退役軍人の死より

米公文書館で調査を始めて、三年以上が経ちます。一枚一枚の資料に意味があり、時を経ても今なお生き続け、声を発しているように思える時があります。資料調査は大変ですが、その声を聞くことに夢中になっています。しかし、小さな発見が積み重なると、自己満足に陥り、大切な事を見失ってしまうことがあります。元米軍退役軍人であったシリル・オブライアン氏の死を通して、そのことを教えられました。退役軍人の方々の苦しみ、真の戦争の悲惨さをわかったように思っていましたが、実は全く理解していなかった自分に気づかされたのです。

This picture was downloaded from the Johns Hopkins Applied Physics Laboratory website at http://www.jhuapl.edu/newscenter/pressreleases/2011/110202_image2.asp (Image Credit: Pacific War Museum).
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2009年晩秋、米軍退役軍人であったシリル・オブライアン氏にインタビューをする機会がありました。私は米軍海兵隊第3師団の資料を読んでいたので、同じ師団にいたというオブライアン氏には大変興味を持ちました。オブライアン氏は既に奥様を亡くされ、アパート形式の老人ホームに一人で住んでおられました。

 

当時91歳で、多少耳が遠かったものの、声は溌剌としており、元気に私達を迎え、質問の一つ一つにじっくりと答えて下さりました。過去の硫黄島慰霊祭において、栗林忠道氏夫人とお会いした時のことをうれしそうに話していたオブライアン氏は大変チャーミングでした。そして、戦闘中に若い日本兵達が次々戦死していく姿を真剣に語ってくださいました。記憶は遠い昔のこととして古びてしまうことなく、今なお生き続けていることが伝わってきました。

 

2011年2月半ばには、ワシントンDC近郊で第66回目硫黄島戦の記念会があり、シンポジウムに同僚と共に参加する機会に恵まれました。これまでに戦闘の流れや歴史的背景を学び、軍事的用語も少しは理解できるようになっていた上、実際に硫黄島で戦ったたくさんの退役軍人の方々とお会いできるのはめったにない機会だと思い、私は有名人にでも会えるような高揚した気分で参加しました。一日だけのイベントでしたが、新たな情報も得ることができ、また、退役軍人の方々は、私達日本人の参加を場違いであるという態度を全く見せず、温かく迎えてくださいました。

 

数ヶ月してから、何かの折にオブライアン氏が半年前に亡くなっていたことを知りました。その時突然、オブライアン氏に申し訳ないことをしたという気持ちに襲われました。私が初めて体験する退役軍人の方の死を通じて、戦争は1945年に終わったのではなく、彼ら一人一人の人生が終わるまで続くことに気づかされたからでした。私の戦争に関する知識は多少増えたかもしれませんが、個人の経験や思いをよく理解していなかったのではないかと気づかされたのです。どんなに悲しい、苦痛な思いを持ち続けてこの方たちは、何事も無かったかのように毎日を生きていかなければならなかったのでしょうか。それなのに、私はまるで戦争をよく知っているかのように振舞っていた自分に気づき、深く反省しました。

 

今週テレビ番組で、軍人と民間人のギャップによる問題が取り上げられていました。イラク戦争に従軍した元兵士達が現在、民間人として日常生活を送る際に、従軍経験のない民間人との間にギャップを感ずること、またそのギャップによる苦しみがあることが報道されていました。未だに世界中で、戦争が各地で起こり続け、兵士として戦場で戦っている人々がいます。兵士達の精神や犠牲を省みることの少ない社会に私達は生きています。そのことを自覚して、もっと思い切って私達は元軍人の方々に耳を傾けてみるべきだと思います。きっと自分なりに何かを学ぶことがあり、何よりも戦争の悲惨さを次世代に伝えていく努力を欠いてはいけないと思うのです。(HS)

 

参考:PBS NewsHour "After Draftless Decade of War, Gap Seen Between Miltiary, Civilian." 

 

上記動画へのリンク

http://video.pbs.org/video/2149210405

 

 

調査について

日系人記念碑の入り口
日系人記念碑の入り口

私達はメリーランド州にある国立公文書館・新館を拠点とし、日々多くのテキスト、写真、フィルム資料を調査しています。膨大な資料の中から、必要なものを探し出すのは大変な作業です。だからこそ欲しい資料を見つけた時の感動は何とも言えません。普段は新館で資料に目を通すことに没頭していますが、先日ワシントンDCのダウンタウンにある国立公文書館・本館に資料を見に行く機会がありました。私達は本館で日系兵士の資料を見た後、歩いてNational Japanese American Memorial(日系アメリカ人記念碑)を訪れました。

メモリアルの中の鶴の碑
メモリアルの中の鶴の碑

記念碑は小さいけれども、緑に覆われたとても美しい場所です。アメリカに住む日本人として、戦前、戦後の日系アメリカ人や日系兵士達について学びたいという思いがありました。また、日系人に関する資料を見たり、同僚達と話題になることが多かったため、この記念碑へ足を運ぶことができたことは貴重な体験となりました。

 

私達の仕事は新館での調査に加えて、他の資料館にも足を運びます。今回のように本館に行ったり、時には米軍基地にも通います。以前のブログで紹介したTerry Shimaさんのような退役軍人の方にお話をお伺いすることもとても大切な機会です。

 

毎日公文書館へ足を運んでいて、資料調査はとても奥が深く、一つの事象を調べたら、次の事象が出てきて、永遠に終わりがないように思うことがあります。 だからこそ私は今ここでできる事を限られた時間の中で、徹底的に調査し記録し、そして少しでも資料に対する理解を深めていきたいと思います。(MJ)

 

思わぬ発見-反米扇動者

米国国立公文書館には膨大な資料が保管されていますので、よく知られている資料ではない限り、必要な資料にたどり着くことは容易なことではありません。調査は検討をつけた箱を開け、資料をみて一つ一つ確認する地道な作業になります。すぐに探していた資料があった場合は良いのですが、なかなか見つからない場合は、何十箱もの資料をひたすら見ていくことになります。プロジェクトによっては、何百もの箱を開き、確認します。たくさんの資料を見ますので、興味深いものもあれば、気持ちが沈むようなもの、感動的なもの、また今の時代から見ると不思議に思えるようなものなど様々な資料に出会います。

 

最近私が見た資料の中で印象に残っているのは、 1957(昭和32)年の選挙に出馬した一人の日本人についてです。アメリカの資料では過激な反米扇動者とされていて、経歴や選挙活動、所属する組織について詳しく書かれていました。1950年代初めから区長選や衆議院選などに何度も出馬し、日本にあるアメリカの施設の排除、在日アメリカ人、親米日本人殺害を掲げていました。Anti-American Guerrilla Corps という組織を作りましたが、その組織のメンバーとされていた人たちの多くは、自分がメンバーだということを否定していたようです。

 

その中で1957年2月にダグラス・マッカーサー二世(GHQ最高司令官マッカーサーの甥)が東京の国際空港に到着した時に、襲う計画があると報告されていたことに目を引かれました。結果的には計画だけであったのか、それとも偽情報の報告だったのか、それ以上のことは分かりません。選挙では何度も落選し、投票数も一定数を満たさなかったため供託金を没収されたようです。財源は謎に包まれていましたが、彼には十分な資金があり、考えられる一番最悪なシナリオとしては、彼が金持ちの後援者を見つけてこのような活動をしている場合のようでした。(実際のところ、ウィキペディアでは政界の大物から資金の提供を受けていたと書かれています。)

 

彼が自分の信念で出馬したのか、あるいは依頼されて、選挙妨害の為に出馬をしたのかという点についてはこの資料からは分かりませんでしたが、周囲からは真面目な候補者とは思われていなかったようです。彼の主張に同調したのか、あるいは彼と何らかの繋がりがあるからなのか、彼に投票する人は数は少からず存在しました。この時代の彼の過激な主張に驚き、そして殺人のような犯罪行為を掲げて選挙に立候補できたという事実にさらに驚き、私にとって強烈な印象を残した資料でした。(NM)

 

442連隊退役軍人・Terry Shima氏インタビュー

昨年オバマ大統領は、第442連隊戦闘団に議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名をしました。

http://www.whitehouse.gov/blog/2010/10/05/awe-inspiring-chapter-americas-history

 

442連隊は第二次世界大戦時、日系アメリカ人によって編成された連隊です。二十一もの名誉勲章を受け、米国史上最も勇敢な部隊であると言われています。

 

Terry Shima氏(写真はご本人のご承諾を得て掲載しております)
Terry Shima氏(写真はご本人のご承諾を得て掲載しております)

この度、442連隊の退役軍人であり、Japanese American Veterans Association(日系アメリカ人退役軍人協会事務局長)のTerry Shima氏に話をお伺いする機会がありました。Shima氏は、88才の今も精力的に442部隊や他の日系退役軍人の経験を伝える活動に従事しています。

 

Shima氏はハワイ出身の日系二世です。当時のハワイでは、日系人は最大のマイノリティーグループであり、学校や日常生活では差別を感じることはなかったということです。しかし日本の真珠湾攻撃で状況は変わります。しばらくの間、日系人に対し憎しみの目が向けられました。西海岸では状況がさらにひどく、日系人に対する警戒と弾圧が始まり、日系人は財産を没収され、収容所に入れられます。過酷な状況の中、米国に対する忠誠心を示すために、若い日系二世の男性達は、従軍することを決意します。日系人から編成される442連隊が作られました。

 

442連隊はヨーロッパの激しい前線地に送られます。イタリア、フランスでドイツ軍と戦いました。Shima氏は21才の時、召集され、イタリアに向かいます。442連隊では、米軍の広報活動に従事しました。多くの仲間がヨーロッパ戦線で命を落としました。

 

終戦後、1946年6月にShima氏は442連隊の一員としてアメリカに帰国します。この時、Shima氏にとって最も思い出深い出来事が待ち受けていました。ニューヨーク、ワシントンDC、ハワイにおいて、442連隊を歓迎するパレードや式典が行われ、その内容を広報として全米に伝えたのです。ワシントンDCにおいては、パレード当日雨となってしまい、トルーマン大統領の側近達が中止を申し出たそうです。しかし、大統領は絶対に式典を行うと主張し、雨に濡れながら442連隊を迎え、"You fought not only the enemy, but you fought prejudice…and you have won."(「君達は敵だけでなく、差別とも戦った。そして勝利した。」)と宣言しました。戦争当初は、日系人部隊は忠誠心の面から疑いの目を向けられていましたが、大きな犠牲を伴いながら、献身的に戦った結果、大統領からも賛辞を受けたのでした。

 

Accession number: 73-2233; “President Harry S. Truman (front row, left, in long overcoat) and other dignitaries standing in the rain, reviewing the 442nd Regimental Combat Team, the Nisei (Japanese-American) regiment,” July 15, 1946; Harry S. Truman Library, Independence MO [retrieved from Harry S. Truman Library's website at http://www.trumanlibrary.org/photographs/view.php?id=33643&rr=.] ハリー・トルーマン大統領(前列左、長いコート着用)と高官達が雨天の中起立し、日系二世で編成された442連隊戦闘団に対し閲兵を行なう。

 

戦後においても、日系人達は努力を続けました。軍の中でも昇進を受け、また議員を選出し、活躍を続けています。1988年にはレーガン大統領が、戦争中の日系人迫害について公式に政府として謝罪し、賠償金を払いました。Shima氏は、「私達は、正にアメリカンドリームの中を生きてきた」と言います。ご両親は、沖縄からさとうきび工場で働くためにハワイに移住し、戦争が起こり、迫害の中で従軍し、戦後は高等教育を受ける機会に恵まれ、今なお退役軍人としてご活躍中です。

 

Shima氏をはじめ、日系一世、二世の方々は大変な苦労をされてきました。一世は、仕事を得るため、生きるために、アメリカに渡り、厳しい労働や生活環境を耐え忍んできました。そのさなかに戦争が起こり、苦労して得た財産、仕事、家は取りあげられ、収容所生活を余儀なくされました。自分たちの故郷と、第二の故郷が戦争をしているのです。二世である息子達は兵隊になり、命を落としました。戦後も簡単に差別が無くなったわけではありません。国が謝罪するまでに、四十年を要しました。しかし、Shima氏に、政府に対する不満やまた置かれた状況を恨む言葉は一切ありませんでした。穏やかな笑顔とやさしい声で、私達若い世代に、442連隊や日系人のことを話して下さいました。Shima氏にとって、次の世代に自分達の経験を伝えていくことが使命なのだと思います。

 

Shima氏とは英語で話をし、インタビューを行いました。しかし別れ際は、お辞儀をしながら「どうも」と日本語で挨拶をして下さいました。その姿を見て、私の祖父を思い出し、懐かしい気持ちになりました。アメリカ人の寛容さと日本人の謙虚さという、両国の美点を持ち合わせるShima氏との出会いに感謝しています。米国に滞在する日本人として、もっと日系人の歴史を学んでいきたいと思います。(HK)

 

硫黄島戦の膨大な記録映像

米国国立公文書館には多くの硫黄島戦に関する映像資料が所蔵されています。1945年2月19日の硫黄島上陸数ヶ月前から、戦闘終結後の数ヶ月間にわたる期間に、米軍は多くの映像記録を残しています。

 

上陸直前の2月15日から18日までの映像を見ると、米軍が硫黄島へ向かっている船中の様子がわかります。グリッド線の入った硫黄島の地図を見ながら作戦会議を行い、双眼鏡で硫黄島方面を眺め、煙草を吸いながら会話をし、豊かな食事をしている米軍兵士達がいます。同時期の映像には、海上から攻撃をする艦砲射撃が多く残されています。米軍は、上陸前から硫黄島に猛攻撃を加えました。日本軍は艦砲射撃に対し、地下壕に潜み必死に耐えていました。硫黄島 の地下壕は、栗林中将の命令により作られ、壕は複雑に張り巡らされており、日本軍は米軍の強力な艦砲射撃と空爆を避けることが出来ました。

 

Photograph 127-N-110249; "Marines of the 5th Division inch their way up a slope on Red Beach No. 1 toward Suribachi Yama as the smoke of the battle drifts about them." Dreyfuss, Iwo Jima, February 19, 1945; Records of the U.S. Marine Corps, Record Group 127; National Archives at College Park, College Park, MD. [retrieved from Pictures of World War II at http://www.archives.gov/research/military/ww2/photos/, July 26, 2011] 「戦闘による煙の中、海兵隊第五師団が擂鉢山方面に向かって、レッドビーチNo.1を少しづつ上っていく」

 

米軍上陸日である2月19日、海兵隊兵士達は上陸用艦艇に乗り込み、硫黄島を目指します。海岸に到着後、今度は一斉に敵を目指します。皆腹ばいになり、匍匐前進で浜辺を上がっていきます。緊迫した光景を見て、撮影者も相当危険だったのではないかと思いました。

 

先日、同僚達と一緒に硫黄島の戦いを振り返るという意味でクリント・イーストウッド監督による 「硫黄島からの手紙」 “Letters from Iwo Jima”と「父親たちの星条旗」“Flags of Our Fathers” の二本の映画を鑑賞しました。これらの映画は硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いています。個人的には、日本の視点から見た「硫黄島からの手紙」に思い入れがありますが、「父親たちの星条旗」には、擂鉢山に星条旗を掲げた米兵達のその後の苦難や葛藤が描かれており、どれだけ硫黄島の戦いが壮絶なものであったのかということが伝わってきます。勝利した米兵でさえも戦後何十年にもわたり、精神的な深い傷を負ったのです。

 

以前に「硫黄島からの手紙」を見たことがあったのですが、もう一度見てみると、違う視点を持っていることに気づきました。一日に二十本近くの硫黄島に関するフィルムやビデオを公文書館で見ているので、脳裏に実際の映像が刻まれています。この二つの映画に出てくる米軍の上陸場面や海上からの艦砲射撃、硫黄島へ向かう途中の船の上でグリッド地図を使ったミーティングなど、多くの場面が映像記録と同じ様に描かれており、研究して作られた映画であることがよくわかります。

 

公文書館での貴重な映像を通して、硫黄島の戦いについて学んでいます。そして、後の世へ伝えていくことが私の使命だと信じ、日々仕事に取り組んでいます。(MJ)

 

広島原発の建設計画:アメリカによる日本の原子力平和利用への推進論

3月11日の日本大震災からはやくも四ヶ月が 過ぎようとしています。想像を絶する数の方々が亡くなり、未だに7,200人以上の行方不明の方々が存在し、さらに11万人以上の避難生活を余儀なくされている方々の不自由さと困難を思うと胸がとても痛みます。福島の原発事故の処理状況も、放出された放射能による被爆の実態も不透明な中で、日本の多くの人々の生活が脅かされているという現実に、米国に住む私自身もいてもたってもいられないという気持ちでいます。

 

日本は、広島と長崎の原爆による被爆、米国の核実験による第5福竜丸の被爆、そして核兵器ではなく、地震によって、“平和利用”であるはずの原発が福島での事故によって、またもや被爆を体験することとなりました。日本においては、今回の事故をきっかけに、原発の歴史や、原子力の平和利用とは何か、といったテーマで議論がなされ、また多くの記事や本が出版されているようですが、日本における原子力の発展とその歴史を考える上で、米国公文書館に存在する資料はきわめて重要であると思います。

 

戦後直後から原子力の平和利用の考えは日本に存在していたようですが、本格的な動きは1950年代に入ってから起こります。国連におけるアイゼンハワー米大統領の原子力の平和利用演説があり、また日本は原発技術の習得や原子炉をイギリスやアメリカから輸入することとなりました。政治家はもちろん、産業界の要人、科学者達が中心となり、原子力委員会他関係機関が作られ、また日米間、日英間でも積極的な議論が展開されるようになりました。

 

当初は日本は地震が多いので耐震構造についても議論はされていたようですが、公文書館にある資料の一部を見た限りでは安全性に対する議論が深く審議されていたかを物語るものはまだ出てきていません。むしろ最新科学技術の発展の中で輝かしい功績としての原子力、あらゆる産業と経済の発展に不可欠なすばらしい原子力の発展を進めるべきであるという声が多かったようです。また原発は、当時の日本各地で大々的に開催された様々な復興博覧会や産業貿易博覧会の中で、偉大な原子力技術としては宣伝されていた傾向が強かったという印象でした。

 

米国では、1955年に民主党議員のシドニー・イエイツやアメリカ原子力委員会長官のトーマス・マレーが、広島に原子炉を建設すべきであると米国議会で主張しました。原子力爆弾で被爆し惨禍を蒙った広島において、平和利用という名であっても、中身は同じである原子力を使うという発想に私は衝撃を覚えました。議会記録を読んでみると、広島と長崎に続き、米国の核実験で不幸にも被爆してしまった第5福竜丸事件にも触れながら、同時にソ連との冷戦体制と核兵器競争の中で、軍事大国化し、好戦的なイメージの米国ではなく、もっと平和に貢献する国のイメージを強調すべきであるといったことが述べられていました。広島と長崎の原爆体験の記憶がまだ新しい中、広島に平和的利用としての原子炉を建設することは、そこに救世主が舞い降りるという姿と重なり、キリスト教的なジェスチャーとなると主張していました。これは極めてアメリカの勝手な理屈であると思いますが、その発想が私にはあまりにも突飛であり、理解することができませんでした。

 

この主張は当時のアイゼンハワー大統領には受け入れられることはありませんでしたが、当時のアメリカ国内ではかなり議論にはなったようでした。また、原子力の平和利用といっても、その原発で作られたプルトニウムから核兵器の製造の可能性を匂わすような資料もありました。1950年代の原子力をめぐる日米関係が現在にも影響していると思われるが故に、日本の原発問題を考えていくためには、1950年代の米国資料は鍵であり、きわめて重要であると思います。 (YN)

 

残留兵

米国公文書館を訪れる日本人研究者の間では、国務省の資料が最もよく見られているそうです。今まで私達は、主に軍事関係の資料を調査してきましたが、最近は非軍事関係の資料もよく見ています。私が先日見たのは国務省の資料で、1955年から1959年までに、東京の米国大使館が米国国務省に宛てた文書でした。選挙、政治、外交に関するものなど日本の状況が簡潔に述べられ、その当時の日本の様子を垣間見ることができます。

 

1955年の資料の中に"Ex-Japanese Army Holdout in South pacific"というタイトルのものがありました。Japanese Holdoutとは、残留日本兵のことを意味します。資料の内容は、ペリリュー島で旧日本陸軍残留兵(韓国籍の徴兵労働者)が1955年5月に捕まったというものでした。グアム島で尋問された後、日本政府に引き渡されたようです。

 

また1954年12月にホーランディアで四人が投降し、翌年日本へ戻ったことが書かれていた資料もありました。残留日本兵については横井庄一氏、小野田寛郎氏や、その他にも現地に残った人たちがいたことは 知っていましたが、戦争が終わって十年近い歳月が過ぎているのに潜伏、戦いをしている人たちが何人もいたことに資料を読んでみて今さらながら驚きました。彼らにとってこの十年間はどのようなものであったのでしょうか。何を考え、何を思い、日々を過ごしていたのでしょうか。彼らが戦後から見つかるまでのこの十年間どのような生活を送っていたのか、という点については記載されていません。生きていくことに必死だったかもしれませんが、遠く祖国を離れ、孤独とやるせない気持ちがあったのではないかと思います。(NM)

 

米国公文書館イベント:映画 "Freedom Riders"

ワシントンDCに住んでいることの特権は、政府機関、スミソニアン博物館、諸々の非営利研究団体主催のイベントに無料で参加できることです。私達が調査を行っている米国公文書館においても、政治家を招いての講演会、アメリカ人に人気の家系調査(Genealogy)の講習、特別写真展示などほぼ毎日何かのイベントが行われています。下記のウェブサイトに、イベントの情報が載っています。http://www.archives.gov/calendar/

 

先日、"Freedom Riders"(フリーダム・ライダーズ)という、ドキュメンタリー映画の上映会がありました。1961年当時のアメリカでは、すでにバスの中やバス停、レストランでは、人種別の場所を設けることは禁止されていましたが、南部では徹底されていませんでした。それぞれ黒人と白人の数人から成る2つのグループが、この状況を変えたいと願い、バスに一緒に乗り、ワシントンDCからルイジアナ州ニューオリーンズを目指して旅をしました。彼らは、「フリーダム・ライダーズ」と呼ばれました。バスの座席では、違う人種が隣同士に座り、白人専用の待合室を、黒人が一緒に使いました。すさまじい人種差別の中で、暴力が振るわれることは予測できましたが、非暴力で闘うことを決意していました。

 

This photograph was downloaded from the National Archives website at http://www.archives.gov/global-pages/larger-image.html?i=/dc-metro/events/images/2011/may/freedom-riders-l.jpg&c=/dc-metro/events/images/2011/may/freedom-riders.caption.html, May 14, 2011.

 

途中までは大きな問題は起こらなかったのですが、深南部のアラバマ州に入り状況は変わります。暴徒と化した白人達が、バスを取り囲み、タイヤをパンクさせ、窓ガラスに物を投げ入れ、火を付けます。たまらず、煙から逃れて外にでてきたフリーダム・ライダーズ達に対し、暴力が振るわれます。本来は市民を守るはずの警察のトップすらも、狂信的な人種差別主義者であり、彼らを守ろうとはしてくれません。

 

結果的には、二つのグループとも、目的地ニューオリーンズまで行くことは出来ず、計画をあきらめることになりました。しかし、この運動に共鳴したテネシー州の学生達が、大学卒業を棒に振ってまで、フリーダム・ライダーズの一員としてニューオリーンズまでバスに乗ることにしました。

 

またもやアラバマでは大変な暴力を受けます。特にフリーダム・ライダーズの白人は、裏切り者として、最も酷い暴力の対象となりました。暴力をふるったり、暴言をはくのは、白人男性だけでなく、赤ちゃんを抱っこした白人の女性までいました。

 

フリーダム・ライダーズの運動は、当時外交政策が最重要課題であり、また南部を刺激したくないケネディ政権すらも動かします。ロバート・ケネディ司法長官が、州の介入に消極的だったアラバマ知事を説得し、フリーダム・ライダーズは、無事にアラバマをバスで通り過ぎることができました。

 

しかし隣の州ミシシッピーに入り、フリーダム・ライダーズは白人専用の場所から移ることを拒否したために、警察に逮捕されてしまいます。牢獄に入れられた彼らは、歌を歌い、抵抗を示します。やがて、彼らの運動に共鳴したさらなる人々が、全米からミシシッピー州のジャクソンを目指しやって来て、同じように逮捕されていき、牢獄がいっぱいになってしまいます。様々な人種、宗教、出身地の人々がいました。フリーダム・ライダーズは、無名の人々の小さな運動から始まりましたが、1964年の公民権法制定、すなわち人種差別の撤廃へとつながって行くのです。

 

上映会では、監督と共に、五十年前にフリーダム・ライダーズの一員として運動に参加した四人の方々が紹介されました。満員の客席から、大きな拍手とスタンディングオベーションで迎えられました。

 

最近のワシントンポストの記事によると、人種差別は法としては撤廃されたものの、1970年代頃から、人種による分離は広がっているとのことです。また、一人の元フリーダム・ライダーは、五十年前に命懸けで闘った運動を、今の若い世代が理解しようとせず、また彼らが積極的に、差別の問題について関わりあおうとはしないことへの不安を証言していました。

 

人種差別問題は根が深く、解決は難しく思えます。しかし、今回のイベントを通して、正義のために戦った人々から勇気をもらいました。過去から学んでいくことの大切さを実感した一日となりました。(HK)

 

無我の無我

太平洋戦争中に、米軍が捕獲した日本軍の関係資料の原本は、諜報部門で翻訳された後に、破棄または処理されて現存していないものが多いようです。しかしながら、それらの資料の原本のいくつかは米国公文書館にそのまま保存され、今でも目にすることができます。

 

ブーゲンビルで米軍が捕獲した日本軍関係資料の中には、呉鎮守府配属の海軍二等兵が残した1942年(昭和17年)の日記があり、この日記の中には、出撃を前にした若き海軍兵士の覚悟と真摯な思いを綴った“海軍々人ノ遺書“なるものがありました。その中には、自分が出撃する船に日本の運命と乗組員全員の運命をかけており、この船とともに運命をともにするからこそ、遺書なるものはいらないということから始まり、出撃を前に許可された三日間の休暇で父母と一緒に過ごした時のこと、またその三日間の間に自分が見聞きしたことを記されていました。

 

彼は冗談交じりに自分の亡き後のことを口にしたら、母から縁起でもないと一笑された、とさりげなくその会話を綴っていました。そこには、出撃については面と向かって言えない(許されない)、彼の両親を思う気持ちと、一方では出撃についてはすでに感づいていないわけではなかったが、それでも必ずまた息子と再会できると信じたい父母の気持ちが存在し、互いを思い合い、細やかな心遣いをする家族の間ならではの微妙なやりとりがあったのだろうと私には思えてなりませんでした。

 

彼はまた、近所では多くの男子が戦地に赴き、銃後を守るのは老人、女性、子どものみであり、彼らもまた物価高騰や困窮に直面し、大変な状況であるにも関わらず、戦地の“兵隊さんのことを思えば”と置かれた状況に必死に耐えている社会情勢にも言及していました。この銃後の情勢を垣間見た彼は、そうした情勢を知るものは“誰しもの胸中は無我の無我であろう”とし、だからこそ、遺書も遺言も必要なく、あとは“百発百中、砲弾の威力を百戦錬磨を胸に最大に威力を発揮することができるのである”という言葉で最後を結んだのでした。

 

“無我の無我”という言葉は当時の戦地に赴いた人々に、また銃後を守る立場にいた人々にも共通していたことばであり、当時の時代の精神とも言うべきものであったと思います。戦争を知らない、そして物質的にあまりに豊かな現代に生きる私達にはその言葉とその精神を理解することは決して容易ではありません。しかしながら、その時代の人々の多くの犠牲の上に私達が生きている現代があるという事実を忘れてはいけないと真摯に考えます。

 

一人一人の兵士は誰かの父であり、夫であり、息子であり、孫であり、兄であり、弟であり、叔父であり、時代が異なれば誰もがもっともっと異なった生き方を選択することができたと思います。こうした人々がどのような思いで、戦地に赴き、どのように戦い、どのように戦死したのかということを学んでいく努力を惜しんではいけないのだと信じています。また、他の様々な形で戦場に行かざるを得なかった人々、戦闘に巻き込まれた沖縄の人々、また日本軍の占領と戦闘によって犠牲になったアジア諸国の人々、日本の国内で空襲と原爆で犠牲になった人々も含めて、それぞれの立場で必死に生きていた人々と生きたくても生きることができなかった人々についても同様に、学び続ける努力をしていかなければならないと思います。こうした真摯な取り組みなくしては戦争と平和を語ることはできないと思いますし、また真の平和を築いていくことはできないと思います。(YN)

 

硫黄島米国退役軍人リユニオン&シンポジウム

シンポジウムでいただいたピン
シンポジウムでいただいたピン

第 66回硫黄島米国退役軍人リユニオン(記念会)&シンポジウムが、2011年2月17日から21日までバージニア州アーリントンで開催されました。私たちニチマイスタッフ三名はシンポジウムに参加させて頂きました。硫黄島米軍退役軍人や家族及び遺族、歴史家など合わせて120名ほどの方々が出席されていました。硫黄島の調査を始めてから二年経ったものの、今までに硫黄島退役軍人の方には一人しかお会いしたことがなかったのですが、今回たくさんの退役軍人の方々から直接お話を聞かせていただける貴重な機会を得ることができました。

 

シンポジウムの行なわれた2月19日は硫黄島の戦いが始まった日であり、硫黄島関係者にとって特別な意味をもつ日でした。硫黄島の戦いでは、米軍側も多くの負傷者を出しており、死者6,800人以上、負傷者19,000人以上となっています。

 

米軍退役軍人の方々は、私達日本人参加者をどのように思うのだろうかと不安を抱えながらの参加でしたが、意外にも「こんにちは」などと知っている日本語で挨拶をしてくれたり、気さくにお話をして下さる方々が多かったことは嬉しいことでした。シンポジウムにおいては、硫黄島上陸前の攻撃、硫黄島の日本軍の防御、米軍の上陸線の概要、現在の海兵隊を取り巻く情勢、退役軍人の戦争体験とその後についてのプレゼンテーションがあり、最後に四人の退役軍人によるパネルディスカッションがありました。

 

一番胸をうたれたのは、陸軍航空軍に所属し、硫黄島空爆に関わった退役軍人の方のお話でした。彼の息子さんは日本で仕事をし、日本人女性と結婚をしています。初めて息子さんの結婚の意志を聞いた時、憎き敵だった日本人を家族に迎えるのは許しがたいものであったようです。しかし日本を訪れ、日本という国を知り、また、元日本兵だったその女性の父親と数時間にわたり戦闘体験を語り合い、理解しあう中で、考え方が変わり、結婚を許したとのことです。戦後長い間、二度と日本へなんて行きたくないと思っていたそうですが、今では何回も日本を訪れ、日本とアメリカの平和を強く望んでいます。

 

退役軍人一人ひとりの体験は違いますし、戦争の捉らえ方も違います。その方々から実際の戦地での体験記やその後のお話を聞くことは、硫黄島の戦いを理解するうえで大切なことです。ともすれば、紙に書かれていることだけの理解、知識になってしまいがちですが、今回のシンポジウムを通じて、初めて知ったことも多く勉強になりました。今後、いろいろな角度からもっと深く学んでいく必要性を感じました。(NM)

 

米海兵隊公文書館における調査

私達は普段調査をしている国立公文書館を離れ、バージニア州クアンティコにある海兵隊基地に行きました。ワシントン中心部から車で45分ほど南に下り、高速道路を降りると、硫黄島戦で有名な、星条旗を掲げる海兵隊員の小さな銅像が建っています。広々とした敷地内には、海兵隊の博物館や、海兵隊の大学があります。

 

NWDNS-80-G-413988; ARC Identifier: 520748; Photograph of Flag Raising on Iwo Jima, 02/23/1945; General Photographic File of the Department of Navy, 1943 - 1958; General Records of the Department of the Navy, Record Group 80; National Archives at College Park, College Park, MD. [retrieved from the National Archives website at http://www.archives.gov/historical-docs/todays-doc/index.html?dod-date=223 , May 24, 2011]


今回は、海兵隊公文書館において、硫黄島の戦いの資料を見せて頂く貴重な機会を得ました。海兵隊、海軍の公式書類、硫黄島及び小笠原諸島の地図類、またたくさんの太平洋戦争の記録写真を見せて頂きました。

 

This photograph was downloaded from the General Alfred M. Gray Marine Corps Research Center website at http://www.marines.mil/unit/tecom/mcu/grc.


国立公文書館において米軍作成の地図は目にしていますが、今回初めて日本軍が作成した手書きの地図を見ました。擂鉢山の壕から出てきた地図だと説明書きにありました。当時のアジア太平洋地域における、父島を中心とした各重要地点までの距離が、地図上に示されていました。筆で書かれており、それぞれの国や場所は絵の具により色が分けられています。その色は、六十年以上たった今も、鮮やかです。地図の裏側を見ると、当時の業務日誌を貼りつけて、地図を補強していることがわかりました。誰が、どのような思いで、この地図を作り、擂鉢山の壕の中で使用していたのだろうかと思いをめぐらせました。当時の敵国であるこのアメリカにおいて、六十年以上前の日本軍作成の地図が大切に保管されており、現物を見ることができたのは感慨深いものでした。

 

写真資料も、国立公文書館では見たことのないものがありました。食料不足で苦しんでいた日本とは違って、米軍は上官の誕生日のために、大きなバースディケーキを用意するほどの余裕が伺えました。また、戦闘中でも、米軍の医療設備が整っている様子がわかりました。(HK)

 

 

リーフレットを用いた心理作戦

第二次大戦中、米軍は日本兵の投降を促し、戦争終結を促すために、空中からリーフレットをばら撒きました。これは日本軍に対する心理作戦でした。米軍は、一枚のリーフレットを作るために、日本人の性格分析や日本文化を徹底的に研究し、様々なリーフレットを作成しました。食糧事情の悪い日本人に対して、寿司のような豪華な食べ物の写真を載せたり、家族が恋しくないか、というような言葉で、戦場の兵士が、日本の家族や故郷を懐かしく思うように仕向けています。リーフレットは米国公文書館に残されています。

 

“To bring about Surrender of Japanese Troops”; 915-150 Psychological Warfare; Records of the Office of the Chief of Naval Operations, Record Group 38; National Archives at College Park, College Park, MD.

 

2011 年3月11日に東北地方太平洋沖地震が起きました。現在は海外に住んでおりますが、故郷の日本のことを思うと、悲しく、辛い出来事でした。あまり知られてはいませんが、戦時中の1944年12月7日に、紀伊半島東部の熊野灘及び三重県尾鷲市を中心とし、マグニチュード8.0を記録した巨大地震である東南海地震が起きました。

 

死者、行方不明者は1,233名となっていますが、当時の日本軍部の情報統制により情報が改竄され、また多くの一次的記録も消滅・散逸していることなどから、被害の全体が把握しにくく、今だこの地震の繊細はつかめていません。12月8日の各紙の一面トップは、いずれも天皇の大きな肖像写真および戦意高揚の文章で占められており、地震の被害の記事に関しては、紙面の最下部のほうに数行程度であり、日本軍部は敵国に地震の被害状況を知られることを恐れていたのです。(Wikipediaを参照)

 

しかしアメリカやオーストラリアなどの敵国はすでにこの震災による日本の被害状況を把握して いて、日本の真珠湾攻撃からちょうど三年目の出来事だっただけに、米軍は、この東南海地震の発生は日本への天罰だとし、そのことを描いたリーフレットや、下書きスケッチが幾つかありました。竜は、天罰の象徴として描かれています。アメリカはあらゆる機会を利用したリーフレットを通して、日本人に厭戦気分を与えようとしていたのだと思います。(MJ)