無我の無我

太平洋戦争中に、米軍が捕獲した日本軍の関係資料の原本は、諜報部門で翻訳された後に、破棄または処理されて現存していないものが多いようです。しかしながら、それらの資料の原本のいくつかは米国公文書館にそのまま保存され、今でも目にすることができます。

 

ブーゲンビルで米軍が捕獲した日本軍関係資料の中には、呉鎮守府配属の海軍二等兵が残した1942年(昭和17年)の日記があり、この日記の中には、出撃を前にした若き海軍兵士の覚悟と真摯な思いを綴った“海軍々人ノ遺書“なるものがありました。その中には、自分が出撃する船に日本の運命と乗組員全員の運命をかけており、この船とともに運命をともにするからこそ、遺書なるものはいらないということから始まり、出撃を前に許可された三日間の休暇で父母と一緒に過ごした時のこと、またその三日間の間に自分が見聞きしたことを記されていました。

 

彼は冗談交じりに自分の亡き後のことを口にしたら、母から縁起でもないと一笑された、とさりげなくその会話を綴っていました。そこには、出撃については面と向かって言えない(許されない)、彼の両親を思う気持ちと、一方では出撃についてはすでに感づいていないわけではなかったが、それでも必ずまた息子と再会できると信じたい父母の気持ちが存在し、互いを思い合い、細やかな心遣いをする家族の間ならではの微妙なやりとりがあったのだろうと私には思えてなりませんでした。

 

彼はまた、近所では多くの男子が戦地に赴き、銃後を守るのは老人、女性、子どものみであり、彼らもまた物価高騰や困窮に直面し、大変な状況であるにも関わらず、戦地の“兵隊さんのことを思えば”と置かれた状況に必死に耐えている社会情勢にも言及していました。この銃後の情勢を垣間見た彼は、そうした情勢を知るものは“誰しもの胸中は無我の無我であろう”とし、だからこそ、遺書も遺言も必要なく、あとは“百発百中、砲弾の威力を百戦錬磨を胸に最大に威力を発揮することができるのである”という言葉で最後を結んだのでした。

 

“無我の無我”という言葉は当時の戦地に赴いた人々に、また銃後を守る立場にいた人々にも共通していたことばであり、当時の時代の精神とも言うべきものであったと思います。戦争を知らない、そして物質的にあまりに豊かな現代に生きる私達にはその言葉とその精神を理解することは決して容易ではありません。しかしながら、その時代の人々の多くの犠牲の上に私達が生きている現代があるという事実を忘れてはいけないと真摯に考えます。

 

一人一人の兵士は誰かの父であり、夫であり、息子であり、孫であり、兄であり、弟であり、叔父であり、時代が異なれば誰もがもっともっと異なった生き方を選択することができたと思います。こうした人々がどのような思いで、戦地に赴き、どのように戦い、どのように戦死したのかということを学んでいく努力を惜しんではいけないのだと信じています。また、他の様々な形で戦場に行かざるを得なかった人々、戦闘に巻き込まれた沖縄の人々、また日本軍の占領と戦闘によって犠牲になったアジア諸国の人々、日本の国内で空襲と原爆で犠牲になった人々も含めて、それぞれの立場で必死に生きていた人々と生きたくても生きることができなかった人々についても同様に、学び続ける努力をしていかなければならないと思います。こうした真摯な取り組みなくしては戦争と平和を語ることはできないと思いますし、また真の平和を築いていくことはできないと思います。(YN)