メリーランド州にある「米国国立暗号博物館」についてご紹介いたします。この博物館は、米国国立公文書館から車で30分程行ったところに位置する米国国家安全保障局本部NSA(National Security Agency Headquarters)と隣接しています。当初は、この組織が使ってきたものを歴史的遺物として収集し、内部の職員がこの組織の活動の過去の成功と失敗を振り返る場所とすることを目的とした施設でした。その後、1993年12月に米国国家安全保障局が運営する「国立暗号博物館」として一般公開されました。ワシントンDC周辺にある国立博物館の建物としては規模が小さく静かな佇まいですが、館内の展示物とその内容には驚かされると同時に、アメリカ史、世界史を通して暗号の歴史を垣間見ることができ、その秘密めいた世界への興味を一気に掻き立てられます。
(参照: https://www.nsa.gov/about/cryptologic-heritage/museum/ )
メリーランド州のカッレジパークにある米国国立公文書館(以下NARA)の3階には、地図・設計図閲覧室(Cartographic and Architectural Research Room)があります。ここには、第二次世界大戦中に米軍が日本上空で撮影した空中写真や主要な地図も含まれています。
今回は、3階閲覧室内で撮影許可された箇所とほんの一部ですが資料のご紹介をします。
3階閲覧室は、大きな地図や資料を扱う為、テーブルは比較的広々としています。
アポロ11号が月に着陸し、そして人類が初めて月面を歩いてから50年が経ちました。この50周年を記念して各場所で様々なイベントや展示などが開催されました。ワシントンDCのスミソニアン博物館が立ち並ぶナショナルモールでは、ワシントンモニュメントをスクリーンとして映像を映し出し、設置されたスクリーンとともに17分間の映像が流れました。
1939年9月に第2次世界大戦は勃発し、ドイツが各戦闘で勝利をし、日本の動きもさらに活発になっていくなかで、1941年1月に、米国のフランクリン ルーズベルト大統領は、年頭教書の中で、言論および表現の自由、信仰の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由という4つの自由を提唱し、これは連合国側の戦争の目標ともなりました。(FDR and Freedom Speech at Franklin Roosevelt Museum and Library: https://www.fdrlibrary.org/four-freedoms)
この教書の11カ月後、真珠湾攻撃をきっかけとして太平洋戦争が始まることになりました。国を挙げての戦争遂行は、国民の軍隊への加入はもちろん、兵器増産をはじめとしてありとあらゆる産業での増産と節約や女性の社会参加などをさらに一層推進することになりました。こうした国民を総動員しての戦争遂行の努力は、当時の新聞やラジオはもちろん、ポスターやリーフレットの作成にも表れることになりました。
そうした時代のポスターやリーフレットが米国国立公文書館にはたくさんあります。米国国立公文書館の検索サイトで、「戦争ポスター (War Posters)」という言葉で検索するといくつかのシリーズが出てきます。それらのうち、「第2次世界大戦ポスター」(WWII Posters 1942-1945: https://catalog.archives.gov/id/513498 )というシリーズでは、全部で2829という総数がでてきます。これらはこのサイト上で見ることができ、そのサイト上で、著作権情報が特に記載されていない限り、自由にダウンロードができるようになっています。これらの中で、特に私は、情報管理に関わるスローガンに興味を持ちました。
1930年代から1940年代の米国では、失業者の雇用を促進する目的で発足された政府機関であった米国雇用促進局(Work Projects Administration:以下WPA)が失業者を様々な公共事業を通じて雇用しました。WPAが企画・実行するプロジェクトはWPAプロジェクトと名付けられ、ここ米国国立公文書館でもたくさんの資料が保管されています。1935年から1943年に解散するまで、WPAはたくさんの公共施設や森林公園などの建設や整備等を積極的に担っていました。米国国立公文書館があり、ニチマイ米国事務所が拠点とするメリーランド州にもカトクティン・マウンテン・パーク(Catoctin Mountain Park)も、WPAプロジェクトによって建設されたもので、有名な建設物の1つです。
今回はWPAの一番最初のプロジェクトである連邦計第一号(Federal One)の中の連邦音楽計画(Federal Music Project:FMP)と連邦美術計画(Federal Art Project: FAP)という二つに重きを置いて資料を紹介していきます。
連邦音楽計画は失業者の中でも音楽家のみを雇用し支援する目的を持った芸術家支援計画の中の一部で、多くの音楽家の窮地を救ったと言われています。このプロジェクトで救われたのは雇用された人々ばかりではなく、コンサートや音楽教育を行ったことによって当時、不景気により不安定であった市民の生活にも良い影響を残したプロジェクトであった事でよく知られたプロジェクトでした。このプロジェクトに関連する資料はほとんどが新聞の切り抜きですが、たくさんの切り抜きが丁寧に保存されているため当時WPAの音楽計画が世間を賑わせていたことは明白です。
次の写真の新聞の切り抜きはどれも無料コンサートを開催する告知です。WPAが開催したコンサートは殆どが無料または低料金であったために市民も鑑賞しやすかった事でしょう。
U-234とは第二次世界大戦時のドイツ海軍の潜水艦です。そのU-234に日本海軍の2人が乗っていたのはご存知でしょうか。
この日本海軍の2人のうち1人は当時の日本の潜水艦技術の専門家であり、ドイツに赴任して日本の潜水艦技術をドイツに伝えるとともに、ドイツの潜水艦技術も学んでいた、友永英夫技術中佐で、もう1人は、日本にジェットエンジンやロケットエンジンを導入するためにイタリアや、ドイツでその技術を学んでいた庄司元三技術中佐です。この2人は日本海軍からの特命により帰国を命じられ帰国の手段としてこのU-234に便乗したほかに、ドイツから日本にウランを持ち運ぶという役割もありました。
U-234は1945年3月24日にドイツのキール軍港を出て日本へ向けて出航しました。途中、ノルウェー沿岸を北上中に接触事故を起こし修理のためノルウェーに停泊し、4月16日にノルウェーを再出発しました。大西洋上を浮上して航海していた5月1日に、艦長のヨハン・ハインリヒ・フェーラー(Johann-Heinrich Fehler )海軍大尉はヒットラー総統がすでに死去という無線を受信しました。5月7日には、ドイツ国防軍が連合国側に無条件降伏しましたが艦内の混乱を避けるため、この降服については艦長と一部の士官にしか伝えてなかったようです。翌5月8日、デーニッツ海軍総司令官から「武装を解除し連合軍の指示に従うように」と艦内に正式な入電があり乗組員にも伝えられ艦内でも今後の進路について議論が交わされました。
友永と庄司はこのまま日本へ向かってほしいと請願し、一時は中立国であるアルゼンチンに友永と庄司を送り届けることも検討されましたが、最終的には命令通り連合国に降服することになりました。それを知った友永と庄司は携行していた機密書類や設計書などは破棄しましたが、ウランの処分は出来ずそのまま残し彼らは大量のルミナール(睡眠薬)を服用し自決しました。
米国国立公文書館にはこのドイツ海軍の潜水艦に関する資料がたくさんあります。今回は、それらの資料のほんの一部を紹介したいと思います。
2008年のジョージア州アトランタで行われたアジア学会から、ニチマイ米国事務所として参加を開始し、今年で参加11年目を迎えました。参加開始当時から数年間はニチマイ米国事務所としてブースを出していましたが、その後は、私達米国スタッフが、アジア学会の研究動向を私達の日々の仕事により役立てていくためにセッションに参加することになっていきました。私達は、いわゆるアカデミック分野の立場ではなく、あくまで歴史資料の資料調査や収集を扱う民間会社の立場ですが、毎日、メリーランド州の米国国立資料館(National Archives Records and Administration: NARA) で原資料を見ておりますので、そうした歴史資料がどのようなテーマで使われているのか、分析されているのかといった動向をきちんと把握することは非常に重要なことであると思っています。
アジア学会会議のサイトはこちらになります。https://www.eventscribe.com/2019/AAS/ そのサイトからどのようなセッションや個別発表が行われたかの情報を見ることができます。歴史学、政治学、文学、国際関係学、語学、文化比較学他いろいろな分野の研究者や専門家または活動家によるセッションは数にして約400あり、地域別でみるなら、中国及びアジア内部、日本、韓国、南アジア、東南アジアの括りがあり、多彩な各セッションの概要がわかるようになっています。私は、日本の政治や国際関係、北海道の歴史、戦前の日露関係、戦中の子どもたちなどをテーマにしたセッションに出てみましたが非常に興味深い内容でとても勉強になりました。ご参考までに昨年2018年までの会議内容はこちらのサイトをご参考ください。http://www.asian-studies.org/Conferences/AAS-Annual-Conference/Conference-Menu/-Home/Past-Conferences
清王朝が消滅し、中国が内乱で荒れていた時に、中国に置かれていた関東軍が勢力を拡大し満州国を設立しました。その時に川島芳子という女性がスパイとして活躍し「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ話題になりました。 1932年に発表された村松梢風の「男装の麗人」という小説のモデルとしても有名になりました。
米国公文書館で川島芳子の資料がありました。
Yoshiko Kawashimaというフォルダーがあります。
平成が終わり、新元号をお迎えする年となりました。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
今年への羽ばたく思いを大きく込めまして、今回は米国飛行史黎明期に活躍した3組の挑戦者たちを、米国国立公文書館の史料を基にご紹介致します。
まず1組目、有人動力初飛行に成功したライト兄弟の写真(4点)をご覧ください。