沖縄戦下の住民による「軍作業」

第二次世界大戦末期の沖縄戦では、「軍民共生共死」のスローガンのもと、沖縄の住民も命がけで日本軍をサポートすることを要求され、集団自決などの悲劇も数多く起きました。一方で、様々な状況で米軍の民間人捕虜となり、生き残った住民達も大勢いました。


アメリカ国立公文書館には、当時の沖縄の民間人管理に関する米軍の記録資料が収められています。例えば、Record Group 494 ”History of Military Government Operation on Okinawa”という資料によると、1945年4月30日の時点で126,876人の沖縄住民がアメリカ軍政府の収容下にあり、その数は5月31日には147,829人、6月30日には258,588人と増えていることがわかります。住民達は最低限の衣食住と医療を与えられていましたが、さらに就労可能な人達については、アメリカ軍政府の活動を助ける「軍作業(ミリタリー・アクティビティ)」に従事することで、食糧などの加配を報酬として受けていたそうです。今回は、このような民間人収容所で暮らす住民達の軍作業の様子について、いくつか写真をご紹介したいと思います。


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68年前の観光都市別府、キャンプ・チッカマウガ

私の出身地大分県の誇る観光名所、別府温泉郷。活火山の鶴見岳と硫黄山の麓に広がる別府市街地には2千箇所以上もの温泉源が存在します。足湯など小さなものを含めると数百もの温泉があり、地元の人をはじめ多くの観光客を癒してくれます。


そんな自然豊かな別府の街に68年前アメリカ軍のキャンプ地が存在しました。187th Airborne Regimental Combat Team(通称:Rakkasans)によるCamp Chickamaug(キャンプ・チッカマウガ)での駐屯生活は、戦後1946年から1956年の10年間続けられました。その当時の写真や映像などの史料がアメリカ国立公文書館カレッジパーク別館に多数保管されています。

 

写真にはキャンプ敷地内の教会や図書館などの施設、またそこで暮らすアメリカ兵の生活の様子が写っていて当時の様子をうかがい知る事ができます。また映画館やビリヤード場の設置されたクラブも存在したようで、写真を見る限りではまるでアメリカそのものです。


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沖縄~10・10空襲から70周年

沖縄の10・10空襲と呼ばれている、1944年10月10日に米海軍第38高速空母機動部隊が沖縄を含む南西諸島で行った1,396機に及ぶ大規模な攻撃から70年が経ちました。この空襲で那覇市の市街地90%が燃え尽き、重要な琉球王朝時代の文化遺産を多数失ったといわれています。1945年4月から6月の沖縄戦については聞いた事がありましたが1944年の10・10空襲の事は知りませんでした。

 

この空襲は第5次攻撃まで行われ、第1次攻撃から第3次攻撃は航空機や飛行場、船や船舶施設などの軍関係施設を攻撃、午後12時40分から1時40分にかけての第4次攻撃と午後2時45分から3時45分にかけての第5次攻撃では、学校や病院、お寺や市街地を含む民間の施設を無差別に低空から攻撃し、多数の一般市民を含む600人以上の方々が合計9時間にも及ぶ攻撃で亡くなりました。また、空襲後の火事で市街地のほとんどが焼失してしまったそうです。

 

米国国立公文書館Ⅱ号館には沖縄戦に関係する膨大なテキスト資料、写真や映像資料が保存されています。今回は10・10空襲に関係するテキスト資料をご紹介いたします。

 

このテキスト資料は空母レキシントンの1944年10月10日の戦闘報告書の一部です。

レキシントンから3機の敵の飛行機が見えたので打ち落とした。その後、読谷飛行場を攻撃とあります。このように艦船別に戦闘報告書と写真などがまとめてあったりもするので、その日の攻撃の詳細がわかります。

 

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第二次世界大戦における黒人兵士たち

米国公文書館でいつものように資料を読んでいると、米軍の部隊名のうしろに括弧書きで黒人(Negro)と書かれているものがありました。 その前後の資料にもそういう表記がされていました。 以下の資料は太平洋戦争時の陸軍のエンジニア関係のものです。

 

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沖縄の茅葺屋根

沖縄の建物で私が一番に思い浮かべるのは首里城のような赤瓦の屋根の建物です。赤瓦の屋根は漆喰で瓦と瓦の隙間を固めているため台風に強いと聞いたことがあり、台風の多い沖縄に適した屋根なのだなあと思った覚えがあります。昔の沖縄の建築様式は赤瓦の屋根だとずっと思っていたため、米国国立公文書館にある沖縄関係のテキスト資料の中から茅葺屋根の建物の写真が出てきたときには少々驚きました。今回はその茅葺屋根の写真をご紹介したいと思います。

 

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ある日本海軍兵が残した手紙の綴り

米国公文書館の、太平洋戦争中における海兵隊資料には、彼らが戦闘中に捕獲した日本軍資料があります。それら日本軍による印刷された作戦関係資料もあれば日本海軍の兵士個人の手書きの日記やメモや遺書、また家族や友人から受け取った手紙の綴りなどといった資料も入っています。こうした日本海軍兵の個人の資料においては、個人の名前や部隊名がそこに残されているものもあれば、何も情報がないままであるものもあり、また資料として完全な形で残っているものもあれば、その一部としか残っていないものもあります。が、少なくともこうした資料から、それぞれの兵士が自分の記録として最後まで大事にしていたものだろうと察することができ、そこに残された文面から、家族や故郷への思いを最後の最後まで胸に秘めていたのだということが伝わってきます。

 

これらの資料のうち、表と裏の台紙に家族や友人から本人へ送られた手紙を挟み、表の台紙に ”現役中受信綴り 懐かしき想出(便り)“という題名を記して、上部を紐できれいに留めた綴りの資料がありました。題名の隣には、現役 大日本帝国軍艦勝力機関科とあり、さらに応召 呉鎮第三特別陸戦隊矢野部隊対戦車砲隊田中小隊という所属部隊情報がありました。この手紙の綴りが入っているフォルダーは、Personal Letters Belonging to Soldiers on Guadalcanal というもので、この方はガダルカナルで戦死された日本兵の方でおられたことがわかります。

 

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杉原千畝

少し前の話になるのですが、3月にフィラデルフィアで開催されたアジア学会(Association for Asian Studies)に参加する機会がありました。アジア学会とはアジア全般に関して研究する学会の為、研究テーマは幅広くとても興味深い物でした。その中で今回はドキュメンタリーフィルムで印象に残った杉原千畝の話をしようと思います。

 

杉原千畝は1939年から1940年にかけてリトアニアのカウナスにある日本領事館に勤務し、約6,000人のユダヤ避難民に亡命するための通過ビザを発行した外交官です。日本でもドラマや特集で組まれた事があるので、ご存知の方も多いと思います。

 

ドキュメンタリーフィルムは、現在残り少なくなってきたポーランド系ユダヤ人の生き残りの証言者とユダヤ避難民達が降り立った敦賀市の住民の証言と合わせながら、杉原千畝の足跡をたどっていくというものでした。ナチスに迫害されたユダヤ避難民がシベリアを越え、ウラジオストックから船で敦賀市に着き、神戸からブラジルやオランダ、アメリカへと亡命していったそうです。そして、千畝氏はこの事を口外せず、彼の死後に妻が「命のビザ」という本を出版し世間に知られていったようです。

 

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アスベスト

数ヶ月前、“在日米軍基地で働いていた日本人従業員のアスベスト被害”という記事を読みました。

日本人従業員がアスベスト被爆の危険性がある環境にも関わらず、不十分な防護対策のまま作業をしていたとの証言があるということや、とても残念なことなのですが、肺がん、中皮腫、または石綿肺という病気で亡くなられている方もいるという内容でした。

 

私はこれまでアスベストについての知識はほとんどありませんでした。ビルの建設などの際に保温断熱の目的で石綿を吹き付けるといった作業、そのような石綿を扱う作業や石綿工場に勤めている人、石綿を使用している建築物などで生活をしている人達が、将来的に病気を発症するといった健康被害にあう可能性が高く、現在は使用を原則禁止されているということ(一部を除く)を知りました。

 

NARAのデーターベースで“アスベスト”というキーワードで検索をかけてみました。ヒットはないものの、日本の各地域の地理や自然または文化などを調査した記録資料の中に“Asbestos Resources of Japan”という戦後1948年10月に作成された資料を見つけました。

 

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2014年 アジア学会(フィラデルフィア大会)に参加して

今年のアジア学会(Association for Asian Studies)は、3月27日から3月30日までの日程でペンシルバニア州のフィラデルフィアで開かれました。

 

フィラデルフィアは歴史がある街で、一時はアメリカ合衆国の首都でもありました。 今でも全米では大都市の一つですが、規模は小さく落ち着いた所です。 1993年にトム・ハンクスとデンゼル・ワシントンが共演した「フィラデルフィア」という映画を思い起こす方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

アメリカは日本と比べると、歴史的な名所・旧跡が少ないのですが、ここフィラデルフィアは名所・旧跡に触れる機会が多い場所です。 「自由の鐘」(Liberty Bell)という鐘もその一つです。

 

この鐘はイギリスで作られ、1752年にフィラデルフィアに届けられました。 しかし、最初の鐘はたった一回鳴らしただけで、ひびが入ってしまいました。2度、3度と製造を繰り返し3度目で満足のいく鐘ができたそうです。 この鐘はアメリカの歴史の節目ごとに鳴らされていました。 大きなひびが入っていますが、これが「自由の鐘」の大きな特徴です。 東京・千代田区の日比谷公園にもこのLiberty Bellのレプリカの「自由の鐘」があるそうです。

 

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ワシントンDCのポトマック河畔には日本から寄贈された桜の木が植えられており、春になるときれいに咲きほこります。初めてワシントンDCの博物館があるナショナルモール方面からワシントンモニュメント、タイダルベイスン周辺の桜を見てまわったときは、桜の木の数の多さと美しさに感動しました。毎年全米桜祭りが開催され、観光客も訪れにぎわいます。一昨年の2012年には日本が桜を米国に寄贈,植樹してから100周年を迎え、桜祭りは盛大に行われました。

 

ふとNARAにも何か桜の資料があるのではないかと思いたちOnline Catalogで検索し、出てきた資料を見てみることにしました。 RG 7の農務省関係資料の中に日本の桜に関しての資料があるようで興味があったのですが、この資料はミズーリ州のLee’s Summitに移されたとのことで残念ながらここでは見ることが出来ませんでした。

 

 そこで国務省の資料を見てみると1960年代の桜の木や桜祭りに関するものがありました。

 

1965年にもワシントン・モニュメント周辺への植樹のための3800本の桜の木が日本政府から寄贈されました。

 

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リーフレットに見る米軍の心理作戦の一例

第2次世界大戦中の心理作戦の手段の一つとして、大量のリーフレットが作成され、各戦闘地に散布されました。米国を中心とした連合軍側もドイツ、イタリア、日本の枢軸国側も双方で作成したようですが、米国公文書館には主に連合国側の主力である米軍が作成したものが様々なレコードグループにまたがって存在しています。ドイツ兵、イタリア兵と比べると日本兵の場合は、最後まで戦い、また自決を厭わないために、連合軍側の捕虜となる確率はきわめて低いものでした。なので連合軍側も各地の戦闘では死傷者を出し続けてしまうという現実がありました。そうした状況に対して、各地の戦闘はもちろん続行する形で進むのですが、一方では、各地の日本兵の戦意を挫くことで、各地の戦闘を終結させようとする努力もしていたことも伺われます。

 

日本兵に対しては、リーフレットを通じて、米軍の捕虜になることを恥とするのではなく、連合軍側に投降し、捕虜となって生き延びることで、戦後の日本に貢献することができるということを語っているものが多々あります。

 

米国太平洋艦隊司令部及び太平洋地域司令部(US Pacific Fleet and Pacific Ocean Area )による心理作戦関係の資料の1944年8月の”Psychological Warfare Part 1 “ (RG165 Entry MN84-79Box 518)の中には、日本兵向けのリーフレットの作成にあたっての重要点が提示されています。まずは、武士道の精神の影に隠れたもっと根源的な人間の素直な気持ちとしての、望郷の思い、また、かつての普段の生活にあった風呂、よい食事や酒を懐かしむ気持ちに訴えることが重要であることが指摘されています。また、書道や達筆な文字での和歌や詩を使って印象的なものにすることや戦闘の中でもろくなっている日本兵の身体と感情に訴えるように絵や図案を使うことも重要であるとされています。さらには、疲労困憊し、餓え、負傷している兵士にとっては一刻も早く休息と十分な食料と手当てが必要であるからこそ、それらのニーズに訴えるような形にして、日本兵が持っているとされる伝統的な武士道精神に対抗することといったことも重要であるとしています。その他に、自己の破壊でなく戦後の日本や家族のために生き延びることを強調すること、降参や降伏、または捕虜や俘虜といった言葉を避けあくまで日本兵の面目を立てるために名誉という言葉を強調すること、また、日本の指導者の嘘に言及すること、さらには一般兵士と将校、陸軍と海軍、日本の人々と在日コリアンの人々、一般市民と軍隊といったぞれそれの間で意見の相違や摩擦を生じさせることにも言及しています。 最後には、米軍は法を遵守する権威があり、法を尊重するものであること、さらに米国の圧倒的な軍事力と産業力を強調することといったことも重要であるとし、米軍は日本をよく研究した上でこうした戦略を立てているのだということがわかります。

 

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ビキニ環礁で行われた水爆実験~クロスロード作戦

今回は、1946年7月にアメリカ合衆国がマーシャル諸島のビキニ環礁で行った核実験、クロスロード作戦に関係する資料を紹介いたします。

 

この実験の目的は艦船や関連機器に対する原子爆弾の威力を検証することでした。また、標的にされた大小71隻の艦艇の中には戦後アメリカ軍に接収された日本の戦艦長門と太平洋戦争中に建造された軽巡洋艦酒匂も使われました。資料の中には、このクロスロード作戦の計画書や日々の報告書、結果報告等に関係する書類は勿論の事たくさんの手紙が含まれていました。

 

手紙の中には、市民からの水爆実験反対の抗議の手紙やWar Departmentが出した雑誌や新聞をみて応募してきた一般の市民からの手紙などがありました。手紙にはヒューマンギニー・ピッグという言葉が多く出てきます。その内容は衝撃的な物ばかりでした。これは人間モルモットの事です。水爆の実験台に自ら立候補する人たちからの手紙なのです。手紙の中には、報酬の$150,000を学費に充てたい学生からの応募もあります。さすがにこの手紙の主には落選の返事が送ってありましたが・・・

その内の何通か紹介しようと思います。

 

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