図の写真とその下に“The Pacific Ocean, Important today is The Sea of Tomorrow, the scene of the great political and commercial events of the near future.”といった1文が添えられています。そのあとに太平洋が米国にとっていかに大事なものであるかを述べた前文があり、非常に簡略化されたアジアの歴史(大きな誤解を含んだ歴史観が根底にあるようでした。)に触れてあり、そのあとは太平洋におけるアメリカ、イギリス、日本、中国の各国の方針について、また、ワシントン会議における問題についてなど書かれており、また中国、日本、フィリピンなどアジア各地の港や都市の様子の写真も張り付けられていました。これらの中の、太平洋における日本の方針と傾向という部分では、以下のような文章がありました。

 


 In order to get at Japan’s real policies, it is necessary to dig in under the superficial cover laid by diplomatic statements and assurances made to Western peoples. Not that such statements are always insincerely made, but the acts do not in many cases square with the words. The actual performance and real policies are dictated by the military and clan leaders who are the hidden hand of power behind the diplomatic and other civil officials. 

 

 Japan’s policy is the economic control of the vast North eastern portion of the continent of Asia, an area twice the size of the United States and populated with something over 500,000,000 people. In order to make certain of and protect the economic domination, political and military control is considered necessary, that is to “safeguard Japan’s vital special interests.” 


「日本の真の方針を理解するには、西洋諸国に対する、表面的な日本の外交的な声明や保証といった形で見られるものの奥にあるものをきちんと見据えなくてはいけない。もちろん、そうした日本の外交上の声明や保証がすべて誠意にかけるというわけではないが、その行動そものは、その言葉が意味する範囲にとどまらない場合が多い。日本の実際の行動や方針というものは、外交官やそのほかの民間人の背後に控えている軍部及び関係派閥によって命令されている。日本の方針は、米国の2倍の面積に相当するような、また人口5億にも及ぶという、アジア大陸の広大な北東部を経済的に統制するというものである。この目的を果たすためには、日本は政治的かつ軍事的統制が必要であると考えられ、それが、”safeguard Japan’s vital Special interests” (日本にとって生命に関わる特別な権益を守る)ということになるのである。」


 

日本側の言葉というものは額面通りに受け取ってはいけないといった事を書いており、そうしたこと自体がすでに外交上でも双方が心理戦を展開しているのだと思いました。また、この文章を読んで、思わず、そのあとの時代の1931年の1月に日本国内の議会で当時の代議士であった松岡洋右が「満蒙問題は日本の生命線である」(満蒙とは中国東北部の満州と内モンゴルの東部を指す。)と発言し、その発言は世間に広まり、同年9月の満州事変とその後の拡大においても積極的に使われたスローガンを思い出してしまいました。

 

上記の冊子で主張された米国の太平洋における方針は、下記の資料にも見られるように、ワシントン会議の直前の1921年10月31日でもあらためて米国として確認をされており、政府各関係機関においても協力すること、また米陸海軍においてもそれに基づいて戦争計画も立てるようにといった事が書かれていました。

 

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江戸幕末資料

1853年、浦賀沖に日本への開国を求めるアメリカ大統領の国書とともにペリーが来航し、翌年日米和親条約が結ばれます。そして、ハリスが下田にアメリカ総領事として着任し、日米修好通商条約が結ばれることになります。江戸幕末期は外交的にも国内政治、そして日本経済も他国の影響を受け、激しく変化をした時代だったのではないかと思います。今回は米国公文書館のオンラインで見ることができる、そんな江戸幕末期の外交資料をご紹介したいと思います。

 

Letter from Shogun Tokugawa Iyemochi; General Records of the Department of State, 1763 – 2002, Record Group 59; National Archives at College Park at College Park, MD[online version available through the National Archives Catalog (National Archives Catalog identifier 6883722) at www.archives.gov; Jan 5, 2016]

 

上の資料は安政7年(1860年)、14代将軍である徳川家茂の親書です。文章の最後に源家茂とあり朱印も押されてあります。最初無地の紙をイメージしていたのですが、実際画像を見てみると、大変きれいな柄のある紙で日本らしさを感じました。

 

他にも家茂がアメリカ大統領にあてた書簡があります。下の資料ですが文久元年(1861年)のもので、江戸・大阪の開市と兵庫・新潟の開港の延期に関する内容が書かれてあります。こちらもきれいな紙を使用しており、このような書簡は木箱に入れられ届けられていたようで、その木箱もあります。オランダ語で書かれた翻訳も見ることができます。

 


Letter from Minamoto Semotsi to the President of the United States; General Records of the Department of State, 1763 – 2002, Record Group 59; National Archives at College Park at College Park, MD[online version available through the National Archives Catalog (National Archives Catalog identifier 6883703) at www.archives.gov; Jan 5, 2016]

 

文久元年の家茂の親書にも老中久世大和守と安藤對馬守の名前が出てきますが、その親書と同じ日付で老中久世大和守と安藤對馬守がアメリカ合衆国外国事務大臣に宛てた書簡もあります。

 

Letter from Kuse and Ando, Ministers of Foreign Affairs of the Shogunate to the Secretary of State; General Records of the Department of State, 1763 – 2002, Record Group 59; National Archives at College Park at College Park, MD[online version available through the National Archives Catalog (National Archives Catalog identifier 6883709) at www.archives.gov; Jan 5, 2016]

 

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日本の戦争画家-藤田嗣治

米国国立公文書館には数多くの写真資料が所蔵されています。写真資料からは、戦争当時の様子など現在の私たちでは想像しきれないような事実を感じることができます。これらの写真は、従軍した兵士が撮影したものが多く、彼らはいわゆる「戦場カメラマン」です。日本では今もなお、数少ない戦争体験者の方々の協力により、当時戦地で撮影した貴重な写真を集めた展示などが各地で催されていて、戦争を知らない世代へ平和の大切さを訴え続けています。


ふと「戦場画家」は当時どういう存在だったのだろう、と気になりました。日本の戦争画は日中戦争以後多くの画家により盛んに描かれたそうです。日本軍は陸軍美術協会と呼ばれる組織を設立し、美術を通して戦争を正当化しようとしました。また描かれた作品は戦時中も積極的に公開展示され、多くの国民に「戦争は正しい」と植え付けるプロパガンダ的な役割もあったようです。


米国国立公文書館にも「Collection of Japanese War Paintings」の資料があるとのことで早速閲覧してみることにしました。


大型ボックスに所蔵されているこの資料は一つの大きな冊子になっていて、作品を撮影した写真が一枚一枚丁寧につづられていました。作品は1937年~1945年に描かれたもので、この一冊には約40人もの日本人画家が描いた戦争画約150点が収められていました。


筆者撮影


すべての作品はとても絵画とは思えないほど描写が細かくまるで写真のようです。写真は事実をそのままを映し出し、戦争の生々しさが伝わりますが、こうした戦争画は画家の目を通して見る戦争なので、彼らの「想い」が込められているように感じます。

こうした戦争画は、初期のころは画家が陸海軍からの委嘱を受け、実際に戦地へ出向き描いていたようですが、戦況が激しくなる1943以降は、兵士への取材やヨーロッパ絵画の戦争表現の資料などをもとに想像で描かれる作品が増えたようです。


Photograph No.FEC-47-80871 Catalog #78, Record of Allied Operational and Occupation Headquarters, World War Ⅱ, Civilian Air-Raid Defense (Area, Tokyo) by SUSUKI Makoto, Record Group 331-JWP; National Archives at College Park, College Park, MD


Photograph No.FEC-47-80920 Catalog #127, Record of Allied Operational and Occupation Headquarters, World War Ⅱ, Departure of Special Air-Attack Corps, KAMIKAZE, From Base on Home Island(Area: TACHIKAWA Air Field) by IWATA Sentaro, Record Group 331-JWP; National Archives at College Park, College Park, MD


この冊子の中に日本の戦争画の代表的な画家である、藤田嗣治の作品も多く収められていました。藤田嗣治はパリで絵を学び、その後日本に帰国し従軍画家として活動した人物です。私は絵のことは詳しく分かりませんが、素人の私が見ても彼の作品は時が止まったように見入ってしまいました。画面全体の迫力から、戦場の凄まじさが伝わります。兵士一人ひさとりの表情からは、今から死ぬという覚悟のうらに混乱や悔しさといった思いも感じられます。

 

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