今年の初めのトランプ政権が発足して以来、米国議会は機能していないと思えるような状況が続いていました。その後、暫定予算の期限であった9月30日までに、その後の暫定予算案を成立させなければならなかったのですが、米国議会での共和党と民主党の話し合いは決裂してしまいました。その結果、2025年10月1日(水)から米国国立公文書館を含むすべての米国の政府機関はの閉鎖に突入し、すでに本日10月15日で、丸2週間が経ってしまいました。
オバマ政権時の16日間、また第1次トランプ政権時の35日間など、私達は過去に何度かこうした政府機関の閉鎖を経験しました。しかしながら、今回の閉鎖は、この閉鎖期間中にも先週の時点で数千人の政府職員が解雇され、このまま閉鎖が続けばさらに解雇が進む可能性もあり、さらには、閉鎖解除後に通常支払われるはずの閉鎖期間の政府職員への給料の支払いが保証されることも不透明であるなど、従来の閉鎖とは意味がかなり異なるために、多くの人々にいろいろな不安や苛立ちがあります。私自身もその一人ですが、そうは言っても、自分の力ではどうすることもできないので、今は自分の役割を全うすることだけに集中しています。
米国国立公文書館が閉鎖される直前に、あるプロジェクトの資料調査の中で、朝鮮戦争を支えた、米軍の在日兵站司令部(Japan Logistical Command) という組織の中の、自動車修理や再生を担当した部署に関する112頁の冊子を見つけました。 この冊子を通じて、当時たくさんの日本人達が、そうした部署を支え、また朝鮮特需の一翼を担っていたこともわかるので、今回は、その冊子に掲載されている写真ページのいくつかをご紹介したいと思います。

Japan Logistical Command: Ordnance: Automotive rebuild in Japan: RG 550 (Records of United States Army, Pacific 1944-72), Organizational History Files 1959-1973, Entry A1-1, Box 265. National Archives in College Park, MD.
防衛研究所の戦史研究センター戦史研究室の石丸安蔵氏によると、在日兵站司令部は、1950年8月25日に横浜に設けられ、その任務は、「在韓国連軍への兵站と行政の支援、駐日の戦闘部隊・業務部隊への兵站と行政の支援、極東海軍・極東空軍及びGHQとの協調などであった。」とあります。(1)
上記の冊子の巻頭の言葉は、この在日兵站司令部が発足してからちょうど丸1年後の1951年8月25日付になっています。発足から1年で、成功と言えるところまで到達できたのは、朝鮮戦争勃発前にすでに日本の中には、第8軍の兵站部が築いた基盤が存在していた事、つまり、自動車再建施設と稼働の実績、また、日本人要員へ提供された米国式大量生産手法の訓練、さらに彼らを監督する米国側の監督職員の組織化と適切な配置などが、整備されていたことが前提であったことが強調されていました。

Japan Logistical Command: Ordnance: Automotive rebuild in Japan: RG 550 (Records of United States Army, Pacific 1944-72), Organizational History Files 1959-1973, Entry A1-1, Box 265. National Archives in College Park, MD.
(以下すべて同じ引用情報となる。)
上記のページは巻頭の言葉に続く、写真の第1ページとなり、その説明文には、第二次世界大戦の終結した時点で、米軍は太平洋戦域全域の旧日本軍の基地を占領していた事、当初、本土決戦用に集積していた数千トンに及ぶ高価な資材の撤去及び回収を戦後に行う計画であったが、米兵達は、本国帰還となり、そのためにそれらの資材はそのまま各地にを放置せざるを得なかった事、しかしながら、朝鮮戦争勃発後はそれらの資材の内、特に数千台の自動車と数トンの予備部品については、国連軍の兵站支援において極めて重要な役割を果たすことになった事などが書かれています。

さらに続く、写真ページでは、朝鮮半島において、米軍に緊急に必要な車両を最低限のコストで再整備をして提供し、米国内の税を節約をすることができた事、また、朝鮮半島での新たな歴史の展開に伴い、戦後において失業していた日本人への仕事の提供を通じて日本経済を支援することができた事、さらには、国連部隊に対し、極めて必要とされながらも他から入手できなかった時期に車両支援を提供する事ができた事なども書かれていました。

さらに上の写真ページには、1951年5月までに、この自動車関係のプロジェクトにおいては、50名以上の米陸軍の兵器担当将校と約300名の米陸軍省の民間人、500名以上の兵器専門の兵士、そして3万人以上の日本人要員(下請け業者要員を除く)が従事し、第二次世界大戦終結時に放棄された車両の再建とは別に、朝鮮戦争で破損した戦車や関連車両の修理と再び戦場での使用が促進されたことも書かれていました。
この後の写真ページには、自動車の解体、エンジン再生、そのほかの部品の修理や再生、タイヤやラジエーターの修理や、部品の組み立て、さらに調査及び発展といった各部署に分かれて写真紹介がされていました。私個人は、機械にはかなり疎い方ですが、それでも、当時の横浜地域はもちろん、東京や他の米軍施設の各部署でたくさんの日本人が働いていたことを知ることはとても興味深いと思いました。


上段の3枚は、各自動車の解体に入る前に、米国人からすでにトレーニングを受けた日本人検査官が、日本語と英語で書かれた検査シートに部品のどこが足りないのか他詳細を検査している様子です。またその下段の3枚は、第2次世界大戦で使われたエンジンの修理の様子であり、使えるようにしたエンジンは1951年度中では1日につき214個であったことが記載されています。


また、上段の3枚は、エンジン以外の他の部分での修理過程の1つで、ベアリング(軸受)という、機械の軸を正確な位置に保ちながら、摩擦抵抗を軽減してエネルギー効率を高める役割を果たす部品で、自動車のエンジンや車輪などに組み込まれる重要な機器を扱う部署です。入念な検査と、必要に応じて、微細な研削をしている様子です。またその下段の3枚は、タイヤ修理過程の1つで、研磨作業完了後、はみ出したコード端をトリミングしたり、圧縮空気で埃や汚れを除去している様子です。


さらに、上段の3枚は、ベアリングユニット(回転軸を確実に固定してスムーズな動作を確実にするもの)やトランスミッションや緩衝器などの精密部品の検査及び機能試験を行っている様子で、またその下段の3枚は、組立ラインから調整部門に移されてきた車両の塗装作業の様子でほとんど仕上がりの段階に入っていたことがわかります。
この冊子に掲載されていた写真のほとんどは、米国国立公文書館の5階の米陸軍通信部の写真(RG111SC)の中にあるかと思います。私自身もそれらの何枚かを写真資料で見たことがありますので、いつか時間があるときにあらためて確認ができればと思っています。
戦後の占領期及び日本の独立後において、全体として、どれくらいの日本人が当時の日本本土内及び沖縄の米軍基地または関連施設で働いていたのかといった統計表を見つけることはできませんでしたが、少なくとも、1952年(昭和27年)5月1日付では、207,736人もの人々が仕事をしていたようで、その後少しずつ減少していったようです。(2)
こうした人々がどのような労働に従事し、どのような雇用条件にあったのかについても、もっと知りたいと思いました。少なくとも、この冊子の写真を見る限り、まずは、生産力第一にフォーカスした環境であったと思われますし、安全や衛生面においてはどうであったのかと気になりました。横浜地域の米軍基地や関連施設で働いていた人々によるストライキなどの労働運動の様子に関する写真が存在するかどうかはわかりません。が、下の2枚の写真は、この時代の、広島県江田島市の、米軍施設で働いていた人々による、全駐労(全駐留軍労働組合:米軍基地で働く人々の組合)の広島地区闘争本部を中心にストライキをしていた様子を撮影したものです。そこには、「契約アメリカ案を粉砕せよ!我等の生活権を守れ。」、「奴隷労働の粉砕、組合修正案を勝ち取れ!」といったプラカードも見えます。こうした動きも地域によってはあったと思いますので、こうした動きもいつか追うことができたらとも思います。


Upper: Photo No. 454096. Bottom: Photo No. 454095. Japanese strikers picket the gates to the Etajima Specialist School. 8/12/1953.
Bottom: Photo No. 454096, RG111SCA (Records of the Office of the Chief Signal Officer Photo Albums), No. 2070.
National Archives, College Park, MD.
戦後占領期やそれ以降において、米軍基地や関連施設で働いてこられた方々のお話を伺う機会があればと以前から思っていました。2年前の戦争特集を組んだ新聞社のある記事には、戦後の混乱期の中で生きるために米軍基地で働いてこられ、その体験の中で、生きた英語を身につけこられた方の体験談に関する記事が掲載されていました。(3) 太平洋戦争中の戦闘や空襲または原爆で家族や友人を無くし、それでも戦後の混乱期の中で生き残った人々は、とにかく戦後を生き延びるためにはできることはなんでもしなければならなかった時代であったと思います。その体験を通じて英語の習得や米国人関係者との交流を維持したところもあり、そうした体験談や証言は大変貴重なものであり、そうした側から戦後のあり方や日本の米軍基地の歴史についてあらためて知ることは大事なことだと思っています。
またそうした人々の雇用形態や条件はどのようなものであったのかについても考えました。1952年からは、米軍基地で働く人々は国家公務員ではないと明らかにされましたし、また一般の民間企業とは異なった枠組み―日米地位協定の枠組みの中での雇用であるがゆえに特殊な雇用形態に置かれてきたと言われています。(4)
2024年版の防衛白書によると、米軍基地で働く方々は、2023年度末現在では、2万5,779人となっています。 (5) また、独立行政法人 駐留軍等労働者労務管理機構(エルモ:Labor Management Organization for USFJ Employees, Incorporated Administrative Agency)という機関では、「在日米軍従業員募集案内」という冊子を出していて、現在米軍基地で働いている日本人の方々の紹介をしています。(6)
今回は、米軍の在日兵站司令部関係資料にあった、自動車修理や再生を担当した部署に関する冊子資料から、そこで働いていた日本人の姿を紹介し、またそこから考えたことについて述べました。朝鮮戦争の勃発により、米軍の在日兵站司令部はもちろん、日本の企業も国連軍(米軍が主)が必要とする様々な軍需物資や、修理や輸送などの様々なサービスを受注することになり、その結果、朝鮮特需となり戦後の日本経済は本格的に復興していくことになりました。しかしながら、一方では、この戦争を通じて、朝鮮半島の全体が、戦場となり、韓国の戦死者は約25万7,000人、一般市民の被害は99万人、また北朝鮮側の戦死や負傷、疾病や飢餓による死者は250何人も及ぶと言われており(7)、そうした想像を絶するような犠牲の上にこの特需も成り立っていたことも忘れてはいけないと思いました。(YNM)
注)
(1) 研究ノート 朝鮮戦争と日本の港湾-国連軍への支援とその影響 石丸 安蔵-防衛研究所紀要 第9巻第3号(2007年2月):https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12315380/www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/j9-3.html
(2) 駐留軍等労働者数の推移(昭和27年から63年) 朝雲新聞社:
https://www.asagumo-news.com/hbdl/usa/cyuuryuu-suii.pdf
(3) 米軍基地は「ふるさと」 かつての敵国の職場で50年間働いた男性がつなぐ記憶:読売新聞、戦争特集(8/15/2023): https://www.yomiuri.co.jp/serial/webkiryu/wararchive/20230815-OYT8T50000/3/
(4) 駐留軍労働者のステータスの確立、全駐労:https://www.zenchuro.com/pdf/status.pdf
(5) 1.在日米軍の駐留、第5節 在日米軍の駐留に関する取組、第2章 日米同盟、第3部 防衛目標を実現するための3つのアプローチ、『平成6年版防衛白書』:
https://www.mod.go.jp/j/press/wp/wp2024/html/n320501000.html
(6)在日米軍従業員募集案内: https://www.lmo.go.jp/recruitment/pdf/pamphlet_jp_01.pdf
(7) 朝鮮戦争―日本への衝撃と余波― 慶應義塾大学 赤木 完爾教授 防衛研究所 戦史特集 朝鮮戦争と日本, 2013
https://www.nids.mod.go.jp/publication/militaryhistory_research/mh_tokushu/korean_war/index.html