ニチマイ米国事務所スタッフは、米国国立公文書館において資料調査を行なっています。膨大な量の資料と格闘しながら、日米の歴史に触れ、毎日新しいことを学んでいます。私達の日々のささやかな発見や小さな感動をお伝えしたく、スタッフが交代で記事を書いていきます。
もともと両親が、イギリスの劇作家であり詩人であったウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare: 1564-1616)が大好きであったこともあり、私は物心ついた時から、『ロミオとジュリエット』、『ベニスの商人』、『真夏の世の夢』、『ハムレット』、『リア王』、『オセロ』、『マクベス』などシェークスピアの本はもちろん、映画や演劇にも慣れ親しんできました。彼の作品は人間の普遍的な心理をテーマにしているので、時代を超えて多くの人々に愛されてきたのだと思います。
米国に来てからも、ワシントンDCにあるフォルジャー・シアターで、観劇はなんどかしたことがありましたが、フォルジャー・シェークスピア・ライブラリー(Folger Shakespeare Library)にまだ行ったことはありませんでした。今回、ようやく行ってきましたので、そのライブラリーについてご紹介したいと思います。
ライブラリーは、ワシントンDCの米国議会図書館の隣にあります。ニューヨーク生まれの弁護士でかつスタンダード石油会社の会長であったヘンリー・クレイ・フォルジャー(Henry Clay Folger: 1857-1930)は、英語学の専門家であった妻のエミリー・クララ・ジョーダン(Emily Clara Jordan Folger: 1858-1936)とともに、生涯を通じて、シェークスピアの本や、関連資料を財力と情熱を持って一生懸命収集し、またそれらのコレクションを多くの人々に利用してもらうために、図書館創設を計画し、1932年に完成しました。
フォルジャー・シェークスピア・ライブラリーの外観と入り口。これらの写真も以下の写真もすべて10/11/2024 撮影
このフォルジャー・シェークスピア・ライブラリーのコレクションは、27万7千冊にも及ぶ本、6万点のマニュスクリプト、9万点のグラフィックマテリアル、そして25万点プレイピル(Playbill: 演劇のビラやポスター)があります。(参照:Collection size: https://folgerpedia.folger.edu/Collection_size?_ga=2.65915950.1484272461.1728840495-1390104131.1725294672 2023年2月15日現在の情報。)
シェークスピアは、エリザベス女王一世(Elizabeth I: 1533-1603)の統治下のロンドンで、ロード・チェンバレンズ・メン(宮内大臣一座Lord Chamberlain's Men)という劇団の幹部メンバーの一人となって、俳優兼劇作家として活躍し、エリザベス女王の後のジェームズ一世(James I:1566-1625) の時代には、その劇団は、キングズ・メン(国王一座:King's Men)となり、彼は引き続き、幹部メンバーとして、さらなる活躍をしました。彼が亡くなってから7年後の1623年に劇団仲間の友人のジョン・ヘミングス(John Heminges:1566-1630) とヘンリー・コンデル(Henry Condell: 1576-1627)の編集によって、出版されたシェークスピアの最初の戯曲全集(36作品を含む)は、ファースト・フォリオ(First Folio: 最初の2つ折りの本)と呼ばれ、イギリスの文学史上最も重要な書物と言われています。この全集が出版されなければ、『マクベス』や『十二夜』といった作品は世に知られることがなかったともいわれており、シェークスピアの友人たちが編集して出版した功績も忘れてはならないものだと思います。その後もセコンド・フォリオ(Second Folio) が、1632年に、サード・フォリオ(Third Folio)が1663年に、そして, フォース・フォリオ(Fourth Folio)が1685年に出版されました。こうしたフォリオを含めシェークスピアの原稿や写本、当時のイギリスのルネッサンス文学関係の本や資料においては、このライブラリーが収蔵する量は世界一と言われています。
このライブラリーのコレクションの概要は、こちらのサイトから見ることができます。https://www.folger.edu/research/about-our-collections/
このフォルジャー・シェークスピア・ライブラリーのリーデイング・ルーム(閲覧室)の様子は、閲覧中は撮影は禁止されているため、ここで写真をご紹介できないのですが、このライブラリーが、ユーチューブで正式に紹介しているプログラムがありますので、それをご覧いただければと思います。この動画の3分21秒目から5分52秒目までがリーデイング・ルーム(閲覧室)の紹介となっています。Fly through the Folger Shakespeare Library:https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=WFbjxpq1jwM
このライブラリーのコレクションの中にはオンライン上で見たり、ダウンロードできるものもあります。それらの中には、日本語のものもあります。下記は1903年(明治36年)2月11日に東京の明治座で『オセロ』が上演されたときの芝居のチラシです。それまでの旧劇(歌舞伎)とは異なった新派劇を担った川上音二郎(1964-1911)が、その上演を担い、以後、『ハムレット』や『ベニスの商人』なども上演し、近代演劇を日本に定着させていきました。
[Poster or playbill for performance of Othello, February 11th, Meija 36th year, i.e.1903] [graphic] Digital image file name: 1303. ART File P857 no.11. [Tokyo, Japan] : [Meiji-za Theatre], [1903] Folger Shakespeare Library, Washington, DC: https://digitalcollections.folger.edu/img1303
上の資料に関連して、このライブラリーの展示の中に、以下の写真を見つけました。
1905年(明治38年)に川上音二郎らの劇団が、日本で上演した『ハムレット』の写真で、役者達が着物で演じたものと、西洋の服を着て演じたものがあったことがわかります。また、女性が一人で映っているのは、川上音二郎の妻で女優の川上貞奴(さだやっこ)です。
“And his hair disheveled.” 1905. Kawakami Otojiro )1864-1911) was well-known Japanese actor and comedian whose acting troupe performed in Japan and toured Europe and the US later in his career, his cm[any became interested in performing Western plays in Japan. In their 1905 production of Hamlet, Kawakami Otojiro himself-pictured here-played the ghost of Hamlet’s father. Shakespeare in Japan, “Hamlet” and “Othello” according to the Japanese. ART Flat a 14 no. 09 PHOTO.
ある調査で、米国国立公文書館や米国議会図書館のサイトを検索していたときに、たまたま、日露戦争中に活動していた日本赤十字の看護婦の写真を見つけました。なので、今回は、その写真とともに主に第1次世界大戦前後の日本赤十字関係の写真をご紹介したいと思います。
[Japanese Red Cross nurses at Chemulpo attending Russian soldiers wounded in battle of Feb. 9] c1904. Control No. 2005679332. Library of Congress, Prints and Photographs Division Washington, D.C. https://www.loc.gov/item/2005679332/
日露戦争の陸上での主な戦場は中国の遼東半島や満州地域や朝鮮半島でした。上の写真は、Chemulpo(チェムルポ/済物浦、現仁川/インチョン)でロシア兵を看護する日本赤十字の看護婦の写真です。とても貴重な写真だと思います。
Left: Dunant, (Jean) Henri (1828-1910). A Swiss author and philanthropist, founder of the Red Cross society. He was born in Geneva and conceived the idea of founding a society for aiding wounded soldiers while visiting the scene of the battle of Solferino. He wrote "Un Souvenir de Solferino" in 1862, and delivered lectures advocating relief in war before the society of public utility in Geneva. Soon afterward a meeting was held in that city which resulted in the Geneva Convention (1864) and the establishment of a permanent international committee. In 1864 the cooperation of 10 governments had been obtained, and the Red Cross society was officially established (Aug. 22, 1864). Dunant bestowed his entire fortune on various charities. In 1901 he shared the first Nobel peace prize with Frederic Passy. 8/25/39. Control No. 2017680242. . Library of Congress, Prints and Photographs Division Washington, D.C.
https://www.loc.gov/item/2017680242/
Right: A memory of Solferino : Un souvenir de Solferino, J. Henry Dunant” 1947. London : Pub. by Cassell for the British Red Cross Society. Identifier: b29978877. Internet Archives, San Francisco, CA 94118. https://archive.org/details/b29978877/mode/2up
左上の写真は、スイスの実業家であった、ジャン・アンリ・デュナン(Jean Henri Dunant、1828-1910) の晩年の写真です。赤十字社は、彼によって1863年に創設されました。デュナンの一家はもともと福祉活動に熱心であり、彼も若い時からいろいろな福祉活動に関わっていたと言われています。彼は、当時、フランスの植民地であったアルジェリアの人々の生活を助けるために農業や事業を展開しようとしていましたが、水の利権を獲得することができず、その請願をするために、1859年、当時イタリアの統一戦争を支援していたフランスのナポレオン3世に会いに戦地のイタリアへ行きました。そこで、彼は凄惨な戦闘で路上にあふれていたたくさんの死傷者の姿に愕然として、地元の女性達とともに彼も看護活動に参加しました。その時の体験をまとめたものが、『ソレフェリーノの思い出』(”Un Souvenir de Solferino” A Memory of Solferino)というもので、この本を出版し、敵味方の区別を超えて、誰もが救済されなければならないこと、またそうした活動をする組織を設立することの重要性を説きました。これが、1863年の赤十字社の創設、そして1864年の国際人道法と呼ばれるジュネーブ条約によって正式な赤十字国際員会ができました。
1867年にパリで国際博覧会が開催され、当時の日本は幕末動乱期のさなかでしたが、日本としては初めての参加となり、当時の江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩が参加しました。この時の佐賀藩の代表の一人としてパリを訪れた佐野常民(さのつねたみ)は、そこで赤十字という組織の存在に感銘をうけたと言われています。1877年、西南戦争が起こったときに、彼は、敵味方の区別なく負傷者を救護するための博愛社を設立しました。この博愛社が日本赤十字の前身となり、1887年、正式に日本赤十字社になりました。
佐野常民についての詳細は、こちらのサイトをご覧いただければと思います。
*日本赤十字社、歴史・沿革:https://www.jrc.or.jp/about/history/
*佐野常民生誕200年:日本赤十字を創った男の素顔:https://www.jrc.or.jp/webmuseum/column/sano-200th/
Left: Headquarters of the Red Cross Society of Japan. 1/23/1919 date received. Control No. 2017668847. Library of Congress, Prints and Photographs Division Washington, D.C. https://www.loc.gov/item/2017668847/
Right: Medical Department - Nurses - In Theater of Operations - Japanese Red Cross nurse on porch of Japanese Red Cross hospital. 1914-1918. 165-WW-257C-13. RG165, Records of the War Department General and Special Staffs 1860-1952, Series American Unofficial Collection on WWI Photographs, American Red Cross-Refugees. NAID: 20804804. National Archives in College Park, MD. https://catalog.archives.gov/id/45496590
アメリカのダイナー(Diner)は、もともと電車内の食堂車や簡易食堂といった意味があったようですが、そこから手ごろな値段で、パンケーキ、オムレツ、ベーコン、ポテトの朝食メニューや、ハンバーガーやホットドッグやサンドイッチなどの昼食メニューなどをお腹いっぱい食べられるような身近な食堂として独自の発展を遂げてきました。アメリカで生まれ育ってきた人々であれば誰にとっても馴染みのある場所であり、それを日本の感覚でいうと、地元の行きつけの食堂または定食屋という感じなのかなと思います。
私にとっては、ダイナーは、80年代のたくさんのアメリカ映画の中のシーンに出てくる、イメージであり、ドラマが生まれるような魅力的な場所のようにも思えます。こうしたダイナーは、いわゆるレストランやカフェ、またファースト・フード店とも異なり、独特の食堂として存在していたし、アメリカ文化を考えるうえでも象徴的なものの一つといえるのではないかと思います。
Top left: Bert's 50's Diner in rural Mechanicsville, Maryland. 8/6/2017. Control No. 2018697895. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2018697895/
Top right: Bert's 50's Diner in rural Mechanicsville, Maryland. 8/6/2017. Control No. 2018697896. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2018697896/
Bottom: Bert's 50's Diner in rural Mechanicsville, Maryland. 8/6/2017. Control No. 2018697897. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2018697897/
上の3枚は、メリーランド州の南部のセント・マリー郡のメカニクスビル市にあった、「バートの50代のダイナー(Bert’s 50’s Diner)というダイナーの写真です。このダイナー自体が始まったのは1980年代半ばでしたが、店内は1950年代の雰囲気を出したもので、地元ではとても人気があったようですが、残念ながら2022年に閉店してしまいました。
米国議会図書館や米国国立公文書館には、そうしたダイナーの写真がありますが、その多くはすでに無くなってしまったものが多いのですが、中には現在も頑張って営業をしているダイナーもあります。
Top left: Modern Diner, diagonal front detail, Dexter Avenue, Pawtucket, Rhode Island. 1978. Control No. 2017702224. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2017702224/
Top right: The Modern Diner in Pawtucket, Rhode Island is one of two known surviving Sterling Streamliner locomotive-style diners still in operation as of 2018 (the other is in Salem, Massachusetts). 07/25/2018. Control No. 2018700651. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2018700651/
Bottom: Modern diner, Pawtucket, Rhode Island. 1980-2006. Control No. 2011630228. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2011630228/
上の3枚の写真は、ロードアイランド州のポータケット市にある、モダン・ダイナー(Moden Diner)というダイナーの写真です。このモダン・ダイナーは、1941年から、現在でも、営業をしており、地元の人々に愛されている、歴史的にも貴重なダイナーと言われています。
このモダン・ダイナー(Modern Diner)のサイト:https://moderndinerri.com/(注) によれば、その地域でのダイナーの始まりは、ウォルター・スコット(Walter Scott)という人物が、1872年に馬車でパイ、コーヒー、軽食を、夜仕事をする人々に売ったのが始まりと書かれていました。
(注:2024/8/14現在、このサイトにはアクセスできないようです。FaceBookURLはこちら https://www.facebook.com/modern.diner/)
そうした話を聞くと、19世紀半ばのアメリカの開拓時代のカワポーイ達のために使われた、チャックワゴン(Chuck Wagon)という、炊事用の幌馬車を思い出します。当時の「チャック(Chuck)」とは食べ物を意味するスラングでした。もともとは南北戦争中の軍用の幌馬車を改良したものと言われているようですが、こうしたチャックワゴンも、のちのダイナーの発展に貢献したものであったのではないかと思います。
2024年もあっとという間に半年が飛び去ってしまい、後半に突入してしまいました。
このところ、かなり蒸し暑い日々が続いていますが、その暑さに負けることなく乗り切っていかなければと思っています。
ある調査で、米海軍のカラースライド資料を見ることになったことがきっかけで、あらためて第2次世界大戦中のものをご紹介したいと思いました。米海軍のカラースライド資料は、RG80GK(Color Photographs of US Navy Activities 1939-1958 Reference/Reproduction Slides) というものになります。これらのカラースライドを見るためには、まず、RG80GKC(General Records of the Department of the Navy-Visual Aid Subject Index to Color Photographs of the Navy Activities WWII) というカラースライドの画面を白黒写真にしてその横にキャプションをつけた小さな目録カード資料を見るところから始まります。
左下の写真は、そのRG80GKCのファインディングエイドのフォルダーです。中身は、Box 1:Aircrafts (海軍航空機)からBox 14:Weapons(武器関係)までの簡単なトピックが書かれているだけのものですが、それらの中からBox 4-5のWWII (第2次世界大戦)を選び、それらの箱を出してみたときのものが右下の写真になります。
上の2枚:7/3/2024 米国国立公文書館5階写真リサーチルームにて撮影
以下の写真は、その箱の中の様子と、目録カードです。この写真は、1942年にルーズベルト大統領夫妻が、ワシントンDCの米海軍海軍工廠(ワシントン・ネイビー・ヤード)に来た時のもので、詳細はあらためてそのカラースライド写真とともに述べます。
左上:7/3/2024 米国国立公文書館5階写真リサーチルームにて撮影。
右上:Washington Navy Yard, DC. 80GK-13832. President Roosevelt speaks from his auto, during ceremonies on the Yard Waterfront transferring “A Fighting Ship to the Navy of a country struggling against The AXIS.” Ca. 1942-1944. Mrs. F.D. Roosevelt is standing behind the car, amid a crowd of Secret Service men. RG80GKC, Box. 4.
上記の写真の番号は、80GK-13832とあるので、今度は、その番号をもとに、RG80GKの箱を探して請求するということになり、該当する箱と、その箱の中身のスライドの様子が以下になります。
上の2枚:7/3/2024 米国国立公文書館5階写真リサーチルームにて撮影。
ワシントンDCの米国国立公文書館内では、今年の3月から7月までは、「パワーとライト:ラッセル・リーの炭鉱調査」(Power & Light: Russell Lee's Coal Survey:https://museum.archives.gov/power-and-light-russell-lee-coal-survey )という展示が開催されています。イリノイ州出身の写真家でありジャーナリストでもあったラッセル・リー(Russell Lee: 1903-1986) は、ルーズベルト政権下の、大恐慌の影響を受けた農業の救済と復興を目指す農業安定局(FSA:Farm Security Administration)のおける写真記録を残すために雇用されたことをきっかけとして、米国内のいろいろな地域と人々の生活を撮影しました。彼は、真珠湾攻撃後、日系収容所に収容された日系人の写真を撮影したカメラマンの一人でもありました。戦後は、内務省による米国内の炭鉱地域の医療調査に関わり、炭鉱地域の人々の写真を撮りました。
それらの炭鉱関係の写真は 米国国立公文書館に 全部で約9000枚近くあり、それらのうちの約半数がデジタル化されているようです。これらのすべての写真が、ラッセル・リーによって撮影されていたわけではないのですが、それでも彼の多くの写真を見ることができます。左下は、米国国立公文書館のサイト上の、「炭鉱産業の医療調査の写真」(Photograph of the Medical Survey of the Bituminous Coal Industry, 1946-1947, ) の画面です。このタイトルの、”Bituminous” という言葉は、「バトゥミマス」と読み、歴青炭/瀝青炭(れきせいたん)という代表的な石炭で、比較的柔らかいものであると言われています。
Left: https://catalog.archives.gov/id/540230
Right: A miner. P V & K Coal Company, Clover Mine, Lejunior, Harlan County, Kentucky.9/13/1946. No. 245-MS-2525L. RG246, Records of the Solid Fuels Administration for War 1937-1948, Series: Photographs of the Medical Survey of the Bituminous Coal Industry1946 – 1947 NAID: 541294. https://catalog.archives.gov/id/541294
これらの写真はすべて、レコード・グループ246の戦時固形燃料管理局記録(Records of the Solid Fuels Administration for War 1937-1948)という資料群の中の、石炭産業の医療調査の写真(Photographs of the Medical Survey of the Bituminous Coal Industry1946 – 1947 )というシリーズのものとなります。このシリーズの写真はたくさんあり、今回はそれらのほんの一部をご紹介したいと思います。
左下の写真は、炭鉱内で、石炭の積み込み作業員が、粘土が固まってできた堆積岩で、薄い板状に割れる粘板岩(スレート)と石炭を、機械で粉砕した、バクダスト(虫の粉)と呼ばれるものを貨車に積んでいるものです。1回の作業で、2トン、1日の合計で16から17トンの積載量になります。右は、その作業員が、石炭の固い層を崩すためにその分を爆破させるために、火薬を詰めて点火の準備をしている様子です。
Left: Harry Fain, coal loader, loads "bug dust" which is mixed slate and coal ground by the undercutting machine. He will load about 2 tons net coal in this operation. His total loading for the day will be 16-17 tons. Coal seam is 4 feet thick. Inland Steel Company, Wheelwright #1 & 2 Mines, Wheelwright, Floyd County, Kentucky.9/24/1946
No. 245-MS-3244L. NAID: 541478. https://catalog.archives.gov/id/541478
Right:Harry Fain, coal loader, tamping the powder charge preparatory to ignition. Inland Steel Company, Wheelwright #1 & 2 Mines, Wheelwright, Floyd County, Kentucky.9/24/1946. No. 245-MS-3243L.
NAID: 541477. https://catalog.archives.gov/id/541477
こうした写真を見ただけでも、炭坑内の作業は、出入り口から、かなり離れた、暗いところでの作業であり、息苦しいところではないだろうとかと想像してしまいます。しかも、その作業は、坑内の地質や岩盤状態による影響もあり、さらに、ガスの噴出や地下水の流出、そして落盤や落石などの可能性が常にあるはずなので、どれほどの肉体的及び精神的負担が強いられるのかと思うと、緊張感があります。下の写真は、ようやく1日の作業を終えて、外にでていた作業員達の様子です。
Left: Blaine Sergent, left, comes out of the mine at the end of the day's work. P V & K Coal Company, Clover Gap Mine, Lejunior, Harlan County, Kentucky. 9/13/1946. No. 245-MS-2524L NAID: 541293. https://catalog.archives.gov/id/541293
Right: John Roman, Robert Rose and John Nakitis, miners. H. C. Frick Coal Company, National #3 Mine, Muse, Washington County, Pennsylvania. 6/12/1946. No. 245-MS-71L. NAID: 540253. https://catalog.archives.gov/id/540253
ワシントンDCの米国国立公文書館からチャイナタウン方面に向かって5分ほど歩くと、スミソニアンアメリカ美術館 (Smithsonian Art Museum) と国立肖像画美術館 (National Portrait Gallery) の2つの美術館が入ったギリシャ建築の大きな建物があります。
(2024年5月6日筆者撮影。以下同様。)
この建物は、ワシントンDCの中の一番古い建物の一つとして知られています。その歴史は、1836年のアンドリュー・ジャクソン大統領が特許オフィスの建設命令を出したところから始まりました。南棟ビルから建設が始まり、それから東西棟の建設、そして北棟の建設と少しずつ進み、最後の北東が完成したのは1868年のことでした。南北戦争中(4/12/1861-4/9/1865)には、この建物は病院や戦闘で亡くなった兵士達の遺体安置所として使われていました。リンカーン大統領の就任の舞踏会もここで開催されました。
1968年にスミソニアン・アメリカ美術館と国立肖像画美術館としてスタートして以来、1階から3階までの展示会場には、少なくとも数時間は要してしまうような膨大なコレクションが展示されており、また時期によって、いろいろな特別展も開催されており、とても興味深い美術館です。ナショナル・ギャラリー・オブ・アートを含むスミソニアン博物館・美術館は、ナショナルモール内にありますが、それらとは異なって、ワシントンDCのチャイナタウン近くにあるこの美術館も壮大なので、ワシントンDCにいらっしゃることがあれば是非ご覧いただきたい美術館です。
現在、特別展の一つとして開催されているのが、「自由のための戦士たち:ウィリアム・ジョンソン展」です。
North Carolina Education Library Services. Negative 10241-D. It is a cherry “So long” waved by Miss. Julius Amis, Supervisor WPA Library Projects, as this “bookmobile” starts its first trip to Greene, Lenoir, and Jones counties. Remodeled from a discarded 1934 pick-up truck, this vehicle supplements the demonstration one owned by the sponsoring State Library Commission. This makes the 16th “bookmobile” in North Carolina operated by the WPA the State and several counties, distributing books to country libraries, crossroad stores, rural homes, and factories. Records of the Work Projects Administration (WPA), RG69N, General Subject Series, 1933-1944. Box 13. National Archives in College Park, MD.
上の写真は、1930年代の移動図書館の写真の1枚です。今回は、米国国立公文書館にある、移動図書館についての写真を紹介したいと思います。
世界史の中で、図書館の始まりを考えると、すでに紀元前の時代から始まっていたと言われています。移動図書館は、ヨーロッパでは18世紀後半には始まっていたようですが、米国では、1905年にメリーランド州のワシントン郡立図書館の最初のライブラリアンであったマリー・レミスト・テイットコム(Mary Lemist Titcomb: 1857-1932)によって始められました。彼女は 図書館に図書を用意して人々がやってくることを待つという発想だけでは十分ではなく、もっと一歩踏み込んで、そこまで図書館まで来ることができない人々のもとまたは地域へ直接図書を届けるべきだという考えを持って、馬車形式の移動図書館を始めました。(参照:①Mary Lemist Titcomb at Maryland State Archives: https://msa.maryland.gov/msa/educ/exhibits/womenshallfame/html/titcomb.html
②The First Bookmobile - Washington County Free Library, MD at Western Maryland’s Historical Library: https://www.whilbr.org/bookmobile )
その後、移動図書館が急速に普及をしたのは、1930年代のことでした。1929年の9月の米国での株の大暴落をきっかけとして起こった世界恐慌、そして当時の米国のフランクリン・ルーズベルト大統領が、それを克服するために打ち出したニューディール政策が、大きく流れを変えることになりました。このニューディール政策を遂行した最大でかつ重要な機関が、公共事業促進局(または雇用促進局:WPA: 当初はWorks Progress Administrationであり、後にWorks Projects Administrationとなった。)であり、当時の大量の失業者を雇い、公共建築や公共施設の建設を推進し、また音楽や美術、演劇、執筆・研究活動の分野の専門家も雇用してそうした活動を保護しました。こうした動きの中で、地域の図書館建設も拡大し、また移動図書館の活動も広がっていくことになりました。
英語では、移動図書館は、Mobile Library, Bookmobile, Book wagon, Library truck, Traveling libraryなどの言葉となり、米国国立公文書館にも移動図書館に関する興味深い写真資料がまとまってありました。
Left: Kentucky Knott Co. Hindman. Education Library Service. Negative 12782-C。Taken Jan. 11, 1938. Carriers mostly women, travel the remote sections of the state by horse and mule. They meet once a week at their library headquarters where the saddlebags are replenished with books for eager mountain folk. These carriers are paid a small salary by the WPA in Kentucky.
RG69N Box 13.
Right: Kentucky Leslie Co. Cut shin. Education Library Service. Negative 12878-C.Trails are hard and riding is dangerous excepting at such points where the Works Progress Administration has completed its farm to market road program. From Records of the Work Projects Administration (WPA), RG69N, General Subject Series, 1933-1944. Box 13. National Archives in College Park, MD.
1930年代の移動図書館はすでに車が普及していたので、車が主流となりましたが、地域によっては、車が通れるような道路がない地域もありました。なので、上記の写真のように、ケンタッキー州の山間部では、ライブラリアンが馬に乗って人々に図書を届けていました。週一回町の図書館の本部に集まり、それぞれの馬に図書が入った袋を積み、山に登ったり浅瀬を渡ったりしました。その道のりは大変であり、危険も伴うこともありました。
Left: Kentucky Mill Creek, Knott Co. Education Library Services Negative 12794-C.
This young mountain wife shortly is to become the mother of her first child. The WPA’s Pack Horse Librarian has for months furnished her with literature on hygiene and the care of infants. She will probably go through her confinement without the aid of expert medical attention, but she will receive the attention of the WPA’s housekeeping aid, if she so desires.
Right: Kentucky Knott Co. Hindman. Education Library Services Negative 13122-D. Pack Horse Librarians regularly read aloud to children in mountain schools. Note the rapt attention and the lack of desks for which chairs are substituted. Also, note the little girl in the front row who has brought a young brother of preschool age and holds him on her lap while he listens.
From Records of the Work Projects Administration (WPA), RG69N, General Subject Series, 1933-1944. Box 13. National Archives in College Park, MD.
上の左の写真は、ライブラリアンが、馬に乗って運んだ本が、ようやく山間部に住む人々の手に渡されるときのものです。受取人の若い女性はもうすぐ赤ちゃんが生まれるため、保健衛生関係の本や子どもの世話に関する本を借りています。また、右の写真は、ラインブラリアンが馬にのって山間部の学校に本を運ぶだけではなく、子ども達に本を読んでいるものです。それを聞いている子供たちの中には、まだ学校に上がらない幼い子も、兄弟姉妹の膝に乗りながらその読み聞かせを聞いています。
2024年という新たな年が始まったと思ったら、すでに3月半ばを迎えてしまいました。ワシントンDC周辺の桜も、来週にはピークになると言われています。
一方で国際情勢を見ると、ロシアのウクライナへの侵攻は丸2年を経てもいまだに続き、ロシアの反体制活動家のアレクセイ・ナワリスイ氏が北極圏の収監先で亡くなったことも衝撃的でした。また昨年10月のパレスチナのハマスがイスラエルへの大規模な攻撃を行い、それに対してのイスラエル側の報復も現在も続いています。米国に住んでいると、同じコミュニテイーに住んでいる近所の人々、また米国国立公文書館に出入りするリサーチャーの人々、また娘の大学の友人達の中には、こうした紛争国にルーツを持つ人々も少なくないし、彼らの血縁者や友人達も今もその紛争地で生活している場合もあるので、新聞やニュースで報道されている国際情勢も決して遠くの国のことではないことを日々実感させられます。
究極の暴力の中で、犠牲となるのは、兵士達だけでなく、一般の市民と子ども達であり、それは、日本がかつて体験した戦争の時代と重なります。そうしたことから、今回は、あらためて沖縄戦に巻き込まれた一般の人々に関する写真の中の、特に子ども達に関する写真をいくつか紹介したいと思いました。以下の写真のいくつかは、すでにいろいろな写真集でも紹介されてきたかと思いますが、あらためて原資料を見ると、大きなインパクトがあり、私達は今後も謙虚にあの沖縄戦について学び続けなければいけないと思いました。
Left: Little Japanese girl approaches US lines with white flag, offering to surrender. 6/25/1945. Photo No. 370936. Box 786. RG111SC, Records of Signal Corps WWII and After photograph, National Archives in College Park, MD.
Right: Lt. Milton B. Sorem, MC USNR, Det 86, attached to 77th Division, leads Japanese children found in cave near Shuri to safety behind American Line, Okinawa. 6/10/1945. Photo No. 208831. 6/10/1945. Album No. 2797. RG111SCA, Records of Signal Corps WWII and After photograph, Albums, National Archives in College Park, MD.
Left: These Jap children were found in a tomb about 50 yards from the front lines on Okinawa. 4/23/1945. Photo No. 207319. Album No. 2796.
Right: Dr. E.W. Edwards, Gulfport, Miss., treats badly shattered hand of child injured during fighting on Okinawa.6/21/1945. Photo No. 209001. Album No. 2797.
Both from RG111SCA, Records of Signal Corps WWII and After photograph, Albums, National Archives in College Park, MD.
上段の左の写真は、「白旗の少女」としてよく知られているものです。後に、この少女であっ比嘉富子氏がのちに名乗りを上げて、小説を書き、その小説はテレビドラマになったかと思います。その右の写真は、沖縄本島の上陸部隊の一つであった米陸軍第77師団の傘下にあった海軍第86設営隊員が首里城近くの洞窟で発見した子ども達を連れている写真です。また、下段の左の写真は、米軍の戦闘の前線からかなり近くの墓で発見された子ども達、その右の写真は、小さな男の子の左手が砕けてしまい、それを米軍の外科医が手当をしている様子です。これらの写真を見ても、戦闘で親兄弟他家族を亡くし、また自らも負傷し、どれほどの恐怖に直面していたかと思うと、なんとも胸が張り裂けるような思いがこみ上げてきます。
1945年3月26日に慶良間諸島に上陸した米軍は、4月1日には沖縄本島の中部の読谷村に上陸し、以後3か月以上にわたって激しい戦闘が続きました。この沖縄戦は、米軍と日本軍だけでなく、沖縄の住民のすべてを巻き込んだものとなり、この戦闘で亡くなった住民は9万4000人、沖縄出身者も含めての日本軍は9万4136人、そして米軍は1万2520人と言われています。(参照:沖縄戦、沖縄県サイトより:https://www.pref.okinawa.jp/kyoiku/kodomo/1002705/1002709.html)
Left: This small Okinawa boy stands still with a painful expression on his face as his mother washes him at the Military Government hospital for civilians at Koza. 4/15/1945. Photo No. 368365. Box 780.
Right: Many customs of the Far East are in evidence on Okinawa. A seven year old girl is shown carrying a two month old baby on her back in ancient fashion in the Village of Nodake. 5/10/1945 (Approx). Photo No. 368390. Box 780.
Both from RG111SC, Records of Signal Corps WWII and After photograph, National Archives in College Park, MD.
左上の写真は、負傷した男の子の顔を水で母親と思われる女性が洗っている様子ですが、その男の顔や痛みをなんとか我慢しているようです。右上の写真は7歳の女の子が2カ月の赤ちゃんを背中に負ぶっています。二人の女の子たちの表情は緊張した面持ちですが、カメラをしっかり見つめており、強い意志が感じられます。
2024年もあっという間に2月の半ばを迎えてしまいました。まだ寒い日もありますが、庭のふきのとうも芽を出し、少しずつ春が近づいているのを感じます。そろそろ裏庭での家庭菜園について何を育てるか、種を買うか、苗を買うかも含めていろいろ考えなくてはいけない時期になってきました。基本的には、私の家の家庭菜園は、土を使う、土耕栽培です。が、近年では、世界的には、土の代わりに、水と養液(液体肥料)を使い、野菜を育てるという、水耕栽培が、広く知られつつあるようです。そうした水耕栽培に適する葉野菜、適さない根菜などの違いもあると思いますが、そうした水耕栽培についても、もっと知りたいと思うようになりました。
水耕栽培は、古代のエジプトや、イラン、中国、そして南米でも存在していたようですが、現代の水耕栽培の技術の確立の最初のきっかけとなったのは、19世紀半ばに活躍した、ユリウス・フォン・ザックス(Julius von Sachs: 1832-1897)というドイツの植物生理学者が、植物の成長によって必要な栄養素(窒素(N)、リン酸(P)、カリウム(K)、マグネシウム(Mg)、S(硫黄)、Fe(鉄)など)を特定し、水耕栽培を使っての実験と研究を行ったことでした。(参照: “Plant sulfur nutrition: From Sachs to Big Data” Stanislav Kopriva, Plant & Signaling Behavior, Vol. 10, Issue 9, 2015:https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/15592324.2015.1055436)
そして、1930年代には、アメリカ人でカリフォルニア大学の植物生理学の教授であったウイリアム・フレドリック・ゲーリッケ(William Frederick Gericke:1882-1970)が、ギリシャ語で水を意味するハイドロ(hydro)と、働きを意味するポノス(ponos)を組み合わせて、水の働き、つまり、水耕栽培を意味するハイドロポニクス(hydroponics)として、その本格的な研究を行い、できるだけ早く、かつたくさんの植物や野菜を育てることを目指しました。
William Frederick Gericke (b. 1882), plant nutritionist, University of California, and pioneer in hydroponic agriculture; he is credited with coining the term "hydroponics." William Frederick Gericke (b. 1882). Smithsonian Institution
Archives, Accession 90-105, Science Service Records, Image No. SIA2008-1880. https://siarchives.si.edu/collections/siris_arc_383353
上の写真は、ウイリアム・フレドリック・ゲーリッケの写真です。彼についてのさらなる情報は、オーストラリアの水耕栽培を行っている会社のサイトに掲載されており、また彼の当時の実験の成果が映されている動画の紹介もしていますので是非ご覧ください。その映像にはたくさんのトマトができていることもよくわかります。(参照: William F. Gericke | the inventor of hydroponics on 8/29/2023: https://gathera.com/blogs/learn/william-f-gericke-the-inventor-of-hydroponics?_pos=1&_sid=734d1b051&_ss=r )
ゲーリッケの研究と実績は、その後の社会にも大きな影響を与えることになりました。その後、第2次世界大戦が不幸にも勃発することになりましたが、大西洋を含むヨーロッパ戦線と大平洋戦線の島々においては、野菜の輸送は困難でもあるため、各地に駐屯する部隊にとって、そうした野菜作りが必要になりました。そうした島によっては、火山灰地層のため、土耕では無理なために、水耕栽培体制を整備するところもありました。
Hydroponics Garden in the Ascension Islands. Before 6/26/1945. Photo No. 342-FH-3A00570-A57779AC. RG342, Records of U.S. Air Force Commands, Activities, and Organizations 1900-2003, Photographs of Activities, Facilities and Personnel, ca. 1940 – ca. 1983. NAID: 204828768. National Archives in College Park, MD. https://catalog.archives.gov/id/204828768
Personnel Pose In Back Of A Display Of Produce Grown In The Hydroponics Garden On Ascension Island. 5/4/1945. 342-FH-3A00588-73742AC. RG342, Records of U.S. Air Force Commands, Activities, and Organizations 1900-2003, Photographs of Activities, Facilities and Personnel, ca. 1940 – ca. 1983. NAID: 204828821. National Archives in College Park, MD. https://catalog.archives.gov/id/204828821
上記の2枚の写真は、アフリカ大陸と南米大陸の間の大西洋上にあるアセンション島(Ascension Islandのワイドアウェーク飛行場(Wideawake Airfield)を拠点にしていた、米陸軍航空隊のメンバーが水耕栽培を行っているところとそこからの収穫を前にメンバーがそろって写真を撮っているところのものです。この島での水耕栽培は、米軍が、火山岩を砕いたものを培地として使った、最初の大規模な水耕栽培の1つでした。
このアセンション島は、現在イギリス領ですが、そこにある飛行場は、アセンション島補助飛行場(Ascension Island Auxiliary Field)として、イギリス空軍とアメリカ宇宙軍との共同基地になっており、アメリカ軍側には、アメリカ国内で発射されたロケットの地上追跡部隊がいます。現在でもこの島の水耕栽培は続けられていて、コストを抑えるだけでなく、駐屯する兵士達のニーズに応え、栄養価を維持していると言われています。(参照: Ascension Island's hydroponics lab is revitalizing life on the volcanic island:US Air Force Academy News 9/29/2019: https://www.usafa.af.mil/News/Article/1973447/ascension-islands-hydroponics-lab-is-
revitalizing-life-on-the-volcanic-island/ )
第2次世界大戦は終結し、日本は敗戦を迎え、占領軍による間接統治の時代に入りました。占領軍は、戦後まもなくの日本社会の衛生状況からDDT散布を通じて徹底的な消毒対策を行い、またいわゆる下肥(しもごえ)や屎尿(しにょう)を肥料として使っていた日本のそれまでの農業の在り方も批判をしていました。(参考:環境省:し尿処理技術・システムに関するアーカイブズ作成業務報告書、第 1 章 収集・運搬及び前処理技術・システム:https://www.env.go.jp/content/900536248.pdf)
占領軍が、日本で水耕栽培を行ったのは、上記の理由はもちろんあると思いますが、日本の占領にあたっては大量の占領軍兵士が駐屯することになるので、そうした兵士の食料への早急な対応としても、水耕栽培で、より早く、より大量に野菜を生産する必要があったと思います。この占領軍による水耕栽培は、東京にあった、元日本陸軍の調布飛行場の一部と、滋賀県大津市にあった元日本海軍の大津飛行場の敷地を使って行われることになりました。
新年早々、能登半島の大地震、そして羽田空港での民間機と海上保安庁の飛行機との衝突事故と
いう大惨事が起こり、犠牲になられた方々には心より深くご冥福をお祈り申し上げます。また、今も大変な困難な状態にある被災者の方々にも心よりお見舞いを申し上げます。
ワシントンDCのスミソニアン博物館群には、ホロコースト博物館、航空宇宙博物館、ナショナル・ギャラリー(美術館)、アメリカ歴史博物館、アメリカ自然史博物館、アジア美術博物館、アメリカ・インデアン博物館、アフリカン・アメリカン博物館があり、どの施設も見ごたえのある素晴らしい展示会場になっています。
今回は、それらの中の、アジア美術博物館(National Museum of Asian Art)を構成する2つのコレクションである、フリーア・ギャラリー(Fleer Gallery of Art) とサックラー・ギャラリー(Arther M. Sackler Gallery)のうち、昨年、創立100年を迎えた、フリーア・ギャラリーと先日見てきた展示の一部についてご紹介をしたいと思います。
チャールズ・ラング・フリーア(Charles Lang Freer: 1854-1919)は、ニューヨーク州のキングストンという町に生まれましたが、中学生のときに母が亡くなり、父は病気がちであったことから、学校をやめて地元のセメント工場で働き始めました。その後鉄道会社での経験を積んだあと、デトロイトに移り、鉄道車両を作る会社を作り、たたき上げの実業家として、巨万の富を築くことになりました。
彼は、当時のヨーロッパで活躍していたアメリカの画家のジェームズ・マクニール・ホイッスラー(James McNeill Whistler: 1834-1903)の作品とその本人との出会いを通じて、アジアの美術に対して深い関心を持つようになり、コレクターとして精力的に活動するようになりました。ホイッスラーは、当時のイギリスのジャポニズム(江戸時代末期の開国によって日本の美術品が欧米に出回ることになり、欧米の芸術家たちが、その表現方法を取り入れた。)に早くから影響を受けており、そうしたホイッスラーとの出会いが、フリーアを日本美術を含むアジア芸術に開眼させることになりました。フリーアは自分で収集したコレクションをのちに、スミソニアン協会に寄贈し、そのコレクションをもとに、1923年にフリーア美術館ができました。(参考:フリーア美術館(米国ワシントンDC) 門外不出の日本美術の宝庫:https://archive.asia.si.edu/press/downloads/FactSheet_FreerSackler-JP.pdf)フリーア・ギャラリーとサックラー・ギャラリーを合わせてアジア美術博物館としては、現在46,000以上の美術品があります。(参考:National Museum of Asian Art: https://asia.si.edu/about/#:~:text=We%20hold%20in%20trust%20for,works%20from%20the%20Aesthetic%20Movement.)
Top: Tawaraya Sotatsu (act. ca. 1603-1643) Screes with Scattered Fans. Japan, Edo period, early 17th century. Color, gold, and silver over gold on paper. F1902.24.
Bottom: Tawaraya Sotatsu (act. ca. 1603-1643). Mimosa tree, poppies and other summer flowers. Japan, Edo period, 1630s-1670s. Six panel folding screen; ink, color, and gold on paper. F1902.92
現在、開催されている日本関係の展示の1つは、「琳派」(りんぱ)の屏風絵です。、「琳派」とは、江戸時代初期の俵屋宗達(1603?-1643?)をはじめ都市、中期には尾形光琳(1658-1716)、後期には、酒井抱一といった画家に受け継がれた、金箔や銀箔を背景に使った大胆な構図、また模様を繰り返していくような作風を特徴としています。上の2つの作品は、俵屋宗達の「扇面散図屏風」と合歓木芥子図屏風」です。展示室内は、照明を抑えており、もちろんフラッシュ撮影はできませんので、写真は暗めになっていますが、それでも豪華絢爛な雰囲気で、これらの屏風図の前に立つと圧倒させられる思いになります。
Left: Sutra Container with Cover. Japan, Nara period, 724. Gilt bronze. F1909.253AB.
Right: Horokaku Mandara. Japan, 12th century. Color and gold on silk panel. F1929. 2a-c.
東京のある地域に関する資料調査のために、該当地域の地図資料が入っている箱を見ていたときに、たまたま目にしたフォルダーの中に、とても面白い資料を見つけました。なので、今回は、それらの資料を紹介したいと思います。
太平洋戦争の敗戦を迎えて、日本は、マッカーサーを最高司令官とする連合国軍が日本に入り、間接統治の時代に入りました。これまでの軍国主義を排除し、政治、経済、社会の民主化が推進されました。そうした中でそれまで制限されていた選挙も、改正され、すべての満20歳以上の男女が、参政権を持てるようになりました。戦後初めての総選挙―衆議院選挙は、1946年4月10日に行われ、翌年の1947年4月20日には最初の参議院選挙が行われました。
上の資料は、1950年(昭和50年)の第2回参議院選挙を6月4日に控えて、選挙に投票を呼び掛ける山梨県選挙管理委員会と調査弘報課と呼ばれる部署が作った選挙推進ポスターです。このポスターには、こんなことが書かれています。(この記事に掲載した資料はすべて一つのフォルダーからのものですのでその情報は、最後に述べます。)
「あなたの生活面は、ドレもコレも政治という大きな手で支配されている。税金も、住宅も、教育も、賃金も、景気・不景気も、食料も、衣料も、ドレもコレも政治という手で支配されている。あなた方が、この手を支配するのです。新憲法下での民主政治では、あなた方が自分の代表を選んで、あなた方の希望通りの政治を執るのです。あなた方は、諸々の候補者、征討、県ではその業績背景に至るまで注意を怠ってはなりません。真に民衆の利益になるように政治を執る人を選び、自己本位に政治を執ったり、民衆を煽動したりしる人を排撃すべきです。常にあなた方の代表者の行動を監視せねばなりません。」
戦前及び戦時中の日本の在り方を反省し、これからは民主主義の世の中を作っていくのだという前向きな、かつ熱意を感じさせるようなポスターだと思います。主権者である国民が、自分たちの意思を政治に反映させるために、行われる選挙は、民主主義社会において、もっとも重要でかつ基本のものであるはずです。
それは現在の私達にとっても、選挙を通じて国民の意思を反映させること、よりよい社会にしていく上で、本当に大事なことであり、同時に候補者も、選挙の重みをしっかり認識して、国民のためによりよい政治と社会を目指してすべてに真摯に取り組まなければいけないと思います。そうしたことを、あらためて思い起こさせるようなポスターの1つであると思います。
上のこのポスターもとても面白いです。当時の候補者は、該当での立会い演説会や、ラジオ、新聞や選挙公報などを通じて、それぞれの首長や公約を国民に訴えていたかと思います。が、口先やうわべの、または見せかけの印象だけで選ぶと、実はその候補者は、お金の札束でなんでもしようとするような不適格な人物であるかもしれないので、選挙をする国民は、良い候補者を選ぶために、よく調べることが大事であると、全国の選挙管理員会(都道府県市町村選挙管理委員会)が呼び掛けています。
こうしたことは、本来至極当たり前のことだと思うのですが、現代に生きる私達にとっては、とても新鮮であり、斬新であると思えてしまいます。
上の左側のポスターは、選挙で選ぶ候補者は、「脅迫、買収、馳走、情実(個人的な利益や感情によって公正さを欠かす)、縁故」にとらわれて行動するような人物ではなく、「国民の声を政治に活かす人、公約を忠実に実行する人、識見人格の高い人、正直で信頼できる人、国民の福祉を常に考えている人」であるべきだとしています。
下のポスターは、衆議院と参議院の権限と役割、任期や、地方選出と全国選出などについての説明をし、また選挙権や、不在者投票制度などについても質問をしているものです。
こんなものもありました。下の資料は、当時の数枚にわたる候補者名簿のうちの1枚です。当時の政党の自由党、緑風会、日本社会党、日本共産党、無所属、国民民主党、労働者農民党、親米博愛勤労党、宮城県開拓者連盟といった政党名が見えます。
1930年代のアメリカの飛行機関係情報の映像資料を追っていたときに、たまたまフォード・モータース関係の映像があることに気づきました。今回は、そうした動画や写真をご紹介したいと思います。
フォード・モータースの創始者であるヘンリー・フォード (Henry Ford: 7/30/1863-4/7/1947)は、ミシガン州のデトロイト郊外ので農業を営む両親のもとに生まれました。が、農業を継ぐことになく、機械工としての経験を積み、1891年には エジソン電灯会社で働くようになりました。下の写真は、ヘンリー・フォードが、1893年にガソリンエンジンの自動車を動かしている写真です。
First Car: Henry Ford in Car First Run in 1893. This was the second gasoline automobile. Original caption: From opp. P. 18. The Romance of the Automobile Industry, by James Rood Dolittle, New York 1916. Photo No. 30-N-48-80. Box 233. Record Group 30, Records of the Bureau of Public Roads 1892 – 1972, Series Historical Photograph Files 1896-1963, Transportation-Motor Vehicles-Historic. National Archives in College Park, MD. NAID: 234118011. https://catalog.archives.gov/id/234118011
1896年には、彼が尊敬する, 発明王であったトーマス・エジソン (Thomas Edison: 2/11/1847-10/18/1931)に出会って生涯の友人となりました。エジソンは、すでに電話や蓄音機、また電球や発電機などをすでに発明していましたが、ガソリン自動車の話を熱っぽく語るフォードに歓喜し、フォードとエジソンは年齢差を超えて生涯の友人となったと言われています。
Left:Edison and Ford in a friendly chat. Thomas Edison and Henry Ford seated on pier. C1925. No. 2002706619. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2002706619/
Right: Henry Ford and Thomas A. Edison. Ca. 1930. No. 2016818175. Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2016818175/
1903年にはフォード・モーター会社を設立し、分業によって部品を生産し、組み立てていく大量生産を開始しました。その10年後には、ベルトコンベアを導入し、短時間でかつ大量の自動車生産が可能となり、その結果、価格を低下させたので、自動車は、一気に大衆化することになりました。下の写真は、工場内のベルトコンベアの様子です。
[Factory workers on assembly line for bearings]
Detroit Publishing Co., publisher. 1924 April 29. No. 2016817039.
Possibly made for Ford Motor Company automobile industry. Library of Congress, Washington, DC.
https://www.loc.gov/item/2016817039/
もう10年ほど前の映画になりますが、皆さんは、宮崎駿氏の「風立ちぬ」の映画をご覧になったことがありますか。飛行機に憧れていた主人公の堀越二郎は、自分の夢に出てきた飛行機の設計技術者のイタリア人のカプローニにも励まされて、自分も飛行機の設計技術者になって情熱を注いていく話を中心に、里見菜穂子との出会いと別れ、そして戦争の時代に翻弄されていく姿を描いたもので、とても印象深い映画であったと思います。
たまたまある飛行機関係の調査をしていたときに、そのイタリア人のカプローニが設計した飛行機に関する写真を目にしましたので、今回はそれらの写真をご紹介したいと思います。
ジャンニ(ジョヴァンニ)・バッティスタ・カプローニ:Gianni (Giovanni) Battista Caproni 、7/3/1886-10/27/1957 は、イタリアの航空技術者及び航空設計者として、また航空機製造会社を作った人物としてよく知られています。
下の写真は、議会図書館のサイトから見つけたものです。真ん中のひげをつけた人物がカプローニです。
Caproni & his plane: Photograph shows Giovanni Battista Caproni (1886-1957), an Italian aeronautical engineer and founder of the Caproni aircraft manufacturing company with group of people in front of "The Caproni Flight", an enormous triplane bomber N531.7/29/1918. (Source: Flickr Commons project, 2016) Digital ID: ggbain 27306. https://www.loc.gov/resource/ggbain.27306/
Caproni and his giant triplane: Signor G. Caproni with British, Italian, and American officers grouped in front of the great triplane. No. 65 WW 435-P1898. Received on 10/8/1918. RG 165 Records of the War Department General and Special Staffs, Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, Personnel - P1800 through P1899, Box 435. National Archives, College Park, MD. https://catalog.archives.gov/id/45534078
上の写真も、最初の写真と同じ日の1918年7月29日に撮影されたものだと思われますが、米国の戦争省が受け取ったのは1918年同年の10月の8日のことでした。こちらの写真には、カプローニと並んでいるのは、イギリス、イタリア、アメリカの将校達であったことが記されています。カプローニは、この第1次世界大戦においてもたくさんの爆撃機や輸送機を生産しました。アメリカ合衆国としても、カプローニの爆撃機を購入したり、いろいろな実験用に使ったりしていました。
1914年6月28日に起こったサラエボ事件(オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者夫妻がボスニア系セルビア人青年によって暗殺された。)をきかっけにして、オーストリア側は、セルビアに宣戦布告をしました。セルビアを支援するために参戦したロシアとともに、当時ロシアと三国協商を結んでいたイギリスやフランスも参戦となりました。日本も、日英同盟の関係から、参戦をしました。アメリカ合衆国も当初は中立を保っていましたが、1917年の4月に参戦することになりました。これらは連合国とも呼ばれました。一方オーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を結んでいたドイツは、オーストリア側を支援するために参戦をしました。この三国同盟にはイタリアも入っていましたが、イタリアは、この時は参戦することはなく、1915年4月に密かにイギリス、フランス、ロシアとロンドン秘密条約を結び、その後三国同盟の破棄を宣言してから、連合軍側とともに、ドイツとオーストラリアと戦いました。
米国国立公文書館には、当時のカプローニ社が製造した爆撃機や輸送機などの写真がたくさんあります。
すでに2023年もあと約3か月となってしまいました。あの騒然としたコロナ禍から 米国はかなり落ち着いてきましたが、相変わらず物価高は続き、また、車の部品や車そのものを盗むようなカージャック他の犯罪や、車のスピードや赤信号無視などによる交通事故の多発などを 見聞きをすることが多くなってきました。
そんな中で、たまたま戦後の防犯雑誌を目にしましたので、今回は、その防犯雑誌と、関連して当時の日本の警察についての写真を紹介したいと思います。
下記は、1948年9月に第1巻2号の防犯雑誌、蜘蛛(1948年7月創刊) というものです。発行所は、警視庁刑事部内の東京部防犯協会連合会となっています。表紙が、美しい女性の顔であり、その背後に蜘蛛の巣が張っているという絵になっていますが、表紙をめくると、表紙のイメージと異なり、いろいろな活動をする、「海上Gメンの先駆、東京水上警察」の写真や、「愛情の花ひらく」として女性警察官の写真があり、そのあとは、「世の母に訴う:青少年の犯罪をいかに防ぐか」というテーマでの座談会の記事が続きます。
Above all: Bohan Zasshi Kumo. RG331UD1136 Box 302 RG331, Records of Allied Operational and Occupation Headquarters, World War II, Entry UD1136, Box 302.
この座談会は、警察関係者だけではなく、法律、教育、政治の分野からの専門家や評論家によるもので、青少年の犯罪は、家庭教育の欠如、営利目的だけに出版された有害な出版物、政治の貧困、そしてインフレにおる経済会の混乱などの問題から起きているとしていました。そうしたことも確かにあったと思いますが、あの戦争で、両親を失い、孤児や浮浪児となった子ども達や若者達も多かったし、頼るべき人間がいなかった状況で、生き延びていくために何でもしなければならなかったという追い込まれた現実も非常に厳しかったのではないかとも思いました。
中身は楽しいというものではないので、表紙を魅力的またはミステリアスな雰囲気にして、多くの人々に手にとって読んでもらいたいといった出版する側の意図があったのかもしれないと思いました。当時はまだテレビや電話もありませんでしたので、こうした雑誌は、新聞、ニュース映画や、本や漫画などとともに、情報を提供する手段としても、非常に重要であったと思います。
たまたまこの雑誌を目にしたことをきっかけに、当時の警察官についての写真も調べたくなりました。都心の交通整理はもちろん、いろいろな犯罪者の逮捕や取り調べ、闇市の調査、いろいろなデモ活動の監視や暴力的行為への取り締まり、拳銃の取り扱い他のトレーニングなど、多岐にわたる写真がありました。ここですべてを紹介することはできませんが、それでもそれらの写真から当時の世相を垣間見ることができると思います。
上記の4枚の写真は、東京の写真です。交通事故を最小限に抑え、交通がスムーズになるように日本の警察官と占領軍の陸軍憲兵(MP: Military Police)が協力して活動をしました。興味深いのは、米軍が車を使い、日本の人々は、トラック他の車を使う人々もいましたが、それよりも自転車や牛にひかせたリヤカーも使っていて、彼らも同じ道路を使っていたということです。また当時はガソリンが十分でなかったので、石炭を燃やして車を動かしていましたが、時々ガスを溜めるためにしばらく止まらなければならず、それは時々深刻な交通渋滞を招くことになりました。
広島と長崎への原爆投下から78年目の夏を迎えました。昨年2月24日に起こったロシアによるウクライナ侵攻は、ロシアの核兵器の威嚇とともに、現在も続いており、「ノーモア、ヒロシマ、ノーモア ナガサキ」という言葉に託された、この世界から、核兵器を廃絶するという切実な願いからは、はるかにかけ離れている現実に、私達は絶望的な思いをしてしまうこともしばしばです。それでも、私達は、原爆体験を含めてあの戦争体験を学び続け、いろいろな形で未来に残していく努力をしていかなければならないと思っています。
米国国立公文書館には、原爆製造計画であったマンハッタン計画の始まりから関係施設の建設と整備、原爆投下準備までの一連の流れ、原子爆弾投下当日、そして、投下後の人的、物的被害に関するレポート、戦後の原爆及び水爆実験など多岐にわたる内容の、膨大な資料が、存在します。しかも、それらは、たくさんの資料群(レコード・グループ:RG)に分かれており、かつ、それらの資料は、テキスト、マイクロフィルム、写真、そしてフィルムなどのいろいろな媒体資料でもあります。以前、日本の関係資料館のためにも資料調査及び収集をしたことも何度かありましたが、今回は、ほんの一部ですが、写真資料のいくつかをご紹介したいと思います。以下は、米空軍(写真を撮影した当初は、米陸軍空軍部隊でした。)による、カラーの写真です。上段が広島で、下段が長崎です。
Left: General view of Hiroshima Japan as seen from vicinity of “Zero,” above complete devastation as result of atomic bombing. March 1946. Photo No. 3A-49430. Box 201.
Right: General view of the city of Hiroshima, Japan, showing damage wrought by atomic bombing. March 1946. Photo No. 3A-49431. Box 201.
Left: General view shows atomic bomb damage of a portion of Nagasaki, Japan as seen from a hillside opposite the Nagasaki Hospital. In the far background may be seen the Mitsubishi Steel Works. October 1945. Photo No. 3A-49432. Box 201.
Right: View of wrecked and rusted Japanese machinery at Nagasaki, Japan. October 1945. Photo No. 3A-49437. Box 201. All of 4 photos from Record Group 342 (Records of U.S. Air Force Commands, Activities, and Organizations) 1900-2003. National Archives in College Park, MD.
以下の写真には、当時長崎医科大学(現、長崎大学医学部)の放射線治療の専門家であった永井隆博士が、映っています。彼は、1945年8月9日の被爆時に、爆心地から、約700メートル離れたところにあった長崎医科大学で仕事をしていました。頭部及び半身に重傷を負いながらも、永井博士は、自他の被爆者の人々の救援活動に従事しました。彼の妻は、自宅の台所で被爆し、骨片しか見つからないような惨い形で亡くなりました。
Above: Shown is Dr. Nagai, Medical Instructor and Z-Ray specialist at Nagasaki Medical, a victim of atomic radiation caused by the bomb. A few days after this photo was made the victim passed away. Scene is near hillside which leads to Prison. Nagasaki, Japan. 9/8/1945. Photo No. 3A-49434. Box 201. Record Group 342 (Records of U.S. Air Force Commands, Activities, and Organizations) 1900-2003.
上記の写真のキャプションには、この写真が撮影された数日後に、永井博士は亡くなったとされていますが、それは完全な誤りです。永井博士は、9月に入ってから、体調を崩し、一時は傷口からの出血も止まらず昏睡状態を繰り返し、危篤状態まで行ったので、その情報をもとに、当時の米軍はキャプションに書いたのだと思います。しかしながら、その後、博士はその危機的状況から奇跡的に脱出し、引き続き闘病生活をしながらも、被爆者の救援活動をしたり、研究及び執筆活動を続け、1951年の5月1日に43歳という若さで亡くなりました。(参照:長崎市永井隆記念館サイト:https://nagaitakashi.nagasakipeace.jp/japanese/stories/1.html )
ワシントンDC周辺にはもう20年以上住んでいるのですが、米国国立郵便博物館には残念ながら、これまで訪れる機会を持つことができませんでした。先日、米国国立議会図書館での資料調査を終了したあとに、そこに行ってみることにしました。今回は、この博物館のご紹介をしたいと思います。
米国国立郵便博物館は、地下鉄レッドラインのユニオン・ステイション駅のすぐ隣にあります。この駅は、アムトラック鉄道の駅でもあるため、いつも多くの人で賑わっています。、コロナ禍で一時的に大きな打撃を受けましたが、現在では、構内の一部も変わり、新しい飲食店も増えました。このユニオン・ステイション駅の外に出て、駅を背にしてすぐ右側にこの郵便博物館があります。
右上のポストカードは、1914年に この建物が建設されたときの絵であり、この建物は、同年から1986年まで、ワシントンDCの郵便局として使われていました。その後、スミソニアン博物館と米国郵便公社(United States Postal Service)との協議及び同意をへて1993年に米国国立郵便博物館としてオープンして、現在に至っています。残りの3枚の写真は、現在の博物館の入り口と、その中の様子です。
アメリカ合衆国の郵便制度の始まりは、独立戦争(4/19/1775-9/3/1783) が始まった直後の7月26日の第2回大陸会議において決定され、その初代郵政長官に、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)が任命されました。アメリカ合衆国として正式にイギリスから独立をするのは、この1年後の事でした。政治家や外交官また科学者としても知られるベンジャミン・フランクリンは、アメリカ合衆国建国の父の一人としてよく知られていますが、彼はもともと印刷業を担い、新聞を発行していました。発行した新聞を郵便を通じて広く配布することができるという、印刷業と郵便業がすでに密接なつながりを持っており、フィラデルフィアでは、すでに郵便局長としての実績も持っていました。独立戦争がはじまり、イギリスと本格的に戦うことになり、議会と各戦場で戦う部隊との命令や指揮を含めてコミュニケーションが非常に重要になりました。また、それを支えるアメリカ合衆国側の人々の家族や親戚や友人同士のコミュニケーション(戦場にいる兵士と遠く離れたところに住んでいた家族、親戚や友人他)も同時に重要であり、イギリスから何としても独立を勝ち取るためには、アメリカ合衆国内部の通信制度を整備しなければなりませんでした。その後、アメリカ合衆国の郵便制度は、都市の形成や、人々の移動や移住、さらには、海外からの移住、またそれらを支える鉄道や船の発展、そして飛行機の登場など国家としての近代化の過程の中で、飛躍的に拡大し、整備されていきました。
1775年から開始されたアメリカ合衆国の郵便事業は、その後改革の必要性に迫られ、1971年に独立行政機関としての米国郵政公社(United States Postal Service: USPS)となり、現在に至っています。
左上の写真は、現在の米国郵政公社が出版した、アメリカ合衆国の郵便の歴史をまとめた、“The United States Postal Service: An American History” (https://about.usps.com/publications/pub100.pdf :162pages.) の表紙であり、右上の写真は、この博物館サイトの歴史の、”History of the Smithsonian National Postal Museum” (https://postalmuseum.si.edu/history-of-the-smithsonian-national-postal-museum)という画面ページで、動画を交えて説明されています。
この博物館の入り口の階には、まず、ウィリアム・H ・グロス スタンプ コレクション(William H Gross stamp collection)という展示室があります。彼は、著名な投資家ですが、同時に切手収集家としてもよく知られています。ここでは、切手の歴史や印刷技術また切手の種類や世界の切手について知ることができるようになっています。
上段の3枚は、その展示の入り口と切手展示や切手の印刷機です。下段の左は、1847年に発行された米国の普通切手で5セント切手はベンジャミン・フランクリンの顔で、10セントは、初代大統領のジョージ・ワシントンの顔になっています。右は、第一次世界大戦期のアメリカ合衆国を代表する航空機のカーチスJN-4という飛行機(愛称:ジェニー)の1918年の切手ですが、100枚ずつ印刷された切手シートのうち、1枚のシートだけなぜか逆さまになってしまい、それが「エラー切手」として非常に価値のあるものとして知られるようになり、「宙返り24セント」("Inverted Jenny")と呼ばれています。
ある調査の関係で、戦後まもなくの九州関係の写真を追っていたときに、子ども達にカメラを向けたときの写真とそのキャプションが目に留まりました。子ども達がとても頼もしく見えて、面白い写真だと思いましたので、今回は、そうした写真のいくつかをご紹介したいと思います。
Left: This little five-year-old had no fear for Marines occupying the naval base at Sasebo.
Sasebo, Japan. 10/16/45. No. 137677. Box 102.
Right: Japanese tots also have dolls as play toys. But this brother, center, and sister team, with their grandmother beside a concreate mixer on a rural road near Yokosuka, play dolls in an entirely different manner than American children. Yokosuka, Japan. 12/10/1945. No. 138831. Box 102.
From 127GW 1525. RG 127GW (Records of the US Marine Corps Prints: Marine Corps Activities during WWII, 1941-1958). National Archives at College Park, MD.
左上の写真の、5歳の男の子が、米軍海兵隊兵士を見ても恐れることなく、ポケットに手を突っ込んでカメラに向かって微笑んでいる姿はなんとも堂々としたもので、海兵隊兵士もちょっと驚いていたようです。右上の写真は、人形を背中におぶっている姉をまねて幼い弟も人形を背中におぶっている姿は、米国の人形の遊び方とかなり異なるとキャプションに書かれていますが、こうしたコメントも日米の文化の差が出ていてとても面白いと思いました。
Left:”Japan Today.” Mother and child in squalor of the bombed area. No. 148294. Box 103.
Right: A Japanese baby in her father’s arms. Sasebo, Japan. September 1945. No. 139147 Box 102.
1941-1958) Box 102.
From 127GW 1525. RG 127GW (Records of the US Marine Corps Prints: Marine Corps Activities during WWII, 1941-1958). National Archives at College Park, MD.
日本関係の写真の中には、母親が子どもをおんぶしていたり、抱っこをしていたりする写真はたくさんありますが、父親が子どもを抱いている写真というものはこれまで見たことがありませんでした。子どもも父親も笑っている姿は、戦争がようやく本当に終わったのだという安堵感に満ちているようです。
Left: Apparently not that war is over, Japanese children in Sasebo stare at an American plane overhead. Marine, assured them that no more bombs would be dropped. Sasebo, Japan. 9/23/1945. No. 139964. Box 102.
Right: This group of Japanese children depict the contrast of color found in wearing apparel in exotic Japan. The Eastern style of dress—picturesque kimonos with wooden sandals is predominant, however, the more modern style is rapidly gaining. Yokosuka, Japan. 01/05/1946. No. 139267. Box 102.
From 127GW 1525. RG 127GW (Records of the US Marine Corps Prints: Marine Corps Activities during WWII, 1941-1958). National Archives at College Park, MD.
アメリカのお菓子は、日本の多様で豊富なお菓子と比べると量的にも質的にも限られるかもしれませんが、アメリカのお菓子の中で、一番人気のあるチョコレートに関する資料をご紹介したいと思います。
アメリカのチョコレートというとハーシー・チョコレート (Hershey Chocolate) をまず思い浮かべてしまうのですが、一番古いアメリカのチョコレート会社は、ベイカーズ・チョコレート(Baker’s Chocolate)です。もともとジョン・ハノン(John Hannon)と医者であったジェームズ・ベイカー(James Baker)が、マサチューセッツ州のドーチェスター(Dorchester)で、カカオ豆を輸入してチョコレートを1764年に作り始めました。が、このハノンは、1779年に豆を調達に船で出たあと戻らず、未亡人となった彼の妻が、ジェイムズ・ベイカーに会社を売ることになり、その会社は、1780年にベイカーズ・チョコレートとなりました。ジェイムズ・ベイカーの孫のウオルター(Walter)は、会社名をウオルター・ベイカーとして、ビジネスを発展させました。さらに大きく発展することになったのは、この会社に当初クラークとして雇われ、その後マネージャーとなった、ヘンリー L. ピアース(Henry L. Pierce)という人物の功績があったと言われています。彼は、ボストン市長にもなった人物ですが、アメリカ国内だけでなく海外での販売を目指し、この会社の売り上げを飛躍的に伸ばしました。(参照:How a chance encounter created America’s first chocolate mill:Baker Chocolate Company is Lower Mills is home to America's first chocolate mill. David Roster, 1/31/2022 from Very Local: https://www.verylocal.com/how-a-chance-encounter-created-americas-first-chocolate-mill/20906/ )
下記は、その会社のトレードマークの画像です。20世紀に入ってから、この会社はシリアル会社に合併されましたが、1995年以降は、クラフト食品(Kraft Foods)に、2015年からは、クラフト・ハインツ会社(Kraft Heinz)に合併されましたが、そのブランドは今も生き続けています。
Left: Walter Baker and Company Chocolate trademark. RG36 Records of the US Customs Service 1745-1997 Series Letters Received Transmitting Trademarks, 1890-1899. National Archives, College Park, MD. NAID Number: 4734503. https://catalog.archives.gov/id/4734503
Right: Trademark registration by H. L. Pierce for W. Baker & Co's brand French Sweet Chocolate. 6/12/1882. TRADEMARKS, no. 9488 [P&P] Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/resource/trmk.1t09488/
現在のベイカーズ・チョコレートの製品は、通常のチョコレートの販売というよりも、下記のようにケーキを作るためのチョコレート材料にフォーカスされていると思います。
← ↓ (5/9/2023 スーパーで購入したもの)
現在のクラフト・ハインツ会社のサイトの中には、ブランドの1つとしてこのベイカーズ・チョコレートの製品も紹介されています。https://www.myfoodandfamily.com/brands/bakers-chocolate
次に古いチョコレート会社は、ウィットマンズ(Whitman’s)です。ペンシルバニア州のフィラデルフィア(Philadelphia)で 1842年に、当時19歳であったステファン・ウィットマン(Stephen Whitman)が お菓子とフルーツの店を始めました。チョコレート製品は、1877年にインスタントチョコレートを、そして、1912年に、現在もスーパーでよく見かける、黄色い箱に入ったチョコレート・サンプラーを売り出しました。 下記は、インタ-ネット・アーカイブズ(https://archive.org/)から見つけた当時の宣伝です。
Left: Whitman's Chocolates -1901A. 1901. Man and woman choose a candy and settle the question of choice with a "piece offering." Try Instantaneous Chocolate, made instantly with boiling milk. Published in a circa 1901 issue of LIFE, the Humor Magazine. Artist: Source: Mariangela Buch Restoration by: Mariangela Buch. Internet Archives.
https://archive.org/details/WhitmansChocolates1901A
Right: Whitman's Chocolates -1929A. 1929. No class messages in this ad; just beautiful Christmas gifts in beautiful metal boxes. Try these on Antiques Roadshow. Published in a 1929 issue of an unidentified magazine. Artist: Source: eBay seller dhtvl Restoration by: magscanner. Internet Archives. https://archive.org/details/WhitmansChocolates1929A
下記の写真は、米国国立公文書館にあったウィットマンズのチョコレート工場内のものです。
2023年の1月を迎えたと思ったら、もう4月の半ばに入ってしまいました。時の流れの速さは益々早くなっているような気がします。
2018年の4月のブログ記事の「戦後の日本の風景―米軍のカラー写真から」で、戦後まもなくの日本の写真を何枚か紹介したことがありました。最近の日本では昭和や平成のレトロブームがまださかんであることも聞いていましたし、また、戦後まもなくの写真は、私が生まれ育った時代よりももっと前の時代ではあるものの、自分の中の懐かしい記憶と重なるところがありましたので、今回は、そうした昭和の匂いがするような写真をさらにご紹介したいと思います。
One of the most attractive events in Kyoto, Japan, is the Gion Festival, dedicated to the Yasaka-Jinjya Shrine. During the festival days, the entire city of Kyoto is richly decorated with colorful flags and lanterns for the cerebration. 7/16/1948. Photo No. C-5663. RG111SC CPF (Records of Signal Corps WWII and After Photograph, CPF-Color Photo Far East Command), Box 11. National Archives in College Park, MD.
上の写真は、京都の祇園祭の時の商店街の様子で、アイスクリーム屋や雑貨屋などの各店も提灯を掲げている風景を映したものです。京都ならではの雰囲気もあるかと思いますが、私には、当時のこうした商店街の雰囲気は、私が生まれ育った昔の東京の町のイメージ(八百屋、肉屋、豆腐屋、米屋、パン屋、雑貨屋、文房具屋、本屋などいろいろな店が個別に存在していた)と重なります。
右下の写真は、東京の皇居前広場で行われた米陸軍の日のパレードを見るために集まった子ども達や人々であり、左下の写真は、沖縄の郷土料理の1つである干したウミヘビの一本を手にしている子どもの様子です。戦後まもなくの時代から徐々に復興しつつあった時代でしたが、食料を含めて日常品や衣料品他はまだまだたくさんあったわけではありませんでした。それでもこうした子ども達の笑顔を見るととても微笑ましくこちらも元気をもらったような気になってきます。
Left: Japanese families turn out to see troops of Headquarters and Service Group march before them, during an Army Day parade at the Emperor’s Palace Plaza, Tokyo, Japan. 4/6/1948. Photo No. C-4905.
Right. A little Okinawan boy holds one of the dried snakes, a popular food for people on Okinawa which is sold together with vegetables. Okinawa island. 11/7/1950. Photo. No. C-6319.
Both from RG111SC CPF (Records of Signal Corps WWII and After Photograph, CPF-Color Photo Far East Command), Box 11. National Archives in College Park, MD.
下の写真は、大磯の海岸で魚釣りボートで釣った魚はどんな種類のものなのかと占領軍兵士が、訪ねています。当時は海水着といっても、現代のようなものではなく、男性や男の子たちは ふんどしもまだあたりまえであったようです。女性の場合は、アワビや真珠を取る仕事をする海女の人々は、白い木綿の磯着といったものを着ていたかと思いますが、レジャー用の海水着を身に着けて、海で泳ぐといったことは現代ほど一般化してはいなかったと思われます。
さらに下の写真は、横浜近くの海岸で、海藻や貝類を採集している女の子達、そして横浜の砂浜で、釣りに出掛けた父親と兄の帰りを待つ兄弟の様子です。海の様子や子ども達の様子が、生き生きしており、かつその一枚一枚から情緒が感じられる写真になっています。
Pfc. Bruce Crane of Denver, Colorado (left0 and Pfc. John Krause of Brookfield, Ill., inquire about the type of fish caught by Japanese fisherman at Oiso Beach, Oiso, Japan. 8/10/1947. Photo No. C-4684. RG111SC CPF (Records of Signal Corps WWII and After Photograph, CPF-Color Photo Far East Command), Box 28. National Archives in College Park, MD.
「阿片」(あへん/アヘン)という言葉を聞くと、まず頭に浮かぶのは、1840年のイギリスと中国との戦争であったアヘン戦争です。阿片は、芥子(けし)という植物の実からである乳液を加熱乾燥したもので、英語では、オピウム(opium)と呼ばれます。古代から、強い鎮痛剤、鎮静剤として使われてきた歴史がありますが、一方では、常習性や依存性が高いために、使い方によっては、麻薬として健康を害することになるものです。
1804年に、ドイツの薬剤師によって、この阿片の有効成分を抽出され、それはモルヒネ(Morphine)と呼ばれました。モルヒネは、現在の医療現場でも、がんによる痛みなどに有効に使える薬剤や緩和剤として知られています。また、そのモルヒネの化学構造を変化させたものがヘロインで、1898年にドイツで開発されましたが、強い依存性がありその乱用は、心身をむしばむことになり、1913年には製造が中止されたと言われています。
日本関係の写真を追っていたときに、戦後まもなくの日本には、こうした阿片、モルヒネ、ヘロインなどがたくさんあったことを知りました。今回は、こうした写真資料を紹介したいと思います。
以下の写真は、当時の主要な製薬会社の1つであった、大日本製薬株式会社(1897年にできた大阪製薬株式会社が、1898年に、東京の大日本製薬会社を吸収して、大日本製薬株式会社となった。)に保管されていた、阿片の写真です。最初の写真には、当時の「内国産阿片」とあり、日本国内はもちろん、当時の満州で生産されたものが木箱に詰められて積まれているものです。その次の写真には、「蒙古産阿片」と張り紙がされています。
Left: Photo of stock of Dai Nippon Drug Co., Narcotics consisting of 1,234kg of Opium, 1560 kg of Manchurian Opium, 20kg of Codeine Phosphate, 123pkg of 450gr. Morphine Hydrochloride, 690pkg of 5gr Morphine hydrochloride. 11/9/1945. Photo No. 225773. RG111SC (RG111SC (Records of Signal Corps WWII and After photographs, Box 341. National Archives in College Park, MD.
Right: Photo of stock of Dai Nippon Drug Co., Narcotics consisting of 1234kg of Opium, 1560 kg of Manchurian Opium, 20kg of Codeine Phosphate, 123pkg of 450gr. Morphine Hydrochloride, 690pkg of 5gr Morphine hydrochloride. 11/9/1945. RG111SC (RG111SC (Records of Signal Corps WWII and After photographs), Box 341 Photo No. 225875. National Archives in College Park, MD.
以下の写真は、当時の東京衛生試験場にあったものです。ここでもモンゴルからの阿片、満州からのモルヒネ、そしてヘロインなどがありました。中国の北京や天津にいた日本軍司令部が隠し持っていたものも含まれていました。この東京衛生試験場は、もともと東京司薬場と呼ばれ、近代化の中で、大量に入ってきた薬品を取り締まる機関として1874年(明治7年)に設立されました。その後、さらに業務を拡大し、製薬学校を作ったり、公衆衛生全般を担ったりするようになり、1887年(明治20年)には、東京衛生試験所となりました。その後、医薬品の製造方法の調査や試験を実施するようになり、戦時体制においては、薬品国産化を担うところまで行ったそうです。1945年3月の東京大空襲でほとんどが焼けてしまいましたが、、戦後には再生し、1949年には国立衛生試験所(現、国立医薬品食品衛生研究所)になりました。
In a room at the Tokyo Hygiene Laboratory are stored, 792 kg of crude opium from Mongolia in can in center foreground, 500 kg of crude morphine cans in left hand side from Manchuria, an undetermined amount of heroin, smoking opium, and adulterated narcotics in boxes on background. The latter narcotics were confiscated by Japan Commers in Peking and Tientsin. Tokyo, Japan. 11/6/1945. Photo No. 224545. RG111SC (RG111SC (Records of Signal Corps WWII and After photographs), Box 336. National Archives in College Park, MD.
阿片やモルヒネ、そしてヘロインを製造していたのは、東京衛生試験所や、大日本製薬会社だけではなく、武田製薬、三共製薬、星製薬など当時の主要な製薬会社はすべて、こうしたもの製造に深く関わっていました。以下は、そうした施設の様子を示す写真です。
Left: Photo of Dai Nippon Drug Manufacturing Co., processing plant for heroin, morphine, and codeine at Osaka. 11/9/1945. Photo No. 225832. RG111SC (RG111SC (Records of Signal Corps WWII and After photographs), Box 341. National Archives in College Park, MD.
Right: Photo of section of Hoshi Drug Manufacturing Plant, Tokyo, showing employees processing opium. 11/6/1945. Photo No. 224485. RG111SC (Records of Signal Corps WWII and After photographs), Box 366. National Archives in College Park, MD.
米国国立公文書館の日本関係の写真は、膨大にあります。たまたま横浜関係の写真を見ていたときに、戦後の蚕糸業(養蚕と製糸)に関する写真がまとまってあるのを見つけましたので今回はそれらの一部をご紹介したいと思います。
蚕(かいこ)という昆虫を飼って繭(まゆ)を収穫することを養蚕(ようさん)と言い、その繭から生糸を作ることを製糸と言います。この養蚕は、もともとは今から約5000年前に中国で始まり、日本には2000年くらい前に伝わったと言われています。18世紀以降、生糸の生産量が拡大していきました。1853年のペリー来航以後、日本は欧米諸国と本格的な貿易をするようになり、特に、1859年の横浜開港では、生糸が日本の主要な輸出品となり、日本の資本主義の発展において大きな役割を果たしました。明治に入って、1872年には官営工場として富岡製糸場が操業し、1909年には、日本は、生糸輸出量において、それまでの中国を抜いて世界第一となりました。しかしながら、1929年の世界大恐慌によって大きな打撃を受けることになり、また日中戦争後、そして、第2次世界大戦勃発後は、それまでのアメリカ市場を失ったっり、桑畑から食料生産畑への切り替えが必要になったりする中で、生産をさらに縮小していったと言われています。
しかしながら、戦後の連合軍により、1945年10月に、それまで減らされていた桑畑を回復させ、蚕糸の生産と向上などを含めた、製糸製造に関する指示が出されました。それをうけて翌年、政府は、蚕糸業復興緊急対策要綱を出して 当時の日本の食糧難に対応するための食料輸入の見返りとして生糸輸出を増大するために、養蚕設備の復興に力を注ぎました。以下の写真は、そうした背景の中で、撮影されたものであったと思います。
Left: Close up female silkworm moths laying eggs . Photo No. 307344. Right: Commercial silkworm eggs being placed on paper prior to their hatching. No. 307307. Those photos from ESS Textiles Division Project: Copy from series of Japanese pictures. 5/24/1948. RG111SC (Records of Signal Corps WWII and After photographs), Box 632, National Archives in College Park, MD.
上記の写真は、成長した蚕の蛾が 卵を産んでいるところであり、またそこで働く人々がそれらの卵を蚕卵紙につけているところです。通常、蚕の卵は10日から2週間で孵化して幼虫になります。この幼虫期は1カ月くらいであり、その時期に蚕は、たくさんの桑の葉を食べます。
下記の写真は、桑畑から桑の葉を取り、その桑の葉を餌として蚕にあげているところです。幼虫になりたての時には体長や約2ミリ程度ですが、桑をたくさん食べて最終的には約60ミリ(6センチ)前後にまでなり、体重も約15,000倍くらいの重さになると言われます。右下の蚕の写真は、十分大きくなり、これから糸を吐きながら繭を作り、その中で蛹(さなぎ)になっていく過程の直前のものです。
Upper left: Gathering spring crop of mulberry leaves. Photo No. 307305. Upper right: Feeding silkworms. Photo No. 307314. Bottom left: Silkworms feeding on chopped mulberry leaves during their fifth stage of growth. Photo No. 37313. Bottom right: Fully grown silkworm just prior to spinning its cocoon. Photo No. 307317. Those photos from ESS Textiles Division Project: Copy from series of Japanese pictures. 5/24/1948. RG111SC (Records of Signal Corps WWII and After photographs), Box 632, National Archives in College Park, MD.
成長した蚕の幼虫は、2日間ぐらいにわたって糸を吐き繭を作ります。その糸の長さは、蚕によっては、1500メートルくらいとも言われ、その労力は大変なものであるかと思います。下記の写真は、繭を作ることが可能になるまで成長した蚕の幼虫を、繭が作りやすい空間に移しているところ、またその幼虫が繭を作ったところ、そしてその繭を収穫しているところになります。
新年あけましておめでとうございます。今年も何卒よろしくお願い申し上げます。
普段の自分は、ファッションという言葉にはとても程遠いような生活をしていますが、それでも本当は、ファッションの歴史や、現在のトレンドの動向といったものには興味をもっています。ある資料調査の過程で、たまたま ホワイトハウスでのファッションショーに関する写真を見つけたので、今回は、それらの写真を紹介したいと思います。
Top: 1968 “Discover America” White House Fashion Show. 2/29/1968. 306-SSA-68-8218-CC2-16.
NAID: 218517817. https://catalog.archives.gov/id/218517817
Bottom Left: 1968 “Discover America” White House Fashion Show. 2/29/1968. 306-SSA-68-8218-CC4-5. NAID: 218517829. https://catalog.archives.gov/id/218517829
Bottom Right: 1968 “Discover America” White House Fashion Show. 2/29/1968. 306-SSA-68-8218-CC1-5. NAID: 218517811.
https://catalog.archives.gov/id/218517811
All of them: Record Group 306 (Records of the U.S. Information Agency 1900-2003). Series: Photographs from Staff and Stringer Photographic Assignments Relating to U.S. Political Events and Social, Cultural, and Economic Life 1964-1999. File Unit White House fashion show "Discover America."
これらのの写真を見るまでは、1968年2月29日に開催されたホワイトハウスのファッションショーについては何も知りませんでした。このファッションショーは、当時のリンドン・ベインズ・ジョンソン大統領(Lyndon Bains Johnson:1908-1973)の妻であったレイディ・バード・ジョンソン(Lady Bird Johnson: 1912-2007)によって、「スタイルの中のアメリカを発見する(How to Discover America in Style)」というタイトルで、昼食会とともに開催されたものでした。この時、米国内の各州知事が集まる会議が行われており、各州の知事の妻たちもワシントンDCに来ていたので、そのファッションショーの聴衆は、各州の知事の妻達、そして米国のファッション・デザイナーやジャーナリスト達であり、このイベントの目的は、米国のデザイナーの作品に注目し、かつ米国のツーリズムを促進するものであったと言われています。
上記の4人の女性が映っている写真の白いドレスを着ている女性が、レイディ・バード・ジョンソンです。彼女の本名は、クローディア・アルタ・テーラー・ジョンソン(Claudia Alta Taylor Johnson)ですが、幼い時にテントウムシ(Ladybird)というあだ名がつけられてから、大人になってからもそれを通称として使っていたようです。環境に関心を持っていた彼女は、大統領夫人として、ワシントンDCをはじめとして都市の環境改善プロジェクトや高速道路の美化プロジェクトなどを推進し、また、夫が大統領を退いたあとも、テキサス州オースティンの河岸地帯の環境ほど活動に努めました。(参照:Lady Bird Johnson Wild Flower Center The University of Texas Austin: http://www.ladybirdjohnson.org/ )
彼女の夫であるリンドン・ベインズ・ジョンソン大統領は、1963年11月22日のケネデイ大統領の暗殺事件により、急遽、それまでの副大統領から、大統領に就任し、それまでのケネデイ大統領の政策を引き継ぎました。ジョンソン大統領と聞くと、ベトナム戦争を拡大し、米国内外から激しい批判されたというイメージが強いのですが、一方では彼は、米国内においては、公民権の確立や貧困との戦いを軸にして人権教護、社会福祉、教育や住宅制度の改善などを推進した大統領としても知られています。
Top Left: 1968 “Discover America” White House Fashion Show. 2/29/1968. 306-SSA-68-8218-CC4-3. NAID: 218517825.
https://catalog.archives.gov/id/218517825
Top Right: 1968 “Discover America” White House Fashion Show. 2/29/1968. 306-SSA-8218-68-CC4-2. NAID: 218517901.
https://catalog.archives.gov/id/218517901
Bottom: 1968 “Discover America” White House Fashion Show. 2/29/1968. 306-SSA-68-8218-33-3. NAID: 218517807. https://catalog.archives.gov/id/218517807
All of them: Record Group 306 (Records of the U.S. Information Agency 1900-2003). Series: Photographs from Staff and Stringer Photographic Assignments Relating to U.S. Political Events and Social, Cultural, and Economic Life 1964-1999. File Unit White House fashion show "Discover America."
この1968年2月29日のホワイトハウスのファッションショーに関する動画をユーチューブ(Youtube)で見ることができます。リンドン・ベインズ・ジョンソン大統領図書館が、“The President: February 1968. MP893”(https://www.youtube.com/watch?v=39Fa6rl9NF8&t=944s)をしてアップをしていますが、その中の、ファッションショーだけにフォーカスした動画が、“The 1968 White House Fashion Show”(https://www.youtube.com/watch?v=YwwLctYdr_8&t=8s)としてアップされています。3分弱の映像ですが、非常に興味深いものですので、ご覧いただけたらと思います。
1968年2月29日のホワイトハウスのファッションショーに関する写真の一部は、米国国立公文書館によって1部はデジタル化されていますが、それらは、以下のような箱の中の封筒に入っています。プリントされた写真は、1枚1枚独立したものではなく、ネガをプリントしたものであり、大半はカラーのネガであるために、普段は通常の書庫ではなく、ネガ専用の冷凍書庫に保管されています。そのため、請求そのものはできますが、冷凍書庫から、出して常温に戻さなければいけないため、朝9時に請求しても出てきたのは12時過ぎでした。
日本でもコカ・コーラ、ぺプシ・コーラ、ジンジャー・エールなどの炭酸飲料水は、よく飲まれているかと思いますが、米国ではこうした炭酸飲料水の歴史はとても長く、今も多くの人々に飲まれています。感謝祭やクリスマスなどのホリデーシーズンになると、ビールやワインなどのアルコール飲料とともに、こうした炭酸飲料水もよく買われています。ボトルで1本ずつ買うこともできますが、やはり1ダース単位の缶を買う人々の方が多いと思います。私個人は、ほとんど飲まないのですが、自宅で友人や親類を呼んで、ハンバーガーやバーベキューなどのパーテイを行うときには、そうした肉料理と炭酸飲料水が合うので、買うこともあります。
米国では、炭酸飲料水は、直訳的には、カーボネイテイッド・ドリンクス(carbonated drinks )または、カーボネイテイッド・ベバリッジズ(carbonated beverages )ですが、通常は、ソーダ(Soda)、ソーダ・ポップ(Soda pop)、またはソフト・ドリンクス(Soft drinks)などと呼ばれています。
米国では、炭酸を作る技術は、すでに1760年代にあり、1789年には スイスで ジェイコブ・シュウェップ(Jacob Schweppe)が、ミネラルウォーターに炭酸を入れた飲み物を販売し始めました。19世紀に入ってから、その炭酸飲料に、甘味料を加えるようになり、1870年代に入って、現在でもお馴染みの、コカ・コーラやペプシ・コーラばども出てきました。(参照:Bellis, Mary. "The Troubled History of Soda Pop and Carbonated Beverages." ThoughtCo, Aug. 26, 2020, https://www.thoughtco.com/introduction-to-soda-pop-1992433 )
米国の文化を語るうえで、この炭酸飲料の歴史も重要なものであるかと思います。今回は、そうした炭酸飲料に関わる資料をご紹介したいと思います。
下記の写真は、米国が、太平洋戦争に突入する以前の、1940年のカリフォルニア州のオークランド市の高校生たちの昼休み時間の写真です。5セントの豆料理と一緒に、キャンデイとコカ・コーラを買い、そしてタバコを吸うといったものは、当時の米国では典型的なスタイルであったようです。
Left: Oakland, California. High School Youth. Typical of the youth of this nation is the tipped-up bottle of pop. Also typical is the school store, situated just across the street from the school, which sells candy, coca-cola, and cigarettes and at lunch time, a five-cent plate of beans. 5/4/1940. Record Group 119, Records of the National Youth Administration 1934 – 1945, Series: Study of Youth Photographs 1940 – 1940. 119-CAL-209. National Archives Identifier, 532259. National Archives in College Park, MD. https://catalog.archives.gov/id/532259
また、下記の写真は、太平洋戦争中のもので、左の写真は、軍人として勤務している男性が、休暇で自宅に戻り、彼のガールフレンドと一緒に、炭酸飲料を飲みながら、とても楽しそうにしています。また、右の写真は、日系人の父と娘が、炭酸飲料を飲んでいます。
どちらも、いわゆる炭酸飲料だけではなく、それにアイスクリームがのった、クリームソーダであり、その甘さは、誰もがホッとできるような優しい味であったのだと思います。
Left:"Sgt. Franklin Williams, home on leave from army duty, with his best girl Ellen Hardin, splitting a soda. They met at Douglas High School." May 1942. Record Group 208, Records of the Office of War Information 1926- 1951, Series: African American Activities in Industry, Government, and the Armed Forces 1941 – 1945. 208-NP-6LL-11. National Archives Identifier, 535838. National Archives in College Park, MD. https://catalog.archives.gov/id/535838
Right: Nyssa, Oregon. Japanese-American farm workers have an ice cream soda on weekly trip to town. 1942 July. Lee, Russell, 1903-1986, photographer. 2017819414. Farm Security Administration - Office of War Information Photograph Collection (Library of Congress). Library of Congress, Washington, DC. https://www.loc.gov/item/2017819414/
また、戦争中も、こうした炭酸飲料水はどんどん生産され、米国国内はもちろん、米国外にもどんどん輸出され、戦場にいる兵士達をサポートする役割も果たしていました。下記の写真は、ハワイと、インドでの写真です。インドでは、中国―ビルマーインド(CBI地域)で戦っている米軍兵士にもコカ・コーラなどの炭酸飲料水をどんどん送っていました。
Left:Cpl. Joseph Petrosky of 8=701 East Mahanoy St., Mahanoy City, PA, buys a bottle of “Soda pop” at the post exchange. 3/9/1944. Heleiwa, Oahu, Hawaii. .342-FH-3A41017-63001AC. Record Group 342, Records of U.S. Air Force Commands, Activities, and Organization 1900 – 2003, Series: Photographs of Activities, Facilities and Personnel ca. 1940 – ca. 1983. National Archives in College Park, MD. National Archives Identifier, 204978393. https://catalog.archives.gov/id/204978393
Right: Photograph of Indian Worker Preparing Coca Cola. An Indian worker pours Coca-Cola syrup into bottles before filling them with the proper amount of water. After the bottles are cleaned they are kept covered until ready for use. 3/30/1942. 111-SC-337181. Record Group 111, Records of the Office of the Chief Signal Officer 1860 – 1985, Series: Photographs of American Military Activities ca. 1918 – ca. 1981. National Archives in College Park, MD. National Archives Identifier, 148727472. https://catalog.archives.gov/id/148727472
米国には、”スプリング・フォワード、フォール・バック“(Spring forward, Fall back.:春に時間を進めて、秋に時間を戻す)という言葉で表されるように、 季節によって、スタンダード・タイム(Standard time: 冬時間)とデイライト・セイビング・タイム(Daylight Saving Time: DST:夏時間)という2つの時間帯を使い分けます。デイライト・セイビング・タイム(夏時間)は、毎年3月第2日曜日の午前2時に時計の針を1時間進めて午前3時とします。その時から、11月第1日曜日の午前2時前まで続き、その日の午前2時には時計の針を1時間戻して午前1時にします。
現代のコンピュータ、スマートフォン、テレビなどは自動的に、この時間帯に適応しますが、デジタルではない時計や機器においては、手動であらためて設定を変えなければなりません。
世界を見ると、この夏時間と冬時間のシステムを使っているのは、米国だけではなく、カナダ、イギリス他の北米地域やヨーロッパ諸国他を含む70か国以上になります。(参照:Daylight Saving Time Statistics from Time and Date:https://www.timeanddate.com/time/dst/statistics.html)
もともとは、に日照時間が冬と夏とでは異なるため、日照時間が長い間はできるだけ人間の活動をできるようにし、エネルギーを節約するという目的がありました。現代では、仕事のあとにも買い物やレストランに出かけるなどのいろいろな消費活動を促進することにもなり、結果として、経済効果を上げることになるといったことになっているかと思います。
今回は、このデイライト・セイビング・タイム(夏時間)にちなんだ資料をご紹介したいと思います。
Personnel - P200 through P399 [165-WW-420P-334]. Marcus M. Marks, President of National Daylight Saving Association telephoning to the Metropolitan Tower to move the hands of the clock one hour ahead. 3/31/1918. New York, 165-WW-420P-334, Box 420. File Unit: Personnel - P200 through P399, 1917 - 1918, Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917 - 1918, Record Group 165: Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952. National Archives at College Park, MD. ARC Identifier: 45530926. https://catalog.archives.gov/id/45530926
上記の写真は、1918年の3月にデイライト・セイビング・タイム(夏時間)が使われることになったときの写真です。一番最初の場所は1908年にカナダのオンタリオ州のサンダー・ベイという5大湖のスペリオル湖にある町でした。そのあとカナダの他の地域で使われるようになりました。国家として、このデイライト・セイビング・タイム(夏時間)を最初に採用したのは、1916年、ドイツでした。第1次世界大戦下、戦争遂行のための燃料を節約するためであったと言われています。第1次世界大戦は、イギリス、フランス、ロシアを中心とした協商国(連合国)と、ドイツ、オーストリア=ハンガリーを中心とした同盟国との間で、1914年7月から1918年11月まで続いた最初の世界戦争であり、その戦争遂行への努力の一つが、デイライト・セイビング・タイム(夏時間)の採用でもありました。ドイツに対抗するイギリスでも使われるようになり、ほかのヨーロッパ諸国にも広まり、そうした流れの中で米国も採用をしていきました。(参照:History of Daylight Saving Time (DST):https://www.timeanddate.com/time/dst/history.html)
Left: Victory! Congress passes daylight saving bill. Poster showing Uncle Sam turning a clock to Daylight Savings time as a clock-headed figure throws his hat in the air. The clock face of the figure reads "One hour of extra daylight." [1918] Library of Congress Control Number: 2002722591. https://www.loc.gov/item/2002722591/
Right: "Saving Daylight! "Set the clock ahead one hour and win the war!" uncle sam, your enemies have been up and are at work on the extra hour of daylight- When will you wake up?" ca. 1917 - ca. 1919. 4-P-251. Series: World War I Posters, 1917 - 1919, Record Group 4: Records of the U.S. Food Administration, 1917 - 1920. National Archives at College Park, MD. ARC Identifier: 512689. https://catalog.archives.gov/id/512689
"Saving daylight!" Sign and mail one of these post cards to your congressman at Washington and help make it a national law to set the clock one hour ahead. Poster showing a man writing a postcard, with the U.S. Capitol in the background. To the left are samples of the free postcards that were distributed. [1918] Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. Library of Congress Control Number: 00652855. https://www.loc.gov/item/00652855/
上記のポスターやポストカードは、デイライト・セイビング・タイム(夏時間)の重要性を訴えるものです。第1次世界大戦には、当初、米国は関わりを持ちませんでしたが、1917年4月に協商国(連合国)側に加わりました。デイライト・セイビング・タイム(夏時間)は、当時においては、まさに戦争時間と言っても過言ではないほど、重要な意味をもっていたのだと思います。
Left: Untitled. Uncle Sam and cartoonist Clifford Berryman's teddy bear get ready to move their clocks forward by one hour, demonstrating the new "daylight savings time" to the general public. 3/30/1918. U-095. Series: Berryman Political Cartoon Collection, 1896 - 1949, Record Group 46: Records of the U.S. Senate, 1789 - 2022. National Archives at Washington, DC. ARC Identifier: 6011373. https://catalog.archives.gov/id/6011373
Right: Opposition to Daylight Savings. Washington had initiated its first experiment with daylight saving time. While only in place for a month, there was increasing opposition. A vote taken by the Evening Star newspaper showed a more than 2-1 opposition. Cartoonist Clifford Berryman shows Uncle Sam and teddy bear watching intently as ballots continued to pile up against the new daylight saving system. On Uncle Sam's desk is a note from Congress indicating that they can't endorse daylight saving time for Washington. 5/25/1922. U-027. Series: Berryman Political Cartoon Collection, 1896 - 1949, Record Group 46: Records of the U.S. Senate, 1789 - 2022. National Archives at Washington, DC. ARC: 6011733. https://catalog.archives.gov/id/6011733
エリザベス女王が亡くなってからすでに2カ月以上が経ちました。彼女が、女王に即位した、1952年2月6日から、亡くなった2022年9月8日までの70年間の時代においては、様々な世界のリーダーとの交流があり、米国の歴代大統領との交流も大事なものであったと思います。また、彼女が生まれたのは1926年4月21日であり、この1926年は日本では昭和元年でした。その意味では、彼女が生きた時代の大半は、日本の昭和の時代(1926-1989年)と重なり、第2次世界大戦と太平洋戦争を生きてきた私達の祖父母や父母達が一生懸命生きてきた時代とも重なります。
さて、今回は、エリザベス女王と米国の歴代大統領の交流の写真をご紹介したいと思います。生涯を通じてエリザベス女王は、トルーマン大統領から現在のバイデン大統領までの14人のうち、リンドン・ジョンソン大統領を除く13人の米国大統領と会いました。
Princess Elizabeth of Great Britain and President Harry S. Truman. President Harry S. Truman (left) and Princess Elizabeth of Great Britain pose for a photograph at the Canadian Embassy in Washington, D.C. during the Princess' visit to the United States. Original Signal Corps photo C-6740. 11/1/1951. Accession Number 2016-1671. Harry S. Truman Library and Museum, Independence, MO. https://www.trumanlibrary.gov/photograph-records/2016-1671
上記の写真は、エリザベス女王となる以前のプリンセス時代のものです。彼女の素敵な笑顔とトルーマン大統領の嬉しそうな顔が印象的です。
Washington, D.C. The British Royal couple entertained in honor of President and Mrs. Eisenhower at British Embassy with a state dinner 10/19/1957. Here, Queen Elizabeth, radiant in white satin, greets the smiling President Eisenhower, Mrs. Eisenhower, standing between Her Majesty and Price Phillip, wears an American Beauty silk damask. Photo No. 22496, Box 57. RG306PSD (Records of the United States Information Agency). National Archives in College Park, MD.
上記の写真は、エリザベス女王が夫のフィリップ殿下とともに、米国のイギリス大使館にて、アイゼンハワー大統領夫妻を迎えた時の写真です。この時、4日間、エリザベス女王と夫は、ホワイトハウスに4日間泊まりました。
Price Philip and Queen Elizabeth II with President John F. Kennedy and Mrs. Jacqueline Kennedy. 6/5/1961. PX96-33:17. (L-R): Prince Phillip, Jacqueline Kennedy, Queen Elizabeth II, and President John F. Kennedy at Buckingham Palace in London, UK. Photograph in the collection at the John F. Kennedy Presidential Library and Museum, Boston, Boston, MA. https://www.jfklibrary.org/asset-viewer/prince-philip-and-queen-elizabeth-ii-with-president-john-f-kennedy-and-mrs-jacqueline-kennedy
上記の写真は、ケネデイ大統領夫妻との写真です。ケネデイ大統領の暗殺後、リンドン・ジョンソンが大統領となりましたが、彼の時代においては、ロンドンへ行く計画もあったようですが、結局実現しなかったので、結局エリザベス女王と会う機会はなかったようです。
下記はニクソン大統領との写真です。ニクソンが副大統領の時にもイギリスを訪問しており、エリザベス女王ととても楽しそうに歓談しています。また宮殿内の中では、ニクソン大統領とエリザベス女王とともに、フィリップ殿下や、とても若いチャールズ皇太子やアン王女の姿も見えます。
Left: Queen Elizabeth II and Vice President Richard Nixon in London, England. 11/1/1958. Photo No. A10-024.188.179.1. Series: Photographic Materials, ca. 1926 - ca. 1994 Collection: Richard Nixon Foundation Collection of Audiovisual Materials, ca. 1926 - ca. 1994. ARC Identifier: 34929675. https://catalog.archives.gov/id/34929675
Right: Richard M. Nixon, Queen Elizabeth II, Prince Phillip, Princess Anne, Prince Charles. Subject: European Trip - 1969. 2/24/1969. Photo No. NLRN-WHPO-0361-11. Series: Nixon White House Photographs, 1/20/1969 - 8/9/1974
Collection: White House Photo Office Collection (Nixon Administration), 1/20/1969 - 8/9/1974. ARC Identifier :194606. https://catalog.archives.gov/id/194606
Both photos from Richard Nixon Library (LP-RN), Yorba Linda, CA.
今年に入ってから、米国国立公文書館は3月1日から、再開し、アポ制度を前提としながらも現在も安定した開館を続けています。やはり実感することは、そこで原資料を閲覧することがどれほど貴重であり、素晴らしいことであるかということです。これまでの様々なプロジェクトを通じて、テキスト資料、写真資料、動画資料、マイクロ資料、空中写真資料などいろいろな媒体資料を見てきましたが、特に写真資料や動画資料は一目瞭然でわかるので、こうした資料はもっともっと多くの方々に見ていただけたらよいなと思っています。
今回は、この米国国立公文書館にあるたくさんの日本兵捕虜関係の写真からいくつかをご紹介したいと思います。写真のキャプションは当時の米軍が作成したものであるため、現在では不適切とされるようなことばが入っていますが、ご了承していただければと思います。
下記は、フィリピンのルソン島のカラバロ山周辺で投降した日本兵の写真です。たくさんの米兵達に囲まれながら、彼らから与えられた食べ物を食べています。
In the vicinity of Hill 506A in Caraballo Mts, Northern Luzon, P. I., a Jap soldier walked into our lines, waiving a white flag and for the first time in the campaign, a Jap voluntary surrendered. He was barely 19 years old, well dressed in a clean Jap field uniform and talked freely giving us much valuable information. He could talk a little English and one of the first question he asked was whether he would be killed. On being told that, he was very thankful and expressed his desire to help us. He said that he did not like Japanese authority. Has been in Tokyo when it was bombed. He was particularly anxious to know if it were true that Japanese troops had landed on the US. He is shown here being given something to eat. 4/16/1945. Photo No. 266317. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 485. National Archives at College Park, MD.
通常、こうした写真資料のキャプションは、第2次世界大戦―太平洋戦争の時代においては、そこに映っている米軍兵士の名前や彼らが何をしているかについての記述が多く、敵兵側、例えば、日本兵捕虜の写真の場合は、その捕虜についての詳細な記述というものはあまりありません。が、この写真のキャプションは、1人の日本兵が 白旗を振り、自ら投降したこと、またフィリピン戦の一環でその地域にいた米軍にとってはそうしたことは初めてであったこと、日本兵捕虜は19歳であり、彼が、米軍に最初に聞いた質問の一つは、自分は殺されるかどうかであったこと、米軍から自分は殺されないと聞かされて、彼は大変感謝をして、米軍側に協力する意志をあらわしたことなど細かな情報が記載されており、この日本兵捕虜に米軍側も強い興味を持ったことがこののキャプションからもよくわかります。もちろん、撮影日が、戦争末期の1945年4月16日となっていますので、そこにいた米軍側もかなり余裕があったということも背景にはあるかとも思います。
Left:Soputa, New Guinea. Japanese prisoners captured by the 163rd infantry, 41 Division, at Gona and Sanananda, New Guinea, line up against the stockade wall at Soputa Village. 1/31/1943. Photo No. 172891R. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 152. National Archives at College Park, MD.
Right: t. Col. Wellington, CO, Base Depot # 2 stands with Japanese prisoners captured at Lungling, Yunnanyi, China. 8/31/1944. Photo No. 247302. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 418. National Archives at College Park, MD.
上記の写真は、ニューギニア戦線と中国戦線で、それぞれ捕虜となった日本兵です。当時の日本兵は、敵の捕虜になることは恥であると教えられていたことはよく知られています。が、米軍を含め連合軍側と各地域で戦いながらも、やむなく敗退となり、捕虜になった場合もありましたし、戦闘を繰り返す中で、武器も食料も底をついた日本兵たちが、単独でまたは集団で投降することもありました。また戦闘を行生き延びても、食料や水がない中で、餓死をしたり、劣悪な環境の中での病気がもとで命を落とすことも多く、また自ら命を絶つ場合も少なくありませんでした。
そうした壮絶かつ凄惨な状況の中で、米軍に殺されるかもしれないという底知れない恐怖と不安をいただきながらも、捕虜となり、米軍の尋問を受けながらも、食料と寝る場所をとりあえず与えられ、また負傷や病気の手当などを受けた日本兵たちの安堵も想像を絶するほど大きなものであったかと思います。また捕虜になって命が助かったにも関わらず、捕虜になったという事実を受け入れることができずに、自決を試みた兵士もいました。
Left:Mercy is shown the enemy by this interned US Army nurse, 2nd Lt. Frankie Delhart, Texas. She was taken prisoner by the Japs on Corregidor and until her liberation has lived on scanty rations, but still renders medical aid to her former captors. Manila, Luzon Island. 2/4/1945. Photo No. 262443. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 472. National Archives at College Park, MD.
Right: Lt. Bachman and Maj. Royster at Seagrave Hospital Unit, give a Japanese prisoner who was captured in the Taipha, Ga., sector by the American trained Chinese troops, an injection of water and glucose after he has been without food or water for 5 days. Burma. 2/8/1944. Photo No. 187560. RG111SC (Records of the office of the Chief Signal officer, Signal Corps photo), Box 204. National Archives at College Park, MD.
前回の第1次世界大戦中の戦争と図書に関する記事に引き続き、今回は、第2次世界大戦及びその後の時代に焦点を当ててみたいと思います。
下記のポスターは、第2次世界大戦中のポスターの一つで、ドイツ・ナチスによる、大量の本の焚書(ふんしょ)―当時のナチズムの思想に合わないとされた書物が焼き払われたことを題材にして、「本は、戦争において武器である。」として、徹底的に戦うことを決意した、フランクリン・ルーズベルト大統領の言葉を引用しています。
"Books are weapons in the war of ideas" 44-PA-127. Series: World War II Posters, 1942 - 1945. Record Group 44: Records of the Office of Government Reports, 1932 - 1947. ARC Identifier: 513575: https://catalog.archives.gov/id/513575
このポスターの中の言葉は、以下のような意味です。「本を火で殺すことはでない。 人々は死ぬが、本は決して死ぬことはない。 どんな人間も力も、強制収容所という中に永遠に入れておくようなことはできない。人間の、専制政治に対する人間の永遠の戦いを具体化する本を世界から奪うことはでない。 この戦争において、本は武器である。」
世界史をみれば、古代から現在まで、書物(現在ではデジタル本などの形態を含む出版物も含むことになりますが)が、いろいろな国や地域で、問題視されて、焼かれたり、抹殺されてきた例は少なくありません。書物というものは、時として思想的弾圧の対象になってしまうからこそ、そうしたものの自由な出版や読み手の自由な選択が常に保障されていなければいけないと思います。その意味では、出版の自由、思想の自由の保障は、決して過去の問題ではなく、常に現在の問題であるとも思います。
下記のポスターも、第2次世界大戦中の本に関するポスターです。
Left: “Ten years ago: The Nazis Burned the Books... But Free Americans Can Still Read Them” 208-AOP-24-26. Series: Original Artwork for World War II Posters, 1942 - 1945. Record Group 208: Records of the Office of War Information, 1926 - 1951. ARC Identifier:7387450: https://catalog.archives.gov/id/7387450
Right: "In a War-Torn World, Let Good Books Help You" 44-PA-1087. Series: World War II Posters, 1942 - 1945. Record Group 44: Records of the Office of Government Reports, 1932 - 1947. ARC Identifier: 514614: https://catalog.archives.gov/id/514614
下記のポスターには、”1943 Victory Book Campaign” (1943年、戦勝図書運動)という文字が見えます。このキャンペーンは、もともと全米図書館協会(American Library Association)、米国赤十字(American Red Cross)、そして米国慰問協会(United Service Organizations:USO)の3つの機関によって1941年11月に作られたものでした。このキャンペーンの目的は、戦場に向かう米兵達に読んでもらう本を公共によって寄付し、米陸軍と海軍の図書サービスをサポートするものでした。
このキャンペーンについては、ニューヨーク公共図書館他のサイトで紹介されていますので、それらをご参照していただければと思います。
*The Victory Book Campaign and The New York Public Library:https://www.nypl.org/blog/2012/07/25/victory-book-campaign-and-nypl
*The Victory Book Campaign, 1942–1943:
http://www.booksforvictory.com/2012/06/victory-book-campaign-19421943.html
Left: "Give More Good Books to our Men in the Service" 44-PA-881 Series: World War II Posters, 1942 - 1945 Record Group 44: Records of the Office of Government Reports, 1932 - 1947. ARC Identifier: 514386. https://catalog.archives.gov/id/514386
Right: "Give your Good Books to our Fighting Men." 44-PA-899
Series: World War II Posters, 1942 - 1945 Record Group 44: Records of the Office of Government Reports, 1932 - 1947. ARC Identifier: 514404. https://catalog.archives.gov/id/514404
上記のキャンペーンによって、2000万以上のハードカバーの本が集められ兵士のもとへ送られたといわれています。1943年に入って、米国陸軍省(War Department)と出版社業界が協力して、1億2千万以上の小さくて、軽くて、兵士のポケットやリュックサックに入るような、より実用的なペーパーバックの本を出版して、各戦線に送るようになりました。これは兵隊文庫(Armed Services Editions)と呼ばれました。ナチス・ドイツによる焚書に抵抗する思想においての重要な武器であり、かつ戦場に送られた兵士たちの娯楽やストレス解消、また教育的目的もあり、1947年まで発行されていました。
この兵隊文庫(Armed Services Editions)については、米国議会図書館(Library of Congress)にコレクションとしても収蔵されていますが、そのブログでも紹介されています。(Books in Action: The Armed Services Editions:https://blogs.loc.gov/loc/2015/09/books-in-action-the-armed-services-editions/)
また、全米のいくつかの大学の図書館にも収蔵されていますが、特にバージニア大学図書館(University of Virginia Library)の中のコレクションはよく知られています。(Books Enlist:https://explore.lib.virginia.edu/exhibits/show/booksgotowar/walk)
この兵隊文庫(Armed Services Editions)についての研究はすでにいくつかあるようですが、最近読んだこの本―When Books Went to War: The stories that helped US win World War II (図書が戦場に行った時:米国が第2次世界大戦での勝利をもたらした物語)という本は、この兵隊文庫を通じていかに戦場の兵士達を勇気づけるものであったかについて研究したもので非常に興味深い本でした。
皆さんは、下記のポスターを見たことがありますか。これは、第1次世界大戦中に作成されたものです。数年前に、ある資料調査で、ペンシルバニア州の カーライル(Carlisle)にある米国陸軍の歴史研究施設である、米国陸軍遺産教育センター(U.S. Army Heritage and Education Center:USAHEC)に行きました。その日の調査を終えて、館内の博物館の展示を見て米陸軍の歴史を学び、その展示の出口にあった土産店も見て回りました。その時に、このポスターも売られているのが、目に留まり、早速買ってしまいました。このポスターの絵の様子から、第1次世界大戦中のものであることはすぐわかりましたが、「戦場に赴く、または戦場にいる兵士」と 「たくさんの本」とが結ぶつくイメージは、当時の私の頭の中にはなかったので、その意外性がとても印象的でした。しかしながら、実は、戦争の時代と図書は、密接な関わりがありました。今回は、第1次世界大戦の時代に焦点を当てて、関連する写真資料をご紹介したいと思います。
この上記のポスターの写真画像(白黒)は、米国国立公文書館(NARA)のサイトにも見えますし、またオリジナルのカラーは、議会図書館(LC)のサイトに見えます。
1)NARAサイト:“American Library Association - Posters - Poster used in A.L.A. (American Library Association) Campaign for books. Camp Meade” 1919. Photo No. 165-WW-33D-5, File Unit Library Association-Posters, 1917-1918, Series American Unofficial Collection of WWI Photographs, 1917-1918, Record Group 165: Records of the War Department General and Special staffs, 1860-1952. National Archives at College Park, MD. NARA Identifier 20801784. https://catalog.archives.gov/id/20801784
2)LCサイト:“Books wanted for our men in camp and over there; take your gifts to the public library / F.“ https://www.loc.gov/item/94514639/
米国図書館協会(American Library Association:ALA)は、図書館と図書館教育を国際的に振興する組織であり、1876年に設立されて以来、世界で最も古くかつ最大の図書館協会であり、現在も図書館教育や図書館サービスの向上などを推進しています。
1914年、ドイツやオーストリアを中心とした同盟国側と、イギリスやフランス及びロシアの連合国(協商国)側で始まった第1次世界大戦に対し、米国は1917年4月に参戦することになりました。当時の米国図書館協会(American Library Association:ALA)は、図書館戦争サービス(Library War Service)という部署を設立し、国内及び国外にいる兵士の訓練場であるキャンプ、兵士の病院などを含めて500か所以上の場所に、約700万から1000万冊の本や雑誌を提供し、戦争遂行のキャンペーンを大々的に担いました。(参照:American Library Association:ALA History: https://www.ala.org/aboutala/1917)
また、アメリカの各地域の公共図書館も、本の収集と発送の準備などをしながら、このキャンペーンをサポートしました。(参照:Turning the Pages of Patriotism with the American Library Association:https://www.nyhistory.org/blogs/turning-the-pages-of-patriotism-with-the-american-library-association )
Drive books for Fighters. Photo shows a number of girls each with pile of books wending her way in to the Public Library Building, New York where they left the books to be sent to camps. This campaign for books was started by the American Library Association. 3/18/1918. Photo No. 165WW-26A-1.
American Library Association. A.L.A. Campaign for book. Front of Public Library, NY City, NY. 1918. Photo No. 165WW-26A-2.
Both from Series American Unofficial Collection of WWI Photographs, 1917-1918, Record Group 165: Records of the War Department General and Special Staffs, 1860-1952. National Archives at College Park, MD.
上記の2枚の写真は、アメリカ図書館協会による、兵士のための本の寄付に呼びかけの様子と、その呼びかけに対して、町の人々が自宅から本をたくさん持ち寄って寄付をしようとしている姿です。その背景には、おなじみのポスターが掲げられていることがわかります。
下記の写真は、集まった本の整理をしているところ、集められた本を海外へ送る準備をしているところ、そしてそれらの本を戦地の基地周辺で兵士たちが読んでいるところです。
American Library Association. Scene in A. L. A. Dispatch Office, Newport News, Virginia. 1918. Photo No. 165-WW 26B-22.
Middle: American Library Association.200 books for overseas with 1st and 2nd Battalions. 1918. Photo No. 165-WW 26B-28.
米国国立公文書館では、これまでいろいろなテーマで資料調査を行ってきましたが、そうした過程の中で、戦後の子ども達に関する写真を目にする機会がたくさんありました。今回は、そうした子ども達に関する写真についていくつかご紹介したいと思います。
Left: Japanese mother and her child aboard a Japanese destroyer which evacuated them from Manila to Japan (P.I.) 10/23/1945. Photo No. 216359, Box 307. Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD.
Right: Japanese civilians arriving at Hakata, Kyushu, Japan by fishing craft from Korea. 1/14/1946. Photo No. 218545, Box 317. Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD.
太平洋戦争中またはその前から、海外に住んでいた日本人が、戦後まもなく、引き揚げ者として日本に帰ってきました。元日本兵や一般市民の引き揚げ関係に関する写真はたくさんあり、上の写真はそれらのほんの一部です。戦争中も、また引き揚げの過程も、子ども達にとっては、大変な体験であったかと思います。写真にみる子ども達の表情はとても緊張した面持ちであることが伺われます。
Left: Japanese police endeavor to halt black market: Vagrants such as these at Ueno Station, Tokyo, Japan. Area consultant source to the Japanese police. Picked up for vagrancy constantly, they are suspects in intense campaign to halt the black market throughout the greater Tokyo area. 12/27/1948. Photo No. 316741, Box 658. Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD.
Right: A Japanese orphan boy sleeps at entrance of Ueno Park, Tokyo, Japan. 10/13/1947. Photo No. 293123, Box 581. Records of the office of the Chief Signal officer (RG111) Still Pictures, National Archives, College Park, MD.
上記の写真は、戦災孤児の中でも特に浮浪児と呼ばれた子どもたちであり、彼らが非常に厳しい状況に置かれていたかを垣間見るような写真です。東京をはじめ、日本の大都市では、たくさんの空襲により家はもちろん、両親やそのほかの家族を失ったという子ども達がいました。その子どもたちの父親はすでに戦場に駆り出され、残る母親やほかの家族のメンバーは空襲や原爆で亡くなったということも少なくなかったと思います。
これらの写真に見る子ども達は、当時の私の両親の年齢とほとんど変わりありません。戦争中、東京都の文京区に住んでいた私の母は小学校低学年であり、弟とともに学童疎開で、栃木県に行きました。同じく東京都北区に住んでいた私の父は、中学生で、動員の一環として、軍事工場で働いていました。東京大空襲を体験した、私の母の実家も、父の実家も、家族のメンバーは皆生き残ることができ、それぞれの家もなんとか無事でした。が、同じ世代の子ども達の中には、頼るべき親兄弟や親類もなく、孤児として、たった一人で戦後を生き延びなければならなかった子ども達がいました。その現実は、あまりにも重く、本当に想像を絶する状況であったと思います。
Both: List of Figure-work on the Nation-Wide Simultaneous Investigation of Orphans, File 7 Orphans 1946-1948, Box 9376 Entry 1853 Public Health & Welfare Section Public Assistance & Child Care Subject File 1946-52, Records of Allied Operational and Occupation Headquarters, World War II (RG331). National Archives, College Park, MD.
私は昔、米国の特許やトレードマークの申請を扱う弁護士事務所で働いていたことがありました。特許の申請から特許を得るまでに米国では20か月から25か月くらいかかります。申請対象となる製品やトレードマークには、実に多様なものがありました。毎日、米国内はもちろん、日本や韓国他の国々からのたくさんの申請書類があり、それぞれの分野の専門家でもある弁護士達を事務的業務をサポートするというリーガルアシスタントの仕事は、毎日、昼食時間をまともに取れないほどのすさまじく忙しいものでしたが、特許やトレードマークに関していろいろなことを学ぶことができたと思っています。
さて、米国国立公文書館の資料の中には、特許及びトレードマーク関係の資料群(RG241:Records of the Patent and Trademark Office, 1836 – 1978)があります。これらの中には、とても楽しい資料がありますので、今回はそれらをいくつかご紹介したいと思います。
下記は、1920年4月にイリノイ州のシカゴ市にあったキャンデイ会社による特許の申請を行ったときの資料の1部です。この会社のキャンデイのラベルは、おとぎ話に出てくるキャラクターがパレードをしている素敵なデザインになっていると思います。このキャンデイ会社の申請書が、1920年4月15日に米国特許オフィスによって受理されてから、4か月後の8月16日には、すでに承認されたことがわかります。
Both: 22046-Candy Craft Candies for Kiddies- The Candy Craft Shops Inc. 4/15/1920 - 8/31/1920. Series: Case Files for Registered Product Labels, 1874 - 1940, Record Group 241: Records of the Patent and Trademark Office, 1836 - 1978. National Archives in College Park, MD. ARC Identifier:76048643. https://catalog.archives.gov/id/76048643
こんな資料もありました。下記は、1901年1月のミズーリ州のセントルイスにあった飲み物製造会社の特許の申請関係資料の一部です。ジンセン(ginseng)というアルコール飲料のラベルが、アルコール飲料であるという叙述をしていないという理由で、その申請が2回拒否されましたが、ラベルにリキュールという文字を入れることで、同年5月19日にはようやく承認を得たことがわかります。
英語のジンセン(ginseng)は、日本語では、朝鮮人参と訳されるかと思いますが、ジンセンは、実際には11種類にわたるものがあり、大きく分けると、朝鮮半島や中国由来のものと、アメリカ国内のものがあるようです。現代では、滋養強壮を促進したり、炎症を低下させたり、血糖値を低下させたりするなど、健康の維持には、重要な植物として位置づけられているかと思います。(参照:What are the health benefits of ginseng?:https://www.medicalnewstoday.com/articles/262982)
しかしながら、下記のアルコール飲料のラベルは、おそらくそうしたものとは関係なく、当時の米国では、アジア地域はまだとてもエキゾチックなイメージがあり、それを使ったのではないかと思います。このラベルは、まん中に着物を来た日本人女性らしき人物が扇を持って立っており、周りの4つの絵は、おそらく酒造りに関したものなのではなかったのかとも思います。今から100年以上前のものなので、当時のアジア観が垣間見れるような気がしてとても興味深いと思いました。
Both: 8471 - Ginseng, For a Beverage - Daniel J. Kennedy.
1/14/1901 - 6/18/1901. Series: Case Files for Registered Product Labels, 1874 - 1940, Record Group 241: Records of the Patent and Trademark Office, 1836 - 1978. National Archives in College Park, MD. ARC Identifier: 74227571: https://catalog.archives.gov/id/74227571
下記は オレゴン州のポートランド市の会社によるハイハイ・チューインガムというガムの申請書類の1部です。100年以上前のものですが、「たばこの唯一の代替用品」、「喫煙習慣を止める確実な方法」、「喫煙習慣を打ち負かす」といった文言が書かれています。当時は、喫煙も当たり前のような時代であり、社会的にも、現代のような健康志向というものはなかったはずですが、あえて、こうした言葉を宣伝にしてチューインガムを売ろうとしたところが とても面白いと思いました。
Both: 8667 - Hi-Hi Chewing Gum - Robert Arthur Wilson.
8/15/1901 - 9/10/1901. Series: Case Files for Registered Product Labels, 1874 - 1940, Record Group 241: Records of the Patent and Trademark Office, 1836 - 1978. National Archives in College Park, MD. ARC Identifier: 74617706: https://catalog.archives.gov/id/74617706
2022年もあっという間に4月を迎えてしまいました。2020年の3月からの米国公文書館の閉館は、1年と半年続くことになりました。2021年の8月から限定再開をしましたが、デルタ株の感染者が上昇したため、その月末には閉館しました。3か月後の11月半ばから再び再開しましたが、クリスマス前にまたもや閉館してしまいました。2022年は、より安定した再開が強く望まれています。(2022年3月より限定的開館となりました。)
さて、今回は、米国国立公文書館にある漫画資料をいくつかご紹介したいと思います。下記は、チャールズ・アーネスト・グラスリー(Charles Ernest Grassley)というアイオワ州の上院議員を題材にした風刺漫画です。彼は1981年から現在まで上院議員を務めています。 2016年、オバマ大統領は、メリック・ブライアン・ガーランド(Merrick Brian Garland)を 連邦最高裁判所判事に指名しましたが、上院で共和党議員達が承認投票を行うことを拒んだだめに、ガーランドは就任できなかったという経過がありました。その時の風刺を描いた漫画が、下の漫画です。自分の仕事をしないことが、一番の仕事であるとして、かなり笑える漫画だと思います。また、それに関連して、オバマ大統領がりっぱで穏健で中道派であるガーランドを連邦最高裁判所判事を指名したことに対して、共和党側が、それは認められないとしている漫画です。
当時はいろいろありましたが、2021年3月、ガーランドは、バイデン大統領の指名を受けて、米国司法長官に就任しました。
Left: Editorial Cartoon About Senator Grassley. 3/7/2016.
Series: Brandi Hoffine's Twitter Posts, 2013 - 2016, Collection: Electronic Records of the Office of the President (Obama Administration) 1/20/2009 - 1/20/2017. Barack Obama Presidential Library (LP-BHO), Hoffman Estates Hoffman Estates, IL. ARC Number: 231363558. https://catalog.archives.gov/id/231363558
Right: Editorial cartoon in the Pittsburgh Tribune Review. 6/5/2016. Series: Eric Schultz' Twitter Posts, 2010 - 2017, Collection: Electronic Records of the Office of the President (Obama Administration), 1/20/2009 - 1/20/2017. Barack Obama Presidential Library (LP-BHO), Hoffman Estates Hoffman Estates, IL. ARC Number: 234096499. https://catalog.archives.gov/id/234096499
1973年の10月に第4次中東戦争が勃発したことをきっかけに、原油価格が上昇し、第1次オイルショックが起こりました。そうしたことを背景として、1974年、米国の提唱によって石油消費国間の協力組織である、国際エネルギー機関(IEA)も設立されました。同時に米国内では、省エネルギー政策が展開され、展示会も行われました。下記の2つの漫画は当時の展示会で使われた漫画です。ハロウィンでおなじみの魔女たちも、一本の箒で相乗りをしているように、自分達も車を相乗りにしてタイヤもガソリンも節約するというアイディアもいかにもアメリカらしいものです。また、家の中で、服を着こんでいれば、つららが天井からぶらさがるような極寒の部屋でも大丈夫といったような発想もとても面白いと思いました。
当時はまだ環境問題への関心は、地球規模ではありませんでしたが、現在では、環境をいかに守るか、気候変動にどう対処するかといったところから、ガソリン車を徐々に減らしていき、持続可能なエネルギーをどう作り、どう利用するかといった方向に世界は動きつつあります。
Left: Photograph of Cartoon from Exhibit on U.S. Energy Conservation. 1974. 64-NA-5495.
Series: Historic Photograph File of National Archives Events and Personnel, 1935 - 1975, Record Group 64: Records of the National Archives and Records Administration, 1789 - ca. 2007.
National Archives at College Park, MD. ARC Identifier: 35810427. https://catalog.archives.gov/id/35810427
Right: Photograph of Cartoon from Exhibit on U.S. Energy Conservation. 1974. 64-NA-5500.
Series: Historic Photograph File of National Archives Events and Personnel, 1935 - 1975, Record Group 64: Records of the National Archives and Records Administration, 1789 - ca. 2007.
National Archives at College Park, MD. ARC Identifier: 35810439. https://catalog.archives.gov/id/35810439
下の4つの米空軍兵士であったジョンH. ジェイク シューファート(John H. "Jake" Schuffert: 1919-1998)が描いたものです。ペンシルバニア州のニューキャッスル出身の彼は、1941年に当時の米陸軍航空隊に入り、通信士及び機銃士としてヨーロッパ戦線に従事しました。もともと彼は絵が得意であったようで、ボランティアで航空隊の機関紙にも漫画を描いていました。1960年代後半からは本格的に米国空軍のグラフィックアーチストとして活躍していたようです。(参照:AF Public Affairs Alumni Association: News and Notes, Spring 1999, page 6: https://afpaaa.org/resources/newsletters/1999/4-1999-news.pdf)
空軍機にサメの歯を描いたパイロットが、昨日、海岸線を低飛行したときに周辺の人々を サメが 空から襲ってきたと人々をパニックに陥れそうになったと、上官に怒られているシーン、また、宇宙からの訪問者がやってきたという情報に対して、そんな訪問者と会うなんて約束は自分のスケジュールにはないと怒っている上官の様子など、こうした感覚もとても面白いと思いました。
Left: Artwork: "USAF Cartoon" Artist: Jake Schuffert. 5/10/1982. 330-CFD-DF-SC-82-05763.jpeg. Series: Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 - 2007, Record Group 330: Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921 - 2008. National Archives at College Park, MD. ARC Identifier: 6343293. https://catalog.archives.gov/id/6343293
Right: Artwork: "USAF Cartoon" Artist: Jake Schuffert. 1/1/1995. 330-CFD-DF-SC-85-08434.jpeg. Series: Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 - 2007, Record Group 330: Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921 - 2008. National Archives at College Park, MD. ARC Identifier: 6387215. https://catalog.archives.gov/id/6387215
ドーナッツは 日本でも、手軽なスナックとして多くの人々にお馴染みなものであると思いますが、アメリカ合衆国でもドーナッツは、昔から朝食や小腹を満足させるスナックとして、とても人気があります。
ドーナッツの起源は、もともとは、オランダ語のオリークック (olykoeks) というもので、英語では”oily cakes”となり、油でできたケーキを意味したそうです。現在でもオランダでは、オリーボーレン(oliebollen:油で揚げたボール)と呼ばれる、卵と小麦粉と牛乳と酵母で混ぜたものを油で揚げたものがありますが、それは オリークックという名前から次第に変化したようです。(参照:The History of the Doughnut:A look back at the men, women and machines that made America’s favorite treat possible:https://www.smithsonianmag.com/history/the-history-of-the-doughnut-150405177/)
米国で、ドーナッツが、本格的に普及したのは、第1次世界大戦中のことでした。それは、ザ・サルベーション・アーミー(The Salvation Army:救世軍)や赤十字などの組織の女性メンバーによる、兵士達への慰問の際にドーナッツとコーヒーを届ける支援活動がきっかけでした。
ザ・サルベーション・アーミー(救世軍)という組織の始まりは、1865年に、イギリスのウィリアムブースという、キリスト教プロテスタントのメソジストの牧師と妻の、○○が、犯罪やアルコール中毒、貧困や失業など当時地域に蔓延していた社会問題の改善に取り組む運動を始めたことに由来します。この運動が、のち、ザ・サルベーション・アーミー(救世軍)と呼ばれるようになり、米国や日本他、様々な国でもその運動が展開されるようになりました。それは、現在でも続いています。
(参照:The Salvation Army USA: https://www.salvationarmyusa.org/usn/, 救世軍:https://www.salvationarmy.or.jp/about/history )
米国国立公文書館には、ドーナッツに関する写真資料が いくつかあります。以下にご紹介するのは、今から100年以上前の写真です。第1次世界大戦中は、ドーナッツを大量生産できるような機械はまだなく、めん棒を使って、生地を平らにして、とドーナッツ型で型を取って、油で揚げていました。
Salvation Army activities. “Shoulder arms.” Captain Stella Young with doughnut implements in hand, posting for a photograph in the midst of her work at Salvation Army hut. 165-WW-569A-80. ARC Identifier: 45562191. https://catalog.archives.gov/id/45562191
Salvation Army activities. Captain Louise Young, with the First Division through most of its hardest fighting. 165-WW- 569A-85. ARC Identifier: 45562201. https://catalog.archives.gov/id/45562201
Both from File Unit: War Relief - Salvation Army - Personnel, 1917 – 1918, Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917 - 1918, Record Group 165: Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952. National Archives, College Park, MD.
Salvation Army girl making doughnuts for the soldiers. 2/13/1919. File Unit: War Relief - Salvation Army - Theater of Operations, 1917 - 1918. 165-WW- 566B-21. ARC Identifier: 45561661. . https://catalog.archives.gov/id/45561661
Salvation Army activities. Lieutenant Myrtle Turkington presiding at doughnut counter. File Unit: War Relief - Salvation Army - Personnel, 1917 – 1918. 165-WW- 569A-84. ARC Identifier: 45562199.https://catalog.archives.gov/id/45562199
Both from Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917 - 1918, Record Group 165: Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952. National Archives, College Park, MD.
左下の写真は、兵士の束の間の休息で目の前のドーナッツを待つ兵士達の姿です。右下の写真は、フランスのアラゴンという地域に敵のドイツ兵が作った塹壕に沿った道で、米軍兵士たちがドーナッツの支給を待って列を作っている光景です。ドーナッツやその他の食べ物を提供する、救世軍側も、兵士達が戦っていた前線近くまで行っていたことがわかります。
Salvation Army activities. Doughnuts for dough boys who are anxiously awaiting their turn to get a chance at counter. 165-WW-566B-55. ARC Identifier: 45561729. https://catalog.archives.gov/id/45561729
アメリカンインディアンは、1492年にクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)がアメリカ大陸周辺の島であるサン・サルバドル島に到達するよりも以前にアメリカ大陸に住んでいた先住民を示し、アメリカ合衆国の先住民の大半を占めます。ワシントンDCにもアメリカンインディアンの博物館 (National Museum of the American Indian) があり、沢山の写真や資料を見る事ができます。(参照:https://americanindian.si.edu/)
*「アメリカンインディアン」ということばについては、ここでは、この博物館のサイトで提示されている用語の定義に従いました。(参照:What is the correct terminology: American Indian, Indian, Native American, or Native?
: https://americanindian.si.edu/nk360/didyouknow#topq2 )
アメリカンインディアン歴史はとても長く、米国国立公文書館をはじめ、他の歴史資料館でも沢山の資料を保管しており、現在でも多くの研究者によって研究は続けられています。
このブログでは1900年以降の写真を時系列でいくつか紹介します。(参照:https://www.history.com/topics/native-american-history/native-american-timeline)
Photograph of Indian Warriors, Series: Photographs of American Military Activities, ca. 1918 - ca. 1981 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:530707) at https://catalog.archives.gov/id/530707 on 4/24/2020]
1907年1月29日、チャールズ・カーティス (Charles Curtis) 氏がアメリカンインディアンでは初の上院議員となりました。彼は政治家として何年も活躍した後に1929年には第31代米国大統領のハーバート・フーヴァー (Herbert Hoover) の副大統領となり4年間貢献しました。1900年代以前にアメリカ政府と長きに渡って戦ってきたアメリカンインディアン社会の人々にとって彼の活躍は誇りであった事でしょう。
1924年6月2日、インディアン市民権法により、アメリカ議会は全てのアメリカンインディアンの米国市民権を保障する事を約束します。それ以前の米国市民権の付与は限られた人々にしか与えられていませんでした。これによって、第二次世界大戦では沢山のアメリカンインディアンの人々が米国軍に入隊し戦争に行くことになりました。次の二枚の写真は第145歩兵師団のアメリカンインディアンの写真です。
写真(左)Native American Soldiers of 45th Division, Series: Photographic Albums of Prints of Hampton Roads Port of Embarkation, 9/1942-12/1945 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:138925960) at https://catalog.archives.gov/id/138925960 on 4/24/2020] Original Captions: "Indians on the Warpath: Indian soldiers of 157th Infantry, 45th Division, on Pier X, Newport News, before sailing for service overseas. Left to right: Commanding Officer (not an Indian), Capt. William A. Speight, 0-40378, home, 209 Mathews St., Fort Collins, Colorado; Pfc. Joe C. Thomas (Pima tribe) 20845039, home address, Box 188, Route 1, Scottsdale, Arizona; Pfc. Asa Swift, 20845919 (Apache), address c/o Indian Agent, San Carlos, Arizona, age 21; Pvt. Dieu Little Warrior, 38323398 (Ponca), home address, Route 4, Ponca City, Oklahoma; Pvt. Patrick F. Morgan, 38000452 (Apache), home address San Carlos, Arizona; Cpl. Ebenezer Wesley, 20835955 (Choctaw), home address Antlers, Oklahoma. The 45th Division included about 1,500 Indians, representing 46 tribes. The 179th and 180th Infantry Regiments and the 4th Engineers had a large number of Indian soldiers. Official Photograph U.S. Army Signal Corps, Hampton Roads Port of Embarkation, Newport News Virginia."
写真(右)Native American Soldiers of 45th Division, Series: Photographic Albums of Prints of Hampton Roads Port of Embarkation, 9/1942-12/1945 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier: 138925958) at https://catalog.archives.gov/id/138925958 on 4/24/2020] Original Captions: Indian soldiers of 45th Division on Pier X, Newport News, before embarkation for overseas service. Left to right: Pfc. Harry Guy, 20830737 (Caddo tribe), home address Fort Cobb, Oklahoma; Pvt. Leslie Howling Wolf, 38062851 (Cheyenne), home address, R.I.B. 69, Thomas, Oklahoma. The 45th Division included about 1,500 Indians, representing 46 tribes. The 179th and 180th Infantry Regiments and the 4th Engineers had a large number of Indian soldiers. Official Photograph U.S. Army Signal Corps, Hampton Roads Port of Embarkation, Newport News Virginia."
今年2022年は、戦後から77年目を迎えます。今は新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)の問題で日常生活の維持もままならないほどですが、こうした未曽有の現在の状況も、形はもちろん異なっても、非日常的な毎日に必死に対応しなければならないというところでは、戦争の時代と重なるところがあるのではないかと感じています。
1941年の12月に太平洋戦争が勃発し、翌年の1942年の春以降、当時米国に住んでいた多くの日本人や日系米国人のうちの約12万人が戦争が終結するまで、アイダホ州、アリゾナ州、アーカンソー州、カリフォルニア州、コロラド州、テキサス州、ユタ州、そしてワイオミング州の合計8州 (ハワイを除く)において、全11カ所にわたって設置された日系人収容所に強制的に収容されることになりました。(参照:日系アメリカ人強制収容所の概要:全米日系人博物館:http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/accmass_jp.html)
今回はそうした収容所で生活を余儀なくされた人々のうち、特に子ども達の様子に関する写真をご紹介したいと思います。
Left: A young evacuee of Japanese ancestry waits with the family baggage before leaving by bus for an assembly center in the spring of 1942. 210-G-2A-6: Series: Central Photographic File of the War Relocation Authority, 1942-1945, Record Group 210: Records of the War Relocation Authority, 1941-1989:National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/539959
Right: Hayward, California. A young member of an evacuee family awaiting evacuation bus. Evacuees of Japanese ancestry will be housed in War Relocation Authority centers for the duration. 210-G-C159: Series: Central Photographic File of the War Relocation Authority, 1942-1945, Record Group 210: Records of the War Relocation Authority, 1941-1989:National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/537510
上記の左の写真は、当時、住んでいた場所から日系人収容所に向かうバスを待っているときの少女の写真です。2019年10月4日付けの弊社のFB記事上でも紹介させていただきました。リンゴをかじりながらも不安げな表情が、当時の日系人全体の心情を表しているようです。この写真は、米国国立公文書館の5階の写真リサーチルームの壁にも飾られている写真の1枚でもあり、おかっぱの髪型とその雰囲気は、私の娘の小さい頃を彷彿させるので、以前からとても気になっていました。右の写真の少女はおそらく小学校1-2年生くらでしょうか、彼女なりにいろいろな不安があったと思うのですが、カメラに向かって微笑んでいます。
こうした子ども達を含めたくさんの日系人が、バスや列車に乗って、まずは14カ所の集合センターに収容され、そこから11カ所の収容所へと連れていかれることになりました。移民として必死に米国で働き積み上げてきた財産や土地を取り上げられることになり、ほとんど着の身着のままの状態で、砂漠のような場所に作られたバラックのような収容所に強制的に連れてこられた人々の屈辱と怒りと絶望はどんなに大きなものであったかと考えると本当に胸が痛みます。下記の写真はそうした収容所の様子です。
Left: Poston, Arizona. Living quarters of evacuees of Japanese ancestry at this War Relocation Authority center as seen from the top of water tower facing south west. 210-G-A190: Series: Central Photographic File of the War Relocation Authority, 1942-1945, Record Group 210: Records of the War Relocation Authority, 1941-1989: National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/536152
Right: Manzanar Relocation Center, Manzanar, California. Street scene of barrack homes at this War Relocation Authority center for evacuees of Japanese ancestry. 210-G-C835: Series: Central Photographic File of the War Relocation Authority, 1942-1945, Record Group 210: Records of the War Relocation Authority, 1941-1989: National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/538126
そうした厳しい状況の中でも、現実を受け入れて、日系人の人々は収容所周辺に新しく水を引いて農地を開墾して野菜を育てたり、庭園を作ったり、家具を作ったりするなど、主体的に生活を切り開こうとしました。(参照:語り継がれる、戦時中の収容所での暮らし~アイリーン・マノさん:North American Post, 6/11/2018: https://www.napost.com/ja/the-story-of-life-in-japanese-american-concentration-camp/)
下記の6枚の写真は、収容所での子ども達の様子です。これまで慣れ親しんできた自宅から、遠く離れて、プライバシーもなく、米兵の見張りもいるような収容所では、子どもながらにいろいろな不安や不満、そして怖さもあったかと思います。しかしながら、それでも無邪気に見せる子ども達の笑顔は、親を含むすべての大人達にとってもかけがえのないものであったと思います。
Left: Manzanar Relocation Center, Manzanar, California. These youngsters are playing in the field of a nursery school at Manzanar, a War Relocation Authority center where evacuees of Japanese descent will spend the duration. 210-G-D518: Series: Central Photographic File of the War Relocation Authority, 1942-1945, Record Group 210: Records of the War Relocation Authority, 1941-1989: National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/538487
Right: Poston, Arizona. These two little evacuees of Japanese ancestry are getting acquainted at this War Relocation Authority center. 210-G-D566 Series: Central Photographic File of the War Relocation Authority, 1942-1945, Record Group 210: Records of the War Relocation Authority, 1941-1989: National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/538531
米国の東インド艦隊司令長官兼米使提督のマシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry)は軍艦4隻を率いて、1853年(嘉永6年)の6月に浦賀沖(神奈川県)に来航しました。その翌年、ペリーは再び来航し、幕府との間で日米和親条約を結ぶことになります。こうして日本は200年以上続いた鎖国政策が解かれました。その後、ペルー艦隊は1854年3月に静岡県の下田に来航することになります。(参照: https://www.city.shimoda.shizuoka.jp/category/100400shimodanorekishi/110778.html )
Commodore. Matthew C. Perry
Series: 19th Century Prints Brady and Quartermaster Photographic Prints, and Other Civil War Views, ca. 1860 – ca. 1941; Record Group 165: Records of the War department General and Special Staffs, 1860 – 1952; National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC Identifier 167250856) at www.archives.gov; April 22, 2020]
下は、1854年3月付の下田湾の調査地図です。注釈には『アメリカ人が制限なしに移動できる周辺を表す』また『この表は日米間の条約に付随するものである』と記されています。
Map of Shimoda Harbor, Japan.
Record Group 11: General Records of the United States Government, 1778 – 2006. Series: Maps Relating to Treaty Negotiations and Executive Agreements, 1819 – 1978; National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC Identifier 2619342) at www.archives.gov; April 22, 2020]
その後、下田市では1934年(昭和9年)から下田開港に偉業を遂げた内外の先賢と世界平和、国際親善に寄与するために『黒船祭』が始まったそうです。(参照:https://www.shimoda-city.info/event/kurofune.html)
戦後の1947年(昭和22年)には下田市でペリー提督上陸から第93周年の式典が行われました。その様子を米国国立公文書館の写真資料からご紹介します。
会場は多くの人々で賑わい、地元の女子高校生合唱団も参加しています。山車には黒船の模型などが飾られ当時を再現しています。
Left side: Photograph No. 111-SC 288794; Black Ship Festival Day in Shimoda, Japan, July 7, 1947. Crowds of spectators pass through the bamboo entrance to the grounds where the Black Ship Festival is held at Shimoda, Japan, July 7th, commemorating the 93rd Anniversary of Commodore Perry’s landing in Japan in 1854. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.
Right side: Photograph No. 111-SC 288796; Black Ship Festival celebrated at Shimoda, Japan: Members of the Shimoda High School girls’ choir join in the ceremonies celebrating the Black Ship Festival Commemorating Commodore Perry’s entry into Japan in 1854. July 7, 1947. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.
Left side: Photograph No. 111-SC 288798; Colorful Black Ship Festival Day in Shimoda, Japan, July 7, 1947. Commodore Perry’s flag ship is used as the theme for a float, during the Black Ship Festival in Shimoda, Japan. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.
Right side: Photograph No. 111-SC 288800; Black Ship Festival revived in Japan: July 7, 1947. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.
おもちゃとしてのぬいぐるみは自分の子どものころの記憶の中にあります。米国で、娘が生まれたときにも自宅にもたくさんのぬいぐるみを家族や友人からもらい、また自分でもよく買っていたかと思います。米国にもいろいろなぬいぐるみがありますが、やはり人気があるのは熊のテディベアです。
下記の写真の上は、ニューヨーク州のオイスターベイ市のサガモア・ヒルに今もある、米国の第26代のセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt) 大統領の邸宅内のテディベアの写真です。下は、私の自宅にあるものの写真です。今回は、こうしたテディベアに関係する資料について、ご紹介したいと思います。
Teddy bear collection on site at Sagamore Hill; home of President Theodore Roosevelt.
New York: 022-DP-10960.JPG: Series: Photographs from the National Digital Library, ca. 1998-2011: RG22: Records of the U.S. Fish and Wildlife Service, 1868-2008. National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/166711650
Teddy bears at my house on 4/10/2020
米国第26代大統領であったセオドア・ルーズベルトは、1902年11月に、当時ミシシッピ州とルイジアナ州との州堺の問題を解決するためにミシシッピ州へ出向きました。そこで自分の趣味であった狩猟も行いましたが、熊を仕留めることができず、見かねたガイドが、自分で生け捕りにした熊をを鎖に繋いでセオドア・ルーズベルト大統領に撃たせようとしました。が、彼はそれを拒否しました。その話を当時のワシントンDCの新聞のワシントンポストで風刺画担当のクリフォード・ベリーマン(Clifford Berryman) が、漫画にしました。
その漫画は、米国国立議会図書館に所蔵されており、ウェッブサイトで以下のように見ることができます。
Drawing the line in Mississippi: 11/16/1902 by Berryman, Clifford Kennedy, 1869-1949, artist: Summary: Photograph reproduces a newspaper cartoon in the Washington Post. The cartoon is a detail from a series called "The Passing Show" about President Theodore Roosevelt's purported refusal to shoot a chained bear while on a hunting trip in Mississippi. The little bear, Bruin, became so popular that Berryman used him frequently in later cartoons on many different topics. Although Berryman helped popularize the association of Teddy Roosevelt with bears, he did not invent the toy teddy bear. (Source: Teddy Bear Men: Theodore Roosevelt and Clifford Berryman, by Linda Mullins, 1987, p. 32-3.): Library of Congress: https://www.loc.gov/item/2008678324/
この漫画を見て、ニューヨーク市内で菓子屋を営んでいた、モリス・ミットム(Morris Michtom)が彼の妻とともに、熊のぬいぐるみを作ってセオドア・ルーズベルト大統領の愛称であるテディにちなんでテディベアとして売り始めました。また、それ以前からすでにぬいぐるみを作っていたドイツのシュタイフ社(Steiff)もテディベアを作ることになり、さらにテディベアは人気を博していきました。(参考:テディベアの歴史:一般財団法人日本玩具文化財団:http://toyculture.org/%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F/%E3%83%86%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%99%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/
ワシントンDCの新聞であるワシントンポストの漫画家であったクリフォード・ベリーマン(Clifford Berryman)は、1869年にケンタッキー州で生まれました。すでに17歳でワシントンDCの米国の特許事務所で製図者となり、その2年後の1891年にはワシントンポストの漫画家の代わりに漫画を描くようになり、さらに5年後には、その新聞社のトップの政治風刺画担当者になるという活躍ぶりでした。そ1896年から亡くなる1949年までの50年間、彼の漫画はワシントンポストや、ワシントンイブニングスターにほとんど毎日のように掲載されました。(参照:Candidates, Campaigns, and the Cartoons of Clifford Berryman:US Senate: https://www.senate.gov/artandhistory/art/Art_Spotlights/Berryman_Cartoons.htm)
下記の漫画は、クリフォード・ベリーマンの自画像です。彼が、セオドア・ルーズベルト大統領の狩猟時に鎖で繋がれた熊の射殺を拒否した話を漫画にしてから、テディベアはアメリカ合衆国の象徴的なものになりました。クリフォード ベリーマンは自分の漫画の中でその熊をかわいい、抱きしめたいようなテディベアに変えることにして、それが彼の漫画の中でのシンボルとなりました。
Self-Portrait of Clifford Berryman: Clifford Berryman is credited with introducing the teddy bear into the American vernacular after President Theodore Roosevelt famously refused to shoot an old, haggard bear during a hunting trip. Berryman changed the old bear into a cute, cuddly "teddy bear" -- named for the President -- and it became a common symbol in Berryman's cartoon. This cartoon shows a self-portrait of Berryman drawing his famous teddy bear. 1904: Series: Berryman Political Cartoon Collection, 1896-1949: Record Group 46: Records of the US Senate, 1789-2015: National Archives in College Park, MD. 2979338: https://catalog.archives.gov/id/2979338
米国国立公文書館には、上記のクリフォード・ベリーマンの自画像を含め合計2359枚の漫画が保管されています。それらのすべてを、オンラインで見ることができます。 それらの漫画の中には、テディベアそのものが宣伝として、中心となるようなものも1部ありますが、ほどんどは、漫画の中で、テディベアは脇役としてさりげなく、描かれています。それらの中からいくつかをご紹介したいと思います。
To the woods! 11/1/1906: This cartoon features President Theodore Roosevelt and the Teddy Bear character.: Series: Berryman Political Cartoon Collection, 1896-1949: Record Group 46: Records of the US Senate, 1789-2015: National Archives in College Park, MD: ARC No. 306110: https://catalog.archives.gov/id/306110
Untitled 4/15/1905: This untitled illustration by cartoonist Clifford Berryman, which appeared in the Washington Post on April 15, 1905, Berryman uses his famous teddy bear as advertising the Washington Post as "Washington's Favorite Newspaper.": Series: Berryman Political Cartoon Collection, 1896-1949: Record Group 46: Records of the US Senate, 1789-2015: National Archives in College Park, MD: ARC No. 6010566: https://catalog.archives.gov/id/6010566
上記の上の漫画については、米国国立公文書館のサイト上には、特にキャプションは掲載されていませんが、ホワイトハウスを後にして、パインノット(Pine Knot)へ向かう様子が、描かれています。これは、当時のセオドア・ルーズベルト大統領が、就任時代の休みに、時々バージニア州のシャーロッツ市にあったパインノット(Pine Knot)という山小屋に行っていたことを示すものだと思います。本来は休みのはずですが、彼は手にインクと紙を持っているので、おそらくその山小屋に仕事を持ち込まければならなかったほど忙しかったのではないかと思われます。ホワイトハウスにはすでにいろいろな懸案事項が山積して、テディベアがそれを不安げな顔で見守りながら、大統領の後をついていく姿が印象的です。
上記の下の写真は、当時のワシントンポスト日曜版の宣伝のために使われたテディベアの漫画です。
新型コロナウィルス (COVID-19)のため、国家非常事態宣言が出た時に、食料品の買い物や少しの運動時間以外、外出もままならない毎日が続いていました。家にいる時間が長いため、お菓子やパンを自宅で作る人たちが多くなり、お店に行っても小麦粉、イースト、砂糖や他の材料が売り切れてしまいました。
そこでケーキに関する資料を探してみました。色々なデコレーションケーキの写真を米国公文書館のオンラインカタログから見つけました。
最初はウェディングケーキです。
Ronald Reagan and Nancy Reagan Cutting Cake at William Holden's House after their Wedding in Toluca Lake, California,3/4/1952; Reagan White House Photographs, 1/20/1981 - 1/20/1989; Collection RR-WHPO White House Photographic Collection, 1/20/1981 - 1/20/1989; Ronald Reagan Library [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 6728664) at www.archives.gov; April 13, 2020]
ケーキにナイフを入れようとしているのは、ドナルド・レーガンとナンシー夫人です。この写真は結婚式の後、「戦場に架ける橋」や「愛しのサブリナ」その他多くの人気映画に出演し、世界的俳優となったウィリアム・ホールデンの家で撮影されました。
GERMAN IMMIGRANT HANS STRZYSO IS THE CHIEF BAKER AT MADSENS SUPERMARKET. HE SPECIALIZES IN ALL TYPES OF DECORATED CAKES AND ETHNIC GERMAN BAKED GOODS WHICH ARE MADE FRESH DAILY. NEW ULM IS A COUNTY SEAT TRADING CENTER OF 13,000 IN A FARMING AREA OF SOUTH CENTRAL MINNESOTA. IT WAS FOUNDED BY A GERMAN IMMIGRANT LAND COMPANY IN 1854 THAT ENCOURAGED ITS KINSMEN TO EMIGRATE FROM EUROPE. THE TOWN CONTINUES TO GROW WITH ARRIVAL OF MANUFACTURING FIRMS 7/1974; DOCUMERICA: The Environmental Protection Agency's Program to Photographically Document Subjects of Environmental Concern, 1972 – 1977; RG 412 Records of the Environmental Protection Agency, 1944 – 2006; National Archives at College Park, MD and others[online version available through the Archival Research Catalog (ARC 558347) at www.archives.gov; April 13, 2020]
ミネソタ州のスーパーマーケットでケーキシェフのハンスさんが、毎日手作りしているデコレーションケーキです。ハンスさんはドイツからの移民で、あらゆる種類のデコレーションケーキとドイツ菓子を得意としています。少し昔ではありますが、スーパーマーケットでこんなヨーロッパ風の手作りのケーキが買えたなんていいですね。
Chef René Verdon Holds a Cake Prepared for President John F. Kennedy's Birthday, 5/29/1963; Cecil Stoughton's White House Photographs, 1/29/1961 - 12/31/1963; Collection JFK-WHP White House Photographs, 12/19/1960 - 3/11/1964; John F. Kennedy Library [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 6816414) at www.archives.gov; April 13, 2020]
ケネディー大統領のバースデーケーキを披露する、ホワイトハウスのフランス人シェフのルネ・バードンさんです。シンプルなケーキです。
A cake in the form of the Pentagon during the 50th Anniversary celebration of the Pentagon, in Washington, D.C., on May 12, 1993. OSD Package No. A07D-00209 (DOD PHOTO by Robert D. Ward) (Released) 5/12/1993; Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 – 2007; RG330 Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921 – 2008; National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC 6681477) at www.archives.gov; April 13, 2020]
2001年9月11日の朝、米国ニューヨーク、マンハッタンにあったワールドトレードセンターにハイジャックされた旅客機が衝突しました。当時、日本でテレビ番組を見ていた私は、次の瞬間、民放全てのチャンネルが次々と、まるで映画のワンシーンを映し出しているかのような光景の画面に変わっている事に気づいたのを今でも鮮明に覚えています。その映像はワールドトレードセンター・ツインタワーの北棟に旅客機が衝突した事によって、そこから黒煙が上がっている様子でした。この映像に世界中の人々の目が釘付けになっていた時、2機目の旅客機がワールドトレードセンター・ツインタワーの南棟に衝突し炎上しました。この時点でアメリカ国民の大半、少なくともアメリカ政府はテロ攻撃だと理解をしたといわれています。
標的となったのはワールドトレードセンター・ツインタワーの他にも米国国防総省本庁舎(ペンタゴン)ですが、これら以外にも、もう1機、ハイジャックに成功しワシントンD.C.へ向かっていた旅客機もありますが、成功したのはハイジャックまでで乗客・搭乗員がテロ攻撃を阻止した事で失敗へと終わっています。このUnited 93(またはFlight93)の物語もテロ攻撃後からとても広く知られています。
(The National Commission on Terrorist Attacks Upon the United Statesによって作成されたハイジャックされた旅客機のポスター。この資料と同時にテロ攻撃の詳細なタイムラインも閲覧する事ができます。)
Map of Four Flights and Timeline of Events on September 11, 2001, Series: Records of the Commission's General Services Administration Building Office, 3/2003 - 8/2004 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:5899988) at https://catalog.archives.gov/id/5899988 on 5/4/2020] These poster size graphics were made by the staff of the National Commission on Terrorist Attacks Upon the United States, more popularly known as the 9/11 Commission, for display during the Commission's public hearings. They depict the movements and timeline of events related to the four planes hijacked by terrorists on the morning of September 11, 2001, as well as the U.S. Air Force fighters that were scrambled to intercept them.
米国国立公文書館にはこの事件に関連する膨大な量の資料が保管されています。その一部はセキュリティー上、いまだ見る事ができないものもあるという事です。このブログでは被害にあったワールドトレードセンターと米国国防総省本庁舎(ペンタゴン)の被害状況から復興へと向かった現場を記録した写真をいくつか紹介します。
写真(左)ワールドトレードセンターの被害を上空から撮影した写真[9/15/2001]An aerial view, days after the terrorist attacks on American soil, the towers of the World Trade Center (WTC) sit as a pile of rubble in the streets of New York City. The rescue and recovery efforts continue with tons of debris slowly removed from the site. The view is toward the northwest, with an American flag draped on World Financial Center (WFC) tower two, and the Verizon Building on the right , Series: Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 - 2007[Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:6604923) at https://catalog.archives.gov/id/6604923 on 5/4/2020]
写真(右)ペンタゴンの被害を上空から撮影した写真[9/14/2001]An aerial view, two days later, of the impact point on the Pentagon where the hijacked American Airlines Flight 77, a Boeing 757-200 entered, breaking up in the process. Shortly after 8 AM on September 11, 2001 in an attempt to frighten the American people, five members of Al-Qaida, a group of fundamentalist Islamic Muslims, hijacked Flight 77 from Dulles International Airport just outside Washington DC. About 9:30 AM they flew the aircraft and 64 passengers into the side of the Pentagon. The impact destroyed or damaged four of the five "rings," in that section, that circle the building. That section of the Pentagon was in the finishing stages of a renovation program to re-enforce and ... , Series: Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 - 2007[Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:6523868) at https://catalog.archives.gov/id/6523868 on 5/4/2020]
写真(左)ペンタゴン建物内部の被害 View of a damaged office on the fifth floor of the Pentagon. Shortly after 8 AM on September 11, 2001 in an attempt to frighten the American people, five members of Al-Qaida, a group of fundamentalist Islamic Muslims, hijacked American Airlines Flight 77, a Boeing 757-200, from Dulles International Airport just outside Washington DC. About 9:30 AM they flew the aircraft and 64 passengers into the side of the Pentagon. The impact destroyed or damaged four of the five "rings" in that section that circle the building. That section of the Pentagon was in the finishing stages of a renovation program to re-enforce and update the building. Fire fighters fought the fire through the night. The ... , Series: Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 - 2007[Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:6523865) at https://catalog.archives.gov/id/6523865 on 5/5/2020]
写真(右)ペンタゴン建物内部の被害(旅客機が衝突した衝撃で止まった時計)A clock, frozen at the time of impact, inside the Pentagon. Shortly after 8 AM on September 11, 2001 in an attempt to frighten the American people, five members of Al-Qaida, a group of fundamentalist Islamic Muslims, hijacked American Airlines Flight 77, a Boeing 757-200, from Dulles International Airport just outside Washington DC. About 9:30 AM they flew the aircraft and 64 passengers into the side of the Pentagon. The impact destroyed or damaged four of the five "rings" in that section that circle the building. That section of the Pentagon was in the finishing stages of a renovation program to re-enforce and update the building. Fire fighters fought the fire through the night. The ..., Series: Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 - 2007[Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:6523866) at https://catalog.archives.gov/id/6523866 on 5/5/2020]
米国国立公文書館に保存されている写真の中に、戦後の日本で女性が社会進出をし、活躍している姿を撮影したものがあります。それらを見ていると、戦争で混乱していた社会から新しい時代へと向かって行っている時代の流れと人々の力強さを感じます。今回は、そんな女性パイオニアたちが映っている写真をいくつかご紹介したいと思います。
戦前の法曹関係では、1933年の弁護士法の改正と1936年の施行により、女性にもすでに弁護士への道が開けていました。1938年には女性3名が高等文官司法科試験に合格し、そして、1940年には正式に女性弁護士が誕生していました。しかし、女性裁判官と女性検察官が誕生したのは戦後の1949年のことでした。下の写真は、女性初の裁判官となった石渡満子さんです。1949年5月17日に司法修習生の修習を終え、証書を受け取っている様子です。
FIRST JAPANESE WOMAN JUDGE: Miss Mitsuko Ishiwata receives her judicial research and training institute diploma from Deputy Chief Justice of the Supreme Court of Japan. This qualified her as a legal counsellor at law and she will be appointed a full fledged judge next week by the attorney general. She will be the first woman in Japan to achieve this position. 17 May 1949.
Photograph No. SC-321725: Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, College Park, MD.
民主化の第一歩となる婦人参政権ですが、1945年の11月に、女性の参政権を含む衆議院選挙法が改正され、1946年4月10日に行われた衆議院総選挙では、女性が初めて選挙に参加することができました。女性参政権行使を促すためにポスターや新聞など様々なものが使用され、さらに講演なども行われたそうです。
下の写真は、説明書きにはJapanese Voting, 1946, Tokyoとしか書かれていないので、詳細はわかりませんが、1946年に女性が投票している様子を撮影したものです。
Photograph No. 20505: RG208 Box14 Folder:208-PR-QR Foreign countries -Japan; National Archives at College Park, College Park, MD.
1946年の衆議院総選挙では39人の女性議員が当選し、衆議院での女性議員の割合は8.4%を占めたようです。下の写真は、1946年4月25日に開かれた婦人議員クラブ結成を目的とした会合の様子です。中央に立って話をしているのは当選した女性議員の一人である加藤シヅエ議員です。
With the aim of organizing the Women Diet Members’ Club, Mrs. Shizue Kato, Social democrat, is shown speaking to twenty-one of thirty-nine women members of Japanese Diet, at first meeting since election, in the Diet Building, Tokyo, Japan. 25 April 46.
Photograph No. SC-244450: Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, College Park, MD.
現在では、警察内の様々な分野で活躍をしている女性の警察官が多く存在しますが、婦人警察官(現在では女性警察官に改称。)が誕生したのは1946年のことでした。1946年4月27日、東京で初の婦人警察官たちの警察訓練学校の卒業式が行われました。下の写真は警視総監のバレンタイ氏と通訳の女性、そして卒業生の婦人警察官です。
もう一枚の写真は、笛を口にくわえ、東京の街中の交通量が多い交差点で、歩行者が安全に横断できるよう交通整理をしている婦人警官の姿です。
Commissioner Lewis J. Valentines (second from left) accompanied by Japanese Police Chief (left) and Valentine’s female interpreter (second from right) interviews one of the girls graduating in the First women’s Police Corps. Tokyo, Japan. The exercise took place at the Police Training School, Tokyo, Japan. 4/27/46.
Photograph No. SC-244453: Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, College Park, MD.
Japanese Woman Policeman keeps pedestrians in safety walk at busy intersection in downtown Tokyo Japan. This new addition to the Japanese Police has helped to promote safety and prevent accidents in conjected traffic areas throughout the city. 11 June
Photograph No. SC-249690: Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, College Park, MD.
世代を超えて人々は常に情報を共有し合いながら生活しています。
今では当たり前に使用し社会生活に不可欠となっているインターネットも1960年代からの急速な普及や研究、開発の進化により、より速く簡単に詳細な情報が世界中から入手出来るようになりました。(参考:インターネット歴史年表:JPNIC 日本ネットワークインフォメーションセンター:https://www.nic.ad.jp/timeline/)
米国国立公文書館が所蔵している日本関係写真の中には、戦時中又は戦後に使用されていた通信機器やそれに関する写真が保存されています。これらの写真は、通信装置の専門家ではなくとも設置されていた場所や環境などからも興味深く見ることが出来ます。特に、電話交換機を手動で操作していた電話交換手や圧縮空気圧を利用して電報を送る気送管(エアーシューター)を使っての作業風景は今の21世紀には存在しない仕事でもあり、とても新鮮に見えます。今回はそのいくつかをご紹介します。
北海道室蘭市、日本製鋼所の防空壕内の交換台で働く女性達。
Photograph No. 111-SC 221142; Switchboard operated in air-raid shelter at Muroran works, Japanese steel works, Ltd. (Muroran, Hokkaido, Japan) Oct 25, 1945. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.
鹿児島県名瀬市(現在は奄美市)の電話、ラジオセンター。
Left side: Photograph No. 111-SC 249542; At Naze, Amami O Shima, A Party of personnel with Major Heck found a civilian telephone and radio center. This shows the radio part or section of the center. Oct 6, 1945. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.
Right side: Photograph No. 111-SC 249543; The telephone section of the center. Oct 6, 1945. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.
九州の海軍基地の洞窟内に作られていたラジオの送受信センター。
Photograph No. 111-SC 218689; Japanese radio sending and receiving station, built in caves at Sasebo Naval Station, Kyushu, Japan. Out 21, 1945. . Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.
木箱に収められていた送信機。
Photograph No. 111-SC 248923; Japanese Range Transmitter azimuth model 98. Dec 20, 1945. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.
下の2枚は中央通信局内の写真です。右は交換機が置かれているコントロール室。左は気送管が印象的な配信室です。チューブの根本にはそれぞれ地区の名前が書かれており、ここでは「深川管」、「築地管」の文字が読み取れます。
国歌斉唱時に愛国心を示すアーカンソー州地元住民、アーカンソー州リトルロック空軍基地、314部隊空輸航空団、2004年ハートランドの英雄たちによる航空ショーにて
Patriotism on display by local residents of Arkansas during the singing of the National Anthem at the 314th Airlift Wing (AW) sponsored 2004 Heroes of the Heartland Air Show at Little Rock Air Force Base (AFB), AR:
RG 330; Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921-2008; Combined Military Service Digital Photographic FIles, 1982-2007; National Archives at College Park, MD; [online version available through the National Archives Catalog (National Archives Identifier 6664005) at www.archives.gov; April 28, 2020]
アメリカにいらっしゃると、星条旗を至る所で目にされることと思います。公共機関の建物だけでなく、事務所ビルや商業施設、家の軒先に国旗を掲揚する家庭もあります。超特大サイズのものがはためき目を引く車の販売店もあります。
アメリカの国旗は、独立戦争最中の1777年6月14日、第2回大陸会議内で合衆国旗のデザインを決議したことに基づき、今ではこの日が国旗記念日となりました。https://www.military.com/flag-day
その後再びイギリスとの戦争時、1814年9月の戦下で旗を詠んだ詩が人々に親しまれ、のちに国歌として制定されていきました。
そんな背景を、米国国立公文書館と連邦議会図書館の資料から辿ってみたいと思います。
独立戦争後19世紀初頭のアメリカは、フランスからのルイジアナ買収やルイス・クラーク探検隊の西部への道のり開拓など、国として領土拡大を模索しているような時期です。
英国は、大西洋の覇権を握り、米仏の貿易を妨害し、アメリカ船を拿捕し船員を拉致して英軍に引き込んだり、一方アメリカ大陸では影響力保持のため、カナダを掌握したいアメリカに対抗し、カナダ先住民へ戦力支援し、と両国の関係は友好的とは言えない関係にありました。
参照サイト:https://www.britannica.com/event/War-of-1812
https://amhistory.si.edu/militaryhistory/printable/section.asp?id=2
結果1812年には米英戦争となり、北部カナダとの争いから始まり、ナポレオンとの戦争も終結したイギリスは戦力を東海岸に向け、主要な港が狙われ、首都ワシントンDCも戦場となりました。首都も陥落し、戦いはボルチモア港へ移ります。1814年9月のことです。
マクヘンリー要塞の空撮写真
An aerial view of historic Fort McHenry guarding the harbor entrance. It was here, in August 1814, that Francis Scott Key wrote the National 'Anthem at dawn's early light after he had watched British naval forces bombard the fort all night long without forcing its surrender. The American defends unfurled a large American flag and the British Admiral in charge gave up and sailed home;
RG 330; Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921-2008; Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982-2008; National Archives at College Park, MD; [online version available through the National Archives Catalog (National Archives Identifier 6490435) at www.archives.gov; April 28, 2020]
マクヘンリー要塞(Fort McHenry)は、この地図の左上、ボルチモア(BALTIMORE)市街の手前、パタプスコ川(PATAPSCO RIVER)の河口にあります。
Fort McHenry National Monument Battle Map, Project Years 2004-2012;
RG 79; Records of the National Park Service, 1785-2006; National Archives at College Park, MD; [online version available through the National Archives Catalog (National Archives Identifier 33753902) at www.archives.gov; April 28, 2020]
ワシントンDCの弁護士、フランシス・スコット・キー(Francis Scott Key)氏は、第4代ジェームス・マディソン大統領の任で、英軍との捕虜交渉にあたります。
要塞沖の英軍船内で交渉は行われ円満に進みながらも、そのまま戦火に巻き込まれてしまいます。
アメリカ軍は要塞で防衛、イギリス軍は海上から攻撃、1814年9月13日からはじまり、翌14日まで25時間にも及んだそうです。
参照サイト:https://www.battlefields.org/learn/war-1812/battles/fort-mchenry
戦火の中、明け方の日のなかで星条旗がみられた喜びを詩によみ綴り、後日受け取った兄の働きでそのまま地元新聞に掲載されます。
フランシス・スコット・キー氏直筆 米国国歌 歌詞
KEY, FRANCIS SCOTT. ORIGINAL MANUSCRIPT OF 'STAR SPANGLED BANNER’;
Harris & Ewing, photographer. KEY, FRANCIS SCOTT. ORIGINAL MANUSCRIPT OF 'STAR SPANGLED BANNER'. , 1914. Photograph. https://www.loc.gov/item/2016865604/.
原典タイトルは「マクヘンリー要塞の防衛、The Defence of Fort McHenry」とつけられました。こちらのリンクは、書かれた当時のままの詩を載せています。
https://amhistory.si.edu/starspangledbanner/pdf/ssb_lyrics.pdf
メロディーの方は、1760年代にイギリスの社交クラブの曲として作られていたもので、英米で流行り、変え歌にしたりしながら親しまれていたものです。兄も、この曲に合わせて歌うのを思い描いていたようです。
■スーザ吹奏楽団よる演奏音源: Anacreontic Song Audio Recording, 1898;
Sousa'S Band. Star Spangled Banner. Berliner, New York, NY, 1898. Audio. https://www.loc.gov/item/ihas.100000221/.
The Anacreontic song; Smith, John Stafford, and Ralph Tomlinson. The Anacreontic song. [A. Bland's Music Warehouse, London, England, ?, ca. 1790] Notated Music.
https://www.loc.gov/item/ihas.100010458
参照サイト:https://loc.gov/item/ihas.200000017
私的な集まり等で歌い継がれながら、19世器後半、海軍の旗掲揚時に演奏されたことが公の場での始まりだそうです。
野球の試合にも受け継がれ、第一次世界大戦中1918年のワールドシリーズの場に由来するそうです。ベイ・ブルースが所属したボストン・レッドソックスとシカゴ・カブスの試合でした。
https://www.history.com/news/why-the-star-spangled-banner-is-played-at-sporting-events
民衆の議会への働きかけもあり、1931年ウィルソン大統領のもとで国歌として制定されました。
日本では雛祭りにあたる、3月3日が国歌認定記念日となっています。
https://nationaldaycalendar.com/national-anthem-day-march-3/
国歌に謳われた当時の旗は、現在スミソニアンの国立アメリカ歴史博物館(National Museum of American History)でご覧いただけます。
https://amhistory.si.edu/starspangledbanner/visit.aspx
日本の食べ物は、アメリカ国内でとても人気があります。お菓子ではハイチュウとポッキーは誰もが知っています。日本料理というと、やはり寿司が一番認識されていますが若い世代ではラーメンやうどんといった麺類も人気です。照り焼きチキン、天ぷらもこちらの日本食レストランの定番です。
米国での日本食をさかのぼると、日本との距離が近く日本からの移民も多かった西海岸、特にカリフォルニア州から始まりましたが、全米として見るとそこまで普及はされていなかったように思います。しかし1970年代後半から1980年代に健康食としてのスシブームが起こり、そこから進化していったようです。スシブームの頃はカリフォルニアロールに代表される、生ものの魚を使わなく創作的で、日本人からすると「これがお寿司?」というものでしたが、今は普通に生ものを使った握り寿司や巻きずしを食べることができます。
「和食」が2013年にユネスコ無形文化遺産に登録されたのもあるかと思いますが、日本料理は今や一つの地位を確立しています。
(参考出典:平成 30 年度 米国における日本食レストラン動向調査-ジェトロhttps://www.jetro.go.jp/ext_images/_Reports/02/2018/c928ae49736af7f3/us-report-201812r2.pdf )
米国国立公文書館のオンライン資料の中で以下のような写真を見つけました。
Sushi being Prepared in Grocery Store, 6/15/2000; Photographs of Agency Activities, ca. 1969 - ca. 2005; RG 16 Records of the Office of the Secretary of Agriculture, 1794 - ca. 2003; National Archives at College Park, MD and other locations [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 83228767) at www.archives.gov; April 3, 2020]
スーパーでお寿司を作っています。巻物はカリフォルニアロールっぽいですね。ごく普通のにぎり寿司も作られています。今はほとんどのスーパーでこういったパックに入ったお寿司が売られています。
Sushi dishes on display in a restaurant; Combined Military Digital Service Photographic Files 1982-2007; RG330 Records of the Office of the Secretary of Defense, 1982 – 2008; National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 6433030) at www.archives.gov; April 3, 2020]
上記は日本の食堂でのお寿司の見本です。こんな写真が米国公文書館にあるのが面白いですね。
ラーメンの写真は探すことができませんでしたが、意外にもうどんを扱った写真がありました。
US Marine Corps (USMC) STAFF Sergeant (SSGT) Robert Thomas (left) Legal Services CHIEF, from Marine Corps Air Station (MCAS) Iwakuni, Japan, eats "Udon" noodles with Japanese Maritime Self Defense Force (JMSDF) Sailors, during his visit aboard Camp Otsu, Japan, 5/28/2004; Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 – 2007; RG330 Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921 – 2008; National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 6666197) at www.archives.gov; April 3, 2020]
朝目覚めるころには、いつもいろいろな鳥の美しいさえずりが聞こえます。コロナ禍の前までは朝も非常に忙しかったのでそうしたさえずりを楽しむ余裕もありませんでしたが、現在はテレワークのために、そうしたものにも自ずと意識して耳を傾けるようになりました。そこから、ふと、レイチェル・カーソン(Rachel Carson)が書いた有名な『沈黙の春』(Silent Spring)を思い出しました。
アメリカ合衆国の海洋生物学者であったレイチェル・カーソンが1962年に出版した『沈黙の春』は、人間が化学物質を乱用し続けていくと生態系が破壊され、やがては春がきても鳥たちは鳴くことなくミツバチも飛ばないような沈黙した春を迎えるようになるかもしれないといった話から始まる、化学物質による環境汚染への警告を提示した本でした。
今回は、このレイチェル・カーソンに関する米国国立公文書館の資料や関連サイトなどをご紹介したいと思います。
Left: Rachel Carson, 1944 - Author, editor and aquatic biologist with the U.S. Fish and Wildlife Service. 022-DP-10780.jpg: Series: Photographs from the National Digital Library, ca. 1998 - 2011
Record Group 22: Records of the U.S. Fish and Wildlife Service, 1868 - 2008: National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/166711290
Right: National wildlife artist Bob Hines (1912 - 1994) and agency writer and editor Rachel Carson (1907 -1964) spent many hours along the Atlantic coast visiting national wildlife refuges and gathering material for many of the agency's pamphlets and technical. 022-DP-03215.jpg : Series: Photographs from the National Digital Library, ca. 1998 - 2011 Record Group 22: Records of the U.S. Fish and Wildlife Service, 1868 - 2008:Record Group 22: Records of the U.S. Fish and Wildlife Service, 1868 - 2008: National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/166696164
レイチェル・カーソンは、1907年5月27日にペンシルバニア州のスプリングデール(Springdale, PA)で生まれました。そこは、大きな森林や小川に恵まれ、野生生物がたくさん存在していたところで彼女はそうした環境に小さいころから慣れ親しんでいました。やがて、彼女は、ピッツバーグ市内のペンシルバニア女子大学(Pennsylvania College for Women: 現在のチャタム大学: Chatham University)に入学しました。もともと小さい頃から物語を書くのが得意で、大学では当初英文学が専攻でしたが、そのあと海洋生物学を専攻するようになりました。1932年にはジョンホプキンス大学(John Hopkins University)で動物学の修士課程を修了し、その後は、米国漁業局(United States Bureau of Fisheries: その後は米国魚類野生生物局、United States Fish and Wildlife Service となる。)に科学者かつ編集者として勤務するようになりました。(参照:Rachel Carson’s Biography: https://www.rachelcarson.org/Bio.aspx 及びRachel Carson’s Biography: https://www.fws.gov/refuge/Rachel_Carson/about/rachelcarson.html)
上記の写真は、そのころのもので、左は、1944年のレイチェル・カーソンの写真で広く知られているもので、右は、当時の同僚でもあり、かつ野生生物を描く画家でもあったロバート・ハインツ(Robert Hines)と一緒に海洋生物の研究のために収集活動をしていたときのものです。
レイチェル・カーソンは、米国魚類野生生物局(United States Fish and Wildlife Service)の出版物に関する編集長になり、個人としても、出版活動を始めていきました。 最初の本格的な出版は、海辺の魚類、鳥類、哺乳類の生態を描いた1941年の『潮風の下で』(Under the Sea-Wind)という本でした。1951年には、『われらをめぐる海』(The Sea Around Us)という本を出版し、ありとあらゆる生命体の母体である海の歴史について書かれたものでベストセラーになりました。その後、米国魚類野生生物局を退職して執筆活動に専念するようになりました。1956年の『海辺』(The Edge of the Sea)という本は、海辺に棲む様々な生き物の生態をとらえたもので、上記の写真にある、元同僚かつ画家であったロバート・ハインツが生物の絵を書きました。海を中心とした環境への関心は、環境保護学としての考察を深めることになりました。(参照:https://www.rachelcarson.org/Books.aspx 及び、https://www.fws.gov/refuge/Rachel_Carson/about/rachelcarson.html )
こうした実績をもとに、レイチェル・カーソンは、1962年、『沈黙の春』を出版しました。農薬をはじめとする化学物質が、いかに生態系に有害であり、地球環境への脅威をもたらすのかについて論じました。彼女は、米国魚類野生生物局に勤務していたときから、農薬や殺虫剤には興味を持っており、特にDDT(ディー・ディー・ティー: ジクロロジフェニルトリクロロエタ: dichlorodiphenyltrichloroethane)という有機塩素系物質の危険性を認識していました。
DTTといえば、例えば、太平洋戦争中に米軍が戦場でハエやマラリアからの伝染病を防ぐために、DDTを散布したり、戦後直後の日本で虱(しらみ)を通じての伝染病発生を防ぐために、人々に散布されたという写真資料が米国公文書館にもあり、1940年代半ば以降は主力な殺虫剤や農薬として使われていました。下記の写真はそうした状況を示すものです。
Left: DDT Spray---Insect Repellent and "DDT" are sprayed and dusted on dungarees which Marines will wear during the assault on Iwo Jima.2/16/1945: File Unit: U.S. Marine Corps Iwo Jima Operation, Volume 1, 1945 - 1945 Series: World War II Navy Command Files , 1942 - 1967
Record Group 38: Records of the Office of the Chief of Naval Operations, 1875 - 2006: National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/32606999
Right: "View of thousands of ants (paratrechine longicornis) killed by D.D.T. (dichloro-diphenyo-trichloroethane) a most effective formula secured in Switzerland early in the present war. Capt. Phillip C. Stone, 0-509556, HRPE entomologist, is shown explaining the problem involved. Photograph taken in basement of Kecoughtan Station Hospital Mess Hall. Official photograph U.S. Army Signal Corps, Hampton Roads Port of Embarkation, Newport News, Virginia. 2/8/1944. 336-H-11-F6322: Series: Photographic Albums of Prints of Hampton Roads Port of Embarkation, 9/1942 - 12/1945 Record Group 336: Records of the Office of the Chief of Transportation, 1917 - 1966: National Archives, College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/138926244
Left: Sasebo Reception Center. Hario Barracks. DDT Dusting. 6/7/1946. Box 599 Photo No. 298335. Record Group 111: Records of the Office of the Chief Signal Officer Photographs: Signal Corps Photographs of American Activity, 1900-1981: National Archives, College Park, MD
Right: Hakata Reception Center, Fukuoka. DDT on baby. 6/10/1946. Box 599 Photo No. 298233. Record Group 111: Records of the Office of the Chief Signal Officer Photographs: Signal Corps Photographs of American Activity, 1900-1981: National Archives, College Park, MD
このように、戦争中や戦後もDDTは世界的に使われていたために、レイチェル・カーソンによる『沈黙の春』という本は、当時の社会にとっては、非常に衝撃的でありました。また1960年代はベトナム戦争が激化し、枯葉剤(defoliant/Agent Orange)が、米軍によってベトナムに大量に散布されつつありました。この本は、瞬く間にベストセラーになり、農薬や殺虫剤の環境へのインパクトがいかに大きなものであるかを世に知らしめることになりました。彼女は、この本を通じて、農薬の完全な禁止を訴えたのではなく、農薬を安全に使うことの必要性や、DDTなどの危険な化学物質の代用品が見つけるための調査も行うことの必要性を説いたにも関わらず、農薬業界側や保守派の政治家は、彼女への誹謗中傷を行う大きなキャンペーンを行いました。こうした動きに対して、この本を読んだ当時のジョン・F・ケネディ大統領(John Fitzgerald Kennedy)は、早速、大統領の科学諮問委員会(President’s Science Advisory Committee: PSAC)にこの本の内容を調査させ、翌年1963年5月に正式な報告書を出すことになり、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』の内容には正当性があることを認め、そこで、レイチェル・カーソンに対する非難を抑えることになりました。
こうしたことをきかっけにして、米国では環境問題への関心が強まり1970年の4月22日は地球環境を考える日として最初のアースデー(Earth Day)のイベントが開かれるようになり、また同年には、ニクソン大統領(Richard Milhous Nixon)は環境保護庁(Environmental Protection Agency: EPA)を設立し、化学物質の残留物の許容範囲を設定する権限を与え、1972年にはその環境保護庁が農薬規制を担当することになり、DDTは使用禁止としました。また1976年に成立した有毒物質規制法(Toxic Substances Control Act of 1976)は、環境保護庁は健康または環境への害から国民を守るという役割を持ち、その権限のもとで、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』で問題視されていた、6つの化合物(DDT、クロルデン、ヘプタクロル、ディルドリン、アルドリン、エンドリン)をすべて禁止または厳しく制限するよう行動し、新しい化学物質の試験に対する責任を負うことになりました。
(参照:The US Federal Government Responds: http://www.environmentandsociety.org/exhibitions/rachel-carsons-silent-spring/us-federal-government-responds from Stoll, Mark. “Rachel Carson’s Silent Spring, a Book That changed the World.” Environment & Society Portal, Virtual Exhibitions 2012, no. 1. [updated 6 February 2020]. Version 2.0. Rachel Carson Center for Environment and Society. http://www.environmentandsociety.org/exhibitions/rachel-carsons-silent-spring/introduction)
レイチェル・カーソンによる『沈黙の春』は、その後の環境問題を考えていく上でバイブル的なものになり、現在まで続く環境問題への取り組みの原点となったと思います。1966年には、メイン州に、渡り鳥にとって貴重な塩湿地や河口を保護する、レイチェル・カーソン国立野生保護区(Rachel Carson National Wildlife Refuge: NWR)が作られました。(Rachel Carson, about Refuge: https://www.fws.gov/refuge/rachel_carson/about.html )米国国立公文書館にはその保護区に関する写真も下記のようにあります。
National Mall and Memorial Park Map 1, Project Years 2004-2012; RG 79, Records of the National Park Service, 1785-2006; Maps of the National Parks, 2004-2012; ; (ARC Identifier: 33754424) at www. archives. gov; [April 16, 2020]
アメリカ合衆国首都のワシントンDCは、独立戦争後の1790年の首都立地法(Residence Act )の成立を機に、連邦政府と連邦議会の町として整備が始まりました。メリーランド州とバージニア州から領土を得て、ポトマック川とアナコスタ川が中央を通る10マイル(1.6km)四方の土地に連邦機能を持たせる都市整備を謳った法律でした。初代大統領ジョージ・ワシントン (George Washington) は、場所の最終決定権を持ち、街整備の計画者、議会から監督者3名、そして土地測量技師などを任命し遂行させる責任者でもありました。
ワシントンDC特有の連邦議会と政府機関の集まる都市作りを、ナショナルモール周辺から追ってみることにいたします。
最初の素案を考え出したのは、フランスのパリ生まれのピエール・シャルル・ランファン氏(Pierre Charles L’Enfant)。彼は フランス軍人としてアメリカに渡り、ジョージ・ワシントンのもとアメリカ独立戦争に参戦しました。その後、アメリカでエンジニアとして広く成功した彼は、自ら志願もして、首都の都市計画に携わります。
ランファン氏の案:
ランファン案ナショナル・モール
United States Office Of Public Buildings And Grounds, Pierre Charles L'Enfant, F. D Owen, Theo. A Bingham, and United States Army. Corps Of Engineers. The Mall as proposed by Pierre L'Enfant: from the original: Washington D.C. [Washington?: Corps of Engineers, U.S. Army, Office of Public Buildings and Grounds, 1791] Map. https://www.loc.gov/item/88690916/
参照サイト:https://founders.archives.gov/documents/Washington/05-07-02-0090-0001
ヨーロッパの都市に倣ったこの計画案は賛同されたものの、議会監督者たちと関係がこじれたランファン氏は更迭され、測量技師のアンドリュー・エリコット氏 (Andrew Ellicott) が受け継ぎます。
ランファン氏発案、エリコット氏改定による連邦都市の地図
Partridge, William T, Pierre Charles L'Enfant, Andrew Ellicott, and United States National Capital Park And Planning Commission. Design of the federal city, comparative plans of L'Enfant and Ellicott: Washington D.C. [Washington: National Capital Park and Planning Commission, 190-?, 1791] Map. https://www.loc.gov/item/88694210/.
アンドリュー・エリコット氏 一行は、1791年3月30日よりポトマック川支流のハンティング川ジョーンズ・ポイント(バージニア州)を基点として測量の任務にあたります。およそ2年間を費し1マイルごとに設けていった測量標は、今日にも残され保存されています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Boundary_markers_of_the_original_District_of_Columbia
(参考:Andrew Ellicott from National Park Service:https://www.nps.gov/articles/andrew-ellicott.htm )
測量標 地図
Woodward, Fred E. Chart showing the original boundary milestones of the District of Columbia. [?, 1906] Map. https://www.loc.gov/item/87694134/
『テリトリー・オブ・コロンビア』
Ellicott, Andrew. Territory of Columbia. [Philadelphia?: s.n, 1794] Map. https://www.loc.gov/item/89690420/
マウントバーノンは、ジョージ・ワシントン夫妻が住んでいた邸宅とプランテーションがあった場所です。アメリカの首都、ワシントンD.C.から約15マイル(24㎞)ほど離れたポトマック川に臨んだバージニア州に位置しています。
アメリカ建国の父として知られるジョージ・ワシントンは、1732年、バージニアのプランテーション経営者の息子として生まれました。ワシントンが生まれて2年後、父親がこのマウントバーノンに家を建てました。父から兄へと所有権が移り、1754年にワシントンがここを借り(のちに所有権を譲り受けます)、21室の部屋に増築して大きな邸宅にしました。左の写真がその邸宅です。白い石の壁で作られたように見える家ですが、木材を使用しており、塗装した後、砂を吹き付け、石のような風合いを出しています。ニューホールと呼ばれる多目的に使用された部屋やダイニング、寝室、書斎の部屋などがあり、ワシントンが使用していた家具なども残されています。以下のサイトでは室内の一部を見ることができます。(参照:Mount Vernon Virtual Tour: https://virtualtour.mountvernon.org/ )このワシントン邸には訪問者が多く、1798年には677人ものゲストを迎え、その邸宅に宿泊させたそうです。
マウントバーノンには、この邸宅だけではなく、庭師の家、奴隷が住む建物、燻製小屋、製氷室、洗濯小屋、革職人工房、鍛冶屋、果樹園、農地などがあり、当時の労働のほとんどは奴隷によって賄われており、18世紀のプランテーションの様子を知ることができます。
A map of General Washington's farm of Mount Vernon from a drawing transmitted by the General. Library of Congress Geography and Map Division Washington, D.C http://hdl.loc.gov/loc.gmd/g3882m.ct000367
上記の資料は、ジョージ・ワシントンによって送られた図面から作成されたマウントバーノンの農場の地図です。この地図からその農場は、5つに分けられていたことがわかります。陸軍司令官や政治家、そして大統領であったワシントンですが、若いころは測量を学び、測量士としての職に就いていました。戦争や2期にわたる大統領の任務でマウントバーノンに長期間いないこともありましたが、業務を円滑にするために監督官を立てるなどプランテーション経営にも力を注ぎました。そして晩年は、蒸留酒製造所を建設し、ウイスキーの製造も始めました。また、マウントバーノンの美しい景観はワシントンが設計したのだそうです。ワシントンは、1799年、67歳で生涯を終え、遺体はこの地に埋葬されました。
マウントバーノンには歴代大統領や世界の要人たちもたくさん訪れています。
President Truman places a wreath at the tomb of George Washington at Mt. Vernon., 2/22/1947
Collection HST-AVC: Audiovisual Collection 1957-2006: Harry S. Truman Library, Independence, MO TX [online version available through the National Archives Catalog (National Archives Identifier:199622) at www.archives.gov; April 2, 2020]
これは1947年2月22日、ワシントンの墓所に花輪を手向たトルーマン大統領です。2月22日はワシントンの誕生日です。
Commissions - Japan - Japanese Mission at Mount Vernon, Virginia 165-WW-131A-21; Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952, Record Group 165; National Archives at College Park, MD[online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 26432300) at www.archives.gov; April 5, 2020]
上記の写真のキャプションには撮影日が記載されていませんが、ほかの写真からおそらく1917年8月に撮影したものだと思われます。前列の左から2人目は特命全権大使として米国に派遣され、当時の中国に関する特殊権益に関する日米間の石井・ランシング協定を締結した石井菊次郎です。
米国国立公文書館に所蔵されているテキストや写真等の資料のデジタル化は、現在もどんどん進められています。これら全ての資料をサイト上で閲覧する事は不可能ですが、一部を公文書館のサイトで閲覧する事ができます。(https://www.archives.gov/)
今回は、歴代大統領が、日本との関係において仕事をしていたり、日本への訪問や日本の首相達と交流していたりといった写真資料の一部を紹介します。
最初は米国32代目大統領のフランクリン・D・ルーズベルト氏が1941年12月、日本に対しての宣戦布告を署名をしている写真です。
Photograph of President Franklin D.Roosevelt Signing the Declaration of War Against Japan: Series: Photographs of Notable Personalities,1942-1945[Online version available through the Archives Research Catalog(ARC identifier: 12009102) at https://catalog.archives.gov/id/12009102 on 3/25/2020] Original caption: President Franklin D. Roosevelt signing the declaration of war against Japan.
上記の原物写真は米国国立公文書館の5階で閲覧することができます。この写真自体は有名で広く出回っている印象がありますが、それでも原物を公文書館で閲覧する事とネット検索等とはまた違った感覚を味わう事ができます。音声・映像も同様に原物は公文書館にあるとの事です。
次の写真は現職の大統領で初めて公式に日本を訪問した第38代目のジェラルド・R・フォード氏です。下の写真はフォード氏が1974年11月の訪日の際、金閣寺に立ち寄られた時のものになります。写真と共に閲覧できる内容には『フォード大統領は、住職の村上慈海と、キッシンジャー国務長官を含む大統領一行と共に金閣寺の池を眺めている。』と記載されています。
President Gerald R. Ford Visiting the Gold Pavilion in Kyoto, Japan: Series: Gerald R Ford Whitehouse Photographs, 8/9/1974-1/20/1977[Online version available through the Archives Research Catalog(ARC identifier: 23869129) at https://catalog.archives.gov/id/23869129 on 3/25/2020] This photograph depicts President Gerald R. Ford seated with Zen Buddhist Abbot Jikai Murakami as they look out over the Kyoko Chi Pond at the Gold Pavilion (Kinkakuji Castle). Standing around them are members of the President's traveling party, including Secretary of State Henry Kissinger, General Brent Scowcroft, Donald Rumsfeld, and Robert Hartmann.
大統領として公式に訪日されたという事は有名な話ですが、日本人が慣れ親しむ金閣寺にも立ち寄られていた時の様子が、このように写真として残されている事に感動しました。金閣寺の池を眺めながら何を思われたのでしょうか。
フォード大統領と日本に関連する写真は他にもいくつかありましたが、その中でも写真の昭和天皇をホワイトハウスへエスコートしている写真が目に留まりました。戦後、彼の時代から米国と日本の交流が深くなっていきます。
Photograph of President Gerald R Ford and First Lady Betty Ford Welcoming Emperor Hirohito and Empress Nagako of Japan upon Their Arrival at the White House: Series: Gerald R Ford Whitehouse Photographs, 8/9/1974-1/20/1977[Online version available through the Archives Research Catalog(ARC identifier:7839956) at https://catalog.archives.gov/id/7839956 on 3/26/2020]
下の2枚の写真は、米国42代目大統領、ウィリアム・J・クリントン氏と当時の首相、宮沢喜一氏が迎賓館赤坂離宮にて握手をする写真と、米国43代目大統領、ジョージ・W・ブッシュ氏と当時の首相、小泉純一郎氏がホワイトハウスのローズガーデンにて握手を交わす写真です。クリントン氏の訪日時の写真には、政治家達との写真だけでなく、日本の学校やその地域の商店を訪問している写真もあり、日本の子供たちとの交流や地域との交流を通して日本文化への理解を深められているような印象を受けました。一方、ブッシュ氏に関しては公務に重きを置いた滞在であったようです。
Left: Photograph of President William J. Clinton Greeting Japanese Prime Minister Kiichi Miyazawa at Akasaka Palace in Tokyo, Japan. Series: Photographs Relating to the Clinton Administration, 1/20/1993-1/20/2001[Online version available through the Archives Research Catalog(ARC identifier: 2681793) at https://catalog.archives.gov/id/2681793 on 3/26/2020] This item is a photograph of President William J. Clinton greeting Japanese Prime Minister Kiichi Miyazawa at Akasaka Palace in Tokyo, Japan. The image was photographed by Robert McNeely.
Right: President George W. Bush and Prime Minister Junichiro Koizumi of Japan Shake Hands. Series: Photographs Relating to the Georg W. Bush Administration, 1/20/2001-1/20/2009[Online version available through the Archives Research Catalog(ARC identifier:5997350) at https://catalog.archives.gov/id/5997350 on 3/26/2020] Original caption: President George W. Bush shakes hands with Prime Minister Junichiro Koizumi of Japan in the Rose Garden of the White House.
米国国立公文書館(NARA)のウェブサイト検索では、キーワードや年代、記録群の番号から大まかに対象資料の検索をすることが出来ます。その中には、既にオンライン化されている資料や映像、写真などが含まれています。このオンライン検索を使って“Japan”とだけ入力して検索をしてみたところ、147,696(5/7/2020現在)もの結果表示がされました。今回は、その中からオンライン化されている日本に関してのカテゴリーや年代の異なる様々な写真資料をいくつか選んでみましたのでご紹介します。
カリフォルニア州パサデナ市では1890年(明治23年)から毎年元日にローズパレードと言って、思い思いに花々で装飾した山車が行進する華やかなパレードが開催されているそうです。こちらは1917年(大正6年)に出場した時の模様です。山車には花や植物が飾られ、着物を着た女性達が乗っているのが分かります。(参照:https://tournamentofroses.com/events/rose-parade-history/)
Japan: Record Group 75: Records of the Bureau of Indian Affairs, 1793 - 1999. Series: Correspondence, 1907 - 1920. File Unit; Rose Bowl Parade, 1917 – 1918. Scope& Content: This photograph, taken by Harold A. Parker of Pasadena, California, depicts the Japan float in the 1917 ca. Rose Parade. National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC Identifier 44276882) at www.archives.gov; May 5, 2020]
下の2枚は、明治又は大正期の写真と思われます。藤の花越しに写る歩道橋の下で三度笠をかぶった人達が池を眺めています。また、山道を行き交う人達の中には天秤棒を担いで荷物を運んでいる様子が伺えます。
Left side: Pedestrian Bridge in Japan: Record Group 30: Records of the Bureau of Public Roads, 1892 - 1972. Series: Historical Photograph Files, 1896 - 1963. File Unit: Foreign - Japan. National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC Identifier 169140266) at www.archives.gov; May 5, 2020]
Right side: Hill Near Mogi, Japan: Record Group 30: Records of the Bureau of Public Roads, 1892 - 1972. Series: Historical Photograph Files, 1896 - 1963. File Unit: Foreign - Japan. National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC Identifier 169140150) at www.archives.gov; May 5, 2020]
歴代の米国大統領夫人が訪日された時の写真も載っています。
Left side: Photograph of First Lady Hillary Rodham Clinton Visiting the Meguro Incineration Plant in Tokyo, Japan. 7/8/1993. Series: Photographs Relating to the Clinton Administration, 1/20/1993 – 1/20/2001. Collection: Photographs of the White House photograph Office (Clinton Administration), 1/20/1993 -1/20/2001. Scope & Content: This item is a photograph of First Lady Hillary Rodham Clinton visiting the Meguro Incineration Plant with G-7 Tokyo Economic Summit spouses in Tokyo, Japan. The First Lady is presented with flowers from school children. The image was photographed by Barbara Kinney. National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC Identifier 2637239) at www.archives.gov; May 5, 2020]
Right side: First Lady Michelle Obama Speaks with Taiko Drummers in Japan, 3/20/2015. Series: Presidential Photographs, 1/20/2009 – 1/20/2017. Collection: Records of the White house Photo Office (Obama Administration), 1/20/2009 – 1/20/2017. Scope & Content: Original caption: First Lady Michelle Obama joins Taiko drummers at center drum prior to a tour of the Fushimi Inari Shinto Shrine in Kyoto, Japan. National Archives at College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC Identifier 138925766) at www.archives.gov; May 5, 2020]
1993年、第42代目の米国大統領のビル・クリントン一家はペットの猫と一緒にホワイトハウスに引っ越して来ました。 その猫の名前はソックス(Socks the cat)といいます。ビル・クリントンがアーカンソー州の州知事だった時に飼い始めました。一流政治家の猫というと、血統付きの猫かと思いますが、このソックスは白黒の短毛のぶち猫で拾われた猫でした。
ソックスに関する資料はアーカンソー州のクリントン大統領図書館にありますが、NARAのオンラインでも見ることができますのでいくつか紹介していきます。
これはクリントン大統領の肩に乗るソックスです。
Photograph of Socks the cat on President William J. Clinton’s Shoulder (Photographer Barbara Kinney), 3/25/1993; Photographs Relating to the Clinton Administration; Collection WJC-WHPO; William J. Clinton Library [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 2131121) at www.archives.gov; March 30, 2020]
ワゴン車で移動中のソックス。よくこういう写真が撮れたものだと、感心します。
Photograph of Socks the Cat Perched on the Backseat of a Van (Photographer Barbara Kinney ) 9/16/1993; Photographs Relating to the Clinton Administration; Collection WJC-WHPO; William J. Clinton Library [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 6036906) at www.archives.gov; March 30, 2020]
大統領のデスクで仕事中のソックスです。電話を取ろうとしているのでしょうか?
Photograph of Socks the Cat Sitting Behind the President's Desk in the Oval Office (Photographer Barbara Kinney ) 1/7/1994 ; Photographs Relating to the Clinton Administration; Collection WJC-WHPO; William J. Clinton Library [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 6036916) at www.archives.gov; March 30, 2020]
情報局(USIA: United States Information Agency)のポスターから
アメリカ合衆国情報局(USIA: United States Information Agency)とは、アイゼンハワー大統領のもとで1953年に設置された組織で、海外への広報を通じて、米国の宣伝を担った組織で1999年まで積極的な活動を展開していました。日本語では、アメリカ合衆国広報文化交流局や海外広報庁や情報局などとも呼ばれてきたかと思います。
第2次世界大戦中に発足した諜報機関の、米国戦略局(Office of Strategic Service:OSS)や米国戦争情報局(Office of War Information: OWI)といった組織が、戦後になって、前者は、米国中央情報局(Central Information Agency: CIA)となり、後者はいったん国務省(Department of State)に吸収され、その後1953年に米国情報局(USIA: United States Information Agency)として、独立した組織となりました。(参照:Records of the United States Information Agency (RG 306): https://www.archives.gov/research/foreign-policy/related-records/rg-306 , An End and a Beginning : CIA history: https://www.cia.gov/library/publications/intelligence-history/oss/art10.htm )
今回は、このアメリカ合衆国情報局(USIA: United States Information Agency)の資料の中の、「1960年から1994年の間に作成された、または入手したポスター」(Posters Created or Acquired for Outpost Use, ca. 1960 - ca. 1994: https://catalog.archives.gov/id/7284637)というシリーズの中のポスターをいくつかご紹介したいと思います。
Left: Read. American Library Association. 306-PAR-9-104:Series: Posters Created or Acquired for Outpost Use ca. 1964-ca. 1994: Record Group 306: Records of the United States Information Agency, National Archives at College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/88693902
Right: July. Four Very American Days. An American Portfolio. 306-PAR-9-23 Series: Posters Created or Acquired for Outpost Use ca. 1964-ca. 1994: Record Group 306: Records of the United States Information Agency, National Archives at College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/88693784
上の左のポスターは、米国図書館協会(American Library Association)による読書推進を目的とするもので、ディズニーの許可を経てミッキーマウスとプルートのキャラクターが使われています。このポスターの左下には1978年にディズニーが制作したことが記載されています。アメリカを代表するキャラクターとしてはアメリカ国内はもちろん世界に大きなインパクトを持ち続けてきたので、こうしたポスターは大変有効であったと思われます。左のものは、アメリカの独立記念日である7月4日花火の打ち上げの光景ですが、それとともに、4つの、非常にアメリカ的な日として、その独立記念日の他に、1月のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King, Jr.)記念日、10月のハロウィン(Halloween)の日、そして11月の感謝祭(Thanksgiving)の日も掲げられています。
Left: USA: Text Art 306-PAR-1-9b: Series: Posters Created or Acquired for Outpost Use ca. 1964-ca. 1994: Record Group 306: Records of the United States Information Agency, National Archives at College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/88693239
Right: USA: Text Art (Cities, US Department of Commerce): 306-PAR-1-9c: Series: Posters Created or Acquired for Outpost Use ca. 1964-ca. 1994: Record Group 306: Records of the United States Information Agency, National Archives at College Park, MD: https://catalog.archives.gov/id/88693241
上記の左のポスターは、アメリカ合衆国のイメージを文字にすると、カウボーイ、ロデオ、ジープ、コカ・コーラ、ホットドッグ、チューインガム、バーベキューなどが挙げられ、私自身も日本に住んでいたときは、アメリカと言えば、そうしたイメージが最初に出てきたものでした。右は、アメリカ国内代表的な都市名のうち、ホノルル、シカゴ、マイアミ、フィラデルフィア、ニューヨーク、ボストン、サンフランシスコ、そしてワシントンDCの8つが挙げられています。デザインとしてもとても面白いものであると思います。
アメリカ合衆国情報局(USIA: United States Information Agency)は、海外への米国の文化の広報を通じて、アメリカの外交政策をサポートしたり、そうした政策についての各国の世論についての情報も収集していました。特にアメリカ合衆国とソビエト連邦との冷戦時代においては、その役割は大きなものであったと思います。各国に存在するアメリカ大使館の監督下に、アメリカが以外広報局(United States Information Service)があり、図書館や出版物、そして報道のサービスや、展示会の開催や英語教育など様々な活動をしていました。この機関が作成または収集したポスターのシリーズの多くは、当時のいろいろな雑誌の表紙になっていたようですが、その内容は、文学、ジャズやブルーズやカントリーミュージックなどの音楽、ダンスや演劇などを含む芸術分野、地理や地図学分野、宇宙開発、そして英語教育といったものまで多岐にわたります。特に地図については、ネイティブアメリカン関係や、有名な探検家がたどった経路も含み米国の歴史的な成長過程を含むものもあります。また、この国のシンボル的な場所を撮影した写真もあります。さらに、ボイスオブアメリカ(Voice of America)という海外向けのラジオ放送やテレビや映画といった部門をもち宣伝活動を展開してきたので、その関係のポスターもあります。(参照:NARA, Posters Created or Acquired for Outpost Use, ca. 1960 - ca. 1994: https://catalog.archives.gov/id/7284637 , NARA Foreign Affairs Records of the United States Information Agency (RG 306): https://www.archives.gov/research/foreign-policy/related-records/rg-306)
(米国国立公文書館の資料より)
“The Tetons and Snake River,” Grand Teton National Park, Wyoming; RG 79: Records of the National Park Service, 1785 - 2006; Ansel Adams Photographs of National Parks and Monuments, 1941 - 1942; (ARC identifier 519904) at www. archives. gov; [March 26, 2020]
ワイオミング州グランド・ティトン 国立公園(Grand Teton National Park)
大恐慌からの復興期、ルーズベルト大統領政権の下、失業救済ニューディール政策が推し進められていた1941年のことです。
米内務省(The Department of the Interior) ではその一環として、省の建物を一新し、内壁にはアメリカ人アーティストによる時代を反映した画像を施す事業を導入していました。
当時の内務省ハロルド・イケス長官(Harold Ickes) は、カルフォルニア 州ヨセミテ国立公園を主に活動拠点としていた写真家アンセル・アダムス氏(Ansel Adams)に壁画用写真撮影の依頼し、契約を結びます。
Photo No. 208-PU-1A; RG208; Photographs of Notable Personalities, 1942 - 1945; National Archives in College Park, MD.
Letter from First Assistant Secretary of the Interior E. K. Burlew to Ansel Adams, 10/21/1941; RG 146: Records of the U.S. Civil Service Commission, 1871 - 2001; Official Personnel File of Ansel E. Adams, 6/10/1941 - 12/10/1943; Adams, Ansel; ( ARC identifier 7582640) at www. archives. gov; [March 31, 2020]
1941年10月14日から、1年間の中で実働日数180日とする契約を結びました。
報酬として、日給22ドル22セント。出張手当は日当5ドル(中途から6ドル)。
Memorandum from Secretary of the Interior Harold Ickes, 2/12/1942; RG 146: Records of the U.S. Civil Service Commission, 1871 - 2001; Official Personnel File of Ansel E. Adams, 6/10/1941 - 12/10/1943; Adams, Ansel; ( ARC identifier 7582623) at www. archives. gov; [March 26, 2020]
1941年11月29日付け、アンセル・アダムスからの活動報告書
(1941年10月14日から11月29日まで、実働8½日分)
Letter from Ansel Adams to E. K. Burlew, 12/2/1941; RG 146: Records of the U.S. Civil Service Commission, 1871 - 2001; Official Personnel File of Ansel E. Adams, 6/10/1941 - 12/10/1943; Adams, Ansel; (ARC identifier 7582633) at www. archives. gov; [March 26, 2020]
10月には、アリゾナ州(ザイオン国立公園、グランドキャニオン国立公園、ワルピ村・ホピ族の住居跡、キャニオン・デ・チェリー国立公園)、コロラド州(メサ・ヴェルデ国立公園)で撮影を行い、5日分の作業として計上しています。
11月には、ニューメキシコ州(カールズバッド洞窟群国立公園)、アリゾナ州(サガロ国立公園)などでの撮影と現像作業などで、3日と半日分の活動と報告しています。
アリゾナ州 キャニオン・デ・シェリー国立公園
View of Valley from Mountain, "Canyon de Chelly" National Monument, Arizona; RG 79: Records of the National Park Service, 1785 - 2006; Ansel Adams Photographs of National Parks and Monuments, 1941 - 1942; (ARC identifier 519852) at www. archives. gov; [March 26, 2020]
1914年に勃発した第一次世界大戦により、ヨーロッパでは深刻な食料不足に陥りました。1917年にアメリカ合衆国は参戦し、政府の食品局(United States Food Administration)の責任者に任命されたハーバート・フーヴァー(Herbert Hoover)は、ヨーロッパの同盟国や派遣したアメリカ兵に食料を供給するため、アメリカ国民に愛国心による自発的な協力を促すキャンペーンを始めていきました。(参照:https://www.history.com/news/food-rationing-in-wartime-america)
左にあるのは1917年8月に作られたホームカード(Home Card)というもので戦争に勝つために各自が家でできることが書かれてあります。少ない輸送スペースで栄養価の高い食べ物を同盟国にたくさん送るため、アメリカ人には小麦や牛肉、豚肉、乳製品、砂糖を食べる回数を減らし、それらに代替する食材を食べ、すべての食料を無駄にしないように細かく書かれてあります。例えば、肉では鶏肉やウサギ、魚や魚介類を使用し、牛肉や豚肉は1日に1回だけにすること、食べ残した肉も食べること、豆を使用することなど、賢く食材を使い、食料を無駄にすることなく、そして十分な栄養が取れるように書かれてあります。また、火曜日は肉、水曜日は小麦のパンを控えようとあります。
Home Card: What You Can Do to Help Win This War, 8/1917: Records of the U.S. Food Administration, 1917 – 1920; Record Group 4; National Archives at Chicago, IL [online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 20762195) at www.archives.gov; April 17, 2020]
1918年に作られたホームカード(Home Card)には、前年は12,000,000トンの食糧を送ったこと、今年は同盟国や自国の兵士のために17,500,000トンの食料送らなければならないとあり、アメリカ国民にさらなる協力を求めています。月曜日と水曜日は小麦を使った食品を食べない日、火曜日は肉を食べない日、火曜日と土曜日は豚肉やハム、ベーコンなどの豚肉製品を食べない日としています。
また、様々なポスターも作られ、「食料は戦争に勝つ。」(Food Will Win the War)というスローガンの看板も立てられました。
同盟国に小麦が必要なことが書かれてあるポスターと、小麦粉の代わりにコーンで作られたコーンミール、グリッツなどの利用を薦めているポスターです。
Food will win the war. You came here seeking Freedom. You must now help to preserve it. WHEAT is needed for the allies . Waste nothing. 4-P-60: Records of the U.S. Food Administration, 1917 – 1920; Record Group 4; National Archives at College Park, MD. [online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 512499) at www.archives.gov; April 17, 2020]
Corn. The Food of the Nation Serve some way every meal. Appetizing, nourishing, economical. 4-P-93: Records of the U.S. Food Administration, 1917 – 1920; Record Group 4; National Archives at College Park, MD. [online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 512532) at www.archives.gov; April 17, 2020]
ワシントンDCの建物の上に掲げられた「食料は戦争に勝つ。」(Food Will Win the War)のサインです。写真では見づらいですが、おそらく夜になると電気がつき、文字がはっきりと見えたのではないでしょうか。
Photo No. 4-G-29-110B Photograph of Food Will Win The War - Don't Waste It Sign; Records of the U.S. Food Administration, 1917 - 1920; Record Group4 ; National Archives at College Park, MD. [online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 34929558) at www.archives.gov; April 17, 2020]
多くの女性や子供たちが食料を保存することを誓う誓約書にサインをしました。600,000枚もの誓約書が届いたニューヨークの食料保存委員会の事務所です。
Food Administration - Anti-Waste Campaign - Women and children aid in getting food conservation pledges signed. View of the Food Conservation Commission office in New York where the 600,000 food pledges are being filed. Hundreds of women and children aided in getting signatures. The office was at 124 West 42nd Street . Photo No. 165-WW-170C-42; Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952; Record Group165 ; National Archives at College Park, MD. [online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 31481447) at www.archives.gov; April 17, 2020]
右上の資料は、勝利の種をまくアメリカ国旗の柄の服を着た女性が描かれた宣伝ポスターです。戦時農園委員会(National War Garden Commission)によりアメリカ市民に野菜を作ることが奨励され、公園や学校などの敷地でも野菜が作られました。左上は公立学校の戦時農園で作業をする子供たちの写真です。食卓に野菜を多く出し、新鮮な間に消費できないものは缶詰(瓶詰)にしたり、乾燥して保存することを奨励しました。
Sow the Seeds of Victory! Plant and raise your own vegetables. 4-P-59 : Records of the U.S. Food Administration, 1917 – 1920; Record Group 4; National Archives at College Park, MD. [online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 512498) at www.archives.gov; April 17, 2020]
Food Administration - Anti-Waste Campaign - Public school war garden. Photo No. 165-WW-173A-2; Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952; Record Group165 ; National Archives at College Park, MD. [online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 31482054) at www.archives.gov; April 17, 2020]
戦後1946年頃の日本では、国内の衛生状態が悪化した事に加えて、海外からの引揚げに伴う結核やコレラ、マラリア、発疹チフスなどの感染症が流行していました。この中でも、発疹チフスの患者数は3万2300人強と急増していたそうです。(参照:発疹チフスとは:NIID国立感染症研究所:https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/517-typhus.html)
今回は、全国各地で発疹チフスの蔓延を防ぐために予防に取り組んでいた当時の様子を米国国立公文書館の写真資料からご紹介します。
下の写真は東京のデパートで予防注射を受ける為に並んでいる人々の様子です。壁には「定期乗車券所持の方には発疹チフス豫防注射を行ひます。東京都衛生局防疫課」「ご希望の方にはDDTを撒布致します。 東京都衛生局防疫課」との張り紙が貼られています。
※DDT(Dichloro Diphenyl Trichloethane: 有機塩素系殺虫剤)は、日本では1971年に販売が禁止されました。
Photograph No. 111-SC 285177; Typhus Commission: Typhus vaccination at Mitsukoshi Dept. Store, Tokyo, Japan. Commuters are lined up to get their shots. March 13, 1947. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.
東京有楽町駅と東京駅でも予防接種が行われていました。
Left side: Photograph No. 111-SC 285190; Typhus Commission: Typhus vaccination at Yurakucho Station. The group is kept very busy. Tokyo, Japan. March 17, 1947. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.
Right side: Photograph No. 111-SC 285544; Japanese Receive Typhus Inoculations in Tokyo, March 24, 1947. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.
デパートに展示された小中学生による発疹チフスの予防ポスターです。それぞれの作品には思い思いの視点から予防対策について描かれています。
Photograph No. 111-SC 285183; Typhus Commission: A poster exhibition is held at Mitsukoshi Department Store, Tokyo, Japan. Posters are done by grammar school pupils. March 15, 1947. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.
左は青森県衛生課による公衆衛生普及を呼びかける看板です。「新日本建設は先ず健康から、防疫」と言ったキャッチフレーズが書かれており、イラストを交えながら分かりやすく生活習慣の注意事項が示されています。また、各感染症の発生数なども示されており、県民の意識向上 に繋がっていたと思われます。
Photograph No. 111-SC 287267; Sanitation in Aomori: Sanitation poster. Nov 10, 1946. Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, MD.
下は名古屋と熊本で開かれた発疹チフスの対策会議の模様です。
米国では2020年現在、米国海軍船(USNS: United States Naval Ship)の中の、マーシー(Mercy:T-AH19)とコンフォート (Comfort:T-AH20)という二隻の病院船が米海軍の指令のもとで運用されています。この巨大な二隻の船には地上にある病院よりは規模は小さいながらも同様の設備が整っており、その名の通り運航を続けながら患者を治療できる動く病院であります。設備だけではなく、常に様々な科のスペシャリストも米軍関係者と共に乗船しており、負傷者の治療は勿論ですが、必要に応じて手術を行う事も可能とされています。
Left: A port bow view of the US Navy (USN) Military Sealift Command (MSC), Hospital Ship, USNS MERCY (T-AH 19), being assisted by a tugboat, as the ship conducts mooring operations after arriving at Navy Base Pearl Harbor, Hawaii (HI). The USNS MERCY is starting a scheduled five-month deployment to deliver aid and humanitarian assistance to the Pacific Islands, and Southeast Asia, Series: Combined Military Service Digital Photographic Files,1982-2007 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:6697644) at https://catalog.archives.gov/id/6697644 on 4/7/2020]
Right: The US Navy (USN) Military Sealift Command (MSC) hospital ship USNS COMFORT (T-AH 20) steams towards her first port-of-call as Naval Station (NS) Rota, Spain, which is the end of her transit across the Atlantic Ocean from her homeport of Baltimore, Maryland (MD). The COMFORT is making a logistics stop to take on supplies and fuel en route to the east in support of Operation ENDURING FREEDOM. (SUBSTANDARD), Series: Combined Military Service Digital Photographic Files,1982-2007 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:6668317) at https://catalog.archives.gov/id/6668317 on 4/8/2020]
最近の当初の活動といえば、新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)に感染した患者が増え続けていた医療崩壊寸前のロスアンゼルスやニューヨークへ向かい、地上の病院をサポートする為、COVID-19ウイルスに感染していない通常患者への健康診断や治療を病院船内で行うというものでした。
現在、最中注目されており、必要に応じてどこへでも向かう病院船について、米国国立公文書館にある、オンライン上の歴史資料を通じてまずは船内をのぞいてみたいと思います。
船内には、手術室を始め、無菌室、レントゲン室、耳鼻咽喉科、歯科に研究室とまさに地上にある大学病院規模の病院と同じ構造となっています。写真は1900年代初期の病院船内になります。1900年代初期でここまで船内が充実していたのかと思うと、100年以上経った今はテクノロジーの変化もあり、様々な治療をより早く安全に受ける事ができるでしょう。
Navy - Medicine - Hospital Ships - USS Mercy - U.S.S. Mercy, first completely equipped hospital ship. The operating room of the "Mercy." Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917-1918 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:45511135) at https://catalog.archives.gov/id/45511135 on 4/8/2020] Photographer: Paul Thompson
Navy - Medicine - Hospital Ships - USS Mercy - Sterilizing room, U.S. Hospital Ship Mercy, Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917-1918 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:45511157) at https://catalog.archives.gov/id/45511157 on 4/8/2020]
Navy - Medicine - Hospital Ships - USS Mercy - U.S.S. Mercy, first completely equipped hospital ship. The X-Ray room is most completely equipped with the latest mechanical devices, Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917-1918 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:45511143) at https://catalog.archives.gov/id/45511143 on 4/8/2020] Photographer: Paul Thompson
Navy - Medicine - Hospital Ships - USS Mercy - U.S.S. Mercy, first completely equipped hospital ship. An enlisted specialist in disease of the eye, ear, nose and throat, treating a patient, Series: American Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917-1918 [Online Version available though the Archives Research Catalog (ARC Identifier:45511147) at https://catalog.archives.gov/id/45511147 on 4/8/2020] Photographer: Paul Thompson