ホワイトハウスのファッションショー

新年あけましておめでとうございます。今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

普段の自分は、ファッションという言葉にはとても程遠いような生活をしていますが、それでも本当は、ファッションの歴史や、現在のトレンドの動向といったものには興味をもっています。ある資料調査の過程で、たまたま ホワイトハウスでのファッションショーに関する写真を見つけたので、今回は、それらの写真を紹介したいと思います。

 

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米国の炭酸飲料水について

日本でもコカ・コーラ、ぺプシ・コーラ、ジンジャー・エールなどの炭酸飲料水は、よく飲まれているかと思いますが、米国ではこうした炭酸飲料水の歴史はとても長く、今も多くの人々に飲まれています。感謝祭やクリスマスなどのホリデーシーズンになると、ビールやワインなどのアルコール飲料とともに、こうした炭酸飲料水もよく買われています。ボトルで1本ずつ買うこともできますが、やはり1ダース単位の缶を買う人々の方が多いと思います。私個人は、ほとんど飲まないのですが、自宅で友人や親類を呼んで、ハンバーガーやバーベキューなどのパーテイを行うときには、そうした肉料理と炭酸飲料水が合うので、買うこともあります。

 

 米国では、炭酸飲料水は、直訳的には、カーボネイテイッド・ドリンクス(carbonated drinks )または、カーボネイテイッド・ベバリッジズ(carbonated beverages )ですが、通常は、ソーダ(Soda)、ソーダ・ポップ(Soda pop)、またはソフト・ドリンクス(Soft drinks)などと呼ばれています。

 

 米国では、炭酸を作る技術は、すでに1760年代にあり、1789年には スイスで ジェイコブ・シュウェップ(Jacob Schweppe)が、ミネラルウォーターに炭酸を入れた飲み物を販売し始めました。19世紀に入ってから、その炭酸飲料に、甘味料を加えるようになり、1870年代に入って、現在でもお馴染みの、コカ・コーラやペプシ・コーラばども出てきました。(参照:Bellis, Mary. "The Troubled History of Soda Pop and Carbonated Beverages." ThoughtCo, Aug. 26, 2020, https://www.thoughtco.com/introduction-to-soda-pop-1992433 )

 

米国の文化を語るうえで、この炭酸飲料の歴史も重要なものであるかと思います。今回は、そうした炭酸飲料に関わる資料をご紹介したいと思います。

 

下記の写真は、米国が、太平洋戦争に突入する以前の、1940年のカリフォルニア州のオークランド市の高校生たちの昼休み時間の写真です。5セントの豆料理と一緒に、キャンデイとコカ・コーラを買い、そしてタバコを吸うといったものは、当時の米国では典型的なスタイルであったようです。

 

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米国の夏時間と冬時間について

米国には、”スプリング・フォワード、フォール・バック“(Spring forward, Fall back.:春に時間を進めて、秋に時間を戻す)という言葉で表されるように、 季節によって、スタンダード・タイム(Standard time: 冬時間)とデイライト・セイビング・タイム(Daylight Saving Time: DST:夏時間)という2つの時間帯を使い分けます。デイライト・セイビング・タイム(夏時間)は、毎年3月第2日曜日の午前2時に時計の針を1時間進めて午前3時とします。その時から、11月第1日曜日の午前2時前まで続き、その日の午前2時には時計の針を1時間戻して午前1時にします。

 

現代のコンピュータ、スマートフォン、テレビなどは自動的に、この時間帯に適応しますが、デジタルではない時計や機器においては、手動であらためて設定を変えなければなりません。

 

世界を見ると、この夏時間と冬時間のシステムを使っているのは、米国だけではなく、カナダ、イギリス他の北米地域やヨーロッパ諸国他を含む70か国以上になります。(参照:Daylight Saving Time Statistics from Time and Date:https://www.timeanddate.com/time/dst/statistics.html

 

もともとは、に日照時間が冬と夏とでは異なるため、日照時間が長い間はできるだけ人間の活動をできるようにし、エネルギーを節約するという目的がありました。現代では、仕事のあとにも買い物やレストランに出かけるなどのいろいろな消費活動を促進することにもなり、結果として、経済効果を上げることになるといったことになっているかと思います。

 

今回は、このデイライト・セイビング・タイム(夏時間)にちなんだ資料をご紹介したいと思います。

 

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エリザベス女王と米国の歴代大統領の写真

エリザベス女王が亡くなってからすでに2カ月以上が経ちました。彼女が、女王に即位した、1952年2月6日から、亡くなった2022年9月8日までの70年間の時代においては、様々な世界のリーダーとの交流があり、米国の歴代大統領との交流も大事なものであったと思います。また、彼女が生まれたのは1926年4月21日であり、この1926年は日本では昭和元年でした。その意味では、彼女が生きた時代の大半は、日本の昭和の時代(1926-1989年)と重なり、第2次世界大戦と太平洋戦争を生きてきた私達の祖父母や父母達が一生懸命生きてきた時代とも重なります。

 

さて、今回は、エリザベス女王と米国の歴代大統領の交流の写真をご紹介したいと思います。生涯を通じてエリザベス女王は、トルーマン大統領から現在のバイデン大統領までの14人のうち、リンドン・ジョンソン大統領を除く13人の米国大統領と会いました。

 

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米国国立公文書館にある日本兵捕虜関係の写真

今年に入ってから、米国国立公文書館は3月1日から、再開し、アポ制度を前提としながらも現在も安定した開館を続けています。やはり実感することは、そこで原資料を閲覧することがどれほど貴重であり、素晴らしいことであるかということです。これまでの様々なプロジェクトを通じて、テキスト資料、写真資料、動画資料、マイクロ資料、空中写真資料などいろいろな媒体資料を見てきましたが、特に写真資料や動画資料は一目瞭然でわかるので、こうした資料はもっともっと多くの方々に見ていただけたらよいなと思っています。

 

今回は、この米国国立公文書館にあるたくさんの日本兵捕虜関係の写真からいくつかをご紹介したいと思います。写真のキャプションは当時の米軍が作成したものであるため、現在では不適切とされるようなことばが入っていますが、ご了承していただければと思います。

 

下記は、フィリピンのルソン島のカラバロ山周辺で投降した日本兵の写真です。たくさんの米兵達に囲まれながら、彼らから与えられた食べ物を食べています。

 

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戦争と図書2

前回の第1次世界大戦中の戦争と図書に関する記事に引き続き、今回は、第2次世界大戦及びその後の時代に焦点を当ててみたいと思います。

 

下記のポスターは、第2次世界大戦中のポスターの一つで、ドイツ・ナチスによる、大量の本の焚書(ふんしょ)―当時のナチズムの思想に合わないとされた書物が焼き払われたことを題材にして、「本は、戦争において武器である。」として、徹底的に戦うことを決意した、フランクリン・ルーズベルト大統領の言葉を引用しています。

 

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戦争と図書 

皆さんは、下記のポスターを見たことがありますか。これは、第1次世界大戦中に作成されたものです。数年前に、ある資料調査で、ペンシルバニア州の カーライル(Carlisle)にある米国陸軍の歴史研究施設である、米国陸軍遺産教育センター(U.S. Army Heritage and Education Center:USAHEC)に行きました。その日の調査を終えて、館内の博物館の展示を見て米陸軍の歴史を学び、その展示の出口にあった土産店も見て回りました。その時に、このポスターも売られているのが、目に留まり、早速買ってしまいました。このポスターの絵の様子から、第1次世界大戦中のものであることはすぐわかりましたが、「戦場に赴く、または戦場にいる兵士」と 「たくさんの本」とが結ぶつくイメージは、当時の私の頭の中にはなかったので、その意外性がとても印象的でした。しかしながら、実は、戦争の時代と図書は、密接な関わりがありました。今回は、第1次世界大戦の時代に焦点を当てて、関連する写真資料をご紹介したいと思います。

 

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戦後まもなくの子ども達

米国国立公文書館では、これまでいろいろなテーマで資料調査を行ってきましたが、そうした過程の中で、戦後の子ども達に関する写真を目にする機会がたくさんありました。今回は、そうした子ども達に関する写真についていくつかご紹介したいと思います。

 

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米国国立公文書館のと特許関係の資料から

私は昔、米国の特許やトレードマークの申請を扱う弁護士事務所で働いていたことがありました。特許の申請から特許を得るまでに米国では20か月から25か月くらいかかります。申請対象となる製品やトレードマークには、実に多様なものがありました。毎日、米国内はもちろん、日本や韓国他の国々からのたくさんの申請書類があり、それぞれの分野の専門家でもある弁護士達を事務的業務をサポートするというリーガルアシスタントの仕事は、毎日、昼食時間をまともに取れないほどのすさまじく忙しいものでしたが、特許やトレードマークに関していろいろなことを学ぶことができたと思っています。

 

さて、米国国立公文書館の資料の中には、特許及びトレードマーク関係の資料群(RG241:Records of the Patent and Trademark Office, 1836 – 1978)があります。これらの中には、とても楽しい資料がありますので、今回はそれらをいくつかご紹介したいと思います。

 

 下記は、1920年4月にイリノイ州のシカゴ市にあったキャンデイ会社による特許の申請を行ったときの資料の1部です。この会社のキャンデイのラベルは、おとぎ話に出てくるキャラクターがパレードをしている素敵なデザインになっていると思います。このキャンデイ会社の申請書が、1920年4月15日に米国特許オフィスによって受理されてから、4か月後の8月16日には、すでに承認されたことがわかります。

 

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米国国立公文書館にある漫画資料から

2022年もあっという間に4月を迎えてしまいました。2020年の3月からの米国公文書館の閉館は、1年と半年続くことになりました。2021年の8月から限定再開をしましたが、デルタ株の感染者が上昇したため、その月末には閉館しました。3か月後の11月半ばから再び再開しましたが、クリスマス前にまたもや閉館してしまいました。2022年は、より安定した再開が強く望まれています。(2022年3月より限定的開館となりました。)

 

さて、今回は、米国国立公文書館にある漫画資料をいくつかご紹介したいと思います。下記は、チャールズ・アーネスト・グラスリー(Charles Ernest Grassley)というアイオワ州の上院議員を題材にした風刺漫画です。彼は1981年から現在まで上院議員を務めています。 2016年、オバマ大統領は、メリック・ブライアン・ガーランド(Merrick Brian Garland)を 連邦最高裁判所判事に指名しましたが、上院で共和党議員達が承認投票を行うことを拒んだだめに、ガーランドは就任できなかったという経過がありました。その時の風刺を描いた漫画が、下の漫画です。自分の仕事をしないことが、一番の仕事であるとして、かなり笑える漫画だと思います。また、それに関連して、オバマ大統領がりっぱで穏健で中道派であるガーランドを連邦最高裁判所判事を指名したことに対して、共和党側が、それは認められないとしている漫画です。

 

当時はいろいろありましたが、2021年3月、ガーランドは、バイデン大統領の指名を受けて、米国司法長官に就任しました。

 

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アメリカンインディアン

アメリカンインディアンは、1492年にクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)がアメリカ大陸周辺の島であるサン・サルバドル島に到達するよりも以前にアメリカ大陸に住んでいた先住民を示し、アメリカ合衆国の先住民の大半を占めます。ワシントンDCにもアメリカンインディアンの博物館 (National Museum of the American Indian) があり、沢山の写真や資料を見る事ができます。(参照:https://americanindian.si.edu/

 

*「アメリカンインディアン」ということばについては、ここでは、この博物館のサイトで提示されている用語の定義に従いました。(参照:What is the correct terminology: American Indian, Indian, Native American, or Native?

: https://americanindian.si.edu/nk360/didyouknow#topq2

 

アメリカンインディアン歴史はとても長く、米国国立公文書館をはじめ、他の歴史資料館でも沢山の資料を保管しており、現在でも多くの研究者によって研究は続けられています。

このブログでは1900年以降の写真を時系列でいくつか紹介します。(参照:https://www.history.com/topics/native-american-history/native-american-timeline

 

 

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戦争中の日系収容所の子ども達

今年2022年は、戦後から77年目を迎えます。今は新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)の問題で日常生活の維持もままならないほどですが、こうした未曽有の現在の状況も、形はもちろん異なっても、非日常的な毎日に必死に対応しなければならないというところでは、戦争の時代と重なるところがあるのではないかと感じています。

 

1941年の12月に太平洋戦争が勃発し、翌年の1942年の春以降、当時米国に住んでいた多くの日本人や日系米国人のうちの約12万人が戦争が終結するまで、アイダホ州、アリゾナ州、アーカンソー州、カリフォルニア州、コロラド州、テキサス州、ユタ州、そしてワイオミング州の合計8州 (ハワイを除く)において、全11カ所にわたって設置された日系人収容所に強制的に収容されることになりました。(参照:日系アメリカ人強制収容所の概要:全米日系人博物館:http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/accmass_jp.html)

 

今回はそうした収容所で生活を余儀なくされた人々のうち、特に子ども達の様子に関する写真をご紹介したいと思います。

 

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ペリー来航と下田の黒船祭

米国の東インド艦隊司令長官兼米使提督のマシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry)は軍艦4隻を率いて、1853年(嘉永6年)の6月に浦賀沖(神奈川県)に来航しました。その翌年、ペリーは再び来航し、幕府との間で日米和親条約を結ぶことになります。こうして日本は200年以上続いた鎖国政策が解かれました。その後、ペルー艦隊は1854年3月に静岡県の下田に来航することになります。(参照: https://www.city.shimoda.shizuoka.jp/category/100400shimodanorekishi/110778.html

 

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テディベアと漫画家のクリフォード・ベリーマン

おもちゃとしてのぬいぐるみは自分の子どものころの記憶の中にあります。米国で、娘が生まれたときにも自宅にもたくさんのぬいぐるみを家族や友人からもらい、また自分でもよく買っていたかと思います。米国にもいろいろなぬいぐるみがありますが、やはり人気があるのは熊のテディベアです。

 

下記の写真の上は、ニューヨーク州のオイスターベイ市のサガモア・ヒルに今もある、米国の第26代のセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt) 大統領の邸宅内のテディベアの写真です。下は、私の自宅にあるものの写真です。今回は、こうしたテディベアに関係する資料について、ご紹介したいと思います。

 

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デコレーションケーキ

新型コロナウィルス (COVID-19)のため、国家非常事態宣言が出た時に、食料品の買い物や少しの運動時間以外、外出もままならない毎日が続いていました。家にいる時間が長いため、お菓子やパンを自宅で作る人たちが多くなり、お店に行っても小麦粉、イースト、砂糖や他の材料が売り切れてしまいました。

そこでケーキに関する資料を探してみました。色々なデコレーションケーキの写真を米国公文書館のオンラインカタログから見つけました。

 

最初はウェディングケーキです。

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アメリカ同時多発テロ事件

2001年9月11日の朝、米国ニューヨーク、マンハッタンにあったワールドトレードセンターにハイジャックされた旅客機が衝突しました。当時、日本でテレビ番組を見ていた私は、次の瞬間、民放全てのチャンネルが次々と、まるで映画のワンシーンを映し出しているかのような光景の画面に変わっている事に気づいたのを今でも鮮明に覚えています。その映像はワールドトレードセンター・ツインタワーの北棟に旅客機が衝突した事によって、そこから黒煙が上がっている様子でした。この映像に世界中の人々の目が釘付けになっていた時、2機目の旅客機がワールドトレードセンター・ツインタワーの南棟に衝突し炎上しました。この時点でアメリカ国民の大半、少なくともアメリカ政府はテロ攻撃だと理解をしたといわれています。

 

標的となったのはワールドトレードセンター・ツインタワーの他にも米国国防総省本庁舎(ペンタゴン)ですが、これら以外にも、もう1機、ハイジャックに成功しワシントンD.C.へ向かっていた旅客機もありますが、成功したのはハイジャックまでで乗客・搭乗員がテロ攻撃を阻止した事で失敗へと終わっています。このUnited 93(またはFlight93)の物語もテロ攻撃後からとても広く知られています。

 

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戦後の女性パイオニアたち

米国国立公文書館に保存されている写真の中に、戦後の日本で女性が社会進出をし、活躍している姿を撮影したものがあります。それらを見ていると、戦争で混乱していた社会から新しい時代へと向かって行っている時代の流れと人々の力強さを感じます。今回は、そんな女性パイオニアたちが映っている写真をいくつかご紹介したいと思います。

 

戦前の法曹関係では、1933年の弁護士法の改正と1936年の施行により、女性にもすでに弁護士への道が開けていました。1938年には女性3名が高等文官司法科試験に合格し、そして、1940年には正式に女性弁護士が誕生していました。しかし、女性裁判官と女性検察官が誕生したのは戦後の1949年のことでした。下の写真は、女性初の裁判官となった石渡満子さんです。1949年5月17日に司法修習生の修習を終え、証書を受け取っている様子です。

 

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通信装置

世代を超えて人々は常に情報を共有し合いながら生活しています。

今では当たり前に使用し社会生活に不可欠となっているインターネットも1960年代からの急速な普及や研究、開発の進化により、より速く簡単に詳細な情報が世界中から入手出来るようになりました。(参考:インターネット歴史年表:JPNIC 日本ネットワークインフォメーションセンター:https://www.nic.ad.jp/timeline/

 

米国国立公文書館が所蔵している日本関係写真の中には、戦時中又は戦後に使用されていた通信機器やそれに関する写真が保存されています。これらの写真は、通信装置の専門家ではなくとも設置されていた場所や環境などからも興味深く見ることが出来ます。特に、電話交換機を手動で操作していた電話交換手や圧縮空気圧を利用して電報を送る気送管(エアーシューター)を使っての作業風景は今の21世紀には存在しない仕事でもあり、とても新鮮に見えます。今回はそのいくつかをご紹介します。

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星条旗を謳った国歌

 

国歌斉唱時に愛国心を示すアーカンソー州地元住民、アーカンソー州リトルロック空軍基地、314部隊空輸航空団、2004年ハートランドの英雄たちによる航空ショーにて

 

Patriotism on display by local residents of Arkansas during the singing of the National Anthem at the 314th Airlift Wing (AW) sponsored 2004 Heroes of the Heartland Air Show at Little Rock Air Force Base (AFB), AR

 

RG 330; Records of the Office of the Secretary of Defense, 1921-2008; Combined Military Service Digital Photographic FIles, 1982-2007; National Archives at College Park, MD; [online version available through the National Archives Catalog (National Archives Identifier 6664005) at www.archives.gov; April 28, 2020]

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アメリカ合衆国での日本食

日本の食べ物は、アメリカ国内でとても人気があります。お菓子ではハイチュウとポッキーは誰もが知っています。日本料理というと、やはり寿司が一番認識されていますが若い世代ではラーメンやうどんといった麺類も人気です。照り焼きチキン、天ぷらもこちらの日本食レストランの定番です。

 

米国での日本食をさかのぼると、日本との距離が近く日本からの移民も多かった西海岸、特にカリフォルニア州から始まりましたが、全米として見るとそこまで普及はされていなかったように思います。しかし1970年代後半から1980年代に健康食としてのスシブームが起こり、そこから進化していったようです。スシブームの頃はカリフォルニアロールに代表される、生ものの魚を使わなく創作的で、日本人からすると「これがお寿司?」というものでしたが、今は普通に生ものを使った握り寿司や巻きずしを食べることができます。

 

「和食」が2013年にユネスコ無形文化遺産に登録されたのもあるかと思いますが、日本料理は今や一つの地位を確立しています。

(参考出典:平成 30 年度 米国における日本食レストラン動向調査-ジェトロhttps://www.jetro.go.jp/ext_images/_Reports/02/2018/c928ae49736af7f3/us-report-201812r2.pdf )

 

米国国立公文書館のオンライン資料の中で以下のような写真を見つけました。

 

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レイチェル・カーソン(Rachel Carson)

朝目覚めるころには、いつもいろいろな鳥の美しいさえずりが聞こえます。コロナ禍の前までは朝も非常に忙しかったのでそうしたさえずりを楽しむ余裕もありませんでしたが、現在はテレワークのために、そうしたものにも自ずと意識して耳を傾けるようになりました。そこから、ふと、レイチェル・カーソン(Rachel Carson)が書いた有名な『沈黙の春』(Silent Spring)を思い出しました。

 

アメリカ合衆国の海洋生物学者であったレイチェル・カーソンが1962年に出版した『沈黙の春』は、人間が化学物質を乱用し続けていくと生態系が破壊され、やがては春がきても鳥たちは鳴くことなくミツバチも飛ばないような沈黙した春を迎えるようになるかもしれないといった話から始まる、化学物質による環境汚染への警告を提示した本でした。

 

今回は、このレイチェル・カーソンに関する米国国立公文書館の資料や関連サイトなどをご紹介したいと思います。

 

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ワシントンDC、ナショナル・モール: 整備の移り変わり

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マウントバーノン

マウントバーノンは、ジョージ・ワシントン夫妻が住んでいた邸宅とプランテーションがあった場所です。アメリカの首都、ワシントンD.C.から約15マイル(24㎞)ほど離れたポトマック川に臨んだバージニア州に位置しています。

 

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米国の歴代大統領と日本の交流

米国国立公文書館に所蔵されているテキストや写真等の資料のデジタル化は、現在もどんどん進められています。これら全ての資料をサイト上で閲覧する事は不可能ですが、一部を公文書館のサイトで閲覧する事ができます。(https://www.archives.gov/

今回は、歴代大統領が、日本との関係において仕事をしていたり、日本への訪問や日本の首相達と交流していたりといった写真資料の一部を紹介します。

 

最初は米国32代目大統領のフランクリン・D・ルーズベルト氏が1941年12月、日本に対しての宣戦布告を署名をしている写真です。

 

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日本 ~NARAのオンライン検索から~

米国国立公文書館(NARA)のウェブサイト検索では、キーワードや年代、記録群の番号から大まかに対象資料の検索をすることが出来ます。その中には、既にオンライン化されている資料や映像、写真などが含まれています。このオンライン検索を使って“Japan”とだけ入力して検索をしてみたところ、147,696(5/7/2020現在)もの結果表示がされました。今回は、その中からオンライン化されている日本に関してのカテゴリーや年代の異なる様々な写真資料をいくつか選んでみましたのでご紹介します。

 

カリフォルニア州パサデナ市では1890年(明治23年)から毎年元日にローズパレードと言って、思い思いに花々で装飾した山車が行進する華やかなパレードが開催されているそうです。こちらは1917年(大正6年)に出場した時の模様です。山車には花や植物が飾られ、着物を着た女性達が乗っているのが分かります。(参照:https://tournamentofroses.com/events/rose-parade-history/

 

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クリントン大統領家の猫

1993年、第42代目の米国大統領のビル・クリントン一家はペットの猫と一緒にホワイトハウスに引っ越して来ました。 その猫の名前はソックス(Socks the cat)といいます。ビル・クリントンがアーカンソー州の州知事だった時に飼い始めました。一流政治家の猫というと、血統付きの猫かと思いますが、このソックスは白黒の短毛のぶち猫で拾われた猫でした。

 

ソックスに関する資料はアーカンソー州のクリントン大統領図書館にありますが、NARAのオンラインでも見ることができますのでいくつか紹介していきます。

 

これはクリントン大統領の肩に乗るソックスです。

 

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アメリカ合衆国のイメージ

情報局(USIA: United States Information Agency)のポスターから

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アンセル・アダムス氏 と米内務省壁画プロジェクト

(米国国立公文書館の資料より)

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第一次世界大戦中のアメリカ合衆国の食料政策

1914年に勃発した第一次世界大戦により、ヨーロッパでは深刻な食料不足に陥りました。1917年にアメリカ合衆国は参戦し、政府の食品局(United States Food Administration)の責任者に任命されたハーバート・フーヴァー(Herbert Hoover)は、ヨーロッパの同盟国や派遣したアメリカ兵に食料を供給するため、アメリカ国民に愛国心による自発的な協力を促すキャンペーンを始めていきました。(参照:https://www.history.com/news/food-rationing-in-wartime-america)

 

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発疹チフスの流行と予防対策

戦後1946年頃の日本では、国内の衛生状態が悪化した事に加えて、海外からの引揚げに伴う結核やコレラ、マラリア、発疹チフスなどの感染症が流行していました。この中でも、発疹チフスの患者数は3万2300人強と急増していたそうです。(参照:発疹チフスとは:NIID国立感染症研究所:https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/517-typhus.html

 

今回は、全国各地で発疹チフスの蔓延を防ぐために予防に取り組んでいた当時の様子を米国国立公文書館の写真資料からご紹介します。

 

下の写真は東京のデパートで予防注射を受ける為に並んでいる人々の様子です。壁には「定期乗車券所持の方には発疹チフス豫防注射を行ひます。東京都衛生局防疫課」「ご希望の方にはDDTを撒布致します。 東京都衛生局防疫課」との張り紙が貼られています。

 

※DDT(Dichloro Diphenyl Trichloethane: 有機塩素系殺虫剤)は、日本では1971年に販売が禁止されました。

 

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米国の病院船の活躍

米国では2020年現在、米国海軍船(USNS: United States Naval Ship)の中の、マーシー(Mercy:T-AH19)とコンフォート (Comfort:T-AH20)という二隻の病院船が米海軍の指令のもとで運用されています。この巨大な二隻の船には地上にある病院よりは規模は小さいながらも同様の設備が整っており、その名の通り運航を続けながら患者を治療できる動く病院であります。設備だけではなく、常に様々な科のスペシャリストも米軍関係者と共に乗船しており、負傷者の治療は勿論ですが、必要に応じて手術を行う事も可能とされています。

 

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コメディアン

新型コロナウィルス(COVID-19)が全世界的に猛威を振るう中、日本を代表するコメディアンの志村けんさんが闘病の末に逝去されました。 昭和、平成と多くの自分のテレビ番組を持っていた第一人者を失ったのは大変残念で惜しまれます。

 

志村さんのような有名なアメリカのコメディアンの資料(写真)も米国国立公文書館のオンラインカタログで見ることができます。

軍と関係する組織で米国慰問協会(USO-United Service Organizations)というのがあり、この組織を通じて、多くのコメディアンを含む芸能人は海外の米軍基地に慰問に行きます。

普段、米国国立公文書館で資料に接していて、よく目にするのがボブ・ホープ(Bob Hope)です。少し昔の人なので若い世代の人はご存知ないかもしれませんが、アメリカでは大変有名なコメディアンでした。ボブ・ホープは米国慰問協会の活動にとても熱心で第二次世界大戦時の1941年からペルシャ湾戦争の1991年までの約半世紀、そしてその公演数は57回に及びました。

 

これはベトナム戦争中の1966年12月19日のクリスマス公演でベトナムを訪れた時の写真です。

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1918年のインフルエンザとの戦い

2019年末から始まった新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) は、現在では世界中に広がり、経済的にも社会的にも非常に深刻な打撃を与えつつあります。自分自身もいろいろな不安を抱えながら毎日を生きていますが、今の状況をなんとか冷静に客観的に考えなければと思っています。

 

米国国立疾病管理予防センター(Centers for Disease Control and Prevention: CDC)は米国の感染症対策の総合研究所であり、現在の新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)においても、米国内外問わず、絶えずいろいろな情報の収集や研究をし、対策を提示し、世界的にも主導的な役割を果たしている機関です。(参照:https://www.cdc.gov/

 

この米国国立疾病管理予防センター(Centers for Disease Control and Prevention: CDC)には、米国の歴史の中で深刻な影響を及ぼした感染症についての歴史的記録や医療関係や一般の人々の取り組みに関するサイトもあります。今回は、その中から、今から102年前の1918年に米国で爆発的な感染を起こしたインフルエンザ問題についてのサイト、そして関連して米国国立公文書館にある写真についてご紹介をしたいと思います。

 

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米国の女性参政権運動とそれを根底から支えた女性達

2020年もあっという間に3月を迎えてしまいました。コロナウイルス感染問題は今は、世界全体に深刻な影響を与えておりますが、時間がかかっても関係各国が協力してなんとか改善に向かうようにと切に願っております。

 

米国国立公文書館でのある資料調査の過程で、たまたま米国の女性参政権運動やそれを根底から支えた女性達に関する写真資料を見つけることになりました。今回はそれについていくつかご紹介をしたいと思います。

 

米国の女性参政権が正式に成立したのは、アメリカ合衆国憲法の修正第19条として、1919年6月4日の議会での可決、そして、正式に批准されたのは1920年8月18日のことでした。今年は、ちょうどその100年目に当たります。しかしながら、女性の参政権を獲得するまでには実に長い道のりがありました。米国の女性参政権の歴史に関するサイトはたくさんあると思いますが、特に米国議会の下院に歴史資料サイトの中の、女性の権利の歴史がとても参考になります。(参照:The Women’s Rights Movements, 1848-1920: https://history.house.gov/Exhibitions-and-Publications/WIC/Historical-Essays/No-Lady/Womens-Rights/

 

下記の写真は、1871年1月11日に当時の女性参政権獲得に向けて積極的に活動していたオハイオ州出身のヴィクトリア・ウッドハル (Victoria Woodhull)という女性が、初めて米国議会の下院の司法員会で女性の参政権の必要性を訴えた時の様子を描いた資料です。

 

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東京オリンピック – 1964 -

今年は、日本で史上第2回目となる、『東京2020オリンピック競技大会』が開催される年です。

 

日本では、この第32回目の夏季オリンピック大会に向けて着々と準備も進み、盛り上がりが膨らんで来ている事と思いますが、ここアメリカでも『今年のオリンピックは東京で開催されるね!』と言った会話の話題に上るほど、人々のオリンピックへの関心が強いことが感じ取れます。それだけに、この4年に一度の競技の祭典は、世界中の人々が注目するイベントであり続けているのだと思います。

 

1964年に日本初またアジア地域初の夏季オリンピックが東京で開催されました。今回は、ここ米国国立公文書館に保存されているUSAオリンピックチームを中心に記録した第18回東京夏季オリンピック大会の写真、動画、テキスト資料をご紹介したいと思います。

 

1964年の東京オリンピックでは当時の最新の放送技術が使われました。開会式では、史上初めて静止衛星を利用して、米国にテレビ生中継が行われたそうです。こんな背景を物語る国務省の資料がありました。下の資料は当時のアメリカ合衆国国務次官であったウィリアム・アヴェレル・ハリマン氏(William Averell Harriman)に宛てた『オリンピック競技大会のテレビ報道』に関しての覚書です。東京オリンピックに向けて、独占放映権を持つ米国NBCニュース関係者や議会議員とのやり取りが記されています。その中で通信放送衛星シンコム打ち上げに関連する事柄、その打ち上げに大きく携わったジョセフ・ビンセント・チャリク氏(Joseph Vincent Charyk )の名前も度々記されており、EBU(欧州放送連合)関連や日本側の対応などの記載がされています。

 

ほんの一部ではありますが、この資料の合間から読み取れる経過を経て、東京オリンピックが多くの人々に観戦された事はとても興味深く思いました。

 

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ハリエット・タブマン

昨年からハリエット・タブマン(Harriet Tubman)という黒人女性の実話をもとにした映画「ハリエット(Harriet)」が上映されています。先月この映画を見に行ってきましたが、主人公ハリエットの強い意志と行動力に感銘を受け、彼女の軌跡をたどることのできるハリエット・タブマン地下鉄道ビジターセンターや博物館などを訪れてみました。

 

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アメリカ西部・北緯40度線沿い地質調査・キング調査団

(Geological Exploration Of The Fortieth Parallel)

団長・クラランス・キング氏(のちのアメリカ地質調査所 初代所長)

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「1871年へイデン博士 地質学調査団」Hayden Geological Survey of 1871

- イエローストーン国立公園 制定への道のり -

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空中写真

メリーランド州のカッレジパークにある米国国立公文書館(以下NARA)の3階には、地図・設計図閲覧室(Cartographic and Architectural Research Room)があります。ここには、第二次世界大戦中に米軍が日本上空で撮影した空中写真や主要な地図も含まれています。

今回は、3階閲覧室内で撮影許可された箇所とほんの一部ですが資料のご紹介をします。

 

3階閲覧室は、大きな地図や資料を扱う為、テーブルは比較的広々としています。

 

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アポロ11号

アポロ11号が月に着陸し、そして人類が初めて月面を歩いてから50年が経ちました。この50周年を記念して各場所で様々なイベントや展示などが開催されました。ワシントンDCのスミソニアン博物館が立ち並ぶナショナルモールでは、ワシントンモニュメントをスクリーンとして映像を映し出し、設置されたスクリーンとともに17分間の映像が流れました。

 

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戦争中の米国のポスター

1939年9月に第2次世界大戦は勃発し、ドイツが各戦闘で勝利をし、日本の動きもさらに活発になっていくなかで、1941年1月に、米国のフランクリン ルーズベルト大統領は、年頭教書の中で、言論および表現の自由、信仰の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由という4つの自由を提唱し、これは連合国側の戦争の目標ともなりました。(FDR and Freedom Speech at Franklin Roosevelt Museum and Library: https://www.fdrlibrary.org/four-freedoms

 

この教書の11カ月後、真珠湾攻撃をきっかけとして太平洋戦争が始まることになりました。国を挙げての戦争遂行は、国民の軍隊への加入はもちろん、兵器増産をはじめとしてありとあらゆる産業での増産と節約や女性の社会参加などをさらに一層推進することになりました。こうした国民を総動員しての戦争遂行の努力は、当時の新聞やラジオはもちろん、ポスターやリーフレットの作成にも表れることになりました。

 

そうした時代のポスターやリーフレットが米国国立公文書館にはたくさんあります。米国国立公文書館の検索サイトで、「戦争ポスター (War Posters)」という言葉で検索するといくつかのシリーズが出てきます。それらのうち、「第2次世界大戦ポスター」(WWII Posters 1942-1945: https://catalog.archives.gov/id/513498 )というシリーズでは、全部で2829という総数がでてきます。これらはこのサイト上で見ることができ、そのサイト上で、著作権情報が特に記載されていない限り、自由にダウンロードができるようになっています。これらの中で、特に私は、情報管理に関わるスローガンに興味を持ちました。

 

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米国雇用促進局(Work Projects Administration: WPA)の連邦音楽計画と美術計画

1930年代から1940年代の米国では、失業者の雇用を促進する目的で発足された政府機関であった米国雇用促進局(Work Projects Administration:以下WPA)が失業者を様々な公共事業を通じて雇用しました。WPAが企画・実行するプロジェクトはWPAプロジェクトと名付けられ、ここ米国国立公文書館でもたくさんの資料が保管されています。1935年から1943年に解散するまで、WPAはたくさんの公共施設や森林公園などの建設や整備等を積極的に担っていました。米国国立公文書館があり、ニチマイ米国事務所が拠点とするメリーランド州にもカトクティン・マウンテン・パーク(Catoctin Mountain Park)も、WPAプロジェクトによって建設されたもので、有名な建設物の1つです。

 

今回はWPAの一番最初のプロジェクトである連邦計第一号(Federal One)の中の連邦音楽計画(Federal Music Project:FMP)と連邦美術計画(Federal Art Project: FAP)という二つに重きを置いて資料を紹介していきます。

 

連邦音楽計画は失業者の中でも音楽家のみを雇用し支援する目的を持った芸術家支援計画の中の一部で、多くの音楽家の窮地を救ったと言われています。このプロジェクトで救われたのは雇用された人々ばかりではなく、コンサートや音楽教育を行ったことによって当時、不景気により不安定であった市民の生活にも良い影響を残したプロジェクトであった事でよく知られたプロジェクトでした。このプロジェクトに関連する資料はほとんどが新聞の切り抜きですが、たくさんの切り抜きが丁寧に保存されているため当時WPAの音楽計画が世間を賑わせていたことは明白です。

 

次の写真の新聞の切り抜きはどれも無料コンサートを開催する告知です。WPAが開催したコンサートは殆どが無料または低料金であったために市民も鑑賞しやすかった事でしょう。

 

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U-234

U-234とは第二次世界大戦時のドイツ海軍の潜水艦です。そのU-234に日本海軍の2人が乗っていたのはご存知でしょうか。

 

この日本海軍の2人のうち1人は当時の日本の潜水艦技術の専門家であり、ドイツに赴任して日本の潜水艦技術をドイツに伝えるとともに、ドイツの潜水艦技術も学んでいた、友永英夫技術中佐で、もう1人は、日本にジェットエンジンやロケットエンジンを導入するためにイタリアや、ドイツでその技術を学んでいた庄司元三技術中佐です。この2人は日本海軍からの特命により帰国を命じられ帰国の手段としてこのU-234に便乗したほかに、ドイツから日本にウランを持ち運ぶという役割もありました。

 

U-234は1945年3月24日にドイツのキール軍港を出て日本へ向けて出航しました。途中、ノルウェー沿岸を北上中に接触事故を起こし修理のためノルウェーに停泊し、4月16日にノルウェーを再出発しました。大西洋上を浮上して航海していた5月1日に、艦長のヨハン・ハインリヒ・フェーラー(Johann-Heinrich Fehler )海軍大尉はヒットラー総統がすでに死去という無線を受信しました。5月7日には、ドイツ国防軍が連合国側に無条件降伏しましたが艦内の混乱を避けるため、この降服については艦長と一部の士官にしか伝えてなかったようです。翌5月8日、デーニッツ海軍総司令官から「武装を解除し連合軍の指示に従うように」と艦内に正式な入電があり乗組員にも伝えられ艦内でも今後の進路について議論が交わされました。

 

友永と庄司はこのまま日本へ向かってほしいと請願し、一時は中立国であるアルゼンチンに友永と庄司を送り届けることも検討されましたが、最終的には命令通り連合国に降服することになりました。それを知った友永と庄司は携行していた機密書類や設計書などは破棄しましたが、ウランの処分は出来ずそのまま残し彼らは大量のルミナール(睡眠薬)を服用し自決しました。

 

米国国立公文書館にはこのドイツ海軍の潜水艦に関する資料がたくさんあります。今回は、それらの資料のほんの一部を紹介したいと思います。

 

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川島芳子-生存していたのか?

先月に川島芳子について書きましたが、米国国立公文書館には川島芳子についての調書の書類が個人にしてはかなりあるのに驚きました。

 

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川島芳子

清王朝が消滅し、中国が内乱で荒れていた時に、中国に置かれていた関東軍が勢力を拡大し満州国を設立しました。その時に川島芳子という女性がスパイとして活躍し「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ話題になりました。 1932年に発表された村松梢風の「男装の麗人」という小説のモデルとしても有名になりました。

 

米国公文書館で川島芳子の資料がありました。

 

Yoshiko Kawashimaというフォルダーがあります。

 

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米国飛行史黎明期の3人

平成が終わり、新元号をお迎えする年となりました。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

今年への羽ばたく思いを大きく込めまして、今回は米国飛行史黎明期に活躍した3組の挑戦者たちを、米国国立公文書館の史料を基にご紹介致します。

 

まず1組目、有人動力初飛行に成功したライト兄弟の写真(4点)をご覧ください。

 

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テニス選手~リチャード・ノリス・ウィリアムズ~

先月、テニスの4大国際大会の一つである全米オープンで大坂なおみ選手が優勝し、日本人初のシングルスでの優勝という快挙を成し遂げました。その報道を見ていて、ふっとNARAにテニス関係の資料がないのかなと思い立ち、調べてみることにしました。

 

今回は見つけた資料の中で、タイタニック号沈没事故の生存者であり、全米選手権やウィンブルドン、オリンピックでも活躍をしたリチャード・ノリス・ウィリアムズというテニス選手に関する資料をご紹介したいと思います。

 

リチャード・ノリス・ウィリアムズはアメリカ人の両親のもと、1891年にスイスのジュネーブで生まれました。彼が21歳の時に父親と一緒にタイタニックに乗船し沈没事故にあい、父親は残念ながら亡くなってしまいますが、彼はカルパチア号に救助されました。

 

下の資料は、カルパチア号に救助されたタイタニック号生存者のリストの一部です。一番上にウィリアムズの名前があります。

 

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花嫁学校

1945年に日本が降伏し第二次世界大戦が終わると、日本は連合軍占領下となりました。そういう中で日本に駐留していた米軍兵士と仲良くなり結婚する日本人女性も少なからずいました。そういう女性たちのために「花嫁学校」(Brides School)というのがあったようです。

 

米国赤十字社が1951年から「花嫁学校」を始めました。この資料によると1957年まで続いたようです。

 

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ハワイの日系移民

今年は、ハワイ日系移民150周年、ブラジル日系移民110周年を迎える年であることを報道で知りました。日本人は世界各国に移民していますが、その中でもハワイが最初の集団移民の土地であり、一番歴史が長いことになります。

 

はじまりは、150年前の1868年に約150名の日系移民が日本からハワイに渡りました。当時、商人であり、また在日ハワイ領事でもあったユージン・ヴァン・リード(Eugene Van Reed)が江戸幕府との間の友好交渉で約300人分の渡航許可を受けていました。しかしながら、日本は幕末維新期の激動期にあり対応できず、また明治新政府は旧幕府と交わした交渉を認めませんでした。その為、既に渡航準備を整えていたヴァン・リードは明治政府に無許可で最初の日系移民をハワイに送り出したそうです。この年は、明治元年にあたり最初の移民者を『元年者』と呼ぶそうです。(参照:ハワイ日本人移民到着150周年記念を祝して:https://kizunahawaii.org/

 この節目の年に、ここ米国国立公文書館に当時の関連資料はあるのだろうかと興味がわきました。ハワイ日系移民の関連資料の多くはサンフランシスコの分館に所蔵されているようなのですが、今回は米国国立公文書館のサイト上やここに保存されている一部の資料をご紹介したいと思います。

 

こちらは、日系移民が最初にハワイに渡った年と同じ1868年に記録され米国国務省が保管したハワイ政府の覚書です。この中の一面に、議会でのハワイ国王(ロト・カメハメハ - カメハメハ5世)の声明文がありました。そこでは、日系移民や貿易について次のように触れており、『Our negotiations with Japan have, so far been successful. Important and favorable results may be expected from the opening of trade with, and immigration from, that kingdom. 』(日本との交渉はこれまで成功しており、ハワイ王国との貿易開始や日本からの移民が重要かつ有効な効果が期待されるであろう。)としています。

 

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義和団の乱の写真

米国国立公文書館の写真資料室の壁際にはキャビネットが並んであり、資料請求のための手助けとなる各レコードグループのフォルダーが入っています。たまたま開けた引き出しの中に、Boxer Rebellionとタイトルのついたフォルダーがあり、写真が入っていました。これらの写真がとても興味深く、今回はそこにあったいくつかの写真をご紹介をしたいと思います。

 

Boxer Rebellionとは中国の義和団の乱のことです。1900年6月、義和団が北京にある公使館区域を包囲攻撃しました。その義和団を清の西太后が支持し、欧米列強に宣戦布告をしました。これに対し、日本、アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア=ハンガリーの8カ国の連合軍で、出動し、約2か月後に北京を制圧し、他の地域も含めてこの乱を鎮圧しました。

 

ここにある写真に目を通してみると、1900年から1901年までの中国の風景や建物、アメリカ軍だけでなく、日本やインド兵を含むイギリスなど各国の軍服や装備なども撮影されています。

 

近年、中国は経済的発展が目覚ましく、新しい建物が立ち並び、昔と様子がかわってきていますが、中国と言えば広大な土地と歴史的建造物を連想します。

 

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GHQ資料で見つけた引揚者たち

米国国立公文書館ではRG(レコードグループ)331にSCAP(Supreme Commander For the Allied Powers)の資料があります。SCAPは通称GHQもしくは進駐軍と呼ばれています。

その資料の中に引揚者に関するものを見つけました。この資料は共同写真通信からの写真のコレクションです。

弊社ブログ2015年5月12日付の「戦後の引揚~シベリア抑留者の帰還」がありますが、それも合わせてお読み下さい。

 

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Amelia Earhart (アメリア イアハート)

日本でも一度はこの名前を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか?米国のカンザス州出身の女性飛行士で1932年に女性としては初めて、大西洋単独横断飛行を達成したことで広く知られています。米国では女性飛行士という肩書きや彼女が成し遂げた異例の飛行経験以外にも彼女の人柄を好む人が多くいたようで、彼女は米国でヒーローのように扱われたということです。しかし、着実に飛行士としてのキャリアを積み上げていた真っ最中、1937年、39歳の時に飛行機遭難事故により失踪し、2年後には死亡声明が発表されました。このアメリア メアリー イアハートの最後のフライトとなった飛行機遭難事故が彼女を最も有名にした事柄といっても過言ではありません。今回は米国国立公文書館にある、アメリアに関連した資料の紹介をしたいと思います。

 

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戦後の日本の風景―米軍のカラー写真から

4月半ばに入り、ようやくワシントンDC周辺も暖かくなり、桜も先週末から満開となりました。米国で桜を見るのもよいものですが、やはり日本の桜が懐かしく、恋しいと思いました。そんな気持ちもあって、今回は、米国公文書館にあります、戦後占領期の日本の風景や人々の様子をカラーで撮影した写真をご紹介したいと思います。これらのカラーの写真はすべてRG111 (Records of the Office of the Chief Signal Officer: 陸軍通信局長室資料)の中にあるもので、日本の様々な地域の風景、人々の暮らし、産業の様子などを含んでいます。

 

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タイタニック号(TITANIC)

日本でもよく知られているタイタニック号は、完成した当時は、世界最大の豪華客船として脚光を浴び、『絶対に沈まない船』とも言われていましたが、1912年4月15日に沈没してしまいました。当時、最も死者数の多い悲劇的な海難事故として100年以上経った今現在でも長く語り継がれています。

 

来月、タイタニック号沈没事故から106年目を迎えます。米国公文書館にある、タイタニック号の沈没事故に関連する資料の一部をご紹介します。

 

当時の新聞に『どのようにタイタニック号が沈んだか』という見出しで生存者の体験談が載せられていました。船が沈没し、救助船でニューヨークにたどり着いた際の生存者の方の証言を載せた新聞記事です。 

 

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WAR DOGS

2018年(平成30年)が幕を開けて早くも1ヶ月が経ちました。今年の干支は戌ですね。そこで、犬に因んだ関係資料を調べてみました。

 

最近でも、その優れた嗅覚からがんの有無の判定ができる『がん探知犬』としての医療の最先端に貢献する犬の話題や、2012年には犬好きで知られるロシアのプーチン大統領に東日本大震災の復興支援への返礼として日本から秋田犬が贈られるなどの外交としても活躍してくれている話題など、犬に関してのニュースも見聞きします。

 

さて、ここアメリカ国立公文書館には、アメリカ海兵隊資料の中に『Dog Service Record Books』という資料があります。これは、戦争で使用されたWar Dog(軍犬又は軍用犬)について纏めた資料です。このシリーズは1942年から1945年までの記録で、全11箱あります。各々の犬のデータが通し番号付きの一冊の手帳になっており、892頭のWar Dogが登録されています。War Dogと言うとドーベルマン種の様な犬を想像しますし、確かに殆どがその種類になるのですが、今回は、それ以外で目に留まった2頭の手帳をご紹介したいと思います。

 

こちらは「BUTCH」の手帳です。ジャーマンシェパードのオス犬で当時3歳でした。1944年3月31日から1947年3月17日の除隊までの記録がされています。その内容は、飼い主との誓約書やトレーニング内容、配属場所などが記載されています。

 

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アイヌ民族

今から約4年前の2014年、ペンシルバニア州フィラデルフィアで開催されたアジア学会でAinu Pathways to memoryというドキュメンタリー映画のExpoに参加したことがありました。

 

ドキュメンタリー映画監督は Marcos P. Centeno氏で日本人ではない事にも驚きましたが、映画はアイヌ民族の歴史や文化、アイヌ語を保存する活動について丁寧に掘り下げて作られており、とても見ごたえのある約80分の作品でした。アイヌ民族が北海道、樺太、千島列島の先住民族であり、日本政府(和人)やロシア政府によって土地を奪われ、民族としての権利を剥奪された事や差別に苦しんだ過去なども映画を通して知りました。また、このドキュメンタリー映画を見た後、アイヌ民族についてあらためて自分なりに調べてみました。

 

アメリカ国立公文書館にはアイヌ関係の資料や写真も保管されているので一部を紹介しようと思います。1949年の新聞記事の切り抜きの為、見えにくいとおもいます。

 

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米軍の商品開発

米軍で行なわれている技術的研究や開発というと、兵器や戦車、航空機などを思い浮かべますが、先日見た資料の中に私たちの周りのものも対象となっているのを見つけました。

そのうちのいくつかをご紹介したいと思います。

 

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主婦の友の付録と新聞広告

今回は、ここ最近私が見た米国国立公文書館の資料の中で面白いと感じた日本の資料をご紹介したいと思います。

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ケネディ大統領暗殺関連記録の一般公開

今月は、先日ニチマイ米国事務所のFacebookページ(https://www.facebook.com/pg/NichimyUS/)で反響の大きかった投稿記事、7月に米国国立公文書館により公開されたジョン・F・ケネディの暗殺関連記録についてご紹介します。

 

アメリカ歴代大統領の中で最も知られている大統領の一人、ジョン・F・ケネディ。1963年11月22日にテキサス州で行われたパレードに参加中、大勢の市民の目の前で暗殺されました。事件直後、犯人はすぐに逮捕されましたが、その犯人も逮捕から2日後拘置所に移送中に殺害されてしまいました。他にも事件に関わる人物が立て続けに死亡するなど奇妙な点が多いことから「陰謀説」を信じる人も多く、半世紀以上経った今でも、アメリカで起こった事件史上最大の謎の一つとして多くの人々に注目されています。

 

事件後に組織された調査員会の調査報告書は500万ページもの記録にのぼり、米国国立公文書館に所蔵されています。1992年に制定された特例法「President John F. Kennedy Assassination Records Collection Act of 1992」により、1990年代後半までにその88%の記録は一般公開済みとなり、今年の10月26日までにすべての記録が一般公開されることになっています。

 

今年7月に公開された約3,810点は、これまで非公開だった441点と一部公開だった3,369点のFBI、CIAの記録を含み、同館公式サイトより閲覧、ダウンロードすることが可能です。

https://www.archives.gov/research/jfk/2017-release

 

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9月17日:アメリカ合衆国の憲法記念日

米国では、地域によって多少異なりますが、DC周辺では、 9 月の第1 月曜日のLabor Day (労働者の日) の祝日の翌日から新学期が始まりました。10月はHalloween(ハロウィン)で子ども達が盛り上がり、11月はThanksgiving (感謝祭)の祝日があり、12月はChristmas (クリスマス)の祝日がありと、街全体が華やいだ雰囲気に包まれていくので、米国の秋から冬にかけては一番楽しみな季節となります。

 

さて今回は9月にちなんで、米国公文書館のサイトから、アメリカ合衆国憲法についてご紹介したいと思います。アメリカ合衆国の憲法は、1787年9月17日に作成され、翌年1788年に発効されました。現在おいても、アメリカの法律の基本となっています。日本では、太平洋戦争終結から約2年後の、1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法が施行されたことを記念して、5月3日は憲法記念日となり、祝日の一つとなっています。しかしながら、米国では、憲法記念日は祝日ではありませんし、多くの米国人もそうした憲法が作成された日については知らないようです。米国人に聞くと、一番大事な記念日は、やはり7月4日の独立記念日だそうです。

 

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Martin Luther King Jr

アメリカでは毎年1月の第3週目の月曜日をマーティン・ルーサーキング・ジュニアの日として祝日としています。日本では彼のフルネームよりも『キング牧師』という名称の方がより広く知られているかもしれません。時期外れではありますが、National Archivesのオンラインサービスで彼の写真やテキスト資料を見つけたのでそれらと共に彼にまつわる資料紹介をしたいと思います。

 

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戦後の静岡

資料調査をしていた時、一冊のアルバム資料が目に留まりました。それは、私の故郷に近い静岡県の写真資料でした。子供の頃から身近な存在として見て育った壮大な富士山、馴染みのある地名や風景がとても懐かしく感じました。今回は、そんな地元の写真資料の幾つかをご紹介しながら当時を振り返ってみたいと思います。

 

このアルバムは、戦後間もない1945年から1946年にGHQ下のC.I.C. (Counter Intelligence Corps) Area No.21 Shizuokaで民間情報部静岡支隊に所属していた一人のアメリカ軍人と日系アメリカ軍人によって撮影されています。地図や静岡県に住む人々の生活の様子や富士山を含む地元の風景写真があり、当時の様子を垣間見ることが出来ます。

 

下の地図はアルバムと一緒に保存されていた静岡市街の地図です。駿府城周辺に構えたC.I.C.の事務所や静岡県庁など主要箇所が記入されています。

 

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フォークダンスと娯楽

自分が小さかった頃と比べると、今は本当に娯楽の種類が多くなりました。子供たちは電子機器に釘付けですし、本場アメリカに負けないような大規模な遊園地ができたり色々な種類のスポーツも楽しめるようになりました。

 

偶然、戦後間もなくの娯楽についての資料を米国国立公文書館で見つけました。

長崎軍政府(Nagasaki Military Government Team)の書類で、ウィンフィールド・ニブロ(Winfield P Niblo)という民間情報教育局(Civil Education Officer)の教官の表彰、という内容のものでした。

ニブロ氏が表彰された理由は娯楽としてスクエアダンス(フォークダンス)を日本で広めたことでした。Wikipediaによると「日本のフォークダンスの父」とも称されたようです。

この書類がニブロ氏を推薦しているものです。

 

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100年前の日本:米国国立公文書館のデジタル写真画像から

米国国立公文書館のサイトで資料の検索をすると、以前と比べてオンラインで閲覧できる資料が増えてきたと資料のデジタル化が進んでいるように感じます。つい先日知ったのですが、RG165WWの写真資料はデジタル化され、リサーチルーム内にあるコンピューターに入っていて、デジタルでの閲覧が可能になっていました。165WWというのはRecords of the War DepartmentのAmerican Unofficial Collection of World War I Photographs, 1917 -1918のシリーズです。第一次世界大戦期の頃の写真なので100年ほど前のものです。調べてみると日本関係の写真もあります。これらの写真はオンラインでも閲覧でき、今回は、その中の幾つかをご紹介したいと思います。

 

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U.F.O

~Unidentified Flying Object ~

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米国のシベリア派遣軍に関する写真資料

今年2017年はロシア革命から100周年目になります。1914年7月に勃発した当時のドイツ帝国やオーストリア―ハンガリー帝国などの同盟国側と、フランス、イギリス、ロシア帝国、米国(1917年4月から参戦)など連合国側との間で起こった第1次世界大戦は、1917年の2月そして10月の2度にわたる革命がロシアで起こったときもまだ続いていました。

 

この革命により、ロシア中央部ではそれまで続いていたロマノフ王朝の絶対君主制(ツァーリズム)は倒され、世界で初めての社会主義政権であるソビエト政権が樹立されました。しかしながら、旧ロシア帝国の地方の地域では、反革命勢力が巻き返しを図り、革命軍と反革命軍の内戦が展開されることになりました。この内戦が全面的に拡大することになったのは翌1918年5月にシベリアで起きたチェコスロバキア軍の反乱がきっかけでした。もともとこの軍隊は、第1次世界大戦中に、ロシア帝国が、敵国のオーストリア―ハンガリー帝国軍のチェコ人捕虜とスロバキア人捕虜から編成したものでした。ロシア革命後はヨーロッパ戦線に送られることを前提として、シベリア鉄道沿いに留められていた軍隊でした。反乱をきかっけとしてこの軍隊は、ロシアの中央部のソビエト政権側には脅威を与えるものとなり、同時にシベリア各地に反ソビエト勢力を増大させることにもなりました。

 

同年8月には、チェコスロバキア軍団をロシア革命勢力から救出するという名目のもと、連合国側である、アメリカ、日本、イギリス、フランス、カナダ、イタリア、中華民国といった国々から、軍隊が派遣されることになりました。実際にはこの軍隊派遣は、それぞれの国の利権(シベリア鉄道に関わる利権や外資など)を保守するという目的があったものと言われています。

 

米国公文書館の中には、米軍のシベリア派遣に関する資料がたくさんありますが、今回は、American Expeditionary Forces in Siberia 1918-1919(米国シベリア遠征軍)の写真資料をご紹介したいと思います。場所は、シベリア、オムスク、スーチャン(現パルチザンスク)、ウラジオストク、バイカル湖周辺などであり、その内容は、アメリカ、イギリス、フランス、日本、ロシア(反革命勢力―白色)、チェコスロバキアなどの将校や兵士、捕虜となったロシア革命勢力(赤色)の兵士、ロシア難民、コリアンの人々、ぞれぞれの町や建物、市場、軍事活動や宗教的儀式、兵士の娯楽などといった多岐にわたるものになっており、当時の様子を理解するうえで非常に貴重な資料であると思います。

以下の2枚の写真は、1918年11月15日にウラジオストクで、アメリカの主導による連合国側で行われた平和行進であり、日本の軍隊も見えます。

 


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琉球切手(沖縄切手)

皆さんは琉球切手という切手をご存知でしょうか?昔の沖縄の切手…と、私は単純に思いましたが、実は、沖縄切手と呼ばれることもあるこの切手は、1945年(昭和20年)から1972年(昭和47年)の本土復帰までの27年間、アメリカ軍統治下にあった沖縄でのみ使用されていた郵便切手なのです。

 

琉球切手の特徴として、日本語で『琉球郵便』と印刷されているのですが、額面はアメリカ通貨である$(ドル)や¢(セント)が使われています。他に、漢字やカタカナ、アルファベットで切手の説明書きがされている種類の切手もあります。また、題材には沖縄の伝統芸能や民族行事、工芸品、亜熱帯の動植物など沖縄の自然、歴史、文化などを表現した絵柄が幅広く取り上げられた色鮮やかな切手なのです。

 

今回は、ここ米国公文書館2階にある資料の中から琉球切手の展示風景、はがき、綺麗な絵柄が印象に残る切手のほんの一部をご紹介したいと思います。

 


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Waddy Youngの生涯

今回は、戦争で短い生涯を終えた1人のアメリカ青年について、カレッジパークにある米国公文書館に保存してある写真、資料を通して紹介したいと思います。

 

彼の名前はWalter R. ”Waddy” Young(ウォルター ワディ ヤング)通称ワディといいます。1916年9月4日にオクラホマで生まれたワディはオクラホマ大学時代にオールアメリカンフットボール選手に選ばれるほど、才能あるとても優秀な選手だったようです。その後1939年にNFLブルックリンドジャースの選手となったワディですが、プロフットボール選手になって2年目にArmy Air Forceに志願します。パイロットになったワディは爆撃機B-24のヨーロッパ任務に従事し、数年後大型爆撃機B-29プログラムに志願しサイパン島へ配属されます。

 

1944年6月以降、マリアナ諸島を制圧、占拠したアメリカ軍はグアム、テニアン、サイパンの各島に飛行場を建設し、同年11月からマリアナを拠点に日本本土空襲を始めます。この空襲任務にワディはWaddy’s  Wagon(B-29 A-5)機のキャプテンとして従事することになります。

 

5Fの写真資料室で見つけた、1944年11月にサイパンで撮影された”ワディ”ヤングの写真です。

 

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A級戦犯・大島浩(元駐独日本大使)の真相を求めて

米国大統領選挙が衝撃の結末を迎え世界中が共振している最中、早くも米国では新政権の大統領補佐官や各省庁の閣僚クラスの人事に対して関心がにわかに高まっている。米国では大統領が変わると政府機関人事の入れ替えが行われ、メディアの注目の的となる。

 

米国大統領の政権交代によって世界各地においては、各国におかれた米国大使館や領事館でも人事異動も行われる。現在の駐日米国大使は、JFKことケネディ大統領の実娘であるキャロライン・ブーヴィエ・ケネディ氏が務めていることはよく知られている。様々な面から注目を集める新大統領によって選ばれる新大使は一体誰になるのであろうか。近日中には公表されるものと思われるが、どのような方が選ばれるのか楽しみに待ちたい。

 

今月のブログは、第二次世界大戦中に日本の同盟国であったドイツに駐在し、ヒトラーとも親しかった日本国大使の大島浩(1886-1976)を取り上げ、彼が辿った数奇な運命の一部を、米国公文書館の史料を手立てにして紹介していく。

 

1. 駐独大使・大島浩

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沖縄に戻った文化財

1945年の3月の終わり頃から始まった沖縄戦で、沖縄には甚大な被害がもたらされました。その後もアメリカの占領下となり、人々は古くから受け継いできた土地を奪われ、軍の施設での低賃金労働や危険な仕事に従事させられてきました。

しかし、このような占領下にあって「沖縄の文化財の返還」に尽くしたアメリカ兵もいました。今回はその人を紹介したいと思います。

 

彼の名前はウィリアム・T・デービスといいます。1948年(昭和23年)より陸軍広報官として沖縄に赴任しました。赴任中のデービス氏は学校で英語を教えたり、沖縄のボーイスカウト創立に関わったりしました。彼の行為に周囲の人々は親しみを抱いていきました。

1951年11月に任期を終えて米国に帰る時、北谷村桃原(とうばる、原本にはTobaruと記載。)の人々から沖縄三味線を餞別としてもらいました。

 

米国に戻ったデービス氏はその三味線を以前から懇意にしていたTVスターでウクレレ収集家のゴッドフリー氏に見せました。また、ゴッドフリー氏は誰かそれを演奏できる人がいないかということをデービス氏に尋ねていました。デービス氏は3カ月間必死で探し、日系二世でシカゴ在住の吉里弘氏に出会いました。そして吉里氏から戦争で奪われた沖縄の文化財のことを聞きました。

 

これをきっかけにデービス氏は米国に持ち帰られた沖縄の文化財を探し、それを沖縄に返すことを決意しました。この時の彼の決意を示す文書が公文書館にありました。

下の文書です。

 

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米国国立公文書館にある小野寺信に関する資料

今年の夏で日本は戦後71年を迎えました。戦争特集の新聞記事やテレビ番組は以前と比べると少なくなったような印象がありますが、それでも意識してそうしたものを読んだり、見たりしなければと思っています。先日、NHKで戦争当時スウェーデンのストックホルムに駐在していた、日本陸軍武官の小野寺信及び百合子夫妻の物語についてのドラマが放映されていたかと思いますが、小野寺信と聞いて思い出したことがありました。そこで、今回は、カレッジパークの米国公文書館にある小野寺信に関する資料をご紹介したいと思います。

 

 下記の写真は、1943年のものであり、彼は1941年1月にはすでにストックホルムに着任していたかと思いますので、ドイツまたはヨーロッパのドイツ支配になっていた地域で撮影されたものかと思います。

 

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1972年日本語印刷物

今回は米国国立公文書館の2階のテキスト資料の中から1972年の米軍による日本語印刷物をご紹介したいと思います。

 

これは在日米軍従業員のための雑誌「交流」の1972年6月号です。

 


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昭和天皇のご訪米

今から41年前の1975年、昭和天皇と香淳皇后が公務としてはじめてアメリカを訪れました。終戦30年後の出来事です。当時のアメリカ大統領はフォード元大統領で、その時の資料はミシガン州にあるジェラルドRフォード大統領図書館に所蔵されていますが、資料の一部は米国国立公文書館でも閲覧することができます。

 

昭和天皇と皇后両陛下ご訪米は2週間もの長旅で、この間全米各地をご覧になられたようです。ワシントンDCを訪れた際でのパーティでは、約250~300もの日本人報道関係者が取材にきたそうで、その様子はライブ中継で日本でも放送されるほど、当時の日本にとっては大きなイベントだったようです。そして迎える側のアメリカでもかなりの準備が成されたことが資料からうかがい知ることができます。

 

資料の中にこんな文章がありました。「日本天皇の役割は純粋に儀礼的である。しかし戦前の天皇の存在は、半神半人として国家の主権を具体的に示すと考えられ、すべての政治的な権限は天皇の名において決定されていた。戦後それらの権限が剥奪された後もなお天皇の地位は守られたことに、昭和天皇と日本国民は感謝するとともに少し驚きもあったことだろう。」

 


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占領下の接収建物

日本の占領期、国内の主要な建物や個人邸宅は進駐軍によって接収され使用されていました。ここ米国国立公文書館 (National Archives and Records Administration) 5階に保管されている写真資料の中でもそれらの建物の写真を見ることが出来ます。その中でも、新古典主義的と言われるデザインや西洋建築デザインのビルディング、また洋館と呼ばれるモダンな邸宅など、当時の日本建築様式が垣間見られる建物が印象に残りました。今回はその一部をご紹介したいと思います。

 

第一生命館は、連合軍最高司令官総司令部(GHQ) 本部となっていた事で有名で、司令官のダグラス・マッカーサーと共に撮影された写真も見ることが出来ます。その設計を調べてみると1932年に設計図案を一般公募した後に建築家によって実施設計されており、外観はギリシャ風の円柱が立案されたものの、結局角柱が立ち並ぶものとなったとされています。もし、円柱の建物になっていたら皇居周辺の景観も随分変わっていた事でしょう。

 

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U.S Military’s Uniforms ~ユニフォームが出来上がるまで~

世界中のあらゆる分野で使用されている制服には色々な意味が込められています。例えば会社で使用する制服は、その会社やお店のコンセプトに合ったスタイルを選んだり、ロゴを刺繍したりします。学生服であればその学校の象徴であるカラーを取り入れる学校も多くあるかと思います。制服を着用するという事は、学校でも会社でもその組織に所属しているという事が一目瞭然で外部の人達に分かるという意味でとても大切であり、特に小さい頃から制服を着用する習慣のある日本人にはとてもなじみのあるものなのではないでしょうか。

 

制服といえば軍服もその一種で、アメリカ軍は大きく分けて4つのブランチ(Army, Navy, Air Force, Marine Corps)に別れており、各ブランチ事に着用されている軍服は異なります。彼らが着用する軍服とは正装服だけではなく、カモフラージュ柄の迷彩服やトレーニング時に着用するものなどいくつかのものを様々な状況に応じて使い分けています。軍服に関連するブログを書きたいと思い、アメリカ軍のユニフォーム事情についてナショナルアーカイブスでいくつかの資料を閲覧しました。今回Armyの軍服が出来上がるまでの過程が分かる資料が出てきましたので紹介したいと思います。

 

「Army Field Forces」は主に各地のキャンプ地の気候やその地の特性に合わせて制服を定めていく任務を担っている部署です。彼らが認定するのは単に制服だけに限っておらずヘルメット、ブーツや手袋などもEquipmentとして丹念に認定していきます。彼らが最終的に制服を認定するまでには、5段階のテストと会議が重ねられて慎重に制服の選定・認定を行っていきます。寒い気候の地や雪が多い地で着用するものには兵士が外で凍えて任務を正確に果たせないような事が起こらないように、またジャングル地帯や暑い気候の地域で任務を行う兵士たちには、彼らが暑さでバテテしまう事がないようになど、色々な想定を考えた上で1段階目のテスト「Early Test」を始めます。このテストを行うのは特定の部隊ではなく、テストの気候条件に合ったCamp地の部隊に「Army Field Forces

からランダムに申請され行われます。ここで着用した制服に問題がないという結果であっても二段階目の「Service Test」が行われた上で「Final Report」が作成されます。

 


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戦後の消防

米国国立公文書館Ⅱカレッジパークの2階に保管されている文書の中に米国戦略爆撃調査団(The United States Strategic Bombing Survey)関係文書があります。

 

この米国戦略爆撃調査団というのはウィキィぺディアによるとヨーロッパ戦線における戦略爆撃の効果や影響について調査、分析し軍事力設備に役立てる事を目的とした陸海軍合同機関とあります。1945年8月の日本の降伏後には太平洋戦域での調査が追加され1945年9月から12月にわたり長崎、広島、東京、大阪、神戸などで調査が実施されたようです。長崎と広島で原爆投下後に実施された現地調査を元に書かれた報告書はご存知の方も多いのではないかと思います。

 

今回は東京地区のField Report Covering Air Raid Protection and Allied Subjects, Tokyo Japan(東京地区の空襲保護と連合軍科目を対象とした現地報告書)の中の消防活動について幾つか紹介したいと思います。

 

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米国国立公文書館で見つけた3D立体写真

米国国立公文書館所蔵のテキスト資料の中には、色々な形態の参考資料が含まれていることがあります。写真や地図資料はよくあるのですが、「米国戦略爆撃調査団」資料の中に3D写真(立体写真)とそれを見る3D用のメガネが含まれていました。

とても珍しいことです。

 

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1920年代の米国は日本をどのようにみていたのか

今年は1776年のアメリカ合衆国(以下米国)建国から240年目にあたります。米国と日本との関わりを考えれば、1853年のペリー来航以前にも例えば1837年のモリソン号事件を含め、両国の接触はいろいろありましたが、正式には 日米の外交の始まりは、1854年に締結された日米和親条約までさかのぼります。その後は1858年の日米修好通商条約締結、その条約の批准のための1860年(万延元年)の遣米使節がありました。

 

その後、近代化を迎えた日本は米国とはどのような関係を保ち、またどのような形でそれが崩れて太平洋戦争に突入してしまったのでしょうか。また当時の米国は、日本をどのようにみていたのでしょうか。こうした質問に答えるための資料も米国公文書館には膨大にあります。

 

今回は、1920年代の国務省の資料及びその他の関連資料をご紹介したいと思います。1910年から1929年の国務省の資料の中に、非常に興味深い資料がありました。1921年9月21日付けの冊子で、Paul Page Whitham とCapt. W. I. Eisler という2人の人物によって書かれた、 ”American Commercial Interests and the Pacific Conference” というものでした。この資料にはこれらの人物の詳細はまったく書かれていませんでしたが、Paul Page Whithamという人物は、1918年に“US Department of Commerce Bureau of Foreign and Domestic Commerce Preliminary Report on Shanghai Port Development “(Preliminary Report on Shanghai Port Development / by Paul Page Whitham from Hathi Trust Digital Library: http://catalog.hathitrust.org/Record/002707044)というレポートを書いていたことがわかりました。その時の肩書は、顧問技師兼貿易官(Consulting Engineer Trade Commissioner)となっており、米国の商業省の役人で上海にいたことがわかりました。おそらくもう一人のCapt. W. I. Eislerは米海軍の幹部であり、彼もまた上海にいた人物であったかと思われます。

 


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江戸幕末資料

1853年、浦賀沖に日本への開国を求めるアメリカ大統領の国書とともにペリーが来航し、翌年日米和親条約が結ばれます。そして、ハリスが下田にアメリカ総領事として着任し、日米修好通商条約が結ばれることになります。江戸幕末期は外交的にも国内政治、そして日本経済も他国の影響を受け、激しく変化をした時代だったのではないかと思います。今回は米国公文書館のオンラインで見ることができる、そんな江戸幕末期の外交資料をご紹介したいと思います。

 

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日本の戦争画家-藤田嗣治

米国国立公文書館には数多くの写真資料が所蔵されています。写真資料からは、戦争当時の様子など現在の私たちでは想像しきれないような事実を感じることができます。これらの写真は、従軍した兵士が撮影したものが多く、彼らはいわゆる「戦場カメラマン」です。日本では今もなお、数少ない戦争体験者の方々の協力により、当時戦地で撮影した貴重な写真を集めた展示などが各地で催されていて、戦争を知らない世代へ平和の大切さを訴え続けています。


ふと「戦場画家」は当時どういう存在だったのだろう、と気になりました。日本の戦争画は日中戦争以後多くの画家により盛んに描かれたそうです。日本軍は陸軍美術協会と呼ばれる組織を設立し、美術を通して戦争を正当化しようとしました。また描かれた作品は戦時中も積極的に公開展示され、多くの国民に「戦争は正しい」と植え付けるプロパガンダ的な役割もあったようです。


米国国立公文書館にも「Collection of Japanese War Paintings」の資料があるとのことで早速閲覧してみることにしました。


大型ボックスに所蔵されているこの資料は一つの大きな冊子になっていて、作品を撮影した写真が一枚一枚丁寧につづられていました。作品は1937年~1945年に描かれたもので、この一冊には約40人もの日本人画家が描いた戦争画約150点が収められていました。


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日本のお祭り

日本人にとって祭りとは、なくてはならない伝統行事の一つと言えるのではないでしょうか。人や土地との繋がりが希薄になった現代において、祭りに参加しその土地や人と触れ合うことは、絆を深め、日本人が大切にしてきた文化を理解する事にもつながります。

 

お祭りと聞いてまず私が思い浮かべるのは、神輿を担ぎ町内を練り歩く姿ですが、各地域や季節よってまったく異なるものの様です。春は豊作を願うお祭り、夏は疫病退散を目的とした祭り、秋は無事に収穫できた事を神に感謝する祭りなどもあるそうです。それぞれに違うお祭りだからこそ、土地ならではの特徴があり、季節情緒があふれているのかもしれません。 

 

ここ米国国立公文書館の5階では、日本の伝統文化や伝統行事を撮影した写真が所蔵されています。その中にお祭りの写真もありますので何点か紹介させて頂きます。       

 

下の写真は、戦後まもない1946年9月15日に撮影された東京の向島にある牛嶋神社のお祭りの様子です。牛嶋神社の祭礼は町内を安泰祈願巡行する神輿が3箇所に分かれて集まり、牛嶋神社に向かって渡御します。境内には自分の体の悪い部分と同じ場所を撫でると、病気が治ると言われている「撫牛」があり、神社にしては珍しい狛牛もあるそうです。

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東京兵器補給廠 (Tokyo Ordnance Depot) について

私は埼玉県で育ちましたが、生まれはもともと東京都北区の十条というところでした。ある調査で、たまたま、戦後の十条にあった米軍の東京兵器補給廠に関わる資料が出てきたこともありましたので、ちょっとこの東京兵器補給廠について調べてみたくなりました。

 

東京都北部の北区の赤羽、十条、王子と板橋区の板橋といった地域には、もともと明治期から東京砲兵工廠と関連工場が置かれ、兵器や弾薬の製造から管理までを行なっていた歴史がありました。のちに東京造兵廠と呼ばれ、これらの地域には東京第一陸軍造兵廠と東京第二陸軍造兵廠というものがありました。戦後はこれらの地域を占領軍となった米軍が接収し、東京兵器補給廠 (Tokyo Ordnance Depot)として米軍が使用することになりました。

 

それらの地域の一部は、日本に返還され、1950年末に自衛隊の十条駐屯地となりましたが、のこりの土地は引き続き米軍によって使用され、ようやく日本に返還されたのは1971年のことでした。現在では、自衛隊十条駐屯地の他の土地は、様々な小学校や中学校、大学や公園などになっているかと思います。

 

東京都北区の観光サイトには、自衛隊十条駐屯地の情報(http://www.kanko.city.kita.tokyo.jp/data/a/15.html )があり、また東京都板橋区文化財情報には、東京第二陸軍造兵廠板橋工場の遺構と近代化遺産」(http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/068/068434.html )があり、とても参考になります。

 

さて、以下米国公文書館の資料をいくつかご紹介したいと思います。まず、戦後において、米軍が旧日本軍の東京第一陸軍造兵廠の尾久や十条の工場、東京第二陸軍造兵廠の王子や板橋工場を接収したことに関する情報があります。




RG 331 Entry UD1616 Box 4277 Records of Allied Operational and Occupation Headquarters, World War II, 1907 – 1966, National Archives at College Park, College Park, MD


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米国国立公文書館にある音声資料

米国国立公文書館には、テキスト資料、写真、映像、地図、マイクロフィルムといった形態の資料の他に音声資料もあります。カセット、CD、テープの3種類があります。

カセットやCDは馴染みがありますが、Audio Reelsというカセットテープ出現以前のテープはご存じない方も多いと思います。

これがAudio Reelsというテープです。

 

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Japanese American – Nisei Girl’s の太平洋戦争

アメリカに住んで13年、ここアメリカで生まれ育った日系人の方々はどの様に生き抜いてきたのかと思うことがあります。


日系アメリカ人二世と言えば、戦前、戦中、戦後と日米の架け橋となって戦後の日本再建に尽力された事は言うまでもありません。特に多くの犠牲を払って功績を遺したアメリカ陸軍442部隊を始めとした男性部隊の活躍は目覚ましいものでした。


皆さんは、時を同じくしてアメリカ陸軍婦人部隊(Women’s Army Corps以下WAC)に日系人の女性達がいたことをご存知でしょうか。今回は、太平洋戦争さなかアメリカ陸軍婦人部隊へ入隊した女性達、またアメリカ社会で貢献した女性達、強制収容所で生活しながらも多方面に渡って日系人を支えていた、日系人の女性達をテーマにごく一部ですがご紹介したいと思います。


こちらは、1942年のインテリジェンスの調査です。下記の様に枢軸国のドイツ人やイタリヤ人よりももっと高い水準で日本人が危険視されていることが分かります。この様な環境下でアメリカに住むことは大変だったことでしょう。


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部隊公式マスコットに起用されたディズニーキャラクター

ワシントンDCエリアには多くの博物館や記念館があり、歴史を学ぶには最高の場所だと思います。先日休日を利用してバージニア州のアーリントン国立墓地に行ってきました。アーリントン国立墓地は1864年南北戦争の戦没者のための墓地として築かれ、その後第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争等の戦没者が埋葬されています。

墓地敷地内にWomen In Military Service For American Memorialという記念館があり、ここでは軍で働いた女性兵士達の歴史を学ぶことができます。


Women Air Force Service Pilots(以下WASP)も第二次世界大戦中に軍で働いた女性パイロットの準軍事組織でした。

2万5千人以上の志願者のうち、パイロットの資格を持ち飛行経験のある女性約1千人のみが入隊を認められたそうです。

次の写真にはWASPの4人の女性パイロットが映っています。

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戦後の引揚~シベリア抑留者の帰還

今年は終戦70年の節目の年になります。


戦後まもなく外国に残された日本人は軍人が353万人、一般人が約300万人の合計約660万人いたと言われています。シベリア抑留とは、第二次世界大戦でソ連軍が侵攻、占領した満州で、終戦後に投降した、もしくはソ連軍に捕らえられた、民間人を含む57万5千人の日本人がシベリアやソ連各地に送られて、過酷な強制労働を強いられた長い抑留生活の事で、5万人以上が命を落としたと言われてきました。しかし、近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州・北鮮・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がおり、その内、約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられ、研究書によっては、死亡者は25万人以上と書かれているものもあり、実際の人数は定かではないようです。また、シベリア抑留者約47万人の帰国事業は1947年から1956年にかけて行われました。


カレッジパークの米国国立公文書館には、戦後の引揚関係文書や写真が多数所蔵されています。この中で今回は、シベリア抑留者の帰還と引揚援護局に関係する文書と写真を紹介したいと思います。


下の写真は1946年9月11日に東京のソビエト大使館前で行われた、約3000人が参加したデモの様子です。夫を帰せと書いてある旗を持っている人、家族の無事と帰還を願い泣いている母や夫人が写されています。



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太平洋戦争直後の食生活

食の安全性が色々と問われる時代になりました。

食事は生活には欠かせないものですし、直接体内に入るものなので神経質になるのもやむを得ません。

食べ物のことを考えていた時に、終戦後の日本人はどのような食生活をしていたのだろうか、ということに興味がわきはじめました。


戦後間もなくは食糧難が厳しく、食べ物をかき集める為にほとんどの国民が日々を過ごしていたということはよく聞くことです。小説や随筆などの文学にもそういう光景が描写されていました。配給だけではとても足りないので、買い出しの為の休暇が会社で認められていた、ということも読んだことがあります。特に都市部に住んでいた人たちは、満員の電車に揺られて農村の人に頭を下げて着物などと食糧を交換していましたが、それでも十分な量には満たなかったことも多かったようです。


どのようなものを食べていたかというと、サツマイモやかぼちゃの蔓、大麦やキビ等の穀物であったようです。アメリカからの放出物資もありましたが、それは本国では家畜のえさとなりうるトウモロコシの粉などであったようです。

ここ米国公文書館には戦後の日本の写真が色々あり、当時の様子が分かるものがあるかどうか調べてみました。


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米国国立公文書館にある日本国憲法関係資料

米国国立公文書館には日本国憲法関係の資料がたくさんあります。もちろん、その関係の資料をすべて見たわけではありませんが、非常に興味深いと思われる資料がいくつかありましたので今回はそれらをご紹介したいと思います。

 

明治期に作成されて以来、日本が敗戦を迎えるまで効力を持ってきた大日本帝国憲法(明治憲法)の改正は、戦後の占領期政策の中でも大事なものとされ、すでに1945年秋から占領軍から日本政府へのその改正に向けての指示がされていました。当時の政府ももちろん新たな憲法作成へ向けて動いていましたが、他の民間団体や政治団体も独自の憲法案の作成にむけて動いていました。中でも憲法研究会という民間団体による草案は連合国軍最高司令官であったダグラス マッカーサー(Douglas MacArthur)や関係者によって高く評価され、現在の日本国憲法の原案となったと言われています。

 

連合国軍最高司令官であったダグラス マッカーサー(Douglas MacArthur)の政治顧問であったジョージ アチソン ジュニア(George Atcheson Jr. )が、1945年11月7日に大原問題研究所の労働経済学者 森戸辰男との話を聞き、一週間後、アチソンはその件について、国務省に報告をしていました。森戸辰男との話の概要は、日本国憲法の作成においては、多くの人間の参加を必要とし、最も重要な点は国民の権利を守ることであること、天皇制の民主化、経済及び政治の民主化の促進などまで触れられていました。同年12月26日に この森戸辰男を含む憲法研究会が、新しい憲法の草案を占領軍に提出しました。1946年1月2日にアチソンから国務省に送った資料には、その憲法研究会の草案の英訳が添付されていました。

 

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ヘルシンキオリンピック

先日、米国国立公文書館の写真閲覧室でヘルシンキオリンピックの写真を見つけました。1952年にフィンランドのヘルシンキで開催された第15回オリンピック競技大会のことで、戦後日本が初めて参加した夏季オリンピックです。1936年に参加したベルリンオリンピックから実に16年ぶりの夏季オリンピックの参加となり、日本中が喜びで湧きあがったのではないでしょうか。



左の写真には開会式の様子が写されています。フィンランドのオリンピックメダリスト、パーヴォ・ヌルミ氏が聖火を点火したところです。


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クリスマス

クリスマスの季節になると世界の多くの場所が賑やかになり、クリスマス当日に向けて準備をする人達もたくさんいることと思います。クリスマスは宗教的に言えばとても大切な日なのですが、日本ではここ最近宗教的に考える人よりもイベントとしてその日を過ごす人達の方が多いように思います。クリスマスの日にはツリーを飾り、元旦になればしめ縄を飾る。宗教的に考えると一見矛盾しているようにも感じますが、やはり家族や友達と一緒に過ごす大切な機会と思えばつじつまが合うように思います。

アメリカでは宗教的にクリスマスをお祝いする人が日本よりも圧倒的に多いので、遠方に住んでいる親戚達も一緒にクリスマスを過ごし、お祝いするというのが主流です。しかし、第二次世界大戦中はもちろん、現在に至るまでアメリカ軍に在籍している人々には、他の勤務地への出向(現在でいえば、新しい国や州への引っ越し)、家族を連れていけない長期出張など、民間企業に勤めている人々には少し考えられないような事があります。そのため、クリスマスは家族で集まる大切な機会と感じ、その日を心待ちにしているアメリカ軍兵士やその家族はたくさんいることと思います。では、この大切な日をアメリカ軍の兵士達はどのように過ごし、どのぐらいの兵士がクリスマスに家族や友達と会うことができたのでしょうか?


戦時中はクリスマスだから国へ帰るというような事はできるはずもなく、戦闘中であったり、敵に見つからないように潜んでいたり、と勝手に戦地の状況を色々想像してはみたのですが、米国国立公文書館所蔵の一部の資料や写真から兵士達の戦時中のクリスマスの過ごし方というものが少し見えてきました。クリスマスの過ごし方は戦地によって異なりました。

例えば下の写真にあるように、最初の写真はインドのラムガー(Ramgarh)にて行われたクリスマスパーティーの記録です。とても楽しそうにお酒を飲んだりご馳走を食べていたりする写真が数枚ありました。また、二枚目の写真は同じ第二次世界大戦中のクリスマス当日、ビルマにて撮られた写真です。この後に続く同じ日に同じ場所で撮られたと思われる写真には、山道を列になって進んでいる様子が記録されていました。他にも、クリスマスの過ごし方は部隊の指揮官によって決まるといってもいいほど、各部隊の指揮官達が案をしぼりクリスマス・イブやクリスマス当日の計画を立てるという習慣があることを知りました。


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沖縄戦下の住民による「軍作業」

第二次世界大戦末期の沖縄戦では、「軍民共生共死」のスローガンのもと、沖縄の住民も命がけで日本軍をサポートすることを要求され、集団自決などの悲劇も数多く起きました。一方で、様々な状況で米軍の民間人捕虜となり、生き残った住民達も大勢いました。

 

米国国立公文書館には、当時の沖縄の民間人管理に関する米軍の記録資料が収められています。例えば、Record Group 494 ”History of Military Government Operation on Okinawa”という資料によると、1945年4月30日の時点で126,876人の沖縄住民がアメリカ軍政府の収容下にあり、その数は5月31日には147,829人、6月30日には258,588人と増えていることがわかります。住民達は最低限の衣食住と医療を与えられていましたが、さらに就労可能な人達については、アメリカ軍政府の活動を助ける「軍作業(ミリタリー・アクティビティ)」に従事することで、食糧などの加配を報酬として受けていたそうです。今回は、このような民間人収容所で暮らす住民達の軍作業の様子について、いくつか写真をご紹介したいと思います。

 

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68年前の観光都市別府、キャンプ・チッカマウガ

私の出身地大分県の誇る観光名所、別府温泉郷。活火山の鶴見岳と硫黄山の麓に広がる別府市街地には2千箇所以上もの温泉源が存在します。足湯など小さなものを含めると数百もの温泉があり、地元の人をはじめ多くの観光客を癒してくれます。

 

そんな自然豊かな別府の街に68年前アメリカ軍のキャンプ地が存在しました。187th Airborne Regimental Combat Team(通称:Rakkasans)によるCamp Chickamaug(キャンプ・チッカマウガ)での駐屯生活は、戦後1946年から1956年の10年間続けられました。その当時の写真や映像などの史料が米国国立公文書館カレッジパーク別館に多数保管されています。

 

写真にはキャンプ敷地内の教会や図書館などの施設、またそこで暮らすアメリカ兵の生活の様子が写っていて当時の様子をうかがい知る事ができます。また映画館やビリヤード場の設置されたクラブも存在したようで、写真を見る限りではまるでアメリカそのものです。

 

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沖縄~10・10空襲から70周年

沖縄の10・10空襲と呼ばれている、1944年10月10日に米海軍第38高速空母機動部隊が沖縄を含む南西諸島で行った1,396機に及ぶ大規模な攻撃から70年が経ちました。この空襲で那覇市の市街地90%が燃え尽き、重要な琉球王朝時代の文化遺産を多数失ったといわれています。1945年4月から6月の沖縄戦については聞いた事がありましたが1944年の10・10空襲の事は知りませんでした。

 

この空襲は第5次攻撃まで行われ、第1次攻撃から第3次攻撃は航空機や飛行場、船や船舶施設などの軍関係施設を攻撃、午後12時40分から1時40分にかけての第4次攻撃と午後2時45分から3時45分にかけての第5次攻撃では、学校や病院、お寺や市街地を含む民間の施設を無差別に低空から攻撃し、多数の一般市民を含む600人以上の方々が合計9時間にも及ぶ攻撃で亡くなりました。また、空襲後の火事で市街地のほとんどが焼失してしまったそうです。

 

米国国立公文書館Ⅱ号館には沖縄戦に関係する膨大なテキスト資料、写真や映像資料が保存されています。今回は10・10空襲に関係するテキスト資料をご紹介いたします。

 

このテキスト資料は空母レキシントンの1944年10月10日の戦闘報告書の一部です。

レキシントンから3機の敵の飛行機が見えたので打ち落とした。その後、読谷飛行場を攻撃とあります。このように艦船別に戦闘報告書と写真などがまとめてあったりもするので、その日の攻撃の詳細がわかります。

 

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第二次世界大戦における黒人兵士たち

米国国立公文書館でいつものように資料を読んでいると、米軍の部隊名のうしろに括弧書きで黒人(Negro)と書かれているものがありました。 その前後の資料にもそういう表記がされていました。 以下の資料は太平洋戦争時の陸軍のエンジニア関係のものです。

 

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沖縄の茅葺屋根

沖縄の建物で私が一番に思い浮かべるのは首里城のような赤瓦の屋根の建物です。赤瓦の屋根は漆喰で瓦と瓦の隙間を固めているため台風に強いと聞いたことがあり、台風の多い沖縄に適した屋根なのだなあと思った覚えがあります。昔の沖縄の建築様式は赤瓦の屋根だとずっと思っていたため、米国国立公文書館にある沖縄関係のテキスト資料の中から茅葺屋根の建物の写真が出てきたときには少々驚きました。今回はその茅葺屋根の写真をご紹介したいと思います。

 

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ある日本海軍兵が残した手紙の綴り

米国国立公文書館の、太平洋戦争中における海兵隊資料には、彼らが戦闘中に捕獲した日本軍資料があります。それら日本軍による印刷された作戦関係資料もあれば日本海軍の兵士個人の手書きの日記やメモや遺書、また家族や友人から受け取った手紙の綴りなどといった資料も入っています。こうした日本海軍兵の個人の資料においては、個人の名前や部隊名がそこに残されているものもあれば、何も情報がないままであるものもあり、また資料として完全な形で残っているものもあれば、その一部としか残っていないものもあります。が、少なくともこうした資料から、それぞれの兵士が自分の記録として最後まで大事にしていたものだろうと察することができ、そこに残された文面から、家族や故郷への思いを最後の最後まで胸に秘めていたのだということが伝わってきます。

 

これらの資料のうち、表と裏の台紙に家族や友人から本人へ送られた手紙を挟み、表の台紙に ”現役中受信綴り 懐かしき想出(便り)“という題名を記して、上部を紐できれいに留めた綴りの資料がありました。題名の隣には、現役 大日本帝国軍艦勝力機関科とあり、さらに応召 呉鎮第三特別陸戦隊矢野部隊対戦車砲隊田中小隊という所属部隊情報がありました。この手紙の綴りが入っているフォルダーは、Personal Letters Belonging to Soldiers on Guadalcanal というもので、この方はガダルカナルで戦死された日本兵の方でおられたことがわかります。

 

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杉原千畝

少し前の話になるのですが、3月にフィラデルフィアで開催されたアジア学会(Association for Asian Studies)に参加する機会がありました。アジア学会とはアジア全般に関して研究する学会の為、研究テーマは幅広くとても興味深い物でした。その中で今回はドキュメンタリーフィルムで印象に残った杉原千畝の話をしようと思います。

 

杉原千畝は1939年から1940年にかけてリトアニアのカウナスにある日本領事館に勤務し、約6,000人のユダヤ避難民に亡命するための通過ビザを発行した外交官です。日本でもドラマや特集で組まれた事があるので、ご存知の方も多いと思います。

 

ドキュメンタリーフィルムは、現在残り少なくなってきたポーランド系ユダヤ人の生き残りの証言者とユダヤ避難民達が降り立った敦賀市の住民の証言と合わせながら、杉原千畝の足跡をたどっていくというものでした。ナチスに迫害されたユダヤ避難民がシベリアを越え、ウラジオストックから船で敦賀市に着き、神戸からブラジルやオランダ、アメリカへと亡命していったそうです。そして、千畝氏はこの事を口外せず、彼の死後に妻が「命のビザ」という本を出版し世間に知られていったようです。

 

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アスベスト

数ヶ月前、“在日米軍基地で働いていた日本人従業員のアスベスト被害”という記事を読みました。

日本人従業員がアスベスト被爆の危険性がある環境にも関わらず、不十分な防護対策のまま作業をしていたとの証言があるということや、とても残念なことなのですが、肺がん、中皮腫、または石綿肺という病気で亡くなられている方もいるという内容でした。

 

私はこれまでアスベストについての知識はほとんどありませんでした。ビルの建設などの際に保温断熱の目的で石綿を吹き付けるといった作業、そのような石綿を扱う作業や石綿工場に勤めている人、石綿を使用している建築物などで生活をしている人達が、将来的に病気を発症するといった健康被害にあう可能性が高く、現在は使用を原則禁止されているということ(一部を除く)を知りました。

 

米国国立公文書館のデーターベースで“アスベスト”というキーワードで検索をかけてみました。ヒットはないものの、日本の各地域の地理や自然または文化などを調査した記録資料の中に“Asbestos Resources of Japan”という戦後1948年10月に作成された資料を見つけました。

 

 

“Folder No.10 #115 Asbestos/SCAP; Natural Resources Section; Administration Division; General Subject File1945-51 General Records of the Department of State, Record Group 331; National Archives at College Park, College Park, MD.”  (Entry UD1817, Box 8909)

 

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ワシントンDCのポトマック河畔には日本から寄贈された桜の木が植えられており、春になるときれいに咲きほこります。初めてワシントンDCの博物館があるナショナルモール方面からワシントンモニュメント、タイダルベイスン周辺の桜を見てまわったときは、桜の木の数の多さと美しさに感動しました。毎年全米桜祭りが開催され、観光客も訪れにぎわいます。一昨年の2012年には日本が桜を米国に寄贈,植樹してから100周年を迎え、桜祭りは盛大に行われました。

 

ふと米国国立公文書館にも何か桜の資料があるのではないかと思いたちOnline Catalogで検索し、出てきた資料を見てみることにしました。 RG 7の農務省関係資料の中に日本の桜に関しての資料があるようで興味があったのですが、この資料はミズーリ州のLee’s Summitに移されたとのことで残念ながらここでは見ることが出来ませんでした。

 

 そこで国務省の資料を見てみると1960年代の桜の木や桜祭りに関するものがありました。

 

1965年にもワシントン・モニュメント周辺への植樹のための3800本の桜の木が日本政府から寄贈されました。

 

 

左の写真は1965年の桜祭りで首都の美化に力を入れていた大統領夫人、レディ・バード・ジョンソンが植樹をしている様子です。この桜祭りで、日本大使より日本から桜の木の寄贈の話がありました。しかし、植物の病原菌や害虫を防ぐために植物の海外からアメリカ国内への持ち込みには厳格なコントロールがされており、桜の木もその対象であったようです。そして話し合いの結果、最終的にはアメリカで育った桜の木の寄贈となったようです。 

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リーフレットに見る米軍の心理作戦の一例

第2次世界大戦中の心理作戦の手段の一つとして、大量のリーフレットが作成され、各戦闘地に散布されました。米国を中心とした連合軍側もドイツ、イタリア、日本の枢軸国側も双方で作成したようですが、米国公文書館には主に連合国側の主力である米軍が作成したものが様々なレコードグループにまたがって存在しています。ドイツ兵、イタリア兵と比べると日本兵の場合は、最後まで戦い、また自決を厭わないために、連合軍側の捕虜となる確率はきわめて低いものでした。なので連合軍側も各地の戦闘では死傷者を出し続けてしまうという現実がありました。そうした状況に対して、各地の戦闘はもちろん続行する形で進むのですが、一方では、各地の日本兵の戦意を挫くことで、各地の戦闘を終結させようとする努力もしていたことも伺われます。

 

日本兵に対しては、リーフレットを通じて、米軍の捕虜になることを恥とするのではなく、連合軍側に投降し、捕虜となって生き延びることで、戦後の日本に貢献することができるということを語っているものが多々あります。

 

米国太平洋艦隊司令部及び太平洋地域司令部(US Pacific Fleet and Pacific Ocean Area )による心理作戦関係の資料の1944年8月の”Psychological Warfare Part 1 “ (RG165 Entry MN84-79Box 518)の中には、日本兵向けのリーフレットの作成にあたっての重要点が提示されています。まずは、武士道の精神の影に隠れたもっと根源的な人間の素直な気持ちとしての、望郷の思い、また、かつての普段の生活にあった風呂、よい食事や酒を懐かしむ気持ちに訴えることが重要であることが指摘されています。また、書道や達筆な文字での和歌や詩を使って印象的なものにすることや戦闘の中でもろくなっている日本兵の身体と感情に訴えるように絵や図案を使うことも重要であるとされています。さらには、疲労困憊し、餓え、負傷している兵士にとっては一刻も早く休息と十分な食料と手当てが必要であるからこそ、それらのニーズに訴えるような形にして、日本兵が持っているとされる伝統的な武士道精神に対抗することといったことも重要であるとしています。その他に、自己の破壊でなく戦後の日本や家族のために生き延びることを強調すること、降参や降伏、または捕虜や俘虜といった言葉を避けあくまで日本兵の面目を立てるために名誉という言葉を強調すること、また、日本の指導者の嘘に言及すること、さらには一般兵士と将校、陸軍と海軍、日本の人々と在日コリアンの人々、一般市民と軍隊といったぞれそれの間で意見の相違や摩擦を生じさせることにも言及しています。 最後には、米軍は法を遵守する権威があり、法を尊重するものであること、さらに米国の圧倒的な軍事力と産業力を強調することといったことも重要であるとし、米軍は日本をよく研究した上でこうした戦略を立てているのだということがわかります。

 

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