沖縄戦下の住民による「軍作業」

第二次世界大戦末期の沖縄戦では、「軍民共生共死」のスローガンのもと、沖縄の住民も命がけで日本軍をサポートすることを要求され、集団自決などの悲劇も数多く起きました。一方で、様々な状況で米軍の民間人捕虜となり、生き残った住民達も大勢いました。


アメリカ国立公文書館には、当時の沖縄の民間人管理に関する米軍の記録資料が収められています。例えば、Record Group 494 ”History of Military Government Operation on Okinawa”という資料によると、1945年4月30日の時点で126,876人の沖縄住民がアメリカ軍政府の収容下にあり、その数は5月31日には147,829人、6月30日には258,588人と増えていることがわかります。住民達は最低限の衣食住と医療を与えられていましたが、さらに就労可能な人達については、アメリカ軍政府の活動を助ける「軍作業(ミリタリー・アクティビティ)」に従事することで、食糧などの加配を報酬として受けていたそうです。今回は、このような民間人収容所で暮らす住民達の軍作業の様子について、いくつか写真をご紹介したいと思います。


Photograph No.342542 “Native women salvage any usable articles from ruined homes on Okinawa Ryukyu Islands.” 26 June 1945. Record Group 80G; National Archives at College Park, MD.


この写真は、収容所の住民達が近くの廃墟となった村へ出かけていき、瓦礫の中から再利用できそうな材木などを集めている様子を写したものです。アメリカ軍政府は沖縄上陸前から民間人施設の建設について計画していましたが、そのための建築資材を運ぶほど船のスペースには余裕がなかったため、できる限り現地調達をする予定でした。そこで、収容した民間人の労働力に頼る必要があったのです。このような物資の回収は、建築資材だけでなく、食糧や衣類、農耕具、医薬品などに対しても行われていたそうです。


Photograph No.318500 “In the village of Taira on Okinawa, Ryukyu Is. captured Jap civilians are constructing a stockade for US Navy military Gov. compound, to be used for the Japs prisoners of war.” 16 May 1945. Record Group 80G; National Archives at College Park, MD.


この写真は、男性の住民達が日本人戦争捕虜収容所を建設しているところです。当時の捕虜関係の資料の一つには、「15~45歳の民間人男性は一旦戦争捕虜施設へ送り、関係当局による取り調べをクリアした人は民間人収容所へ引き渡すこと」と記されています。沖縄戦では、一般の男性住民の多くも防衛隊や学徒隊として戦場に駆り出されていたこと、さらに、軍服ではなく民間人の衣類を身に着けた日本兵が多く発見されたこともこのような民間人の扱いと関係あると思いますが、実際に民間人収容所で暮らす男性住民には子供と老人が多く、健康で働き盛りの男性は非常に少なかったと、いくつかの資料に記録されています。


Photograph No.SC-370925 “In order to carry rations and supplies to men of the 27th Div mopping-up in the mountains of northern Okinawa, the 105th Inf Rect, under the command of Col Walter S Winn, formed two companies composed of native Okinawans supplied and paid by the military government.” 1 Aug 1945. Record Group 111SC; National Archives at College Park, MD.


このように軍作業における男性陣の労働力は非常に限られたものでしたが、建築作業の他に、物資の運搬などに従事する男性住民もいました。上の写真には、沖縄北部の山岳地帯に残っているアメリカ陸軍第27歩兵師団の為に、食料などの配給物資を背負って運ぶ沖縄住民の姿が写っています。この写真が撮られたのは8月1日ですので、沖縄本土での激戦こそ終わってはいますが、体力的にとてもきつく、また危険を伴う労働であることは想像できます。


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68年前の観光都市別府、キャンプ・チッカマウガ

私の出身地大分県の誇る観光名所、別府温泉郷。活火山の鶴見岳と硫黄山の麓に広がる別府市街地には2千箇所以上もの温泉源が存在します。足湯など小さなものを含めると数百もの温泉があり、地元の人をはじめ多くの観光客を癒してくれます。


そんな自然豊かな別府の街に68年前アメリカ軍のキャンプ地が存在しました。187th Airborne Regimental Combat Team(通称:Rakkasans)によるCamp Chickamaug(キャンプ・チッカマウガ)での駐屯生活は、戦後1946年から1956年の10年間続けられました。その当時の写真や映像などの史料がアメリカ国立公文書館カレッジパーク別館に多数保管されています。

 

写真にはキャンプ敷地内の教会や図書館などの施設、またそこで暮らすアメリカ兵の生活の様子が写っていて当時の様子をうかがい知る事ができます。また映画館やビリヤード場の設置されたクラブも存在したようで、写真を見る限りではまるでアメリカそのものです。


Photograph No.SC-499910 “View of the Enlisted men “Rakkasan” CLUB, for men of the 187th Airborne Regimental Combat Team at Camp Chickamauga, Beppu, Kyushu, Japan.” 23 November 1954. Record Group 111; National Archives at College Park, MD.


下の写真は1954年11月に撮影されたものです。アメリカ兵達が別府観光と称して、地獄めぐりを楽しんでいます。地獄の入り口にある鬼を訝し気に眺めるアメリカ兵の姿が印象的です。

Photograph No.SC-499931 “Soldiers of the 187th Airborne Regimental Combat Team Stationed at Camp Chickamauga, Beppu, Kyushu, Japan. View of the Idols outside one of the Shrines in Beppu.” 23 November 1954. Record Group 111; National Archives at College Park, MD.


硫黄の匂いがする地獄ゆで玉子は彼らにとってどんな味だったのでしょうか。

Photograph No.SC-499937 “(L to R) CPL William P Stewart, (Montgomery, ALA); CPL Angel Arellano, (Santa Monica, CALIF); and CPL Mamerto Perez,(Robstown, TEXAS) try to eat some eggs which were cooked in the waters of “Green Lake” hot springs, at Beppu, Kyushu, Japan.” 23 November 1954. Record Group 111; National Archives at College Park, MD.


こちらの写真はキャンプ敷地内の下士官兵の居住施設です。写真右奥が鶴見岳です。

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沖縄~10・10空襲から70周年

沖縄の10・10空襲と呼ばれている、1944年10月10日に米海軍第38高速空母機動部隊が沖縄を含む南西諸島で行った1,396機に及ぶ大規模な攻撃から70年が経ちました。この空襲で那覇市の市街地90%が燃え尽き、重要な琉球王朝時代の文化遺産を多数失ったといわれています。1945年4月から6月の沖縄戦については聞いた事がありましたが1944年の10・10空襲の事は知りませんでした。

 

この空襲は第5次攻撃まで行われ、第1次攻撃から第3次攻撃は航空機や飛行場、船や船舶施設などの軍関係施設を攻撃、午後12時40分から1時40分にかけての第4次攻撃と午後2時45分から3時45分にかけての第5次攻撃では、学校や病院、お寺や市街地を含む民間の施設を無差別に低空から攻撃し、多数の一般市民を含む600人以上の方々が合計9時間にも及ぶ攻撃で亡くなりました。また、空襲後の火事で市街地のほとんどが焼失してしまったそうです。

 

米国国立公文書館Ⅱ号館には沖縄戦に関係する膨大なテキスト資料、写真や映像資料が保存されています。今回は10・10空襲に関係するテキスト資料をご紹介いたします。

 

このテキスト資料は空母レキシントンの1944年10月10日の戦闘報告書の一部です。

レキシントンから3機の敵の飛行機が見えたので打ち落とした。その後、読谷飛行場を攻撃とあります。このように艦船別に戦闘報告書と写真などがまとめてあったりもするので、その日の攻撃の詳細がわかります。

 

Record Group38 Records of the office of the Chief of Naval Operations WWII Action and Operational Reports Box1148 National Archives at College Park, College Park, MD

 

次の資料には日本側が中立国のスペイン大使館を通して、アメリカ側に民間人への無差別攻撃と低空からの機銃掃射は国際法に違反していると抗議した件に関して、アメリカ統合参謀本部の見解が書かれています。アメリカ側は、違法だと認めてしまえば米国人捕虜を危険にさらし、戦争犯罪人とされてしまうかもしれないなどの懸念を記しています。これはほんの一部で、この後も資料は続きます。

 

Record Group 218 Entry UD2 Geographic file 1942-1945 Box160 National Archives at College Park, College Park, MD

 

下記の写真は第38高速空母機動部隊(TF38)の戦闘報告書内に入っていた、1944年10月10日に撮影された写真です。(上)那覇港と那覇市方面 (中)那覇港 (下)那覇飛行場ですが、黒煙がもくもくとあがっているのが鮮明に見えます。

 

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第二次世界大戦における黒人兵士たち

米国公文書館でいつものように資料を読んでいると、米軍の部隊名のうしろに括弧書きで黒人(Negro)と書かれているものがありました。 その前後の資料にもそういう表記がされていました。 以下の資料は太平洋戦争時の陸軍のエンジニア関係のものです。

 

Incoming Message 31 Oct. 1945, M76, Miscellaneous Records ("M" Series) 1942-1945 M74-M77, Historical Division Records Regarding Operations in the Southwest Pacific Area(“SWPA Files”), Records of the Office of the Chief of Engineers, Record Group 77; National Archives at College Park, College Park, MD

 

“Engr Const Bn” (Engineer Construction Battalion: 工兵大隊) の後に括弧書きで”Negro“と書かれています。

 

以前にも軍の戦闘記録資料を読みましたが、上記のような人種について書かれている資料には出会いませんでした。考えてみると、当時はまだ白人と黒人が隔離されていた時代ですし、黒人兵士ばかりの部隊もあるのも頷けます。

 

そこで、米国公文書館に黒人兵士についての関係資料があるか少し調べてみました。

 

“The Negro Soldier, 1944”という、まさにそのものの動画がありました。そして、その上映に関する資料もありました。この動画は1944年にWar Department(戦争省)が作成したプロパガンダ用のものです。この動画情報については米国公文書館のサイトの中の、http://research.archives.gov/description/35956 にあり、そこからYouTubeにつながり、そこで見ることができます。

 

黒人教会での牧師の話を通じて、黒人の人々の活躍を描くという方法をとっています。1770年のボストン虐殺事件に関係した黒人男性の話から始まり現在各界で活躍している黒人のプロフェッショナルまでをとりあげ、後半は教会に来ている女性が軍に入隊して将校に昇進した息子の軍隊での様子を語るという形で描写し、黒人の人々の過去から現在に至るまでの貢献を謳いあげています。

 

1936年のベルリンオリンピックで金メダルをとった、100メートル走のJames Cleveland Owens, 走り高跳びのCornelius Cooper Johnsonの姿も出てきます。余談になりますが、走り高跳びで6位の田中弘選手もこのフィルムに出てきます。この短編映画はとても好評で、各自治体・公共団体から引き合いの手紙が後を絶たなかったようです。 色々な新聞にも紹介されました。

 

Trade Union Service Newspapers, “The Negro Soldier”, “The Negro Soldier”, Civil. Aide to the Secretary Subject File 1940-47, Office, Asst Secretary of War, Secretary of War, Record Group 107; National Archives at College Park, College Park, MD

 

この映画は今までとは違い、黒人の人々の勤勉さや成功をとりあげていて、彼らの意識を高めたと同時に白人の黒人に対する意識にも影響を与えました。 

 

実際の黒人兵士たちの写真も、米国公文書館の写真リサーチルームに、バインダーに入ったアルバムのような形であります。戦場や訓練の場でのスナップ写真もあるのですが、それらとは少し違った写真をここでご紹介したいと思います。

Photograph No. SC-426441 “Members of the 6888th Central Postal Directory Battalion take part in a parade ceremony in honor of Joan d’Arc at the marketplace where she was burned at the stake” May 27,1945 Pfc. Stedman, Record Group 111; National Archives at College Park, College Park, MD

 

上記の写真は、フランスでジャンヌダルクが処刑されたとされる広場を行進する、黒人女性兵のパレードです。この女性たちは郵便関係の部隊に所属していました。

 

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沖縄の茅葺屋根

沖縄の建物で私が一番に思い浮かべるのは首里城のような赤瓦の屋根の建物です。赤瓦の屋根は漆喰で瓦と瓦の隙間を固めているため台風に強いと聞いたことがあり、台風の多い沖縄に適した屋根なのだなあと思った覚えがあります。昔の沖縄の建築様式は赤瓦の屋根だとずっと思っていたため、米国国立公文書館にある沖縄関係のテキスト資料の中から茅葺屋根の建物の写真が出てきたときには少々驚きました。今回はその茅葺屋根の写真をご紹介したいと思います。

 

HISTORICAL RECORD ISLAND COMMAND OKINAWA GUNTO RYUKYUS 13 December 1944- 30 June 1945; WWII Operations Reports, 1940-48, Pacific Theater; RECORDS OF THE ADJUTANT GENERAL’S OFFICE, Record Group 407; National Archives at College Park, College Park, MD.  (Entry 427, Box 408)

上の写真は沖縄の民家です。屋根を見ると上側が茅葺、下側が瓦となっています。これはもともとこのような設計だったのでしょうか、それとも、瓦屋根の修理等が必要で上側だけが茅葺になったのでしょうか。写真の下側にある数字とアルファベットから1945年5月29日に撮影されたものだと思われます。この時、沖縄本島ではまだ戦闘が続いていますが、この写真の中の住民は普段通りの生活を営んでいるように見えます。

 

HISTORICAL RECORD ISLAND COMMAND OKINAWA GUNTO RYUKYUS 13 December 1944- 30 June 1945; WWII Operations Reports, 1940-48, Pacific Theater; RECORDS OF THE ADJUTANT GENERAL’S OFFICE, Record Group 407; National Archives at College Park, College Park, MD.  (Entry 427, Box 408)

この写真には再建設された沖縄の村と説明書きがされてあります。おそらく戦争で村が破壊され、茅葺の家が建て直されたのではないでしょうか。この写真は1944年12月13日から1945年6月30日までの記録として書かれている資料の中にありました。たくさんの家が立ち並び、家の外には洗濯物が干してあります。この写真の細かな内容が良くわからなかったのでスキャンした画像を拡大すると、左側に写っている子供たちだけではなく、家の前に立っている人、子供と母親らしき人など何人もの村人たちが写っているのがわかりました。左側の奥の家の向こう側にはテントがあります。

 

HISTORICAL RECORD ISLAND COMMAND OKINAWA GUNTO RYUKYUS July 1945; WWII Operations Reports, 1940-48, Pacific Theater; RECORDS OF THE ADJUTANT GENERAL’S OFFICE, Record Group 407; National Archives at College Park, College Park, MD.  (Entry 427, Box 408)

1945年7月の報告書には、家の建設についての記載があり、現地の労働者たちにより家が組み立てられ茅葺屋根が付けられている様子の写真がありました。これら住宅の建設についてはとても興味深く、石川や漢那での家の建設に27th Naval Construction Battalion(米海軍設営隊)が関わっていたこともわかりました。

 

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ある日本海軍兵が残した手紙の綴り

米国公文書館の、太平洋戦争中における海兵隊資料には、彼らが戦闘中に捕獲した日本軍資料があります。それら日本軍による印刷された作戦関係資料もあれば日本海軍の兵士個人の手書きの日記やメモや遺書、また家族や友人から受け取った手紙の綴りなどといった資料も入っています。こうした日本海軍兵の個人の資料においては、個人の名前や部隊名がそこに残されているものもあれば、何も情報がないままであるものもあり、また資料として完全な形で残っているものもあれば、その一部としか残っていないものもあります。が、少なくともこうした資料から、それぞれの兵士が自分の記録として最後まで大事にしていたものだろうと察することができ、そこに残された文面から、家族や故郷への思いを最後の最後まで胸に秘めていたのだということが伝わってきます。

 

これらの資料のうち、表と裏の台紙に家族や友人から本人へ送られた手紙を挟み、表の台紙に ”現役中受信綴り 懐かしき想出(便り)“という題名を記して、上部を紐できれいに留めた綴りの資料がありました。題名の隣には、現役 大日本帝国軍艦勝力機関科とあり、さらに応召 呉鎮第三特別陸戦隊矢野部隊対戦車砲隊田中小隊という所属部隊情報がありました。この手紙の綴りが入っているフォルダーは、Personal Letters Belonging to Soldiers on Guadalcanal というもので、この方はガダルカナルで戦死された日本兵の方でおられたことがわかります。

 

From RG127 Records of US Marine Corps, Entry 39A Captured Japanese Documents Box 41 National Archives at College Park, College Park, MD

 

この資料はもちろん、このエントリーの資料全体からも残念ながらこの方がどのような戦死を遂げられたのかについての情報はありません。米軍をはじめとする連合軍の捕虜となり尋問記録があれば日本兵の個人情報は存在するかもしれませんが、そうでなければ難しいかと思われます。が、それでも米軍の戦闘記録を追う中で、少なくとも壮絶な戦闘の様子を多少なりとも垣間見ることができるかもしれません。

 

この残された手紙の綴りを通してこの日本兵の方の人柄を垣間見ることができるように思えました。これらの手紙には、この日本兵の方に対してその労を気遣いとともに、本土にいる友人や家族による自分たちの近況が語られています。内容から判断すると1930年代後半のものであったことがわかります。おそらくこの手紙の綴りにはさらなる続編が存在していたのだと思いますが、資料として残ったのは、この兵士の方がガダルカナルに到着する以前の、中国戦線にいたころの手紙の受領であったことがわかります。

 

友人または先輩かと思われる人物からの手紙には、武漢三鎮陥落によって大阪でも全工場が汽笛を鳴らして市民に報知し、各所に祝賀会提灯行列などで大変な騒ぎであること、また国民精神作興体育大会の関西大会が甲子園で行われたことなどが書かれています。 つまり、これらは1938年(昭和13年)の10月に中国の武昌、漢口、漢陽の各都市が日本軍の手に落ちたことや11月には日本で国民精神作興体育大会が開催されたことをさしていると思います。また、一方では銃後の国民の生活に言及し、デパートの年末大売出しや年賀状や新年宴会といった年末年始特有の行事が廃止されたこと、物品愛護の名目で、デパートやその他の店では、中古品の売買の奨励やら、服や靴の修繕・修理の奨励とガソリンや紙の節約が声高らかに叫ばれるようになったことも記しています。1941年の真珠湾攻撃から始まる日米開戦の前の時代ですでに社会は重苦しい時代に突入していたことがわかります。

 

この日本兵の方が姉のように慕っていた女性がいたらしく、その女性からの手紙には、“瞼のあなたは勇ましくニッコリ笑っていらっしゃいます。”といったことも書かれており、またその女性の別の手紙には着物をきた彼女と彼女が飼っていた犬の小さな写真も添えられていました。ささやかながらも細やかな相手への思いがしたためられていることがよくわかります。同時に盛り場のイルミネーションもなくなりなんとなく切迫したものを感じると記しています。彼女の手紙の文面からこの日本兵の方は一人っ子であったこと、また家族思いであり、とても純情な男性であったことが伺われます。彼女の手紙の一つには彼女の自宅の周辺に咲いていた桜の押し花がさりげなく添えられていました。

 

Both images: From RG127 Records of US Marine Corps, Entry 39A Captured Japanese Documents Box 41 National Archives at College Park, College Park, MD

 

この手紙の綴りにはさらに別の女性からの手紙や、彼の母、この日本兵の方を兄のように慕っていた従姉妹や彼の両親の手伝いをしていた女性からの手紙などもありました。この日本兵の方の実の父は病気であり、息子に心配をかけたくないので長い間詳細を言わなかったこと、また本来であれば、自分から息子に小遣いをやらなければいけないのに、一生懸命自分の任務に励む息子からお金を逆に送ってもらい、さめざめと泣いていた母の様子など家族として互いを気遣い、思いやる気持ちがその手紙の中にあふれていました。

 

これらの手紙をこの日本兵の方は送信人ごとに手紙を整理して思い出としてまとめ、最後まで自分の心の拠り所として大事にされていたのではないかと思いました。またこれらの手紙の内容からしてこの方ご自身も筆まめで家族や友人にできるだけ手紙を送っておられた方であったのではないかと思いました。

 

現代は、コンピュータやスマートフォンが流行し、メールでも電話でもどこでもいつでも簡単にかつ気軽に家族や友人と連絡を取り合うことできる時代です。私達にとっても、手紙をあらためて書く機会は以前より一層少なくなってしまいました。しかしながら、戦争中は、誰にとってもまずは手紙を書くことが唯一の交信手段でした。一方では、戦地にいる兵士と銃後を守る側にいた家族や友人との間には軍による検閲もありましたし、本当に書きたいことを書けないといった歯がゆい気持ちもあったかもしれません。また、自分の思いをこめて一生懸命書いた手紙が戦火が激しくなる中で戦地に届かなかったり、または戦地から日本へ届かなかったこともあったかもしれません。この日本兵の方がどんな思いでこの手紙の綴りを丁寧に作り最後まで大事にしていたのかについて考えると私はとても胸が痛くなりました。同時に、そして戦地に赴いた息子の無事を願い、常に安否を気遣う両親や彼を慕っていた友人や従兄弟達の思いもどれほど強かったことであろうと思いました。

 

私達戦争を知らない世代ができることは限られていますが、それでもこうした貴重な歴史資料が伝える事を学び続け、次世代に残していかなければならないと強く思いました。(YN)

 

杉原千畝

少し前の話になるのですが、3月にフィラデルフィアで開催されたアジア学会(Association for Asian Studies)に参加する機会がありました。アジア学会とはアジア全般に関して研究する学会の為、研究テーマは幅広くとても興味深い物でした。その中で今回はドキュメンタリーフィルムで印象に残った杉原千畝の話をしようと思います。

 

杉原千畝は1939年から1940年にかけてリトアニアのカウナスにある日本領事館に勤務し、約6,000人のユダヤ避難民に亡命するための通過ビザを発行した外交官です。日本でもドラマや特集で組まれた事があるので、ご存知の方も多いと思います。

 

ドキュメンタリーフィルムは、現在残り少なくなってきたポーランド系ユダヤ人の生き残りの証言者とユダヤ避難民達が降り立った敦賀市の住民の証言と合わせながら、杉原千畝の足跡をたどっていくというものでした。ナチスに迫害されたユダヤ避難民がシベリアを越え、ウラジオストックから船で敦賀市に着き、神戸からブラジルやオランダ、アメリカへと亡命していったそうです。そして、千畝氏はこの事を口外せず、彼の死後に妻が「命のビザ」という本を出版し世間に知られていったようです。

 

 

 

Association for Asian Studies Annual Conference March27-30,2014 Philadelphia,PA

Film Expo: He defined the tide of time Chiune Sugihara and the Saving of six Thousand A documentary film by Susanne Concha Emmrich

 

杉原千畝は「他の人でも自分と同じ事をするだろう」とこのフィルムの中で言っています。彼はリトアニアを去る列車を待つ間もビザを書き続けたそうです。他の人がここまでできるでしょうか?きっと彼にしか出来なかったと思います。パンフレットを掲載しました。

 

パンフレット右下の女性、Susanneさんが脚本家兼製作者です。もし、約30分のドキュメンタリーフィルムに興味のある方はパンフレットの右下にE-mailアドレスが記載されていますので、ご連絡を取られたら宜しいかと思います。

さて、杉原千畝関係書類もNARAにあるのではないかと思い探してみました。

 

杉原千畝個人に直接関する資料ではありませんが、1996年4月22日-28日 テネシー州ナッシュビルで行われたユダヤ避難民の記念式典「Memorial week honor」 杉原千畝領事のパンフレットがありました。(左資料)

 

息子の杉原弘樹さんが招待されています。パンフレットは記念式典の日程表などになっています。

 

RG200  Records of the America National Red cross

Entry#56 Personal Papers: 1950-2001

National Archives at College Park, College Park, MD

 

杉原千畝が「東洋のシンドラー」と知られるようになったのは戦後ずいぶん経 ってからの事です。それは千畝本人がこのことを長く口外せずいたからです。きっと人として謙虚で尊敬できるとてもすばらしい人だったのではないかと思います。また機会があれば杉原千畝の生涯を追ってみたいと思います。(SW)

 

アスベスト

数ヶ月前、“在日米軍基地で働いていた日本人従業員のアスベスト被害”という記事を読みました。

日本人従業員がアスベスト被爆の危険性がある環境にも関わらず、不十分な防護対策のまま作業をしていたとの証言があるということや、とても残念なことなのですが、肺がん、中皮腫、または石綿肺という病気で亡くなられている方もいるという内容でした。

 

私はこれまでアスベストについての知識はほとんどありませんでした。ビルの建設などの際に保温断熱の目的で石綿を吹き付けるといった作業、そのような石綿を扱う作業や石綿工場に勤めている人、石綿を使用している建築物などで生活をしている人達が、将来的に病気を発症するといった健康被害にあう可能性が高く、現在は使用を原則禁止されているということ(一部を除く)を知りました。

 

NARAのデーターベースで“アスベスト”というキーワードで検索をかけてみました。ヒットはないものの、日本の各地域の地理や自然または文化などを調査した記録資料の中に“Asbestos Resources of Japan”という戦後1948年10月に作成された資料を見つけました。

 

 

“Folder No.10 #115 Asbestos/SCAP; Natural Resources Section; Administration Division; General Subject File1945-51 General Records of the Department of State, Record Group 331; National Archives at College Park, College Park, MD.”  (Entry UD1817, Box 8909)

 

 

この資料には日本でのアスベストに関する全ての情報が載っており、例えば「主なアスベスト鉱山の名前や場所」「日本でのアスベストの歴史や始まり」「カナダからのアスベストの年間別輸入量(1926年以降)」や「アスベストの国内生産」など約30ページにわたりまとめられています。しかし、この資料が作成された当初は世界的にアスベストの危険性が全く問題視されていませんでしたのでそのような記述は有りませんでした。ただ一箇所“Problems of Asbestos Industry”(アスベスト産業の問題)と題された箇所に「アスベスト産業は労働問題によって妨げられている」と記載されており、不十分な居住施設や安定しない雇用状況のために有力な人材はアスベスト産業には集まらないと言った雇用問題についての記述であり、北海道のアスベスト鉱山で働いている人達の多くがその鉱山付近に住む近所の農民であるということでした。

 

(クリソタイルアスベストの年間生産率表-鉱山別)※画像中央部

 

ほかにも左の資料のように説明と同時に年次別で色々な事柄を表にしています。

 

“Folder No.10 #115 Asbestos/SCAP; Natural Resources Section; Administration Division; General Subject File1945-51 General Records of the Department of State, Record Group 331; National Archives at College Park, College Park, (Entry UD1817, Box 8909)

 

 

他にも色々な情報がありましたが、それらの中でも私が一番衝撃をうけた資料がこれから紹介する下記の1枚です。

 

"Folder No.10 #115 Asbestos/SCAP; Natural Resources Section; Administration Division; General Subject File1945-51 General Records of the Department of State, Record Group 331; National Archives at College Park, College Park, MD.”  (Entry UD1817, Box 8909)

 

他にも色々な情報がありましたが、それらの中でも私が一番衝撃をうけた資料がこれから紹介する下記の1枚です。

この資料の上部分には国産品アスベストを何に使用しているかということが記載されています。セメント、耐火性塗料や煙突などとさまざまな物に使われているのですが、“Others”と項目付けられている箇所に「ガスマスクのフィルター」とありました。

もちろんビルの建設や塗料などのように頻繁に使われるものではないとは思うのですが、過去にガスマスクのフィルター部分にアスベストが使用されていたという事実があった事を証明している資料だということになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

(wikipediaより/ガスマスクの付け方を市民に指導する警察官(1938年(昭和13年)東京)*写真と本文の関連性は一切ありません。

 

ガスマスクは本来毒ガスなどの有害物質から身を守るための用具なのですが、そのフィルターにアスベストが使われているということは、とても危険なような気がします。上の写真は本文とは一切関連性はないのですが、この写真では一般市民の小さな子供までガスマスクの装備の仕方を警察官から指導してもらっていますが、もしもこのガスマスクのフィルターにアスベストを使っていたとしたら・・・

 

かつてアスベストはその性質と安価で「奇跡の鉱物」として多種多様に使用されていましたが、近年ではアスベスト健康被害が問題視されています。アスベストを使用した建物がない事やアスベストが原則禁止になっている事で終わりということではありません。今現在アスベスト除去作業というものは世界各地で頻繁に行われていますし、その作業によって新たな被害が生じることもあるかもしれません。大気中にアスベストが飛散する可能性だってゼロではないと思います。アスベストは目に見えないものです。私たち個人で少しでもアスベストを身近に感じ、学んでいく事も大切と思います。私自身アスベストという物質や歴史背景をよく知らなかったのでこれらの資料はとても勉強になりました。今後も機会があればまた違った視点からアスベストの事を調査してみたいと思います。(M.J)

 

2014年 アジア学会(フィラデルフィア大会)に参加して

今年のアジア学会(Association for Asian Studies)は、3月27日から3月30日までの日程でペンシルバニア州のフィラデルフィアで開かれました。

 

フィラデルフィアは歴史がある街で、一時はアメリカ合衆国の首都でもありました。 今でも全米では大都市の一つですが、規模は小さく落ち着いた所です。 1993年にトム・ハンクスとデンゼル・ワシントンが共演した「フィラデルフィア」という映画を思い起こす方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

アメリカは日本と比べると、歴史的な名所・旧跡が少ないのですが、ここフィラデルフィアは名所・旧跡に触れる機会が多い場所です。 「自由の鐘」(Liberty Bell)という鐘もその一つです。

 

この鐘はイギリスで作られ、1752年にフィラデルフィアに届けられました。 しかし、最初の鐘はたった一回鳴らしただけで、ひびが入ってしまいました。2度、3度と製造を繰り返し3度目で満足のいく鐘ができたそうです。 この鐘はアメリカの歴史の節目ごとに鳴らされていました。 大きなひびが入っていますが、これが「自由の鐘」の大きな特徴です。 東京・千代田区の日比谷公園にもこのLiberty Bellのレプリカの「自由の鐘」があるそうです。

 

筆者撮影 リバティーベル

 

現在「自由の鐘」は、リバティーベルセンターに展示されています。 リバティーベルセンターは、ジョージ・ワシントンがフィラデルフィアに住んでいた時の屋敷に隣接しており、ワシントンの家であったと思われる基礎の部分が発掘されてそれも見ることができます。

筆者撮影 家の基礎部分

 

アジア学会に参加して学んだのは、どういう事象でも研究の対象になりうるのだなあということでした。 そして、一見関係のなさそうなことでもどこかでつながりがあるという事でした。 それを感じたのは、二つの全く違うテーマのセッションに出席した時です。一つ目のセッションでは福島県をとりあげていて、質疑応答では発表内容とは関係ないのですが、汚染地域から離れない地元の人(特にお年寄り)に関して、「危なすぎるのにどうしてそういうところに戻るのか」、という質問が出ました。 それに答えた研究者は「そこの土地に戻らないことがその人たちにとってストレスなのです。」と言われました。

 

翌日の二つ目のセッションでは、アジアの家族と性差についての発表を聴講しました。 その中でシンガポールに住むフィリピン人のメイドをとりあげた映画について話をした研究者がおり、フィリピン人メイドがどう異国で感じているかとのことで、その映画監督が”Emotion is affection.”と語っていた、ということでした。 私はその言葉が福島の人とつながりました。 ずっとその土地で過ごしてきた福島の地元の人たちには、汚染されようが危なかろうが、その土地に感情と愛情を持っており、簡単に割り切れないものなのだろうなあ、と。もしかすると、こういう感じ方はアジア人に顕著なのかもしれません。

 

初めて参加したアジア学会(フィラデルフィア大会)でしたがこれまでにないとても良い経験をさせて頂いたと思います。

(M.U.)

 

ワシントンDCのポトマック河畔には日本から寄贈された桜の木が植えられており、春になるときれいに咲きほこります。初めてワシントンDCの博物館があるナショナルモール方面からワシントンモニュメント、タイダルベイスン周辺の桜を見てまわったときは、桜の木の数の多さと美しさに感動しました。毎年全米桜祭りが開催され、観光客も訪れにぎわいます。一昨年の2012年には日本が桜を米国に寄贈,植樹してから100周年を迎え、桜祭りは盛大に行われました。

 

ふとNARAにも何か桜の資料があるのではないかと思いたちOnline Catalogで検索し、出てきた資料を見てみることにしました。 RG 7の農務省関係資料の中に日本の桜に関しての資料があるようで興味があったのですが、この資料はミズーリ州のLee’s Summitに移されたとのことで残念ながらここでは見ることが出来ませんでした。

 

 そこで国務省の資料を見てみると1960年代の桜の木や桜祭りに関するものがありました。

 

1965年にもワシントン・モニュメント周辺への植樹のための3800本の桜の木が日本政府から寄贈されました。

 

 

左の写真は1965年の桜祭りで首都の美化に力を入れていた大統領夫人、レディ・バード・ジョンソンが植樹をしている様子です。この桜祭りで、日本大使より日本から桜の木の寄贈の話がありました。しかし、植物の病原菌や害虫を防ぐために植物の海外からアメリカ国内への持ち込みには厳格なコントロールがされており、桜の木もその対象であったようです。そして話し合いの結果、最終的にはアメリカで育った桜の木の寄贈となったようです。 

First Lady Lady Bird Johnson Planting a Tree During the Annual Cherry Blossom Festival, Tidal Basin, Washington, DC, 04/06/1965  White House Photo Office Collection, 11/22/1963 - 01/20/1969 Collection LBJ-WHPO;Lyndon Baines Johnson Library (LP-LBJ), Austin, TX [online version available through the Online Public Access (National Archives Identifier:5730832) at www.archives.gov; March 6, 2014] http://research.archives.gov/description/5730832

 

これはドラフトですが、この資料にはNursery Stock, Plant and Seed Quarantine NO.37という検疫の規定があり、サクラ属系の植物をヨーロッパやアジア、アフリカ、オセアニアからアメリカに持ちこむことは禁止されているということが書かれてあります。1912年に植樹される以前にも日本から桜の木が送られましたが、害虫がついており、このとき送られた桜の木は全部燃やされました。そのことについて触れている文章もあります。

Folder: Bureau of East Asia & Pacific Affairs Office of Japanese Affairs EDU-12 Cherry Trees, 1967 1960-1970. Bureau of East Asia and Pacific Affairs: Office of the Country Director for Japan: Records Relating to Japanese Political Affairs 1960-1975. General Records of the Department of State, Record Group 59; National Archives at College Park, College Park, MD.  (Entry A1 5413A, Box 3)

 

また日本の政治家が桜の木の種を米陸軍にアーリントン墓地のために寄贈をしており、その種の許可を求める資料などもありました。

 

タイダルベイスンに咲いている桜の下を歩いているニクソン大統領夫妻の写真です。歴代大統領も忙しい任務の中、桜の花を見て心和ませたのではないでしょうか。(NM)

President and Mrs. Nixon strolling beneath the cherry blossoms at the Tidal Basin in Washington D.C., 04/14/1969 White House Photo Office Collection (Nixon Administration), 01/20/1969 - 08/09/1974  Collection RN-WHPO: Richard Nixon Library (LP-RN), Yorba Linda, CA [online version available through the Online Public Access (National Archives Identifier:194622) at www.archives.gov; March 6, 2014]

http://research.archives.gov/description/194622

 

リーフレットに見る米軍の心理作戦の一例

第2次世界大戦中の心理作戦の手段の一つとして、大量のリーフレットが作成され、各戦闘地に散布されました。米国を中心とした連合軍側もドイツ、イタリア、日本の枢軸国側も双方で作成したようですが、米国公文書館には主に連合国側の主力である米軍が作成したものが様々なレコードグループにまたがって存在しています。ドイツ兵、イタリア兵と比べると日本兵の場合は、最後まで戦い、また自決を厭わないために、連合軍側の捕虜となる確率はきわめて低いものでした。なので連合軍側も各地の戦闘では死傷者を出し続けてしまうという現実がありました。そうした状況に対して、各地の戦闘はもちろん続行する形で進むのですが、一方では、各地の日本兵の戦意を挫くことで、各地の戦闘を終結させようとする努力もしていたことも伺われます。

 

日本兵に対しては、リーフレットを通じて、米軍の捕虜になることを恥とするのではなく、連合軍側に投降し、捕虜となって生き延びることで、戦後の日本に貢献することができるということを語っているものが多々あります。

 

米国太平洋艦隊司令部及び太平洋地域司令部(US Pacific Fleet and Pacific Ocean Area )による心理作戦関係の資料の1944年8月の”Psychological Warfare Part 1 “ (RG165 Entry MN84-79Box 518)の中には、日本兵向けのリーフレットの作成にあたっての重要点が提示されています。まずは、武士道の精神の影に隠れたもっと根源的な人間の素直な気持ちとしての、望郷の思い、また、かつての普段の生活にあった風呂、よい食事や酒を懐かしむ気持ちに訴えることが重要であることが指摘されています。また、書道や達筆な文字での和歌や詩を使って印象的なものにすることや戦闘の中でもろくなっている日本兵の身体と感情に訴えるように絵や図案を使うことも重要であるとされています。さらには、疲労困憊し、餓え、負傷している兵士にとっては一刻も早く休息と十分な食料と手当てが必要であるからこそ、それらのニーズに訴えるような形にして、日本兵が持っているとされる伝統的な武士道精神に対抗することといったことも重要であるとしています。その他に、自己の破壊でなく戦後の日本や家族のために生き延びることを強調すること、降参や降伏、または捕虜や俘虜といった言葉を避けあくまで日本兵の面目を立てるために名誉という言葉を強調すること、また、日本の指導者の嘘に言及すること、さらには一般兵士と将校、陸軍と海軍、日本の人々と在日コリアンの人々、一般市民と軍隊といったぞれそれの間で意見の相違や摩擦を生じさせることにも言及しています。 最後には、米軍は法を遵守する権威があり、法を尊重するものであること、さらに米国の圧倒的な軍事力と産業力を強調することといったことも重要であるとし、米軍は日本をよく研究した上でこうした戦略を立てているのだということがわかります。

 

Leaflet, Father and Son, December1944. RG 208 Office of War Information Overseas Brach Burma. Overseas Intelligence Central Files 1941-1945 Asia. Entry 370, Box 370. National Archives at College Park, College Park, MD.

 

また、日露戦争のときの話を用いて、日本兵が生き延びてその後の日本社会に貢献していくべきだということを説いているリーフレットがありました。

Leaflet No. 812. RG165 War Department General and Special Staffs. Security Classified Intelligence Reference Publication(P File) 1940-1945. Entry NM-84-79, Box No. 503. National Archives at College Park, College Park, MD.

 

他にも日露戦争時の東郷平八郎や乃木希典、また平安時代の菅原道真などといった歴史上の人物を用いながら、前途有望な若者は命を粗末にすることなく母国のために生きるべきだと強調したリーフレットがありました。戦争当時の軍国主義の中で強調された日本の歴史観や価値観に対して、米軍側がそうした歴史的人物を題材にしながらも、精神的な部分でも対抗し、日本兵の意識に影響力を与えようとしていたことは非常に興味深いと思います。(YN)

ビキニ環礁で行われた水爆実験~クロスロード作戦

今回は、1946年7月にアメリカ合衆国がマーシャル諸島のビキニ環礁で行った核実験、クロスロード作戦に関係する資料を紹介いたします。

 

この実験の目的は艦船や関連機器に対する原子爆弾の威力を検証することでした。また、標的にされた大小71隻の艦艇の中には戦後アメリカ軍に接収された日本の戦艦長門と太平洋戦争中に建造された軽巡洋艦酒匂も使われました。資料の中には、このクロスロード作戦の計画書や日々の報告書、結果報告等に関係する書類は勿論の事たくさんの手紙が含まれていました。

 

手紙の中には、市民からの水爆実験反対の抗議の手紙やWar Departmentが出した雑誌や新聞をみて応募してきた一般の市民からの手紙などがありました。手紙にはヒューマンギニー・ピッグという言葉が多く出てきます。その内容は衝撃的な物ばかりでした。これは人間モルモットの事です。水爆の実験台に自ら立候補する人たちからの手紙なのです。手紙の中には、報酬の$150,000を学費に充てたい学生からの応募もあります。さすがにこの手紙の主には落選の返事が送ってありましたが・・・

その内の何通か紹介しようと思います。

 

Ny Test Inquires S2-6

RG77 Record of the Office of the Commanding General, Manhattan Project

Operation Crossroads, Dec.1945-Sept.1946 Box23

National archives at College park,College Park MD

 

この手紙の差出人、Frank Tlapa Jr 陸軍に勤めていたが、目の障害の為に除隊した。この核実験では約4000頭の動物を実験で使うようだが、人間モルモットが1番の実験台になる事は理解できる、自分はお国の役に立つため立候補しようと思う。と書いてあります。

 

 

Ny Test Inquires S2-6

RG77 Record of the Office of the Commanding General, Manhattan Project

Operation Crossroads, Dec.1945-Sept.1946 Box23

National archives at College park,College Park MD

この手紙の差し出し人 Carl Fay Poorman はNavyで獣医の仕事をしているが、糖尿病を患っており、あと1年の命もない。1人の青年の命が爆弾やその他の事で奪われるのなら、自分の方がふさわしいと書かれています。

 

実験後の日々の報告書などの文書にも目を通してみましたが、動物などのその後の様子や死亡数などは記録してありましたが、この「人間モルモット」の応募者たちのその後に関してはわかりませんでした。

 

アメリカはこの後も13年間にわたり、ビキニ、エニウェクト環礁で66回にもわたる水爆実験を行いました。この中には1954年マーシャル諸島近海で被爆した第五福竜丸の話もありますが、これは別の機会に紹介しようと思います。 

  

仕事を通して、現在の日本と密接な関わりのある「核」や「被爆」の資料に接する事は 大変勉強になると思っています。(SW)