日本の戦争画家-藤田嗣治

米国国立公文書館には数多くの写真資料が所蔵されています。写真資料からは、戦争当時の様子など現在の私たちでは想像しきれないような事実を感じることができます。これらの写真は、従軍した兵士が撮影したものが多く、彼らはいわゆる「戦場カメラマン」です。日本では今もなお、数少ない戦争体験者の方々の協力により、当時戦地で撮影した貴重な写真を集めた展示などが各地で催されていて、戦争を知らない世代へ平和の大切さを訴え続けています。


ふと「戦場画家」は当時どういう存在だったのだろう、と気になりました。日本の戦争画は日中戦争以後多くの画家により盛んに描かれたそうです。日本軍は陸軍美術協会と呼ばれる組織を設立し、美術を通して戦争を正当化しようとしました。また描かれた作品は戦時中も積極的に公開展示され、多くの国民に「戦争は正しい」と植え付けるプロパガンダ的な役割もあったようです。


米国国立公文書館にも「Collection of Japanese War Paintings」の資料があるとのことで早速閲覧してみることにしました。


大型ボックスに所蔵されているこの資料は一つの大きな冊子になっていて、作品を撮影した写真が一枚一枚丁寧につづられていました。作品は1937年~1945年に描かれたもので、この一冊には約40人もの日本人画家が描いた戦争画約150点が収められていました。


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日本のお祭り

日本人にとって祭りとは、なくてはならない伝統行事の一つと言えるのではないでしょうか。人や土地との繋がりが希薄になった現代において、祭りに参加しその土地や人と触れ合うことは、絆を深め、日本人が大切にしてきた文化を理解する事にもつながります。


お祭りと聞いてまず私が思い浮かべるのは、神輿を担ぎ町内を練り歩く姿ですが、各地域や季節よってまったく異なるものの様です。春は豊作を願うお祭り、夏は疫病退散を目的とした祭り、秋は無事に収穫できた事を神に感謝する祭りなどもあるそうです。それぞれに違うお祭りだからこそ、土地ならではの特徴があり、季節情緒があふれているのかもしれません。 


ここ米国公文書館の5階では、日本の伝統文化や伝統行事を撮影した写真が所蔵されています。その中にお祭りの写真もありますので何点か紹介させて頂きます。       


下の写真は、戦後まもない1946年9月15日に撮影された東京の向島にある牛嶋神社のお祭りの様子です。牛嶋神社の祭礼は町内を安泰祈願巡行する神輿が3箇所に分かれて集まり、牛嶋神社に向かって渡御します。境内には自分の体の悪い部分と同じ場所を撫でると、病気が治ると言われている「撫牛」があり、神社にしては珍しい狛牛もあるそうです。

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東京兵器補給廠 (Tokyo Ordnance Depot) について

私は埼玉県で育ちましたが、生まれはもともと東京都北区の十条というところでした。ある調査で、たまたま、戦後の十条にあった米軍の東京兵器補給廠に関わる資料が出てきたこともありましたので、ちょっとこの東京兵器補給廠について調べてみたくなりました。

 

東京都北部の北区の赤羽、十条、王子と板橋区の板橋といった地域には、もともと明治期から東京砲兵工廠と関連工場が置かれ、兵器や弾薬の製造から管理までを行なっていた歴史がありました。のちに東京造兵廠と呼ばれ、これらの地域には東京第一陸軍造兵廠と東京第二東京第一陸軍造兵廠というものがありました。戦後はこれらの地域を占領軍となった米軍が接収し、東京兵器補給廠 (Tokyo Ordnance Depot)として米軍が使用することになりました。

 

それらの地域の一部は、日本に返還され、1950年末に自衛隊の十条駐屯地となりましたが、のこりの土地は引き続き米軍によって使用され、ようやく日本に返還されたのは1971年のことでした。現在では、自衛隊十条駐屯地の他の土地は、様々な小学校や中学校、大学や公園などになっているかと思います。

 

東京都北区の観光サイトには、自衛隊十条駐屯地の情報(http://www.kanko.city.kita.tokyo.jp/data/a/15.html )があり、また東京都板橋区文化財情報には、東京第二陸軍造兵廠板橋工場の遺構と近代化遺産」(http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/068/068434.html )があり、とても参考になります。

 

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米国公文書館にある音声資料

米国公文書館には、テキスト資料、写真、映像、地図、マイクロフィルムといった形態の資料の他に音声資料もあります。カセット、CD、テープの3種類があります。

カセットやCDは馴染みがありますが、Audio Reelsというカセットテープ出現以前のテープはご存じない方も多いと思います。

これがAudio Reelsというテープです。


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ワシントンDCでの原爆展 

戦後70周年を迎え、各地で戦争に関するイベントが開催されていることと思います。私たちが住んでいるアメリカの首都ワシントンDCでも、6月13日から8月16日までアメリカン大学美術館でヒロシマ・ナガサキ原爆展と原爆の図の展示会が開催されています。

 

http://www.american.edu/cas/museum/gallery/2015/hiroshima-nagasaki.cfm


アメリカン大学では20年前の1995年にも原爆展が開催されたことがあります。

 

ワシントンDCにはスミソニアン博物館という毎年多くの観光客も訪れる場所があります。1995年にそのスミソニアン博物館の一つである航空宇宙博物館で原爆展が予定されていたのですが、退役軍人たちの反対にあい、キャンセルとなった経緯があったようです。


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Japanese American – Nisei Girl’s の太平洋戦争New blog post

アメリカに住んで13年、ここアメリカで生まれ育った日系人の方々はどの様に生き抜いてきたのかと思うことがあります。


日系アメリカ人二世と言えば、戦前、戦中、戦後と日米の架け橋となって戦後の日本再建に尽力された事は言うまでもありません。特に多くの犠牲を払って功績を遺したアメリカ陸軍442部隊を始めとした男性部隊の活躍は目覚ましいものでした。


皆さんは、時を同じくしてアメリカ陸軍婦人部隊(Women’s Army Corps以下WAC)に日系人の女性達がいたことをご存知でしょうか。今回は、太平洋戦争さなかアメリカ陸軍婦人部隊へ入隊した女性達、またアメリカ社会で貢献した女性達、強制収容所で生活しながらも多方面に渡って日系人を支えていた、日系人の女性達をテーマにごく一部ですがご紹介したいと思います。


こちらは、1942年のインテリジェンスの調査です。下記の様に枢軸国のドイツ人やイタリヤ人よりももっと高い水準で日本人が危険視されていることが分かります。この様な環境下でアメリカに住むことは大変だったことでしょう。


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部隊公式マスコットに起用されたディズニーキャラクター

ワシントンDCエリアには多くの博物館や記念館があり、歴史を学ぶには最高の場所だと思います。先日休日を利用してバージニア州のアーリントン国立墓地に行ってきました。アーリントン国立墓地は1864年南北戦争の戦没者のための墓地として築かれ、その後第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争等の戦没者が埋葬されています。

墓地敷地内にWomen In Military Service For American Memorialという記念館があり、ここでは軍で働いた女性兵士達の歴史を学ぶことができます。


Women Air Force Service Pilots(以下WASP)も第二次世界大戦中に軍で働いた女性パイロットの準軍事組織でした。

2万5千人以上の志願者のうち、パイロットの資格を持ち飛行経験のある女性約1千人のみが入隊を認められたそうです。

次の写真にはWASPの4人の女性パイロットが映っています。

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戦後の引揚~シベリア抑留者の帰還

今年は終戦70年の節目の年になります。


戦後まもなく外国に残された日本人は軍人が353万人、一般人が約300万人の合計約660万人いたと言われています。シベリア抑留とは、第二次世界大戦でソ連軍が侵攻、占領した満州で、終戦後に投降した、もしくはソ連軍に捕らえられた、民間人を含む57万5千人の日本人がシベリアやソ連各地に送られて、過酷な強制労働を強いられた長い抑留生活の事で、5万人以上が命を落としたと言われてきました。しかし、近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州・北鮮・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がおり、その内、約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられ、研究書によっては、死亡者は25万人以上と書かれているものもあり、実際の人数は定かではないようです。また、シベリア抑留者約47万人の帰国事業は1947年から1956年にかけて行われました。


カレッジパークの米国国立公文書館には、戦後の引揚関係文書や写真が多数所蔵されています。この中で今回は、シベリア抑留者の帰還と引揚援護局に関係する文書と写真を紹介したいと思います。


下の写真は1946年9月11日に東京のソビエト大使館前で行われた、約3000人が参加したデモの様子です。夫を帰せと書いてある旗を持っている人、家族の無事と帰還を願い泣いている母や夫人が写されています。


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太平洋戦争直後の食生活

食の安全性が色々と問われる時代になりました。

食事は生活には欠かせないものですし、直接体内に入るものなので神経質になるのもやむを得ません。

食べ物のことを考えていた時に、終戦後の日本人はどのような食生活をしていたのだろうか、ということに興味がわきはじめました。


戦後間もなくは食糧難が厳しく、食べ物をかき集める為にほとんどの国民が日々を過ごしていたということはよく聞くことです。小説や随筆などの文学にもそういう光景が描写されていました。配給だけではとても足りないので、買い出しの為の休暇が会社で認められていた、ということも読んだことがあります。特に都市部に住んでいた人たちは、満員の電車に揺られて農村の人に頭を下げて着物などと食糧を交換していましたが、それでも十分な量には満たなかったことも多かったようです。


どのようなものを食べていたかというと、サツマイモやかぼちゃの蔓、大麦やキビ等の穀物であったようです。アメリカからの放出物資もありましたが、それは本国では家畜のえさとなりうるトウモロコシの粉などであったようです。

ここ米国公文書館には戦後の日本の写真が色々あり、当時の様子が分かるものがあるかどうか調べてみました。


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NARAにある日本国憲法関係資料

NARAには日本国憲法関係の資料がたくさんあります。もちろん、その関係の資料をすべて見たわけではありませんが、非常に興味深いと思われる資料がいくつかありましたので今回はそれらをご紹介したいと思います。


明治期に作成されて以来、日本が敗戦を迎えるまで効力を持ってきた大日本帝国憲法(明治憲法)の改正は、戦後の占領期政策の中でも大事なものとされ、すでに1945年秋から占領軍から日本政府へのその改正に向けての指示がされていました。当時の政府ももちろん新たな憲法作成へ向けて動いていましたが、他の民間団体や政治団体も独自の憲法案の作成にむけて動いていました。中でも憲法研究会という民間団体による草案は連合国軍最高司令官であったダグラス マッカーサー(Douglas MacArthur)や関係者によって高く評価され、現在の日本国憲法の原案となったと言われています。


連合国軍最高司令官であったダグラス マッカーサー(Douglas MacArthur)の政治顧問であったジョージ アチソン ジュニア(George Atcheson Jr. )が、1945年11月7日に大原問題研究所の労働経済学者 森戸辰男との話を聞き、一週間後、アチソンはその件について、国務省に報告をしていました。森戸辰男との話の概要は、日本国憲法の作成においては、多くの人間の参加を必要とし、最も重要な点は国民の権利を守ることであること、天皇制の民主化、経済及び政治の民主化の促進などまで触れられていました。同年12月26日に この森戸辰男を含む憲法研究会が、新しい憲法の草案を占領軍に提出しました。1946年1月2日にアチソンから国務省に送った資料には、その憲法研究会の草案の英訳が添付されていました。


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ヘルシンキオリンピック

先日、米国国立公文書館の写真閲覧室でヘルシンキオリンピックの写真を見つけました。1952年にフィンランドのヘルシンキで開催された第15回オリンピック競技大会のことで、戦後日本が初めて参加した夏季オリンピックです。1936年に参加したベルリンオリンピックから実に16年ぶりの夏季オリンピックの参加となり、日本中が喜びで湧きあがったのではないでしょうか。


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クリスマス

クリスマスの季節になると世界の多くの場所が賑やかになり、クリスマス当日に向けて準備をする人達もたくさんいることと思います。クリスマスは宗教的に言えばとても大切な日なのですが、日本ではここ最近宗教的に考える人よりもイベントとしてその日を過ごす人達の方が多いように思います。クリスマスの日にはツリーを飾り、元旦になればしめ縄を飾る。宗教的に考えると一見矛盾しているようにも感じますが、やはり家族や友達と一緒に過ごす大切な機会と思えばつじつまが合うように思います。

アメリカでは宗教的にクリスマスをお祝いする人が日本よりも圧倒的に多いので、遠方に住んでいる親戚達も一緒にクリスマスを過ごし、お祝いするというのが主流です。しかし、第二次世界大戦中はもちろん、現在に至るまでアメリカ軍に在籍している人々には、他の勤務地への出向(現在でいえば、新しい国や州への引っ越し)、家族を連れていけない長期出張など、民間企業に勤めている人々には少し考えられないような事があります。そのため、クリスマスは家族で集まる大切な機会と感じ、その日を心待ちにしているアメリカ軍兵士やその家族はたくさんいることと思います。では、この大切な日をアメリカ軍の兵士達はどのように過ごし、どのぐらいの兵士がクリスマスに家族や友達と会うことができたのでしょうか?


戦時中はクリスマスだから国へ帰るというような事はできるはずもなく、戦闘中であったり、敵に見つからないように潜んでいたり、と勝手に戦地の状況を色々想像してはみたのですが、米国国立公文書館所蔵の一部の資料や写真から兵士達の戦時中のクリスマスの過ごし方というものが少し見えてきました。クリスマスの過ごし方は戦地によって異なりました。

例えば下の写真にあるように、最初の写真はインドのラムガー(Ramgarh)にて行われたクリスマスパーティーの記録です。とても楽しそうにお酒を飲んだりご馳走を食べていたりする写真が数枚ありました。また、二枚目の写真は同じ第二次世界大戦中のクリスマス当日、ビルマにて撮られた写真です。この後に続く同じ日に同じ場所で撮られたと思われる写真には、山道を列になって進んでいる様子が記録されていました。他にも、クリスマスの過ごし方は部隊の指揮官によって決まるといってもいいほど、各部隊の指揮官達が案をしぼりクリスマス・イブやクリスマス当日の計画を立てるという習慣があることを知りました。


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