米国のシベリア派遣軍に関する写真資料

今年2017年はロシア革命から100周年目になります。1914年7月に勃発した当時のドイツ帝国やオーストリア―ハンガリー帝国などの同盟国側と、フランス、イギリス、ロシア帝国、米国(1917年4月から参戦)など連合国側との間で起こった第1次世界大戦は、1917年の2月そして10月の2度にわたる革命がロシアで起こったときもまだ続いていました。

 

この革命により、ロシア中央部ではそれまで続いていたロマノフ王朝の絶対君主制(ツァーリズム)は倒され、世界で初めての社会主義政権であるソビエト政権が樹立されました。しかしながら、旧ロシア帝国の地方の地域では、反革命勢力が巻き返しを図り、革命軍と反革命軍の内戦が展開されることになりました。この内戦が全面的に拡大することになったのは翌1918年5月にシベリアで起きたチェコスロバキア軍の反乱がきっかけでした。もともとこの軍隊は、第1次世界大戦中に、ロシア帝国が、敵国のオーストリア―ハンガリー帝国軍のチェコ人捕虜とスロバキア人捕虜から編成したものでした。ロシア革命後はヨーロッパ戦線に送られることを前提として、シベリア鉄道沿いに留められていた軍隊でした。反乱をきかっけとしてこの軍隊は、ロシアの中央部のソビエト政権側には脅威を与えるものとなり、同時にシベリア各地に反ソビエト勢力を増大させることにもなりました。

 

同年8月には、チェコスロバキア軍団をロシア革命勢力から救出するという名目のもと、連合国側である、アメリカ、日本、イギリス、フランス、カナダ、イタリア、中華民国といった国々から、軍隊が派遣されることになりました。実際にはこの軍隊派遣は、それぞれの国の利権(シベリア鉄道に関わる利権や外資など)を保守するという目的があったものと言われています。

 

米国公文書館の中には、米軍のシベリア派遣に関する資料がたくさんありますが、今回は、American Expeditionary Forces in Siberia 1918-1919(米国シベリア遠征軍)の写真資料をご紹介したいと思います。場所は、シベリア、オムスク、スーチャン(現パルチザンスク)、ウラジオストク、バイカル湖周辺などであり、その内容は、アメリカ、イギリス、フランス、日本、ロシア(反革命勢力―白色)、チェコスロバキアなどの将校や兵士、捕虜となったロシア革命勢力(赤色)の兵士、ロシア難民、コリアンの人々、ぞれぞれの町や建物、市場、軍事活動や宗教的儀式、兵士の娯楽などといった多岐にわたるものになっており、当時の様子を理解するうえで非常に貴重な資料であると思います。

以下の2枚の写真は、1918年11月15日にウラジオストクで、アメリカの主導による連合国側で行われた平和行進であり、日本の軍隊も見えます。

 


Left: Photograph No. 7005.  “Peace Parade, Allied nations, Vlad. Sib. Lead by US Troops 31st Inf. Nov. 15, 18.” Right: Photograph No. 7017. “Peace Parade, Vladivostok, Sib. Nov. 15, 18.” Japanese soldiers.”  Record Group 395: Records of US Army Overseas Operations and Commands, 1898-1942, Entry SE, Box 2, American Expeditionary Forces in Siberia, National Archives at College Park, MD. 

 

1918年当時は、シベリアにおいて、米国と日本は足並みをそろえていたことがわかります。下記の写真は同年11月16日のものでハバロスクにおける米軍第27師団司令官のステイヤーとその部下と日本軍第12師団司令官の大井成元 とその部下達が並んでいます。この第12師団は当時の日本では、小倉(現北九州市)が本拠地であったかと思います。

 


Left: Photograph No. 18. “Col. H.D. Styer, 27th Infantry, Capt. C.A. Shamotulaki, Adjutant. Lt. General Oi, 12th Japanese Division, Major Yoriguchi, Col. Matsuyama, Chief of Staff at Japanese Hdqrs, Khabarovsk, Siberia, Nov. 16, 18.” Right: Photograph No. 19. “Col. H.D. Styer, Commanding 27th Inf., Lt. Gen. Oi and staff officers of 12th Div. Japanese Army in front of Japanese headquarters, Khabarovsk, Sib. Nov. 16, 18.”  Record Group 395: Records of US Army Overseas Operations and Commands, 1898-1942, Entry SE, Box 2, American Expeditionary Forces in Siberia, National Archives at College Park, MD.

 

シベリアは極寒地域であるために、兵士も一般の人々もその寒さをしのぐために大変な努力をしなければならなかったのではないかと思われます。下記の写真は、華氏でマイナス49度(摂氏マイナス45度)という気候の中で、任務遂行に励む兵士や日常の生活をする人々の様子が伺われます。

 



Left above: Photograph No. 236. “Russian soldiers grouped around a fire. These fires are essential for very often the temperature reaches 49 degrees below.” Right above: Photograph No. 237. “Merchants in the streets of Ekaterinburg also build fires to combat the cold.” Left below: Photograph No. 88. “Merchants in the streets of Ekaterinburg also build fires to combat the cold. “ Right below: Photograph No. 230. “Washing clothes in a hole cut in the ice. Scenes of these refugees doing the family wash are quite common throughout Russia and Siberia.” Record Group 395: Records of US Army Overseas Operations and Commands, 1898-1942, Entry SE, Box 1, American Expeditionary Forces in Siberia, National Archives at College Park, MD.

 

ロシアのロマノフ王朝第14代で最後の皇帝であったニコラス2世とその家族(妻、5人の娘と1人の息子)は1917年の革命後、シベリアのトボリスクに収容され、1918年4月末にはエカテリンブルグのイパチェフ館というところに幽閉されました。その当時、その建物は塀で囲まれていたようです。1918年5月のチェコスロバキア軍団の反乱以降、反革命勢力が拡大するなかで、ソビエト政権側は、皇帝一家が反革命勢力に救出されることを恐れて同年7月に、皇帝一家とその従者たちをこの館の地下室で銃殺しました。下記の写真を見る限り、米軍がこのエカテリンブルグの町に入ってきた時点でもその建物にはまだ塀がそのままあったということになるので、当時のロシア革命の生々しさを少し感じたような気がしました。その後、反革命軍側がエカテリンブルグを拠点にするなかで、このイパチェフ館はチェコスロバキア軍の本部になりました。

 


Left: Photograph No. 317. “House in Ekaterinburg, Russia. As it looked with the stockade built around it when the Czar and family were kept prisoners there by the Bolshevik”   Right: Photograph No. 216. “Headquarters of the Czech-Slovak staff at Ekaterinburg, Russia. It was in this building that the Czar and family were held prisoners by the Bolshevik and where they were supposed to have met there death.” Record Group 395: Records of US Army Overseas Operations and Commands, 1898-1942, Entry SE, Box 1, American Expeditionary Forces in Siberia, National Archives at College Park, MD.

 

ロシア革命後の内戦により、多くの人々が犠牲になりました。下記の写真は、難民として必死に町から町へと逃げてきた人々や、反革命勢力によって捕えられ刑務所に送られたり、処刑された革命側の人々の写真です。

 



Left above: Photograph No. 5010. “Refugees who have set up house-keeping in the third class waiting room of Vladivostok station. Thousands of families have no shelter save that provided by the railway stations.” Right above: Photograph No. 5012. Russian refugees, by the thousands have fled before the ravaging Bolshevik, seeking sanctuary under the protection of the allies. With what few earthy possessions they have saved, the wait the day when they can return to their home in peace.” Left below: Photograph No.292. Driven from their homes by the invasion of the Bolshevik, in the fighting zones. Thousands of refuge families male their homes in box cars in the railroad yards all along the railroads. Men, women and children are thus herded together, very often without heat, except that which the close association of human bodies crowded together will give. Photograph made in Dec. 1918 at Omsk, Siberia.” Right below: Photograph No. 214. “Thirteen captures Bolshevik former Tomsk Government heads, in the prison at Ekaterinburg. They have all been executed.” Record Group 395: Records of US Army Overseas Operations and Commands, 1898-1942, Entry SE, Box 1 and 2, American Expeditionary Forces in Siberia, National Archives at College Park, MD.

 

反革命軍の総司令官となったアレクサンドル コルチャークの写真もありました。彼は連合国の支援を受け、またロシア内のその他の反革命軍(白軍)と協力して、勢力を広げましたが、1919年後半には革命軍(赤軍)の勢力が圧倒するようになり、翌1920年1月に彼は革命軍側に捕えられ翌月には処刑されてしまいました。また、反革命軍が勢いに乗っていた時には次々と新たな軍隊を作りましたが、中には12歳という子どもも多くいたらしくそうしたところにも限界があったのかもしれません。

 


Left: Photograph No. 253. “Admiral Kolchak, Director of All Russians, portrait study of the Admiral close up. Photographed in Omsk, Siberia, November 1918, a few days after he took up the duties of Director.” Right: Photograph No.437. “The new Russian Army is made of thousands of boys, many of them were twelve years old.” Record Group 395: Records of US Army Overseas Operations and Commands, 1898-1942, Entry SE, Box 1, American Expeditionary Forces in Siberia, National Archives at College Park, MD

 

シベリアで生活をするコリアンの人々の様子を撮影した写真もありました。1910年の日本による韓国併合の影響を受けていたからなのか、それともそれ以前からシベリアでの生活があったのかわかりませんが、シベリアでの生活はすでに長かったのではないかと思われます。これらの写真を見る限り、1918年の時点ではロシア革命後の内戦状態の影響はまだ深刻ではなかったように思えます。

 



Left above: Photograph No. 115. “Koreans and Russian women screening coal at shaft one. Suchan, Sib. Nov. 27, 18.” Right above: Photograph No. 126. “Korean Bull cart. Suchan, Sib. Nov. 27, 1918.” Left below: Photograph No. 207.”Grinding wheat in a Korean village near Nicolsk, Siberia.” Right below: Photograph No.205. “Korean Village scene. Woman chopping food.” Record Group 395: Records of US Army Overseas Operations and Commands, 1898-1942, Entry SE, Box 1, American Expeditionary Forces in Siberia, National Archives at College Park, MD.

 

ロシア革命とその後の内戦、また、連合国側によるシベリアへの軍隊派遣は、1920年代以降のロシアはもちろん、世界にも大きなインパクトを与えることになりました。今回ご紹介した資料はあくまで米国のシベリア遠征軍による写真資料に限ったものでしたが、米国公文書館には関係資料がまだたくさんありますので、私自身も勉強しながらですが、またいずれさらなる資料をご紹介をすることができればよいなと思います。(YN)