米国国立公文書館にある日本兵捕虜関係の写真

今年に入ってから、米国国立公文書館は3月1日から、再開し、アポ制度を前提としながらも現在も安定した開館を続けています。やはり実感することは、そこで原資料を閲覧することがどれほど貴重であり、素晴らしいことであるかということです。これまでの様々なプロジェクトを通じて、テキスト資料、写真資料、動画資料、マイクロ資料、空中写真資料などいろいろな媒体資料を見てきましたが、特に写真資料や動画資料は一目瞭然でわかるので、こうした資料はもっともっと多くの方々に見ていただけたらよいなと思っています。

 

今回は、この米国国立公文書館にあるたくさんの日本兵捕虜関係の写真からいくつかをご紹介したいと思います。写真のキャプションは当時の米軍が作成したものであるため、現在では不適切とされるようなことばが入っていますが、ご了承していただければと思います。

 

下記は、フィリピンのルソン島のカラバロ山周辺で投降した日本兵の写真です。たくさんの米兵達に囲まれながら、彼らから与えられた食べ物を食べています。

 


In the vicinity of Hill 506A in Caraballo Mts, Northern Luzon, P. I., a Jap soldier walked into our lines, waiving a white flag and for the first time in the campaign, a Jap voluntary surrendered. He was barely 19 years old, well dressed in a clean Jap field uniform and talked freely giving us much valuable information. He could talk a little English and one of the first question he asked was whether he would be killed. On being told that, he was very thankful and expressed his desire to help us. He said that he did not like Japanese authority. Has been in Tokyo when it was bombed. He was particularly anxious to know if it were true that Japanese troops had landed on the US. He is shown here being given something to eat. 4/16/1945. Photo No. 266317. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 485. National Archives at College Park, MD.

 

通常、こうした写真資料のキャプションは、第2次世界大戦―太平洋戦争の時代においては、そこに映っている米軍兵士の名前や彼らが何をしているかについての記述が多く、敵兵側、例えば、日本兵捕虜の写真の場合は、その捕虜についての詳細な記述というものはあまりありません。が、この写真のキャプションは、1人の日本兵が 白旗を振り、自ら投降したこと、またフィリピン戦の一環でその地域にいた米軍にとってはそうしたことは初めてであったこと、日本兵捕虜は19歳であり、彼が、米軍に最初に聞いた質問の一つは、自分は殺されるかどうかであったこと、米軍から自分は殺されないと聞かされて、彼は大変感謝をして、米軍側に協力する意志をあらわしたことなど細かな情報が記載されており、この日本兵捕虜に米軍側も強い興味を持ったことがこののキャプションからもよくわかります。もちろん、撮影日が、戦争末期の1945年4月16日となっていますので、そこにいた米軍側もかなり余裕があったということも背景にはあるかとも思います。

 


Left:Soputa, New Guinea. Japanese prisoners captured by the 163rd infantry, 41 Division, at Gona and Sanananda, New Guinea, line up against the stockade wall at Soputa Village. 1/31/1943. Photo No. 172891R. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 152. National Archives at College Park, MD.

 

Right: t. Col. Wellington, CO, Base Depot # 2 stands with Japanese prisoners captured at Lungling, Yunnanyi, China. 8/31/1944. Photo No. 247302. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 418. National Archives at College Park, MD.

 

上記の写真は、ニューギニア戦線と中国戦線で、それぞれ捕虜となった日本兵です。当時の日本兵は、敵の捕虜になることは恥であると教えられていたことはよく知られています。が、米軍を含め連合軍側と各地域で戦いながらも、やむなく敗退となり、捕虜になった場合もありましたし、戦闘を繰り返す中で、武器も食料も底をついた日本兵たちが、単独でまたは集団で投降することもありました。また戦闘を行生き延びても、食料や水がない中で、餓死をしたり、劣悪な環境の中での病気がもとで命を落とすことも多く、また自ら命を絶つ場合も少なくありませんでした。

 

そうした壮絶かつ凄惨な状況の中で、米軍に殺されるかもしれないという底知れない恐怖と不安をいただきながらも、捕虜となり、米軍の尋問を受けながらも、食料と寝る場所をとりあえず与えられ、また負傷や病気の手当などを受けた日本兵たちの安堵も想像を絶するほど大きなものであったかと思います。また捕虜になって命が助かったにも関わらず、捕虜になったという事実を受け入れることができずに、自決を試みた兵士もいました。

 


Left:Mercy is shown the enemy by this interned US Army nurse, 2nd Lt. Frankie Delhart, Texas. She was taken prisoner by the Japs on Corregidor and until her liberation has lived on scanty rations, but still renders medical aid to her former captors. Manila, Luzon Island. 2/4/1945. Photo No. 262443. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 472. National Archives at College Park, MD.

 

Right: Lt. Bachman and Maj. Royster at Seagrave Hospital Unit, give a Japanese prisoner who was captured in the Taipha, Ga., sector by the American trained Chinese troops, an injection of water and glucose after he has been without food or water for 5 days. Burma. 2/8/1944. Photo No. 187560. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 204. National Archives at College Park, MD.

 

左上の写真は、フィリピンのコレヒドール島で1942年に日本軍の捕虜となり、その後は、わずかな食料しか与えなかった過酷な境遇の中で生き延び、1945年の米軍による島の奪回作戦によってようやく解放された米軍の看護婦が、あらためて日本兵捕虜の手当をしているものです。また、右上の写真は、ビルマ(現ミャンマー)で、米軍の訓練をうけた中国軍によって捕まった日本兵が、捕まる前の5日間は、食料も水も口にすることがなかったために、衰弱し、米軍の看護を受けているものです。こうした写真の日本兵がその後回復したかどうかはわかりませんが、捕虜となったからこそ、命が助かることになり、捕虜収容所生活を経て、戦後、日本に帰還できた元日本兵も少なくなかったと思います。

 



Above Left:Major John A. Burden, right, and Nisei boys of 25th Div. Language Section, G-2, Interrogate PW5 (prisoner of war 5) in stockade at Vella Lavella. Prisoner is a sailor. 9/14/1943. Photo No. 237567. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 383. National Archives at College Park, MD.

 

Above right:At the 41st Division stockade, Dobodara, New Guinea, intelligence officers of the 41st Div. and 5th Air Force questions Japanese flight petty officer, forced down after a reconnaissance flight over Port Moresby, New Guinea. 6/30/1943. Photo No. 236852R. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 380. National Archives at College Park, MD.

 

Bottom Left:T4 Harold Tanabe, Salt Lake City, Utah, interpreter for 186th Inf. Regt. 41st Div. , questions Jap prisoners at Neefar, Dutch New guinea. 5/3/1944. Photo No. 258167. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 456. National Archives at College Park, MD.

 

Bottom Right:Two Japanese officers captured at Gona, New Guinea, were brought to Sanananda, New Guinea, to witness, the cremation of Japanese dead. They are guarded by Cpl. Robert Royt of Kamas, Utah, 163rd Infantry, 41st Division. 2/2/1943. Photo No. 172888-R. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 152. National Archives at College Park, MD.

 

捕虜になった人々は、連合軍からの尋問を受けました。上記の写真はそうした尋問風景です。米軍側の戦略上、日本兵捕虜からの情報は非常に大事なものでした。また、戦闘地域によっては、米軍側が処理しきれない、日本兵の遺体を処理することも命じされて対応したことがわかります。

 

捕虜になった人々がどのような生活をしていたかを垣間見ることができるような写真もありました。もちろん、各地域にあった捕虜収容所は、その地理的環境はもちろん、それを管轄していた部隊によっても異なりますし、また、戦闘地域で、捕虜になったあと、ハワイに移され、また米国本土の捕虜収容所を転々と移動させられた捕虜もいましたので、どのような生活をしていたかを一言で語ることは決してできません。また、中には戦争犯罪人として、現地で裁判をうけて処刑された場合もありました。

 



Above Left:Jap POWs in an internment camp near Brisbane, Q’land, Australia, smilingly gaze out of the windows of their home. 11/5/1944. Photo No. 275267.

 

Above Right:Jap POWs in an internment camp near Brisbane, Q’land, Australia, making toys for the Red Cross. 11/5/1944. Photo No. 272678.

 

Bottom Left: Jap cook and his assistant (POWs) prepare biscuits for the evening meal of POWs in interment camp near Brisbane, Q’land, Australia. 11.5/1944. Photo No. 275272.

 

Bottom Right: In front of the toy shop of an internment camp for Jap POWs near Brisbane, Q’land, Australia, two Japs posing as Geisha girls, costumes used in plays camp. 11/5/1944. Photo No. 272679. 

All 4 photos above are from . RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 517. National Archives at College Park, MD.

 

これらの写真は、オーストラリアのプリズベン近くにあった日本兵捕虜収容所の写真の1部です。

撮影されたこの1944年11月5日は、収容所内の中で娯楽時間があったようで、捕虜収容所という場所ではありますが、日本兵捕虜がとても穏やかでかつ楽し気な顔をしているのが、とても印象的でした。日常的にこうした雰囲気であったかどうかはわかりませんが、彼らの笑顔はこの撮影のためにわざわざ作った笑顔ではないようにも思えました。

 

豪日研究プロジェクト(Australia-Japan Research Project)というサイトの中には、元日本兵の方々の証言も掲載されいるのですが、その中で、山田雅美氏という方は、1943年から1944年2月までプリズベンに捕虜として収容されており、「待遇はとてもよく、捕虜である気がしませんでした。誰もが私に親切にしてくれ、クリスマスの時は、収容所の所長がビールとバーベキューチキンをご馳走してくれ、私が抱いていた捕虜のイメージは打ち砕かれました。」(カウラと日本の対話:http://ajrp.awm.gov.au/ajrp/ajrp2.nsf/trans/CEA11FE33126E3F6CA256F6C0018A5A8?openDocument )とおっしゃっておられることを知り、やはり、この収容所では、日本兵の捕虜への待遇はとてもよいものであり、上記の写真に写った日本兵捕虜の笑顔はそれを象徴しているのだと思いました。

 

日本兵捕虜に関する写真はほかにもまだたくさんあります。捕虜という言葉だけで決して括れるようなものではありませんし、当時の捕虜にはいろいろな立場もありました。戦争犯罪人として裁かれて、処刑をされた人々もいましたし、そこまではいかなくても刑罰を受けた人々もいました。また、裁判をうけたあと釈放された人々もいました。同時に、戦争中、日本軍側が捕らえた、連合軍の捕虜の存在も忘れてはならないと思います。当時は、日本国内外にも日本軍側が、連合軍の捕虜を収容した収容所がたくさんありましたが、そこではひどい待遇をうけて、拷問されたり、処刑された人々もいました。

 捕虜への待遇については、第2次世界大戦―太平洋戦争後の朝鮮戦争やベトナム戦争、そして現在のロシアによるウクライナ侵攻まで、大きな問題であり続けていると思います。なので、今後もいろいろな資料を紹介していきたいと思います。(YNM)