米国国立公文書館にある小野寺信に関する資料

今年の夏で日本は戦後71年を迎えました。戦争特集の新聞記事やテレビ番組は以前と比べると少なくなったような印象がありますが、それでも意識してそうしたものを読んだり、見たりしなければと思っています。先日、NHKで戦争当時スウェーデンのストックホルムに駐在していた、日本陸軍武官の小野寺信及び百合子夫妻の物語についてのドラマが放映されていたかと思いますが、小野寺信と聞いて思い出したことがありました。そこで、今回は、カレッジパークの米国公文書館にある小野寺信に関する資料をご紹介したいと思います。

 

 下記の写真は、1943年のものであり、彼は1941年1月にはすでにストックホルムに着任していたかと思いますので、ドイツまたはヨーロッパのドイツ支配になっていた地域で撮影されたものかと思います。

 

Major General Makoto Onodera, 1943: Record Group 153 Entry A1-144, Box 118, National Archives at College Park, MD

 

ドイツの陥落前後に米軍によって捕獲された彼らやドイツ軍人や関係者に対する尋問調書資料の中に、1943年12月から1944年11月までストックホルムでハンガリーの武官かつ外交官であった、Ladislas Voeczloendyという人物の尋問調書がありました。その調書の内容はLadislas Voeczloendy本人のことではなく、当時の彼の良き友人であり、ストックホルムの駐在陸軍武官として活躍していた小野寺信に関するものでした。このハンガリーの武官・外交官を通じて、小野寺信に関する情報を米軍がいろいろ聞き出していたという事実がとても興味深いと思いました。

 


Brig. Gen. Makoto Onodera Imperial Japanese Military Attache, Stockholm on 5/28/1945, Record Group 498 Entry UD-250 Box 1296, National Archives at College Park, MD

 

小野寺信は、他のヨーロッパ言語は得意ではなかったが、ロシア語が得意であったこと、穏健で勤勉であり、精力的な人物であったこと。家族と仲が良かったことなどから始まり、彼のオフィスはストックホルムの公使館であるが、いろいろな軍情報を収集して、日本政府へ送っていたこと。小野寺夫妻は、その公使館とつながる住宅内で、情報のコード化作業を行っていて、そこには誰もアクセスできなかったこと。また1944年までの段階では、ソ連は日本とは戦争をしないと判断していたことなど、彼に関する色々な情報が語られており、小野寺との交流を通じてこの人物が知っていたことはすべて米軍に正直に語っていたようです。

 

第2次世界大戦の戦争当時、スウェーデンは、スイス、スペイン、ポルトガルなどのように中立国でありましたので、小野寺信はスウェーデンでいったん捕らわれの身になるようなことはありませんでした。しかし、日本の敗戦後、スウェーデンの警察からの尋問をそこで受けたようで、その後1946年に日本に帰国しました。当時の占領軍によって一時的に巣鴨プリズンに収容され、元ヨーロッパの日本陸軍武官の一人としての諜報活動について尋問を受けることになりました。

 

小野寺信に関する情報は、NARAのRG263のCIA(米国諜報局)の資料の中にいくつかまとまって存在しています。本来の原本ではなくすでに原本のコピーとなっているものですが、閲覧ができます。小野寺信を始めとするヨーロッパの日本軍の諜報機関で活躍していた人々への尋問やそれ以前に米軍側で入手していた情報をもとにしたもので、「戦時中の日本とポーランドの協力」、「戦時中の日本とドイツの諜報機関との協力」「スカンジナビア半島における日本の諜報活動」、「戦時中の北ヨーロッパにおける日本の諜報活動」「小野寺信への尋問」などのタイトルでとても興味深い資料です。

 


Left: Japanese Wartime Intelligence Activities in Northern Europe 9/30/1946: Record Group 263 Entry ZZ-17 Box 4:  National Archives at College Park, MD Right: Interrogation Report of General Makoto Onodera 9/10/46: Record Group 263 Entry ZZ-17 Box 4:  National Archives at College Park, MD

 

上記の左の資料は、下記のCIAのサイト上のPDFからも読むことができます。

 

Makoto Onodera Vol.2: https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/ONODERA,%20MAKOTO%20201-0000047%20%20%20VOL.%202_0022.pdf

 

また、同じCIAには、Makoto Onodera Vol. 1としての資料も掲載されています。

 

https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/ONODERA,%20MAKOTO%20201-0000047%20%20%20VOL.%201_0008.pdf

 

米国公文書館にはこれらの資料ももちろんあり、公文書館のサイトからデジタルで読むことができますが、CIAのサイトの方が読みやすいと思います。

 

小野寺信に関連して、他の資料も調べてみたところ、米国公文書館には、太平洋戦争前後から日本が敗戦を迎えるまでの時代における、世界各地の日本軍武官と中央の日本軍との交信記録を翻訳した資料もありました。戦争末期の時点では、中立国のスウェーデンのストックホルム、スイスのベルン、スペインのマドリッド、ポルトガルのリスボンといった場所にあった武官同士または、それらの武官と日本中央との交信記録に限られてきます。

 

その中で最後に1945年2月19日付けのストックホルムの武官から日本への送信内容についてご紹介します。

 

Message on 2/19/1945 from Stockholm to Tokyo : Record Group 457 Entry A1-9004 Box 21: National Archives at College Park, MD

 

1945年2月4日から11日まで、米国、英国、ソ連の3国の首脳によるヤルタ会談が行われていました。この会談ではソ連の対日参戦やドイツの戦後処理など戦後の体制に大きな影響を与えることになった内容が話されました。当時ソ連の対日参戦については関係国内の秘密でありましたが、上記のストックホルムから日本への打電メッセージにはもちろん期日に関する情報はありませんが、ソ連が日本を攻撃することが触れられていました。

 

当時の日本は、残念ながらソ連の参戦はないだろうとまだ判断していたのだと思いますが、この打電日の2月19日は奇しくも、米軍による硫黄島上陸の日であり、そのあとの3月10日の東京大空襲、4月1日の沖縄上陸、そして8月6日の広島原爆、9日の長崎原爆と一気に日本の壊滅的敗北への道をたどっていくことにもなる始まりでもありました。

 

今回、小野寺信に関する資料についてご紹介しましたが、戦争当時のヨーロッパにいた日本人武官、外交官、民間人については戦争末期の和平工作も含めてもっと学んでいきたいと思いました。あらためて世界地図を見てみると、スウェーデンは西側のノルウェーと東側のフィンランドに挟まれた位置にあり、フィンランドの東には広大なロシアがあり、それらの対岸にはエストニア、ラトビア、リトアニアといったバルト海3国が位置し、それらの国西側には、ポーランド、さらにドイツやデンマークが位置しています。こうした地理環境であったからこそ、その地域でしか入手できない関係各国の軍事情報がたくさんあり、ロシア語能力を駆使して関係各国の武官やその関係者達の諜報活動を担っていた小野寺信や関係者には、当時の世界の動きがよく見えていたのではないかと思いました。

 

インテリジェンスの在り方、また貴重な情報をいかに有効に使っていくのかということは時代を超えて、また軍事組織や民間組織という違いを超えても私達皆にとって現代的課題であると思います。(YN)