Waddy Youngの生涯

今回は、戦争で短い生涯を終えた1人のアメリカ青年について、カレッジパークにある米国公文書館に保存してある写真、資料を通して紹介したいと思います。

 

彼の名前はWalter R. ”Waddy” Young(ウォルター ワディ ヤング)通称ワディといいます。1916年9月4日にオクラホマで生まれたワディはオクラホマ大学時代にオールアメリカンフットボール選手に選ばれるほど、才能あるとても優秀な選手だったようです。その後1939年にNFLブルックリンドジャースの選手となったワディですが、プロフットボール選手になって2年目にArmy Air Forceに志願します。パイロットになったワディは爆撃機B-24のヨーロッパ任務に従事し、数年後大型爆撃機B-29プログラムに志願しサイパン島へ配属されます。

 

1944年6月以降、マリアナ諸島を制圧、占拠したアメリカ軍はグアム、テニアン、サイパンの各島に飛行場を建設し、同年11月からマリアナを拠点に日本本土空襲を始めます。この空襲任務にワディはWaddy’s  Wagon(B-29 A-5)機のキャプテンとして従事することになります。

 

5Fの写真資料室で見つけた、1944年11月にサイパンで撮影された”ワディ”ヤングの写真です。

 

Photograph No. A39059 Record Group342-FH Box159; Saipan: Capt. Walter R.” Waddy” Young Ponca city, Okla. Airplane Commander of Boeing B-29 “Waddy’s Wagon” National Archives at College Park, College Park, MD

 

キャプテン ワディヤング率いるWaddy’s Wagon(B-29 A-5)機は1944年11月24日、28機中のリードグループの1機として午前5時15分にサイパンを離陸し、攻撃目標だった中島飛行機武蔵野製作所へ向かいます。中島飛行機は、当時日本最大を誇る航空機生産企業で、武蔵野製作所では約5万人が、日夜、発動機(エンジン)生産に励んでいたそうです。

 

下の写真は1944年11月、東京空襲任務へ向かう、マリアナ上空を飛行するWaddy’s Wagonの機体(手前から3機目、真ん中A-5)

 

Photograph No. A38422 Record Group342-FH Box156; War Theater#22(Marianas Is) Airplanes(over). National Archives at College Park, College Park, MD

 

武蔵野製作所への最初の爆撃任務を終えたWaddy’s Wagon機はサイパンのIsley Fieldに午前9時に1番に帰還しました。その後、撮影された写真が下の写真のようです。キャプションには1944年11月に撮影、東京への爆撃任務を終え1番にサイパン島へ戻ったWaddy’s Wagon乗組員と記載されてある。

 

Photograph No. A38954 Record Group342-FH Box159; B-29 Men who bombed Tokyo. National Archives at College Park, College Park, MD

 

2Fのテキスト資料、RG18のWWII Combat Operations Report(戦闘報告書)にはワディ他Waddy’s Wagon 乗組員11名の最後となった1945年1月9日の任務について記載があるので紹介したいと思います。

 

Waddy’s Wagonを含む合計17機の爆撃機はサイパンのIsley Fieldを午前8時22分から9時12分にかけて次々飛び立ち、攻撃目標の中島飛行機 武蔵野製作所へ24.25トンの爆弾を落としました。 爆弾投下のすぐあと、前方上の方からキ44二式戦闘機他15機に攻撃され交戦、破損を受けた仲間のA-46機 をサポートする為、後退したA-5(Waddy’s Wagon機)は(記録上では)午前9時5分に目撃されたのを最後にA-46機と共に東京湾南西沖で消息を絶ちました。この交戦でWaddy’s Wagonの乗組員全員を含む3機、33名が行方不明になったと記載されています。資料には2機は敵機からの攻撃とありましたが、1機はUnknown(不明)と記載されてあります。奇しくもキ44二式戦闘機は中島飛行機で製造された戦闘機のようです。

 


RG18 Record of the Army Air Forces. World WarII Combat Operations Report 1941-1946 497th Bomb Group Box3175 Entry NM-6-7

 

次の資料の、黒く塗られて飛行機が傾いて描かれている絵がWaddy’s Wagon機です。

 

RG18 Record of the Army Air Forces. World WarII Combat Operations Report 1941-1946 497th Bomb Group Box3175 Entry NM-6-7

 

次に4Fのマイクロフィルムで観覧できる、Missing Air Crew Report(乗組員行方不明報告書)を紹介します。左の資料は墜落翌日の10日に捜索した報告書になります。乗組員の右端にはMIA(Missing in Action:行方不明)、左側には後でペンで書き足したDEDの文字が見えます。右の資料にはベネット少尉の証言で、午後3時41分に銚子沖10マイル東でキャプテンヤングを見たのが最後だと記載されてあります。

 


RG92 Record of the office of the Quartermaster General 1774-1985 Missing Air Crew Reports(MACRS)1942-1947

 

その後も武蔵野市付近への爆撃は終戦まで十数回続き、死傷者は千数百人を超え、工場と付近の民家は廃墟と化したそうです。

 

戦争さえなければ、輝かしい未来が待っていたであろう、若きプロフットボールプレーヤーだったWaddy Youngは、自ら戦争という渦に巻き込まれ、28年の短い人生を終えました。プロフットボール選手というすばらしい才能と可能性を持ち、結婚して数年しかたっていなかった彼が、なぜ自分から志願して戦争へ従事したのかは私にはわかりません。

 

太平洋戦争では多くの犠牲者が出ました。戦争に巻き込まれた民間人、軍人の悲惨な想い、戦争で家族や友人を亡くした悲しみは想像を絶するものだったと思います。だからこそ二度と悲惨な戦争を繰り返してはいけないし、平和な世の中であってほしいと思います。(SW)