A級戦犯・大島浩(元駐独日本大使)の真相を求めて

米国大統領選挙が衝撃の結末を迎え世界中が共振している最中、早くも米国では新政権の大統領補佐官や各省庁の閣僚クラスの人事に対して関心がにわかに高まっている。米国では大統領が変わると政府機関人事の入れ替えが行われ、メディアの注目の的となる。

 

米国大統領の政権交代によって世界各地においては、各国におかれた米国大使館や領事館でも人事異動も行われる。現在の駐日米国大使は、JFKことケネディ大統領の実娘であるキャロライン・ブーヴィエ・ケネディ氏が務めていることはよく知られている。様々な面から注目を集める新大統領によって選ばれる新大使は一体誰になるのであろうか。近日中には公表されるものと思われるが、どのような方が選ばれるのか楽しみに待ちたい。

 

今月のブログは、第二次世界大戦中に日本の同盟国であったドイツに駐在し、ヒトラーとも親しかった日本国大使の大島浩(1886-1976)を取り上げ、彼が辿った数奇な運命の一部を、米国公文書館の史料を手立てにして紹介していく。

 

1. 駐独大使・大島浩

「大島浩」という人物をご存知だろうか。

 

General Oshima (Hiroshi), Ambassador to Germany, Japan 1941; 

14 Nov 1953, OSHIMA HIROSHI XA 518988 (Folder No. 1 Box No.588), Office of the Assistant Chief of Staff for Intelligence, G-2 Records Of The Investigative Records Repository (IRR); Intelligence and Investigative Dossiers -- personal File 1939 1976 (Entry No. A1 134-B), Record Group 319; National Archives at College Park, College Park MD

 

大島は、軍人でもあり、かつまた外交官でもあった。

 

大島を知る人の多くは、第二次大戦中ヒトラーおよびナチズムに最も傾倒した日本人として、日本を枢軸国の戦争へと誘った罪を問われ連合軍によって極東軍事裁判(「東京裁判」)にかけられ、A級戦争犯罪人(A級戦犯)となった人物として記憶していると思われる。

 

また大島にはもう一面、悲劇の外交官という側面があった。駐独大使として赴任したドイツから、ヨーロッパ東部戦線の状況などを伝えた大島の日本政府宛の電信は、「マジック(Magic)」と呼ばれた暗号グループで区分けされ、米軍暗号解読部隊によって戦争中常に傍受され、連合国側に有利に利用されていた。大島が懸命に収集した情報が、皮肉にも敵国に伝わり、枢軸国の戦況を不利な方向へ導いたことは、まさに悲劇的であったといえよう。

 

私が、大島や「マジック」について興味をもつきっかけとなったのは、近年幾つか大島について取り上げられた書籍を読みその事実に触れたことに始まる。読者の中には、昨年末に公開された映画『杉原千畝 スギハラチウネ』(2015年、東宝)を観賞し、在ベルリン日本大使として常に顔を強ばらせ軍服に身をまとって登場した大島役の俳優・小日向文世の顔を思い浮かべる方もいるであろう。

 

「ドイツ人よりもドイツ人的」、「ナチス以上の国家社会主義者」、「駐独ドイツ大使」などと当時の大島のドイツへの傾倒ぶりを表したフレーズが残っているが、一体どのようにして大島はナチスに傾倒し、なぜ「国家をミスリード」するような判断をしてしまったのか。日本近代史において、「大島浩」という一つの物語がもたらした悲劇は、日本人にとって今後も語り継ぐべきテーマの一つであることに違いない。

 

大島の略歴を年表にしてまとめてみると次のようになる。

 

1886年   岐阜県に生まれる(父は元陸相の大島健一)

1921年   駐在武官補としてドイツに赴任

1934年   駐在ドイツ武官に着任

1938年   駐独日本大使任命

1940年   駐独日本大使再任(1941年着任)

1945年   駐独日本大使辞任(連合軍に囚えられる)

1946年   極東軍事裁判でA級戦犯(無期刑)の判決をうける

1955年   減刑(釈放)

1975年   逝去(享年89歳)

 

父・健一は軍を退いた後に貴族院議員となる。その健一の下で育てられた大島は、幼年時からドイツ語の英才教育を受けた。陸軍幼年学校入学後、陸軍士官学校、陸軍大学を経て海外赴任し、そのまま駐独大使まで駆け上がり、最終的には軍人として中将の位まで昇りつめた。ちなみに、大島と生涯を共にした妻・豊子は14歳年下の子爵令嬢であり、当時の日本において大島は、恵まれた、華々しい日本帝国軍人のエリートコースを上がっていった人物といえる。

 

Mrs. Oshima, Wife of General Oshima, Ambassador to Germany, Japan 1943; 

14 Nov 1953, OSHIMA HIROSHI XA 518988 (Folder No. 1 Box No.588), Office of the Assistant Chief of Staff for Intelligence, G-2 Records Of The Investigative Records Repository (IRR); Intelligence and Investigative Dossiers -- personal File 1939 1976 (Entry No. A1 134-B), Record Group 319; National Archives at College Park, College Park MD

 

ここ、米国公文書館には大島をはじめ、大使や公使、武官や外交官の活動を伝える資料が多く保管されている。大島に関する資料は国務省資料群(RG59)、陸軍資料群(RG319)、国家安全保障局資料群(RG457)など多岐に及んでいるが、米軍をはじめ連合軍が大島をどのように観察していたのか、端的に示された資料が次のものになる。資料の分類から、終戦直後に連合軍が大島について記したものと推定される。

 

Secret: OSHIMA, Hiroshi Lieutenant General (Retired);

OSHIMA HIROSHI XA 518988 (Folder No. 1, Box No.588), Office of the Assistant Chief of Staff for Intelligence, G-2 Records Of The Investigative Records Repository (IRR); Intelligence and Investigative Dossiers -- personal File 1939 1976 (Entry No. A1 134-B), Record Group 319; National Archives at College Park, College Park MD 

 

資料から、連合軍によって大島は「悪名高き親ナチ」で、降伏後においても「傲慢で狂信的でファシスト的な観点を持ち続けた」などと記されている。締めくくりには、大島が日本を枢軸国の仲間に入れた立役者として重要責任に対する戦争犯罪によって早急に逮捕されるべきであると書かれてある。

 

2. 二度の大使就任要請を打診時には断っていた大島

連合軍の残した資料の内容は、多少語気の荒さはあるものの、よく知られた大島のイメージと重なり、違和感を憶えるものではない。

 

しかし、私は今回の調査を通して、上記にあるような「親ナチ一辺倒」の大島像に対して多少なりとも疑問を感じるようになった。

 

先に年表を用いて、大島は一度大使を辞職し、その後大使の職に再任したことについて指摘した。辞職の理由は、大島ら帝国陸軍が描いた日本とドイツを中心とした反共産主義圏体制構想が、1939年8月23日にドイツとソ連とのあいだで結ばれた不可侵条約によって破綻したからであった。大島は大使職でありながら、ドイツとソ連が手を結ぶという想定外の事態を予期できずその責任をとる名目で大使を辞職する決断を下す。

 

その後、日本とドイツは再び接近し、大島は人脈を活かして日本国内でドイツ人外交官らと会談を繰り返すなど、ドイツと日本の関係強化に尽力した。

 

そして、「想定外の事態」から一年が経過した1940年9月27日、日独伊三国同盟が調印されることになる。大島は、当時の外務大臣・松岡洋右から、この同盟成立後の10月に駐独大使再任の要請を受けることになった。

 

次に見せる資料は、終戦直後の1946年2月に戦犯容疑のある大島の調書資料の一部である。その中で興味深いことに、大島は松岡外相からの大使再任要請を、一度断っていたと述べていることである。

 

F #1 Interrogation of General OSHIMA, Hiroshi (Cont’d), 14 February 1946, 1345-1415 hours, Sugamo Prison in Tokyo;

OSHIMA HIROSHI XA 518988 (Folder No. 3, Box No.588), Office of the Assistant Chief of Staff for Intelligence, G-2 Records Of The Investigative Records Repository (IRR); Intelligence and Investigative Dossiers -- personal File 1939 1976 (Entry No. A1 134-B), Record Group 319; National Archives at College Park, College Park MD 

 

資料から、大島は尋問者とのやり取りで次のように述べていることが理解される。(一部簡略化)

 

尋問者:二度目の大使任命に際して、どれくらい以前に打診を受けたか。

大島:任命される直前です。

尋問者:一日前、一週間前、それとも一ヶ月前か。

大島:一週間前くらいかと。

尋問者:当時、あなたはその任命を非常に前向きで受け入れる姿勢にいたのでしょう。

大島:いいえ。実際、私はその打診についてあまり熱心ではなかった。

尋問者:あなたはむしろとても急いで決めたのでしょう。違うか。

大島:個人的には行くことを望んでいなかった。しかし、陸軍と海軍が私を強くせきたててきた。

(中略)

尋問者:あなたは松岡(外相)に何と伝えたのか。

大島:私は松岡外相に、特に日本のコンディションについてもっと学びたいとの私の願いから、大使として日本を出ることを望まない旨を伝えた。五年間の日本不在によって私は日本の政策に対して無知になってしまった。

(略)

 

以上は大島と連合国側の尋問者とのあいだで交わされたやりとりであるが、大島が二度目の駐独大使の要請に関して前向きではない姿勢がはっきり示されている。

 

そしてもう一つ、興味深い事実に、大島は一度目の駐独大使就任要請にもはじめは断ったことがある。その際の理由に大島は、「私は軍人であって、外交的な問題にはあまり明るくない」と述べている。

 

大島のナチスへの傾倒と、駐独日本大使というポジションを避けたことは必ずしも矛盾するものではない。しかし、従来知らされてきた「悪名高きほどの親ナチ」で「傲慢で狂信的でファシスト的な観点を持ち続けた」という大島像と比較して、調書の中での大島の答弁は一貫して冷静でいて、論理的である。

 

このギャップは何が原因なのか。実際、戦争中の大島はどのような行動をとっていたのか。連合軍の大島に対する評価は、どれほど妥当性があるものなのか。

 

大島のナチスへの傾倒を含めた彼の思想や人物像についての真相は、今後も引続き解明していかなければならない課題であると感じる。

 

3. ナチスとの同盟の「道具」にされた大島

Oshima Hiroshi, Stars and Stripes, Nov 27 1947: Oshima Denies Being Tool For Nazi Alliance;

OSHIMA HIROSHI XA 518988 (Folder No. 3, Box No.588), Office of the Assistant Chief of Staff for Intelligence, G-2 Records Of The Investigative Records Repository (IRR); Intelligence and Investigative Dossiers -- personal File 1939 1976 (Entry No. A1 134-B), Record Group 319; National Archives at College Park, College Park MD

 

最後に、ここに紹介する『星条旗新聞』の記事には、大島は日本とナチスドイツとの同盟にあたって「道具」であったことを本人が否定したとする内容が掲載されている。同記事には、1938年に武官だった大島が、なぜ大使という地位に上げられたのかその周辺状況に関して困惑した様子が伝えられている。

 

結局のところ、大島は軍部が中心となった日本政府にとっても、ナチスドイツにとっても、同盟関係を正常に回すための「道具」として使われてしまったのであろうか。

 

「親ナチ一辺倒」として知られる大島であれば、より積極的に自らの役割を探し、力量を見せつけるために実行するといった人物像を想像するが、これまで取り上げた彼のエピソードはどれもこれまでのイメージを裏付ける情報とは違い、大島の消極的態度が如実に表れている。

 

大島のようなドイツの言語と文化、そしてドイツ人に精通した軍人を、軍部がその機構の意のままに動くように利用しようと考えたとすれば、それは至って自然に見える。

 

皮肉というよりも、やはり悲劇に近いものを感じるのが、結果としてこの大島という「道具」が機能し続けたことで、ナチスドイツを崩壊に導く情報を、完膚なきまで暗号を解読していた連合軍に知らしめることになったことである。

 

 

終戦後、大島は巣鴨刑務所での服役を終え、隠居生活の中自民党から参議院選挙の出馬を打診され、断ったという逸話が残されている。そこで彼は次のような言葉を残したと妻の豊子が伝えている。

 

「私は国家をミスリードした人間ですから。」(NHK『その時、歴史が動いた』2002年9月18日放送)

 

しかし、私から見える現風景は、大島のそれとは全く別のことのようにみえる。

 

「国家が彼をミスリードした」、そのように見えてならないのである。(S・i・H)