米国国立公文書館では、連邦情報公開法にもとづいて、登録手続きさえ行えば誰でも公文書を閲覧することが可能です。ただ、全ての文書が公開されているというわけではなく、現行の軍事技術や外交にかかわる機密事項として認識された場合には、非公開として指定されています。例えば、日本占領時代の米国政府高官に関する史料では、夥しい数の報告書や書簡が1991年付けで抜き出されていました。しかしながら、第二次世界大戦中、米国の一般市民の目にさえ触れることのなかった軍事文書も、日本人の私が直接この手にとって見ることができる、その小さな現状に、大きな歴史の流れを感じます。
原爆の投下ターゲットの決定に関する報告書を手にした時、そのターゲット一覧に尼崎や大阪という文字を発見し驚きました。投下ターゲット決定の経緯について、連合軍捕虜キャンプの有無が最も重要視されていた旨を示唆する報告書もあり、その決定に人道的な配慮がなされていたとする従来の見地と矛盾しうる事実に、史実の複雑さを改めて目の当たりにしました。さらに、1945年7月の時点では、広島・長崎に引き続き、12月までに合計10発あまりの原爆投下が計画されていたと同時に、終戦間際まで各地で爆撃が継続され、九州、東京経由での大規模な上陸戦線が計画されていたという史料を通じて、私自身の第二次世界大戦に関する歴史観が変化するきっかけになりました。
政府高官や対外政策関連の史料では、ベルギー、スウェーデンを始めとする複数国が、資源提供という面で、大きく第二次世界大戦に関わっていることが明らかになり、この大戦がいかに大規模なものであったかという事実を改めて認識しました。政策や政治を見据えた観点から作成された報告書では、そこに人間の温かさを感じるものは少なく、自国の兵士ですら一塊の手段以外の何物でもないかのような、冷たく平坦な印象を受ける内容のものがほとんどです。あまりにも大きな歴史の流れの中で、一人の人間の声もいのちも、一国の政治や政策の大きな波間にかき消されてしまうような、どんよりとした無力感と焦燥感を感じたこともありました。
そのような中に、戦後の米国による沖縄占領体制について、米国市民個人が政府高官に宛てた手紙を2通見つけました。一通は、米国軍部による沖縄の支配体制が、全体支配体制に通じる可能性があるとして、沖縄市民の民主的権利に基づいた米国軍部の姿勢を問うもので、もう一通は、沖縄返還を訴える17歳の日本人の少女からの手紙を提示して、「ここに、日本国民の声が反映されているのではないでしょうか」と、沖縄返還を訴える内容でした。また、筆書きの抗議文に出会いました。福岡県沖縄基地取り上げ反対県民大会の代表が、沖縄返還を訴えるべくアイゼンハワー大統領に宛てたものでした。国という単位で記録された歴史的事実、個人レベルでの体験としての歴史的事実、さまざまな側面から包括的に史実を把握する必要を感じました。
先日、日本兵捕虜の尋問記録に目を通しました。食料不足で2週間何も口にすることができなかった神戸出身のこの日本兵は、22歳。拘留当時、極度の栄養失調だったと記録されていました。その日本兵は、自分の尋問記録が、将来、日本人によってアメリカで閲覧されることなど、考えにも及ばなかったことでしょう。時を超えて、自分の健康状態や身の安全を祈る人間が存在することなど、考えにも及ばなかったことでしょう。
時空のコチラ側から、史料調査を通じて個々のいのちの形跡を辿る作業は、あまりにも漠然としていて、自分の内にある『日本人性』に触れざるを得ないような気がします。(MT)