沖縄戦下の住民による「軍作業」

第二次世界大戦末期の沖縄戦では、「軍民共生共死」のスローガンのもと、沖縄の住民も命がけで日本軍をサポートすることを要求され、集団自決などの悲劇も数多く起きました。一方で、様々な状況で米軍の民間人捕虜となり、生き残った住民達も大勢いました。

 

米国国立公文書館には、当時の沖縄の民間人管理に関する米軍の記録資料が収められています。例えば、Record Group 494 ”History of Military Government Operation on Okinawa”という資料によると、1945年4月30日の時点で126,876人の沖縄住民がアメリカ軍政府の収容下にあり、その数は5月31日には147,829人、6月30日には258,588人と増えていることがわかります。住民達は最低限の衣食住と医療を与えられていましたが、さらに就労可能な人達については、アメリカ軍政府の活動を助ける「軍作業(ミリタリー・アクティビティ)」に従事することで、食糧などの加配を報酬として受けていたそうです。今回は、このような民間人収容所で暮らす住民達の軍作業の様子について、いくつか写真をご紹介したいと思います。

 

Photograph No.342542 “Native women salvage any usable articles from ruined homes on Okinawa Ryukyu Islands.” 26 June 1945. Record Group 80G; National Archives at College Park, MD.


この写真は、収容所の住民達が近くの廃墟となった村へ出かけていき、瓦礫の中から再利用できそうな材木などを集めている様子を写したものです。アメリカ軍政府は沖縄上陸前から民間人施設の建設について計画していましたが、そのための建築資材を運ぶほど船のスペースには余裕がなかったため、できる限り現地調達をする予定でした。そこで、収容した民間人の労働力に頼る必要があったのです。このような物資の回収は、建築資材だけでなく、食糧や衣類、農耕具、医薬品などに対しても行われていたそうです。


Photograph No.318500 “In the village of Taira on Okinawa, Ryukyu Is. captured Jap civilians are constructing a stockade for US Navy military Gov. compound, to be used for the Japs prisoners of war.” 16 May 1945. Record Group 80G; National Archives at College Park, MD.


この写真は、男性の住民達が日本人戦争捕虜収容所を建設しているところです。当時の捕虜関係の資料の一つには、「15~45歳の民間人男性は一旦戦争捕虜施設へ送り、関係当局による取り調べをクリアした人は民間人収容所へ引き渡すこと」と記されています。沖縄戦では、一般の男性住民の多くも防衛隊や学徒隊として戦場に駆り出されていたこと、さらに、軍服ではなく民間人の衣類を身に着けた日本兵が多く発見されたこともこのような民間人の扱いと関係あると思いますが、実際に民間人収容所で暮らす男性住民には子供と老人が多く、健康で働き盛りの男性は非常に少なかったと、いくつかの資料に記録されています。


Photograph No.SC-370925 “In order to carry rations and supplies to men of the 27th Div mopping-up in the mountains of northern Okinawa, the 105th Inf Rect, under the command of Col Walter S Winn, formed two companies composed of native Okinawans supplied and paid by the military government.” 1 Aug 1945. Record Group 111SC; National Archives at College Park, MD.


このように軍作業における男性陣の労働力は非常に限られたものでしたが、建築作業の他に、物資の運搬などに従事する男性住民もいました。上の写真には、沖縄北部の山岳地帯に残っているアメリカ陸軍第27歩兵師団の為に、食料などの配給物資を背負って運ぶ沖縄住民の姿が写っています。この写真が撮られたのは8月1日ですので、沖縄本土での激戦こそ終わってはいますが、体力的にとてもきつく、また危険を伴う労働であることは想像できます。


Photograph No.329756 “Life in Shimobaru, one of civilian camps established on Okinawa in Ryukyus by U.S. Military Government.” 20 May 1945. Record Group 80G; National Archives at College Park, MD.


これは下原収容所に設けられた洗濯所の写真です。女性達が手際よく働いている様子が伺えます。この収容所には他に洗濯所が2カ所あり、3カ所合わせて一日に1200着の米軍軍服が洗濯されていたそうです。


Photograph No.SC-368387 “Native women harvest potatoes on Okinawa with the aid of crude hoes.” 8 May 1945. Record Group 111SC; National Archives at College Park, MD.


収容所で暮らす住民自身の食料の生産と分配についても、その多くは軍作業によって賄われていました。上の写真には、サツマイモを収穫する女性達の姿が写っています。このようなグループでの作業には、比較的経験豊かな住民がリーダーとして選ばれ、現場をまとめていたと資料には記されています。米軍の係員が出てきて細かな指示を出すよりも、住民同士の方がコミュニケーションも取りやすく、スムーズに作業が進むからだそうです。


Photograph No.336069 “Local ration board at Kayo Okinawa.” 29 July 1945. Record Group 80G; National Archives at College Park, MD.


畑での収穫物に加え、周辺地域から回収された食糧も一旦貯蔵所に集められた後、配給制度に従って住民達に分配されていました。この写真の女性は、配給用の米の分量を量っているところです。周りに子供達が集まっている様子も確認できます。米の他に、小麦、サツマイモ、キャベツ、豆、砂糖などが配給されたと記録されています。また、乳児で必要な場合には、米軍の用意した粉ミルクなども配られていたようです。住民は予め登録して発行された配給カードを提示し、決められた量の配給を受けていました。


収容所で暮らす沖縄住民の様子について、米軍の資料には「我々に協力的」、「従順」、「積極的に働く」といった表現が度々出てきますが、それとは別に印象に残った記述があります。「他人の畑の作物を収穫することに困惑する住民達がいた」というものです。淡々とした米軍の記録の中で、当時の住民の気持ちを垣間見ることのできる数少ない記録の一つだと感じました。

(N.N.)