今から100年前の米国では、禁酒法(1920-1933)によって、アルコールの製造、流通、輸出入及び販売が禁止されていました。今回は、そうした禁酒法時代についての関連資料をご紹介したいと思います。
米国では、南北戦争(1861-1865以前から、一部の州や地域では、禁酒令が定められていました。19世紀半ばから20世紀前半の北ヨーロッパや米国では、飲酒が、健康破壊、家庭内暴力や離婚、仕事への怠慢、貧困、治安悪化や暴力沙汰などを招くことになるといった社会問題が深刻となりました。米国のPBS(Public Broadcasting Service:米国公共放送)のサイトによると、「1830年までに、15歳以上の平均的なアメリカ人は年間7ガロン(現在の3倍)近くの純アルコールを消費し、(主に男性による)アルコールの乱用は、特に女性が法的権利をほとんど持たず、糧と扶養を夫に完全に依存していた時代において、多くの人々の生活に大打撃を与えていた。」とあります。そのため、奴隷制度を撤廃しようと闘った多くの奴隷廃止論者たちは、アルコールも、同様に根絶するべき悪を考えるようになり、特に、米国内のキリスト教プロテスタント教会に禁酒運動は、最終的には各地域、州、そして中央政府に対してアルコールの全面禁止を要求していきました。(Roots of Prohibition https://www.pbs.org/kenburns/prohibition/roots-of-prohibition)
禁酒法が成立する以前の禁酒運動は多くの女性によっても担われました。
左下のイラストは、フランク・レスリー・イラスト新聞(Frank Leslie's Illustrated Newspaper: 1855-1922)の1874年2月21日号の中に掲載された、女性禁煙運動活動家たちによる、酒場前でハミングをする様子を描いています。おそらくこれらの女性たちは、キリスト教禁酒婦人連盟(Women’s Christian Temperance Union: WCTU) のメンバーであったと思います。
右下はキャリー・ネイション(Carrie Nation: 1846-1911)というケンタッキー州出身の飲酒運動活動家が発行した「粉砕者通信」(Smasher’s Mail)という機関紙の表紙で、黒いドレスをまといながらも、鉞(まさかり:薪を割ったり木を切る斧よりも軽く、細い木を切ったり、葉を落としたりするためのもの)を手にして、ちょっと物騒な印象があります。実は彼女は、あまりにも熱心な禁酒運動家であったために、酒場に行っては酒場や酒瓶を破壊し、そのたびに逮捕されて罰金を払うといったことを30回ほど繰り返したようです。もともと最初の夫をアルコール中毒で亡くしたことが彼女を過激な禁酒運動家に駆り立てていったようですが、そのおかげで彼女はよく知られるようになりました。
Right: The Ohio whiskey war - the ladies of Logan singing hymns in front of barrooms in aid of the temperance movement by S.B. Morton. Frank Leslie's illustrated newspaper, Feb. 21, 1874. LC No. 96516943. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/96516943/
Left: The cover of Smasher’s Mail Vol 1 No. 11, 1901, published by Carrie A. Nation, in October 1901, Topeka, Kansas. Pittsburg State University Digital Commons, Pittsburg, PA. https://digitalcommons.pittstate.edu/smashers_mail/6/
第1次世界大戦によって、食糧の節約が必要となり、穀物節約の手段としての禁酒の奨励がされていたこと、また敵国のドイツを前提に、米国内のドイツ系米国人が多く担っていたビール醸造業や蒸溜酒製造業への反対運動も相まっていたこともありました。
そうしたことを背景に、1919年1月に成立した禁酒法は、1920年1月17日から施行されました。下の4枚の写真のうち、上段左は、ニューヨークの警察が、捜査で確保したリキュールを下水に流している様子で、右は、海外からのアルコールを積んだ輸送船が拿捕されたときの様子です。“ラム・ラナーズ”(Ram Runners)とは、禁酒法時代に、ラム酒他いろいろなアルコールをカリブ海をはじめ、いろいろな国々から米国に持ち込んでいた人々のことです。彼らへの取り締まりも強化されていきました。下段の左右の写真はドラム缶にはいったアルコールをドイツの船が米国へと運んでいたところを拿捕されました。
TopLeft: [New York City Deputy Police Commissioner John A. Leach, right, watching agents pour liquor into sewer following a raid during the height of prohibition] [1921?] LC Control No. 99405169. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/99405169/
Top Right: Cargo aboard the Lucretia at Barge Office, 11/14/1931. Photo No. 26RR-114-2. Box 2
Bottom left: 600liter drums containing alcohol shipped on Ger. SS. Arion. Photo No. 26RR-16-2. Box 1.
Bottom right: Ger. SS. Arion. Photo No. 26RR-16-3. Box 1.
All of three: RG26RR, Records of the U.S. Coast Guard 1785 – 2005, Photographs of Suspected Rum Runners, ca. 1929–ca. 1941, National Archives in College Park, MD.
米国国立公文書館にある、米国情報局(US Information Agency)の写真資料には、禁酒法時代の取り締まりの写真がいくつかあります。その中のニューヨーク・タイムズのパリ支局が撮影したものは基本的にはパブリックドメインなのですが、現物写真を確認すると、それらの中にはワールド・ワイド(World Wide)という写真の会社(現在のAP)に著作権があるものなので、ここでは以下、サイト情報のみをご紹介しておきます。
*デトロイトで、ひそかに地下でアルコール飲料を作っていたところを警察が捜索し差し押さえたときのもの。https://catalog.archives.gov/id/541928
*バーを取り壊している様子:https://catalog.archives.gov/id/595674
*ロングアイランド州のシャインコック湾沖で、ニューヨークの警察に拿捕されたイギリスの高速船で、15万ドル分のラム酒とそれを運んでいた10人の密売人が裁判所に連行される前に荷物をまとめているもの。:https://catalog.archives.gov/id/404792810
禁酒法成立後は、こうした摘発や取り締まりが何度も行われ一方で、自家製のムーンシャイン(moonshine: 密造酒)をつくる人々も少なくありませんでした。ジョージア州のチェロキー郡で農業を営んでいたジョン・ヘンリー・ハーデイン(John Henry Hardin:1865-1943)は、ムーンシャインを作っていた人物としてもよく知られており、下の写真は、彼とその仲間たちの写真です。
Photograph of a Still. RG21, Records of District Courts of the United States 1685-2009, Series: General Index Case Files 1852-1958, File Unit: US v. John Henry Hardin. NAID: 656696. National Archives, College Park, MD https://catalog.archives.gov/id/656696
また、表向きは、アート・クラブやジャズ・クラブといったところで営業を行いながらも、お酒を提供するような隠れ酒場または潜り酒場もたくさんありました。こうした場所は、スピーク・イージイ(Speakeasy)と呼ばれ、シカゴ、ニューヨーク、ワシントンDCなどの都市にもたくさんあったようです。下記の写真は、ワシントンDCにあった、クレイジー・キャット(Krazy Kat)と呼ばれたところで、一見アート・クラブ(Art Club)という芸術活動をしていたクラブですが、お酒が飲める場所であったところです。
Left: Krazy Kat. Photograph shows the Krazy Kat, an art club on Green Court (near Thomas Circle), Washington. D.C. (Source: Washington Times, July 31, 1921) LC photo No. 2016831000. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2016831000/
Right: Krazy Kat. Photograph shows the Krazy Kat, an art club on Green Court (near Thomas Circle), Washington. D.C. (Source: Washington Times, July 31, 1921) LC photo No. 2016831002. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2016831002/
禁酒法が施行されたのは、1920年1月のことでしたが、同年、8月にはアメリカ合衆国憲法修正19条が発効され、それによって女性の選挙権が成立しました。それによって、特に都市部では女性のいろいろな活動も活発となっていきました。女性達による禁酒法改正運動も高まっていきました。禁酒法によって、当時の、アル・カポネ(Al Capone: 1899-1947)などのギャングのよる違法のアルコールの販売も盛んになりその結果、いろいろな犯罪や暴力も生むことにもなりました。そうした問題も、禁酒法に対する反対運動も盛んにしていきました。以下の写真は、禁酒法改正運動を担った女性達の写真です。
Left: [Group: Women's Organization for National Prohibition Reform] [1931] Harris & Ewing, photographer
LC Photo No. 2016879162. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2016879162/
Right: Women and ballot box: Women's Organization for National Prohibition Reform] [1932] Harris & Ewing, photographer
LC Photo No. 2016879601. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2016879601/
1932年の大統領選で勝利したフランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt:1882-1945)は、
翌年1933年3月から禁酒法の改正に署名し、ようやく、同年12月に禁酒法を規定した憲法修正第18条そのものを憲法修正第21条により、撤廃されました。
禁酒法をめぐっては、その法制化を推進した側に立った女性達もいれば、その法律が成立した後の社会的な問題から、この法律に反対した女性達もおり、そこには、世代的な違いもあったかもしれませんが、やはり女性の参政権の確立によって、女性を取り巻く情勢や女性の生き方や価値観が大きく変化したことが影響していると思います。
禁酒法下の米国社会は、第1次世界大戦 (1914-1918) の終結と、1929年の世界大恐慌の始まりの間の狭間にあった時代で、いわゆる「狂騒の1920年代」(Rolling twenties)と呼ばれています。 当時の米国は、それまでのイギリスに代わって世界の工場となり、製造業による大量生産と大量消費の時代を迎え、現在の米国の原型が作られた時代ともいえると思います。自動車の普及や道路整備、高速道路の建設の中で、都市も発展していった時代であり、文化的にみれば、ラジオや映画の普及、アール・デコと呼ばれる建築やジャズ音楽も花開いた時代でもありました。さらには、「華麗なるギャツビー」を書いたフィッツジェラルドなど若手作家も活躍した時代でもありました。1920年代の米国は、いろいろな角度から考えることができるので、とても興味深く、今後ももっと学んでいきたいと思っています。(YNM)