2024年という新たな年が始まったと思ったら、すでに3月半ばを迎えてしまいました。ワシントンDC周辺の桜も、来週にはピークになると言われています。
一方で国際情勢を見ると、ロシアのウクライナへの侵攻は丸2年を経てもいまだに続き、ロシアの反体制活動家のアレクセイ・ナワリスイ氏が北極圏の収監先で亡くなったことも衝撃的でした。また昨年10月のパレスチナのハマスがイスラエルへの大規模な攻撃を行い、それに対してのイスラエル側の報復も現在も続いています。米国に住んでいると、同じコミュニテイーに住んでいる近所の人々、また米国国立公文書館に出入りするリサーチャーの人々、また娘の大学の友人達の中には、こうした紛争国にルーツを持つ人々も少なくないし、彼らの血縁者や友人達も今もその紛争地で生活している場合もあるので、新聞やニュースで報道されている国際情勢も決して遠くの国のことではないことを日々実感させられます。
究極の暴力の中で、犠牲となるのは、兵士達だけでなく、一般の市民と子ども達であり、それは、日本がかつて体験した戦争の時代と重なります。そうしたことから、今回は、あらためて沖縄戦に巻き込まれた一般の人々に関する写真の中の、特に子ども達に関する写真をいくつか紹介したいと思いました。以下の写真のいくつかは、すでにいろいろな写真集でも紹介されてきたかと思いますが、あらためて原資料を見ると、大きなインパクトがあり、私達は今後も謙虚にあの沖縄戦について学び続けなければいけないと思いました。
Left: Little Japanese girl approaches US lines with white flag, offering to surrender. 6/25/1945. Photo No. 370936. Box 786. RG111SC, Records of Signal Corps WWII and After photograph, National Archives in College Park, MD.
Right: Lt. Milton B. Sorem, MC USNR, Det 86, attached to 77th Division, leads Japanese children found in cave near Shuri to safety behind American Line, Okinawa. 6/10/1945. Photo No. 208831. 6/10/1945. Album No. 2797. RG111SCA, Records of Signal Corps WWII and After photograph, Albums, National Archives in College Park, MD.
Left: These Jap children were found in a tomb about 50 yards from the front lines on Okinawa. 4/23/1945. Photo No. 207319. Album No. 2796.
Right: Dr. E.W. Edwards, Gulfport, Miss., treats badly shattered hand of child injured during fighting on Okinawa.6/21/1945. Photo No. 209001. Album No. 2797.
Both from RG111SCA, Records of Signal Corps WWII and After photograph, Albums, National Archives in College Park, MD.
上段の左の写真は、「白旗の少女」としてよく知られているものです。後に、この少女であっ比嘉富子氏がのちに名乗りを上げて、小説を書き、その小説はテレビドラマになったかと思います。その右の写真は、沖縄本島の上陸部隊の一つであった米陸軍第77師団の傘下にあった海軍第86設営隊員が首里城近くの洞窟で発見した子ども達を連れている写真です。また、下段の左の写真は、米軍の戦闘の前線からかなり近くの墓で発見された子ども達、その右の写真は、小さな男の子の左手が砕けてしまい、それを米軍の外科医が手当をしている様子です。これらの写真を見ても、戦闘で親兄弟他家族を亡くし、また自らも負傷し、どれほどの恐怖に直面していたかと思うと、なんとも胸が張り裂けるような思いがこみ上げてきます。
1945年3月26日に慶良間諸島に上陸した米軍は、4月1日には沖縄本島の中部の読谷村に上陸し、以後3か月以上にわたって激しい戦闘が続きました。この沖縄戦は、米軍と日本軍だけでなく、沖縄の住民のすべてを巻き込んだものとなり、この戦闘で亡くなった住民は9万4000人、沖縄出身者も含めての日本軍は9万4136人、そして米軍は1万2520人と言われています。(参照:沖縄戦、沖縄県サイトより:https://www.pref.okinawa.jp/kyoiku/kodomo/1002705/1002709.html)
Left: This small Okinawa boy stands still with a painful expression on his face as his mother washes him at the Military Government hospital for civilians at Koza. 4/15/1945. Photo No. 368365. Box 780.
Right: Many customs of the Far East are in evidence on Okinawa. A seven year old girl is shown carrying a two month old baby on her back in ancient fashion in the Village of Nodake. 5/10/1945 (Approx). Photo No. 368390. Box 780.
Both from RG111SC, Records of Signal Corps WWII and After photograph, National Archives in College Park, MD.
左上の写真は、負傷した男の子の顔を水で母親と思われる女性が洗っている様子ですが、その男の顔や痛みをなんとか我慢しているようです。右上の写真は7歳の女の子が2カ月の赤ちゃんを背中に負ぶっています。二人の女の子たちの表情は緊張した面持ちですが、カメラをしっかり見つめており、強い意志が感じられます。
Top left: Tenth Army troops having passed through the town of Shimabuku on Okinawa, this school class, taught by Mss. Chieko Shingari, is continued daily. 4/15/1945. Photo No. 368367. Box 780.
Top right: Okinawan civilians round up stray goats which will be taken to the Japanese civilian enclosure to provide milk for the internees. 4/22/1945. Photo No. 368368. Box 780.
Bottom left: Unperturbed by the changes in their affairs of state, these young Okinawans take great delight in fishing in a pond near Military Government headquarters established on their island. (N.B.:There were no bites this day.) 4/12/1945. Photo No. 368361. Box 780.
Bottom right: Two native children busy themselves at an old well in a village located at Nodake which is known as Military Government Det., B5, Naval Military Gov., Branch under Lt. Comdr. Mosman and Lt. (SG) Leland Tolman. This unit is attached to the 77th Inf. Div. 5/10/1945. Photo No. 368389. Box 780.
All photos from Both from RG111SC, Records of Signal Corps WWII and After photograph, National Archives in College Park, MD.
激しい沖縄戦が続く一方で、米軍が制圧した地域では、米軍政府の管轄のもと、沖縄の人々またや捕虜となった人々への食糧の供給、そうした供給を子ども達も手伝ったり、また子ども達のための学校も再開されていったことが上の写真からもわかります。また、米軍政府の拠点があった近くの池では、現在の取り巻く状況にも動じることなく、魚釣り(実際にはその日は魚を釣ることができなかったようですが)を楽しんだり、また古井戸で遊んだりと、子ども達の無邪気な遊び心と笑顔を垣間見ることはできる写真もありました。そうした姿には子ども達の内なる強さもあるようでした。
Top left: General shot of activity in the children's playground built by men the Allied Military Government in the civilian camp, “Camp Nodake.” 5/18/1945. Photo No. 368392. Box 780. RG111SC, Records of Signal Corps WWII and After photograph, National Archives in College Park, MD.
Top right: Okinawan school teacher holds class in a woods near Jinuza as the island schools resume activity under Military Government supervision. 6/29/1945. Photo No. 210445. Album No. 2799. RG111SCA, Records of Signal Corps WWII and After photograph, Albums, National Archives in College Park, MD.
Bottom left: Children in a classroom at Takasu school which is under the supervision of AMG officers. 7/31/1945. Photo No. 370917. Box 786. RG111SC, Records of Signal Corps WWII and After photograph, National Archives in College Park, MD.
Bottom right: Hyakuna Orphanage, Okinawa. A corner of the boys dormitory. 3/19/1949. Photo No. 319959. Box 671. RG111SC, Records of Signal Corps WWII and After photograph, National Archives in College Park, MD.
上段左の写真は、米軍政府によって作られた沖縄の子ども達の遊ぶ場であり、右は軍政府の指導のもとに野外の授業が行われていたことがわかります。また下段左の写真は、学校の教室で学習に熱心に取り組む子ども達の姿が見えます。その左の写真は、戦後から4年経った1949年の百名にあった孤児院の中の男の子たちが住んでいる部屋の様子です。カメラに向かって皆笑顔で応えています。沖縄戦で親を亡くした子ども達の悲しみは決して消えることはなかったと思いますが、一生懸命に生きていた子ども達の姿はとても逞しく思えます。
米国国立公文書館には、沖縄戦に関する写真資料は、今回少しご紹介した米軍通信部の中にもまだたくさんありますし、米海兵隊関係にもあります。また、写真資料のほかにテキスト資料や映像資料もたくさんありますので、そうした資料のすべてから全貌を追うことはとてつもなく莫大な時間がかかります。が、今後もこうした資料から真摯に学び続けていきたいと思っています。(YNM)