スタッフ日記:米国国立公文書館から

ニチマイ米国事務所スタッフは、米国国立公文書館において資料調査を行なっています。膨大な量の資料と格闘しながら、日米の歴史に触れ、毎日新しいことを学んでいます。私達の日々のささやかな発見や小さな感動をお伝えしたく、スタッフが交代で記事を書いていきます。

主婦の友の付録と新聞広告

今回は、ここ最近私が見た米国公文書館の資料の中で面白いと感じた日本の資料をご紹介したいと思います。


(左)主婦之友六月号付録 (右)主婦之友十一月号付録Records of the Military Government of the Territory of Hawaii, Alien Processing Center(Entry A1 33); Records of United States Army Forces in the Middle Pacific, Record Group 494; National Archives at College Park, College Park, MD. 

 

これらの画像は主婦之友、昭和13年(1938年)の6月号と11月号の付録の表紙です。主婦の友は1917年に創刊され、今もなお主婦向けの雑誌として発刊されています。主婦の友が歌詞を公募し、その懸賞に当選した歌が載っています。6月号では「婦人愛國の歌-すめらみくにの‐」と「婦人愛國の歌-抱いた坊やの」、11月号では「少年少女愛國の歌」と「ぼくらのへいたいさん」のそれぞれ2曲が選ばれています。婦人愛國の歌の歌詞を読んでみると妻として母として戦時中の理想的な女性の姿が描かれているような気がします。楽譜もついており、国民的作曲家であった古関裕而が「婦人愛國の歌-抱いた坊やの」の作曲を手掛け、「赤とんぼ」の歌で知られる山田耕筰が「少年少女愛國の歌」を作曲しています。

 

主婦之友十月号特別付録Records of the Military Government of the Territory of Hawaii, Alien Processing Center(Entry A1 33); Records of United States Army Forces in the Middle Pacific, Record Group 494; National Archives at College Park, College Park, MD. 

 

上2枚の画像は同じく昭和13年の主婦の友の付録です。陸軍省新聞班が特別に作成をした地図で、昭和13年8月13日までの日本軍の動きも記入されています。地図の裏側にはその地図の見方、兵語や武漢攻略戦の主要地名など読者にわかりやすく解説がされています。主婦の雑誌内容で真っ先に思いつくのは生活の知恵やアイデア記事だったので、こうした地図が付録であったことはとても意外でした。しかし、よくよく地図を見ると陸海軍当局からの希望と武漢攻略戦の重要性を考慮して付録としたことが書かれてあります。そして、武漢攻略戦が進むとラジオでの戦況報告はこの地図によって説明されることになっていたそうです。昭和13年と言えば国家総動員法が発令された年で、その前年に起きた盧溝橋事件で日中戦争が泥沼化してきています。日本が第2次世界大戦に参戦するのはまだ先のことですが、すでに日中戦争もあり、国全体が戦争色濃くなっているのを感じさせます。

 

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ケネディ大統領暗殺関連記録の一般公開

今月は、先日ニチマイ米国事務所のFacebookページ(https://www.facebook.com/pg/NichimyUS/)で反響の大きかった投稿記事、7月に米国国立公文書館により公開されたジョン・F・ケネディの暗殺関連記録についてご紹介します。

 

アメリカ歴代大統領の中で最も知られている大統領の一人、ジョン・F・ケネディ。1963年11月22日にテキサス州で行われたパレードに参加中、大勢の市民の目の前で暗殺されました。事件直後、犯人はすぐに逮捕されましたが、その犯人も逮捕から2日後拘置所に移送中に殺害されてしまいました。他にも事件に関わる人物が立て続けに死亡するなど奇妙な点が多いことから「陰謀説」を信じる人も多く、半世紀以上経った今でも、アメリカで起こった事件史上最大の謎の一つとして多くの人々に注目されています。

 

事件後に組織された調査員会の調査報告書は500万ページもの記録にのぼり、米国国立公文書館に所蔵されています。1992年に制定された特例法「President John F. Kennedy Assassination Records Collection Act of 1992」により、1990年代後半までにその88%の記録は一般公開済みとなり、今年の10月26日までにすべての記録が一般公開されることになっています。

 

今年7月に公開された約3,810点は、これまで非公開だった441点と一部公開だった3,369点のFBI、CIAの記録を含み、同館公式サイトより閲覧、ダウンロードすることが可能です。

https://www.archives.gov/research/jfk/2017-release

 

犯人オズワルドが殺害された時に着用していた衣服

“Tee Shirt Lee Harvey Oswald was Wearing when Shot by Jack Ruby.", Records of the President's Commission on the Assassination of President Kennedy, 1954 - 1965, Record Group 272; National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archives Research Catalog (ARC identifier 305168) at www.archives.gov; October 9, 2017.

 

ケネディ大統領暗殺に使用されたライフル

“Mannlicher-Carcano Rifle Owned by Lee Harvey Oswald and Allegedly Used to Assassinate President John F. Kennedy.", Records of the President's Commission on the Assassination of President Kennedy, 1954 - 1965, Record Group 272; National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archives Research Catalog (ARC identifier 305134) at www.archives.gov; October 9, 2017.

 

こちらは当時暗殺事件の捜査に加わったアメリカ合衆国の検事、ジム・ギャリソンの「ケネディ殺害の陰謀」に関するファイルの一部です。(ファイル内全159枚)

この中で充分な陰謀筋の調査を行わず、さらに不明な点が多数あるにも関わらず、調査委員会がオズワルドの単独犯だと早々に決断を下したことについて指摘し、追跡調査を行うべきだと記されています。

 


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9月17日:アメリカ合衆国の憲法記念日

米国では、地域によって多少異なりますが、DC周辺では、 9 月の第1 月曜日のLabor Day (労働者の日) の祝日の翌日から新学期が始まりました。10月はHalloween(ハロウィン)で子ども達が盛り上がり、11月はThanksgiving (感謝祭)の祝日があり、12月はChristmas (クリスマス)の祝日がありと、街全体が華やいだ雰囲気に包まれていくので、米国の秋から冬にかけては一番楽しみな季節となります。

 

さて今回は9月にちなんで、米国公文書館のサイトから、アメリカ合衆国憲法についてご紹介したいと思います。アメリカ合衆国の憲法は、1787年9月17日に作成され、翌年1788年に発効されました。現在おいても、アメリカの法律の基本となっています。日本では、太平洋戦争終結から約2年後の、1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法が施行されたことを記念して、5月3日は憲法記念日となり、祝日の一つとなっています。しかしながら、米国では、憲法記念日は祝日ではありませんし、多くの米国人もそうした憲法が作成された日については知らないようです。米国人に聞くと、一番大事な記念日は、やはり7月4日の独立記念日だそうです。

 

Constitution of the United States; 9/17/1787; The Constitution of the United States, 9/17/1787 - 9/17/1787; General Records of the United States Government, Record Group 11; National Archives Building,Washington, DC. National Archives Identifier: 1667751 https://catalog.archives.gov/id/1667751

 

上記の資料は、

 

“We the People of the United States, in Order to form a more perfect Union, establish Justice, insure domestic Tranquility, provide for the common defence, promote the general Welfare, and secure the Blessings of Liberty to ourselves and our Posterity, do ordain and establish this Constitution for the United States of America.”

(われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保証し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらをわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここにアメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。)

 

という前文から始まる合衆国憲法です。

 

この前文のあとに、本文の7条(1. 議会、2. 大統領、3.司法、4.州と連邦政府、5.憲法の修正、6.最高法規としての憲法、7.憲法の批准)が続き、さらに1から27条までの修正条項が続きます。

 

Bill of Rights 1789; Enrolled Acts and Resolutions of Congress, 1789 - 2011; General Records of the United States Government, Record Group 11; National Archives Building,Washington, DC. National Archives Identifier: 1408042 

https://catalog.archives.gov/id/1408042

 

上記の資料は、憲法の修正事項の最初の10カ条を権利章典として国民の基本的人権に関するものをまとめたものです。1789年に連邦議会から提案された修正事項は当初は12の修正条項がありましたが、1791年にそのうちの10カ条が批准されて憲法に追加された形となりました。

米国公文書館のサイトには、”Celebrating Constitution Day”というタイトルで、アメリカ合衆国憲法記念日として特集が組まれています。https://www.archives.gov/news/topics/constitution-day

また、関連して、”America’s Founding Documents” というタイトルで、アメリカ合衆国建国の基本理念である、合衆国独立宣言(Declaration of Independence)、合衆国憲法(Constitution) 、そして権利章典(Bill of Rights: 憲法の最初の修正十カ条条で人権保護規定であるもの)についてそれぞれの資料の画像と資料内容について掲載されています。https://www.archives.gov/founding-docs

さらには、米国公文書館の資料を教育現場で使ってほしいという目的で、“DocTeach”というサイトもあり、憲法をもっと生活に生かそうとする試みのサイトもあります。

Bring the Constitution to Life!: https://www.docsteach.org/topics/constitution

そこから憲法に関する言葉で検索をかけると、350の資料情報が出てきます。それらの中からいくつかをご紹介します。

 

National Archives Identifier: 24520428

Full Citation: Poster 220-BCP-18; The Bill of Rights and Beyond; 1991; Posters Collected by the Commission on the Bicentennial of the United States Constitution, 1986 - 1991; Records of Temporary Committees, Commissions, and Boards, Record Group 220; National Archives at College Park, College Park, MD. [Online Version, https://www.docsteach.org/documents/document/bill-of-rights-and-beyond September 14, 2017]

 

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Martin Luther King Jr

アメリカでは毎年1月の第3週目の月曜日をマーティン・ルーサーキング・ジュニアの日として祝日としています。日本では彼のフルネームよりも『キング牧師』という名称の方がより広く知られているかもしれません。時期外れではありますが、National Archivesのオンラインサービスで彼の写真やテキスト資料を見つけたのでそれらと共に彼にまつわる資料紹介をしたいと思います。

 

【”Civil Rights March on Washington, D.C. [Dr. Martin Luther King, Jr. speaking.” ; Miscellaneous Subjects, Staff and Stringer Photographs, 1961 – 1974, Record Group306, National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archives Research Catalog (ARC identifier 542068) at https://www.archives.gov/ July 22,2017】

 

彼はアフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者としてこの世に名を遺したのですが、当時彼以外にも前線で活躍している有名な指導者はいました。が、彼が指導者として指揮する運動の特徴には他とははっきりと異なる部分がありました。一切抵抗しない「非暴力主義」運動を彼は徹底して貫いた事で有名となりました。

 

他にも1963年8月28日に行われたワシントン大行進(大規模なデモ)では有名な『I have a dream』で知られる演説を行いました。この演説はアメリカ歴史の中でも代表的な演説であり、未だに アメリカの学校教育の中では演説の例として使用されることもあります。私自身、こちらの大学で演説のクラスをとっていた際に一部を覚えなければならず苦労しました。この『I have a dream(私には夢がある)』という文言は元々人種差別撤廃を目的に使用されているのですが、個人的にはこの文言があることで人種差別撤廃という状況に特定せずとも、どのような状況下でも希望をもらえる演説に仕上がっているような気がします。また『Dream』という単語は国、人種を問わず希望に満ちた単語なので、英語での演説を習い始めだった私もより親しみやすく習うことができました。この文言はいくつもの段落の冒頭部分に使用されており、当時彼の演説を聞いていたアメリカ市民の胸に響く一節だったのではと思いながら習っていたのを思い出します。

 

次の写真はこの有名な演説が行われたワシントン大行進の時のものです。リンカーン記念堂の前で観衆に向かって演説を行っているマーティン・ルーサー・キング・ジュニア氏がおさめられています。

 

【”Photograph of Dr. Martin Luther King Jr. addressing the crowd during the 1957 Prayer Pilgrimage for Freedom in Washington, D.C.”; Combined Military Service Digital Photographic Files, 1982 – 2007, Record Group330, National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archives Research Catalog (ARC identifier 6641456) at https://www.archives.gov/ July 22,2017】

 

この歴史的な大行進は彼を含む当時の指導者達やスポンサーによって何度も話し合いが行われ、企画された事がNational Archivesの資料に残っています。次の写真は当時最終的なパンフレットとして配布されたものでオンラインサービスで閲覧する事ができます。

 

【”Final Plans for the March on Washington for Jobs and Freedom”,; Records of the U.S. House of Representatives, 1789 – 2015, Record Group233, National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archives Research Catalog (ARC identifier 560) at https://www.archives.gov/ July 22,2017】

 

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戦後の静岡

資料調査をしていた時、一冊のアルバム資料が目に留まりました。それは、私の故郷に近い静岡県の写真資料でした。子供の頃から身近な存在として見て育った壮大な富士山、馴染みのある地名や風景がとても懐かしく感じました。今回は、そんな地元の写真資料の幾つかをご紹介しながら当時を振り返ってみたいと思います。

 

このアルバムは、戦後間もない1945年から1946年にGHQ下のC.I.C. (Counter Intelligence Corps) Area No.21 Shizuokaで民間情報部静岡支隊に所属していた一人のアメリカ軍人と日系アメリカ軍人によって撮影されています。地図や静岡県に住む人々の生活の様子や富士山を含む地元の風景写真があり、当時の様子を垣間見ることが出来ます。

 

下の地図はアルバムと一緒に保存されていた静岡市街の地図です。駿府城周辺に構えたC.I.C.の事務所や静岡県庁など主要箇所が記入されています。

 

RG 200(S) CIC Records of the National Archives Gift Collection  Album/Prints: Pictorial and Historical Record of CIC Area 21, Shizuoka, Japan 1945-1946 Box 1: National Archives at College Park, College Park, MD

静岡県と言えば富士山を思い浮かべる方も多いことでしょう。言うまでもなく富士山は静岡県と山梨県を跨る国内最高峰の名山ですね。2013年にはユネスコの世界文化遺産にも登録されています。その優美な風貌も下の写真の様に残されています。

 

RG 200(S) CIC Records of the National Archives Gift Collection  Album/Prints: Pictorial and Historical Record of CIC Area 21, Shizuoka, Japan 1945-1946 Box 1: National Archives at College Park, College Park, MD

 


RG 200(S) CIC Records of the National Archives Gift Collection  Album/Prints: Pictorial and Historical Record of CIC Area 21, Shizuoka, Japan 1945-1946 Box 3(Left)  Box2(Right) : National Archives at College Park, College Park, MD

 

左上の写真は静岡浅間神社が麓にある賤機山(しずはたやま)から見た富士山でしょうか。田畑が多く、のどかな風景が広がる奥に雪を頂いた富士山が見えます。右上の写真は、静岡警察署の屋上から東北方面に見た写真です。温暖な静岡の気候がカリフォルニアの様だとの印象が書かれています。

 

こちらは、東海道です。

 

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Righting a Wrong: Japanese Americans and WWII展

毎年5月はアジア・太平洋諸島系米国人の文化遺産継承月間となっている為、スミソニアン博物館を始め、色々なところで展示やイベントが開催されています。

 

アジア・太平洋諸島系米国人の文化遺産継承月間の歴史は、アメリカンセンターJapanのサイトによれば、上下両院で可決した法案を1978年10月5日にジミー カーター大統領がアジア・太平洋諸島系米国人の文化遺産週間として承認したことが始まりとなっています。1990年にはブッシュ大統領が月間に延長し、現在まで続いています。なぜ5月なのかというと、1843年5月7日に初めて日本人移民が米国に到着した事と1869年5月10日に大陸横断鉄道が完成した事を記念して選ばれたからのようです。(参照:https://americancenterjapan.com/aboutusa/monthly-topics/1949/

 

今回はスミソニアン博物館の内の一つ、国立アメリカ歴史博物館で開催中の”Righting a Wrong: Japanese Americans and World War II”展を見学に行く機会があったので、一部を紹介しようと思います。

 

このガラスケースに入っている小さなスーツケースはワタナベ一家がアイダホの収容所に持っていった持ち物の1つです。下の写真は収容所へ向かうバスを待っているモチダ一家の写真です。ここが展示の入り口になります。

まず、移民の歴史から始まり、真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦と続きます。

 


(左)1941年12月7日の真珠湾への奇襲攻撃を伝えるホノルルスターブルテン新聞と真珠湾攻撃当日に書かれたハワイ在住日系人下村とくさんの日記です。

(右)大統領令9066号の発令後、ハワイや西海岸に住む日系人に対する強制立ち退きや強制収容所への収容が始まった様子です。

 

強制収容所内での生活の様子や写真なども展示してあります。収容所の敷地内では野球が一番人気のスポーツだったようです。他にも手作りのコサージュや木を彫って作ったブローチ、ニットなども展示してありました。

 

太平洋戦争では3万人以上の日系アメリカ人が軍に従軍、第442連隊戦闘団、第100歩兵大隊、陸軍情報部のいずれかに配属されたそうです。この他にも第442連隊が当時着用していた制服や無事を祈って縫った千人針なども展示してありました。この展示を回って、改めて日系移民や日系アメリカ人がいかに差別や偏見の中、耐えて生き抜いてきたのか、また、根本にある日本人の芯の強さ、また太平洋戦争中の収容所内での生活の様子やアメリカ人として祖国に従事する歴史なども垣間見ることができてよかったと思います。

 

この他にも写真や大統領令9066号の文書、手紙、日記などが展示してありましたが、その中には国立公文書記録管理局(NARA)から貸し出された物もたくさんありました。

 

もっとこの展示に興味が湧いた方は国立アメリカ歴史博物館のウェブサイトを訪問してみて下さい。 

http://americanhistory.si.edu/righting-wrong-japanese-americans-and-world-war-ii 

 

Right a Wrong: Japanese Americans and World War II展はこの博物館で来年の2月まで開催となっているようです。 5月のアジア・太平洋諸島系米国人の文化遺産継承月間以外にも、2月の黒人歴史月間や3月の女性史月間などもあるので、この期間はスミソニアン博物館や議会図書館他色々な所でイベントや展示などが開催されていると思います。ワシントンDCに滞在する機会のある方はぜひ参加、訪問してみてはいかがでしょか?(SW)

 

フォークダンスと娯楽

自分が小さかった頃と比べると、今は本当に娯楽の種類が多くなりました。子供たちは電子機器に釘付けですし、本場アメリカに負けないような大規模な遊園地ができたり色々な種類のスポーツも楽しめるようになりました。

 

偶然、戦後間もなくの娯楽についての資料を米国国立公文書館で見つけました。

長崎軍政府(Nagasaki Military Government Team)の書類で、ウィンフィールド・ニブロ(Winfield P Niblo)という民間情報教育局(Civil Education Officer)の教官の表彰、という内容のものでした。

ニブロ氏が表彰された理由は娯楽としてスクエアダンス(フォークダンス)を日本で広めたことでした。Wikipediaによると「日本のフォークダンスの父」とも称されたようです。

この書類がニブロ氏を推薦しているものです。

 


Recommendation for Exceptional or Meritorious Award; 230(0331) DAC’s 1947-1948 (Box 3110), Civil Affairs section: Kyushu Civil Affairs Region; Decimal File, 1947-48 (Entry# UD1559), Allied Operational and Occupation HQ, Record Group 331; National Archives at College Park, College Park MD

 

ニブロ氏はコロラド州デンバー出身で元フットボールコーチでした。長崎には1946年6月に赴任しました。彼は、ここで日本の人たちには男女関係なく一緒に手軽に出来るレクリエーションが必要であると感じ、スクエアダンスを長崎の人たちに広めようと思いました。平日のうち3日から5日は勤務後の夜、そして週末と自分の時間を割いて長崎県内のいたるところでスクエアダンスの指導にあたり普及につとめました。スクエアダンスを通じて、自己表現が苦手で恥ずかしがり屋の日本人の傾向を変えるのに大きく貢献しました。

 

学校の体育の時間にもスクエアダンスが採用されました。先生も生徒も踊るのは最初はとても恥ずかしかったようですが、ニブロ先生の指導の下、楽しく踊れるようになったようです。九州の他県からも教育関係者がスクエアダンスの講習に長崎を訪れたようで、スクエアダンス熱は長崎にとどまらなかったようです。

体験者の声が添付書類としてありましたが、多くの警察関係者もスクエアダンスを習っていたようで面白いです。

 

長崎県佐世保市ハウステンボスにはニブロ氏の記念碑があり、「ウィンフィールド・P・ニブロ記念/佐世保ハウステンボス・フォークダンスフェスティバル」が開催されたこともありました。

 

当時の人々がスクエアダンスに興じている写真があれば良かったのですが、残念ながら見つかりませんでした。しかし、戦後の人々の娯楽関係で面白い写真がありましたのでご紹介いたします。

 

RG 306-NT

Records of the U.S. Information Agency

Prints and Negatives: Photographic Files of the Paris Bureau of the New York Times

Ca 1900-1950

Prints: Japan

1149-H-13  At American Fair in Japan

Osaka, Japan, March 20: The American occupation forces in Japan have arranged an American Fair featuring miniature scenes of the United States to acquaint Japanese people with America’s outstanding landmarks.  This is a Japanese family at one of the displays at the Fair with a reproduction of Mt. Rushmore in the background.

 

この写真は1950年(昭和25年)兵庫県西宮市の阪急西宮球場を中心に開催された「アメリカ博覧会」に来ている家族連れです。まだ占領下であった時期です。

 

RG 306-NT

Records of the U.S. Information Agency

Prints and Negatives: Photographic Files of the Paris Bureau of the New York Times 

Ca 1900-1950

Prints: Japan

1152-F-3

Myoko, Japan—During the New Year holiday celebration, school was closed to allow the children to join in the celebration.  These children, from this rugged west coast town of Japan, were required to make a sketch of Mt. Myoko(background).  They are racing home, carrying drawing materials under their arms.  

 

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100年前の日本:米国公文書館のデジタル写真画像から

米国公文書館のサイトで資料の検索をすると、以前と比べてオンラインで閲覧できる資料が増えてきたと資料のデジタル化が進んでいるように感じます。つい先日知ったのですが、RG165WWの写真資料はデジタル化され、リサーチルーム内にあるコンピューターに入っていて、デジタルでの閲覧が可能になっていました。165WWというのはRecords of the War DepartmentのAmerican Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917 -1918のシリーズです。第一次世界大戦期の頃の写真なので100年ほど前のものです。調べてみると日本関係の写真もあります。これらの写真はオンラインでも閲覧でき、今回は、その中の幾つかをご紹介したいと思います。

 

 

Ceremonies - Japan - Victory Arch erected in Hibiya Park. 165-WW-79F-1; Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952, Record Group 165; National Archives at College Park at College Park, MD[online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 23922399) at www.archives.gov; April 5, 2017]

 

上の写真は東京の日比谷公園です。1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発し、日英同盟を結んでいた日本も参戦、そして、1918年(大正7年)11月11日には休戦協定が結ばれます。これはその休戦記念日を祝っているアーチのようです。祝賀と書かれ日本、イギリス、アメリカ、イタリアなど連合国の旗が並んでいます。当時の服装も興味深く、男性は皆帽子をかぶっており、とんび(男性用コート)らしき外套を着ている人もいます。白黒写真なので色がわからないのが残念です。

 

Ceremonies - Japan - View of the parade and mass meeting held by several thousand persons in Tokyo, Japan in an effort to obtain manhood suffrage. 165-WW-79F-2; Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952, Record Group 165; National Archives at College Park at College Park, MD[online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 23922401) at www.archives.gov; April 5, 2017]

 

上の写真は東京での成年男子の普通選挙権のための集会の様子です。幟があり(文字は一番上の「普」しか判読できませんでした)、日本の旗を持っている人もいます。数千人が集まったとのことなので、とても大きな集会だったと思います。大正期は民主主義や自由主義の風潮が高まり、様々な運動が起こりました。1925年(大正14年)に普通選挙法が成立しますが、この写真が撮影された1919年(大正8年)頃は普選運動が盛り上がりを見せ、普通選挙を求めた集会やデモが多かったそうです。

 

American Red Cross - Refugees - Temporary Red Cross Hospital for Relief of the Flood Victims. 165-WW-48A-40; Records of the War Department General and Special Staffs, 1860 - 1952, Record Group 165; National Archives at College Park at College Park, MD[online version available through the National Archives Catalog (National Archives identifier 20804804) at www.archives.gov; April 5, 2017]

 

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U.F.O

~Unidentified Flying Object ~

私が子供のころはUFO特集の番組などが流行っていて、よく家族で見ていた気がします。アメリカの「Xファイル(SFテレビドラマ)」が日本で放送されていた時も、食い入るように見ていました。日本では若干オカルト的に扱われることの多いUFOですが、UFO研究はプロ、アマチュア問わず様々な国で行われています。アメリカ政府によるUFO調査はとても有名な話ですね。2016年アメリカ政府機関CIAは約20年間に渡り独自に情報収集、調査分析してきた機密資料を一般に公開しました。これらのCIA元機密資料は現在オンライン(Project Blue Book Archives http://bluebookarchive.org/)で見ることができますが、デジタル化が間に合っておらず現在も作業が続いています。

 

今回はアメリカ国立公文書館でも閲覧することのできる資料の一部をご紹介します。

 

アメリカ政府による公式なUFO調査は1947~1969年の間に行われました。米空軍により発足されたUFO調査プログラム「プロジェクトブルーブック」は、当初UFOの存在を証明する充分な証拠がないなどの理由で、閉鎖、再開を繰り返しました。報告書によるとこの約20年間で目撃件数は12618件、その内701件は「未解決、説明不可能」とされています。

 

Photograph No. 179306; Record Group 342-B Box1; National Archives at College Park, College Park MD.

 

 

Photograph No. 179292; Record Group 342-B Box1; National Archives at College Park, College Park MD

 

Photograph No. 179270; Record Group 342-B Box1; National Archives at College Park, College Park MD.

 

1948年以降の目撃報告書には目撃者による証言に加え、米空軍及び大学などの研究機関による目撃者の心理分析や、彼らを知る周りの住民や家族などからの証言が多く残っていました。「彼(目撃者)は頭のおかしい人ではない」「信じられない物体を目撃した」「頭がおかしくなったと思われたくないからこれ以上は口外しない」などといった証言も記録されていて、目撃者と周囲の困惑した心情などを伺い知ることができます。

 

下の資料は、1949年アイダホ州で8機のUFOが目撃された時の証言情報です。

目撃者(パイロット)が飛行中、突如8機のUFOが出現しました。全機体のフォーメーションは乱れることなく完璧だったそうです。彼がUFOの飛行経路を通過した際、突然彼の飛行機のエンジンが大きな音を立て出したそうです。着陸後エンジンを点検したところ、その飛行機は新品だったにも関わらず、プラグはショートし焦げていたそうです。

 

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米国のシベリア派遣軍に関する写真資料

今年2017年はロシア革命から100周年目になります。1914年7月に勃発した当時のドイツ帝国やオーストリア―ハンガリー帝国などの同盟国側と、フランス、イギリス、ロシア帝国、米国(1917年4月から参戦)など連合国側との間で起こった第1次世界大戦は、1917年の2月そして10月の2度にわたる革命がロシアで起こったときもまだ続いていました。

 

この革命により、ロシア中央部ではそれまで続いていたロマノフ王朝の絶対君主制(ツァーリズム)は倒され、世界で初めての社会主義政権であるソビエト政権が樹立されました。しかしながら、旧ロシア帝国の地方の地域では、反革命勢力が巻き返しを図り、革命軍と反革命軍の内戦が展開されることになりました。この内戦が全面的に拡大することになったのは翌1918年5月にシベリアで起きたチェコスロバキア軍の反乱がきっかけでした。もともとこの軍隊は、第1次世界大戦中に、ロシア帝国が、敵国のオーストリア―ハンガリー帝国軍のチェコ人捕虜とスロバキア人捕虜から編成したものでした。ロシア革命後はヨーロッパ戦線に送られることを前提として、シベリア鉄道沿いに留められていた軍隊でした。反乱をきかっけとしてこの軍隊は、ロシアの中央部のソビエト政権側には脅威を与えるものとなり、同時にシベリア各地に反ソビエト勢力を増大させることにもなりました。

 

同年8月には、チェコスロバキア軍団をロシア革命勢力から救出するという名目のもと、連合国側である、アメリカ、日本、イギリス、フランス、カナダ、イタリア、中華民国といった国々から、軍隊が派遣されることになりました。実際にはこの軍隊派遣は、それぞれの国の利権(シベリア鉄道に関わる利権や外資など)を保守するという目的があったものと言われています。

 

米国公文書館の中には、米軍のシベリア派遣に関する資料がたくさんありますが、今回は、American Expeditionary Forces in Siberia 1918-1919(米国シベリア遠征軍)の写真資料をご紹介したいと思います。場所は、シベリア、オムスク、スーチャン(現パルチザンスク)、オムスク、ウラジオストク、バイカル湖周辺などであり、その内容は、アメリカ、イギリス、フランス、日本、ロシア(反革命勢力―白色)、チェコスロバキアなどの将校や兵士、捕虜となったロシア革命勢力(赤色)の兵士、ロシア難民、コリアンの人々、ぞれぞれの町や建物、市場、軍事活動や宗教的儀式、兵士の娯楽などといった多岐にわたるものになっており、当時の様子を理解するうえで非常に貴重な資料であると思います。

以下の2枚の写真は、1918年11月15日にウラジオストクで、アメリカの主導による連合国側で行われた平和行進であり、日本の軍隊も見えます。

 


Left: Photograph No. 7005.  “Peace Parade, Allied nations, Vlad. Sib. Lead by US Troops 31st Inf. Nov. 15, 18.” Right: Photograph No. 7017. “Peace Parade, Vladivostok, Sib. Nov. 15, 18.” Japanese soldiers.”  Record Group 395: Records of US Army Overseas Operations and Commands, 1898-1942, Entry SE, Box 2, American Expeditionary Forces in Siberia, National Archives at College Park, MD. 

 

1918年当時は、シベリアにおいて、米国と日本は足並みをそろえていたことがわかります。下記の写真は同年11月16日のものでハバロスクにおける米軍第27師団司令官のステイヤーとその部下と日本軍第12師団司令官の大井成元 とその部下達が並んでいます。この第12師団は当時の日本では、小倉(現北九州市)が本拠地であったかと思います。

 


Left: Photograph No. 18. “Col. H.D. Styer, 27th Infantry, Capt. C.A. Shamotulaki, Adjutant. Lt. General Oi, 12th Japanese Division, Major Yoriguchi, Col. Matsuyama, Chief of Staff at Japanese Hdqrs, Khabarovsk, Siberia, Nov. 16, 18.” Right: Photograph No. 19. “Col. H.D. Styer, Commanding 27th Inf., Lt. Gen. Oi and staff officers of 12th Div. Japanese Army in front of Japanese headquarters, Khabarovsk, Sib. Nov. 16, 18.”  Record Group 395: Records of US Army Overseas Operations and Commands, 1898-1942, Entry SE, Box 2, American Expeditionary Forces in Siberia, National Archives at College Park, MD.

 

シベリアは極寒地域であるために、兵士も一般の人々もその寒さをしのぐために大変な努力をしなければならなかったのではないかと思われます。下記の写真は、華氏でマイナス49度(摂氏マイナス45度)という気候の中で、任務遂行に励む兵士や日常の生活をする人々の様子が伺われます。

 



Left above: Photograph No. 236. “Russian soldiers grouped around a fire. These fires are essential for very often the temperature reaches 49 degrees below.” Right above: Photograph No. 237. “Merchants in the streets of Ekaterinburg also build fires to combat the cold.” Left below: Photograph No. 88. “Merchants in the streets of Ekaterinburg also build fires to combat the cold. “ Right below: Photograph No. 230. “Washing clothes in a hole cut in the ice. Scenes of these refugees doing the family wash are quite common throughout Russia and Siberia.” Record Group 395: Records of US Army Overseas Operations and Commands, 1898-1942, Entry SE, Box 1, American Expeditionary Forces in Siberia, National Archives at College Park, MD.

 

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琉球切手(沖縄切手)

皆さんは琉球切手という切手をご存知でしょうか?昔の沖縄の切手…と、私は単純に思いましたが、実は、沖縄切手と呼ばれることもあるこの切手は、1945年(昭和20年)から1972年(昭和47年)の本土復帰までの27年間、アメリカ軍統治下にあった沖縄でのみ使用されていた郵便切手なのです。

 

琉球切手の特徴として、日本語で『琉球郵便』と印刷されているのですが、額面はアメリカ通貨である$(ドル)や¢(セント)が使われています。他に、漢字やカタカナ、アルファベットで切手の説明書きがされている種類の切手もあります。また、題材には沖縄の伝統芸能や民族行事、工芸品、亜熱帯の動植物など沖縄の自然、歴史、文化などを表現した絵柄が幅広く取り上げられた色鮮やかな切手なのです。

 

今回は、ここ米国公文書館2階にある資料の中から琉球切手の展示風景、はがき、綺麗な絵柄が印象に残る切手のほんの一部をご紹介したいと思います。

 


RG550 Entry : UD-WW 401-373 Box5 General Records Relating to Medical, personnel and Publication Activities [Department of the Army USARYIS 69-73, Acc #75-1575 Headquarters, US Army, Ryukyu Islands, US Army Base Command, Okinawa US Army Medical Center, Okinawa] 1969-1973  227-04 Letter to the editor (72) ;National Archives at College Park, MD.

 

上の切手は、1971,72年に使用され、封筒に貼られ残されていた一部です。資料集にあった多くの切手は使用されたもので、切手部分だけ切り取られています。不思議に思い調べてみると、1970年代前後の日本では切手収集ブームに沸いており、琉球切手もその例外ではなかったようです。ある出版社の編集部宛てには、読者から琉球切手の使用済み切手を譲り受けたい旨のハガキもあり、当時の過熱ぶりが少し垣間見られたように思いました。

 

下の冊子は、45年に設立した国際連合の設立20周年記念切手を紹介しています。

 


RG319 Entry: A1-1678 Box1 Records of the Army Staff Civil Affairs General Administration & Planning files Relating to the Ryukyu Islands, 1959-1968   Ryukyuan Philately, 1965-1966  ; National Archives at College Park, MD.

 

 

 

 

左の年賀はがきは1966年、丙午の年のものです。ホチキスの跡はあるものの未使用で状態も良く保存されていました。

 

 

 

 

RG319 Entry: A1-1678 Box1 Records of the Army Staff Civil Affairs General Administration & Planning files Relating to the Ryukyu Islands, 1959-1968   Ryukyuan Philately, 1965-1966  ; National Archives at College Park, MD.

 

こちらは、琉球政府の第4代行政主席であった松岡政保宛に送られた、切手展示会企画団体からの招待状と、1966年にアメリカのワシントンDCで開催されたインターナショナル切手展示会の様子です。琉球切手と沖縄の写真も含めて紹介してる様子が分かります。また、琉球切手の事は載っていませんが、参考までにこの時の事が載ったサイトを見つけましたのでご覧ください。

→  http://www.ny2016.org/images/history/06_1966sipex.pdf

 


RG319 Entry: A1-1678 Box1 Records of the Army Staff Civil Affairs General Administration & Planning files Relating to the Ryukyu Islands, 1959-1968   Ryukyuan Philately, 1965-1966  ; National Archives at College Park, MD.

 

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Waddy Youngの生涯

今回は、戦争で短い生涯を終えた1人のアメリカ青年について、カレッジパークにある米国公文書館に保存してある写真、資料を通して紹介したいと思います。

 

彼の名前はWalter R. ”Waddy” Young(ウォルター ワディ ヤング)通称ワディといいます。1916年9月4日にオクラホマで生まれたワディはオクラホマ大学時代にオールアメリカンフットボール選手に選ばれるほど、才能あるとても優秀な選手だったようです。その後1939年にNFLブルックリンドジャースの選手となったワディですが、プロフットボール選手になって2年目にArmy Air Forceに志願します。パイロットになったワディは爆撃機B-24のヨーロッパ任務に従事し、数年後大型爆撃機B-29プログラムに志願しサイパン島へ配属されます。

 

1944年6月以降、マリアナ諸島を制圧、占拠したアメリカ軍はグアム、テニアン、サイパンの各島に飛行場を建設し、同年11月からマリアナを拠点に日本本土空襲を始めます。この空襲任務にワディはWaddy’s  Wagon(B-29 A-5)機のキャプテンとして従事することになります。

 

5Fの写真資料室で見つけた、1944年11月にサイパンで撮影された”ワディ”ヤングの写真です。

 

Photograph No. A39059 Record Group342-FH Box159; Saipan: Capt. Walter R.” Waddy” Young Ponca city, Okla. Airplane Commander of Boeing B-29 “Waddy’s Wagon” National Archives at College Park, College Park, MD

 

キャプテン ワディヤング率いるWaddy’s Wagon(B-29 A-5)機は1944年11月24日、28機中のリードグループの1機として午前5時15分にサイパンを離陸し、攻撃目標だった中島飛行機武蔵野製作所へ向かいます。中島飛行機は、当時日本最大を誇る航空機生産企業で、武蔵野製作所では約5万人が、日夜、発動機(エンジン)生産に励んでいたそうです。

 

下の写真は1944年11月、東京空襲任務へ向かう、マリアナ上空を飛行するWaddy’s Wagonの機体(手前から3機目、真ん中A-5)

 

Photograph No. A38422 Record Group342-FH Box156; War Theater#22(Marianas Is) Airplanes(over). National Archives at College Park, College Park, MD

 

武蔵野製作所への最初の爆撃任務を終えたWaddy’s Wagon機はサイパンのIsley Fieldに午前9時に1番に帰還しました。その後、撮影された写真が下の写真のようです。キャプションには1944年11月に撮影、東京への爆撃任務を終え1番にサイパン島へ戻ったWaddy’s Wagon乗組員と記載されてある。

 

Photograph No. A38954 Record Group342-FH Box159; B-29 Men who bombed Tokyo. National Archives at College Park, College Park, MD

 

2Fのテキスト資料、RG18のWWII Combat Operations Report(戦闘報告書)にはワディ他Waddy’s Wagon 乗組員11名の最後となった1945年1月9日の任務について記載があるので紹介したいと思います。

 

Waddy’s Wagonを含む合計17機の爆撃機はサイパンのIsley Fieldを午前8時22分から9時12分にかけて次々飛び立ち、攻撃目標の中島飛行機 武蔵野製作所へ24.25トンの爆弾を落としました。 爆弾投下のすぐあと、前方上の方からキ44二式戦闘機他15機に攻撃され交戦、破損を受けた仲間のA-46機 をサポートする為、後退したA-5(Waddy’s Wagon機)は(記録上では)午前9時5分に目撃されたのを最後にA-46機と共に東京湾南西沖で消息を絶ちました。この交戦でWaddy’s Wagonの乗組員全員を含む3機、33名が行方不明になったと記載されています。資料には2機は敵機からの攻撃とありましたが、1機はUnknown(不明)と記載されてあります。奇しくもキ44二式戦闘機は中島飛行機で製造された戦闘機のようです。

 

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A級戦犯・大島浩(元駐独日本大使)の真相を求めて

米国大統領選挙が衝撃の結末を迎え世界中が共振している最中、早くも米国では新政権の大統領補佐官や各省庁の閣僚クラスの人事に対して関心がにわかに高まっている。米国では大統領が変わると政府機関人事の入れ替えが行われ、メディアの注目の的となる。

 

米国大統領の政権交代によって世界各地においては、各国におかれた米国大使館や領事館でも人事異動も行われる。現在の駐日米国大使は、JFKことケネディ大統領の実娘であるキャロライン・ブーヴィエ・ケネディ氏が務めていることはよく知られている。様々な面から注目を集める新大統領によって選ばれる新大使は一体誰になるのであろうか。近日中には公表されるものと思われるが、どのような方が選ばれるのか楽しみに待ちたい。

 

今月のブログは、第二次世界大戦中に日本の同盟国であったドイツに駐在し、ヒトラーとも親しかった日本国大使の大島浩(1886-1976)を取り上げ、彼が辿った数奇な運命の一部を、米国公文書館の史料を手立てにして紹介していく。

 

1. 駐独大使・大島浩

「大島浩」という人物をご存知だろうか。

 

General Oshima (Hiroshi), Ambassador to Germany, Japan 1941; 

14 Nov 1953, OSHIMA HIROSHI XA 518988 (Folder No. 1 Box No.588), Office of the Assistant Chief of Staff for Intelligence, G-2 Records Of The Investigative Records Repository (IRR); Intelligence and Investigative Dossiers -- personal File 1939 1976 (Entry No. A1 134-B), Record Group 319; National Archives at College Park, College Park MD

 

大島は、軍人でもあり、かつまた外交官でもあった。

 

大島を知る人の多くは、第二次大戦中ヒトラーおよびナチズムに最も傾倒した日本人として、日本を枢軸国の戦争へと誘った罪を問われ連合軍によって極東軍事裁判(「東京裁判」)にかけられ、A級戦争犯罪人(A級戦犯)となった人物として記憶していると思われる。

 

また大島にはもう一面、悲劇の外交官という側面があった。駐独大使として赴任したドイツから、ヨーロッパ東部戦線の状況などを伝えた大島の日本政府宛の電信は、「マジック(Magic)」と呼ばれた暗号グループで区分けされ、米軍暗号解読部隊によって戦争中常に傍受され、連合国側に有利に利用されていた。大島が懸命に収集した情報が、皮肉にも敵国に伝わり、枢軸国の戦況を不利な方向へ導いたことは、まさに悲劇的であったといえよう。

 

私が、大島や「マジック」について興味をもつきっかけとなったのは、近年幾つか大島について取り上げられた書籍を読みその事実に触れたことに始まる。読者の中には、昨年末に公開された映画『杉原千畝 スギハラチウネ』(2015年、東宝)を観賞し、在ベルリン日本大使として常に顔を強ばらせ軍服に身をまとって登場した大島役の俳優・小日向文世の顔を思い浮かべる方もいるであろう。

 

「ドイツ人よりもドイツ人的」、「ナチス以上の国家社会主義者」、「駐独ドイツ大使」などと当時の大島のドイツへの傾倒ぶりを表したフレーズが残っているが、一体どのようにして大島はナチスに傾倒し、なぜ「国家をミスリード」するような判断をしてしまったのか。日本近代史において、「大島浩」という一つの物語がもたらした悲劇は、日本人にとって今後も語り継ぐべきテーマの一つであることに違いない。

 

大島の略歴を年表にしてまとめてみると次のようになる。

 

1886年   岐阜県に生まれる(父は元陸相の大島健一)

1921年   駐在武官補としてドイツに赴任

1934年   駐在ドイツ武官に着任

1938年   駐独日本大使任命

1940年   駐独日本大使再任(1941年着任)

1945年   駐独日本大使辞任(連合軍に囚えられる)

1946年   極東軍事裁判でA級戦犯(無期刑)の判決をうける

1955年   減刑(釈放)

1975年   逝去(享年89歳)

 

父・健一は軍を退いた後に貴族院議員となる。その健一の下で育てられた大島は、幼年時からドイツ語の英才教育を受けた。陸軍幼年学校入学後、陸軍士官学校、陸軍大学を経て海外赴任し、そのまま駐独大使まで駆け上がり、最終的には軍人として中将の位まで昇りつめた。ちなみに、大島と生涯を共にした妻・豊子は14歳年下の子爵令嬢であり、当時の日本において大島は、恵まれた、華々しい日本帝国軍人のエリートコースを上がっていった人物といえる。

 

Mrs. Oshima, Wife of General Oshima, Ambassador to Germany, Japan 1943; 

14 Nov 1953, OSHIMA HIROSHI XA 518988 (Folder No. 1 Box No.588), Office of the Assistant Chief of Staff for Intelligence, G-2 Records Of The Investigative Records Repository (IRR); Intelligence and Investigative Dossiers -- personal File 1939 1976 (Entry No. A1 134-B), Record Group 319; National Archives at College Park, College Park MD

 

ここ、米国公文書館には大島をはじめ、大使や公使、武官や外交官の活動を伝える資料が多く保管されている。大島に関する資料は国務省資料群(RG59)、陸軍資料群(RG319)、国家安全保障局資料群(RG457)など多岐に及んでいるが、米軍をはじめ連合軍が大島をどのように観察していたのか、端的に示された資料が次のものになる。資料の分類から、終戦直後に連合軍が大島について記したものと推定される。

 

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沖縄に戻った文化財

1945年の3月の終わり頃から始まった沖縄戦で、沖縄には甚大な被害がもたらされました。その後もアメリカの占領下となり、人々は古くから受け継いできた土地を奪われ、軍の施設での低賃金労働や危険な仕事に従事させられてきました。

しかし、このような占領下にあって「沖縄の文化財の返還」に尽くしたアメリカ兵もいました。今回はその人を紹介したいと思います。

 

彼の名前はウィリアム・T・デービスといいます。1948年(昭和23年)より陸軍広報官として沖縄に赴任しました。赴任中のデービス氏は学校で英語を教えたり、沖縄のボーイスカウト創立に関わったりしました。彼の行為に周囲の人々は親しみを抱いていきました。

1951年11月に任期を終えて米国に帰る時、北谷村桃原(とうばる、原本にはTobaruと記載。)の人々から沖縄三味線を餞別としてもらいました。

 

米国に戻ったデービス氏はその三味線を以前から懇意にしていたTVスターでウクレレ収集家のゴッドフリー氏に見せました。また、ゴッドフリー氏は誰かそれを演奏できる人がいないかということをデービス氏に尋ねていました。デービス氏は3カ月間必死で探し、日系二世でシカゴ在住の吉里弘氏に出会いました。そして吉里氏から戦争で奪われた沖縄の文化財のことを聞きました。

 

これをきっかけにデービス氏は米国に持ち帰られた沖縄の文化財を探し、それを沖縄に返すことを決意しました。この時の彼の決意を示す文書が公文書館にありました。

下の文書です。

 

SFC William Davis will study history of Okinawa after discharge from Army.(Ryukyu Shimbun); Ryukyu Islands-Art Treasures Returned (Box No.15), Correspondence 1951-64, Records of the Public Affairs Division (Entry No.A1-61) , Records of the Army Staff, Record Group 319; National Archives at College Park, College Park MD 

 

その後、自らの時間と費用を投じてデービス氏の調査が始まりました。デービス氏は吉里氏からの情報、国務省や税関にコンタクトして、かつて沖縄戦に従軍したマサチューセッツ州に住むスタンフェルト氏が、沖縄からかなりの数の文化財を米国に持ち込んだということを知りました。ボストンの税関はかなり詳しくスタンフェルト氏とその文化財に関わった人たちの調査をしています。その報告書もここ米国公文書館にありました。

 

これはボストンの税関の調査報告書です。

 

Treasury Department Bureau of Customs Boston 9 Mass. May 7, 1953; Ryukyu Islands-Art Treasures Returned (Box No.15), Correspondence 1951-64, Records of the Public Affairs Division (Entry No.A1-61) , Records of the Army Staff, Record Group 319; National Archives at College Park, College Park MD 

 

調査の後、スタンフェルト氏は税関で申告していて密輸ではないこと、そして自分が所有しているものが沖縄に返されるべき文化的価値があるものならそれは沖縄に返すということに同意しました。そのため特にお咎めはなかったようです。

 

1951年にデービス氏が米国に戻ってきてから、1953年までの2年の年月をかけて見つけられた数ある文化財の中でも、とりたてて重要なものは『おもろそうし』(全22巻)です。『おもろそうし(おもろさうし)』は琉球王国第4代尚清王代の1531年から1623年にかけて首里王府によって編纂された歌謡集で、文学としての価値はもちろん、歴史を解明する上でも貴重な資料です。

 

この写真は『おもろそうし』ではないですが、返された宝物のうちの一つです。

眼鏡をかけて宝物を見ている左手の男性がデービス氏です。

 

Dedication of Shuri Museum 29 May 53; Ryukyu Islands-Art Treasures Returned (Box No.15), Correspondence 1951-64, Records of the Public Affairs Division (Entry No.A1-61) , Records of the Army Staff, Record Group 319; National Archives at College Park, College Park MD

 

1853年のペリー提督来沖から100周年にあたる1953年に、米国国務省から『おもろそうし』(全22巻)を含む文化財が沖縄に返されました。デービス氏はこの時に米国政府の代表として沖縄を訪れ文化財返還の式典に参加しました。

 

この写真は宝物返還のセレモニーの写真です。中央がデービス氏です。

 

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米国公文書館にある小野寺信に関する資料

今年の夏で日本は戦後71年を迎えました。戦争特集の新聞記事やテレビ番組は以前と比べると少なくなったような印象がありますが、それでも意識してそうしたものを読んだり、見たりしなければと思っています。先日、NHKで戦争当時スウェーデンのストックホルムに駐在していた、日本陸軍武官の小野寺信及び百合子夫妻の物語についてのドラマが放映されていたかと思いますが、小野寺信と聞いて思い出したことがありました。そこで、今回は、カレッジパークの米国公文書館にある小野寺信に関する資料をご紹介したいと思います。

 

 下記の写真は、1943年のものであり、彼は1941年1月にはすでにストックホルムに着任していたかと思いますので、ドイツまたはヨーロッパのドイツ支配になっていた地域で撮影されたものかと思います。

 

Major General Makoto Onodera, 1943: Record Group 153 Entry A1-144, Box 118, National Archives at College Park, MD

 

ドイツの陥落前後に米軍によって捕獲された彼らやドイツ軍人や関係者に対する尋問調書資料の中に、1943年12月から1944年11月までストックホルムでハンガリーの武官かつ外交官であった、Ladislas Voeczloendyという人物の尋問調書がありました。その調書の内容はLadislas Voeczloendy本人のことではなく、当時の彼の良き友人であり、ストックホルムの駐在陸軍武官として活躍していた小野寺信に関するものでした。このハンガリーの武官・外交官を通じて、小野寺信に関する情報を米軍がいろいろ聞き出していたという事実がとても興味深いと思いました。

 


Brig. Gen. Makoto Onodera Imperial Japanese Military Attache, Stockholm on 5/28/1945, Record Group 498 Entry UD-250 Box 1296, National Archives at College Park, MD

 

小野寺信は、他のヨーロッパ言語は得意ではなかったが、ロシア語が得意であったこと、穏健で勤勉であり、精力的な人物であったこと。家族と仲が良かったことなどから始まり、彼のオフィスはストックホルムの公使館であるが、いろいろな軍情報を収集して、日本政府へ送っていたこと。小野寺夫妻は、その公使館とつながる住宅内で、情報のコード化作業を行っていて、そこには誰もアクセスできなかったこと。また1944年までの段階では、ソ連は日本とは戦争をしないと判断していたことなど、彼に関する色々な情報が語られており、小野寺との交流を通じてこの人物が知っていたことはすべて米軍に正直に語っていたようです。

 

第2次世界大戦の戦争当時、スウェーデンは、スイス、スペイン、ポルトガルなどのように中立国でありましたので、小野寺信はスウェーデンでいったん捕らわれの身になるようなことはありませんでした。しかし、日本の敗戦後、スウェーデンの警察からの尋問をそこで受けたようで、その後1946年に日本に帰国しました。当時の占領軍によって一時的に巣鴨プリズンに収容され、元ヨーロッパの日本陸軍武官の一人としての諜報活動について尋問を受けることになりました。

 

小野寺信に関する情報は、NARAのRG263のCIA(米国諜報局)の資料の中にいくつかまとまって存在しています。本来の原本ではなくすでに原本のコピーとなっているものですが、閲覧ができます。小野寺信を始めとするヨーロッパの日本軍の諜報機関で活躍していた人々への尋問やそれ以前に米軍側で入手していた情報をもとにしたもので、「戦時中の日本とポーランドの協力」、「戦時中の日本とドイツの諜報機関との協力」「スカンジナビア半島における日本の諜報活動」、「戦時中の北ヨーロッパにおける日本の諜報活動」「小野寺信への尋問」などのタイトルでとても興味深い資料です。

 


Left: Japanese Wartime Intelligence Activities in Northern Europe 9/30/1946: Record Group 263 Entry ZZ-17 Box 4:  National Archives at College Park, MD Right: Interrogation Report of General Makoto Onodera 9/10/46: Record Group 263 Entry ZZ-17 Box 4:  National Archives at College Park, MD

 

上記の左の資料は、下記のCIAのサイト上のPDFからも読むことができます。

 

Makoto Onodera Vol.2: https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/ONODERA,%20MAKOTO%20201-0000047%20%20%20VOL.%202_0022.pdf

 

また、同じCIAには、Makoto Onodera Vol. 1としての資料も掲載されています。

 

https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/ONODERA,%20MAKOTO%20201-0000047%20%20%20VOL.%201_0008.pdf

 

米国公文書館にはこれらの資料ももちろんあり、公文書館のサイトからデジタルで読むことができますが、CIAのサイトの方が読みやすいと思います。

 

小野寺信に関連して、他の資料も調べてみたところ、米国公文書館には、太平洋戦争前後から日本が敗戦を迎えるまでの時代における、世界各地の日本軍武官と中央の日本軍との交信記録を翻訳した資料もありました。戦争末期の時点では、中立国のスウェーデンのストックホルム、スイスのベルン、スペインのマドリッド、ポルトガルのリスボンといった場所にあった武官同士または、それらの武官と日本中央との交信記録に限られてきます。

 

その中で最後に1945年2月19日付けのストックホルムの武官から日本への送信内容についてご紹介します。

 

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1972年日本語印刷物

今回は米国公文書館の2階のテキスト資料の中から1972年の米軍による日本語印刷物をご紹介したいと思います。

 

これは在日米軍従業員のための雑誌「交流」の1972年6月号です。

 


“KORYU June 1972”; Organizational History Files, Psychological Operations Files, and General Records, 1971 – 1974(Entry UD-WW 63); Records of United States Army, Pacific, Record Group 550; National Archives at College Park, College Park, MD. 

 

「交流」は1957年の6月に創刊され、「在日米軍従業員とその家族に教養と娯楽を提供することを目的とする在日米軍の出版物」と目次のページに書かれてあります。左側が日本語のカラー冊子、右側が白黒の文字中心の英語の冊子で写真は日本語版と比べるとずいぶんと少なくなっています。この号の交流の表紙には日本とアメリカの国旗、そして守礼門の絵が描かれてあります。というのもこの年の5月15日に沖縄が日本へ返還され、この号からページ数も増え沖縄の米軍従業員にも配布されるようになりました。そのためか内容を見てみると、沖縄に関する記事も多いようです。雇用に関する内容を分かりやすく解説をしているページもあります。日本の米軍基地の特集、従業員の紹介や活躍ぶりの記事、アメリカについてのQ &A、日本の地方行事、世界の特集などの記事があります。何冊かこれらの雑誌に目を通してみますと、実に様々な分野で日本人が働いていたことがわかります。

 

下の雑誌は1972年1月号の「守礼の光」の日本語版と英語版です。

 


“SHUREI NO HIKARI   January 1972”; Organizational History Files, Psychological Operations Files, and General Records, 1971 – 1974 (Entry UD-WW 63); Records of United States Army, Pacific, Record Group 550; National Archives at College Park, College Park, MD. 

 

「守礼の光」は沖縄の人々に無料で配布された琉球列島米国高等弁務官府の出版物です。沖縄本島内の役所、軍施設、学校などにはトラック便で一括配布、個人や本島以外の場所には郵送で配布され、本土やハワイ、北米、南米、ヨーロッパにいる読者にも送られていたようです。公文書館に所蔵されていた資料の中には読者からの「守礼の光」編集部に宛てた1972年の年賀状や手紙、また本土に住む人から雑誌を送ってほしいという依頼文があり、当時毎月の雑誌を楽しみにしていた人が多かったのではないかと感じました。1959年1月より刊行された「守礼の光」は、沖縄本土返還の5月にこの特別号を最後に廃刊となりました。

 

 

 

 

 

 

 

“SHUREI NO HIKARI REVERSION ISUUE”; Organizational History Files, Psychological Operations Files, and General Records, 1971 – 1974(Entry UD-WW 63); Records of United States Army, Pacific, Record Group 550; National Archives at College Park, College Park, MD. 

1972年のカレンダーも所蔵されていましたのでご紹介したいと思います。

 

“1972 USFJ Calendar”; Organizational History Files, Psychological Operations Files, and General Records, 1971 – 1974 (Entry UD-WW 63); Records of United States Army, Pacific, Record Group 550; National Archives at College Park, College Park, MD. 


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昭和天皇のご訪米

今から41年前の1975年、昭和天皇と香淳皇后が公務としてはじめてアメリカを訪れました。終戦30年後の出来事です。当時のアメリカ大統領はフォード元大統領で、その時の資料はミシガン州にあるジェラルドRフォード大統領図書館に所蔵されていますが、資料の一部は米国国立公文書館でも閲覧することができます。

 

昭和天皇と皇后両陛下ご訪米は2週間もの長旅で、この間全米各地をご覧になられたようです。ワシントンDCを訪れた際でのパーティでは、約250~300もの日本人報道関係者が取材にきたそうで、その様子はライブ中継で日本でも放送されるほど、当時の日本にとっては大きなイベントだったようです。そして迎える側のアメリカでもかなりの準備が成されたことが資料からうかがい知ることができます。

 

資料の中にこんな文章がありました。「日本天皇の役割は純粋に儀礼的である。しかし戦前の天皇の存在は、半神半人として国家の主権を具体的に示すと考えられ、すべての政治的な権限は天皇の名において決定されていた。戦後それらの権限が剥奪された後もなお天皇の地位は守られたことに、昭和天皇と日本国民は感謝するとともに少し驚きもあったことだろう。」

 


State Visit of Emperor Hirohito of Japan, 2-3 Oct. 1975, Record Group 59 Entry A1-5037 Box222, General Record of the Department of State, Briefing Books 1958-1976 Lot75D447, National Archives at College Park, MD

 

また「日本国民にとって天皇陛下はとても尊い存在であることを念頭におき、礼儀を欠いた態度を取らないこと」など言動を慎むよう示唆する文章もありました。アメリカと日本ではこうした礼儀作法は大きく異なるので、この行事に関わるアメリカ側の関係者たちはさぞ気苦労をしたことと思います。

 

興味深かったのが、昭和天皇の人となりを綴った文章です。ここでは、昭和天皇はとても無口な方で気軽な会話や世間話というのがなかなか難しいお人柄と記しています。そして会話が弾むように、いくつか昭和天皇がご興味を持ちそうな質問や話題が、場面ごとで準備されていました。例えば「ご到着セレモニーでの陛下との会話」「ホワイトハウスでの会食の前と最中の陛下との会話」などです。

 


State Visit of Emperor Hirohito of Japan, 2-3 Oct. 1975, Record Group 59 Entry A1-5037 Box222, General Record of the Department of State, Briefing Books 1958-1976 Lot75D447, National Archives at College Park, MD

 

またこのご訪米でのスケジュールも細かく記録が残っていました。テレビでしか見たことのないご公務の様子はとてもゆったりとして見えるのに、実際の日程は分刻みで実際はとても大変なお勤めだということを感じました。

 


State Visit of Emperor Hirohito of Japan, 2-3 Oct. 1975, Record Group 59 Entry A1-5037 Box222, General Record of the Department of State, Briefing Books 1958-1976 Lot75D447, National Archives at College Park, MD

 

ご帰国後、昭和天皇からフォード元大統領に送られた御礼状です。

 

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占領下の接収建物

日本の占領期、国内の主要な建物や個人邸宅は進駐軍によって接収され使用されていました。ここNARA (National Archives and Records Administration) 5階に保管されている写真資料の中でもそれらの建物の写真を見ることが出来ます。その中でも、新古典主義的と言われるデザインや西洋建築デザインのビルディング、また洋館と呼ばれるモダンな邸宅など、当時の日本建築様式が垣間見られる建物が印象に残りました。今回はその一部をご紹介したいと思います。

 

第一生命館は、連合軍最高司令官総司令部(GHQ) 本部となっていた事で有名で、司令官のダグラス・マッカーサーと共に撮影された写真も見ることが出来ます。その設計を調べてみると1932年に設計図案を一般公募した後に建築家によって実施設計されており、外観はギリシャ風の円柱が立案されたものの、結局角柱が立ち並ぶものとなったとされています。もし、円柱の建物になっていたら皇居周辺の景観も随分変わっていた事でしょう。

 

Photograph No.287063 Air Forces Over Tokyo 8/1/1947, Box#559, Record Group 111-SC, National Archives at College Park, MD

 

左は明治生命館、説明書きには MEIJI Insurance Building Now Occupied By the U.S. Armyと書かれています。右は三井本館です。当時、館内の一部は国防省によって使用されていたことが書かれています。

二館とも現在は、重要文化財に指定されており重厚な佇まいは今も変わりません。

 


Left: Photograph No.290342 Meiji Insurance Building 10/12/1945, Box#571, Record Group 111-SC, National Archives at College Park, MD

Right: Photograph No.291018 Mitsui Building 12/20/1945, Box#573, Record Group 111-SC, National Archives at College Park, MD

 

左下の銀行倶楽部は、GHQ下のAmerican Red Cross Clubに割り当てられていました。右下の服部ビルディング(銀座和光)は、進駐軍向けの売店となっていました。

 


Left: Photograph No.291025 Bankers Club 12/18/1945, Box#574, Record Group 111-SC, National Archives at College Park, MD

Right: Photograph No.291017 The Hattori Building 12/19/1945, Box#573, Record Group 111-SC, National Archives at College Park, MD 

 

現在は愛知県の博物館明治村に移築されたフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルも兵士用宿舎として接収されていました。

 

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U.S Military’s Uniforms ~ユニフォームが出来上がるまで~

世界中のあらゆる分野で使用されている制服には色々な意味が込められています。例えば会社で使用する制服は、その会社やお店のコンセプトに合ったスタイルを選んだり、ロゴを刺繍したりします。学生服であればその学校の象徴であるカラーを取り入れる学校も多くあるかと思います。制服を着用するという事は、学校でも会社でもその組織に所属しているという事が一目瞭然で外部の人達に分かるという意味でとても大切であり、特に小さい頃から制服を着用する習慣のある日本人にはとてもなじみのあるものなのではないでしょうか。

 

制服といえば軍服もその一種で、アメリカ軍は大きく分けて4つのブランチ(Army, Navy, Air Force, Marine Corps)に別れており、各ブランチ事に着用されている軍服は異なります。彼らが着用する軍服とは正装服だけではなく、カモフラージュ柄の迷彩服やトレーニング時に着用するものなどいくつかのものを様々な状況に応じて使い分けています。軍服に関連するブログを書きたいと思い、アメリカ軍のユニフォーム事情についてナショナルアーカイブスでいくつかの資料を閲覧しました。今回Armyの軍服が出来上がるまでの過程が分かる資料が出てきましたので紹介したいと思います。

 

「Army Field Forces」は主に各地のキャンプ地の気候やその地の特性に合わせて制服を定めていく任務を担っている部署です。彼らが認定するのは単に制服だけに限っておらずヘルメット、ブーツや手袋などもEquipmentとして丹念に認定していきます。彼らが最終的に制服を認定するまでには、5段階のテストと会議が重ねられて慎重に制服の選定・認定を行っていきます。寒い気候の地や雪が多い地で着用するものには兵士が外で凍えて任務を正確に果たせないような事が起こらないように、またジャングル地帯や暑い気候の地域で任務を行う兵士たちには、彼らが暑さでバテテしまう事がないようになど、色々な想定を考えた上で1段階目のテスト「Early Test」を始めます。このテストを行うのは特定の部隊ではなく、テストの気候条件に合ったCamp地の部隊に「Army Field Forces

からランダムに申請され行われます。ここで着用した制服に問題がないという結果であっても二段階目の「Service Test」が行われた上で「Final Report」が作成されます。

 


Service Test of Covers, Helmet, Camouflage OFFICE, CHIEF OF ARMY FIELD FORCES, Adjutant General’s Section, Communications & Records Div. Decimal File 1954, RG 337 Entry NM5 56 Box 829; National Archives at College Park 上の2枚

 

ファイナルリポートという名称だけを聞くとこれが最終段階と思ってしまうのですが、このファイナルリポートを元に次の段階の「Check Test

が行われ、そこで問題なく全てのチェックリストをクリアできれば「Army Final Approval」という名称の正式な文書が作成され、その地にあった制服が認定されるという流れです。

 

Army Field Forces Board Nr 3, Report of Project Nr 2630, Check Test of Intermediate Layer (Cold-Dry Uniform)(DA Project7-79-02-007) [2 of 3], OFFICE, CHIEF OF ARMY FIELD FORCES, Adjutant General’s Section, Communications & Records Div. Decimal File 1954, RG 337 Entry NM5 56 Box 829; National Archives at College Park 

 

トレーニング時に着用する制服の選定・認定は最も慎重に行われるという事です。

 

一つの制服が認定されるまでには、着用する兵士一人ひとりが安心して任務を行なえる事を考えながら、いくつもの過程を経て正式な制服として認定される事を知りました。

また、メインの軍服には各ブランチによって色々なコンセプトが盛り込まれ、「軍服」といった花形のような印象もありますが、今回紹介した資料に出てくるような細かい部分にまで気を使う部署があるという事を知れたのはとても良い機会であり、改めて資料の貴重さを思い知らされました。(MJ)

戦後の消防

米国公文書館Ⅱカレッジパークの2階に保管されている文書の中に米国戦略爆撃調査団(The United States Strategic Bombing Survey)関係文書があります。

 

この米国戦略爆撃調査団というのはウィキィぺディアによるとヨーロッパ戦線における戦略爆撃の効果や影響について調査、分析し軍事力設備に役立てる事を目的とした陸海軍合同機関とあります。1945年8月の日本の降伏後には太平洋戦域での調査が追加され1945年9月から12月にわたり長崎、広島、東京、大阪、神戸などで調査が実施されたようです。長崎と広島で原爆投下後に実施された現地調査を元に書かれた報告書はご存知の方も多いのではないかと思います。

 

今回は東京地区のField Report Covering Air Raid Protection and Allied Subjects, Tokyo Japan(東京地区の空襲保護と連合軍科目を対象とした現地報告書)の中の消防活動について幾つか紹介したいと思います。

 

RG243 (Records of the U.S. Strategic Bombing Survey 1928-1947) Box93 National Archives at College Park, College Park, MD

 

この報告書によれば日本の消防の歴史としては、1640年頃に武家火消と呼ばれる大小250の組が江戸の町の消火活動を幕府-奉行所の下行っていた事が始まりとあります。約178年間続く民間の私設消防組は1918年に始めて東京、大阪、京都、名古屋、横浜、神戸に政府下、消防団として設立されたそうです。

東京地区の消防署は1945年3月10日の東京大空襲以前は12地区に44管轄区域、287出張所あったようですが、100以上の出張所が3月10日と5月25日の空襲による火事で焼けてしまったと書かれてあります。

 

右下の写真は当時の消防隊の様子です。右上の写真ははしご車です。当時、東京にはしご車は3台しかなかったそうです。(1台はドイツ製2台は日本製)

 

RG 243 (Record of the U.S. Strategic Bombing Survey 1928-1947) Box 130 National Archives at College Park, College Park, MD

 

下の写真は木製の手動式消火ポンプで4人用と書かれています。このポンプに約3メートルと約19メートルのホースを繋いで使用、放水は15メートル程だそうです。

 

RG243 (Records of the U.S. Strategic Bombing Survey 1928-1947) Box93 National Archives at College Park, College Park, MD

 

次の写真はガソリンエンジンの手動式消火ポンプです。毎分454リットルの放水可能、ノズルが2つあり約3メートルと19メートルのホースを繋ぎ放水できるタイプで、このポンプは使用に4人から8人必要と書かれています。

 

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米国公文書館で見つけた3D立体写真

米国公文書館所蔵のテキスト資料の中には、色々な形態の参考資料が含まれていることがあります。写真や地図資料はよくあるのですが、「米国戦略爆撃調査団」資料の中に3D写真(立体写真)とそれを見る3D用のメガネが含まれていました。

とても珍しいことです。

 

 

こんな感じです。

 

 

これは何の写真かというと雲龍型航空母艦の「天城」です。破損の状態を3D写真で記録しています。

 

メガネをかけて見るとこのように見えます。

 

Evaluation of Photographic Intelligence in the Japanese Homeland Part Six Shipping, 103[2 of 3], 101 to 104 Pacific Survey, Published Reports of the European and Pacific Surveys 1945-47, Office of the Chairman, Records of the U.S. Strategic Bombing Survey, RG 243 Entry I-10 2 Box 133; National Archives at College Park MD 上の4枚全て。

 

上手に撮影できませんでしたが、肉眼でメガネを使って見た時は立体感がもっとはっきりしています。

今でこそ3Dは映画やゲーム機など日常生活で接する機会が多いのですが、この冊子は1946年6月付のもので、3Dがそんな時からあったことに驚きました。

 

3Dのアイデアというのは古くからあったようですが、1840年頃にイギリスの物理学者であるチャールズ・ホイーストン(Charles Wheatstone)がステレオスコープという立体感を生じさせる装置を作りました。その後万華鏡を発明したディビッド・ブリュースター(David Brewster)が1849年にステレオスコープの実用化に成功しました。 それは双眼鏡のような形をしていましたが、1851年のロンドン万国博覧会で公開され当時のヴィクトリア女王が大変興味を示されました。

 

今の3Dメガネの原型となっている赤青メガネ(アナグラフィック)を使っての3Dはドイツ人のウィルヘルム・ロールマン(Wilhelm Rollman)によって考えられました。1858年にはフランス人のジョセフ・ドール・アルメイダ(Joseph d’Almeida)が観客に赤青メガネをかけさせて幻灯機でスライドを見せる実験をしたのが最初の赤青メガネの使用とされるようです。1889年にイギリス人の写真家であるウィリアム・フリーゼ-グリーン(William Friese-Greene)が3Dアナグラフィック映画を作りました。それから1920年代くらいまでは3D映画は人気があったようです。3Dという言葉は当時はなくて1950年代に作られたもののようです。

 

日本では江戸時代末期に立体写真が伝わってきたようです。写真家/洋画家の横山松三郎が国内で初めて立体写真を撮り始めたのが1869年です。薩摩藩の最後の藩主、島津忠義は写真好きでかなりの数の立体写真を撮りました。その作品の一部は鹿児島市にある尚古集成館に所蔵されています。徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜は多趣味かつ新しいものが好きで写真撮影がその趣味の一つで立体写真も多く撮影したようです。

3D写真が西洋とさほど時期も変わらずに日本にも入ってきていたようで意外でした。江戸末期は時間の流れが速く、新しいうねりをこういうことからも感じます。

また、文学者の正岡子規は病床についていた時、ステレオスコープを入手して立体写真をたくさん見ていたそうです。

 

現在、3Dの画像や映像は軍事では不可欠なものとなっています。この資料はその先駆けだったのでしょうか? 今まで3Dのことは何も知らなかったのですが、この機会に色々調べることができて知識の幅が広がったような気がします。(M.U.)

 

※参考にしたサイト:

■3D写真は幕末からあった

http://www.asahi.com/kansaisq/kaihou/no130/kaiin/

■3D Photography-The Ultimate History Project

http://www.ultimatehistoryproject.com/3d-photography.html

■The History of Stereo Photography

http://www.arts.rpi.edu/~ruiz/stereo_history/text/historystereog.html

■Anaglyph 3D

https://en.wikipedia.org/wiki/Anaglyph_3D

 

1920年代の米国は日本をどのようにみていたのか

今年は1776年のアメリカ合衆国(以下米国)建国から240年目にあたります。米国と日本との関わりを考えれば、1853年のペリー来航以前にも例えば1837年のモリソン号事件を含め、両国の接触はいろいろありましたが、正式には 日米の外交の始まりは、1854年に締結された日米和親条約までさかのぼります。その後は1858年の日米修好通商条約締結、その条約の批准のための1860年(万延元年)の遣米使節がありました。

 

その後、近代化を迎えた日本は米国とはどのような関係を保ち、またどのような形でそれが崩れて太平洋戦争に突入してしまったのでしょうか。また当時の米国は、日本をどのようにみていたのでしょうか。こうした質問に答えるための資料も米国公文書館には膨大にあります。

 

今回は、1920年代の国務省の資料及びその他の関連資料をご紹介したいと思います。1910年から1929年の国務省の資料の中に、非常に興味深い資料がありました。1921年9月21日付けの冊子で、Paul Page Whitham とCapt. W. I. Eisler という2人の人物によって書かれた、 ”American Commercial Interests and the Pacific Conference” というものでした。この資料にはこれらの人物の詳細はまったく書かれていませんでしたが、Paul Page Whithamという人物は、1918年に“US Department of Commerce Bureau of Foreign and Domestic Commerce Preliminary Report on Shanghai Port Development “(Preliminary Report on Shanghai Port Development / by Paul Page Whitham from Hathi Trust Digital Library: http://catalog.hathitrust.org/Record/002707044)というレポートを書いていたことがわかりました。その時の肩書は、顧問技師兼貿易官(Consulting Engineer Trade Commissioner)となっており、米国の商業省の役人で上海にいたことがわかりました。おそらくもう一人のCapt. W. I. Eislerは米海軍の幹部であり、彼もまた上海にいた人物であったかと思われます。

 


RG59 (General Records of the Department of State Central Decimal File 1910-1929), Box 5246, National Archives at College Park, College Park, MD. 

 

この二人が記した冊子は、1921年の9月とあるので、その年の11月から翌1922年の2月までワシントンDCで行われたワシントン会議に米国が臨むにあたっての準備資料となったようです。この資料の最初のページには、太平洋地域の地図を表現した地図の写真とその下に“The Pacific Ocean, Important today is The Sea of Tomorrow, the scene of the great political and commercial events of the near future.”といった1文が添えられています。そのあとに太平洋が米国にとっていかに大事なものであるかを述べた前文があり、非常に簡略化されたアジアの歴史(大きな誤解を含んだ歴史観が根底にあるようでした。)に触れてあり、そのあとは太平洋におけるアメリカ、イギリス、日本、中国の各国の方針について、また、ワシントン会議における問題についてなど書かれており、また中国、日本、フィリピンなどアジア各地の港や都市の様子の写真も張り付けられていました。これらの中の、太平洋における日本の方針と傾向という部分では、以下のような文章がありました。

 


 In order to get at Japan’s real policies, it is necessary to dig in under the superficial cover laid by diplomatic statements and assurances made to Western peoples. Not that such statements are always insincerely made, but the acts do not in many cases square with the words. The actual performance and real policies are dictated by the military and clan leaders who are the hidden hand of power behind the diplomatic and other civil officials. 

 

 Japan’s policy is the economic control of the vast North eastern portion of the continent of Asia, an area twice the size of the United States and populated with something over 500,000,000 people. In order to make certain of and protect the economic domination, political and military control is considered necessary, that is to “safeguard Japan’s vital special interests.” 


「日本の真の方針を理解するには、西洋諸国に対する、表面的な日本の外交的な声明や保証といった形で見られるものの奥にあるものをきちんと見据えなくてはいけない。もちろん、そうした日本の外交上の声明や保証がすべて誠意にかけるというわけではないが、その行動そものは、その言葉が意味する範囲にとどまらない場合が多い。日本の実際の行動や方針というものは、外交官やそのほかの民間人の背後に控えている軍部及び関係派閥によって命令されている。日本の方針は、米国の2倍の面積に相当するような、また人口5億にも及ぶという、アジア大陸の広大な北東部を経済的に統制するというものである。この目的を果たすためには、日本は政治的かつ軍事的統制が必要であると考えられ、それが、”safeguard Japan’s vital Special interests” (日本にとって生命に関わる特別な権益を守る)ということになるのである。」


 

日本側の言葉というものは額面通りに受け取ってはいけないといった事を書いており、そうしたこと自体がすでに外交上でも双方が心理戦を展開しているのだと思いました。また、この文章を読んで、思わず、そのあとの時代の1931年の1月に日本国内の議会で当時の代議士であった松岡洋右が「満蒙問題は日本の生命線である」(満蒙とは中国東北部の満州と内モンゴルの東部を指す。)と発言し、その発言は世間に広まり、同年9月の満州事変とその後の拡大においても積極的に使われたスローガンを思い出してしまいました。

 

上記の冊子で主張された米国の太平洋における方針は、下記の資料にも見られるように、ワシントン会議の直前の1921年10月31日でもあらためて米国として確認をされており、政府各関係機関においても協力すること、また米陸海軍においてもそれに基づいて戦争計画も立てるようにといった事が書かれていました。

 

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江戸幕末資料

1853年、浦賀沖に日本への開国を求めるアメリカ大統領の国書とともにペリーが来航し、翌年日米和親条約が結ばれます。そして、ハリスが下田にアメリカ総領事として着任し、日米修好通商条約が結ばれることになります。江戸幕末期は外交的にも国内政治、そして日本経済も他国の影響を受け、激しく変化をした時代だったのではないかと思います。今回は米国公文書館のオンラインで見ることができる、そんな江戸幕末期の外交資料をご紹介したいと思います。

 

Letter from Shogun Tokugawa Iyemochi; General Records of the Department of State, 1763 – 2002, Record Group 59; National Archives at College Park at College Park, MD[online version available through the National Archives Catalog (National Archives Catalog identifier 6883722) at www.archives.gov; Jan 5, 2016]

 

上の資料は安政7年(1860年)、14代将軍である徳川家茂の親書です。文章の最後に源家茂とあり朱印も押されてあります。最初無地の紙をイメージしていたのですが、実際画像を見てみると、大変きれいな柄のある紙で日本らしさを感じました。

 

他にも家茂がアメリカ大統領にあてた書簡があります。下の資料ですが文久元年(1861年)のもので、江戸・大阪の開市と兵庫・新潟の開港の延期に関する内容が書かれてあります。こちらもきれいな紙を使用しており、このような書簡は木箱に入れられ届けられていたようで、その木箱もあります。オランダ語で書かれた翻訳も見ることができます。

 


Letter from Minamoto Semotsi to the President of the United States; General Records of the Department of State, 1763 – 2002, Record Group 59; National Archives at College Park at College Park, MD[online version available through the National Archives Catalog (National Archives Catalog identifier 6883703) at www.archives.gov; Jan 5, 2016]

 

文久元年の家茂の親書にも老中久世大和守と安藤對馬守の名前が出てきますが、その親書と同じ日付で老中久世大和守と安藤對馬守がアメリカ合衆国外国事務大臣に宛てた書簡もあります。

 

Letter from Kuse and Ando, Ministers of Foreign Affairs of the Shogunate to the Secretary of State; General Records of the Department of State, 1763 – 2002, Record Group 59; National Archives at College Park at College Park, MD[online version available through the National Archives Catalog (National Archives Catalog identifier 6883709) at www.archives.gov; Jan 5, 2016]

 

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日本の戦争画家-藤田嗣治

米国国立公文書館には数多くの写真資料が所蔵されています。写真資料からは、戦争当時の様子など現在の私たちでは想像しきれないような事実を感じることができます。これらの写真は、従軍した兵士が撮影したものが多く、彼らはいわゆる「戦場カメラマン」です。日本では今もなお、数少ない戦争体験者の方々の協力により、当時戦地で撮影した貴重な写真を集めた展示などが各地で催されていて、戦争を知らない世代へ平和の大切さを訴え続けています。


ふと「戦場画家」は当時どういう存在だったのだろう、と気になりました。日本の戦争画は日中戦争以後多くの画家により盛んに描かれたそうです。日本軍は陸軍美術協会と呼ばれる組織を設立し、美術を通して戦争を正当化しようとしました。また描かれた作品は戦時中も積極的に公開展示され、多くの国民に「戦争は正しい」と植え付けるプロパガンダ的な役割もあったようです。


米国国立公文書館にも「Collection of Japanese War Paintings」の資料があるとのことで早速閲覧してみることにしました。


大型ボックスに所蔵されているこの資料は一つの大きな冊子になっていて、作品を撮影した写真が一枚一枚丁寧につづられていました。作品は1937年~1945年に描かれたもので、この一冊には約40人もの日本人画家が描いた戦争画約150点が収められていました。


筆者撮影


すべての作品はとても絵画とは思えないほど描写が細かくまるで写真のようです。写真は事実をそのままを映し出し、戦争の生々しさが伝わりますが、こうした戦争画は画家の目を通して見る戦争なので、彼らの「想い」が込められているように感じます。

こうした戦争画は、初期のころは画家が陸海軍からの委嘱を受け、実際に戦地へ出向き描いていたようですが、戦況が激しくなる1943以降は、兵士への取材やヨーロッパ絵画の戦争表現の資料などをもとに想像で描かれる作品が増えたようです。


Photograph No.FEC-47-80871 Catalog #78, Record of Allied Operational and Occupation Headquarters, World War Ⅱ, Civilian Air-Raid Defense (Area, Tokyo) by SUSUKI Makoto, Record Group 331-JWP; National Archives at College Park, College Park, MD


Photograph No.FEC-47-80920 Catalog #127, Record of Allied Operational and Occupation Headquarters, World War Ⅱ, Departure of Special Air-Attack Corps, KAMIKAZE, From Base on Home Island(Area: TACHIKAWA Air Field) by IWATA Sentaro, Record Group 331-JWP; National Archives at College Park, College Park, MD


この冊子の中に日本の戦争画の代表的な画家である、藤田嗣治の作品も多く収められていました。藤田嗣治はパリで絵を学び、その後日本に帰国し従軍画家として活動した人物です。私は絵のことは詳しく分かりませんが、素人の私が見ても彼の作品は時が止まったように見入ってしまいました。画面全体の迫力から、戦場の凄まじさが伝わります。兵士一人ひさとりの表情からは、今から死ぬという覚悟のうらに混乱や悔しさといった思いも感じられます。

 

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日本のお祭り

日本人にとって祭りとは、なくてはならない伝統行事の一つと言えるのではないでしょうか。人や土地との繋がりが希薄になった現代において、祭りに参加しその土地や人と触れ合うことは、絆を深め、日本人が大切にしてきた文化を理解する事にもつながります。


お祭りと聞いてまず私が思い浮かべるのは、神輿を担ぎ町内を練り歩く姿ですが、各地域や季節よってまったく異なるものの様です。春は豊作を願うお祭り、夏は疫病退散を目的とした祭り、秋は無事に収穫できた事を神に感謝する祭りなどもあるそうです。それぞれに違うお祭りだからこそ、土地ならではの特徴があり、季節情緒があふれているのかもしれません。 


ここ米国公文書館の5階では、日本の伝統文化や伝統行事を撮影した写真が所蔵されています。その中にお祭りの写真もありますので何点か紹介させて頂きます。       


下の写真は、戦後まもない1946年9月15日に撮影された東京の向島にある牛嶋神社のお祭りの様子です。牛嶋神社の祭礼は町内を安泰祈願巡行する神輿が3箇所に分かれて集まり、牛嶋神社に向かって渡御します。境内には自分の体の悪い部分と同じ場所を撫でると、病気が治ると言われている「撫牛」があり、神社にしては珍しい狛牛もあるそうです。

Photograph No.SC-216887 Religion-Shrine 9/15/1946 Record Group111: National Archives at College Park, MD


Photograph No. SC-216888 Religion-Shrine 9/15/1946 Record Group111: National Archives at College Park, MD


次の写真は、東京、浅草の三社祭りの様子です。三社祭りは三社の神話に基づき船祭が始められたのが始まりといわれているようです。浅草寺で祭礼を行い、お払いを受けたあと各町内会を練り歩く神輿渡御は、現在では150万人もの人手で賑わうそうですが、終戦してまだ3年も経っていない1948年5月の写真からは現在のお祭りの規模は想像できませんが、地元の人と子供達の熱気に溢れた、楽しい様子が伝わってきます。

Photograph No.SC-300231 Kanda Asakusa Shrine Festival 5/17/1948 Record Group111: National Archives at College Park, MD


Photograph No.SC-300232 Kanda Asakusa Shrine Festival 5/17/1948 Record Group111: National Archives at College Park, MD


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東京兵器補給廠 (Tokyo Ordnance Depot) について

私は埼玉県で育ちましたが、生まれはもともと東京都北区の十条というところでした。ある調査で、たまたま、戦後の十条にあった米軍の東京兵器補給廠に関わる資料が出てきたこともありましたので、ちょっとこの東京兵器補給廠について調べてみたくなりました。

 

東京都北部の北区の赤羽、十条、王子と板橋区の板橋といった地域には、もともと明治期から東京砲兵工廠と関連工場が置かれ、兵器や弾薬の製造から管理までを行なっていた歴史がありました。のちに東京造兵廠と呼ばれ、これらの地域には東京第一陸軍造兵廠と東京第二東京第一陸軍造兵廠というものがありました。戦後はこれらの地域を占領軍となった米軍が接収し、東京兵器補給廠 (Tokyo Ordnance Depot)として米軍が使用することになりました。

 

それらの地域の一部は、日本に返還され、1950年末に自衛隊の十条駐屯地となりましたが、のこりの土地は引き続き米軍によって使用され、ようやく日本に返還されたのは1971年のことでした。現在では、自衛隊十条駐屯地の他の土地は、様々な小学校や中学校、大学や公園などになっているかと思います。

 

東京都北区の観光サイトには、自衛隊十条駐屯地の情報(http://www.kanko.city.kita.tokyo.jp/data/a/15.html )があり、また東京都板橋区文化財情報には、東京第二陸軍造兵廠板橋工場の遺構と近代化遺産」(http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/068/068434.html )があり、とても参考になります。

 

さて、以下米国公文書館の資料をいくつかご紹介したいと思います。まず、戦後において、米軍が旧日本軍の東京第一陸軍造兵廠の尾久や十条の工場、東京第二陸軍造兵廠の王子や板橋工場を接収したことに関する情報があります。




RG 331 Entry UD1616 Box 4277 Records of Allied Operational and Occupation Headquarters, World War II, 1907 – 1966, National Archives at College Park, College Park, MD



こうした地域を接収後、米軍は東京兵器補給廠 (Tokyo Ordnance Depot)を発足させました。以下の資料は東京兵器補給廠に関する報告書の1部ですが、そこでは民間人も含めて合計11,537名が働いていたとあります。

 


RG 338 Entry UD 37042  Box 5193 Records of U.S. Army Operational, Tactical, and Support Organizations (World War II and Thereafter), 1917 - 1999 , National Archives at College Park, College Park, MD


こうした報告書とともに、トレーニング書類として以下のようなものもありました。英文の下に丁寧に日本語訳が書かれています。つまり、この東京兵器補給廠では日本人が働いていたということを意味します。



RG 338 Entry UD 37042  Box 5193 Records of U.S. Army Operational, Tactical, and Support Organizations (World War II and Thereafter), 1917 - 1999 , National Archives at College Park, College Park, MD


この東京兵器補給廠に関する写真資料も米国公文書館にはたくさんあります。以下の写真は、そこで働く日本人労働者、敷地内にある戦車や旧日本軍のライフルをあらためて米軍が再利用しようとしているものなどです。



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米国公文書館にある音声資料

米国公文書館には、テキスト資料、写真、映像、地図、マイクロフィルムといった形態の資料の他に音声資料もあります。カセット、CD、テープの3種類があります。

カセットやCDは馴染みがありますが、Audio Reelsというカセットテープ出現以前のテープはご存じない方も多いと思います。

これがAudio Reelsというテープです。


筆者撮影


このテープを聴くにはこういった器具を利用します。


筆者撮影


公文書館に所蔵されている音声テープの中には日本語の音声テープがあります。(RG243)それらは1945年11月中旬から12月の終わりにかけて、米軍が行った日本国民に対するインタビュー調査のテープです。

何本かのテープを聴いてみると、この調査の趣旨が話されているものがありました。「米軍を代理して今、日本国民の戦時中の生活状態について色々訊きたいことがある。感じたことや思ったこと、将来どういう変化が必要かということが訊きたい。答えてもらったものは英語に訳して司令部に送られ、米国にも送られそこで検討され、今後の進駐軍司令部のやり方に反映される。」とのことです。

各地でインタビュー調査がされていますが、特別に特定の人を選んでいる訳ではなくくじ引きで選んでいるので、年齢・性別・職業には関係ないとのことです。


質問は何種類かありそうですが、同じ日に同じ場所で同じ質問に答えているテープを見つけました。1945年11月18日に大阪で録音されたもので、1つは中年の主婦の方が答えており(Sound Recording 243-58, Reel 1-2; Interview of Female house wife, middle aged by Mayer in Osaka, Nov. 18 1945; Records of National Archives and Records Administration, Record Group 243; National Archives at Collage Park, Collage Park MD)、もう1つは中年の男性が答えています(243-59, Reel 1-3; Interview of Male average by Aoki in Osaka, Nov. 18 1945; Records of National Archives and Records Administration, Record Group 243; National Archives at Collage Park, Collage Park MD )。 

女性は中学校をちょうど卒業した息子がいて、ご主人は10年間ずっと病気で働けず、この方が主に家庭と家計を支えていたようです。男性は40代前後で現在無職。奥さんと6才の娘がいるとのことで、元々は鋳物工でした。


このインタビューの内容を少しご紹介したいと思います。


(質問)色々な点について生活状態はどうですか?

(女性)食糧不足がこたえる。食糧を増やして欲しい。 職業もなく、みな失業状態。学校を卒業しても仕事がなく、自分の子供も中学校を卒業したがどう導いてやっていいのか不安。友達も同じ悩みを抱えている。

(男性)食べ物の不足。仕事がない。


(質問)全てにおいて戦時中より今の方が良いと思いますか、悪いと思いますか?

(女性)今の方が良いと思う。

(男性)今の方がいい。


(質問)どういう点において良いと思いますか?

(女性)平和という点で色々遅れているので、こうなった方が私たちも幸せであると思う

(男性)戦時中工場に勤めていた時は体が悪くても休めず、窮屈な生活をしていた。食料も今より少なかった。空襲警報で神経をとがらせていたのは今はない。


(質問)戦争が終わりましたが今後2-3年は家族も含めどういう生活をされると思いますか?

(女性)困難なものとなるだろう。食糧不足のため。夫と両親、子供の職業、冬からの生活が一体どうなるだろうかというのが一番の心配。

(男性)これから苦しい生活をするであろう。食糧が欠乏してくるし。食糧さえあれば心配はないけれども。 


(質問)これから先、日本はどんな風に変わらないといけないと思われますか?

(女性)進駐軍の指導の下、平和になっていけたらいいと思う。

(男性)今まで暗いいじけた生活をしていたので、ほがらかな生活にならないといけない。やはり空腹をなくして仕事を得ると気分も明るくなる。


(質問)進駐軍司令部が取っている方針についてどう思われますか?

(女性)特にないです。

(男性)とても良いと思います。喜んでいます。電車に乗る時も子供や年寄りを先に乗せニコニコ笑っている進駐軍の人を見るとあちらの行いは正しいと思った。 今まで上の者にだまされてきたのがはっきりと分かった、そして進駐軍を尊敬するようになった。ただ、食糧事情が良くなれば。


(質問)戦時中お互いのふるまいや態度が変わりましたか?

(女性)変わっていない。

(男性)変わった。食べ物のこともあり自分のことで精いっぱいで人間関係がぎすぎすしてしまった。人のことまで構ってられない。思想が悪く、電車の中でも喧嘩が多かった。田舎の人が不親切になり都会人の方がお互い気が合い親切。


以上はごく一部ですが、食糧難と職業難が深刻であったことが伺えます。男性の答えから戦時中の一般庶民の生活や精神状態はかなり虐げられたものだと察することができます。

この女性は仕事でも家庭でも大変忙しかったようで、「働くばかりで考えたことがない。」「朝6時30分から残業9時までなので新聞を読む時間がなかった。」と他の質問を聞かれた時に答えています。これも当時の庶民の一つの姿でしょう。一般の人の何気ない言葉からも当時のことを色々と考えることができます。

戦後70年ですが、70年前の人たちの生の声を日本国外で聴けるというのは興味深いです。

(MU)


ワシントンDCでの原爆展 

戦後70周年を迎え、各地で戦争に関するイベントが開催されていることと思います。私たちが住んでいるアメリカの首都ワシントンDCでも、6月13日から8月16日までアメリカン大学美術館でヒロシマ・ナガサキ原爆展と原爆の図の展示会が開催されています。

 

http://www.american.edu/cas/museum/gallery/2015/hiroshima-nagasaki.cfm


アメリカン大学では20年前の1995年にも原爆展が開催されたことがあります。

 

ワシントンDCにはスミソニアン博物館という毎年多くの観光客も訪れる場所があります。1995年にそのスミソニアン博物館の一つである航空宇宙博物館で原爆展が予定されていたのですが、退役軍人たちの反対にあい、キャンセルとなった経緯があったようです。


原爆展でいただいたパンフレットと冊子


アメリカン大学美術館での展示会初日には、オープニングセレモニーが開かれ広島と長崎の生存者の方からの証言や写真の解説などのお話を聞くことができました。お二人の核兵器をなくしたいという思いは心に強く響き、遠く離れたここアメリカでこのような機会を持つことができ、とても貴重な経験をすることができました。

 

ヒロシマ・ナガサキ原爆展では、ロザリオ、瓦、溶けたガラス瓶、水筒、学生服などの展示や被爆直後の様子などのパネル写真があり人体に与えた影響など原爆がもたらした被害を改めて知ることができました。また、核兵器の現状や核兵器廃絶に向けての動きを知ることができ勉強になりました。

 

丸木依里・俊ご夫妻の「原爆の図」は火、幽霊などの6点が展示されていました。私はこれらの絵を見るのは初めてでした。かなり大きな絵で、原爆の悲惨さ、原爆直後の様子を描いており、人の命というものを訴えかけられているような気がしました。


展示会場には広島の子供たちの絵や書がありました。最初は最近の作品なのだろうと思ってみていましたが、よく見ると習字の作品は国という字が旧字体で書かれています。これらは1947年にオール・ソウルズ・ユニテリアン教会から広島の被爆地の学校などに学用品の援助があり、そのお礼として小学校の生徒たちが教会に送った作品です。48点の作品のうち24点が展示されていました。1947年と言えば被爆から2年後ですが、運動会やこいのぼりなどの絵が色鮮やに描かれていて、子供たちに希望と明かるさを感じ、そして、これらの作品のストーリーを知り心がとても温かくなりました。


以前、アメリカ人の原爆に対する認識の違いに驚いたことがあります。周りの人たちと話をしたときに、広島や長崎に原爆が落とされたことは知っていても、原爆の被害については知らない人が多いのではないかと感じました。このような展示会がアメリカで開催されたことはとても意義があると思いますし、原爆がもたらす被害について知ることは、核兵器廃絶への理解を深めるために大切なことだと思います。核の恐怖におびえない平和な世の中になることを切に願います。(NM)


Japanese American – Nisei Girl’s の太平洋戦争New blog post

アメリカに住んで13年、ここアメリカで生まれ育った日系人の方々はどの様に生き抜いてきたのかと思うことがあります。


日系アメリカ人二世と言えば、戦前、戦中、戦後と日米の架け橋となって戦後の日本再建に尽力された事は言うまでもありません。特に多くの犠牲を払って功績を遺したアメリカ陸軍442部隊を始めとした男性部隊の活躍は目覚ましいものでした。


皆さんは、時を同じくしてアメリカ陸軍婦人部隊(Women’s Army Corps以下WAC)に日系人の女性達がいたことをご存知でしょうか。今回は、太平洋戦争さなかアメリカ陸軍婦人部隊へ入隊した女性達、またアメリカ社会で貢献した女性達、強制収容所で生活しながらも多方面に渡って日系人を支えていた、日系人の女性達をテーマにごく一部ですがご紹介したいと思います。


こちらは、1942年のインテリジェンスの調査です。下記の様に枢軸国のドイツ人やイタリヤ人よりももっと高い水準で日本人が危険視されていることが分かります。この様な環境下でアメリカに住むことは大変だったことでしょう。


RG No.107 Entry A1-180 Box No.6 (Office of the Secretary of War) ASST. SEC. of War Formerly-Security Classified Correspondence of John J. McCloy, 1941-45 (014.1-014.311) National Archives at College Park, College Park, MD

日系アメリカ人女性によるアメリカ陸軍婦人部隊 (WAC)への志願者は第二次世界大戦中、及び戦後を通して、300人以上が参加したと言われています。


こちらの資料は、米国陸軍戦争省のもので、1943年7月28日の日系アメリカ人女性のアメリカ陸軍婦人部隊(WAC)の入隊に関しての資料です。入隊規定や、500人までの入隊が制限され各司令部に配属される事が記載されています。



RG 107 Entry A1-183 Box No.17 (Office of the Secretary of War)   ASST. SEC. of War General Correspondence of John J. McCloy 1941-45 (021-031.1) National Archives at College Park, College Park, MD


こちらの写真は、アメリカ陸軍の検閲指揮官より講習を受けている日系人二世の女性達の様子です。彼女達13名はハワイから来日しています。米軍の制服に身を包み、知的な眼差しと凛とした姿が印象的です。



Left: Photograph No.221146 Japanese-American Girls Arrive in Tokyo for Duty (12/7/1945) RG 111-SC National Archives at College Park, College Park, MD

Right: PhotographRG111-SC No.221267 Four Japanese-American Girls Shown at Work, at Gen. HDQS. (12/7/1945) RG 111-SC National Archives at College Park, College Park, MD


左下の写真は、アイオワ州デモインの会社でオペレーターと速記者として働いている女性達です。彼女たちは以前、マンザナー収容所に居ました。雇用者及び他の従業員達が快く彼女達を受入れてくれたことが記載されています。この時期のアメリカに住む日系人は敬遠されていたばかりでは無い事が解ります。


右下の写真は、オハイオ州シンシナティの託児所の様子です。彼女の専門的な知識ときめ細やかさが地域内で高く評価され、日系アメリカ人としての存在が認識されたとしています。


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部隊公式マスコットに起用されたディズニーキャラクター

ワシントンDCエリアには多くの博物館や記念館があり、歴史を学ぶには最高の場所だと思います。先日休日を利用してバージニア州のアーリントン国立墓地に行ってきました。アーリントン国立墓地は1864年南北戦争の戦没者のための墓地として築かれ、その後第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争等の戦没者が埋葬されています。

墓地敷地内にWomen In Military Service For American Memorialという記念館があり、ここでは軍で働いた女性兵士達の歴史を学ぶことができます。


Women Air Force Service Pilots(以下WASP)も第二次世界大戦中に軍で働いた女性パイロットの準軍事組織でした。

2万5千人以上の志願者のうち、パイロットの資格を持ち飛行経験のある女性約1千人のみが入隊を認められたそうです。

次の写真にはWASPの4人の女性パイロットが映っています。

Photograph No.4A-5344, Rec’d 28 Sept. 1944 from HQs., Army Air Force Eastern Flying Training Command, Maxwell Field, Alabama, Record Group 342-FH; National Archives at College Park, College Park, MD


WASP展示物の中にWASPの公式マスコットFifinellaのポスターを見つけました。

Wasp on the Web; http://wingsacrossamerica.us/wasp/fifi.htm

興味深いのは、マスコットの横にWalt Disneyのコピーライトが記載されていたことです。マスコットFifinellaはもともとThe Gremlinsというアニメ用にディズニー社によって描かれたキャラクターでしたが、WASPが編制された際ディズニー社にWASPの公式マスコットとして使用できるよう許可を得たという逸話があります。


下の写真はテキサス州にあるAvenger Field, Central Flying Training Commandのゲートです。ゲート上にはFifinellaが掲げられています。

Photograph No.4A-5348, 4x5 neg rec’d 16 Mar. 1945 from HQs. Central Flying Training Command, Randolph Field, Record Group 342-FH; National Archives at College Park, College Park, MD


こちらの3人の女性パイロットはAFF Training Command’s WASP schoolの同級生で、 WASPの任務解除に際しFifinellaのペイントされたAircraftの前で別れを惜しんでいる様子です。

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戦後の引揚~シベリア抑留者の帰還

今年は終戦70年の節目の年になります。


戦後まもなく外国に残された日本人は軍人が353万人、一般人が約300万人の合計約660万人いたと言われています。シベリア抑留とは、第二次世界大戦でソ連軍が侵攻、占領した満州で、終戦後に投降した、もしくはソ連軍に捕らえられた、民間人を含む57万5千人の日本人がシベリアやソ連各地に送られて、過酷な強制労働を強いられた長い抑留生活の事で、5万人以上が命を落としたと言われてきました。しかし、近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州・北鮮・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がおり、その内、約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられ、研究書によっては、死亡者は25万人以上と書かれているものもあり、実際の人数は定かではないようです。また、シベリア抑留者約47万人の帰国事業は1947年から1956年にかけて行われました。


カレッジパークの米国国立公文書館には、戦後の引揚関係文書や写真が多数所蔵されています。この中で今回は、シベリア抑留者の帰還と引揚援護局に関係する文書と写真を紹介したいと思います。


下の写真は1946年9月11日に東京のソビエト大使館前で行われた、約3000人が参加したデモの様子です。夫を帰せと書いてある旗を持っている人、家族の無事と帰還を願い泣いている母や夫人が写されています。



Left: Photograph No 279651 A Crowd of Demonstrators who Marched to the Soviet Embassy Record Group111-SC   National Archives at College Park, 

College Park, MD

Right: Photograph No. 258306 Cry for the loved one Record Group111-SC   National Archives at College Park, 

College Park, MD


皇居前広場に集まったデモ参加者達の様子。

Photograph No.279649 Record Group 111-SC A crowd of Demonstrators Gathering before a truck in front of the Imperial Palace Grounds, Tokyo Japan

National Archives at College Park, College Park, MD


下の文書は1947年8月8日に極東軍の参謀長に充てた文書で、1946年12月19日に合意に至った「ソ地区引揚に関する米ソ暫定協定」についても触れています。それによると、1946年12月からすでに47万7000人がすでに帰国しており、1947年4月までで、月平均6万2000人が日本へ帰還しているなどと書かれており、その後の帰国事業の予定も書かれてあります。


RG331 EntryUD1146 Box380 Operational and Occupation Headquarters Subject File Compiled 1945-1950 Increased offer of Shipping to Repatriate Japanese, National Archives at College Park, College Park, MD


下の文書は樺太(真岡)から月に6万人、ナホトカから月に10万人の合計16万人を日本に受け入れる計画についての資料です。

受け入れ先として、函館、小樽、舞鶴、佐世保援護局が書かれており、函館は1回に7500人、最大で月3万人収容可能とあります。舞鶴引揚援護局に関しては、6000人が利用できる住居があり、月に9万人を受け入れ可能であり、シベリアからの引揚者を検問の為2日間留める事が出来ると書かれてあります。舞鶴引揚援護局は1945年から1958年まで13年間に渡り、1950年以降は国内唯一の引揚港として重要な役割を果たしました。


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太平洋戦争直後の食生活

食の安全性が色々と問われる時代になりました。

食事は生活には欠かせないものですし、直接体内に入るものなので神経質になるのもやむを得ません。

食べ物のことを考えていた時に、終戦後の日本人はどのような食生活をしていたのだろうか、ということに興味がわきはじめました。


戦後間もなくは食糧難が厳しく、食べ物をかき集める為にほとんどの国民が日々を過ごしていたということはよく聞くことです。小説や随筆などの文学にもそういう光景が描写されていました。配給だけではとても足りないので、買い出しの為の休暇が会社で認められていた、ということも読んだことがあります。特に都市部に住んでいた人たちは、満員の電車に揺られて農村の人に頭を下げて着物などと食糧を交換していましたが、それでも十分な量には満たなかったことも多かったようです。


どのようなものを食べていたかというと、サツマイモやかぼちゃの蔓、大麦やキビ等の穀物であったようです。アメリカからの放出物資もありましたが、それは本国では家畜のえさとなりうるトウモロコシの粉などであったようです。

ここ米国公文書館には戦後の日本の写真が色々あり、当時の様子が分かるものがあるかどうか調べてみました。


Photograph No.SC-216105, Line-up of Japanese civilians for issue of potatoes on rations. (Fukoku, Honshu, Japan), 10/16/1945, Record Group 111; National Archives at Collage Park, MD


この写真は芋の配給の写真です。長蛇の列が出来ています。

Photograph No.SC-216106, Weighing and issuing of potatoes by ration board. (Fukoku, Honshu, Japan), 10/16/1945, Record Group 111; National Archives at Collage Park, MD


次のような写真も見つけました。

Photograph No. SC-287393, Nutrition; Food poured into individual containers, community kitchen, 6/27/1946, Record Group 111; National Archives at Collage Park, MD


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NARAにある日本国憲法関係資料

NARAには日本国憲法関係の資料がたくさんあります。もちろん、その関係の資料をすべて見たわけではありませんが、非常に興味深いと思われる資料がいくつかありましたので今回はそれらをご紹介したいと思います。


明治期に作成されて以来、日本が敗戦を迎えるまで効力を持ってきた大日本帝国憲法(明治憲法)の改正は、戦後の占領期政策の中でも大事なものとされ、すでに1945年秋から占領軍から日本政府へのその改正に向けての指示がされていました。当時の政府ももちろん新たな憲法作成へ向けて動いていましたが、他の民間団体や政治団体も独自の憲法案の作成にむけて動いていました。中でも憲法研究会という民間団体による草案は連合国軍最高司令官であったダグラス マッカーサー(Douglas MacArthur)や関係者によって高く評価され、現在の日本国憲法の原案となったと言われています。


連合国軍最高司令官であったダグラス マッカーサー(Douglas MacArthur)の政治顧問であったジョージ アチソン ジュニア(George Atcheson Jr. )が、1945年11月7日に大原問題研究所の労働経済学者 森戸辰男との話を聞き、一週間後、アチソンはその件について、国務省に報告をしていました。森戸辰男との話の概要は、日本国憲法の作成においては、多くの人間の参加を必要とし、最も重要な点は国民の権利を守ることであること、天皇制の民主化、経済及び政治の民主化の促進などまで触れられていました。同年12月26日に この森戸辰男を含む憲法研究会が、新しい憲法の草案を占領軍に提出しました。1946年1月2日にアチソンから国務省に送った資料には、その憲法研究会の草案の英訳が添付されていました。


Left: RG84 Records of the Foreign Service Posts, Entry UD2828 Japan: Office of the US Political Advisor for Japan, Tokyo, Classified General Records 1945-1952, Box 3 National Archives at College Park, College Park, MD

Right:  RG84 Records of the Foreign Service Posts, Entry UD2828 Japan: Office of the US Political Advisor for Japan, Tokyo, Classified General Records 1945-1952, Box 12 National Archives at College Park, College Park, MD


その憲法研究会の草案は占領軍内でも高く評価されたようで、それを示す資料が、下記のようにありました。

RG331 Records of Allied Operational and Occupation Headquarters WWII SCAP, Entry UD 1390: Government Section Central File Branch Miscellaneous Administrative File and Reports 1945-52, Box 2225 National Archives at College Park, College Park, MD


そのあともマッカーサーの意向も含めて占領軍内でもまた日本側でもいろいろな議論がされていくことになりました。この過程に関する資料もたくさんありますが、ようやく日本国憲法案として整備され、1946年(昭和21年) 8月24日に衆議院で修正議決され、貴族院に渡されました。その資料の前文を見ると、元の文に修正されるべき言葉が横に添えられていますが、その言葉の修正にも時間をかけて一生懸命修正したと伺われ、私は素直にこうした資料に感動しました。

RG 319 Records of the Army Staff Entry NM3-82: Assistant Chief of Staff G2 Intelligence, Administrative Division Document Library Branch Publication Files 1946-51, Box 991 National Archives at College Park, College Park, MD


1946年11月3日にこの日本国憲法は発布され、翌1947年5月3日にこの憲法が施行されることになりました。この5月3日の憲法記念日には、この日本国憲法がどのようなものであり、国民の生活がどう変わるのかをわかりやすく説明をした、憲法普及会編の、”新しい憲法 明るい生活“というタイトルの冊子が、発行されました。

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ヘルシンキオリンピック

先日、米国国立公文書館の写真閲覧室でヘルシンキオリンピックの写真を見つけました。1952年にフィンランドのヘルシンキで開催された第15回オリンピック競技大会のことで、戦後日本が初めて参加した夏季オリンピックです。1936年に参加したベルリンオリンピックから実に16年ぶりの夏季オリンピックの参加となり、日本中が喜びで湧きあがったのではないでしょうか。



左の写真には開会式の様子が写されています。フィンランドのオリンピックメダリスト、パーヴォ・ヌルミ氏が聖火を点火したところです。


Photograph No. SC-442189; “MEMBERS OF THE UNITED STATES THEAM FOR 1952 OLYMIC GAMES: Paavo Naumi lighting the Olympic Flame” 19 July 1952; Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-SC; National Archives at College Park, College Park, MD.


1940年の第12回オリンピック競技大会は東京での開催を日本が返上したため、ヘルシンキに変更され開催される予定でした。しかし、第2次世界大戦の勃発により開催できませんでした。



左の写真は上の写真と同じオリンピックスタジアムのカラー写真です。ヘルシンキオリンピックの開催期間は1952年7月19日から8月3日まででしたので、この写真の日付から最終日の次の日に撮影されたものであることがわかります。このスタジアムは1940年のオリンピックの時にも使われる予定でした。ここは開会式や閉会式、陸上競技などのメインスタジアムとして使用され、高くそびえたつスタジアムタワーは72メートルの高さがあります。

Photograph No. C-7425; “Inside the Olympic Stadium where 70,000 spectators witnessed track and field events of thirty –two nations, after the games.” 4 August 1952: Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-CPF; National Archives at College Park, College Park, MD.



写真資料の箱の中に体操競技のプログラム冊子も一緒に保管されていました。冊子はフィンランド語、スウェーデン語、英語、フランス語の4か国語で書かれています。その冊子の中の男子参加選手リストに日本選手5名の名前がありました。調べてみると日本は体操で銀メダル2個、銅メダル2個を獲得しており、当時の日本人選手の活躍を知りうれしく思いました。


“XV OLYMPIA HELSINKI 1952”; Records of the Office of the Chief Signal Officer, Record Group 111-CPF,Box24 ; National Archives at College Park, College Park, MD.


このオリンピックは69か国が参加し、ソビエト連邦も参加しました。当初、ソビエトチームは毎日飛行機でヘルシンキまで通う計画があったようですが、ソビエトなど東側諸国の選手村はヘルシンキ近くのOtaniemiというところに置かれました。



左の写真はアメリカ選手やほかの国の選手の 選手村の入口の写真です。選手村の入口の左側にフィンランドの国旗、オリンピックの旗、右側に各国の国旗が掲げられています。入口右側のすぐ横に日本国旗があります。

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クリスマス

クリスマスの季節になると世界の多くの場所が賑やかになり、クリスマス当日に向けて準備をする人達もたくさんいることと思います。クリスマスは宗教的に言えばとても大切な日なのですが、日本ではここ最近宗教的に考える人よりもイベントとしてその日を過ごす人達の方が多いように思います。クリスマスの日にはツリーを飾り、元旦になればしめ縄を飾る。宗教的に考えると一見矛盾しているようにも感じますが、やはり家族や友達と一緒に過ごす大切な機会と思えばつじつまが合うように思います。

アメリカでは宗教的にクリスマスをお祝いする人が日本よりも圧倒的に多いので、遠方に住んでいる親戚達も一緒にクリスマスを過ごし、お祝いするというのが主流です。しかし、第二次世界大戦中はもちろん、現在に至るまでアメリカ軍に在籍している人々には、他の勤務地への出向(現在でいえば、新しい国や州への引っ越し)、家族を連れていけない長期出張など、民間企業に勤めている人々には少し考えられないような事があります。そのため、クリスマスは家族で集まる大切な機会と感じ、その日を心待ちにしているアメリカ軍兵士やその家族はたくさんいることと思います。では、この大切な日をアメリカ軍の兵士達はどのように過ごし、どのぐらいの兵士がクリスマスに家族や友達と会うことができたのでしょうか?


戦時中はクリスマスだから国へ帰るというような事はできるはずもなく、戦闘中であったり、敵に見つからないように潜んでいたり、と勝手に戦地の状況を色々想像してはみたのですが、米国国立公文書館所蔵の一部の資料や写真から兵士達の戦時中のクリスマスの過ごし方というものが少し見えてきました。クリスマスの過ごし方は戦地によって異なりました。

例えば下の写真にあるように、最初の写真はインドのラムガー(Ramgarh)にて行われたクリスマスパーティーの記録です。とても楽しそうにお酒を飲んだりご馳走を食べていたりする写真が数枚ありました。また、二枚目の写真は同じ第二次世界大戦中のクリスマス当日、ビルマにて撮られた写真です。この後に続く同じ日に同じ場所で撮られたと思われる写真には、山道を列になって進んでいる様子が記録されていました。他にも、クリスマスの過ごし方は部隊の指揮官によって決まるといってもいいほど、各部隊の指揮官達が案をしぼりクリスマス・イブやクリスマス当日の計画を立てるという習慣があることを知りました。


Photograph No.SC-277366 “Sgt. Phil Packard of New York City, as Santa Clause at the Ramgarh Training Center. Passes out gifts to GIs during the Christmas Party.”Ramgarh, India, 24 Dec 1944. Record Group 111SC; National Archives at College Park, MD.


Photograph No.SC-277013 “Mars Task Force observes Christmas Day in a clearing in the Burma Jungles.”Burma, 25 Dec 1944. Record Group 111SC; National Archives at College Park, MD.


しかし、どんなに指揮官が頑張ってくれても、第二次世界大戦中の兵士には国への帰国という選択はありませんでした。


第二次世界大戦の終結とともにアメリカ軍兵士達のクリスマスも含める祝日の過ごし方は変わってきます。部隊の指揮官に休暇を申し出ることができるようになりました。そのため、自分の生まれ育った国へ帰省することができるようになったり、その時配属されている国を旅行したり、兵士達の祝日の過ごし方の選択肢が増えました。また、コマンド達が企画するクリスマスプランは他部隊、また同じ部隊の中で競争するものとなり、最高のプランを企画したコマンドは表彰されるというアメリカらしいユーモアあるものに変わっていきました。


Photograph No.SC-422693 “Majpr General Joseph P. Clelend(Fourth from left) CG, 40th US. Inf Div, presented Capt Williams, Larkin(Center) (Holly Hill Fla) En. Hg Co, with a Christmas basket for the Best Decorated Comand Post in the 40th US Inf Div ”Ramgarh, India, 25 Dec 1952. Record Group 111SC; National Archives at College Park, MD.


他にも、クリスマスプランの中には当時有名なミュージシャンのフリー公演があったり、クリスマス時期でも暑いような国ではプールパーティーなど国への帰省をしなくとも普段一緒に働いている同僚達と有意義な時間を過ごす事ができたかと思います。基地の中だけで開催されるイベントもあれば、現地住民を巻き込んで行われるイベントもありました。資料を読んでいて印象的だったものが、アラスカで行われたクリスマス時期にChristmas trainという電車に乗って現地の子供達にプレゼントを届ける企画や現地の教会を利用して行われるクリスマス・イブのミサなどアメリカ軍兵士のためだけではなく現地住民との交流も視野に入れて企画をしているものです。


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沖縄戦下の住民による「軍作業」

第二次世界大戦末期の沖縄戦では、「軍民共生共死」のスローガンのもと、沖縄の住民も命がけで日本軍をサポートすることを要求され、集団自決などの悲劇も数多く起きました。一方で、様々な状況で米軍の民間人捕虜となり、生き残った住民達も大勢いました。


アメリカ国立公文書館には、当時の沖縄の民間人管理に関する米軍の記録資料が収められています。例えば、Record Group 494 ”History of Military Government Operation on Okinawa”という資料によると、1945年4月30日の時点で126,876人の沖縄住民がアメリカ軍政府の収容下にあり、その数は5月31日には147,829人、6月30日には258,588人と増えていることがわかります。住民達は最低限の衣食住と医療を与えられていましたが、さらに就労可能な人達については、アメリカ軍政府の活動を助ける「軍作業(ミリタリー・アクティビティ)」に従事することで、食糧などの加配を報酬として受けていたそうです。今回は、このような民間人収容所で暮らす住民達の軍作業の様子について、いくつか写真をご紹介したいと思います。


Photograph No.342542 “Native women salvage any usable articles from ruined homes on Okinawa Ryukyu Islands.” 26 June 1945. Record Group 80G; National Archives at College Park, MD.


この写真は、収容所の住民達が近くの廃墟となった村へ出かけていき、瓦礫の中から再利用できそうな材木などを集めている様子を写したものです。アメリカ軍政府は沖縄上陸前から民間人施設の建設について計画していましたが、そのための建築資材を運ぶほど船のスペースには余裕がなかったため、できる限り現地調達をする予定でした。そこで、収容した民間人の労働力に頼る必要があったのです。このような物資の回収は、建築資材だけでなく、食糧や衣類、農耕具、医薬品などに対しても行われていたそうです。


Photograph No.318500 “In the village of Taira on Okinawa, Ryukyu Is. captured Jap civilians are constructing a stockade for US Navy military Gov. compound, to be used for the Japs prisoners of war.” 16 May 1945. Record Group 80G; National Archives at College Park, MD.


この写真は、男性の住民達が日本人戦争捕虜収容所を建設しているところです。当時の捕虜関係の資料の一つには、「15~45歳の民間人男性は一旦戦争捕虜施設へ送り、関係当局による取り調べをクリアした人は民間人収容所へ引き渡すこと」と記されています。沖縄戦では、一般の男性住民の多くも防衛隊や学徒隊として戦場に駆り出されていたこと、さらに、軍服ではなく民間人の衣類を身に着けた日本兵が多く発見されたこともこのような民間人の扱いと関係あると思いますが、実際に民間人収容所で暮らす男性住民には子供と老人が多く、健康で働き盛りの男性は非常に少なかったと、いくつかの資料に記録されています。


Photograph No.SC-370925 “In order to carry rations and supplies to men of the 27th Div mopping-up in the mountains of northern Okinawa, the 105th Inf Rect, under the command of Col Walter S Winn, formed two companies composed of native Okinawans supplied and paid by the military government.” 1 Aug 1945. Record Group 111SC; National Archives at College Park, MD.


このように軍作業における男性陣の労働力は非常に限られたものでしたが、建築作業の他に、物資の運搬などに従事する男性住民もいました。上の写真には、沖縄北部の山岳地帯に残っているアメリカ陸軍第27歩兵師団の為に、食料などの配給物資を背負って運ぶ沖縄住民の姿が写っています。この写真が撮られたのは8月1日ですので、沖縄本土での激戦こそ終わってはいますが、体力的にとてもきつく、また危険を伴う労働であることは想像できます。


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68年前の観光都市別府、キャンプ・チッカマウガ

私の出身地大分県の誇る観光名所、別府温泉郷。活火山の鶴見岳と硫黄山の麓に広がる別府市街地には2千箇所以上もの温泉源が存在します。足湯など小さなものを含めると数百もの温泉があり、地元の人をはじめ多くの観光客を癒してくれます。


そんな自然豊かな別府の街に68年前アメリカ軍のキャンプ地が存在しました。187th Airborne Regimental Combat Team(通称:Rakkasans)によるCamp Chickamaug(キャンプ・チッカマウガ)での駐屯生活は、戦後1946年から1956年の10年間続けられました。その当時の写真や映像などの史料がアメリカ国立公文書館カレッジパーク別館に多数保管されています。

 

写真にはキャンプ敷地内の教会や図書館などの施設、またそこで暮らすアメリカ兵の生活の様子が写っていて当時の様子をうかがい知る事ができます。また映画館やビリヤード場の設置されたクラブも存在したようで、写真を見る限りではまるでアメリカそのものです。


Photograph No.SC-499910 “View of the Enlisted men “Rakkasan” CLUB, for men of the 187th Airborne Regimental Combat Team at Camp Chickamauga, Beppu, Kyushu, Japan.” 23 November 1954. Record Group 111; National Archives at College Park, MD.


下の写真は1954年11月に撮影されたものです。アメリカ兵達が別府観光と称して、地獄めぐりを楽しんでいます。地獄の入り口にある鬼を訝し気に眺めるアメリカ兵の姿が印象的です。

Photograph No.SC-499931 “Soldiers of the 187th Airborne Regimental Combat Team Stationed at Camp Chickamauga, Beppu, Kyushu, Japan. View of the Idols outside one of the Shrines in Beppu.” 23 November 1954. Record Group 111; National Archives at College Park, MD.


硫黄の匂いがする地獄ゆで玉子は彼らにとってどんな味だったのでしょうか。

Photograph No.SC-499937 “(L to R) CPL William P Stewart, (Montgomery, ALA); CPL Angel Arellano, (Santa Monica, CALIF); and CPL Mamerto Perez,(Robstown, TEXAS) try to eat some eggs which were cooked in the waters of “Green Lake” hot springs, at Beppu, Kyushu, Japan.” 23 November 1954. Record Group 111; National Archives at College Park, MD.


こちらの写真はキャンプ敷地内の下士官兵の居住施設です。写真右奥が鶴見岳です。

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沖縄~10・10空襲から70周年

沖縄の10・10空襲と呼ばれている、1944年10月10日に米海軍第38高速空母機動部隊が沖縄を含む南西諸島で行った1,396機に及ぶ大規模な攻撃から70年が経ちました。この空襲で那覇市の市街地90%が燃え尽き、重要な琉球王朝時代の文化遺産を多数失ったといわれています。1945年4月から6月の沖縄戦については聞いた事がありましたが1944年の10・10空襲の事は知りませんでした。

 

この空襲は第5次攻撃まで行われ、第1次攻撃から第3次攻撃は航空機や飛行場、船や船舶施設などの軍関係施設を攻撃、午後12時40分から1時40分にかけての第4次攻撃と午後2時45分から3時45分にかけての第5次攻撃では、学校や病院、お寺や市街地を含む民間の施設を無差別に低空から攻撃し、多数の一般市民を含む600人以上の方々が合計9時間にも及ぶ攻撃で亡くなりました。また、空襲後の火事で市街地のほとんどが焼失してしまったそうです。

 

米国国立公文書館Ⅱ号館には沖縄戦に関係する膨大なテキスト資料、写真や映像資料が保存されています。今回は10・10空襲に関係するテキスト資料をご紹介いたします。

 

このテキスト資料は空母レキシントンの1944年10月10日の戦闘報告書の一部です。

レキシントンから3機の敵の飛行機が見えたので打ち落とした。その後、読谷飛行場を攻撃とあります。このように艦船別に戦闘報告書と写真などがまとめてあったりもするので、その日の攻撃の詳細がわかります。

 

Record Group38 Records of the office of the Chief of Naval Operations WWII Action and Operational Reports Box1148 National Archives at College Park, College Park, MD

 

次の資料には日本側が中立国のスペイン大使館を通して、アメリカ側に民間人への無差別攻撃と低空からの機銃掃射は国際法に違反していると抗議した件に関して、アメリカ統合参謀本部の見解が書かれています。アメリカ側は、違法だと認めてしまえば米国人捕虜を危険にさらし、戦争犯罪人とされてしまうかもしれないなどの懸念を記しています。これはほんの一部で、この後も資料は続きます。

 

Record Group 218 Entry UD2 Geographic file 1942-1945 Box160 National Archives at College Park, College Park, MD

 

下記の写真は第38高速空母機動部隊(TF38)の戦闘報告書内に入っていた、1944年10月10日に撮影された写真です。(上)那覇港と那覇市方面 (中)那覇港 (下)那覇飛行場ですが、黒煙がもくもくとあがっているのが鮮明に見えます。

 

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第二次世界大戦における黒人兵士たち

米国公文書館でいつものように資料を読んでいると、米軍の部隊名のうしろに括弧書きで黒人(Negro)と書かれているものがありました。 その前後の資料にもそういう表記がされていました。 以下の資料は太平洋戦争時の陸軍のエンジニア関係のものです。

 

Incoming Message 31 Oct. 1945, M76, Miscellaneous Records ("M" Series) 1942-1945 M74-M77, Historical Division Records Regarding Operations in the Southwest Pacific Area(“SWPA Files”), Records of the Office of the Chief of Engineers, Record Group 77; National Archives at College Park, College Park, MD

 

“Engr Const Bn” (Engineer Construction Battalion: 工兵大隊) の後に括弧書きで”Negro“と書かれています。

 

以前にも軍の戦闘記録資料を読みましたが、上記のような人種について書かれている資料には出会いませんでした。考えてみると、当時はまだ白人と黒人が隔離されていた時代ですし、黒人兵士ばかりの部隊もあるのも頷けます。

 

そこで、米国公文書館に黒人兵士についての関係資料があるか少し調べてみました。

 

“The Negro Soldier, 1944”という、まさにそのものの動画がありました。そして、その上映に関する資料もありました。この動画は1944年にWar Department(戦争省)が作成したプロパガンダ用のものです。この動画情報については米国公文書館のサイトの中の、http://research.archives.gov/description/35956 にあり、そこからYouTubeにつながり、そこで見ることができます。

 

黒人教会での牧師の話を通じて、黒人の人々の活躍を描くという方法をとっています。1770年のボストン虐殺事件に関係した黒人男性の話から始まり現在各界で活躍している黒人のプロフェッショナルまでをとりあげ、後半は教会に来ている女性が軍に入隊して将校に昇進した息子の軍隊での様子を語るという形で描写し、黒人の人々の過去から現在に至るまでの貢献を謳いあげています。

 

1936年のベルリンオリンピックで金メダルをとった、100メートル走のJames Cleveland Owens, 走り高跳びのCornelius Cooper Johnsonの姿も出てきます。余談になりますが、走り高跳びで6位の田中弘選手もこのフィルムに出てきます。この短編映画はとても好評で、各自治体・公共団体から引き合いの手紙が後を絶たなかったようです。 色々な新聞にも紹介されました。

 

Trade Union Service Newspapers, “The Negro Soldier”, “The Negro Soldier”, Civil. Aide to the Secretary Subject File 1940-47, Office, Asst Secretary of War, Secretary of War, Record Group 107; National Archives at College Park, College Park, MD

 

この映画は今までとは違い、黒人の人々の勤勉さや成功をとりあげていて、彼らの意識を高めたと同時に白人の黒人に対する意識にも影響を与えました。 

 

実際の黒人兵士たちの写真も、米国公文書館の写真リサーチルームに、バインダーに入ったアルバムのような形であります。戦場や訓練の場でのスナップ写真もあるのですが、それらとは少し違った写真をここでご紹介したいと思います。

Photograph No. SC-426441 “Members of the 6888th Central Postal Directory Battalion take part in a parade ceremony in honor of Joan d’Arc at the marketplace where she was burned at the stake” May 27,1945 Pfc. Stedman, Record Group 111; National Archives at College Park, College Park, MD

 

上記の写真は、フランスでジャンヌダルクが処刑されたとされる広場を行進する、黒人女性兵のパレードです。この女性たちは郵便関係の部隊に所属していました。

 

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沖縄の茅葺屋根

沖縄の建物で私が一番に思い浮かべるのは首里城のような赤瓦の屋根の建物です。赤瓦の屋根は漆喰で瓦と瓦の隙間を固めているため台風に強いと聞いたことがあり、台風の多い沖縄に適した屋根なのだなあと思った覚えがあります。昔の沖縄の建築様式は赤瓦の屋根だとずっと思っていたため、米国国立公文書館にある沖縄関係のテキスト資料の中から茅葺屋根の建物の写真が出てきたときには少々驚きました。今回はその茅葺屋根の写真をご紹介したいと思います。

 

HISTORICAL RECORD ISLAND COMMAND OKINAWA GUNTO RYUKYUS 13 December 1944- 30 June 1945; WWII Operations Reports, 1940-48, Pacific Theater; RECORDS OF THE ADJUTANT GENERAL’S OFFICE, Record Group 407; National Archives at College Park, College Park, MD.  (Entry 427, Box 408)

上の写真は沖縄の民家です。屋根を見ると上側が茅葺、下側が瓦となっています。これはもともとこのような設計だったのでしょうか、それとも、瓦屋根の修理等が必要で上側だけが茅葺になったのでしょうか。写真の下側にある数字とアルファベットから1945年5月29日に撮影されたものだと思われます。この時、沖縄本島ではまだ戦闘が続いていますが、この写真の中の住民は普段通りの生活を営んでいるように見えます。

 

HISTORICAL RECORD ISLAND COMMAND OKINAWA GUNTO RYUKYUS 13 December 1944- 30 June 1945; WWII Operations Reports, 1940-48, Pacific Theater; RECORDS OF THE ADJUTANT GENERAL’S OFFICE, Record Group 407; National Archives at College Park, College Park, MD.  (Entry 427, Box 408)

この写真には再建設された沖縄の村と説明書きがされてあります。おそらく戦争で村が破壊され、茅葺の家が建て直されたのではないでしょうか。この写真は1944年12月13日から1945年6月30日までの記録として書かれている資料の中にありました。たくさんの家が立ち並び、家の外には洗濯物が干してあります。この写真の細かな内容が良くわからなかったのでスキャンした画像を拡大すると、左側に写っている子供たちだけではなく、家の前に立っている人、子供と母親らしき人など何人もの村人たちが写っているのがわかりました。左側の奥の家の向こう側にはテントがあります。

 

HISTORICAL RECORD ISLAND COMMAND OKINAWA GUNTO RYUKYUS July 1945; WWII Operations Reports, 1940-48, Pacific Theater; RECORDS OF THE ADJUTANT GENERAL’S OFFICE, Record Group 407; National Archives at College Park, College Park, MD.  (Entry 427, Box 408)

1945年7月の報告書には、家の建設についての記載があり、現地の労働者たちにより家が組み立てられ茅葺屋根が付けられている様子の写真がありました。これら住宅の建設についてはとても興味深く、石川や漢那での家の建設に27th Naval Construction Battalion(米海軍設営隊)が関わっていたこともわかりました。

 

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ある日本海軍兵が残した手紙の綴り

米国公文書館の、太平洋戦争中における海兵隊資料には、彼らが戦闘中に捕獲した日本軍資料があります。それら日本軍による印刷された作戦関係資料もあれば日本海軍の兵士個人の手書きの日記やメモや遺書、また家族や友人から受け取った手紙の綴りなどといった資料も入っています。こうした日本海軍兵の個人の資料においては、個人の名前や部隊名がそこに残されているものもあれば、何も情報がないままであるものもあり、また資料として完全な形で残っているものもあれば、その一部としか残っていないものもあります。が、少なくともこうした資料から、それぞれの兵士が自分の記録として最後まで大事にしていたものだろうと察することができ、そこに残された文面から、家族や故郷への思いを最後の最後まで胸に秘めていたのだということが伝わってきます。

 

これらの資料のうち、表と裏の台紙に家族や友人から本人へ送られた手紙を挟み、表の台紙に ”現役中受信綴り 懐かしき想出(便り)“という題名を記して、上部を紐できれいに留めた綴りの資料がありました。題名の隣には、現役 大日本帝国軍艦勝力機関科とあり、さらに応召 呉鎮第三特別陸戦隊矢野部隊対戦車砲隊田中小隊という所属部隊情報がありました。この手紙の綴りが入っているフォルダーは、Personal Letters Belonging to Soldiers on Guadalcanal というもので、この方はガダルカナルで戦死された日本兵の方でおられたことがわかります。

 

From RG127 Records of US Marine Corps, Entry 39A Captured Japanese Documents Box 41 National Archives at College Park, College Park, MD

 

この資料はもちろん、このエントリーの資料全体からも残念ながらこの方がどのような戦死を遂げられたのかについての情報はありません。米軍をはじめとする連合軍の捕虜となり尋問記録があれば日本兵の個人情報は存在するかもしれませんが、そうでなければ難しいかと思われます。が、それでも米軍の戦闘記録を追う中で、少なくとも壮絶な戦闘の様子を多少なりとも垣間見ることができるかもしれません。

 

この残された手紙の綴りを通してこの日本兵の方の人柄を垣間見ることができるように思えました。これらの手紙には、この日本兵の方に対してその労を気遣いとともに、本土にいる友人や家族による自分たちの近況が語られています。内容から判断すると1930年代後半のものであったことがわかります。おそらくこの手紙の綴りにはさらなる続編が存在していたのだと思いますが、資料として残ったのは、この兵士の方がガダルカナルに到着する以前の、中国戦線にいたころの手紙の受領であったことがわかります。

 

友人または先輩かと思われる人物からの手紙には、武漢三鎮陥落によって大阪でも全工場が汽笛を鳴らして市民に報知し、各所に祝賀会提灯行列などで大変な騒ぎであること、また国民精神作興体育大会の関西大会が甲子園で行われたことなどが書かれています。 つまり、これらは1938年(昭和13年)の10月に中国の武昌、漢口、漢陽の各都市が日本軍の手に落ちたことや11月には日本で国民精神作興体育大会が開催されたことをさしていると思います。また、一方では銃後の国民の生活に言及し、デパートの年末大売出しや年賀状や新年宴会といった年末年始特有の行事が廃止されたこと、物品愛護の名目で、デパートやその他の店では、中古品の売買の奨励やら、服や靴の修繕・修理の奨励とガソリンや紙の節約が声高らかに叫ばれるようになったことも記しています。1941年の真珠湾攻撃から始まる日米開戦の前の時代ですでに社会は重苦しい時代に突入していたことがわかります。

 

この日本兵の方が姉のように慕っていた女性がいたらしく、その女性からの手紙には、“瞼のあなたは勇ましくニッコリ笑っていらっしゃいます。”といったことも書かれており、またその女性の別の手紙には着物をきた彼女と彼女が飼っていた犬の小さな写真も添えられていました。ささやかながらも細やかな相手への思いがしたためられていることがよくわかります。同時に盛り場のイルミネーションもなくなりなんとなく切迫したものを感じると記しています。彼女の手紙の文面からこの日本兵の方は一人っ子であったこと、また家族思いであり、とても純情な男性であったことが伺われます。彼女の手紙の一つには彼女の自宅の周辺に咲いていた桜の押し花がさりげなく添えられていました。

 

Both images: From RG127 Records of US Marine Corps, Entry 39A Captured Japanese Documents Box 41 National Archives at College Park, College Park, MD

 

この手紙の綴りにはさらに別の女性からの手紙や、彼の母、この日本兵の方を兄のように慕っていた従姉妹や彼の両親の手伝いをしていた女性からの手紙などもありました。この日本兵の方の実の父は病気であり、息子に心配をかけたくないので長い間詳細を言わなかったこと、また本来であれば、自分から息子に小遣いをやらなければいけないのに、一生懸命自分の任務に励む息子からお金を逆に送ってもらい、さめざめと泣いていた母の様子など家族として互いを気遣い、思いやる気持ちがその手紙の中にあふれていました。

 

これらの手紙をこの日本兵の方は送信人ごとに手紙を整理して思い出としてまとめ、最後まで自分の心の拠り所として大事にされていたのではないかと思いました。またこれらの手紙の内容からしてこの方ご自身も筆まめで家族や友人にできるだけ手紙を送っておられた方であったのではないかと思いました。

 

現代は、コンピュータやスマートフォンが流行し、メールでも電話でもどこでもいつでも簡単にかつ気軽に家族や友人と連絡を取り合うことできる時代です。私達にとっても、手紙をあらためて書く機会は以前より一層少なくなってしまいました。しかしながら、戦争中は、誰にとってもまずは手紙を書くことが唯一の交信手段でした。一方では、戦地にいる兵士と銃後を守る側にいた家族や友人との間には軍による検閲もありましたし、本当に書きたいことを書けないといった歯がゆい気持ちもあったかもしれません。また、自分の思いをこめて一生懸命書いた手紙が戦火が激しくなる中で戦地に届かなかったり、または戦地から日本へ届かなかったこともあったかもしれません。この日本兵の方がどんな思いでこの手紙の綴りを丁寧に作り最後まで大事にしていたのかについて考えると私はとても胸が痛くなりました。同時に、そして戦地に赴いた息子の無事を願い、常に安否を気遣う両親や彼を慕っていた友人や従兄弟達の思いもどれほど強かったことであろうと思いました。

 

私達戦争を知らない世代ができることは限られていますが、それでもこうした貴重な歴史資料が伝える事を学び続け、次世代に残していかなければならないと強く思いました。(YN)

 

杉原千畝

少し前の話になるのですが、3月にフィラデルフィアで開催されたアジア学会(Association for Asian Studies)に参加する機会がありました。アジア学会とはアジア全般に関して研究する学会の為、研究テーマは幅広くとても興味深い物でした。その中で今回はドキュメンタリーフィルムで印象に残った杉原千畝の話をしようと思います。

 

杉原千畝は1939年から1940年にかけてリトアニアのカウナスにある日本領事館に勤務し、約6,000人のユダヤ避難民に亡命するための通過ビザを発行した外交官です。日本でもドラマや特集で組まれた事があるので、ご存知の方も多いと思います。

 

ドキュメンタリーフィルムは、現在残り少なくなってきたポーランド系ユダヤ人の生き残りの証言者とユダヤ避難民達が降り立った敦賀市の住民の証言と合わせながら、杉原千畝の足跡をたどっていくというものでした。ナチスに迫害されたユダヤ避難民がシベリアを越え、ウラジオストックから船で敦賀市に着き、神戸からブラジルやオランダ、アメリカへと亡命していったそうです。そして、千畝氏はこの事を口外せず、彼の死後に妻が「命のビザ」という本を出版し世間に知られていったようです。

 

 

 

Association for Asian Studies Annual Conference March27-30,2014 Philadelphia,PA

Film Expo: He defined the tide of time Chiune Sugihara and the Saving of six Thousand A documentary film by Susanne Concha Emmrich

 

杉原千畝は「他の人でも自分と同じ事をするだろう」とこのフィルムの中で言っています。彼はリトアニアを去る列車を待つ間もビザを書き続けたそうです。他の人がここまでできるでしょうか?きっと彼にしか出来なかったと思います。パンフレットを掲載しました。

 

パンフレット右下の女性、Susanneさんが脚本家兼製作者です。もし、約30分のドキュメンタリーフィルムに興味のある方はパンフレットの右下にE-mailアドレスが記載されていますので、ご連絡を取られたら宜しいかと思います。

さて、杉原千畝関係書類もNARAにあるのではないかと思い探してみました。

 

杉原千畝個人に直接関する資料ではありませんが、1996年4月22日-28日 テネシー州ナッシュビルで行われたユダヤ避難民の記念式典「Memorial week honor」 杉原千畝領事のパンフレットがありました。(左資料)

 

息子の杉原弘樹さんが招待されています。パンフレットは記念式典の日程表などになっています。

 

RG200  Records of the America National Red cross

Entry#56 Personal Papers: 1950-2001

National Archives at College Park, College Park, MD

 

杉原千畝が「東洋のシンドラー」と知られるようになったのは戦後ずいぶん経 ってからの事です。それは千畝本人がこのことを長く口外せずいたからです。きっと人として謙虚で尊敬できるとてもすばらしい人だったのではないかと思います。また機会があれば杉原千畝の生涯を追ってみたいと思います。(SW)

 

アスベスト

数ヶ月前、“在日米軍基地で働いていた日本人従業員のアスベスト被害”という記事を読みました。

日本人従業員がアスベスト被爆の危険性がある環境にも関わらず、不十分な防護対策のまま作業をしていたとの証言があるということや、とても残念なことなのですが、肺がん、中皮腫、または石綿肺という病気で亡くなられている方もいるという内容でした。

 

私はこれまでアスベストについての知識はほとんどありませんでした。ビルの建設などの際に保温断熱の目的で石綿を吹き付けるといった作業、そのような石綿を扱う作業や石綿工場に勤めている人、石綿を使用している建築物などで生活をしている人達が、将来的に病気を発症するといった健康被害にあう可能性が高く、現在は使用を原則禁止されているということ(一部を除く)を知りました。

 

NARAのデーターベースで“アスベスト”というキーワードで検索をかけてみました。ヒットはないものの、日本の各地域の地理や自然または文化などを調査した記録資料の中に“Asbestos Resources of Japan”という戦後1948年10月に作成された資料を見つけました。

 

 

“Folder No.10 #115 Asbestos/SCAP; Natural Resources Section; Administration Division; General Subject File1945-51 General Records of the Department of State, Record Group 331; National Archives at College Park, College Park, MD.”  (Entry UD1817, Box 8909)

 

 

この資料には日本でのアスベストに関する全ての情報が載っており、例えば「主なアスベスト鉱山の名前や場所」「日本でのアスベストの歴史や始まり」「カナダからのアスベストの年間別輸入量(1926年以降)」や「アスベストの国内生産」など約30ページにわたりまとめられています。しかし、この資料が作成された当初は世界的にアスベストの危険性が全く問題視されていませんでしたのでそのような記述は有りませんでした。ただ一箇所“Problems of Asbestos Industry”(アスベスト産業の問題)と題された箇所に「アスベスト産業は労働問題によって妨げられている」と記載されており、不十分な居住施設や安定しない雇用状況のために有力な人材はアスベスト産業には集まらないと言った雇用問題についての記述であり、北海道のアスベスト鉱山で働いている人達の多くがその鉱山付近に住む近所の農民であるということでした。

 

(クリソタイルアスベストの年間生産率表-鉱山別)※画像中央部

 

ほかにも左の資料のように説明と同時に年次別で色々な事柄を表にしています。

 

“Folder No.10 #115 Asbestos/SCAP; Natural Resources Section; Administration Division; General Subject File1945-51 General Records of the Department of State, Record Group 331; National Archives at College Park, College Park, (Entry UD1817, Box 8909)

 

 

他にも色々な情報がありましたが、それらの中でも私が一番衝撃をうけた資料がこれから紹介する下記の1枚です。

 

"Folder No.10 #115 Asbestos/SCAP; Natural Resources Section; Administration Division; General Subject File1945-51 General Records of the Department of State, Record Group 331; National Archives at College Park, College Park, MD.”  (Entry UD1817, Box 8909)

 

他にも色々な情報がありましたが、それらの中でも私が一番衝撃をうけた資料がこれから紹介する下記の1枚です。

この資料の上部分には国産品アスベストを何に使用しているかということが記載されています。セメント、耐火性塗料や煙突などとさまざまな物に使われているのですが、“Others”と項目付けられている箇所に「ガスマスクのフィルター」とありました。

もちろんビルの建設や塗料などのように頻繁に使われるものではないとは思うのですが、過去にガスマスクのフィルター部分にアスベストが使用されていたという事実があった事を証明している資料だということになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

(wikipediaより/ガスマスクの付け方を市民に指導する警察官(1938年(昭和13年)東京)*写真と本文の関連性は一切ありません。

 

ガスマスクは本来毒ガスなどの有害物質から身を守るための用具なのですが、そのフィルターにアスベストが使われているということは、とても危険なような気がします。上の写真は本文とは一切関連性はないのですが、この写真では一般市民の小さな子供までガスマスクの装備の仕方を警察官から指導してもらっていますが、もしもこのガスマスクのフィルターにアスベストを使っていたとしたら・・・

 

かつてアスベストはその性質と安価で「奇跡の鉱物」として多種多様に使用されていましたが、近年ではアスベスト健康被害が問題視されています。アスベストを使用した建物がない事やアスベストが原則禁止になっている事で終わりということではありません。今現在アスベスト除去作業というものは世界各地で頻繁に行われていますし、その作業によって新たな被害が生じることもあるかもしれません。大気中にアスベストが飛散する可能性だってゼロではないと思います。アスベストは目に見えないものです。私たち個人で少しでもアスベストを身近に感じ、学んでいく事も大切と思います。私自身アスベストという物質や歴史背景をよく知らなかったのでこれらの資料はとても勉強になりました。今後も機会があればまた違った視点からアスベストの事を調査してみたいと思います。(M.J)

 

2014年 アジア学会(フィラデルフィア大会)に参加して

今年のアジア学会(Association for Asian Studies)は、3月27日から3月30日までの日程でペンシルバニア州のフィラデルフィアで開かれました。

 

フィラデルフィアは歴史がある街で、一時はアメリカ合衆国の首都でもありました。 今でも全米では大都市の一つですが、規模は小さく落ち着いた所です。 1993年にトム・ハンクスとデンゼル・ワシントンが共演した「フィラデルフィア」という映画を思い起こす方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

アメリカは日本と比べると、歴史的な名所・旧跡が少ないのですが、ここフィラデルフィアは名所・旧跡に触れる機会が多い場所です。 「自由の鐘」(Liberty Bell)という鐘もその一つです。

 

この鐘はイギリスで作られ、1752年にフィラデルフィアに届けられました。 しかし、最初の鐘はたった一回鳴らしただけで、ひびが入ってしまいました。2度、3度と製造を繰り返し3度目で満足のいく鐘ができたそうです。 この鐘はアメリカの歴史の節目ごとに鳴らされていました。 大きなひびが入っていますが、これが「自由の鐘」の大きな特徴です。 東京・千代田区の日比谷公園にもこのLiberty Bellのレプリカの「自由の鐘」があるそうです。

 

筆者撮影 リバティーベル

 

現在「自由の鐘」は、リバティーベルセンターに展示されています。 リバティーベルセンターは、ジョージ・ワシントンがフィラデルフィアに住んでいた時の屋敷に隣接しており、ワシントンの家であったと思われる基礎の部分が発掘されてそれも見ることができます。

筆者撮影 家の基礎部分

 

アジア学会に参加して学んだのは、どういう事象でも研究の対象になりうるのだなあということでした。 そして、一見関係のなさそうなことでもどこかでつながりがあるという事でした。 それを感じたのは、二つの全く違うテーマのセッションに出席した時です。一つ目のセッションでは福島県をとりあげていて、質疑応答では発表内容とは関係ないのですが、汚染地域から離れない地元の人(特にお年寄り)に関して、「危なすぎるのにどうしてそういうところに戻るのか」、という質問が出ました。 それに答えた研究者は「そこの土地に戻らないことがその人たちにとってストレスなのです。」と言われました。

 

翌日の二つ目のセッションでは、アジアの家族と性差についての発表を聴講しました。 その中でシンガポールに住むフィリピン人のメイドをとりあげた映画について話をした研究者がおり、フィリピン人メイドがどう異国で感じているかとのことで、その映画監督が”Emotion is affection.”と語っていた、ということでした。 私はその言葉が福島の人とつながりました。 ずっとその土地で過ごしてきた福島の地元の人たちには、汚染されようが危なかろうが、その土地に感情と愛情を持っており、簡単に割り切れないものなのだろうなあ、と。もしかすると、こういう感じ方はアジア人に顕著なのかもしれません。

 

初めて参加したアジア学会(フィラデルフィア大会)でしたがこれまでにないとても良い経験をさせて頂いたと思います。

(M.U.)

 

ワシントンDCのポトマック河畔には日本から寄贈された桜の木が植えられており、春になるときれいに咲きほこります。初めてワシントンDCの博物館があるナショナルモール方面からワシントンモニュメント、タイダルベイスン周辺の桜を見てまわったときは、桜の木の数の多さと美しさに感動しました。毎年全米桜祭りが開催され、観光客も訪れにぎわいます。一昨年の2012年には日本が桜を米国に寄贈,植樹してから100周年を迎え、桜祭りは盛大に行われました。

 

ふとNARAにも何か桜の資料があるのではないかと思いたちOnline Catalogで検索し、出てきた資料を見てみることにしました。 RG 7の農務省関係資料の中に日本の桜に関しての資料があるようで興味があったのですが、この資料はミズーリ州のLee’s Summitに移されたとのことで残念ながらここでは見ることが出来ませんでした。

 

 そこで国務省の資料を見てみると1960年代の桜の木や桜祭りに関するものがありました。

 

1965年にもワシントン・モニュメント周辺への植樹のための3800本の桜の木が日本政府から寄贈されました。

 

 

左の写真は1965年の桜祭りで首都の美化に力を入れていた大統領夫人、レディ・バード・ジョンソンが植樹をしている様子です。この桜祭りで、日本大使より日本から桜の木の寄贈の話がありました。しかし、植物の病原菌や害虫を防ぐために植物の海外からアメリカ国内への持ち込みには厳格なコントロールがされており、桜の木もその対象であったようです。そして話し合いの結果、最終的にはアメリカで育った桜の木の寄贈となったようです。 

First Lady Lady Bird Johnson Planting a Tree During the Annual Cherry Blossom Festival, Tidal Basin, Washington, DC, 04/06/1965  White House Photo Office Collection, 11/22/1963 - 01/20/1969 Collection LBJ-WHPO;Lyndon Baines Johnson Library (LP-LBJ), Austin, TX [online version available through the Online Public Access (National Archives Identifier:5730832) at www.archives.gov; March 6, 2014] http://research.archives.gov/description/5730832

 

これはドラフトですが、この資料にはNursery Stock, Plant and Seed Quarantine NO.37という検疫の規定があり、サクラ属系の植物をヨーロッパやアジア、アフリカ、オセアニアからアメリカに持ちこむことは禁止されているということが書かれてあります。1912年に植樹される以前にも日本から桜の木が送られましたが、害虫がついており、このとき送られた桜の木は全部燃やされました。そのことについて触れている文章もあります。

Folder: Bureau of East Asia & Pacific Affairs Office of Japanese Affairs EDU-12 Cherry Trees, 1967 1960-1970. Bureau of East Asia and Pacific Affairs: Office of the Country Director for Japan: Records Relating to Japanese Political Affairs 1960-1975. General Records of the Department of State, Record Group 59; National Archives at College Park, College Park, MD.  (Entry A1 5413A, Box 3)

 

また日本の政治家が桜の木の種を米陸軍にアーリントン墓地のために寄贈をしており、その種の許可を求める資料などもありました。

 

タイダルベイスンに咲いている桜の下を歩いているニクソン大統領夫妻の写真です。歴代大統領も忙しい任務の中、桜の花を見て心和ませたのではないでしょうか。(NM)

President and Mrs. Nixon strolling beneath the cherry blossoms at the Tidal Basin in Washington D.C., 04/14/1969 White House Photo Office Collection (Nixon Administration), 01/20/1969 - 08/09/1974  Collection RN-WHPO: Richard Nixon Library (LP-RN), Yorba Linda, CA [online version available through the Online Public Access (National Archives Identifier:194622) at www.archives.gov; March 6, 2014]

http://research.archives.gov/description/194622

 

リーフレットに見る米軍の心理作戦の一例

第2次世界大戦中の心理作戦の手段の一つとして、大量のリーフレットが作成され、各戦闘地に散布されました。米国を中心とした連合軍側もドイツ、イタリア、日本の枢軸国側も双方で作成したようですが、米国公文書館には主に連合国側の主力である米軍が作成したものが様々なレコードグループにまたがって存在しています。ドイツ兵、イタリア兵と比べると日本兵の場合は、最後まで戦い、また自決を厭わないために、連合軍側の捕虜となる確率はきわめて低いものでした。なので連合軍側も各地の戦闘では死傷者を出し続けてしまうという現実がありました。そうした状況に対して、各地の戦闘はもちろん続行する形で進むのですが、一方では、各地の日本兵の戦意を挫くことで、各地の戦闘を終結させようとする努力もしていたことも伺われます。

 

日本兵に対しては、リーフレットを通じて、米軍の捕虜になることを恥とするのではなく、連合軍側に投降し、捕虜となって生き延びることで、戦後の日本に貢献することができるということを語っているものが多々あります。

 

米国太平洋艦隊司令部及び太平洋地域司令部(US Pacific Fleet and Pacific Ocean Area )による心理作戦関係の資料の1944年8月の”Psychological Warfare Part 1 “ (RG165 Entry MN84-79Box 518)の中には、日本兵向けのリーフレットの作成にあたっての重要点が提示されています。まずは、武士道の精神の影に隠れたもっと根源的な人間の素直な気持ちとしての、望郷の思い、また、かつての普段の生活にあった風呂、よい食事や酒を懐かしむ気持ちに訴えることが重要であることが指摘されています。また、書道や達筆な文字での和歌や詩を使って印象的なものにすることや戦闘の中でもろくなっている日本兵の身体と感情に訴えるように絵や図案を使うことも重要であるとされています。さらには、疲労困憊し、餓え、負傷している兵士にとっては一刻も早く休息と十分な食料と手当てが必要であるからこそ、それらのニーズに訴えるような形にして、日本兵が持っているとされる伝統的な武士道精神に対抗することといったことも重要であるとしています。その他に、自己の破壊でなく戦後の日本や家族のために生き延びることを強調すること、降参や降伏、または捕虜や俘虜といった言葉を避けあくまで日本兵の面目を立てるために名誉という言葉を強調すること、また、日本の指導者の嘘に言及すること、さらには一般兵士と将校、陸軍と海軍、日本の人々と在日コリアンの人々、一般市民と軍隊といったぞれそれの間で意見の相違や摩擦を生じさせることにも言及しています。 最後には、米軍は法を遵守する権威があり、法を尊重するものであること、さらに米国の圧倒的な軍事力と産業力を強調することといったことも重要であるとし、米軍は日本をよく研究した上でこうした戦略を立てているのだということがわかります。

 

Leaflet, Father and Son, December1944. RG 208 Office of War Information Overseas Brach Burma. Overseas Intelligence Central Files 1941-1945 Asia. Entry 370, Box 370. National Archives at College Park, College Park, MD.

 

また、日露戦争のときの話を用いて、日本兵が生き延びてその後の日本社会に貢献していくべきだということを説いているリーフレットがありました。

Leaflet No. 812. RG165 War Department General and Special Staffs. Security Classified Intelligence Reference Publication(P File) 1940-1945. Entry NM-84-79, Box No. 503. National Archives at College Park, College Park, MD.

 

他にも日露戦争時の東郷平八郎や乃木希典、また平安時代の菅原道真などといった歴史上の人物を用いながら、前途有望な若者は命を粗末にすることなく母国のために生きるべきだと強調したリーフレットがありました。戦争当時の軍国主義の中で強調された日本の歴史観や価値観に対して、米軍側がそうした歴史的人物を題材にしながらも、精神的な部分でも対抗し、日本兵の意識に影響力を与えようとしていたことは非常に興味深いと思います。(YN)

ビキニ環礁で行われた水爆実験~クロスロード作戦

今回は、1946年7月にアメリカ合衆国がマーシャル諸島のビキニ環礁で行った核実験、クロスロード作戦に関係する資料を紹介いたします。

 

この実験の目的は艦船や関連機器に対する原子爆弾の威力を検証することでした。また、標的にされた大小71隻の艦艇の中には戦後アメリカ軍に接収された日本の戦艦長門と太平洋戦争中に建造された軽巡洋艦酒匂も使われました。資料の中には、このクロスロード作戦の計画書や日々の報告書、結果報告等に関係する書類は勿論の事たくさんの手紙が含まれていました。

 

手紙の中には、市民からの水爆実験反対の抗議の手紙やWar Departmentが出した雑誌や新聞をみて応募してきた一般の市民からの手紙などがありました。手紙にはヒューマンギニー・ピッグという言葉が多く出てきます。その内容は衝撃的な物ばかりでした。これは人間モルモットの事です。水爆の実験台に自ら立候補する人たちからの手紙なのです。手紙の中には、報酬の$150,000を学費に充てたい学生からの応募もあります。さすがにこの手紙の主には落選の返事が送ってありましたが・・・

その内の何通か紹介しようと思います。

 

Ny Test Inquires S2-6

RG77 Record of the Office of the Commanding General, Manhattan Project

Operation Crossroads, Dec.1945-Sept.1946 Box23

National archives at College park,College Park MD

 

この手紙の差出人、Frank Tlapa Jr 陸軍に勤めていたが、目の障害の為に除隊した。この核実験では約4000頭の動物を実験で使うようだが、人間モルモットが1番の実験台になる事は理解できる、自分はお国の役に立つため立候補しようと思う。と書いてあります。

 

 

Ny Test Inquires S2-6

RG77 Record of the Office of the Commanding General, Manhattan Project

Operation Crossroads, Dec.1945-Sept.1946 Box23

National archives at College park,College Park MD

この手紙の差し出し人 Carl Fay Poorman はNavyで獣医の仕事をしているが、糖尿病を患っており、あと1年の命もない。1人の青年の命が爆弾やその他の事で奪われるのなら、自分の方がふさわしいと書かれています。

 

実験後の日々の報告書などの文書にも目を通してみましたが、動物などのその後の様子や死亡数などは記録してありましたが、この「人間モルモット」の応募者たちのその後に関してはわかりませんでした。

 

アメリカはこの後も13年間にわたり、ビキニ、エニウェクト環礁で66回にもわたる水爆実験を行いました。この中には1954年マーシャル諸島近海で被爆した第五福竜丸の話もありますが、これは別の機会に紹介しようと思います。 

  

仕事を通して、現在の日本と密接な関わりのある「核」や「被爆」の資料に接する事は 大変勉強になると思っています。(SW)

 

手紙での交流を重ねたゴードン・W・プランゲ教授と淵田美津雄

メリーランド大学のホーンベイク図書館にはゴードン・W・プランゲ教授の個人資料が所蔵されています。プランゲ教授の資料調査を通じて、プランゲ教授が人との交流をいかに大事にし、真珠湾攻撃に対して大きな興味を持っていたかということがわかります。彼は真珠湾攻撃に関する本を何冊も出していますが、そのためにアメリカと日本のそれぞれの関係者である多くの元軍人や民間人へのインタビューや、何通もの手紙の交換、また時には相手の元にまで出向いて面会し情報を収集していたことがわかります。

 

(淵田美津雄 wikipediaより)

 

その資料の中で私にとって一番印象に残った人物は淵田美津雄でした。彼は、真珠湾攻撃の際、ハワイ攻撃隊の中の第一次攻撃隊の指揮官として実際に真珠湾攻撃の際「トラ・トラ・トラ」の奇襲成功を報じた人物ですが、彼は戦後、クリスチャンの道へと進み、キリスト教伝道者となっています。アメリカの教会やあらゆる施設にも何度も足を運び講演をしていました。

 

プランゲ教授とのたくさんの手紙のやりとりの中で、たわいもない会話の途中、ふいに真珠湾攻撃の内容を書いている手紙もありました。

「静まり返っていた真珠湾を一番に確認し、奇襲確実と一番に判断したのも自分だった。トラ・トラ・トラの言葉で攻撃が始まった。どんなに悔やんでもあの時には戻れない。」

という内容の手紙をインタビューとしてではなく、個人的なプランゲ教授との手紙のやりとりの中で伝えていました。

 

おそらく、プランゲ教授も淵田美津雄にどのように伝えればよいのか悩んだのではないでしょうか。

 

その他にも、2人はお互いの家族のことも気にかけており、時折手紙にその内容が書かれていました。それらの手紙から2人はビジネスパートナーとしてだけではなくプライベートでも手紙のやりとりをし、とても厚い信頼関係を築いていたのだと思いました。

 

しかし、一方で、淵田美津雄はキリスト教伝道者となったことで、日本の元海軍関係者やアメリカ人からの批判を受け、また時には軍人時代の影響も生じているからなのか心的外傷後ストレス障害(Posttraumatic stress disorder:PTSD)といった精神的な影響もあったと思われ、これについてはプランゲ教授とのインタビューの中で言及している箇所がありました。

 

私が調査した資料はほとんどがすでにタイプされたもので、原本ではありませんでしたが、中には直筆の原本もありとても貴重な資料だと感じました。やはり、どんな形であれ記録を残すということはとても大切なことだと思いました。(M・J)

 

ゴードン・ウィリアム・プランゲと千早正隆

アメリカでは予算案の期限内成立が見送られたため、10月1日から政府機関の一部がシャットダウンされました。私たちが調査のため通っている米国国立公文書館も閉鎖されてしまったため、シャットダウン期間中はメリーランド大学のホーンベイク図書館へ行き、ゴードンプランゲペーパーについて調査をしてきました。

 

ゴードンプランゲペーパーは、メリーランド大学で歴史学を教えていたゴードン・ウィリアム・プランゲ博士が太平洋戦争、特に真珠湾攻撃に関する研究のために収集した、日本海軍部隊が戦時中に書いた日記や地図、新聞記事、写真、真珠湾攻撃に関する重要資料のコピー、アメリカと日本の軍人や民間人に面会をして行ったインタビュー内容、関係者とやり取りをした手紙などを含む膨大な資料のコレクションです。

 

プランゲ博士はメリーランド大学で教授として教壇に立っていましたが、1942 年にメリーランド大学を休職しアメリカ海軍に入隊、1945年には占領軍の一員として日本へ赴任します。太平洋戦争終了後はマッカーサーの下で歴史課長・歴史室長を務めました。この時、多くの旧日本軍人や民間人関係者にインタビューを行いました。また、アメリカに帰国後も太平洋戦争に関する研究を続け、『トラトラトラ 太平洋戦争はこうして始まった』など、多くの著書や論文を発表しました。

 

ゴードン・ウィリアム・プランゲ(1910年7月16日–1980年5月15日)

(Wikipediaより)

 

今回、私が調査をしたのはゴードンプランゲペーパーのうち、ゴードン博士と千早正隆さんとの間でやり取りをした手紙です。千早さんは日本海軍の軍人でしたが、戦後はGHQ戦史室調査員となり、プランゲ博士に協力して関係者へのインタビューや資料の収集にあたりました。また、千早さん自身も自分の体験を基に数々の著書を出版したり、プランゲ博士の著書を翻訳し日本での出版に貢献しました。

 

二人は頻繁に手紙のやり取りをしており、その数は百通におよびます。手紙には、業務的な内容だけでなく、千早さんが日本で新たに入手した情報や写真がプランゲ博士の研究に役立つだろうと思いプランゲ博士に送ってあげたり、プランゲ博士が著書の作成中に疑問に思った事について千早さんに質問をするだけでなく、再調査を千早さんに依頼したりしており、プランゲ博士が太平洋戦争に関する研究を進める上で、千早さんを非常に頼りにしていたのだろうと感じました。また、お互いのプライベートに関することも手紙に書いており、二人がとても厚い信頼関係で結ばれていることを感じました。手紙を読み進めていくと、二人は敵国同士であったのに、終戦後はお互いに協力し、なぜ太平洋戦争が起こってしまったのかという問題に対し、どちらの国にも偏らない公平な目線で研究を進めている二人の関係性が非常に印象深く心に残りました。(YM)

 

千早正隆(1910年4月23日 - 2005年2月8日)(Wikipediaより)

 

終戦後の日本~米国国立公文書館写真閲覧室より~

第二次世界大戦終結からサンフランシスコ講和条約締結までの間、連合国軍の占領下に置かれた日本ですが、政治的な内容ではなく、当時の一般市民の生活に関連して、米国国立公文書館に収められているたくさんの写真の中から三枚の写真をご紹介したいと思います。

 

まず、戦後の日本国民が餓えを凌ぎ、逞しく生き抜いた写真を紹介したいと思います。この写真の他にも、廃墟の後の土地には雑草はなく、すべて野菜や果物で覆われていた写真もありました。戦争を知らない時代に生きている私にはとても印象に残った写真の一つです。

 

この写真は戦後間もない1945年10月に撮影された東京の写真です。写真中央奥には国会議事堂の上部が小さく見えています。コンクリートの建物や蔵は原型のままに見えるものの、民家はトタンを繋ぎ合せた様な仮の作りで、辺りは破壊された状態です。とても今の東京からは想像も付きません。それでも、その狭い敷地を利用して、土地を耕し、種をまき、野菜や果物を育てて人々は生き抜いて来ました。

Photograph SC213554; 1 Oct 1945“over the ruins of their homes, tiny gardens flourish, tenderly cared for by the people who know that they must make the soil product or suffer privation because of scarcity of food.”; Records of U.S. Army Signal Corps, Record group 111-SC; National Archives at College Park, MD

 

ここ米国国立公文書館には、見ていて悲しくなるような、第二次世界大戦中の様子や終戦直後の失望する国民の姿、焼野原状態の日本各地の様子を撮った写真は山ほどあります。終戦後の混乱から戦後の復興、そして高度経済成長期を実現させた「日本国民の強さ」を表すこの様な写真を見て感じる事は、出身国や人種を問わず多くの人の心に残るのではないでしょうか。

 

1948年5月14日に東京で撮影されたお祭りの様子です。残念ながら写真の裏に記載されているキャプションに、細かい地名や祭りの名前等は載っておりませんが「戦後混乱期」と言われる時代にも関わらず、活気に満ちた写真です。

Photograph SC300250; Japanese Carnival 14 May 1948“Japanese children carry a decorated shrine during ceremonies celebrating their carnival held in Tokyo, japan.”Photographer- Hancock Photograph by U.S. Army Signal Corps : Records of U.S. Army Signal Corps, Record group 111-SC; National Archives at College Park, MD

 

皆さんは東京ローズと呼ばれた女性たちの事をご存知でしょうか。東京ローズとは、太平洋戦争中に日本軍が連合国側に向けて行ったプロパガンダ放送の女性アナウンサー達のことで、アメリカ軍将兵がつけた愛称です。

次の写真は、その東京ローズの一人、アイバ・戸栗・ダキノさんの写真です。アイバさんは、日系二世として米カリフォルニア州で生まれ育ちましたが、来日中に開戦となり帰米が叶いませんでした。彼女は日本での生活の為に、東京ローズとしてアメリカ軍将兵達に語り掛けたのです。帰米した後の1949年に国家反逆罪で禁固刑を受け、6年間服役しました。時代が変わるにつれ判決を疑問視する声が高まり、1977年には、フォード大統領の恩赦で30年近く剥奪されていた市民権を回復し晩年はシカゴで暮らしました。戦争は、たくさんの人の心を閉ざし、運命をねじ曲げました。彼女もまた、戦争によって波乱万丈な人生を強いられた一人であり、戦争の被害者であるというべきなのかもしれません。(TI,RB,HL)

 

読書をするアイバ・戸栗・ダキノさんの写真

“Photograph SC289866;“Mrs. Iva Toguri D'aquino, The former "Tokyo rose" of pacific war days. Now spends most of her time reading historical novels and devoting herself to her duties as housewife. Mrs. Toguri graduated from U.C.L.A. in 1941 where she majored in psychology and zoology. On Oct. 25th, 1946 She was released from Sugamo prison for lack of sufficient evidence to support her treason charge. She now resides at 396, Ikejiri machi in the Setagaya ward, Tokyo, Japan”Photographer- Hancock Photograph by U.S. Army Signal Corps : Records of U.S. Army Signal Corps, Record group 111-SC; National Archives at College Park, MD

 

(TI,RB,HL)

公文書館の資料から知るマリリン・モンロー

マリリン・モンローは誰もが知る世界的女優です。米国国立公文書館には彼女の写真や映像資料が数点残されています。

 

マリリン・モンローはNorma Jeane Baker(旧名Norma Jeane Montenson)として1926年6月1日に誕生しました。母親が精神的に不安定なため面倒を見ることができず、幼少からずっと他の家庭を転々としていました。高校生の時に知り合い付き合っていた青年と、当時の養父母に押し付けられるように結婚させられました。

 

高校を中退し家庭に入りましたが、夫が米国商船隊に入った後、航空部品工場で働き始めます。その時に、陸軍雑誌「Yank, the Army Weekly」に掲載する写真を撮るために派遣されたDavid Conoverに見出されモデルになることを勧められます。これが芸能界に入る最初のきっかけとなりました。ちなみに、このDavid Conoverの上司は後に第40代米国大統領となる、ロナルド・レーガンでした。(当時は大尉) 夫は妻がモデルをするのを好まず、結婚生活は4年で終わりました。

 

その後、長く下積みを重ねますが、1952年以降雑誌や映画に頻繁に登場します。1953~54年に「ナイアガラ」「紳士は金髪がお好き」「億万長者と結婚する方法」「7年目の浮気」に出演し、その知名度を不動のものとします。

 

 

この写真には、壁紙のように貼られたマリリン・モンローの写真の部屋で談笑する兵士達が映されています。多くの男性ファンを魅了しました。

With nearly 3,000 pin-ups (including over 200 shots of Marilyn Monroe) serving as wallpaper for their quonset hut, these Marines of the "Devil-cats" squadron are still looking for more, October 28, 1952., 1927 – 1981 Records of the U.S. Marine Corps, 1775 – 9999, Record Group 127 National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through http://research.archives.gov/description/532470]

 

1954年にニューヨークヤンキースのスター選手、ジョー・ディマジオと結婚。ジョー・ディマジオの仕事を兼ねた新婚旅行で日本を訪れます。日本滞在中には、東京にある陸軍病院に収容された米兵一人一人を慰問します。この時の様子が映像資料で残されていますが、大女優の慰問に緊張と感動のあまり固まってしまう兵士や戸惑いを隠せない兵士、どさくさに紛れてマリリン・モンローの頬にキスをする兵士等、迎える兵士の様々な様子が映し出されています。

 

また、朝鮮戦争停戦後も韓国に駐屯する米兵のために、単身日本から韓国に渡り、3日間で13,000人の海兵隊員達の前で慰問公演を行ないました。この時の公演の様子も写真や映像資料で知ることが出来ます。

 

慰問公演は2月のとても寒い時で、映像では雪がちらついている様子がわかります。映像の中でマリリン・モンローは、聴衆やまわりの人達に笑顔でいつもと変わることなくサービス精神旺盛で接していました。本当のエンターテイナーだと思います。

 

 

韓国慰問公演の様子

Marilyn Monroe sings several songs for an estimated 13,000 men of the First Marine Division. Miss Monroe stopped at the First Marine Regiment on her tour of the military units in Korea., 02/16/1954 Records of the Office of the Chief Signal Officer, 1860 – 1985, Record Group 111 National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through http://research.archives.gov/description/532471]

 

 

韓国慰問公演の様子

Marilyn Monroe, motion picture actress, appearing with the USO Camp Show, "Anything Goes," poses for the shutterbugs after a performance at the 3rd U.S.Infantry Division area., 02/17/1954 Records of the Office of the Chief Signal Officer, 1860 – 1985, Record Group 111 National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through http://research.archives.gov/description/531435]

 

私生活の面ではジョー・ディマジオとの結婚生活は9ヶ月で終わりました。マリリン・モンローは大衆が持っているこれまでのイメージから脱出しようと、演技の勉強にも力を入れ方向転換を図りますが、精神の不安定から薬物に頼るようになってしまいます。結局著名な劇作家、アーサー・ミラーとの結婚生活も4年で終り、有名政治家との仲もとりざたされ、1962年8月5日、36歳の若さで自宅にて息を引き取ります。

 

華やかな印象のマリリン・モンローですが、意外にも人権派の一面を持っていました。 職業、貧富の差、人種は関係なくみな兄弟であると信じていました。長生きして欲しかった人の1人です。(MU)

 

第2次世界大戦期のポスター資料

今回はNARAが保存しているポスター資料の紹介をしたいと思います。NARAの5階は写真資料の閲覧室ですが、実はポスター資料のスライドも見ることが出来ます。ポスター資料はカラフルで人目を引くものが多く、様々なテーマから作られています。ポスターが作られた時代背景を垣間見ることができ、スライドを見ているとあっという間に時間が過ぎてしまいます。特に第2次世界大戦時期のポスターは興味深く、公債を買うように呼びかけるもの、 武器増産を呼びかけるもの、愛国心を宣揚するものや、プロパガンダ、兵隊募集のためのポスターが多いように思います。

 

 

これは女性労働者をイメージしたものです。労働意欲を高めるために作られました。赤いバンダナを頭に巻き、青い労働服を着て力こぶしを作っている姿は、とてもたくましく感じられます。このポスターは戦後になって有名になり、今でもこの絵のついたグッズが売られているのを見かけます。

 

We can do it!, ca. 1942 - ca. 1943 [Photographs and other Graphic Materials]; Records of the War Production Board, 1918 - 1947, Record Group 179; National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 535413) at www.archives.gov; July 24, 2013].

 

 

 

戦時税切手購買促進ポスター。JapanazisとはJapanese とNaziをもじった言葉です。この当時ポパイのプロパガンダアニメが作られていたそうで、ポパイは人気キャラクターだったようです。

"Let's blast'em Japanazis Buy war stamps here now", 1941 - 1945 [Photographs and other Graphic Materials]; Records of the Office of Government Reports, 1932 – 1947, Record Group 44; National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 514862) at www.archives.gov; July 24, 2013]

 

 

 

左の破壊された建物にROME, 真ん中の建物にTOKIO、右の建物にBERLINと書かれてあり、枢軸国のドイツ、日本、イタリアの指導者が逃げている姿です。

松葉杖をついて先に逃げているヒトラーに “WAIT FOR ME, ADOLF”と言いながら、左端のムッソリーニが後からついて行っています。

 

100 Percent Production - Axis trouble. Keep the bums on the Double!, ca. 1942 - ca. 1943 [Photographs and other Graphic Materials]; Records of the War Production Board, 1918 - 1947, Record Group 179; National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 534548) at www.archives.gov; July 24, 2013].

 

 

 

このポスターの日本兵には顔がなく、”KNOCK THE PAN OFF JAPAN!”と書かれてあります。Panには顔という意味もあり、Japanのスペルにはpanが入っています。日本をやっつけろという意味あいを、Japanとpan, 顔のない日本兵の絵を使って表現しています。

Knock the Pan Off Japan!, ca. 1942 - ca. 1943 [Photographs and other Graphic Materials]; Records of the War Production Board, 1918 - 1947, Record Group 179; National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 534413) at www.archives.gov; July 24, 2013].

 

 

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硫黄島の地を踏んで

米国公文書館における米軍資料戦没者関係調査の実績をもとに、硫黄島日米合同慰霊祭及び日本側追悼顕彰式への参加に対するご招待を硫黄島協会から有難くいただくことになり、今年3月13日に上司とともに私は硫黄島に行く事になりました。3月12日夕方の結団式に参加、また其の後の硫黄島協会幹部の方々との夕食交流会に参加し、硫黄島協会の幹部の方々の貴重なお話を通じて、戦後から現在に至るまでの長い間、家族を見つけたい、また一体でも多くのご遺骨を家族のもとに帰してあげたいという切実な思いで、この遺骨収集事業に一生懸命関わってこられたことをあらためて学びました。

翌13日に、羽田空港から出発し、飛行機で2時間というところにある硫黄島を飛行機から見た瞬間、私はそれだけで、ついに硫黄島に来ることができたという感無量の思いでいっぱいで思わず涙してしまいました。米国公文書館にある第2次世界大戦中の米軍の記録はあくまで米軍のためのものですが、それでも其の中には、ささやかながらも日本軍に関する情報はあります。もちろん、そうした記録資料自体は報告書なのできわめて冷静または冷酷とも思える文体で書かれていますが、それでもその戦闘がいかにすさまじく凄惨をきわめたものであったかということを資料から少しでも垣間見るような思いを私達は抱いてきました。資料の中には、その原本自体は残っていませんでしたが、それでも、日本兵が残した手紙や遺書の翻訳文も記載されており、時代が異なっていれば、それらの日本兵は私達の夫や父や祖父、または息子や孫であったかもしれず、そうした彼らが、生きて帰ることはできないと覚悟しつつ、それでも、本当は生きて帰りたい、家族に会いたいと最後の最後まで家族を思いながら、亡くなったという無念の思いを考えながら関係資料を読んできました。私たちの理解はあくまで米国資料からの理解であるという限界であっても、硫黄島を実際に見たときに、自分では抑えられないような感情が一気に込み上がってきました。

飛行機からみた硫黄島

 

 

日米合同慰霊祭は、1945年当時にあった米海兵隊第3、4師団の墓地があったところからもう少し南に下った場所に建立された日米再会記念碑前で行われました。硫黄島協会の西泰徳氏(戦車第26連隊長、西竹一大佐の御子息)による追悼のことばに始まり、衆議院議員で硫黄島問題懇話会会長の逢沢一郎氏のことば、硫黄島協会顧問遺族代表新藤義孝氏(小笠原兵団及び第109師団長、栗林忠道中将のご令孫)のお手紙の、硫黄島協会副会長越後良和氏の代読、そして参議院議員で外務大臣政務官の若林健太氏のことばに続き、米国側からジョンパックストンジュニア海兵隊大将及びローレンススノードン海兵隊退役中将からのことばが続き、日米それぞれの献花が行われ慰霊祭は厳粛に終りました。

“かつての戦地、今や友好の地、昨日の敵は今日の友である”と記した日米再会記念碑

 

戦後68年目にあたるこの慰霊祭には米国側から140名、日本側から130名の参加がありました。日米両国の兵士達が68年前に死闘を繰り広げたこの地で日米両国がともに追悼し二度とあのような戦争を繰り返さないと誓い、平和への努力をしていくことを確認するという、慰霊追悼の機会はとても貴重なものであると思いました。

 

日米合同慰霊祭のあと、あらためて天山慰霊碑前で日本側のみの慰霊追悼式があり、関係者の追悼の言葉とともに参加者全員で献花を行いました。そのあと、かなり時間が限られていましたが、硫黄島協会の西会長と会計部長の原口利昭氏とともに硫黄島を案内していただきました。戦車第26連隊の壕があったところは今は蓋をしてある状態ですが、火傷をしてしまうほどの非常に熱いガスが絶えず吹き出ていました。栗林中将の兵団司令部壕の入り口は、屈まなければとても奥には進めないと思えるほど小さなものでした。海軍医務科壕は比較的大きな壕でしたが、其の中はすでに蒸し暑い状態で、そこにいるだけで汗がどんどん出てくるようなところでした。

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鹿児島と神風特攻隊

メリーランド州にある国立公文書館では、機密指定を外され解禁となった太平洋戦争に関連した軍事テキスト資料、フィルムや写真資料がたくさん保存されており、私達はその大変貴重な資料を実際手に取り、毎日資料調査をすることができます。

 

太平洋戦争といえば、日本海軍機動部隊からの第一波、第二波空中攻撃隊による真珠湾への奇襲攻撃から始まった事が知られていますが、鹿児島出身の私は神風特攻隊を思い浮かべます。特攻隊とは太平洋戦争末期に編成された特別攻撃隊の事ですが、私の父方の祖父は特攻隊員だったそうなのです。特攻基地というと旧陸軍知覧特攻隊が有名ですが、鹿児島には太平洋戦争末期、知覧、国分、串良、鹿屋と4箇所の特攻基地があり、海軍の最大の特攻基地であった鹿屋からは戦争末期のたった82日間で908名の尊い命が沖縄に向け飛び立ち、二度と帰ってくることはなかったそうです。この鹿屋基地は父の出身地の隣町であり、祖父はここから飛び立つ予定だったそうなのですが、健康診断で許可が下りなかったのか、病気になったのか、今となっては確かめるすべはありませんが、とにかく祖父は飛ばずに生きて帰ってくることができました。父は戦後生まれですから、この時に祖父が飛び立っていれば私は生まれていなかったことになります。

 

国立公文書館5階には写真の閲覧室があります。そこでは第二次世界大戦や戦後の日本占領に関する写真を含め、90万枚以上の写真を閲覧することができます。その中には私の出身地、鹿児島や鹿屋基地の写真もありました。

 

(戦後の鹿児島市を城山から一望)

Photograph SC336007; “ Views of Kagoshima city and Harbor with MT Sakurajima.” 11 Dec 1949; Records of the U.S.Army Photo-turnbull, Record group 111-SC; National Archives at College Park, MD

 

(終戦直後の鹿屋基地)

Photograph 343540; “ Bomb damage at Kanoya air field,  Showing wrecked planes and hangers.” 2 Sep 1945; Records of the official U.S.Navy photo, Record group 80-G ; National Archives at College park, MD

 

終戦直後の鹿児島の写真をアメリカで見る機会があるというのは不思議なものです。

 

戦争を知らない私が日本の歴史を振り返り、学びなおすよい機会であり、私の子供や後世に伝えていく事が大事なのではないかと思っています。(SW)

 

原爆ドームの思い出

米国国立公文書館にはテキスト資料の他、地図資料、映像資料、写真資料など色々な資料が所蔵されています。今回、久しぶりに広島の原爆投下に関連する写真資料を見る機会がありました。

 

私は広島県の出身です。幼い頃から家庭でも学校でも平和学習というものにとても身近な環境で育ってきました。学生の頃は、頻繁に行われる平和学習や広島原爆資料館への遠足、夏休みの登校日8月6日(原爆投下の日)に学校で黙祷を捧げることなどは当たり前の事と思っていました。

 

しかしながら、広島市民として原爆投下は忘れてはならないことであり、その事を子供の頃からしっかりと学ばせ、後世へと繋いでいくという強い思いの中で全てが行われていたのだということを、最近他県の出身者の方々と会話する中で気付きました。そしてまた広島に生まれた故の経験であると強く感じさせられました。

 

広島でも学校によって平和学習のありかたは様々だとは思うのですが、私が一番覚えている平和学習の内容というのは原爆ドームに関する学習です。一般の方には原爆ドームの本当の名前が、「広島産業奨励館」というよりも、やはり原爆ドームといった方がすぐに分かると思うのですが、平和学習の中のひとつに原爆ドームの建築方法がありました。あの建築方法であったからこそ原爆投下にも耐えられたという風に子供心にもしっかりと記憶しています。

 

広島産業奨励館は爆心地から北西約160メートルの至近距離で被爆しました。広島市内の建物は一瞬にして倒壊したといわれている中、数少なく残っている他の建物の中でも唯一外観が分かる形で残ったといわれている建物なのですが、このドーム型の建物であったため、爆風が上方からほとんど垂直に働いたために建物の中心部(ドームの部分)は倒壊を免れたと言われています。原爆が投下される前から、この建物の出現は当時の広島市民にとって大胆で非常に珍しく広島名所の一つに数えられたということです。その姿は原爆投下後の変化はありましたが、現在に至るまで原爆資料館と並んで広島名所の一つのままその地に残っています。 (MJ)

 

(被爆後の原爆ドーム)

Photograph No.77-AEC-51-4029 Prints: Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki Japan, August 1945; Records of the Office of Chief of Engineers, Record Group 77-AEC National Archives at College park, MD

 

(被爆後の広島 場所は不明)

Photograph No. 243-GWE-HIROSHIMA-10 Prints: General Photographic File for Japan, 1945: Records of the U.S .Strategic Bombing Survey, Record Group 243-G National Archives at College park, MD

 

ミッドウェイ博物館

3月21日~24日にかけて、アジア学会(Association for Asian Studies)がカリフォルニア州サンディエゴで開催されました。

アジア学会はアジアに関する社会問題や歴史、芸術など多岐に渡ったテーマについて、400件近いセッションを行います。ここ数年ニチマイもアジア学会にブースを出し、出版物や業務内容について紹介をしています。

また、セッションに参加し、仕事に関する知識を深めるとともに、今後の研究の方向性やテーマなどに関しての情報収集が出来ました。大変有意義な学会参加でした。

 

アメリカ西海岸にあるサンディエゴは、私が住んでいるアメリカ東海岸と違い、気候も暖かく、ヤシの木がまっすぐ並ぶ美しい街並みです。また、サンディエゴは米軍の海軍基地になっており、サンディエゴ港には沢山の空母艦や軍艦が停泊しています。

その中で特に目を引くのは、巨大な空母艦ミッドウェイです。ミッドウェイは1945年に就役し、1965年にはベトナム戦争に参戦、1980年代には横須賀基地を母港として湾岸戦争にも参戦しました。1992年に老朽化のため退役が決定し、その後は空母博物館として生まれ変わり、サンディエゴで一般公開されています。全長は296mもあり、近くからではカメラに収まりきらない程の大きさです。

 

 

博物館として公開されている空母艦ミッドウェイ

 

まず、艦内に入ると広い格納庫に沢山の戦闘機が展示されており、入口で借りたヘッドフォンガイドの説明を聞きながら各展示物を見ることができます(ヘッドフォンガイドは日本語もあります)。戦闘機のコックピットに乗ることもでき、ところ狭ましとボタンやメーターが配置されているコックピットは想像よりも狭いことに驚きました。次にフライトデッキに上がると、ここにも戦闘機やヘリコプターなどが展示されています。ここから飛行機が飛び立つところを想像すると爽快な気分になりますが、300m足らずの距離で飛行機の離発着が行われていたとは信じられません。

 

 

 

 

 

 

 

F4U-4 Corsair

 

 

 

 

 

 

 

 

フライトデッキから見た司令塔

 

艦内に入ると天井が低く、狭い通路が迷路のように張り巡らされています。狭い通路や階段を登りながら、司令塔や操舵室、艦長室、会議室、無線室、レーダー室、キッチンなどを見学することができます。艦長室はとても豪華な装備で、船の中にいることを忘れてしまう程です。

 

 

 

 

 

 

 

作戦会議室

 

 

 

 

 

 

 

 

レーダー室

 

 

 

 

 

 

 

 

艦長専用キッチン

 

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エルビスと米国公文書館

皆さんは「エルビス・プレスリー」が徴兵され、陸軍に入隊した経歴を持っていた事をご存じでしょうか?

当時アメリカには徴兵制度があり、エルビスのもとにも徴兵の知らせが届きます。エルビスは若者、特に女性の熱狂的ファンを得ていましたが、一般的には眉をひそめられることが多かったようです。

そこで、彼のマネージメントは、この徴兵を一般社会からのイメージアップに利用しようと考え、入隊後娯楽専門の部門に配属させる等の策を練っていたようです。また、受け入れ側の陸軍、海軍からはエルビスを特別待遇で受け入れたいとの要望がありました。

しかし、エルビスはあくまでも一般兵士としての入隊を希望し1958年3月24日~1960年3月5日まで陸軍に在籍しました。

 

これは入隊の際の本人直筆サイン入りの書類です。

Acknowledgement of service obligation sgned by Elvis Presley on March 24, 1958 to indicate that he understands that his total service obligation (both active and reserve) is 6 years, 03/24/1958-03/24/1958
Records of the Army staff, 1903-2009, Record Group 319: National Personnel Record Center-Military Personnel Records, St. Louis MO [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 299792) at www.archives.gov; March 1, 2013]

 

エルビス入隊に関しては、モンタナ州の熱心なファンが3人連名で、当時のアイゼンハワー大統領送った抗議の手紙が残されています。

Letter from Linda Kelly, Sherry Bane and Mickie Mattson to President Dwight D. Eisenhower Regarding Elvis Presley
White House Central Files(Eisenhower Administration), 1953-1961, Collection DDE-WHCF; Dwight D. Eisenhower Library, Abilene KS [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 594359) at www.archives.gov; March 1, 2013]

 

この手紙の内容はかなり面白く、「エルビスのもみあげを切ったりしたら、私たちは死んでしまうから」というものです。

徴兵義務を果たしエルビスは無事芸能界に戻り、陸軍時代に習得した空手を自分のパフォーマンスに使ったりしました。 不遇の時期もあったようですが、カムバックを果たし、1970年にはホワイトハウスで、当時の大統領ニクソンと面会しています。

Photograph of Richard M. Nixon Shaking Hands with Entertainer Elvis Presley in the Oval Office.
White House Photo Office Collection (Nixon Administration), 01/20/1969-08/09/1974, Collection RN-WHPO; Richard Nixon Library, Yonba Linda CA [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 194704) at www.archives.gov; March 1, 2013]

 

いつもは、戦争関係の資料を主に読んでいるのですが、このようなジャンルの違う写真や資料も米国公文書館で保存されていることを知り大変興味深く思いました。 またブログでご紹介したいと思います。 (MU)

サンフランシスコ公文書館

アメリカ国立公文書館(National Archives and Records Administration、NARA) の施設はワシントンDCにある本館をはじめとし、地域文書館やレコードセンターなど、アメリカ各地に30箇所以上あります。NARAが保存する資料はARC(Archival Research Catalog)でオンライン検索が出来るようになっています。キーワードを入れると、そのキーワードに関係した資料の情報が出てきます。通常私たちはアーカイブスⅡとも呼ばれ莫大な資料を保存しているカレッジパークの公文書館で調査をしています。しかし、調査内容によっては他の公文書館などにも行く必要が出てきます。

 

今回は初めてサンフランシスコ郊外のサンブルーノにある公文書館に行ってきました。下記のウェブサイトがサンフランシスコ公文書館の情報になります。

http://www.archives.gov/san-francisco/

 

This photograph was taken by the author on January 7, 2013 

サンフランシスコ公文書館

 


サンフランシスコ公文書館には北・中央カリフォルニアやネバダ州、ハワイ、米サモア、グアム、元太平洋諸島信託統治領から集められた1850年ごろから1980年代までの資料があります。具体的な数量は分かりませんが沖縄の海軍関係の資料もあるようです。移民関係資料が豊富で、職員にお話を聞くと特に中国人移民に関しての資料が多いそうです。日本人“Picture Bride”の写真もあるとの事でした。

 

ここにはアルカトラズの資料もあるそうです。アルカトラズといえば、有名なギャング、アル・カポネなどが入っていた連邦刑務所。極悪人ばかりで、監視の厳しい刑務所であるというイメージがありますが、独房でおまけに食事は良かったとのこと。意外なことにここの刑務所の居心地は他の刑務所と比べると悪くはなかったようです。他の刑務所で脱獄をしたり、問題を起こした場合はこのアルカトラズ島に送られたようですが、必ずしもそうでない人もいたようです。

 

Plan for the Modernization of Alcatraz Prison Cell Block D, 1940 [Architectural and Engineering Drawings]; Records of the Public Buildings Service, Record Group 121: National Archives at College Park, College Park, MD [online version available through the Archival Research Catalog (ARC identifier 596298) at www.archives.gov: January 22, 2013 アルカトラズ刑務所の独房棟プラン

 


初めて知ったのですが、アルカトラズでの受刑者の中には日系人もいたそうです。彼はカリフォルニア生まれの日系2世で、日本の大学へ留学している時に太平洋戦争が始まりました。そのため米国に帰れず、戦争中は日本側の連合軍捕虜収容所で通訳をしていました。戦後米国へ帰った彼は、戦争中の行いについて国家反逆罪で捕まり、アルカトラズに送られたようです。どういった経緯でこのようになったのか、もう少し彼の情報について知りたくARCで検索をすると、どうやらカレッジパークに資料があるようです。今度、時間のあるときにこの資料を見てみようと思っています。

(NM)

米国の戦没者遺骨収集について

昨年の9月27-28日の2日間にわたり、カリフォルニア州のサンデイゴにおいてJPAC(Joint POW/MIA Accounting Command:米国戦争捕虜及び戦争行方不明者遺骨収集司令部)の主催によるシンポジウムに参加しました。

 

JPACとは、米国防省の指揮下にあるもので、過去の戦争や紛争によって戦争捕虜(Prisoner of War)及び戦争行方不明者(Missing in Action )となり、かつての戦闘地またはかつての敵国領内にいまだに眠っている米兵の遺骨の所在を探索し、遺骨を収集する事業を担っている組織です。歴史学者、考古学者、人類学者 などの様々な分野の専門家及び米軍各部隊の専門家によって組織され、米兵遺骨の所在の捜査及び分析(Investigation&Analysis)、発掘(Recovery)、身元確認(Identification)、そして、家族のもとへの返還と完了(Closure)までの一連の過程を担っており、現在は第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争及び冷戦時のそれぞれの米兵捕虜及び戦争行方不明者の遺骨を捜索しています。この組織に関する詳細情報はこの組織のサイト、http://www.jpac.pacom.mil/ にあります。

 

第2次世界大戦の太平洋戦線における米兵の戦没者遺骨収集事業において、近年の米国内の民間団体の活躍、貢献度は大変著しいものとなっています。今回のシンポジウムはこうした民間団体との相互理解や情報交換を図り、また戦没者遺骨収集のガイドラインの整備をともに考えることを通じて、よりよい成果を出し、さらに遺骨収集事業を推進していきたいという目的の為、JPACが米国内の戦没者関係調査及び発掘を行う民間団体を招聘したものでした。ニチマイは、米兵の遺骨収集事業には直接関係ないのですが、これまでの日本の戦没者関係資料調査においての実績がJPACの歴史家によって高く評価された結果、このシンポジウムに招待されることになりました。

 

100名ほどの参加者で開催された2日間のシンポジウムは、朝から夕方までのセッションがぎっしり詰まったものでした。その内容は、JPACとその他の米国内の戦没者遺骨収集関連組織との関係について、米兵遺骨情報の収集と情報分析の仕方、特定の米兵遺骨の発掘にいたるまでの慎重な準備と調査、現場での発掘を専門とする部隊の詳細、考古学的なアプローチを通じての身元確認までの慎重な分析と鑑定過程、戦没者事業に対する一般の見方及び期待について、JPACが抱える問題点と課題、民間団体による遺骨収集事業推進においての法的手順といった多岐にわたるものでした。こうしたシンポジウムに初めて参加した私はあまりの多くの情報に圧倒される思いでした。しかしながら同時に米国の戦没者遺骨収集事業が、いかに専門的、科学的、組織的、かつ総合的に行われているかを実感せずにはいられませんでした。また、発掘に関しても、海兵隊、海軍、陸軍の違いを超えて、様々な軍部隊の専門家が歴史学者や考古学者または人類学者とともに行動をともにしながら、遺骨が存在する場所(時には奥深い山であったり、海底であったり、軍隊の特殊な訓練を重ねた人間でなければ探索はもちろん、その場所に行く着くことができないような場所)に行き発掘作業にあたるということも衝撃的なことでありました。

 

シンポジウムで入手したJPACのチラシの一部より


また、JPACは、国防省内の別の組織であるDPMO (Defense Prisoner of War /Missing Personnel Office:米国防省戦争捕虜行方不明担当局)とともに米国以外の国々の遺骨収集事業に絶えず注目をしています。第2次世界大戦で行方不明の米兵は73677名であり、その半数以上が太平洋戦線でした。例えば、ソロモン諸島では空中戦で900名、地上戦で600名、海上戦で4500名がそれぞれ戦死し、合計で6000名の米兵が行方不明であるとのことでした。また、旧ビルマ(現ミャンマー)では600名、フィリピンでは7200名、インドでは430名、パプアニューギニアでは2085名、パラオでは1945名、中国では1100名の米兵が行方不明となっています。日本の硫黄島では陸海空軍合わせて約1200名の米兵が行方不明であり、JPACとしてはそうした米兵の遺骨も日本の遺骨収集事業の中で発見されることもありうると考え、今後の日本の遺骨収集事業に注目をしているということでした。DPMO (Defense Prisoner of War /Missing Personnel Office:米国防省戦争捕虜行方不明担当局)のサイトには日本関係情報も掲載されています。http://www.dtic.mil/dpmo/news/factsheets/documents/japan_factsheet.pdf

 

このJPACのシンポジウムに参加した米国内の戦没者遺骨収集民間団体の多くは、JPACの縮小版ともいうべき組織として存在しており、歴史資料調査を担当する人々、実際に現場に行って発掘作業をする人々に分かれながらも連携し、さらに発見した遺骨を鑑定する専門家を集めて研究室を整備しているということでした。中には私財をなげうって、まったくの個人で遺骨収集をしている方もいらっしゃいました。そうした方々の使命感そのものと、またその使命感に支えられてそれぞれ自分の仕事をもちながらも、そうした民間団体の一員として一つ一つのプロジェクトに関わり、年に何度か海外へ足を運んでおられるということで、日本にもそうした団体は規模そのものは異なっていても数多く存在していると思いますが、本当に頭が下がる思いでした。

 

このJPACのシンポジウムへの参加を通じて、捕虜として死亡、または戦闘で行方不明となった米兵に対して、“自分たちは決してそうした兵士を忘れない”ということ、また、”彼らが家族のもとに帰ってくるまで自分たちはこの使命を貫く“という、遺骨収集事業を国として担うJPACの使命感とその多岐にわたる活動の実績、またJPACを支え、また同時に独自に活動を展開している民間団体の存在意義とその実績について貴重なことを学ぶことができたと思っています。(YN)

 

シンポジウムで入手したJPACのチラシの一部より


資料に見る歴史の複雑さ

米国公文書館では、連邦情報公開法にもとづいて、登録手続きさえ行えば誰でも公文書を閲覧することが可能です。ただ、全ての文書が公開されているというわけではなく、現行の軍事技術や外交にかかわる機密事項として認識された場合には、非公開として指定されています。例えば、日本占領時代の米国政府高官に関する史料では、夥しい数の報告書や書簡が1991年付けで抜き出されていました。しかしながら、第二次世界大戦中、米国の一般市民の目にさえ触れることのなかった軍事文書も、日本人の私が直接この手にとって見ることができる、その小さな現状に、大きな歴史の流れを感じます。

 

原爆の投下ターゲットの決定に関する報告書を手にした時、そのターゲット一覧に尼崎や大阪という文字を発見し驚きました。投下ターゲット決定の経緯について、連合軍捕虜キャンプの有無が最も重要視されていた旨を示唆する報告書もあり、その決定に人道的な配慮がなされていたとする従来の見地と矛盾しうる事実に、史実の複雑さを改めて目の当たりにしました。さらに、1945年7月の時点では、広島・長崎に引き続き、12月までに合計10発あまりの原爆投下が計画されていたと同時に、終戦間際まで各地で爆撃が継続され、九州、東京経由での大規模な上陸戦線が計画されていたという史料を通じて、私自身の第二次世界大戦に関する歴史観が変化するきっかけになりました。

 

政府高官や対外政策関連の史料では、ベルギー、スウェーデンを始めとする複数国が、資源提供という面で、大きく第二次世界大戦に関わっていることが明らかになり、この大戦がいかに大規模なものであったかという事実を改めて認識しました。政策や政治を見据えた観点から作成された報告書では、そこに人間の温かさを感じるものは少なく、自国の兵士ですら一塊の手段以外の何物でもないかのような、冷たく平坦な印象を受ける内容のものがほとんどです。あまりにも大きな歴史の流れの中で、一人の人間の声もいのちも、一国の政治や政策の大きな波間にかき消されてしまうような、どんよりとした無力感と焦燥感を感じたこともありました。

 

そのような中に、戦後の米国による沖縄占領体制について、米国市民個人が政府高官に宛てた手紙を2通見つけました。一通は、米国軍部による沖縄の支配体制が、全体支配体制に通じる可能性があるとして、沖縄市民の民主的権利に基づいた米国軍部の姿勢を問うもので、もう一通は、沖縄返還を訴える17歳の日本人の少女からの手紙を提示して、「ここに、日本国民の声が反映されているのではないでしょうか」と、沖縄返還を訴える内容でした。また、筆書きの抗議文に出会いました。福岡県沖縄基地取り上げ反対県民大会の代表が、沖縄返還を訴えるべくアイゼンハワー大統領に宛てたものでした。国という単位で記録された歴史的事実、個人レベルでの体験としての歴史的事実、さまざまな側面から包括的に史実を把握する必要を感じました。

 

先日、日本兵捕虜の尋問記録に目を通しました。食料不足で2週間何も口にすることができなかった神戸出身のこの日本兵は、22歳。拘留当時、極度の栄養失調だったと記録されていました。その日本兵は、自分の尋問記録が、将来、日本人によってアメリカで閲覧されることなど、考えにも及ばなかったことでしょう。時を超えて、自分の健康状態や身の安全を祈る人間が存在することなど、考えにも及ばなかったことでしょう。

 

時空のコチラ側から、史料調査を通じて個々のいのちの形跡を辿る作業は、あまりにも漠然としていて、自分の内にある『日本人性』に触れざるを得ないような気がします。(MT)

 

捕虜関連資料を読んで

ニチマイの一員として米国公文書館で仕事を始めて、約一ヶ月が経ちました。資料調査のお手伝いなども始めて、いくつかの資料に目を通すことができました。そのうちの一つは、太平洋戦争の際に米国の捕虜となった日本人の捕虜リストです。

 

その中で特に印象に残っているのは、沖縄県出身の少年でした。 16歳の時に沖縄で捕らえられハワイの収容所にいたようです。写真も保存されていて、まだ少年というか子どものように写っていました。当時のことで今の時代の日本人とは体格が違い、身長157センチ、体重47キロで体も小さい少年でした。いったい、捕らえられてその後どうなったのでしょうか? あまりに若いこと、写真の幼い印象が重なって心配になってしまいましたが、調査を進めていくうちに、その少年が無事に家族の元に戻ることができた、ということが分かりほっと胸をなでおろしました。

そのいきさつが少し妙なのですが、少年の家族はハワイのホノルル在住、でも少年は沖縄生まれで現住所も沖縄であると言っていたそうです。 少年がハワイの収容所にいた時に、ホノルルの家族が少年に会いに来ていた、という記録もありました。 どういう経緯でそうなったのかは知ることができませんでしたが、どうも少年が生れて4年後にホノルルの移民局で米国市民権を取得した、ということが判明し家族の元に戻されたようです。 

 

もう一人、気になった人がいるので少し紹介してみたいと思います。 収容所で、米兵にさからったり言うことを聞かなかったりして、罰せられた記録も資料の中にはあります。 この人はどうも不器用だったのでしょうか、食事の下ごしらえのためじゃがいもを切っていたところ、そのじゃがいものいくつかを床に落としてしまったらしいです。 しかも何度か同じようなことをしているようで、食べ物を粗末にしたという理由で罰せられ、その罰は3日間パンと水のみ、ということ。自分もとても不器用なので、もし戦争で米軍の捕虜となっていたら、この人と同じ目にあうのが明らかです。 平和な時代に過ごせて良かったなあ、とつくづく思います。(MU)

 

兵士の埋葬情報

1945年当時フィリピンには米軍によって作られた敵兵の墓地がいくつか存在していました。その中に1945年7月7日に設立されたCanlubang Prisoner of War Cemetery #1という、かなりの人数の日本兵が埋葬された墓地がありました。ほかの墓地に埋葬されていた日本兵もそこに移され、この墓地に再埋葬されたようです。1948年になり、そこの墓地に埋められた日本兵の遺骨は日本へ返還されるために掘り起こされました。下の写真はその時の掘り起こし作業の様子です。

 

FINAL HISTORY REPORT OF CANLUBANG PRISONER OF WAR CEMETERY #1; RECORD OF GENERAL HQ, FAR EAST COMMAND, SUPREME COMMANDER ALLIED POWERS, AND UNITED, AND UNITED NATIONS COMMAND, Record Group 554; National Archives at College Park, College Park, MD


一番最初の写真が作業が始まる前の写真になります。墓標が立てられ、きちんと計画されて埋葬されていたようです。堀り起こされた遺骨はほかの遺骨と混合しないように一体一体何かで包まれたようです。ここに載せた写真以外にもまだ写真があり、丁寧に一体一体が扱われていたように感じました。

 

また、先日見たNARAの資料にコピー用紙の半分ぐらいの大きさの米軍の埋葬書がありました。表側は氏名、死亡場所、死亡日、死亡原因、埋葬場所、そして両隣に誰が埋葬されているのかが記載されています。裏面には亡くなった人が身元不明だった場合のための、両手の指紋を押す場所、身長、体重、目の色、髪の毛の色、人種などを書き込む箇所があります。あまり気にも留めずにその資料を見ていましたが、ある1枚の埋葬書に目が留まりました。それは1944年8月に戦死した米兵の埋葬書でした。裏面には指紋を押す場所に両手がないので指紋をとることが無理なこと、目の色を書き込む欄には顔がないことが書かれてありました。

 

第2次世界大戦では日本もアメリカも多大な犠牲者を出しました。私が見たのは墓地の写真とごくごく一部の埋葬書ですが、これらの資料からそのことを改めて実感しました。(NM)

 

中島飛行機武蔵野製作所

私の通った高校は東京都武蔵野市北部にあり、「はらっぱむさしの」と呼ばれる広大な公園に隣接しています。出身高校は戦後飛行機工場の跡地に建てられ、工場は太平洋戦争時に空襲を受けたという話は聞いたことがありましたが、さほど気にとめることがなく、テニスに明け暮れたのどかで平和な三年間を過ごしました。

 

現在米国公文書館において調査をするようになり、たくさんの日本関係資料があることに毎日新鮮な驚きを持って取り組んでいます。ふと、この飛行機工場のことを思い出し、もしかすると公文書館に資料があるかもしれないと検索を始めました。データベースで調べると、数件の該当資料がありました。

 

この工場は、戦前の大会社である航空メーカーの中島飛行機が所有する武蔵野製作所でした。武蔵野製作所では、主にエンジンを製作していました。米軍の攻撃ターゲットとなり、公文書館には、米陸軍航空軍による爆撃報告記録が残っています。

 

1945年2月21日の記録によると、米陸軍航空軍第497爆撃航空軍が武蔵野製作所をターゲット357という番号をつけ、第一攻撃目標地としました。(下記の航空写真の左側真ん中には、357という数字が書かれています。)しかし、天候不順のため、第一攻撃目標地を回避し、第二攻撃地として東京の橋、建物と定め、東京の荒川の南部を攻撃し、化学肥料会社に損害を与えたことが書かれています。爆撃報告記録には、計画された飛行編成、爆撃機それぞれの攻撃情報、離陸時の順番など詳細な情報が残されています。

 

“Tokyo Area Nakajima Aircraft, Musashino Plant”; 500 BG Consolidated Mission Report 26, February 19, 1946; Records of the Army Air Forces, Record Group 18; National Archives at College Park, College Park, MD. 1945年2月の中島飛行機武蔵野製作所の航空写真。米国国立公文書館所蔵。

 


Mission Report 26, Nakajima A/C Engine Works Musashino Plant, Tokyo, Feb. 19, 1945; 497th Bomb Group, Records of the Army Air Forces, Record Group 18; National Archives at College Park, College Park, MD. 1945年2月19日東京中島飛行機製作所爆撃に関する任務報告書表紙。米国国立公文書館所蔵。

 


また、戦後米軍は日本全国において空襲の効果を調査しましたが、報告書の中に中島飛行機武蔵野製作所の記録も含まれています。写真を見ると、いかに空襲が凄まじいものであったのかということが伝わってきます。

(Source of the two pictures above) IV-C Nakajima Aircraft Company Ltd Musashino Plant Photographs; 17-9-12 WorkSheets – Nakajima Aircraft Company.LTD (Musashino Plant); Records of the U.S. Strategic Bombing Survey, Record Group 243; National Archives at College Park, College Park, MD. 1945年2月の中島飛行機武蔵野製作所の航空写真。米国国立公文書館所蔵。

 


中島飛行機武蔵野製作所に対する空襲は幾度にもおよび、200名ほどの方が亡くなられました。1現在、製作所の跡地では、昔の私のように高校生が青春を謳歌し、週末は広い公園に家族連れが賑わう平和そのものの光景が広がっています。しかし、六十数年前に同じ場所において、綿密な計画により米軍の空襲があり、甚大な被害をもたらしたことを米国の資料は語っており、そのことを覚えていきたいです。(HK)

 

1. 総務省一般戦災ホームページより 

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_nishitokyo_city001/index.html

US Navy Seabee Museum (米海軍設営隊博物館)

太平洋戦争中、米軍は太平洋の島々に次々と上陸し、日本軍との戦いを続けながらも、同時に日本軍が使用していた飛行場を制圧し、飛行場の整備や道路の建設を担い、その後の重要な米軍戦略基地としての基礎を作りました。戦時中の各地の米軍基地はどのような建設過程を経ていたのか、戦後はそうした基地はどのように利用されたのかといったことを探っていくには、それらの建設作業を担った海軍設営隊の資料を読んでいかなくてはなりません。

 

しかしながら、そうした海軍設営隊の資料は残念ながら、第2次世界大戦関係だけでも膨大な資料を誇る、メリーランド州カレッジパークの米国公文書館にはほとんど存在していません。それらのまとまった資料を見るには、カリフォルニア州のポート・ヒューニーメ市にある米海軍設営隊博物館兼資料館(US Navy Seabee Museum)まで行くことが必要です。このシービー(Seabee)とは、設営隊(Construction Battalion)の省略であるCBからきていますが、同時に蜂(Bee)のように働きものであるが故に海の蜂(Seabee)と言われるようになりました。

This photograph was taken by the author on February 6, 2012.
This photograph was taken by the author on February 6, 2012.

この博物館及び資料館は、海軍設営隊基地に隣接しており、ロサンジェルス国際空港から車で約1時間半北上したところにあります。博物館館内は開館している限りいつでも自由に入ることができますが、資料の閲覧はアーキビストと事前に予約を取らないと閲覧ができないことになっています。

 

真珠湾攻撃翌年の1942年、カリフォルニアのこの地に海軍設営隊基地が建設され、太平洋戦争中の膨大かつ様々な軍事機器や物資を太平洋各地に輸送することにおいて中心的な役割を果たしました。また、“俺たちは建設し、戦う”(We Build, We Fight)をモットーとし、この設営隊は太平洋各地の戦闘をになった上陸主力部隊とともに上陸し、激しい戦闘の中で彼らも多くの犠牲を出しながらも飛行場他米軍施設建設を必死に行ないました。

 

設営隊の調査を行なう場合、下記の公式サイトが参考になると思います。http://www.history.navy.mil/museums/seabee_museum.htm

 

このサイトの中には各旅団(Brigade)、連隊(Regiment)、大隊(Battalion) の各部隊の概要がそれぞれ掲載されており、こうした各部隊の情報も実際に調査に行く前に目を通しておくとよいと思います。また、アーキビストに連絡をすれば、各部隊の資料に関する目録(ファインデングエイド)を送ってくれるようになっています。

 

今年は発足70周年ということでスライドや写真を載せている海軍設営隊の公式サイトの内容が充実しており、参考になります。http://www.seabee.navy.mil/ (YN)

 

資料保管室

米国国立公文書館(以下、公文書館と記します)には膨大な資料が保管されています。90億ページにも及ぶ文書、7百万の地図・チャート・図、2千万以上の写真、36万の映像フィルムと、11万のビデオテープがあるとパンフレットに書かれています。過去には国家機密となった資料も、機密事項が解かれ、公文書館で公開されると、誰でも請求すればアクセスできるようになります。最近では、公文書館が「ペンタゴンペーパーズ」と呼ばれる、ベトナム戦争に関する米国政府の極秘資料を公開し、話題となりました。http://www.archives.gov/research/pentagon-papers/

 

ただ、公文書館における全ての資料にアクセスできる訳ではありません。膨大な数の中でも、特に貴重とされる資料は保管室で保存され、一般には公開不可能の資料も存在します。職員に聞いたところ、日本に開国要求したマシュー・ペリー提督の遠征日記や、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺時のライフルやジャッキー・ケネディ夫人の着ていた血のついたドレスが保管室にあるそうです。保管室は、書類が湿気で痛むことのないように一定の温度が保たれ、また火事への対処も万全です。保管室に入ることが出来るのは、公文書館の中でも極限られた上級職職員のみであり、そのドアのアクセスコードも頻繁に変えられ、入るためには何重もの手順を踏まなければならないそうです。

 

この保管室にある資料の一つに、日本の降伏文書があります。1945年9月2日、戦艦ミズーリ号上における降伏文書調印式で、日本側代表の重光葵外相、梅津美治郎参謀総長によって署名された文書です。下記の公文書館のサイトでその一部を見ることができます。

http://www.archives.gov/exhibits/featured_documents/japanese_surrender_document/

 

歴史調査に携わっている者として原文を見たいという思いもあります。しかし公開されてしまうと資料が痛んでしまうことを考えると、貴重な資料は今のまま大切に保存され、未来の世代に引き継がれていくことが最も大切なのだと納得しています。(HK)

 

(公文書館主催のツアーでは、書庫の一部を見ることが出来、貴重資料の保管室前までは行くことができます。ツアーについては下記のサイトに情報が載っています。)

http://www.archives.gov/dc-metro/visit/tours-college-park.html

 

退役軍人の死より

米公文書館で調査を始めて、三年以上が経ちます。一枚一枚の資料に意味があり、時を経ても今なお生き続け、声を発しているように思える時があります。資料調査は大変ですが、その声を聞くことに夢中になっています。しかし、小さな発見が積み重なると、自己満足に陥り、大切な事を見失ってしまうことがあります。元米軍退役軍人であったシリル・オブライアン氏の死を通して、そのことを教えられました。退役軍人の方々の苦しみ、真の戦争の悲惨さをわかったように思っていましたが、実は全く理解していなかった自分に気づかされたのです。

This picture was downloaded from the Johns Hopkins Applied Physics Laboratory website at http://www.jhuapl.edu/newscenter/pressreleases/2011/110202_image2.asp (Image Credit: Pacific War Museum).
This picture was downloaded from the Johns Hopkins Applied Physics Laboratory website at http://www.jhuapl.edu/newscenter/pressreleases/2011/110202_image2.asp (Image Credit: Pacific War Museum).

2009年晩秋、米軍退役軍人であったシリル・オブライアン氏にインタビューをする機会がありました。私は米軍海兵隊第3師団の資料を読んでいたので、同じ師団にいたというオブライアン氏には大変興味を持ちました。オブライアン氏は既に奥様を亡くされ、アパート形式の老人ホームに一人で住んでおられました。

 

当時91歳で、多少耳が遠かったものの、声は溌剌としており、元気に私達を迎え、質問の一つ一つにじっくりと答えて下さりました。過去の硫黄島慰霊祭において、栗林忠道氏夫人とお会いした時のことをうれしそうに話していたオブライアン氏は大変チャーミングでした。そして、戦闘中に若い日本兵達が次々戦死していく姿を真剣に語ってくださいました。記憶は遠い昔のこととして古びてしまうことなく、今なお生き続けていることが伝わってきました。

 

2011年2月半ばには、ワシントンDC近郊で第66回目硫黄島戦の記念会があり、シンポジウムに同僚と共に参加する機会に恵まれました。これまでに戦闘の流れや歴史的背景を学び、軍事的用語も少しは理解できるようになっていた上、実際に硫黄島で戦ったたくさんの退役軍人の方々とお会いできるのはめったにない機会だと思い、私は有名人にでも会えるような高揚した気分で参加しました。一日だけのイベントでしたが、新たな情報も得ることができ、また、退役軍人の方々は、私達日本人の参加を場違いであるという態度を全く見せず、温かく迎えてくださいました。

 

数ヶ月してから、何かの折にオブライアン氏が半年前に亡くなっていたことを知りました。その時突然、オブライアン氏に申し訳ないことをしたという気持ちに襲われました。私が初めて体験する退役軍人の方の死を通じて、戦争は1945年に終わったのではなく、彼ら一人一人の人生が終わるまで続くことに気づかされたからでした。私の戦争に関する知識は多少増えたかもしれませんが、個人の経験や思いをよく理解していなかったのではないかと気づかされたのです。どんなに悲しい、苦痛な思いを持ち続けてこの方たちは、何事も無かったかのように毎日を生きていかなければならなかったのでしょうか。それなのに、私はまるで戦争をよく知っているかのように振舞っていた自分に気づき、深く反省しました。

 

今週テレビ番組で、軍人と民間人のギャップによる問題が取り上げられていました。イラク戦争に従軍した元兵士達が現在、民間人として日常生活を送る際に、従軍経験のない民間人との間にギャップを感ずること、またそのギャップによる苦しみがあることが報道されていました。未だに世界中で、戦争が各地で起こり続け、兵士として戦場で戦っている人々がいます。兵士達の精神や犠牲を省みることの少ない社会に私達は生きています。そのことを自覚して、もっと思い切って私達は元軍人の方々に耳を傾けてみるべきだと思います。きっと自分なりに何かを学ぶことがあり、何よりも戦争の悲惨さを次世代に伝えていく努力を欠いてはいけないと思うのです。(HS)

 

参考:PBS NewsHour "After Draftless Decade of War, Gap Seen Between Miltiary, Civilian." 

 

上記動画へのリンク

http://video.pbs.org/video/2149210405

 

 

調査について

日系人記念碑の入り口
日系人記念碑の入り口

私達はメリーランド州にある国立公文書館・新館を拠点とし、日々多くのテキスト、写真、フィルム資料を調査しています。膨大な資料の中から、必要なものを探し出すのは大変な作業です。だからこそ欲しい資料を見つけた時の感動は何とも言えません。普段は新館で資料に目を通すことに没頭していますが、先日ワシントンDCのダウンタウンにある国立公文書館・本館に資料を見に行く機会がありました。私達は本館で日系兵士の資料を見た後、歩いてNational Japanese American Memorial(日系アメリカ人記念碑)を訪れました。

メモリアルの中の鶴の碑
メモリアルの中の鶴の碑

記念碑は小さいけれども、緑に覆われたとても美しい場所です。アメリカに住む日本人として、戦前、戦後の日系アメリカ人や日系兵士達について学びたいという思いがありました。また、日系人に関する資料を見たり、同僚達と話題になることが多かったため、この記念碑へ足を運ぶことができたことは貴重な体験となりました。

 

私達の仕事は新館での調査に加えて、他の資料館にも足を運びます。今回のように本館に行ったり、時には米軍基地にも通います。以前のブログで紹介したTerry Shimaさんのような退役軍人の方にお話をお伺いすることもとても大切な機会です。

 

毎日公文書館へ足を運んでいて、資料調査はとても奥が深く、一つの事象を調べたら、次の事象が出てきて、永遠に終わりがないように思うことがあります。 だからこそ私は今ここでできる事を限られた時間の中で、徹底的に調査し記録し、そして少しでも資料に対する理解を深めていきたいと思います。(MJ)

 

思わぬ発見-反米扇動者

米国国立公文書館には膨大な資料が保管されていますので、よく知られている資料ではない限り、必要な資料にたどり着くことは容易なことではありません。調査は検討をつけた箱を開け、資料をみて一つ一つ確認する地道な作業になります。すぐに探していた資料があった場合は良いのですが、なかなか見つからない場合は、何十箱もの資料をひたすら見ていくことになります。プロジェクトによっては、何百もの箱を開き、確認します。たくさんの資料を見ますので、興味深いものもあれば、気持ちが沈むようなもの、感動的なもの、また今の時代から見ると不思議に思えるようなものなど様々な資料に出会います。

 

最近私が見た資料の中で印象に残っているのは、 1957(昭和32)年の選挙に出馬した一人の日本人についてです。アメリカの資料では過激な反米扇動者とされていて、経歴や選挙活動、所属する組織について詳しく書かれていました。1950年代初めから区長選や衆議院選などに何度も出馬し、日本にあるアメリカの施設の排除、在日アメリカ人、親米日本人殺害を掲げていました。Anti-American Guerrilla Corps という組織を作りましたが、その組織のメンバーとされていた人たちの多くは、自分がメンバーだということを否定していたようです。

 

その中で1957年2月にダグラス・マッカーサー二世(GHQ最高司令官マッカーサーの甥)が東京の国際空港に到着した時に、襲う計画があると報告されていたことに目を引かれました。結果的には計画だけであったのか、それとも偽情報の報告だったのか、それ以上のことは分かりません。選挙では何度も落選し、投票数も一定数を満たさなかったため供託金を没収されたようです。財源は謎に包まれていましたが、彼には十分な資金があり、考えられる一番最悪なシナリオとしては、彼が金持ちの後援者を見つけてこのような活動をしている場合のようでした。(実際のところ、ウィキペディアでは政界の大物から資金の提供を受けていたと書かれています。)

 

彼が自分の信念で出馬したのか、あるいは依頼されて、選挙妨害の為に出馬をしたのかという点についてはこの資料からは分かりませんでしたが、周囲からは真面目な候補者とは思われていなかったようです。彼の主張に同調したのか、あるいは彼と何らかの繋がりがあるからなのか、彼に投票する人は数は少からず存在しました。この時代の彼の過激な主張に驚き、そして殺人のような犯罪行為を掲げて選挙に立候補できたという事実にさらに驚き、私にとって強烈な印象を残した資料でした。(NM)

 

442連隊退役軍人・Terry Shima氏インタビュー

昨年オバマ大統領は、第442連隊戦闘団に議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名をしました。

http://www.whitehouse.gov/blog/2010/10/05/awe-inspiring-chapter-americas-history

 

442連隊は第二次世界大戦時、日系アメリカ人によって編成された連隊です。二十一もの名誉勲章を受け、米国史上最も勇敢な部隊であると言われています。

 

Terry Shima氏(写真はご本人のご承諾を得て掲載しております)
Terry Shima氏(写真はご本人のご承諾を得て掲載しております)

この度、442連隊の退役軍人であり、Japanese American Veterans Association(日系アメリカ人退役軍人協会事務局長)のTerry Shima氏に話をお伺いする機会がありました。Shima氏は、88才の今も精力的に442部隊や他の日系退役軍人の経験を伝える活動に従事しています。

 

Shima氏はハワイ出身の日系二世です。当時のハワイでは、日系人は最大のマイノリティーグループであり、学校や日常生活では差別を感じることはなかったということです。しかし日本の真珠湾攻撃で状況は変わります。しばらくの間、日系人に対し憎しみの目が向けられました。西海岸では状況がさらにひどく、日系人に対する警戒と弾圧が始まり、日系人は財産を没収され、収容所に入れられます。過酷な状況の中、米国に対する忠誠心を示すために、若い日系二世の男性達は、従軍することを決意します。日系人から編成される442連隊が作られました。

 

442連隊はヨーロッパの激しい前線地に送られます。イタリア、フランスでドイツ軍と戦いました。Shima氏は21才の時、召集され、イタリアに向かいます。442連隊では、米軍の広報活動に従事しました。多くの仲間がヨーロッパ戦線で命を落としました。

 

終戦後、1946年6月にShima氏は442連隊の一員としてアメリカに帰国します。この時、Shima氏にとって最も思い出深い出来事が待ち受けていました。ニューヨーク、ワシントンDC、ハワイにおいて、442連隊を歓迎するパレードや式典が行われ、その内容を広報として全米に伝えたのです。ワシントンDCにおいては、パレード当日雨となってしまい、トルーマン大統領の側近達が中止を申し出たそうです。しかし、大統領は絶対に式典を行うと主張し、雨に濡れながら442連隊を迎え、"You fought not only the enemy, but you fought prejudice…and you have won."(「君達は敵だけでなく、差別とも戦った。そして勝利した。」)と宣言しました。戦争当初は、日系人部隊は忠誠心の面から疑いの目を向けられていましたが、大きな犠牲を伴いながら、献身的に戦った結果、大統領からも賛辞を受けたのでした。

 

Accession number: 73-2233; “President Harry S. Truman (front row, left, in long overcoat) and other dignitaries standing in the rain, reviewing the 442nd Regimental Combat Team, the Nisei (Japanese-American) regiment,” July 15, 1946; Harry S. Truman Library, Independence MO [retrieved from Harry S. Truman Library's website at http://www.trumanlibrary.org/photographs/view.php?id=33643&rr=.] ハリー・トルーマン大統領(前列左、長いコート着用)と高官達が雨天の中起立し、日系二世で編成された442連隊戦闘団に対し閲兵を行なう。

 

戦後においても、日系人達は努力を続けました。軍の中でも昇進を受け、また議員を選出し、活躍を続けています。1988年にはレーガン大統領が、戦争中の日系人迫害について公式に政府として謝罪し、賠償金を払いました。Shima氏は、「私達は、正にアメリカンドリームの中を生きてきた」と言います。ご両親は、沖縄からさとうきび工場で働くためにハワイに移住し、戦争が起こり、迫害の中で従軍し、戦後は高等教育を受ける機会に恵まれ、今なお退役軍人としてご活躍中です。

 

Shima氏をはじめ、日系一世、二世の方々は大変な苦労をされてきました。一世は、仕事を得るため、生きるために、アメリカに渡り、厳しい労働や生活環境を耐え忍んできました。そのさなかに戦争が起こり、苦労して得た財産、仕事、家は取りあげられ、収容所生活を余儀なくされました。自分たちの故郷と、第二の故郷が戦争をしているのです。二世である息子達は兵隊になり、命を落としました。戦後も簡単に差別が無くなったわけではありません。国が謝罪するまでに、四十年を要しました。しかし、Shima氏に、政府に対する不満やまた置かれた状況を恨む言葉は一切ありませんでした。穏やかな笑顔とやさしい声で、私達若い世代に、442連隊や日系人のことを話して下さいました。Shima氏にとって、次の世代に自分達の経験を伝えていくことが使命なのだと思います。

 

Shima氏とは英語で話をし、インタビューを行いました。しかし別れ際は、お辞儀をしながら「どうも」と日本語で挨拶をして下さいました。その姿を見て、私の祖父を思い出し、懐かしい気持ちになりました。アメリカ人の寛容さと日本人の謙虚さという、両国の美点を持ち合わせるShima氏との出会いに感謝しています。米国に滞在する日本人として、もっと日系人の歴史を学んでいきたいと思います。(HK)

 

硫黄島戦の膨大な記録映像

米国国立公文書館には多くの硫黄島戦に関する映像資料が所蔵されています。1945年2月19日の硫黄島上陸数ヶ月前から、戦闘終結後の数ヶ月間にわたる期間に、米軍は多くの映像記録を残しています。

 

上陸直前の2月15日から18日までの映像を見ると、米軍が硫黄島へ向かっている船中の様子がわかります。グリッド線の入った硫黄島の地図を見ながら作戦会議を行い、双眼鏡で硫黄島方面を眺め、煙草を吸いながら会話をし、豊かな食事をしている米軍兵士達がいます。同時期の映像には、海上から攻撃をする艦砲射撃が多く残されています。米軍は、上陸前から硫黄島に猛攻撃を加えました。日本軍は艦砲射撃に対し、地下壕に潜み必死に耐えていました。硫黄島 の地下壕は、栗林中将の命令により作られ、壕は複雑に張り巡らされており、日本軍は米軍の強力な艦砲射撃と空爆を避けることが出来ました。

 

Photograph 127-N-110249; "Marines of the 5th Division inch their way up a slope on Red Beach No. 1 toward Suribachi Yama as the smoke of the battle drifts about them." Dreyfuss, Iwo Jima, February 19, 1945; Records of the U.S. Marine Corps, Record Group 127; National Archives at College Park, College Park, MD. [retrieved from Pictures of World War II at http://www.archives.gov/research/military/ww2/photos/, July 26, 2011] 「戦闘による煙の中、海兵隊第五師団が擂鉢山方面に向かって、レッドビーチNo.1を少しづつ上っていく」

 

米軍上陸日である2月19日、海兵隊兵士達は上陸用艦艇に乗り込み、硫黄島を目指します。海岸に到着後、今度は一斉に敵を目指します。皆腹ばいになり、匍匐前進で浜辺を上がっていきます。緊迫した光景を見て、撮影者も相当危険だったのではないかと思いました。

 

先日、同僚達と一緒に硫黄島の戦いを振り返るという意味でクリント・イーストウッド監督による 「硫黄島からの手紙」 “Letters from Iwo Jima”と「父親たちの星条旗」“Flags of Our Fathers” の二本の映画を鑑賞しました。これらの映画は硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いています。個人的には、日本の視点から見た「硫黄島からの手紙」に思い入れがありますが、「父親たちの星条旗」には、擂鉢山に星条旗を掲げた米兵達のその後の苦難や葛藤が描かれており、どれだけ硫黄島の戦いが壮絶なものであったのかということが伝わってきます。勝利した米兵でさえも戦後何十年にもわたり、精神的な深い傷を負ったのです。

 

以前に「硫黄島からの手紙」を見たことがあったのですが、もう一度見てみると、違う視点を持っていることに気づきました。一日に二十本近くの硫黄島に関するフィルムやビデオを公文書館で見ているので、脳裏に実際の映像が刻まれています。この二つの映画に出てくる米軍の上陸場面や海上からの艦砲射撃、硫黄島へ向かう途中の船の上でグリッド地図を使ったミーティングなど、多くの場面が映像記録と同じ様に描かれており、研究して作られた映画であることがよくわかります。

 

公文書館での貴重な映像を通して、硫黄島の戦いについて学んでいます。そして、後の世へ伝えていくことが私の使命だと信じ、日々仕事に取り組んでいます。(MJ)

 

広島原発の建設計画:アメリカによる日本の原子力平和利用への推進論

3月11日の日本大震災からはやくも四ヶ月が 過ぎようとしています。想像を絶する数の方々が亡くなり、未だに7,200人以上の行方不明の方々が存在し、さらに11万人以上の避難生活を余儀なくされている方々の不自由さと困難を思うと胸がとても痛みます。福島の原発事故の処理状況も、放出された放射能による被爆の実態も不透明な中で、日本の多くの人々の生活が脅かされているという現実に、米国に住む私自身もいてもたってもいられないという気持ちでいます。

 

日本は、広島と長崎の原爆による被爆、米国の核実験による第5福竜丸の被爆、そして核兵器ではなく、地震によって、“平和利用”であるはずの原発が福島での事故によって、またもや被爆を体験することとなりました。日本においては、今回の事故をきっかけに、原発の歴史や、原子力の平和利用とは何か、といったテーマで議論がなされ、また多くの記事や本が出版されているようですが、日本における原子力の発展とその歴史を考える上で、米国公文書館に存在する資料はきわめて重要であると思います。

 

戦後直後から原子力の平和利用の考えは日本に存在していたようですが、本格的な動きは1950年代に入ってから起こります。国連におけるアイゼンハワー米大統領の原子力の平和利用演説があり、また日本は原発技術の習得や原子炉をイギリスやアメリカから輸入することとなりました。政治家はもちろん、産業界の要人、科学者達が中心となり、原子力委員会他関係機関が作られ、また日米間、日英間でも積極的な議論が展開されるようになりました。

 

当初は日本は地震が多いので耐震構造についても議論はされていたようですが、公文書館にある資料の一部を見た限りでは安全性に対する議論が深く審議されていたかを物語るものはまだ出てきていません。むしろ最新科学技術の発展の中で輝かしい功績としての原子力、あらゆる産業と経済の発展に不可欠なすばらしい原子力の発展を進めるべきであるという声が多かったようです。また原発は、当時の日本各地で大々的に開催された様々な復興博覧会や産業貿易博覧会の中で、偉大な原子力技術としては宣伝されていた傾向が強かったという印象でした。

 

米国では、1955年に民主党議員のシドニー・イエイツやアメリカ原子力委員会長官のトーマス・マレーが、広島に原子炉を建設すべきであると米国議会で主張しました。原子力爆弾で被爆し惨禍を蒙った広島において、平和利用という名であっても、中身は同じである原子力を使うという発想に私は衝撃を覚えました。議会記録を読んでみると、広島と長崎に続き、米国の核実験で不幸にも被爆してしまった第5福竜丸事件にも触れながら、同時にソ連との冷戦体制と核兵器競争の中で、軍事大国化し、好戦的なイメージの米国ではなく、もっと平和に貢献する国のイメージを強調すべきであるといったことが述べられていました。広島と長崎の原爆体験の記憶がまだ新しい中、広島に平和的利用としての原子炉を建設することは、そこに救世主が舞い降りるという姿と重なり、キリスト教的なジェスチャーとなると主張していました。これは極めてアメリカの勝手な理屈であると思いますが、その発想が私にはあまりにも突飛であり、理解することができませんでした。

 

この主張は当時のアイゼンハワー大統領には受け入れられることはありませんでしたが、当時のアメリカ国内ではかなり議論にはなったようでした。また、原子力の平和利用といっても、その原発で作られたプルトニウムから核兵器の製造の可能性を匂わすような資料もありました。1950年代の原子力をめぐる日米関係が現在にも影響していると思われるが故に、日本の原発問題を考えていくためには、1950年代の米国資料は鍵であり、きわめて重要であると思います。 (YN)

 

残留兵

米国公文書館を訪れる日本人研究者の間では、国務省の資料が最もよく見られているそうです。今まで私達は、主に軍事関係の資料を調査してきましたが、最近は非軍事関係の資料もよく見ています。私が先日見たのは国務省の資料で、1955年から1959年までに、東京の米国大使館が米国国務省に宛てた文書でした。選挙、政治、外交に関するものなど日本の状況が簡潔に述べられ、その当時の日本の様子を垣間見ることができます。

 

1955年の資料の中に"Ex-Japanese Army Holdout in South pacific"というタイトルのものがありました。Japanese Holdoutとは、残留日本兵のことを意味します。資料の内容は、ペリリュー島で旧日本陸軍残留兵(韓国籍の徴兵労働者)が1955年5月に捕まったというものでした。グアム島で尋問された後、日本政府に引き渡されたようです。

 

また1954年12月にホーランディアで四人が投降し、翌年日本へ戻ったことが書かれていた資料もありました。残留日本兵については横井庄一氏、小野田寛郎氏や、その他にも現地に残った人たちがいたことは 知っていましたが、戦争が終わって十年近い歳月が過ぎているのに潜伏、戦いをしている人たちが何人もいたことに資料を読んでみて今さらながら驚きました。彼らにとってこの十年間はどのようなものであったのでしょうか。何を考え、何を思い、日々を過ごしていたのでしょうか。彼らが戦後から見つかるまでのこの十年間どのような生活を送っていたのか、という点については記載されていません。生きていくことに必死だったかもしれませんが、遠く祖国を離れ、孤独とやるせない気持ちがあったのではないかと思います。(NM)

 

米国公文書館イベント:映画 "Freedom Riders"

ワシントンDCに住んでいることの特権は、政府機関、スミソニアン博物館、諸々の非営利研究団体主催のイベントに無料で参加できることです。私達が調査を行っている米国公文書館においても、政治家を招いての講演会、アメリカ人に人気の家系調査(Genealogy)の講習、特別写真展示などほぼ毎日何かのイベントが行われています。下記のウェブサイトに、イベントの情報が載っています。http://www.archives.gov/calendar/

 

先日、"Freedom Riders"(フリーダム・ライダーズ)という、ドキュメンタリー映画の上映会がありました。1961年当時のアメリカでは、すでにバスの中やバス停、レストランでは、人種別の場所を設けることは禁止されていましたが、南部では徹底されていませんでした。それぞれ黒人と白人の数人から成る2つのグループが、この状況を変えたいと願い、バスに一緒に乗り、ワシントンDCからルイジアナ州ニューオリーンズを目指して旅をしました。彼らは、「フリーダム・ライダーズ」と呼ばれました。バスの座席では、違う人種が隣同士に座り、白人専用の待合室を、黒人が一緒に使いました。すさまじい人種差別の中で、暴力が振るわれることは予測できましたが、非暴力で闘うことを決意していました。

 

This photograph was downloaded from the National Archives website at http://www.archives.gov/global-pages/larger-image.html?i=/dc-metro/events/images/2011/may/freedom-riders-l.jpg&c=/dc-metro/events/images/2011/may/freedom-riders.caption.html, May 14, 2011.

 

途中までは大きな問題は起こらなかったのですが、深南部のアラバマ州に入り状況は変わります。暴徒と化した白人達が、バスを取り囲み、タイヤをパンクさせ、窓ガラスに物を投げ入れ、火を付けます。たまらず、煙から逃れて外にでてきたフリーダム・ライダーズ達に対し、暴力が振るわれます。本来は市民を守るはずの警察のトップすらも、狂信的な人種差別主義者であり、彼らを守ろうとはしてくれません。

 

結果的には、二つのグループとも、目的地ニューオリーンズまで行くことは出来ず、計画をあきらめることになりました。しかし、この運動に共鳴したテネシー州の学生達が、大学卒業を棒に振ってまで、フリーダム・ライダーズの一員としてニューオリーンズまでバスに乗ることにしました。

 

またもやアラバマでは大変な暴力を受けます。特にフリーダム・ライダーズの白人は、裏切り者として、最も酷い暴力の対象となりました。暴力をふるったり、暴言をはくのは、白人男性だけでなく、赤ちゃんを抱っこした白人の女性までいました。

 

フリーダム・ライダーズの運動は、当時外交政策が最重要課題であり、また南部を刺激したくないケネディ政権すらも動かします。ロバート・ケネディ司法長官が、州の介入に消極的だったアラバマ知事を説得し、フリーダム・ライダーズは、無事にアラバマをバスで通り過ぎることができました。

 

しかし隣の州ミシシッピーに入り、フリーダム・ライダーズは白人専用の場所から移ることを拒否したために、警察に逮捕されてしまいます。牢獄に入れられた彼らは、歌を歌い、抵抗を示します。やがて、彼らの運動に共鳴したさらなる人々が、全米からミシシッピー州のジャクソンを目指しやって来て、同じように逮捕されていき、牢獄がいっぱいになってしまいます。様々な人種、宗教、出身地の人々がいました。フリーダム・ライダーズは、無名の人々の小さな運動から始まりましたが、1964年の公民権法制定、すなわち人種差別の撤廃へとつながって行くのです。

 

上映会では、監督と共に、五十年前にフリーダム・ライダーズの一員として運動に参加した四人の方々が紹介されました。満員の客席から、大きな拍手とスタンディングオベーションで迎えられました。

 

最近のワシントンポストの記事によると、人種差別は法としては撤廃されたものの、1970年代頃から、人種による分離は広がっているとのことです。また、一人の元フリーダム・ライダーは、五十年前に命懸けで闘った運動を、今の若い世代が理解しようとせず、また彼らが積極的に、差別の問題について関わりあおうとはしないことへの不安を証言していました。

 

人種差別問題は根が深く、解決は難しく思えます。しかし、今回のイベントを通して、正義のために戦った人々から勇気をもらいました。過去から学んでいくことの大切さを実感した一日となりました。(HK)

 

無我の無我

太平洋戦争中に、米軍が捕獲した日本軍の関係資料の原本は、諜報部門で翻訳された後に、破棄または処理されて現存していないものが多いようです。しかしながら、それらの資料の原本のいくつかは米国公文書館にそのまま保存され、今でも目にすることができます。

 

ブーゲンビルで米軍が捕獲した日本軍関係資料の中には、呉鎮守府配属の海軍二等兵が残した1942年(昭和17年)の日記があり、この日記の中には、出撃を前にした若き海軍兵士の覚悟と真摯な思いを綴った“海軍々人ノ遺書“なるものがありました。その中には、自分が出撃する船に日本の運命と乗組員全員の運命をかけており、この船とともに運命をともにするからこそ、遺書なるものはいらないということから始まり、出撃を前に許可された三日間の休暇で父母と一緒に過ごした時のこと、またその三日間の間に自分が見聞きしたことを記されていました。

 

彼は冗談交じりに自分の亡き後のことを口にしたら、母から縁起でもないと一笑された、とさりげなくその会話を綴っていました。そこには、出撃については面と向かって言えない(許されない)、彼の両親を思う気持ちと、一方では出撃についてはすでに感づいていないわけではなかったが、それでも必ずまた息子と再会できると信じたい父母の気持ちが存在し、互いを思い合い、細やかな心遣いをする家族の間ならではの微妙なやりとりがあったのだろうと私には思えてなりませんでした。

 

彼はまた、近所では多くの男子が戦地に赴き、銃後を守るのは老人、女性、子どものみであり、彼らもまた物価高騰や困窮に直面し、大変な状況であるにも関わらず、戦地の“兵隊さんのことを思えば”と置かれた状況に必死に耐えている社会情勢にも言及していました。この銃後の情勢を垣間見た彼は、そうした情勢を知るものは“誰しもの胸中は無我の無我であろう”とし、だからこそ、遺書も遺言も必要なく、あとは“百発百中、砲弾の威力を百戦錬磨を胸に最大に威力を発揮することができるのである”という言葉で最後を結んだのでした。

 

“無我の無我”という言葉は当時の戦地に赴いた人々に、また銃後を守る立場にいた人々にも共通していたことばであり、当時の時代の精神とも言うべきものであったと思います。戦争を知らない、そして物質的にあまりに豊かな現代に生きる私達にはその言葉とその精神を理解することは決して容易ではありません。しかしながら、その時代の人々の多くの犠牲の上に私達が生きている現代があるという事実を忘れてはいけないと真摯に考えます。

 

一人一人の兵士は誰かの父であり、夫であり、息子であり、孫であり、兄であり、弟であり、叔父であり、時代が異なれば誰もがもっともっと異なった生き方を選択することができたと思います。こうした人々がどのような思いで、戦地に赴き、どのように戦い、どのように戦死したのかということを学んでいく努力を惜しんではいけないのだと信じています。また、他の様々な形で戦場に行かざるを得なかった人々、戦闘に巻き込まれた沖縄の人々、また日本軍の占領と戦闘によって犠牲になったアジア諸国の人々、日本の国内で空襲と原爆で犠牲になった人々も含めて、それぞれの立場で必死に生きていた人々と生きたくても生きることができなかった人々についても同様に、学び続ける努力をしていかなければならないと思います。こうした真摯な取り組みなくしては戦争と平和を語ることはできないと思いますし、また真の平和を築いていくことはできないと思います。(YN)

 

硫黄島米国退役軍人リユニオン&シンポジウム

シンポジウムでいただいたピン
シンポジウムでいただいたピン

第 66回硫黄島米国退役軍人リユニオン(記念会)&シンポジウムが、2011年2月17日から21日までバージニア州アーリントンで開催されました。私たちニチマイスタッフ三名はシンポジウムに参加させて頂きました。硫黄島米軍退役軍人や家族及び遺族、歴史家など合わせて120名ほどの方々が出席されていました。硫黄島の調査を始めてから二年経ったものの、今までに硫黄島退役軍人の方には一人しかお会いしたことがなかったのですが、今回たくさんの退役軍人の方々から直接お話を聞かせていただける貴重な機会を得ることができました。

 

シンポジウムの行なわれた2月19日は硫黄島の戦いが始まった日であり、硫黄島関係者にとって特別な意味をもつ日でした。硫黄島の戦いでは、米軍側も多くの負傷者を出しており、死者6,800人以上、負傷者19,000人以上となっています。

 

米軍退役軍人の方々は、私達日本人参加者をどのように思うのだろうかと不安を抱えながらの参加でしたが、意外にも「こんにちは」などと知っている日本語で挨拶をしてくれたり、気さくにお話をして下さる方々が多かったことは嬉しいことでした。シンポジウムにおいては、硫黄島上陸前の攻撃、硫黄島の日本軍の防御、米軍の上陸線の概要、現在の海兵隊を取り巻く情勢、退役軍人の戦争体験とその後についてのプレゼンテーションがあり、最後に四人の退役軍人によるパネルディスカッションがありました。

 

一番胸をうたれたのは、陸軍航空軍に所属し、硫黄島空爆に関わった退役軍人の方のお話でした。彼の息子さんは日本で仕事をし、日本人女性と結婚をしています。初めて息子さんの結婚の意志を聞いた時、憎き敵だった日本人を家族に迎えるのは許しがたいものであったようです。しかし日本を訪れ、日本という国を知り、また、元日本兵だったその女性の父親と数時間にわたり戦闘体験を語り合い、理解しあう中で、考え方が変わり、結婚を許したとのことです。戦後長い間、二度と日本へなんて行きたくないと思っていたそうですが、今では何回も日本を訪れ、日本とアメリカの平和を強く望んでいます。

 

退役軍人一人ひとりの体験は違いますし、戦争の捉らえ方も違います。その方々から実際の戦地での体験記やその後のお話を聞くことは、硫黄島の戦いを理解するうえで大切なことです。ともすれば、紙に書かれていることだけの理解、知識になってしまいがちですが、今回のシンポジウムを通じて、初めて知ったことも多く勉強になりました。今後、いろいろな角度からもっと深く学んでいく必要性を感じました。(NM)

 

米海兵隊公文書館における調査

私達は普段調査をしている国立公文書館を離れ、バージニア州クアンティコにある海兵隊基地に行きました。ワシントン中心部から車で45分ほど南に下り、高速道路を降りると、硫黄島戦で有名な、星条旗を掲げる海兵隊員の小さな銅像が建っています。広々とした敷地内には、海兵隊の博物館や、海兵隊の大学があります。

 

NWDNS-80-G-413988; ARC Identifier: 520748; Photograph of Flag Raising on Iwo Jima, 02/23/1945; General Photographic File of the Department of Navy, 1943 - 1958; General Records of the Department of the Navy, Record Group 80; National Archives at College Park, College Park, MD. [retrieved from the National Archives website at http://www.archives.gov/historical-docs/todays-doc/index.html?dod-date=223 , May 24, 2011]


今回は、海兵隊公文書館において、硫黄島の戦いの資料を見せて頂く貴重な機会を得ました。海兵隊、海軍の公式書類、硫黄島及び小笠原諸島の地図類、またたくさんの太平洋戦争の記録写真を見せて頂きました。

 

This photograph was downloaded from the General Alfred M. Gray Marine Corps Research Center website at http://www.marines.mil/unit/tecom/mcu/grc.


国立公文書館において米軍作成の地図は目にしていますが、今回初めて日本軍が作成した手書きの地図を見ました。擂鉢山の壕から出てきた地図だと説明書きにありました。当時のアジア太平洋地域における、父島を中心とした各重要地点までの距離が、地図上に示されていました。筆で書かれており、それぞれの国や場所は絵の具により色が分けられています。その色は、六十年以上たった今も、鮮やかです。地図の裏側を見ると、当時の業務日誌を貼りつけて、地図を補強していることがわかりました。誰が、どのような思いで、この地図を作り、擂鉢山の壕の中で使用していたのだろうかと思いをめぐらせました。当時の敵国であるこのアメリカにおいて、六十年以上前の日本軍作成の地図が大切に保管されており、現物を見ることができたのは感慨深いものでした。

 

写真資料も、国立公文書館では見たことのないものがありました。食料不足で苦しんでいた日本とは違って、米軍は上官の誕生日のために、大きなバースディケーキを用意するほどの余裕が伺えました。また、戦闘中でも、米軍の医療設備が整っている様子がわかりました。(HK)

 

 

リーフレットを用いた心理作戦

第二次大戦中、米軍は日本兵の投降を促し、戦争終結を促すために、空中からリーフレットをばら撒きました。これは日本軍に対する心理作戦でした。米軍は、一枚のリーフレットを作るために、日本人の性格分析や日本文化を徹底的に研究し、様々なリーフレットを作成しました。食糧事情の悪い日本人に対して、寿司のような豪華な食べ物の写真を載せたり、家族が恋しくないか、というような言葉で、戦場の兵士が、日本の家族や故郷を懐かしく思うように仕向けています。リーフレットは米国公文書館に残されています。

 

“To bring about Surrender of Japanese Troops”; 915-150 Psychological Warfare; Records of the Office of the Chief of Naval Operations, Record Group 38; National Archives at College Park, College Park, MD.

 

2011 年3月11日に東北地方太平洋沖地震が起きました。現在は海外に住んでおりますが、故郷の日本のことを思うと、悲しく、辛い出来事でした。あまり知られてはいませんが、戦時中の1944年12月7日に、紀伊半島東部の熊野灘及び三重県尾鷲市を中心とし、マグニチュード8.0を記録した巨大地震である東南海地震が起きました。

 

死者、行方不明者は1,233名となっていますが、当時の日本軍部の情報統制により情報が改竄され、また多くの一次的記録も消滅・散逸していることなどから、被害の全体が把握しにくく、今だこの地震の繊細はつかめていません。12月8日の各紙の一面トップは、いずれも天皇の大きな肖像写真および戦意高揚の文章で占められており、地震の被害の記事に関しては、紙面の最下部のほうに数行程度であり、日本軍部は敵国に地震の被害状況を知られることを恐れていたのです。(Wikipediaを参照)

 

しかしアメリカやオーストラリアなどの敵国はすでにこの震災による日本の被害状況を把握して いて、日本の真珠湾攻撃からちょうど三年目の出来事だっただけに、米軍は、この東南海地震の発生は日本への天罰だとし、そのことを描いたリーフレットや、下書きスケッチが幾つかありました。竜は、天罰の象徴として描かれています。アメリカはあらゆる機会を利用したリーフレットを通して、日本人に厭戦気分を与えようとしていたのだと思います。(MJ)

 

日系二世のドキュメンタリー

先日米国国立公文書館において、日系二世に関するドキュメンタリー上映があり、勉強を兼ねて参加しました。公文書館においては、上映会やプレゼンテーション、学習会などが頻繁に行われています。

 

 

This photograph was downloaded from PBS "Most Honorable Son" website at http://www.pbs.org/mosthonorableson/index.html


先日米公文書館において、日系二世に関するドキュメンタリー上映があり、勉強を兼ねて参加しました。公文書館においては、上映会やプレゼンテーション、学習会などが頻繁に行われています。

 

"Most Honorable Son"(最も名誉ある息子)と呼ばれたBen Kurokiさんはネブラスカ出身の日系二世で、今もご健在です。真珠湾攻撃を皮切りに、西海岸を中心に日系人が次々と収容所に入れられて行く中、Benさんはアメリカ空軍に入隊、爆撃隊員として59の激務を成し遂げました。偏見と葛藤の中、日系アメリカ人として、一軍人としてあの時代に生きていくのはどんな苦労をされたのだろうかと考えさせられました。(SJ)

 

ドキュメンタリー"Most Honorable Son"の紹介

http://www.pbs.org/mosthonorableson/index.html