戦後まもなくの引き揚げに関する写真

太平洋戦争を含む第2次世界大戦が終結してから80年目の夏を迎えました。日本の新聞やテレビ番組を通じてもあの戦争に関する特集が組まれ、様々な体験や証言、また関連する資料もたくさん紹介されているかと思います。

 

引き揚げ関係については、ニチマイ米国事務所のブログ記事の2015年の5月の、「戦後の引揚~シベリア抑留者の帰還」、また、2018年の6月の、「戦後の引揚~シベリア抑留者の帰還」で資料を紹介しました。 1)

 

しかしながら、米国国立公文書館には引き揚げ関係の写真資料はまだたくさんありますので、今回は、別の角度から、あらためて写真をご紹介したいと思います。

 

日本が敗戦を迎えた時点で、中国や台湾、朝鮮半島、フィリピン他を含め、海外には、日本兵や軍属、また一般の日本人が、約660万人以上いて、そのうちの約624万人が、1947年末までに日本へ帰還したと言われています。2)

 

中国、台湾、朝鮮半島南部、東南アジアなどにおいて、それぞれの地域の管轄軍の方針に違いがありました。が、米軍を中心とした占領軍が統括する地域では、比較的スムーズに引き揚げが進んだようでした。一方、ソ連の占領下の旧満州(現在の中国東北部)や朝鮮半島北部、樺太や千島列島では、引き揚げ事業が優先されなかったために、それらの地域にいた日本人は、栄養失調や病気との闘いだけでなく、現地の人々の襲撃やソ連兵からの様々な暴力や略奪にも直面しました。また、シベリア抑留として、約60万人もの日本兵をシベリアをはじめ、そのほかのソ連領内に強制連行し、重労働に従事させ、少なくとも数万人が過酷な状況の中で命を落としました。3) 

 

引き揚げてきた人々を迎えたのは、当初は、神奈川県の浦賀、京都府の舞鶴、広島県の呉、山口県の下関、福岡県の博多、長崎県の佐世保、鹿児島県の鹿児島、神奈川県の横浜、山口県の仙崎、福岡県の門司といった引き揚げ港でした。4)

 

下の写真は、佐世保に到着した日本兵達で引き揚げの手続きを待っている様子だと思います。毎日のようにこうした引き揚げ船が指定された港に到着していきました。どれだけたくさんの兵士や一般の人々が日本の本土に引き揚げてきたのかと圧倒される思いです。

 

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1945年7月16日の人類初の原爆実験―トリニティ・テスト

1945年8月6日の広島と8月9日の長崎への原爆が投下されてから今年は80年目となりました。1980年代後半には7万発程度存在していたと言われる核弾頭は、2025年1月の時点では、12405程度であると言われています。 (1) 

 

しかしながら、現在の世界の局地的紛争では、そうした核兵器が使われかねない危険性があり、核兵器の廃絶への道はあまりにも程遠い現実に絶望的な思いを抱いてしまうこともしばしばです。しかしながら、それでも 現在を生きる私達ができることは何かを考えささやかなりに模索していくことは大切であると思っています。(2)

 

核兵器の研究の前提として、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパを中心に放射線の発見があり、また、核分裂の発見がありました。その後の、1939年9月にドイツが、ポーランドへの侵攻し、第2次世界大戦が勃発し、その後ドイツでは原爆研究が進められているという情報により、危機感をいただいたアメリカ、イギリス、カナダでは、原爆研究が一気に進むことになりました。1942年9月には正式な国家事業としてマンハッタン計画となり、米国のテネシー州オークリッジには、ウラン濃縮工場、ワシントン州ハンフォードには、プルトニウム生産や科学分離工場、そしてニューメキシコ州のロスアラモス研究所では、原爆の設計開発と製造がそれぞれに進められていきました。当初は対ドイツ戦という前提があったと思いますが、その後は対日戦へと前提が変わっていきました。

 

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メモリアル・デイ(Memorial Day)の歴史から考える

日本では5月といえば、祝日が続く大型連休として、ゴールデン・ウィークがあります。米国ではそうしたものがなく、5月の祝日は、メモリアル・デイ(Memorial Day)だけです。現在のメモリアル・デイは、各地域でパレードも行われますが、一方では夏の始まりを意味する日でもあるので、家族や友人たちと集まって、外でバーベキューをしながらビールを飲んだり、子ども達が近くのプールにいったりするという楽しいイメージがあります。が、本来は、戦争や軍事行動で亡くなった戦没者を偲ぶ日であり、追悼の行為として墓地や慰霊碑の汚れや垢を洗い流すことも行われています。

 

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フィリピン関係の写真に見る日本兵達

米国国立公文書館の写真リサーチルームにある、RG111SC(Record of Signal Corps:ベ陸軍通信部)の資料群には、フィリピン関係の写真が膨大にあり、日本兵捕虜の様子、日本兵によって甚大な被害を被ったフィリピンの人々の様子、町の様子、米軍による統治や整備など多岐にわたっています。今回はそうした写真の中からいくつかご紹介したいと思います。

 

フィリピンは、16世紀半ばにスペインの統治下におかれ、1898年のスペインとアメリカ戦争後は、アメリカの統治下に置かれることになりました。1941年12月8日の真珠湾攻撃から始まる太平洋戦争中、フィリピンは、日本軍による侵攻からフィリピンの米軍降伏(1941年12月から1942年5月まで)と、米軍によるレイテ島上陸から、日本軍降伏まで(1944年10月~45年8月)の2度にわたって日米戦争の舞台となり、フィリピン全土は、すさまじい被害を受けました。フィリピンにおける日本人の犠牲者数は、約51万8000人(兵士:約49万8600人)であり、フィリピン人の犠牲者数は、全人口の約7%に当たる約111万人と言われています。

 

(参照:「過去」を克服した日比関係 —— マニラ市街戦80年:NIDSコメンタリー 第364号 2025年2月4日、研究顧問 庄司 潤一郎:https://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/commentary364.html

 

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ネイティブ・アメリカン(Native American)に関する写真から

日本の年度末なので、米国国立公文書館の資料調査や収集事業について追い込み作業となり、毎日2階のテキスト資料や4階の映像資料、そして5階の写真資料の各リサーチルームを行ったり来たりしていました。そうした中で、5階の写真資料室の壁に掲げられている写真の1枚にふと目が留まりました。

 

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1932年のボーナス・アーミー(Bonus Army)について

今回は、アメリカの歴史上、著名な政治活動の雛形ともなったと言われている、1932年のボーナス・アーミー(Bonus Army)を取り上げたいと思います。このボーナス・アーミーは、第一次世界大戦に参加し帰還した1万7千人の退役軍人やその家族達、さらに関連団体を含む合計4万3千人以上の人々が、約束された従軍慰労金(ボーナス)の繰り上げ支払いを求めて、ワシントンDCに集まったグループのことです。

 

もともと1924年に米国では、第1次世界大戦(1914-1918)に従軍した兵士達に対して、1日1ドル程度の従軍慰労金(ボーナス)を預託して、1945年に元兵士達に支払うという、世界大戦調整補償法(World War Adjusted Compensation Act/Bonus Act, )が定められていました。しかしながら、世界恐慌(1929年から1930年代後半まで)の影響で失業者が増大し、退役軍人たちも困窮していったため、もともと将来に支払いが約束されていた、従軍慰労金(ボーナス)は早期に支払われるべきであるという動きが広がりました。オレゴン州出身で、元軍曹であった、ウォルター・W・ウォーターズ(Walter W. Warters:1898-1959)を中心に、退役軍人たちが、貨物車に乗ってワシントンDCに向かったことがニュースで全米に流れると、各地域に住んでいた退役軍人たちもそれ呼応することになりました。

 

この運動体は、第1次世界大戦中のアメリカ遠征軍(American Expeditionary Force)になぞらえて、ボーナス遠征軍(Bonus Expeditionary Force:BEF)と呼ばれました。

(参照:Walter W. Waters, Commander of the Bonus Expeditionary Force – 1932:

https://www.ggarchives.com/Military/WW1/SoldiersBonus/WalterWWaters-CommanderOfBonusExpeditionaryForce.html

 

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戦後まもなくの東京の風景 その2

新年あけましておめでとうございます。昨年は大変お世話になりました。今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

 

昨年12月に続いて今回も戦後まもなくの東京の風景に関する写真をご紹介したいと思います。

 

下の写真は、戦後まもなくのバスです。使えるガソリンが限られていたため、1台目にガソリンを入れて、2台目をけん引しながら、人々を乗せていました。またガソリンだけではなく、木炭を燃やしてバスを動かしていたこともわかります。木炭を燃やし、そこから発生する一酸化炭素ガスとわずかな水素を集めたものを燃料としたようです。木炭車は、第2次世界大戦前後から戦後まもなくまでは普及していたようです。

 

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