手紙での交流を重ねたゴードン・W・プランゲ教授と淵田美津雄

メリーランド大学のホーンベイク図書館にはゴードン・W・プランゲ教授の個人資料が所蔵されています。プランゲ教授の資料調査を通じて、プランゲ教授が人との交流をいかに大事にし、真珠湾攻撃に対して大きな興味を持っていたかということがわかります。彼は真珠湾攻撃に関する本を何冊も出していますが、そのためにアメリカと日本のそれぞれの関係者である多くの元軍人や民間人へのインタビューや、何通もの手紙の交換、また時には相手の元にまで出向いて面会し情報を収集していたことがわかります。

 

(淵田美津雄 wikipediaより)

 

その資料の中で私にとって一番印象に残った人物は淵田美津雄でした。彼は、真珠湾攻撃の際、ハワイ攻撃隊の中の第一次攻撃隊の指揮官として実際に真珠湾攻撃の際「トラ・トラ・トラ」の奇襲成功を報じた人物ですが、彼は戦後、クリスチャンの道へと進み、キリスト教伝道者となっています。アメリカの教会やあらゆる施設にも何度も足を運び講演をしていました。

 

プランゲ教授とのたくさんの手紙のやりとりの中で、たわいもない会話の途中、ふいに真珠湾攻撃の内容を書いている手紙もありました。

「静まり返っていた真珠湾を一番に確認し、奇襲確実と一番に判断したのも自分だった。トラ・トラ・トラの言葉で攻撃が始まった。どんなに悔やんでもあの時には戻れない。」

という内容の手紙をインタビューとしてではなく、個人的なプランゲ教授との手紙のやりとりの中で伝えていました。

 

おそらく、プランゲ教授も淵田美津雄にどのように伝えればよいのか悩んだのではないでしょうか。

 

その他にも、2人はお互いの家族のことも気にかけており、時折手紙にその内容が書かれていました。それらの手紙から2人はビジネスパートナーとしてだけではなくプライベートでも手紙のやりとりをし、とても厚い信頼関係を築いていたのだと思いました。

 

しかし、一方で、淵田美津雄はキリスト教伝道者となったことで、日本の元海軍関係者やアメリカ人からの批判を受け、また時には軍人時代の影響も生じているからなのか心的外傷後ストレス障害(Posttraumatic stress disorder:PTSD)といった精神的な影響もあったと思われ、これについてはプランゲ教授とのインタビューの中で言及している箇所がありました。

 

私が調査した資料はほとんどがすでにタイプされたもので、原本ではありませんでしたが、中には直筆の原本もありとても貴重な資料だと感じました。やはり、どんな形であれ記録を残すということはとても大切なことだと思いました。(M・J)

 

ゴードン・ウィリアム・プランゲと千早正隆

アメリカでは予算案の期限内成立が見送られたため、10月1日から政府機関の一部がシャットダウンされました。私たちが調査のため通っている米国国立公文書館も閉鎖されてしまったため、シャットダウン期間中はメリーランド大学のホーンベイク図書館へ行き、ゴードンプランゲペーパーについて調査をしてきました。

 

ゴードンプランゲペーパーは、メリーランド大学で歴史学を教えていたゴードン・ウィリアム・プランゲ博士が太平洋戦争、特に真珠湾攻撃に関する研究のために収集した、日本海軍部隊が戦時中に書いた日記や地図、新聞記事、写真、真珠湾攻撃に関する重要資料のコピー、アメリカと日本の軍人や民間人に面会をして行ったインタビュー内容、関係者とやり取りをした手紙などを含む膨大な資料のコレクションです。

 

プランゲ博士はメリーランド大学で教授として教壇に立っていましたが、1942 年にメリーランド大学を休職しアメリカ海軍に入隊、1945年には占領軍の一員として日本へ赴任します。太平洋戦争終了後はマッカーサーの下で歴史課長・歴史室長を務めました。この時、多くの旧日本軍人や民間人関係者にインタビューを行いました。また、アメリカに帰国後も太平洋戦争に関する研究を続け、『トラトラトラ 太平洋戦争はこうして始まった』など、多くの著書や論文を発表しました。

 

ゴードン・ウィリアム・プランゲ(1910年7月16日–1980年5月15日)

(Wikipediaより)

 

今回、私が調査をしたのはゴードンプランゲペーパーのうち、ゴードン博士と千早正隆さんとの間でやり取りをした手紙です。千早さんは日本海軍の軍人でしたが、戦後はGHQ戦史室調査員となり、プランゲ博士に協力して関係者へのインタビューや資料の収集にあたりました。また、千早さん自身も自分の体験を基に数々の著書を出版したり、プランゲ博士の著書を翻訳し日本での出版に貢献しました。

 

二人は頻繁に手紙のやり取りをしており、その数は百通におよびます。手紙には、業務的な内容だけでなく、千早さんが日本で新たに入手した情報や写真がプランゲ博士の研究に役立つだろうと思いプランゲ博士に送ってあげたり、プランゲ博士が著書の作成中に疑問に思った事について千早さんに質問をするだけでなく、再調査を千早さんに依頼したりしており、プランゲ博士が太平洋戦争に関する研究を進める上で、千早さんを非常に頼りにしていたのだろうと感じました。また、お互いのプライベートに関することも手紙に書いており、二人がとても厚い信頼関係で結ばれていることを感じました。手紙を読み進めていくと、二人は敵国同士であったのに、終戦後はお互いに協力し、なぜ太平洋戦争が起こってしまったのかという問題に対し、どちらの国にも偏らない公平な目線で研究を進めている二人の関係性が非常に印象深く心に残りました。(YM)

 

千早正隆(1910年4月23日 - 2005年2月8日)(Wikipediaより)

 

終戦後の日本~米国国立公文書館写真閲覧室より~

第二次世界大戦終結からサンフランシスコ講和条約締結までの間、連合国軍の占領下に置かれた日本ですが、政治的な内容ではなく、当時の一般市民の生活に関連して、米国国立公文書館に収められているたくさんの写真の中から三枚の写真をご紹介したいと思います。

 

まず、戦後の日本国民が餓えを凌ぎ、逞しく生き抜いた写真を紹介したいと思います。この写真の他にも、廃墟の後の土地には雑草はなく、すべて野菜や果物で覆われていた写真もありました。戦争を知らない時代に生きている私にはとても印象に残った写真の一つです。

 

この写真は戦後間もない1945年10月に撮影された東京の写真です。写真中央奥には国会議事堂の上部が小さく見えています。コンクリートの建物や蔵は原型のままに見えるものの、民家はトタンを繋ぎ合せた様な仮の作りで、辺りは破壊された状態です。とても今の東京からは想像も付きません。それでも、その狭い敷地を利用して、土地を耕し、種をまき、野菜や果物を育てて人々は生き抜いて来ました。

Photograph SC213554; 1 Oct 1945“over the ruins of their homes, tiny gardens flourish, tenderly cared for by the people who know that they must make the soil product or suffer privation because of scarcity of food.”; Records of U.S. Army Signal Corps, Record group 111-SC; National Archives at College Park, MD

 

ここ米国国立公文書館には、見ていて悲しくなるような、第二次世界大戦中の様子や終戦直後の失望する国民の姿、焼野原状態の日本各地の様子を撮った写真は山ほどあります。終戦後の混乱から戦後の復興、そして高度経済成長期を実現させた「日本国民の強さ」を表すこの様な写真を見て感じる事は、出身国や人種を問わず多くの人の心に残るのではないでしょうか。

 

1948年5月14日に東京で撮影されたお祭りの様子です。残念ながら写真の裏に記載されているキャプションに、細かい地名や祭りの名前等は載っておりませんが「戦後混乱期」と言われる時代にも関わらず、活気に満ちた写真です。

Photograph SC300250; Japanese Carnival 14 May 1948“Japanese children carry a decorated shrine during ceremonies celebrating their carnival held in Tokyo, japan.”Photographer- Hancock Photograph by U.S. Army Signal Corps : Records of U.S. Army Signal Corps, Record group 111-SC; National Archives at College Park, MD

 

皆さんは東京ローズと呼ばれた女性たちの事をご存知でしょうか。東京ローズとは、太平洋戦争中に日本軍が連合国側に向けて行ったプロパガンダ放送の女性アナウンサー達のことで、アメリカ軍将兵がつけた愛称です。

次の写真は、その東京ローズの一人、アイバ・戸栗・ダキノさんの写真です。アイバさんは、日系二世として米カリフォルニア州で生まれ育ちましたが、来日中に開戦となり帰米が叶いませんでした。彼女は日本での生活の為に、東京ローズとしてアメリカ軍将兵達に語り掛けたのです。帰米した後の1949年に国家反逆罪で禁固刑を受け、6年間服役しました。時代が変わるにつれ判決を疑問視する声が高まり、1977年には、フォード大統領の恩赦で30年近く剥奪されていた市民権を回復し晩年はシカゴで暮らしました。戦争は、たくさんの人の心を閉ざし、運命をねじ曲げました。彼女もまた、戦争によって波乱万丈な人生を強いられた一人であり、戦争の被害者であるというべきなのかもしれません。(TI,RB,HL)

 

読書をするアイバ・戸栗・ダキノさんの写真

“Photograph SC289866;“Mrs. Iva Toguri D'aquino, The former "Tokyo rose" of pacific war days. Now spends most of her time reading historical novels and devoting herself to her duties as housewife. Mrs. Toguri graduated from U.C.L.A. in 1941 where she majored in psychology and zoology. On Oct. 25th, 1946 She was released from Sugamo prison for lack of sufficient evidence to support her treason charge. She now resides at 396, Ikejiri machi in the Setagaya ward, Tokyo, Japan”Photographer- Hancock Photograph by U.S. Army Signal Corps : Records of U.S. Army Signal Corps, Record group 111-SC; National Archives at College Park, MD

 

(TI,RB,HL)

公文書館の資料から知るマリリン・モンロー

マリリン・モンローは誰もが知る世界的女優です。米国国立公文書館には彼女の写真や映像資料が数点残されています。

 

マリリン・モンローはNorma Jeane Baker(旧名Norma Jeane Montenson)として1926年6月1日に誕生しました。母親が精神的に不安定なため面倒を見ることができず、幼少からずっと他の家庭を転々としていました。高校生の時に知り合い付き合っていた青年と、当時の養父母に押し付けられるように結婚させられました。

 

高校を中退し家庭に入りましたが、夫が米国商船隊に入った後、航空部品工場で働き始めます。その時に、陸軍雑誌「Yank, the Army Weekly」に掲載する写真を撮るために派遣されたDavid Conoverに見出されモデルになることを勧められます。これが芸能界に入る最初のきっかけとなりました。ちなみに、このDavid Conoverの上司は後に第40代米国大統領となる、ロナルド・レーガンでした。(当時は大尉) 夫は妻がモデルをするのを好まず、結婚生活は4年で終わりました。

 

その後、長く下積みを重ねますが、1952年以降雑誌や映画に頻繁に登場します。1953~54年に「ナイアガラ」「紳士は金髪がお好き」「億万長者と結婚する方法」「7年目の浮気」に出演し、その知名度を不動のものとします。

 

 

この写真には、壁紙のように貼られたマリリン・モンローの写真の部屋で談笑する兵士達が映されています。多くの男性ファンを魅了しました。

With nearly 3,000 pin-ups (including over 200 shots of Marilyn Monroe) serving as wallpaper for their quonset hut, these Marines of the "Devil-cats" squadron are still looking for more, October 28, 1952., 1927 – 1981 Records of the U.S. Marine Corps, 1775 – 9999, Record Group 127 National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through http://research.archives.gov/description/532470]

 

1954年にニューヨークヤンキースのスター選手、ジョー・ディマジオと結婚。ジョー・ディマジオの仕事を兼ねた新婚旅行で日本を訪れます。日本滞在中には、東京にある陸軍病院に収容された米兵一人一人を慰問します。この時の様子が映像資料で残されていますが、大女優の慰問に緊張と感動のあまり固まってしまう兵士や戸惑いを隠せない兵士、どさくさに紛れてマリリン・モンローの頬にキスをする兵士等、迎える兵士の様々な様子が映し出されています。

 

また、朝鮮戦争停戦後も韓国に駐屯する米兵のために、単身日本から韓国に渡り、3日間で13,000人の海兵隊員達の前で慰問公演を行ないました。この時の公演の様子も写真や映像資料で知ることが出来ます。

 

慰問公演は2月のとても寒い時で、映像では雪がちらついている様子がわかります。映像の中でマリリン・モンローは、聴衆やまわりの人達に笑顔でいつもと変わることなくサービス精神旺盛で接していました。本当のエンターテイナーだと思います。

 

 

韓国慰問公演の様子

Marilyn Monroe sings several songs for an estimated 13,000 men of the First Marine Division. Miss Monroe stopped at the First Marine Regiment on her tour of the military units in Korea., 02/16/1954 Records of the Office of the Chief Signal Officer, 1860 – 1985, Record Group 111 National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through http://research.archives.gov/description/532471]

 

 

韓国慰問公演の様子

Marilyn Monroe, motion picture actress, appearing with the USO Camp Show, "Anything Goes," poses for the shutterbugs after a performance at the 3rd U.S.Infantry Division area., 02/17/1954 Records of the Office of the Chief Signal Officer, 1860 – 1985, Record Group 111 National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through http://research.archives.gov/description/531435]

 

私生活の面ではジョー・ディマジオとの結婚生活は9ヶ月で終わりました。マリリン・モンローは大衆が持っているこれまでのイメージから脱出しようと、演技の勉強にも力を入れ方向転換を図りますが、精神の不安定から薬物に頼るようになってしまいます。結局著名な劇作家、アーサー・ミラーとの結婚生活も4年で終り、有名政治家との仲もとりざたされ、1962年8月5日、36歳の若さで自宅にて息を引き取ります。

 

華やかな印象のマリリン・モンローですが、意外にも人権派の一面を持っていました。 職業、貧富の差、人種は関係なくみな兄弟であると信じていました。長生きして欲しかった人の1人です。(MU)

 

第2次世界大戦期のポスター資料

今回はNARAが保存しているポスター資料の紹介をしたいと思います。NARAの5階は写真資料の閲覧室ですが、実はポスター資料のスライドも見ることが出来ます。ポスター資料はカラフルで人目を引くものが多く、様々なテーマから作られています。ポスターが作られた時代背景を垣間見ることができ、スライドを見ているとあっという間に時間が過ぎてしまいます。特に第2次世界大戦時期のポスターは興味深く、公債を買うように呼びかけるもの、 武器増産を呼びかけるもの、愛国心を宣揚するものや、プロパガンダ、兵隊募集のためのポスターが多いように思います。

 

 

これは女性労働者をイメージしたものです。労働意欲を高めるために作られました。赤いバンダナを頭に巻き、青い労働服を着て力こぶしを作っている姿は、とてもたくましく感じられます。このポスターは戦後になって有名になり、今でもこの絵のついたグッズが売られているのを見かけます。

 

We can do it!, ca. 1942 - ca. 1943 [Photographs and other Graphic Materials]; Records of the War Production Board, 1918 - 1947, Record Group 179; National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 535413) at www.archives.gov; July 24, 2013].

 

 

 

戦時税切手購買促進ポスター。JapanazisとはJapanese とNaziをもじった言葉です。この当時ポパイのプロパガンダアニメが作られていたそうで、ポパイは人気キャラクターだったようです。

"Let's blast'em Japanazis Buy war stamps here now", 1941 - 1945 [Photographs and other Graphic Materials]; Records of the Office of Government Reports, 1932 – 1947, Record Group 44; National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 514862) at www.archives.gov; July 24, 2013]

 

 

 

左の破壊された建物にROME, 真ん中の建物にTOKIO、右の建物にBERLINと書かれてあり、枢軸国のドイツ、日本、イタリアの指導者が逃げている姿です。

松葉杖をついて先に逃げているヒトラーに “WAIT FOR ME, ADOLF”と言いながら、左端のムッソリーニが後からついて行っています。

 

100 Percent Production - Axis trouble. Keep the bums on the Double!, ca. 1942 - ca. 1943 [Photographs and other Graphic Materials]; Records of the War Production Board, 1918 - 1947, Record Group 179; National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 534548) at www.archives.gov; July 24, 2013].

 

 

 

このポスターの日本兵には顔がなく、”KNOCK THE PAN OFF JAPAN!”と書かれてあります。Panには顔という意味もあり、Japanのスペルにはpanが入っています。日本をやっつけろという意味あいを、Japanとpan, 顔のない日本兵の絵を使って表現しています。

Knock the Pan Off Japan!, ca. 1942 - ca. 1943 [Photographs and other Graphic Materials]; Records of the War Production Board, 1918 - 1947, Record Group 179; National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 534413) at www.archives.gov; July 24, 2013].

 

 

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硫黄島の地を踏んで

米国公文書館における米軍資料戦没者関係調査の実績をもとに、硫黄島日米合同慰霊祭及び日本側追悼顕彰式への参加に対するご招待を硫黄島協会から有難くいただくことになり、今年3月13日に上司とともに私は硫黄島に行く事になりました。3月12日夕方の結団式に参加、また其の後の硫黄島協会幹部の方々との夕食交流会に参加し、硫黄島協会の幹部の方々の貴重なお話を通じて、戦後から現在に至るまでの長い間、家族を見つけたい、また一体でも多くのご遺骨を家族のもとに帰してあげたいという切実な思いで、この遺骨収集事業に一生懸命関わってこられたことをあらためて学びました。

翌13日に、羽田空港から出発し、飛行機で2時間というところにある硫黄島を飛行機から見た瞬間、私はそれだけで、ついに硫黄島に来ることができたという感無量の思いでいっぱいで思わず涙してしまいました。米国公文書館にある第2次世界大戦中の米軍の記録はあくまで米軍のためのものですが、それでも其の中には、ささやかながらも日本軍に関する情報はあります。もちろん、そうした記録資料自体は報告書なのできわめて冷静または冷酷とも思える文体で書かれていますが、それでもその戦闘がいかにすさまじく凄惨をきわめたものであったかということを資料から少しでも垣間見るような思いを私達は抱いてきました。資料の中には、その原本自体は残っていませんでしたが、それでも、日本兵が残した手紙や遺書の翻訳文も記載されており、時代が異なっていれば、それらの日本兵は私達の夫や父や祖父、または息子や孫であったかもしれず、そうした彼らが、生きて帰ることはできないと覚悟しつつ、それでも、本当は生きて帰りたい、家族に会いたいと最後の最後まで家族を思いながら、亡くなったという無念の思いを考えながら関係資料を読んできました。私たちの理解はあくまで米国資料からの理解であるという限界であっても、硫黄島を実際に見たときに、自分では抑えられないような感情が一気に込み上がってきました。

飛行機からみた硫黄島

 

 

日米合同慰霊祭は、1945年当時にあった米海兵隊第3、4師団の墓地があったところからもう少し南に下った場所に建立された日米再会記念碑前で行われました。硫黄島協会の西泰徳氏(戦車第26連隊長、西竹一大佐の御子息)による追悼のことばに始まり、衆議院議員で硫黄島問題懇話会会長の逢沢一郎氏のことば、硫黄島協会顧問遺族代表新藤義孝氏(小笠原兵団及び第109師団長、栗林忠道中将のご令孫)のお手紙の、硫黄島協会副会長越後良和氏の代読、そして参議院議員で外務大臣政務官の若林健太氏のことばに続き、米国側からジョンパックストンジュニア海兵隊大将及びローレンススノードン海兵隊退役中将からのことばが続き、日米それぞれの献花が行われ慰霊祭は厳粛に終りました。

“かつての戦地、今や友好の地、昨日の敵は今日の友である”と記した日米再会記念碑

 

戦後68年目にあたるこの慰霊祭には米国側から140名、日本側から130名の参加がありました。日米両国の兵士達が68年前に死闘を繰り広げたこの地で日米両国がともに追悼し二度とあのような戦争を繰り返さないと誓い、平和への努力をしていくことを確認するという、慰霊追悼の機会はとても貴重なものであると思いました。

 

日米合同慰霊祭のあと、あらためて天山慰霊碑前で日本側のみの慰霊追悼式があり、関係者の追悼の言葉とともに参加者全員で献花を行いました。そのあと、かなり時間が限られていましたが、硫黄島協会の西会長と会計部長の原口利昭氏とともに硫黄島を案内していただきました。戦車第26連隊の壕があったところは今は蓋をしてある状態ですが、火傷をしてしまうほどの非常に熱いガスが絶えず吹き出ていました。栗林中将の兵団司令部壕の入り口は、屈まなければとても奥には進めないと思えるほど小さなものでした。海軍医務科壕は比較的大きな壕でしたが、其の中はすでに蒸し暑い状態で、そこにいるだけで汗がどんどん出てくるようなところでした。

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鹿児島と神風特攻隊

メリーランド州にある国立公文書館では、機密指定を外され解禁となった太平洋戦争に関連した軍事テキスト資料、フィルムや写真資料がたくさん保存されており、私達はその大変貴重な資料を実際手に取り、毎日資料調査をすることができます。

 

太平洋戦争といえば、日本海軍機動部隊からの第一波、第二波空中攻撃隊による真珠湾への奇襲攻撃から始まった事が知られていますが、鹿児島出身の私は神風特攻隊を思い浮かべます。特攻隊とは太平洋戦争末期に編成された特別攻撃隊の事ですが、私の父方の祖父は特攻隊員だったそうなのです。特攻基地というと旧陸軍知覧特攻隊が有名ですが、鹿児島には太平洋戦争末期、知覧、国分、串良、鹿屋と4箇所の特攻基地があり、海軍の最大の特攻基地であった鹿屋からは戦争末期のたった82日間で908名の尊い命が沖縄に向け飛び立ち、二度と帰ってくることはなかったそうです。この鹿屋基地は父の出身地の隣町であり、祖父はここから飛び立つ予定だったそうなのですが、健康診断で許可が下りなかったのか、病気になったのか、今となっては確かめるすべはありませんが、とにかく祖父は飛ばずに生きて帰ってくることができました。父は戦後生まれですから、この時に祖父が飛び立っていれば私は生まれていなかったことになります。

 

国立公文書館5階には写真の閲覧室があります。そこでは第二次世界大戦や戦後の日本占領に関する写真を含め、90万枚以上の写真を閲覧することができます。その中には私の出身地、鹿児島や鹿屋基地の写真もありました。

 

(戦後の鹿児島市を城山から一望)

Photograph SC336007; “ Views of Kagoshima city and Harbor with MT Sakurajima.” 11 Dec 1949; Records of the U.S.Army Photo-turnbull, Record group 111-SC; National Archives at College Park, MD

 

(終戦直後の鹿屋基地)

Photograph 343540; “ Bomb damage at Kanoya air field,  Showing wrecked planes and hangers.” 2 Sep 1945; Records of the official U.S.Navy photo, Record group 80-G ; National Archives at College park, MD

 

終戦直後の鹿児島の写真をアメリカで見る機会があるというのは不思議なものです。

 

戦争を知らない私が日本の歴史を振り返り、学びなおすよい機会であり、私の子供や後世に伝えていく事が大事なのではないかと思っています。(SW)

 

原爆ドームの思い出

米国国立公文書館にはテキスト資料の他、地図資料、映像資料、写真資料など色々な資料が所蔵されています。今回、久しぶりに広島の原爆投下に関連する写真資料を見る機会がありました。

 

私は広島県の出身です。幼い頃から家庭でも学校でも平和学習というものにとても身近な環境で育ってきました。学生の頃は、頻繁に行われる平和学習や広島原爆資料館への遠足、夏休みの登校日8月6日(原爆投下の日)に学校で黙祷を捧げることなどは当たり前の事と思っていました。

 

しかしながら、広島市民として原爆投下は忘れてはならないことであり、その事を子供の頃からしっかりと学ばせ、後世へと繋いでいくという強い思いの中で全てが行われていたのだということを、最近他県の出身者の方々と会話する中で気付きました。そしてまた広島に生まれた故の経験であると強く感じさせられました。

 

広島でも学校によって平和学習のありかたは様々だとは思うのですが、私が一番覚えている平和学習の内容というのは原爆ドームに関する学習です。一般の方には原爆ドームの本当の名前が、「広島産業奨励館」というよりも、やはり原爆ドームといった方がすぐに分かると思うのですが、平和学習の中のひとつに原爆ドームの建築方法がありました。あの建築方法であったからこそ原爆投下にも耐えられたという風に子供心にもしっかりと記憶しています。

 

広島産業奨励館は爆心地から北西約160メートルの至近距離で被爆しました。広島市内の建物は一瞬にして倒壊したといわれている中、数少なく残っている他の建物の中でも唯一外観が分かる形で残ったといわれている建物なのですが、このドーム型の建物であったため、爆風が上方からほとんど垂直に働いたために建物の中心部(ドームの部分)は倒壊を免れたと言われています。原爆が投下される前から、この建物の出現は当時の広島市民にとって大胆で非常に珍しく広島名所の一つに数えられたということです。その姿は原爆投下後の変化はありましたが、現在に至るまで原爆資料館と並んで広島名所の一つのままその地に残っています。 (MJ)

 

(被爆後の原爆ドーム)

Photograph No.77-AEC-51-4029 Prints: Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki Japan, August 1945; Records of the Office of Chief of Engineers, Record Group 77-AEC National Archives at College park, MD

 

(被爆後の広島 場所は不明)

Photograph No. 243-GWE-HIROSHIMA-10 Prints: General Photographic File for Japan, 1945: Records of the U.S .Strategic Bombing Survey, Record Group 243-G National Archives at College park, MD

 

ミッドウェイ博物館

3月21日~24日にかけて、アジア学会(Association for Asian Studies)がカリフォルニア州サンディエゴで開催されました。

アジア学会はアジアに関する社会問題や歴史、芸術など多岐に渡ったテーマについて、400件近いセッションを行います。ここ数年ニチマイもアジア学会にブースを出し、出版物や業務内容について紹介をしています。

また、セッションに参加し、仕事に関する知識を深めるとともに、今後の研究の方向性やテーマなどに関しての情報収集が出来ました。大変有意義な学会参加でした。

 

アメリカ西海岸にあるサンディエゴは、私が住んでいるアメリカ東海岸と違い、気候も暖かく、ヤシの木がまっすぐ並ぶ美しい街並みです。また、サンディエゴは米軍の海軍基地になっており、サンディエゴ港には沢山の空母艦や軍艦が停泊しています。

その中で特に目を引くのは、巨大な空母艦ミッドウェイです。ミッドウェイは1945年に就役し、1965年にはベトナム戦争に参戦、1980年代には横須賀基地を母港として湾岸戦争にも参戦しました。1992年に老朽化のため退役が決定し、その後は空母博物館として生まれ変わり、サンディエゴで一般公開されています。全長は296mもあり、近くからではカメラに収まりきらない程の大きさです。

 

 

博物館として公開されている空母艦ミッドウェイ

 

まず、艦内に入ると広い格納庫に沢山の戦闘機が展示されており、入口で借りたヘッドフォンガイドの説明を聞きながら各展示物を見ることができます(ヘッドフォンガイドは日本語もあります)。戦闘機のコックピットに乗ることもでき、ところ狭ましとボタンやメーターが配置されているコックピットは想像よりも狭いことに驚きました。次にフライトデッキに上がると、ここにも戦闘機やヘリコプターなどが展示されています。ここから飛行機が飛び立つところを想像すると爽快な気分になりますが、300m足らずの距離で飛行機の離発着が行われていたとは信じられません。

 

 

 

 

 

 

 

F4U-4 Corsair

 

 

 

 

 

 

 

 

フライトデッキから見た司令塔

 

艦内に入ると天井が低く、狭い通路が迷路のように張り巡らされています。狭い通路や階段を登りながら、司令塔や操舵室、艦長室、会議室、無線室、レーダー室、キッチンなどを見学することができます。艦長室はとても豪華な装備で、船の中にいることを忘れてしまう程です。

 

 

 

 

 

 

 

作戦会議室

 

 

 

 

 

 

 

 

レーダー室

 

 

 

 

 

 

 

 

艦長専用キッチン

 

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エルビスと米国公文書館

皆さんは「エルビス・プレスリー」が徴兵され、陸軍に入隊した経歴を持っていた事をご存じでしょうか?

当時アメリカには徴兵制度があり、エルビスのもとにも徴兵の知らせが届きます。エルビスは若者、特に女性の熱狂的ファンを得ていましたが、一般的には眉をひそめられることが多かったようです。

そこで、彼のマネージメントは、この徴兵を一般社会からのイメージアップに利用しようと考え、入隊後娯楽専門の部門に配属させる等の策を練っていたようです。また、受け入れ側の陸軍、海軍からはエルビスを特別待遇で受け入れたいとの要望がありました。

しかし、エルビスはあくまでも一般兵士としての入隊を希望し1958年3月24日~1960年3月5日まで陸軍に在籍しました。

 

これは入隊の際の本人直筆サイン入りの書類です。

Acknowledgement of service obligation sgned by Elvis Presley on March 24, 1958 to indicate that he understands that his total service obligation (both active and reserve) is 6 years, 03/24/1958-03/24/1958
Records of the Army staff, 1903-2009, Record Group 319: National Personnel Record Center-Military Personnel Records, St. Louis MO [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 299792) at www.archives.gov; March 1, 2013]

 

エルビス入隊に関しては、モンタナ州の熱心なファンが3人連名で、当時のアイゼンハワー大統領送った抗議の手紙が残されています。

Letter from Linda Kelly, Sherry Bane and Mickie Mattson to President Dwight D. Eisenhower Regarding Elvis Presley
White House Central Files(Eisenhower Administration), 1953-1961, Collection DDE-WHCF; Dwight D. Eisenhower Library, Abilene KS [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 594359) at www.archives.gov; March 1, 2013]

 

この手紙の内容はかなり面白く、「エルビスのもみあげを切ったりしたら、私たちは死んでしまうから」というものです。

徴兵義務を果たしエルビスは無事芸能界に戻り、陸軍時代に習得した空手を自分のパフォーマンスに使ったりしました。 不遇の時期もあったようですが、カムバックを果たし、1970年にはホワイトハウスで、当時の大統領ニクソンと面会しています。

Photograph of Richard M. Nixon Shaking Hands with Entertainer Elvis Presley in the Oval Office.
White House Photo Office Collection (Nixon Administration), 01/20/1969-08/09/1974, Collection RN-WHPO; Richard Nixon Library, Yonba Linda CA [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 194704) at www.archives.gov; March 1, 2013]

 

いつもは、戦争関係の資料を主に読んでいるのですが、このようなジャンルの違う写真や資料も米国公文書館で保存されていることを知り大変興味深く思いました。 またブログでご紹介したいと思います。 (MU)

サンフランシスコ公文書館

アメリカ国立公文書館(National Archives and Records Administration、NARA) の施設はワシントンDCにある本館をはじめとし、地域文書館やレコードセンターなど、アメリカ各地に30箇所以上あります。NARAが保存する資料はARC(Archival Research Catalog)でオンライン検索が出来るようになっています。キーワードを入れると、そのキーワードに関係した資料の情報が出てきます。通常私たちはアーカイブスⅡとも呼ばれ莫大な資料を保存しているカレッジパークの公文書館で調査をしています。しかし、調査内容によっては他の公文書館などにも行く必要が出てきます。

 

今回は初めてサンフランシスコ郊外のサンブルーノにある公文書館に行ってきました。下記のウェブサイトがサンフランシスコ公文書館の情報になります。

http://www.archives.gov/san-francisco/

 

This photograph was taken by the author on January 7, 2013 

サンフランシスコ公文書館

 


サンフランシスコ公文書館には北・中央カリフォルニアやネバダ州、ハワイ、米サモア、グアム、元太平洋諸島信託統治領から集められた1850年ごろから1980年代までの資料があります。具体的な数量は分かりませんが沖縄の海軍関係の資料もあるようです。移民関係資料が豊富で、職員にお話を聞くと特に中国人移民に関しての資料が多いそうです。日本人“Picture Bride”の写真もあるとの事でした。

 

ここにはアルカトラズの資料もあるそうです。アルカトラズといえば、有名なギャング、アル・カポネなどが入っていた連邦刑務所。極悪人ばかりで、監視の厳しい刑務所であるというイメージがありますが、独房でおまけに食事は良かったとのこと。意外なことにここの刑務所の居心地は他の刑務所と比べると悪くはなかったようです。他の刑務所で脱獄をしたり、問題を起こした場合はこのアルカトラズ島に送られたようですが、必ずしもそうでない人もいたようです。

 

Plan for the Modernization of Alcatraz Prison Cell Block D, 1940 [Architectural and Engineering Drawings]; Records of the Public Buildings Service, Record Group 121: National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 596298) at www.archives.gov: January 22, 2013 アルカトラズ刑務所の独房棟プラン

 


初めて知ったのですが、アルカトラズでの受刑者の中には日系人もいたそうです。彼はカリフォルニア生まれの日系2世で、日本の大学へ留学している時に太平洋戦争が始まりました。そのため米国に帰れず、戦争中は日本側の連合軍捕虜収容所で通訳をしていました。戦後米国へ帰った彼は、戦争中の行いについて国家反逆罪で捕まり、アルカトラズに送られたようです。どういった経緯でこのようになったのか、もう少し彼の情報について知りたくARCで検索をすると、どうやらカレッジパークに資料があるようです。今度、時間のあるときにこの資料を見てみようと思っています。

(NM)

米国の戦没者遺骨収集について

昨年の9月27-28日の2日間にわたり、カリフォルニア州のサンデイゴにおいてJPAC(Joint POW/MIA Accounting Command:米国戦争捕虜及び戦争行方不明者遺骨収集司令部)の主催によるシンポジウムに参加しました。

 

JPACとは、米国防省の指揮下にあるもので、過去の戦争や紛争によって戦争捕虜(Prisoner of War)及び戦争行方不明者(Missing in Action )となり、かつての戦闘地またはかつての敵国領内にいまだに眠っている米兵の遺骨の所在を探索し、遺骨を収集する事業を担っている組織です。歴史学者、考古学者、人類学者 などの様々な分野の専門家及び米軍各部隊の専門家によって組織され、米兵遺骨の所在の捜査及び分析(Investigation&Analysis)、発掘(Recovery)、身元確認(Identification)、そして、家族のもとへの返還と完了(Closure)までの一連の過程を担っており、現在は第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争及び冷戦時のそれぞれの米兵捕虜及び戦争行方不明者の遺骨を捜索しています。この組織に関する詳細情報はこの組織のサイト、http://www.jpac.pacom.mil/ にあります。

 

第2次世界大戦の太平洋戦線における米兵の戦没者遺骨収集事業において、近年の米国内の民間団体の活躍、貢献度は大変著しいものとなっています。今回のシンポジウムはこうした民間団体との相互理解や情報交換を図り、また戦没者遺骨収集のガイドラインの整備をともに考えることを通じて、よりよい成果を出し、さらに遺骨収集事業を推進していきたいという目的の為、JPACが米国内の戦没者関係調査及び発掘を行う民間団体を招聘したものでした。ニチマイは、米兵の遺骨収集事業には直接関係ないのですが、これまでの日本の戦没者関係資料調査においての実績がJPACの歴史家によって高く評価された結果、このシンポジウムに招待されることになりました。

 

100名ほどの参加者で開催された2日間のシンポジウムは、朝から夕方までのセッションがぎっしり詰まったものでした。その内容は、JPACとその他の米国内の戦没者遺骨収集関連組織との関係について、米兵遺骨情報の収集と情報分析の仕方、特定の米兵遺骨の発掘にいたるまでの慎重な準備と調査、現場での発掘を専門とする部隊の詳細、考古学的なアプローチを通じての身元確認までの慎重な分析と鑑定過程、戦没者事業に対する一般の見方及び期待について、JPACが抱える問題点と課題、民間団体による遺骨収集事業推進においての法的手順といった多岐にわたるものでした。こうしたシンポジウムに初めて参加した私はあまりの多くの情報に圧倒される思いでした。しかしながら同時に米国の戦没者遺骨収集事業が、いかに専門的、科学的、組織的、かつ総合的に行われているかを実感せずにはいられませんでした。また、発掘に関しても、海兵隊、海軍、陸軍の違いを超えて、様々な軍部隊の専門家が歴史学者や考古学者または人類学者とともに行動をともにしながら、遺骨が存在する場所(時には奥深い山であったり、海底であったり、軍隊の特殊な訓練を重ねた人間でなければ探索はもちろん、その場所に行く着くことができないような場所)に行き発掘作業にあたるということも衝撃的なことでありました。

 

シンポジウムで入手したJPACのチラシの一部より


また、JPACは、国防省内の別の組織であるDPMO (Defense Prisoner of War /Missing Personnel Office:米国防省戦争捕虜行方不明担当局)とともに米国以外の国々の遺骨収集事業に絶えず注目をしています。第2次世界大戦で行方不明の米兵は73677名であり、その半数以上が太平洋戦線でした。例えば、ソロモン諸島では空中戦で900名、地上戦で600名、海上戦で4500名がそれぞれ戦死し、合計で6000名の米兵が行方不明であるとのことでした。また、旧ビルマ(現ミャンマー)では600名、フィリピンでは7200名、インドでは430名、パプアニューギニアでは2085名、パラオでは1945名、中国では1100名の米兵が行方不明となっています。日本の硫黄島では陸海空軍合わせて約1200名の米兵が行方不明であり、JPACとしてはそうした米兵の遺骨も日本の遺骨収集事業の中で発見されることもありうると考え、今後の日本の遺骨収集事業に注目をしているということでした。DPMO (Defense Prisoner of War /Missing Personnel Office:米国防省戦争捕虜行方不明担当局)のサイトには日本関係情報も掲載されています。http://www.dtic.mil/dpmo/news/factsheets/documents/japan_factsheet.pdf

 

このJPACのシンポジウムに参加した米国内の戦没者遺骨収集民間団体の多くは、JPACの縮小版ともいうべき組織として存在しており、歴史資料調査を担当する人々、実際に現場に行って発掘作業をする人々に分かれながらも連携し、さらに発見した遺骨を鑑定する専門家を集めて研究室を整備しているということでした。中には私財をなげうって、まったくの個人で遺骨収集をしている方もいらっしゃいました。そうした方々の使命感そのものと、またその使命感に支えられてそれぞれ自分の仕事をもちながらも、そうした民間団体の一員として一つ一つのプロジェクトに関わり、年に何度か海外へ足を運んでおられるということで、日本にもそうした団体は規模そのものは異なっていても数多く存在していると思いますが、本当に頭が下がる思いでした。

 

このJPACのシンポジウムへの参加を通じて、捕虜として死亡、または戦闘で行方不明となった米兵に対して、“自分たちは決してそうした兵士を忘れない”ということ、また、”彼らが家族のもとに帰ってくるまで自分たちはこの使命を貫く“という、遺骨収集事業を国として担うJPACの使命感とその多岐にわたる活動の実績、またJPACを支え、また同時に独自に活動を展開している民間団体の存在意義とその実績について貴重なことを学ぶことができたと思っています。(YN)

 

シンポジウムで入手したJPACのチラシの一部より