手紙での交流を重ねたゴードン・W・プランゲ教授と淵田美津雄

メリーランド大学のホーンベイク図書館にはゴードン・W・プランゲ教授の個人資料が所蔵されています。プランゲ教授の資料調査を通じて、プランゲ教授が人との交流をいかに大事にし、真珠湾攻撃に対して大きな興味を持っていたかということがわかります。彼は真珠湾攻撃に関する本を何冊も出していますが、そのためにアメリカと日本のそれぞれの関係者である多くの元軍人や民間人へのインタビューや、何通もの手紙の交換、また時には相手の元にまで出向いて面会し情報を収集していたことがわかります。

 

(淵田美津雄 wikipediaより)

 

その資料の中で私にとって一番印象に残った人物は淵田美津雄でした。彼は、真珠湾攻撃の際、ハワイ攻撃隊の中の第一次攻撃隊の指揮官として実際に真珠湾攻撃の際「トラ・トラ・トラ」の奇襲成功を報じた人物ですが、彼は戦後、クリスチャンの道へと進み、キリスト教伝道者となっています。アメリカの教会やあらゆる施設にも何度も足を運び講演をしていました。

 

プランゲ教授とのたくさんの手紙のやりとりの中で、たわいもない会話の途中、ふいに真珠湾攻撃の内容を書いている手紙もありました。

「静まり返っていた真珠湾を一番に確認し、奇襲確実と一番に判断したのも自分だった。トラ・トラ・トラの言葉で攻撃が始まった。どんなに悔やんでもあの時には戻れない。」

という内容の手紙をインタビューとしてではなく、個人的なプランゲ教授との手紙のやりとりの中で伝えていました。

 

おそらく、プランゲ教授も淵田美津雄にどのように伝えればよいのか悩んだのではないでしょうか。

 

その他にも、2人はお互いの家族のことも気にかけており、時折手紙にその内容が書かれていました。それらの手紙から2人はビジネスパートナーとしてだけではなくプライベートでも手紙のやりとりをし、とても厚い信頼関係を築いていたのだと思いました。

 

しかし、一方で、淵田美津雄はキリスト教伝道者となったことで、日本の元海軍関係者やアメリカ人からの批判を受け、また時には軍人時代の影響も生じているからなのか心的外傷後ストレス障害(Posttraumatic stress disorder:PTSD)といった精神的な影響もあったと思われ、これについてはプランゲ教授とのインタビューの中で言及している箇所がありました。

 

私が調査した資料はほとんどがすでにタイプされたもので、原本ではありませんでしたが、中には直筆の原本もありとても貴重な資料だと感じました。やはり、どんな形であれ記録を残すということはとても大切なことだと思いました。(M・J)