戦後の選挙のポスター

東京のある地域に関する資料調査のために、該当地域の地図資料が入っている箱を見ていたときに、たまたま目にしたフォルダーの中に、とても面白い資料を見つけました。なので、今回は、それらの資料を紹介したいと思います。

 

太平洋戦争の敗戦を迎えて、日本は、マッカーサーを最高司令官とする連合国軍が日本に入り、間接統治の時代に入りました。これまでの軍国主義を排除し、政治、経済、社会の民主化が推進されました。そうした中でそれまで制限されていた選挙も、改正され、すべての満20歳以上の男女が、参政権を持てるようになりました。戦後初めての総選挙―衆議院選挙は、1946年4月10日に行われ、翌年の1947年4月20日には最初の参議院選挙が行われました。

 

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フォード・モータースの自動車

1930年代のアメリカの飛行機関係情報の映像資料を追っていたときに、たまたまフォード・モータース関係の映像があることに気づきました。今回は、そうした動画や写真をご紹介したいと思います。

 

フォード・モータースの創始者であるヘンリー・フォード (Henry Ford: 7/30/1863-4/7/1947)は、ミシガン州のデトロイト郊外ので農業を営む両親のもとに生まれました。が、農業を継ぐことになく、機械工としての経験を積み、1891年には エジソン電灯会社で働くようになりました。下の写真は、ヘンリー・フォードが、1893年にガソリンエンジンの自動車を動かしている写真です。

 

 

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イタリアのカプローニの飛行機

もう10年ほど前の映画になりますが、皆さんは、宮崎駿氏の「風立ちぬ」の映画をご覧になったことがありますか。飛行機に憧れていた主人公の堀越二郎は、自分の夢に出てきた飛行機の設計技術者のイタリア人のカプローニにも励まされて、自分も飛行機の設計技術者になって情熱を注いていく話を中心に、里見菜穂子との出会いと別れ、そして戦争の時代に翻弄されていく姿を描いたもので、とても印象深い映画であったと思います。

 

たまたまある飛行機関係の調査をしていたときに、そのイタリア人のカプローニが設計した飛行機に関する写真を目にしましたので、今回はそれらの写真をご紹介したいと思います。

 

ジャンニ(ジョヴァンニ)・バッティスタ・カプローニ:Gianni (Giovanni) Battista Caproni 、7/3/1886-10/27/1957 は、イタリアの航空技術者及び航空設計者として、また航空機製造会社を作った人物としてよく知られています。

 

下の写真は、議会図書館のサイトから見つけたものです。真ん中のひげをつけた人物がカプローニです。

 

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戦後まもなくの防犯雑誌と警察

すでに2023年もあと約3か月となってしまいました。あの騒然としたコロナ禍から 米国はかなり落ち着いてきましたが、相変わらず物価高は続き、また、車の部品や車そのものを盗むようなカージャック他の犯罪や、車のスピードや赤信号無視などによる交通事故の多発などを 見聞きをすることが多くなってきました。

 

そんな中で、たまたま戦後の防犯雑誌を目にしましたので、今回は、その防犯雑誌と、関連して当時の日本の警察についての写真を紹介したいと思います。

 

下記は、1948年9月に第1巻2号の防犯雑誌、蜘蛛(1948年7月創刊) というものです。発行所は、警視庁刑事部内の東京部防犯協会連合会となっています。表紙が、美しい女性の顔であり、その背後に蜘蛛の巣が張っているという絵になっていますが、表紙をめくると、表紙のイメージと異なり、いろいろな活動をする、「海上Gメンの先駆、東京水上警察」の写真や、「愛情の花ひらく」として女性警察官の写真があり、そのあとは、「世の母に訴う:青少年の犯罪をいかに防ぐか」というテーマでの座談会の記事が続きます。

 

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米国国立公文書館にある原爆関係の写真資料

広島と長崎への原爆投下から78年目の夏を迎えました。昨年2月24日に起こったロシアによるウクライナ侵攻は、ロシアの核兵器の威嚇とともに、現在も続いており、「ノーモア、ヒロシマ、ノーモア ナガサキ」という言葉に託された、この世界から、核兵器を廃絶するという切実な願いからは、はるかにかけ離れている現実に、私達は絶望的な思いをしてしまうこともしばしばです。それでも、私達は、原爆体験を含めてあの戦争体験を学び続け、いろいろな形で未来に残していく努力をしていかなければならないと思っています。

 

米国国立公文書館には、原爆製造計画であったマンハッタン計画の始まりから関係施設の建設と整備、原爆投下準備までの一連の流れ、原子爆弾投下当日、そして、投下後の人的、物的被害に関するレポート、戦後の原爆及び水爆実験など多岐にわたる内容の、膨大な資料が、存在します。しかも、それらは、たくさんの資料群(レコード・グループ:RG)に分かれており、かつ、それらの資料は、テキスト、マイクロフィルム、写真、そしてフィルムなどのいろいろな媒体資料でもあります。以前、日本の関係資料館のためにも資料調査及び収集をしたことも何度かありましたが、今回は、ほんの一部ですが、写真資料のいくつかをご紹介したいと思います。以下は、米空軍(写真を撮影した当初は、米陸軍空軍部隊でした。)による、カラーの写真です。上段が広島で、下段が長崎です。 

 

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ワシントンDCの米国国立郵便博物館

ワシントンDC周辺にはもう20年以上住んでいるのですが、米国国立郵便博物館には残念ながら、これまで訪れる機会を持つことができませんでした。先日、米国国立議会図書館での資料調査を終了したあとに、そこに行ってみることにしました。今回は、この博物館のご紹介をしたいと思います。

 

米国国立郵便博物館は、地下鉄レッドラインのユニオン・ステイション駅のすぐ隣にあります。この駅は、アムトラック鉄道の駅でもあるため、いつも多くの人で賑わっています。、コロナ禍で一時的に大きな打撃を受けましたが、現在では、構内の一部も変わり、新しい飲食店も増えました。このユニオン・ステイション駅の外に出て、駅を背にしてすぐ右側にこの郵便博物館があります。

 

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米海兵隊の写真の中の子ども達

ある調査の関係で、戦後まもなくの九州関係の写真を追っていたときに、子ども達にカメラを向けたときの写真とそのキャプションが目に留まりました。子ども達がとても頼もしく見えて、面白い写真だと思いましたので、今回は、そうした写真のいくつかをご紹介したいと思います。

 

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アメリカのチョコレート会社の歴史

アメリカのお菓子は、日本の多様で豊富なお菓子と比べると量的にも質的にも限られるかもしれませんが、アメリカのお菓子の中で、一番人気のあるチョコレートに関する資料をご紹介したいと思います。

 

アメリカのチョコレートというとハーシー・チョコレート (Hershey Chocolate) をまず思い浮かべてしまうのですが、一番古いアメリカのチョコレート会社は、ベイカーズ・チョコレート(Baker’s Chocolate)です。もともとジョン・ハノン(John Hannon)と医者であったジェームズ・ベイカー(James Baker)が、マサチューセッツ州のドーチェスター(Dorchester)で、カカオ豆を輸入してチョコレートを1764年に作り始めました。が、このハノンは、1779年に豆を調達に船で出たあと戻らず、未亡人となった彼の妻が、ジェイムズ・ベイカーに会社を売ることになり、その会社は、1780年にベイカーズ・チョコレートとなりました。ジェイムズ・ベイカーの孫のウオルター(Walter)は、会社名をウオルター・ベイカーとして、ビジネスを発展させました。さらに大きく発展することになったのは、この会社に当初クラークとして雇われ、その後マネージャーとなった、ヘンリー L. ピアース(Henry L. Pierce)という人物の功績があったと言われています。彼は、ボストン市長にもなった人物ですが、アメリカ国内だけでなく海外での販売を目指し、この会社の売り上げを飛躍的に伸ばしました。(参照:How a chance encounter created America’s first chocolate mill:Baker Chocolate Company is Lower Mills is home to America's first chocolate mill. David Roster, 1/31/2022 from Very Local: https://www.verylocal.com/how-a-chance-encounter-created-americas-first-chocolate-mill/20906/ )

 

下記は、その会社のトレードマークの画像です。20世紀に入ってから、この会社はシリアル会社に合併されましたが、1995年以降は、クラフト食品(Kraft Foods)に、2015年からは、クラフト・ハインツ会社(Kraft Heinz)に合併されましたが、そのブランドは今も生き続けています。

 

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昭和レトロなカラー写真

2023年の1月を迎えたと思ったら、もう4月の半ばに入ってしまいました。時の流れの速さは益々早くなっているような気がします。

 

2018年の4月のブログ記事の「戦後の日本の風景―米軍のカラー写真から」で、戦後まもなくの日本の写真を何枚か紹介したことがありました。最近の日本では昭和や平成のレトロブームがまださかんであることも聞いていましたし、また、戦後まもなくの写真は、私が生まれ育った時代よりももっと前の時代ではあるものの、自分の中の懐かしい記憶と重なるところがありましたので、今回は、そうした昭和の匂いがするような写真をさらにご紹介したいと思います。

 

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戦後まもなくの日本にあった阿片(あへん)

「阿片」(あへん/アヘン)という言葉を聞くと、まず頭に浮かぶのは、1840年のイギリスと中国との戦争であったアヘン戦争です。阿片は、芥子(けし)という植物の実からである乳液を加熱乾燥したもので、英語では、オピウム(opium)と呼ばれます。古代から、強い鎮痛剤、鎮静剤として使われてきた歴史がありますが、一方では、常習性や依存性が高いために、使い方によっては、麻薬として健康を害することになるものです。 

 

1804年に、ドイツの薬剤師によって、この阿片の有効成分を抽出され、それはモルヒネ(Morphine)と呼ばれました。モルヒネは、現在の医療現場でも、がんによる痛みなどに有効に使える薬剤や緩和剤として知られています。また、そのモルヒネの化学構造を変化させたものがヘロインで、1898年にドイツで開発されましたが、強い依存性がありその乱用は、心身をむしばむことになり、1913年には製造が中止されたと言われています。

 

日本関係の写真を追っていたときに、戦後まもなくの日本には、こうした阿片、モルヒネ、ヘロインなどがたくさんあったことを知りました。今回は、こうした写真資料を紹介したいと思います。

 

以下の写真は、当時の主要な製薬会社の1つであった、大日本製薬株式会社(1897年にできた大阪製薬株式会社が、1898年に、東京の大日本製薬会社を吸収して、大日本製薬株式会社となった。)に保管されていた、阿片の写真です。最初の写真には、当時の「内国産阿片」とあり、日本国内はもちろん、当時の満州で生産されたものが木箱に詰められて積まれているものです。その次の写真には、「蒙古産阿片」と張り紙がされています。

 

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戦後まもなくの蚕糸業に関する写真

米国国立公文書館の日本関係の写真は、膨大にあります。たまたま横浜関係の写真を見ていたときに、戦後の蚕糸業(養蚕と製糸)に関する写真がまとまってあるのを見つけましたので今回はそれらの一部をご紹介したいと思います。

 

蚕(かいこ)という昆虫を飼って繭(まゆ)を収穫することを養蚕(ようさん)と言い、その繭から生糸を作ることを製糸と言います。この養蚕は、もともとは今から約5000年前に中国で始まり、日本には2000年くらい前に伝わったと言われています。18世紀以降、生糸の生産量が拡大していきました。1853年のペリー来航以後、日本は欧米諸国と本格的な貿易をするようになり、特に、1859年の横浜開港では、生糸が日本の主要な輸出品となり、日本の資本主義の発展において大きな役割を果たしました。明治に入って、1872年には官営工場として富岡製糸場が操業し、1909年には、日本は、生糸輸出量において、それまでの中国を抜いて世界第一となりました。しかしながら、1929年の世界大恐慌によって大きな打撃を受けることになり、また日中戦争後、そして、第2次世界大戦勃発後は、それまでのアメリカ市場を失ったっり、桑畑から食料生産畑への切り替えが必要になったりする中で、生産をさらに縮小していったと言われています。

 

しかしながら、戦後の連合軍により、1945年10月に、それまで減らされていた桑畑を回復させ、蚕糸の生産と向上などを含めた、製糸製造に関する指示が出されました。それをうけて翌年、政府は、蚕糸業復興緊急対策要綱を出して 当時の日本の食糧難に対応するための食料輸入の見返りとして生糸輸出を増大するために、養蚕設備の復興に力を注ぎました。以下の写真は、そうした背景の中で、撮影されたものであったと思います。

 

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ホワイトハウスのファッションショー

新年あけましておめでとうございます。今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

普段の自分は、ファッションという言葉にはとても程遠いような生活をしていますが、それでも本当は、ファッションの歴史や、現在のトレンドの動向といったものには興味をもっています。ある資料調査の過程で、たまたま ホワイトハウスでのファッションショーに関する写真を見つけたので、今回は、それらの写真を紹介したいと思います。

 

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