Waddy Youngの生涯

今回は、戦争で短い生涯を終えた1人のアメリカ青年について、カレッジパークにある米国公文書館に保存してある写真、資料を通して紹介したいと思います。

 

彼の名前はWalter R. ”Waddy” Young(ウォルター ワディ ヤング)通称ワディといいます。1916年9月4日にオクラホマで生まれたワディはオクラホマ大学時代にオールアメリカンフットボール選手に選ばれるほど、才能あるとても優秀な選手だったようです。その後1939年にNFLブルックリンドジャースの選手となったワディですが、プロフットボール選手になって2年目にArmy Air Forceに志願します。パイロットになったワディは爆撃機B-24のヨーロッパ任務に従事し、数年後大型爆撃機B-29プログラムに志願しサイパン島へ配属されます。

 

1944年6月以降、マリアナ諸島を制圧、占拠したアメリカ軍はグアム、テニアン、サイパンの各島に飛行場を建設し、同年11月からマリアナを拠点に日本本土空襲を始めます。この空襲任務にワディはWaddy’s  Wagon(B-29 A-5)機のキャプテンとして従事することになります。

 

5Fの写真資料室で見つけた、1944年11月にサイパンで撮影された”ワディ”ヤングの写真です。

 

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A級戦犯・大島浩(元駐独日本大使)の真相を求めて

米国大統領選挙が衝撃の結末を迎え世界中が共振している最中、早くも米国では新政権の大統領補佐官や各省庁の閣僚クラスの人事に対して関心がにわかに高まっている。米国では大統領が変わると政府機関人事の入れ替えが行われ、メディアの注目の的となる。

 

米国大統領の政権交代によって世界各地においては、各国におかれた米国大使館や領事館でも人事異動も行われる。現在の駐日米国大使は、JFKことケネディ大統領の実娘であるキャロライン・ブーヴィエ・ケネディ氏が務めていることはよく知られている。様々な面から注目を集める新大統領によって選ばれる新大使は一体誰になるのであろうか。近日中には公表されるものと思われるが、どのような方が選ばれるのか楽しみに待ちたい。

 

今月のブログは、第二次世界大戦中に日本の同盟国であったドイツに駐在し、ヒトラーとも親しかった日本国大使の大島浩(1886-1976)を取り上げ、彼が辿った数奇な運命の一部を、米国公文書館の史料を手立てにして紹介していく。

 

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沖縄に戻った文化財

1945年の3月の終わり頃から始まった沖縄戦で、沖縄には甚大な被害がもたらされました。その後もアメリカの占領下となり、人々は古くから受け継いできた土地を奪われ、軍の施設での低賃金労働や危険な仕事に従事させられてきました。

しかし、このような占領下にあって「沖縄の文化財の返還」に尽くしたアメリカ兵もいました。今回はその人を紹介したいと思います。

 

彼の名前はウィリアム・T・デービスといいます。1948年(昭和23年)より陸軍広報官として沖縄に赴任しました。赴任中のデービス氏は学校で英語を教えたり、沖縄のボーイスカウト創立に関わったりしました。彼の行為に周囲の人々は親しみを抱いていきました。

1951年11月に任期を終えて米国に帰る時、北谷村桃原(とうばる、原本にはTobaruと記載。)の人々から沖縄三味線を餞別としてもらいました。

 

米国に戻ったデービス氏はその三味線を以前から懇意にしていたTVスターでウクレレ収集家のゴッドフリー氏に見せました。また、ゴッドフリー氏は誰かそれを演奏できる人がいないかということをデービス氏に尋ねていました。デービス氏は3カ月間必死で探し、日系二世でシカゴ在住の吉里弘氏に出会いました。そして吉里氏から戦争で奪われた沖縄の文化財のことを聞きました。

 

これをきっかけにデービス氏は米国に持ち帰られた沖縄の文化財を探し、それを沖縄に返すことを決意しました。この時の彼の決意を示す文書が公文書館にありました。

下の文書です。

 

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米国国立公文書館にある小野寺信に関する資料

今年の夏で日本は戦後71年を迎えました。戦争特集の新聞記事やテレビ番組は以前と比べると少なくなったような印象がありますが、それでも意識してそうしたものを読んだり、見たりしなければと思っています。先日、NHKで戦争当時スウェーデンのストックホルムに駐在していた、日本陸軍武官の小野寺信及び百合子夫妻の物語についてのドラマが放映されていたかと思いますが、小野寺信と聞いて思い出したことがありました。そこで、今回は、カレッジパークの米国公文書館にある小野寺信に関する資料をご紹介したいと思います。

 

 下記の写真は、1943年のものであり、彼は1941年1月にはすでにストックホルムに着任していたかと思いますので、ドイツまたはヨーロッパのドイツ支配になっていた地域で撮影されたものかと思います。

 

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1972年日本語印刷物

今回は米国国立公文書館の2階のテキスト資料の中から1972年の米軍による日本語印刷物をご紹介したいと思います。

 

これは在日米軍従業員のための雑誌「交流」の1972年6月号です。

 

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昭和天皇のご訪米

今から41年前の1975年、昭和天皇と香淳皇后が公務としてはじめてアメリカを訪れました。終戦30年後の出来事です。当時のアメリカ大統領はフォード元大統領で、その時の資料はミシガン州にあるジェラルドRフォード大統領図書館に所蔵されていますが、資料の一部は米国国立公文書館でも閲覧することができます。

 

昭和天皇と皇后両陛下ご訪米は2週間もの長旅で、この間全米各地をご覧になられたようです。ワシントンDCを訪れた際でのパーティでは、約250~300もの日本人報道関係者が取材にきたそうで、その様子はライブ中継で日本でも放送されるほど、当時の日本にとっては大きなイベントだったようです。そして迎える側のアメリカでもかなりの準備が成されたことが資料からうかがい知ることができます。

 

資料の中にこんな文章がありました。「日本天皇の役割は純粋に儀礼的である。しかし戦前の天皇の存在は、半神半人として国家の主権を具体的に示すと考えられ、すべての政治的な権限は天皇の名において決定されていた。戦後それらの権限が剥奪された後もなお天皇の地位は守られたことに、昭和天皇と日本国民は感謝するとともに少し驚きもあったことだろう。」

 

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占領下の接収建物

日本の占領期、国内の主要な建物や個人邸宅は進駐軍によって接収され使用されていました。ここ米国国立公文書館 (National Archives and Records Administration) 5階に保管されている写真資料の中でもそれらの建物の写真を見ることが出来ます。その中でも、新古典主義的と言われるデザインや西洋建築デザインのビルディング、また洋館と呼ばれるモダンな邸宅など、当時の日本建築様式が垣間見られる建物が印象に残りました。今回はその一部をご紹介したいと思います。

 

第一生命館は、連合軍最高司令官総司令部(GHQ) 本部となっていた事で有名で、司令官のダグラス・マッカーサーと共に撮影された写真も見ることが出来ます。その設計を調べてみると1932年に設計図案を一般公募した後に建築家によって実施設計されており、外観はギリシャ風の円柱が立案されたものの、結局角柱が立ち並ぶものとなったとされています。もし、円柱の建物になっていたら皇居周辺の景観も随分変わっていた事でしょう。

 

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U.S Military’s Uniforms ~ユニフォームが出来上がるまで~

世界中のあらゆる分野で使用されている制服には色々な意味が込められています。例えば会社で使用する制服は、その会社やお店のコンセプトに合ったスタイルを選んだり、ロゴを刺繍したりします。学生服であればその学校の象徴であるカラーを取り入れる学校も多くあるかと思います。制服を着用するという事は、学校でも会社でもその組織に所属しているという事が一目瞭然で外部の人達に分かるという意味でとても大切であり、特に小さい頃から制服を着用する習慣のある日本人にはとてもなじみのあるものなのではないでしょうか。

 

制服といえば軍服もその一種で、アメリカ軍は大きく分けて4つのブランチ(Army, Navy, Air Force, Marine Corps)に別れており、各ブランチ事に着用されている軍服は異なります。彼らが着用する軍服とは正装服だけではなく、カモフラージュ柄の迷彩服やトレーニング時に着用するものなどいくつかのものを様々な状況に応じて使い分けています。軍服に関連するブログを書きたいと思い、アメリカ軍のユニフォーム事情についてナショナルアーカイブスでいくつかの資料を閲覧しました。今回Armyの軍服が出来上がるまでの過程が分かる資料が出てきましたので紹介したいと思います。

 

「Army Field Forces」は主に各地のキャンプ地の気候やその地の特性に合わせて制服を定めていく任務を担っている部署です。彼らが認定するのは単に制服だけに限っておらずヘルメット、ブーツや手袋などもEquipmentとして丹念に認定していきます。彼らが最終的に制服を認定するまでには、5段階のテストと会議が重ねられて慎重に制服の選定・認定を行っていきます。寒い気候の地や雪が多い地で着用するものには兵士が外で凍えて任務を正確に果たせないような事が起こらないように、またジャングル地帯や暑い気候の地域で任務を行う兵士たちには、彼らが暑さでバテテしまう事がないようになど、色々な想定を考えた上で1段階目のテスト「Early Test」を始めます。このテストを行うのは特定の部隊ではなく、テストの気候条件に合ったCamp地の部隊に「Army Field Forces

からランダムに申請され行われます。ここで着用した制服に問題がないという結果であっても二段階目の「Service Test」が行われた上で「Final Report」が作成されます。

 

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戦後の消防

米国国立公文書館Ⅱカレッジパークの2階に保管されている文書の中に米国戦略爆撃調査団(The United States Strategic Bombing Survey)関係文書があります。

 

この米国戦略爆撃調査団というのはウィキィぺディアによるとヨーロッパ戦線における戦略爆撃の効果や影響について調査、分析し軍事力設備に役立てる事を目的とした陸海軍合同機関とあります。1945年8月の日本の降伏後には太平洋戦域での調査が追加され1945年9月から12月にわたり長崎、広島、東京、大阪、神戸などで調査が実施されたようです。長崎と広島で原爆投下後に実施された現地調査を元に書かれた報告書はご存知の方も多いのではないかと思います。

 

今回は東京地区のField Report Covering Air Raid Protection and Allied Subjects, Tokyo Japan(東京地区の空襲保護と連合軍科目を対象とした現地報告書)の中の消防活動について幾つか紹介したいと思います。

 

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米国国立公文書館で見つけた3D立体写真

米国国立公文書館所蔵のテキスト資料の中には、色々な形態の参考資料が含まれていることがあります。写真や地図資料はよくあるのですが、「米国戦略爆撃調査団」資料の中に3D写真(立体写真)とそれを見る3D用のメガネが含まれていました。

とても珍しいことです。

 

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1920年代の米国は日本をどのようにみていたのか

今年は1776年のアメリカ合衆国(以下米国)建国から240年目にあたります。米国と日本との関わりを考えれば、1853年のペリー来航以前にも例えば1837年のモリソン号事件を含め、両国の接触はいろいろありましたが、正式には 日米の外交の始まりは、1854年に締結された日米和親条約までさかのぼります。その後は1858年の日米修好通商条約締結、その条約の批准のための1860年(万延元年)の遣米使節がありました。

 

その後、近代化を迎えた日本は米国とはどのような関係を保ち、またどのような形でそれが崩れて太平洋戦争に突入してしまったのでしょうか。また当時の米国は、日本をどのようにみていたのでしょうか。こうした質問に答えるための資料も米国公文書館には膨大にあります。

 

今回は、1920年代の国務省の資料及びその他の関連資料をご紹介したいと思います。1910年から1929年の国務省の資料の中に、非常に興味深い資料がありました。1921年9月21日付けの冊子で、Paul Page Whitham とCapt. W. I. Eisler という2人の人物によって書かれた、 ”American Commercial Interests and the Pacific Conference” というものでした。この資料にはこれらの人物の詳細はまったく書かれていませんでしたが、Paul Page Whithamという人物は、1918年に“US Department of Commerce Bureau of Foreign and Domestic Commerce Preliminary Report on Shanghai Port Development “(Preliminary Report on Shanghai Port Development / by Paul Page Whitham from Hathi Trust Digital Library: http://catalog.hathitrust.org/Record/002707044)というレポートを書いていたことがわかりました。その時の肩書は、顧問技師兼貿易官(Consulting Engineer Trade Commissioner)となっており、米国の商業省の役人で上海にいたことがわかりました。おそらくもう一人のCapt. W. I. Eislerは米海軍の幹部であり、彼もまた上海にいた人物であったかと思われます。

 

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江戸幕末資料

1853年、浦賀沖に日本への開国を求めるアメリカ大統領の国書とともにペリーが来航し、翌年日米和親条約が結ばれます。そして、ハリスが下田にアメリカ総領事として着任し、日米修好通商条約が結ばれることになります。江戸幕末期は外交的にも国内政治、そして日本経済も他国の影響を受け、激しく変化をした時代だったのではないかと思います。今回は米国公文書館のオンラインで見ることができる、そんな江戸幕末期の外交資料をご紹介したいと思います。

 

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